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ながいとおとうみのかみ〜なんじょうたかなお

長井遠江守ながい・とおとうみのかみ生没年不詳
生 涯
―元弘の変の際に上洛?―

 『太平記』に名が出ている人物。鎌倉幕府の実務官僚を多く出した長井氏の誰かと思われるが実名不明。
 『太平記』巻2で、元徳3=元弘元年(1331)に後醍醐天皇による討幕計画が再び発覚した際、二階堂時元と共に幕府の使者として上洛したことになっている。ただし他史料によればこのとき実際に上洛したのは長崎泰光・南条高直であったことが確認でき、「長井遠江守」が実際どう活動したのかは分からない。

長井宗衡ながい・むねひら生没年不詳
親族父:長井運雅
官職丹後守
建武の新政雑訴決断所
幕府六波羅探題評定衆? 室町幕府引付衆
生 涯
―二つの幕府と建武政権をまたいだ官僚武士―

 長井氏は大江広元の子孫で、幕府を支えた官僚一族の一つである。長井宗衡「尊卑分脈」では長井運雅の子とされ、「因幡守」と記されているが、他の史料ではほぼ「丹後守」である。
 長井氏は京の六波羅探題にあって評定衆をつとめており、宗衡もその一員であったかと思われる。元弘元年(1331)8月24日に後醍醐天皇が倒幕挙兵のために御所を脱出すると、その翌日に京に残っていた後醍醐腹心の公家たちが一斉に捕縛され、そのうち平成輔の身柄は「丹後前司」に預けられたとされ(「光明寺残篇」)、これが宗衡のことらしい。
 当初は後醍醐が比叡山へ立てこもったものとみた六波羅探題は8月27日に軍勢を東坂本(比叡山の東入口、大津側)と西坂本(京側)の両面に差し向けた。『太平記』によればこのとき東坂本方面に「長井丹後守宗衡」が佐々木時信らと共に出陣したことになっている。ただしより信用のおける史料である『光明寺残篇』では長井宗衡の出陣は確認できない。

 鎌倉幕府の滅亡後に成立した建武政権は土地問題解決のため「雑訴決断所」を設けたが、そのメンバーのリストに「長井丹波前司宗衡」の名がみえる(「丹波」は「丹後」の誤りとみられる)。六波羅滅亡時に宗衡が何をしていたか不明なのだが、ともかく命は助けられ、その政務能力を買われて政権入りしたものとみられる。
 その後、康永3年(興国5、1344)の足利幕府の引付番付編成表の第五番に「長井丹後入道」の名がみえる。こうした代々政務を担当してきて法制度に明るい政務官僚武士の存在なしでは行政が不可能であったことが彼の「渡り歩き」を見ていてもよくわかる。

参考文献
岡見正雄校注「太平記」補注(角川文庫)ほか
大河ドラマ「太平記」本編に登場はしないが、第10回で鎌倉幕府首脳が畿内の情勢を語り合う中で大津へ出撃した六波羅軍の武将としてなぜか「長井丹後守」の名が挙げられている。

長井六郎ながい・ろくろう生没年不詳
生 涯
―鎌倉陥落を報告―

 新田義貞家臣。鑁阿寺に伝わる『新田足利両家系図』の義貞の項に、鎌倉陥落の報を後醍醐天皇に伝えるため義貞が長井六郎大和田小四郎の二人を派遣したことが記されている。『太平記』など他の史料にはこの時の使者の名前までは伝わっておらず、事実かどうかは確認できない。
大河ドラマ「太平記」第23回に登場(演:大塩武)。吉川の原作同様、後醍醐に鎌倉陥落を報告に来る。
歴史小説では吉川英治『私本太平記』で後醍醐に鎌倉陥落を報告する使者として彼だけが登場している。

長崎(ながさき)氏
 北条氏家臣の御内人であり、家令職「内管領」をつとめた一族で、その出自は平資盛の子孫とされているが、実際には平姓関氏、あるいは北条氏の庶流であるとみられている。名字の地は伊豆国田方郡長崎が有力視されている。この一族が長崎氏と呼ばれるのは鎌倉末期のことで、それ以前の人物については「平」姓で呼ぶのが通例。本来は北条得宗家の執事の立場であったが得宗家への権力集中に従い幕府内で権勢をふるうようになった。鎌倉末期には円喜・高資の父子が得宗を上回る権力を握ったとされる。鎌倉幕府滅亡に際して一族の大半が北条氏と運命を共にした。

平盛綱┬貞綱




├時綱─盛弁┌飯沼資宗


├盛時頼綱┴宗綱高貞

└光盛─光綱高綱(円喜)高資
高重



思元───為基新右衛門



高頼




└高泰───
泰光


長崎円喜ながさき・えんき?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:長崎光綱
兄弟:長崎思元・長崎高頼
子:長崎高資・長崎高貞
官職左衛門尉
幕府内管領・寄合衆・侍所所司
生 涯
―鎌倉幕府末期の実力者―

 俗名は「高綱(たかつな)」とされていたが、近年になり初名は「盛宗(もりむね)」であることが判明しており、「高綱」を称したのは北条高時の元服後にその名を拝して改名したためとみられている。通称は「三郎左衛門尉」、法名が「円喜」『増鏡』では「円基」と表記されている。北条得宗家の被官(家臣)で、得宗家の執事にあたる「内管領」となった人物。長崎光綱の子とされるが、光綱の系譜がはっきりしない。北条時宗からその子・貞時の時代に権勢をふるった内管領・平頼綱の従兄弟か弟が光綱で、円喜(高綱)がその子ということになる(『保暦間記』は円喜を「頼綱の甥」と明記)。生まれた年は不明だが、鎌倉幕府が滅亡した元弘3年(1333)に60以上の高齢であったことは確実である。

 長崎一族は正応6年(1293)の「平禅門の乱」で平頼綱が貞時に討たれてから円喜の父・光綱が惣領となりしばらく逼塞したが、嘉元3年(1305)の「嘉元の乱」で北条貞時が完全に実権を握ってから円喜が内管領に任じられ、北条得宗家の独裁が進む中でその執事の立場から幕府政治に大きな影響力をもった。応長元年(1311)に貞時が死ぬが、貞時は死に際して嫡男・高時のことを円喜と安達時顕に託した。高時はこのときまだ幼く、また能力がなかったこともあって幕政はますます円喜の手に握られた。

 後醍醐天皇が即位した文保2年(1318)ごろに円喜は老齢のため出家し、内管領の地位は息子の高資が引き継いだ。幕府末期の政治の乱れは高資によるところが大きいとされ表向き円喜の姿はあまり現れない。だが「正中の変」(1324)の処置は円喜が決めたらしく、日野資朝の書状に不審の点がありとしつつもその背後に後醍醐天皇の存在を感じ、事態の拡大を恐れてそれ以上深くは追求しなかったという伝聞情報を花園上皇が日記に書きとめている。『増鏡』でもこの時期の幕府の実権は「円基(円喜)」が握っており、「世の中の大小事、ただ皆この円基が心のまま」と記している。元弘元年(1331)に後醍醐が討幕の挙兵をした時も円喜一人が処置を決定したとされる。
 古典『太平記』では、反逆の決意を固めた足利高氏(尊氏)が妻子を連れて畿内へ出陣しようとしたとき、「これは怪しい。妻子を人質をとるべきだ」と高時に意見したのは円喜ということになっている。

 元弘3年(1333)5月22日、新田義貞らの軍が鎌倉に迫り、円喜は北条一門と共に菩提寺・東勝寺に入った。この戦いの中で円喜が烏帽子子として重用していた勇将・島津四郎があっさり新田軍に降参した一方で、傷ついて幕府に戻ってきた孫の長崎高重の傷口を円喜が自ら吸って「よくやった。お前を不孝者として勘当したのは誤りであった」と日ごろ叱りつけていた態度を改めて誉めたたえ、高重がさらに新田軍相手に大奮戦して一矢を報い、ようやく東勝寺にやって来たのを円喜が「遅いぞ」と呼びかける描写が『太平記』にある。北条一門の集団自決にあたって円喜は高時がちゃんと切腹できるかどうか見届けてから腹を切ろうとしていたが、十五歳の孫・長崎新右衛門が老いた祖父を刺し、自分も刺して重なりあって果てたとも『太平記』は伝えている。これら長崎一族の最期のエピソードが多く『太平記』に描かれているのは円喜が自分たちの最期を伝えさせるために各地に使者を派遣したためではないかとの推測もある(永井晋「北条高時と金沢貞顕」)
大河ドラマ「太平記」なんといっても長崎円喜の名を世間に知らしめたのはNHK大河ドラマ「太平記」であろう。名優・フランキー堺が何かにつけて足利をいじめる悪役を存在感たっぷりに演じた。北条氏の衰退を予感して信念を持って「悪事」をしている憎めない悪役で、息子・高資が賄賂を取って政治を乱していることを知って激怒して殴りつける場面もあった。北条幕府において高時以上の「ラスボス」的存在となっており、第22回「鎌倉炎上」では北条一門が全員自害したのを見届けてから涙ながらに腹を切り、自らの頸動脈を切る壮絶な死に方をした。脚本を担当した池端俊策氏もお気に入りのキャラだったようで、死なせるのを惜しがっていた。
その他の映像・舞台1983年のアニメ「まんが日本史」では「長崎高綱」として俗体で登場、池田勝が声を演じた。闘犬にうつつをぬかす高時の態度を諌めるが聞き入れられないので息子・高資と共に政権を握るように描かれる。
歴史小説では小説類では名前が出てくる場合もあるが、息子・高資のほうが有名ということもあり影が薄い。
漫画では湯口聖子「風の墓標」で、北条一門集団自決シーンの中で孫の新右衛門に刺されるカットがある。
PCエンジンCD版ゲーム中に登場はしないが、オープニングのビジュアルデモで酒をあおる北条高時が「円喜〜」と呼びかける場面があるので近くにいるらしい。
PCエンジンHu版シナリオ1でプレイヤーが必ず倒さなければならないボスの一人として登場。なぜか信濃の深志城にいて、戦力は「弓4」

長崎思元ながさき・しげん?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:長崎光綱? 
兄弟:長崎円喜・長崎高頼
妻:深澤殿 子:長崎為基
生 涯
―息子を叱りつけて奮戦―

 長崎光綱の子と推定され、俗名は「高光」あるいは「頼基」とされる。呼び名は「三郎左衛門尉」で、出家して「思元」と号した。兄に鎌倉幕府末期に権勢をふるった内管領・長崎円喜がいる。
 元亨元年(1321)に相馬一族の奥州南部の所領の一部(現在の福島県南相馬市)を没収され、その一部が長崎思元のものとなった。この時その境界をめぐって相馬重胤が幕府に抗議し、思元側も重胤が自分の土地に乱入してきたと反論する紛争が起こっている。その裁判の結果は明らかになっていないが、どうやら重胤側の主張が通ったようである。
 元亨3年(1323)の北条貞時十三回忌法要では布施取役をつとめた。正中2年(1325)に得宗・北条高時の側室・五大院宗繁の妹が男子・万寿丸(後の邦時)を産むと、思元の妻・深沢殿がその乳母をつとめている。高時は病弱であり、次世代の得宗と目される邦時と結びつくことで幕府での権勢をふるおうとしていたと見られる。

 正慶2年(元弘3、1333)5月22日、新田義貞の率いる倒幕軍が鎌倉に突入した。このとき思元は息子の為基と共に極楽寺の切通しで防戦にあたっていたが、鎌倉市内に敵が突入し火の手が上がったのを見て部隊の一部を率いて市内へ引き返した。新田軍の兵たちが彼らに襲いかかったが頼基父子はこれを蹴散らし、若宮小路で一息ついた。
 思元はさらに天狗堂・扇が谷での戦闘に向かうことにし、ここで為基と別ルートから向かうことにした。為基がこれが今生の別れかと涙にくれて立ち去り難くしているのを見て、思元は「どちらかが死んでどちらかが生き残ったところで、どうせすぐにまた会える。わしもみんなも今日中に討ち死にして明日には冥土に集まるではないか。たった一夜の別れをそれほどに悲しむことはあるまい」と大声で叱りつけ、立ち去らせた(「太平記」)
 その後、奮戦を終えた思元は東勝寺に合流したとみられ、『太平記』では東勝寺で集団自決した人々の中にその名が記されている。
メガドライブ版「新田・楠木帖」でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで、敵の幕府軍側に「長崎思元」として登場する。能力は体力58・武力60・智力70・人徳56・攻撃力46

長崎新右衛門ながさき・しんえもん1319(元応元)-1333(正慶2/元弘3)
親族父:長崎高資
兄弟:長崎高重・長崎高依
生 涯
―祖父を刺して自害―

 鎌倉幕府末期に権勢を誇った内管領・長崎高資の子。『太平記』巻十の鎌倉陥落時の記述にのみ登場する人物で、「新右衛門」という通り名しか分からない(長崎氏の一部系図にある「高依」かもしれない)。鎌倉陥落時に15歳の少年であったという。
 正慶2年(元弘3、1333)5月22日、新田義貞の軍が鎌倉市内に突入し、北条一門は覚悟を決めて葛西ヶ谷の東勝寺に集まった。このとき新右衛門の兄の長崎高重が最後の奮戦を終えて東勝寺に帰って来ると、新右衛門に酌をさせて酒を飲んでから手本として壮絶な切腹を果たした。これを皮切りに次々と人々が自害していったが、新右衛門の祖父・長崎円喜は得宗・北条高時のことが気がかりでなかなか腹を切ろうとしなかった。すると新右衛門が祖父の前にかしこまり、「父祖の名誉を守ることが子孫の孝行ということですから、きっと神仏もお許し下さるでしょう」と言って、円喜のひじのあたりを刀で二度刺し、さらにその刀で自らの腹を切って、祖父の体を抱き寄せて折り重なるようになって死んだ。この少年の壮絶な死を目にして高時も腹を切り、その場にいた一同が次々と自決した。
歴史小説では吉川英治「私本太平記」では北条高時のそばに仕える小姓として登場している。意外にもその壮絶な自害の場面は描かれていない。
漫画作品では湯口聖子「風の墓標」で、小さなワンカットのみながら新右衛門が円喜を刺す場面が描かれている。なお同作者の同人誌でも新右衛門が取り上げられているらしいが筆者は未確認。

長崎高貞ながさき・たかさだ?-1334(建武元)
親族父:長崎円喜(高綱)
兄弟:長崎高資
幕府侍所所司・上野守護代
生 涯
―赤坂・千早城攻撃に参加―

 鎌倉幕府末期に権勢をふるった長崎円喜の子で、その息子でやはり末期の幕府の実力者だった長崎高資の弟。通称は「四郎左衛門尉」で、『楠木合戦注文』に名が「高真」と記されているが、他史料から「高貞」が正しいとみられる。
 幕府では侍所の所司をつとめた。正和3年(1314)5月に京で新日吉神社神人と武士たちが衝突した際に、幕府の使者として「長崎四郎左衛門」が京に入り事態の収拾にあたっていて(『花園天皇日記』)、これが高貞のことと思われる。
 元弘元年(1331)に後醍醐天皇が笠置山で倒幕の兵を挙げ、楠木正成が河内でこれに呼応すると、高貞は関東から派遣された幕府軍に軍奉行として参加し、正成のこもる赤坂城攻略にあたった。『太平記』では赤坂城を脱出した正成が長崎高貞の陣を危機一髪で抜け出すスリリングな描写がある。

 その後、正成が再び挙兵し畿内の情勢が不穏となると、正慶2年(元弘3、1333)に阿曽治時を大将とする幕府軍が派遣され、高貞は再びその軍奉行として従軍した。2月から正成のこもる千早城への総攻撃が始まったが、楠木軍の善戦の前に幕府軍は多大な犠牲を強いられ、軍奉行の高貞と部下たちは死傷者の記録に忙殺されるはめになったという。やがて高貞は死傷者が増えるばかりの強攻策をあきらめ、戦闘をやめてひたすら千早城を包囲し、兵糧攻めにする作戦に切り替えている(「太平記」)
 その包囲戦が続くうち、5月に六波羅探題が足利高氏らに攻め落とされ、さらに鎌倉も新田義貞らに攻め落とされてしまった。千早を包囲していた幕府軍は崩壊、高貞は阿曽治時らと共に6月に入って奈良で後醍醐側に投降した。しかし幕府首脳の一人として助命は認められず、翌建武元年(1334)3月21日に京都の阿弥陀峰で処刑された。
メガドライブ版「新田・楠木帖」でプレイすると「千早城攻防」のシナリオで、「長崎高真」の名前で敵の幕府軍側に登場する。能力は体力70・武力87・智力82・人徳66・攻撃力63

長崎高重ながさき・たかしげ?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:長崎高資
兄弟:長崎高依・長崎新右衛門
子:長崎高保?
生 涯
―鎌倉武士最後の大奮戦―

 鎌倉幕府末期に権勢を誇った内管領・長崎高資の子で通り名は「二郎」。一説に高資ではなくその弟の高貞の子ともいう(「太平記」でも円喜の孫とは明記されるが高資の子とは書かれていない)。かなりの猛将であったようで、『太平記』は彼の活躍にかなりの筆を割き、「最後の鎌倉武士」の奮戦ぶりを印象的に伝えている。

 正慶2年(元弘3、1333)5月8日、新田義貞が上野で挙兵、たちまち反北条の武士たちを糾合して鎌倉へと進撃した。幕府はただちに大軍を発して迎撃に出たが、このとき長崎高重桜田貞国を主将とする一軍に参加し、小手指河原の戦いで新田軍と激突して敗走している。
 さらに5月15日から16日には分倍河原の戦いがあり、三浦大多和義勝の内通によって幕府軍は大敗を喫した。高重は敗走の中でも奮戦し、組み合ってとった首二つ、切って落とした首十三を部下たちに持たせ、体に立った矢も抜かずに鎧を血で染め上げたまま鎌倉に帰参した。その姿を見た祖父の長崎円喜は涙を流してその血を吸ってやり、「これまでお前のことをお上のお役に立たぬやつと説教し続けていたのは誤りであった」と誉めたたえた。この円喜の言葉からすると、高重は日ごろは素行の悪い問題児と見なされていたようだ。

 5月22日、新田軍が鎌倉に突入すると、高重は小勢を率いて馬を乗り換え、太刀を取り換えながら各所で奮戦し続け、自ら32人を斬り捨て、八度も敵陣を撃破したという。しかしもはや情勢の不利は明らかで、高重は葛西ヶ谷の東勝寺におもむき、北条高時に向かって「高重、代々御奉公を続け、毎日のようにお顔を拝んでまいりましたが、それも今日限りと思われます。私一人が奮戦してももはや鎌倉じゅうに敵が満ち、長くはもちません。ここはひたすら敵の手にかからぬようお覚悟をお決めください。ただしこの高重が戻って来てお勧めするまではむやみに御自害なさいますな。お上の御存命のうちにもう一度快く思う存分に合戦をして、冥土へお伴する時の話の種にいたしたく思いますので」と涙ながらに言って東勝寺を去った。『太平記』では高重は出陣の前に崇寿寺の南山士雲のもとを訪ね、庭に立って「如何是勇士恁麼の事(勇士としていかにふるまうべきでしょうか)」と禅問答で問いかけ、南山が「吹毛急用不如前(鋭い刀はここぞというところではひたすら突き進むのみ)」と答えたので高重は礼をして出撃したとのエピソードが挿入されるが、実際には南山はこの時期鎌倉にはいなかったらしく創作と思われる。

 高重は「兎鶏」という名の関東一の名馬に乗り、百五十騎ばかりを引き連れて笠印をはずし、まんまと新田軍の中に紛れこんだ。義貞本人を討ち取ろうと半町ほど(約50m)まで接近したが、義貞の家臣・由良新左衛門が高重に気がつき、大混戦となった。高重は義貞、もしくはその弟の脇屋義助を狙って馳せ回ったが、横山重真に阻まれるとこんな男では釣り合わぬと一撃で横山を真っ二つにし、さらに庄為久に飛びかかられると「お前などと組むぐらいなら横山と組んだ方がましだ」と笑って為久をつかんで投げ飛ばし、敵兵二人につぶけて巻き添えにして殺してしまった。すでに正体を悟られた高重は「長崎入道円喜の嫡孫・二郎高重。御恩に報いるために討ち死にするぞ。手柄を立てようと思う者は組んで来い」と高らかに名乗りをあげ、太刀も納めて両手を広げ、かぶとも外して髪を振り乱しながら馳せ回った。郎党が高時へ自害を勧めねば、と諌めると「あまりに人が逃げ回るのが面白くて大殿に約束したことまで忘れてしまったぞ」と言って、わずか八騎で追手を退けつつ東勝寺へと戻った。

 23本もの矢を立てたまま戻ってきた高重に円喜が「どうしてこんなに遅れた。もはやこれまでか」と声をかけると、高重は「義貞と勝負してやろうと思いましたが近づけず、これはと思う敵にも出会いませんでしたので、つまらぬ奴らを四、五百人ほど斬り捨ててまいりました。さらに奴らを浜に追い出して散々になで切りにしてやろうかとおも思いましたが、殿のことが気がかりで帰参いたしました」と涼しげに語り、死を前にした人々の心を慰めた。そして自害の手本を示すと言って弟の長崎新右衛門に酌をさせて三度杯を傾けると、その盃を摂津親鑑の前に置き、「次はあなたが飲まれよ。これを肴に」と言って腹を切り、腸をつかみだして絶命した。
 一部系図類では高重が六波羅探題一行と共に番場で自害したとするものもあるという。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中に登場はなかったが、西岡徳馬演じる長崎高資の市街での奮戦と一同に先駆けて自害する描写は、古典「太平記」の高重の記事を参考にした可能性がある。
歴史小説では『太平記』での奮戦ぶりが印象的なため、吉川英治「私本太平記」ほか、鎌倉陥落の場面を描いた小説類ではたいてい登場している。
メガドライブ版「新田・楠木帖」でプレイすると分倍河原合戦のシナリオで、敵の幕府軍側に登場する。能力は体力82・武力109・智力103・人徳86・攻撃力99とさすがにかなりの猛将。

長崎高資ながさき・たかすけ?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:長崎円喜(高綱) 
兄弟:長崎高貞
子:長崎高重・長崎高依
官職左衛門尉
幕府内管領・評定衆
生 涯
―鎌倉幕府末期の独裁者―

 長崎円喜の子。通称「新左衛門尉」。文保2年(1318)ごろに父・円喜から内管領の地位を引き継ぎ、田楽・闘犬に明け暮れる執権・北条高時のもとで幕府政治を切り回した。
 『保暦間記』によると高資は津軽の安藤季長季久の惣領争いで双方から賄賂をとってそれぞれに色よい返事をして事態を混乱させ、元亨2年(1322)からの「津軽大乱」の原因を作ったとされる。この騒乱は蝦夷(アイヌ?)や各地の悪党も加わった大規模な反乱へと拡大し、幕府は何度となく鎮圧軍を派遣したが平定に手こずり、このことが幕府の権威失墜につながったとも言われる。

 正中2年(1325)に高時の側室・五大院宗繁の妹が男子・万寿丸(後の邦時)を産んだ。五大院氏は得宗家被官の一員であり、高資はその産所を長崎一族の管理下に置き、誕生祝いで人々から贈られる太刀に名札を付けさせ、誰が贈ったかいちいちチェックしたとされる(金沢貞顕書状)。これは高時の母および正室を出した外戚・安達氏に対する対抗心のあらわれであったとされる。

 嘉暦元年(1326)3月に高時が重病のため辞任・出家すると、高資は長男・邦時を後継に立てようと画策、中継ぎの執権に金沢貞顕を立てた。しかし高時の母・覚海(安達氏)が自身の子で高時の弟・泰家を執権に立てようとしてこれと対立、金沢貞顕はわずか十日で辞任に追い込まれて影響力の少ない赤橋守時が執権に就任することで決着した(嘉暦の騒動)。この政争は得宗被官集団のリーダーであった長崎父子と北条外戚で御家人集団を代表する安達氏の対立の激化が背景にあったと言われる。
 このころ幕府の政策決定の最高機関・評定衆は形骸化し、得宗邸で開かれる私的会合「寄合」が政策決定機関となっているが、もともと寄合出席者であった高資は嘉暦年間に評定衆メンバーも兼ねており、ほとんど独裁状態になっていた。金沢貞顕が息子・貞将の人事や服喪期間についていちいち高資の承認を求めていることからもはや北条一族をもしのぐほどの権勢を高資が握っていたことがうかがえる。『増鏡』は父の円基(円喜)を幕府の独裁者と記しているので、父子で鎌倉幕府の最高権力者となっていたのだろう。

―あっけない滅亡―

 長崎父子の専横を憎んだ得宗・高時は長崎高頼らに密命を下して高資の暗殺を計画した。しかし元弘元年(1331)8月6日に計画は露見し、高時は「我は知らず」と高頼らに罪を押しつけて流刑に処した(『鎌倉大日記裏書』。『保暦間記』には前年秋の事件とある)。こうした幕府内の混乱を横目に後醍醐天皇は再び倒幕計画を進めることになるが、それが発覚したとき高資は断固たる処分を主張して二階堂道蘊らの穏健派を黙らせたと『太平記』は伝える。

 一度は倒幕派を敗北に追い込み、後醍醐を隠岐に流刑とした高資だったが、やがて倒幕派が巻き返し、元弘3年(正慶2、1333)5月に足利高氏の寝返りで六波羅探題が陥落、さらに新田義貞が挙兵して大軍が鎌倉に迫った。長崎一族は各地で奮戦し、特に高資の子・高重の鎌倉での奮戦ぶりはよく知られる。5月22日、鎌倉はついに陥落し、北条高時以下一門と共に長崎一族も東勝寺で自刃した。
 このとき高資も共に自刃したと思われるが、なぜか『太平記』には自害した者の名の中に高資の名はない(一族の長崎思元や息子の高重の名はある)。幕府末期の段階で高資の姿が全く確認できないため、「幕府末期の多忙の中で過労死したのではないか」(細川重男氏の説という説まである。
大河ドラマ「太平記」前半の敵役として登場、西岡徳馬が演じた。フランキー堺演じる父・円喜と共に幕政の中核を担って足利つぶしの策謀を何度も仕掛ける役どころで、信念に燃える円喜に比べると幕政を私物化する小悪党といった描かれ方になっていた。収賄で安藤氏の乱の元凶となり足利つぶしの陰謀も失敗したことから円喜に手ひどく殴り倒される場面もある。それでも鎌倉攻防戦では前線に立って奮戦、逃げる部下たちを斬り捨てて督戦し、重傷を負って東勝寺に入り、一足先に自害した。
その他の映像・舞台1918年(大正7)の舞台「妖霊星」で市川寿美蔵が演じたという。
1983年のアニメ「まんが日本史」では第23話「鎌倉幕府の滅亡」で登場(声:田中秀幸)。父・円喜(高綱)と共に幕政を握り、賄賂をとって腐敗政治を行う様子が描かれた。
歴史小説では古典「太平記」は長崎高資をあまり登場させておらず、鎌倉幕府の代表をもっぱら暗君・高時に絞っている。だがこのときの幕府の最高実力者にして幕政を腐敗させた張本人が長崎高資であることは史料上明らかで、歴史小説では高資を幕府崩壊の元凶として悪役的に扱うことが多い。
漫画では学習漫画類での出番が目立つ。これは幕府末期の実質的最高権力者が高資であったためで、小学館「少年少女日本の歴史」では高時と権力争いをする描写もある。ただ少々影が薄いのは確か。学習漫画以外では沢田ふろふみ『山賊王』で高時を上回る強烈なワルっぷりを発揮、高氏から自身が差し向けた刺客の首を目の前に突き出されても平然としてみせる場面が印象に残る。しかし幕府滅亡に際しては一族郎党と共に潔く自決する姿が描かれた。
PCエンジンHu版シナリオ1でプレイヤーが倒さなければならないボスの一人として登場、高時より上位のラスボスの位置づけで、鎌倉を守っている。能力は「騎馬4」

長崎高頼ながさき・たかより生没年不詳
親族父:長崎光綱
兄弟:長崎円喜・長崎思元
生 涯
―陰謀の罪をかぶって流刑―

 『保暦間記』によれば通称は「長崎三郎左衛門尉」。長崎光綱の子と見られ、だとすれば鎌倉幕府末期に権勢を誇った長崎円喜の兄弟ということになる。
 鎌倉幕府の末期、幕府では北条得宗家の家臣である内管領・長崎高資の権勢が強まり、得宗の北条高時すらも上回る実力を持つようになっていた。それまで政治は高資に任せきりだった高時も次第に不満を募らせていたようで、ひそかに高資暗殺を画策していた。『保暦間記』によればその指示を受けたのが長崎高頼らであったという。高頼の系譜は明確ではないが高資の叔父であった可能性が高い。
 しかしこの高資暗殺計画は元徳3=元弘元年(1331)8月6日に発覚する(「鎌倉大日記裏書」)。陰謀の首謀者が高時であることは明白であったが高時は「我は知らぬ」と弁明し、あくまで高頼らの勝手な計画であったということで処理された。高頼は奥州へ流刑となり、その余党も各地へ追放されたが、その程度で済んでいるのは高資としてもことを穏便に片付けたい意向があったためと見られる。この直後に後醍醐天皇が笠置山挙兵に踏み切っており、この事件が幕府の内紛として注目された現れとも言える。

長崎為基ながさき・ためもと生没年不詳
親族父:長崎思元
生 涯
―大奮戦の末行方不明に―

 長崎思元の子で「勘解由左衛門」と呼ばれた。『太平記』では「長崎勘解由左衛門入道」とあるので、鎌倉幕府滅亡時にはすでに出家していたと見られる。
 正慶2年(元弘3、1333)5月2日、幕府軍の将として畿内に出陣した足利高氏の嫡子・千寿王(のちの足利義詮)が鎌倉から姿を消した。高氏の動静を疑った幕府は長崎為基諏訪木工左衛門入道の二人を京へ派遣したが、二人は駿河で京からの急使と出会い、高氏の寝返りを知って急いで鎌倉へ引き返した。その途中の浮嶋ヶ原(沼津付近)で高氏の庶子・竹若が変装して逃れようとしているところに鉢合わせし、竹若と同行していた少年たちを殺してさらし首にしている。

 5月22日、新田義貞率いる倒幕軍が鎌倉市内に突入。このとき為基は父の思元と共に極楽寺の切通しで防戦にあたっていたが、市内に敵が乱入したのを見て小勢を率いて引き返し、遅い来る新田軍を蹴散らして若宮小路で一息ついた。それから父子別行動をとることになり、為基はこれが今生の別れと思って立ち去り難くしていたが、思元から「どうせみな今日討ち死にして明日には冥土で会うのだ」と励まされ、涙ながらにその場を離れた。
 『太平記』によれば為基は来太郎国行が鍛えた「面影(おもかげ)」という名刀をふるって襲い来る敵を次々と斬り伏せ、恐れをなした敵兵は遠巻きにして矢を放つばかりだった。為基は人馬ともに矢を何本も立てながら由比の浜の大鳥居のところで馬を下り、太刀を杖に仁王立ちとなった。相変わらず敵兵たちが近寄って来ないので、わざと手傷を負ったふりをして膝をつくと、その首を狙って五十人ばかりが近寄って来た。すると為基はガバッと立ち上がって太刀をかまえ、「戦に疲れて昼寝をしていたのを起こすのは誰だ!お前らがほしがっている首をくれてやろうか!」と雷鳴のように怒鳴りつけた。これには敵兵たちもびっくりして散り散りに逃げ出し、為基は「逃げるな」と追いまわして奮戦を続けた。
 この日の戦いで為基は由比ヶ浜の敵の大軍を追い散らして敵味方を驚かせたが、その後の生死は不明と『太平記』では語られている。
メガドライブ版「新田・楠木帖」でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで、敵の幕府軍側に登場する。能力は体力73・武力57・智力53・人徳38・攻撃力41

長崎泰光ながさき・やすみつ?-1333(正慶2/元弘3)?
親族
父:長崎高泰
官職
左衛門尉
生 涯
―新田義貞に敗れた上野守護代―

 北条得宗家の執事(内管領)をつとめた長崎氏の一員で、長崎高泰の子とみられる。『太平記』では正中の変直後に日野資朝ら逮捕のため南条宗直と共に幕府から京へ派遣された「長崎四郎左衛門泰光」として登場するが、史実では実際に派遣されたのは別人である。『鎌倉年代記裏書』に元徳3=元弘元年(1331)5月5日に幕府の使者として京に上り日野俊基文観らを逮捕した「長崎孫四郎左衛門尉」の名が記されおり、『太平記』はこの時の使者を正中の変の時の使者と混同した、あるいは置き換えたものとみられる。この「長崎泰光」については長らく実在が確認できず長崎高貞(四郎左衛門)の誤りとみられていたが、『御的日記』という史料の徳治元年(1306)の記事に「長崎孫四郎泰光」の名が確認された。つまり元徳3年に上京した幕府の使者が長崎泰光であったと確定してよいようである。

 『梅松論』によれば正慶2年(元弘3、1333)5月8日に新田義貞が倒幕の挙兵をした時点での上野国守護が「長崎孫四郎左衛門尉」であったとされるが、実際の上野守護は北条得宗家で、長崎泰光は実際には守護代であったとみられる(実質的守護には違いない)。義貞の挙兵を知ってそれを討伐するべく軍勢を率いて駆けつけたが、すでに上野国内の武士たちはこぞって義貞についており、合戦したがとてもかなわず退却したという。この戦闘のことは『梅松論』にしかみえず、実際に戦闘があったかは疑問視もされている。その後の義貞軍の進路については確定していないが、守護軍を牽制しつつ武蔵へ進撃したとみられる。
 『太平記』ではその翌日9日に鎌倉から出陣した桜田貞国率いる「上野・武蔵両国の勢」の中に長崎高重(長崎高資の子)と共に「長崎孫四郎左衛門」の名がみえる。恐らく上野から撤退して鎌倉から来た幕府軍に合流したのだろう。その後この名前は史料上に登場しないが、高重らと共に小手指原、鎌倉で戦い、一族と運命を共にしたと推測される。

参考文献
梶川貴子「得宗被官の歴史的性格-『吾妻鑑』から『太平記』へ-」(創価大学大学院紀要34)
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、第21回の義貞挙兵のくだりで「上野守護」としてナレーションやセリフで言及されている。
歴史小説では永峰清成「新田義貞」で挙兵直後の義貞と戦闘する場面がチラッとある。

中条秀長なかじょう・ひでなが?-1405(応永12)?
親族父:中条頼平 兄弟:中条宗長・中条景長・中条長綱 子:中条長国
官職常陸介、大夫判官、備前守
幕府尾張・伊賀守護、評定衆
生 涯
―室町幕府草創期に活躍―

 中条頼平の三男。中条氏は三河国賀茂郡高橋荘(現・愛知県豊田市)の地頭で、衣城(のちの挙母)に拠点を構え、長兄・宗長から次兄・景長、そして秀長へと三代続けて家督が兄弟で相続されている。とくに景長は建武の乱にあたって足利尊氏に属して三河に転戦し、中条氏の存在感を高めた。だが景長は建武2年(1335)の矢作川の合戦でもはや戦場に出られぬほどの重傷を負い、弟の秀長に家督を譲ったとされる(「豊田市史」)。足利幕府が成立するとその功績を認められて秀長は尾張国守護に任じられ、ごく短期ではあるが暦応元年(延元3、1338)まで尾張守護をつとめていたことが確認できる。

 豊田市にある長興寺(よく知られる織田信長の肖像画があることで有名)は秀長が菩提寺として建武2年(1335)に創建したと伝えられているが時期的にはもう少し遅い方が自然という気もする。また同地にある猿投神社は貞和2年(1346)に秀長が平内大夫入道善阿に命じて神宮寺を再建させたものという(「猿投神社文書」)
 貞和元年(興国6、1345)8月、盛大に執り行われた天竜寺供養の行列の中に「中条備前守」として秀長の名が見いだせ(「太平記」)、幕府政治の中心に関与していることが知られる。貞和3年(正平2、1347)正月12日、足利直義邸で射的(弓場始)が行われた際、秀長は二階堂行通と席次をめぐって口論を起こし、面目を失った行通が出家するという騒ぎになっている(「師守記」)

 貞和5年(正平4、1349)8月13日、高師直一派が足利直義失脚を狙ったクーデターを起こした際、秀長は師直邸に馳せ参じた。「観応の擾乱」では一貫して尊氏・義詮・師直側でたちまわったようで、文和元年(正平7、1352)5月、観応の擾乱に便乗して一時京を占領した南朝軍を撃退した際に義詮が中条秀長の屋敷に入ったことが『祇園執行日記』に記されており、この記事によって彼の屋敷が錦小路京極にあったこと、義詮から重く扱われていたことが知られる。このころ出家して「元威」と号し、高橋荘地頭職も景長の孫・秀孝に譲り、自らは高橋荘北方の伊保郷を領した。延文2年(正平12、1357)に曇花院が持つ高橋荘の領家職を秀長が横領したとの訴えが起こされ、三河守護・仁木義長が義詮からその回復を命じられている。
 その後貞治4年(正平20、1365)ごろから康暦2年(天授6、1380)まで伊賀国守護をつとめ、足利義満将軍就任直後の応安元年(正平23、1368)からは幕府評定衆のメンバーともなり、幕府を中枢で支えた。

 応安5年(文中元、1372)に秀長は評定衆を辞し、甥の(景長の子)に評定衆を引き継がせた。中条本家の家督も長秀の系統が継いでいくことになる。秀長自身は至徳4年=嘉慶元(元中4、1387)に死去したとする史料もあり、彼が創建した長興寺に墓も現存するのだが、中条家が鎌倉時代からの所領である出羽国の寒河江荘・堀口郷に下向したとする情報もある。南北朝統一後の応永3年(1396)に田村庄司の乱平定に秀長が出陣したことを示す感状もあり、山形県河北町に残る慈眼寺を創建して応永12年(1405)に死去したと同寺の記録にあり、同寺にも彼の墓が存在するのだ。彼の生年は不明だが幕府設立時に活動していたことを考えれば相当な高齢で死去したことになり、しかも出羽下向後の高齢時に後継ぎの長国をもうけたことになるという。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、第44回「下剋上」で直義方から寝返って高師直の屋敷に馳せ参じた武将の一人として「中条(ちゅうじょう)備前守」の名前が言及されている。

中院(なかのいん)家
 村上天皇の子孫の村上源氏のうち久我家の支流で、中院通方を祖とする。「中院」の名は通方の曾祖父・雅定が「中院町」に住んで「中院右大臣」と呼ばれたことに由来する。家格は「大臣家」で、北畠家・愛宕家といった分家もある。中世・近世と家を伝えて明治時代に伯爵家となった。なお同じ村上源氏の堀川家や六条家から分かれた別流の「中院家」も二つあり、南北朝時代にはそれらが入り乱れて活動しているのでややこしい。

源顕房┬久我雅実─雅定─雅通─通親┬中院通方┬通氏

┌通持┌通数┌通敏




├通成───通頼─通重──通顕通冬通氏─通守




├雅家──北畠
┌忠雲






└顕方

具光具忠





└通光──┬通忠──→久我┌中院光忠親光─光顕



┌師季─季方赤松?└六条通有─有房┴有忠──忠顕千種




┌家房┌雅平

└有光→六条


└堀川定房─定忠┴家定─定成中院定平定清






中院定清なかのいん・さだきよ?-1335(建武2)
親族父:中院定平
兄弟:中院雅平
官職左中将・越中守
生 涯
―越中の反乱で戦死―

 村上源氏・堀川定房の子孫の「堀川中院家」で、鎌倉幕府打倒に活躍した中院定平の子。
 建武政権が成立すると、越中守に任じられて国司として現地に赴任している。ところが建武2年(1335)11月27日に越中守護の普門利清足利尊氏の御教書を受けて反乱を起こし、定清は能登(父の定平がここの国司だった)の石動山天平寺にたてこもって衆徒(僧兵)と共に抗戦した。しかし衆寡敵せず12月12日に石動山は攻め落とされ、戦死してしまった。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」で、能登・輪島城に南朝方武将として登場する(ただし「貞清」表記)。能力は「長刀2」

中院定平なかのいん・さだひら生没年不詳
親族父:中院定成
兄弟:中院家房
子:中院定清・中院雅平
官職左少将・右中将・左中将・能登守・右兵衛督(南朝)・大納言(南朝)
位階従三位
建武の新政恩賞方寄人(一番局)
生 涯
―倒幕戦に活躍した公家武将―

 村上源氏・堀川定房の子孫の「堀川中院家」で、中院定成の子。『尊卑分脈』によれば「本名」(初名を指すか)「良定」であったという。『太平記』では「貞平」とも表記される。
 早くから後醍醐天皇の腹心であったとみられ、元弘元年(元徳3、1331)8月に後醍醐が笠置山に挙兵した際は、後醍醐になりすました花山院師賢を奉じて二条為明と共に比叡山に上っている。その後笠置山に合流したとみられるが笠置陥落時に捕えられた公家の中に名はなく、やがて畿内で倒幕活動を展開した護良親王のそばにあり令旨の奉者として名を記すようになり、護良に従って大和国内で幕府軍相手に連戦している。
 元弘3年(正慶2、1333)3月からは播磨の赤松円心に合流、「聖護院宮」と皇族をかたって赤松軍に奉じられ、京都攻略戦に参加(「太平記」には「中院貞能」とあるが同一人とみられる。版本に「能貞」「能定」とするものがあり、「良定」と読みが通じる)。4月にはやはり護良腹心である殿良忠と共に赤松軍の「両大将」となって一軍を率いて六波羅軍と戦っている。
 5月に六波羅探題が滅亡、まもなく鎌倉も攻め落とされたが、千早城攻めに参加していた幕府軍が奈良に入り、一時京都をうかがう形勢を見せたため、6月に京から中院定平、河内から楠木正成が軍を率いて鎮圧に向かっている。結局幕府軍の首脳たちはそろって投降し、定平が彼らを京へ連行している。直後に護良親王が征夷大将軍に任じられて京に凱旋した際にも定平が他の護良腹心と共に兵を率いて付き従った。
 建武政権では恩賞方一番局の寄人をつとめたほか、能登守に任じられ国司の業務を執行している。また息子の定清も越中守に任じられて現地に赴任しているが、建武2年(1335)12月に普門利清の反乱にあって戦死してしまっている。

 その後護良親王は足利尊氏と対立、後醍醐の命で捕縛され、彼の腹心らも粛清されるが、定平は安全圏にいたらしい。建武2年(1335)6月に西園寺公宗による後醍醐暗殺計画が発覚した折には、定平が結城親光名和長年らを率いて公宗逮捕に向かっている。定平は公宗の身柄を屋敷に預かったほか、公宗を流刑先へ連行する際にもその指揮をとった。『太平記』ではこのとき定平が名和長年に「早!(早くしろ)」と声をかけ、これを「殺せ」の意味に勘違いした長年が公宗をその場で殺害した描写になっているが、実際には当時上級公家は死刑にできないため「事故」にかこつけて殺してしまったものと見られている。

―八十過ぎまで南朝で活躍―

 その後まもなく足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、延元元年(建武3、1336)5月25日に九州から東上した足利軍が楠木正成・新田義貞らを湊川の戦いで打ち破る。『太平記』によればこの時も中院定平が参戦しており、新田軍と共に足利軍相手に奮戦の末に敗走している。その後、後醍醐と共に比叡山に逃れ、足利軍と京をめぐって連戦したが、10月に後醍醐がいったん尊氏と和睦して比叡山を下りると河内へと逃れた。『太平記』ではこれ以後定平についての記述がなくなるが、延元2年から3年にかけて河内で「中院右兵衛督」として南朝の軍事活動に従事していることが文書で確認できる。
 さらに数年後、興国3年(康永元、1342)や正平2年(貞和3、1347)に征西将軍・懐良親王関係の文書で定平が奉者となっているものがある。このため一時にせよ懐良に従って九州へ赴いていた可能性があり、懐良につき従っていたことが分かる中院義定は実は定平なのではないかとの説もある(初名とされる「良定」と「義定」は読みが同じ)
 一時南朝が北朝を接収した「正平の一統」が成った際、定平は建武政権時に任じられた能登国司として、能登の総持寺の領地を建武政権期の状態で安堵するとの文書を発行している(正平7年(文和元、1352)正月11日付)

 その後の消息は全く不明で、没年も分からない。ただし南朝で編纂した和歌集『新葉和歌集』に「前大納言定平」の歌が2首納められており、そのうちの一つが「哀れなり 八十(やそじ)あまりの 老が身に 泪をそへて よはるむしのね」(衰えてゆく虫の声に八十を過ぎた老いた私はつい涙ぐんでしまう)というもので、彼が八十歳を過ぎて存命であったことを示している。またもう1首の「一念不生・前後際断」(禅語で「悟りの境地に入り過去のことでくよくよしない」の意)の気持ちを詠んだ「切れて後 又もつづかぬ 白糸の そのふしぶしは さもあらばあれ」(切れてしまえばそれまでの白糸のように、その時その時の行動はそのままに受け止める)という歌は、彼のこれまでの戦いの人生を振り返ったものともとれる。『尊卑分脈』では「南朝に仕えた。元弘以来軍功があった」と注を加え、「遁世」と記しているので「前大納言」としてこれらの歌を詠んだころには出家していたのだろう。

中院親光なかのいん・ちかみつ1308(延慶元)-1377(永和3/天授3)
親族父:中院光忠 母:藤原雅平の娘
兄弟:中院具光・忠雲
子:中院光顕・中院光興
官職侍従・参議・権中納言(南朝)・権大納言
位階正三位→従二位→正二位
生 涯
―後醍醐側近だった公家―

 村上源氏・六条家から分かれた系統で、権大納言・中院光忠の子。初めは「光房」と名乗ったが、文保2年(1318)に即位した後醍醐天皇の侍従となったとき「親光」に改名している。以後、後醍醐側近の一人となり(後醍醐腹心の千種忠顕は親光の従兄弟である)、元徳元年(1329)に正三位・参議まで昇進した。
 建武政権期の動向は不明だが、延元元年(建武3、1336)5月に湊川の戦いに勝利した足利尊氏が乗りこんで来ると、後醍醐天皇に従って比叡山に避難している。10月に後醍醐が一時的に尊氏と和睦して京に戻った際に親光もこれに同行したが、12月に後醍醐が京を脱出して吉野へ向かうと、後醍醐側近の一人として足利方に捕縛された。間もなく釈放されたものの、北朝内での昇進は認められなかった。
 正平6年(観応2、1351)11月に南朝が北朝を接収する「正平の一統」が実現すると、親光は南朝に馳せ参じて権中納言に任じられた。やがて北朝に復帰して貞治2年(正平18、1363)にこちらでも権中納言となった。応安5年(文中元、1372)に権大納言に昇進して翌々年に辞任している。
 永和3年(天授3、1377)4月4日に死去した。

中院具忠なかのいん・ともただ?-1352(文和元/正平7)
親族父:中院具忠
兄弟:中院具氏・中院具数
官職頭中将(南朝)
生 涯
―正平の一統で活躍―

 村上源氏・六条家から分かれた系統で、権大納言・中院具光の子。父の具光ともども早くから南朝に仕えた。
 正平6年(観応2、1351)11月初頭、足利尊氏が弟の直義と戦うために南朝に「投降」し、南朝が北朝を接収した形で南北朝を統一する「正平の一統」が実現した。南朝は北朝公家のうち洞院公賢を京都側の取りまとめ役に任命し、11月24日夜に南朝の「勅使」として中院具忠が京の公賢の屋敷を訪れた。このとき具忠のいでたちは蘇芳織物の上に鎧・直垂を身につけたもので、二十騎ばかりの兵士も引き連れていた(公賢の日記「園太暦」)。具忠は公賢に北朝接収の手続きや後村上天皇の入京予定が来春になることなどについて語り、さらに北朝が持つ「偽の三種の神器」の引き渡しを求めた。

 そもそも「三種の神器」は延元元年(建武3、1336)10月に後醍醐天皇から北朝の光明天皇に引き渡されたが、その後吉野に脱出した後醍醐は「光明に引き渡したのは偽の神器で、本物は自分が持っている」と主張し、南朝の正統性の根拠にしていた。つまり北朝が持っている神器は「偽物(虚器)」であるはずだが、このとき南朝側はこの「虚器」の提出を強く迫った。『園太暦』によると具忠は公賢に「京都にある神器が虚器であるのはもちろんだが、先帝(後醍醐)が引き渡したものである上に北朝で二代(光明・崇光)にわたって神器として使用されている。これを改めないわけにはいかないから、なんとしても引き渡してもらう」と発言した。『園太暦』のこの個所は後世、公賢がそう記していると解釈され「本物の神器は南朝にあった」として水戸学などの南朝正統論の根拠にされたが、よく読めばこれは具忠の発言を公賢が「彼の言う通りなら」とそのまま記しているもので、公賢自身は「不審」と記して釈然としていない。常識的に考えれば北朝が持っていた神器はやはり「本物」であり、南朝はその回収をなんとしても実現したいと考えていたのだろう。12月23日に神器は南朝に引き渡され、28日に後村上のいる賀名生に届けられている。

 翌正平7年(文和元、1352)閏2月に南朝軍が京都を占領するが、足利義詮によってすぐに奪回され、後村上を奉じた南朝軍は男山八幡にたてこもって抵抗を続けた。5月10日に男山は陥落し、後村上も九死に一生を得て脱出する有様で、南朝の公家の多くが戦死した。『園太暦』の同年5月13日記事によると、この日にこうした南朝公家の戦死者たちの首が京に運ばれてさらしものとされたが、そのなかに中院具忠のものもあったと記されている。
 ところが同じ『園太暦』の翌正平8年(文和2、1353)6月4日の記事に具忠の名がまた現れる。公賢は「虚実のはっきりしない京の人々の尾ひれがついた噂」だと記しつつ、この年2月に具忠が後村上天皇の女御(北畠親房の娘)と密通のうえ逃亡し、激怒した親房が土民たちを多数殺したため不穏な情勢となり、同時期に京都を攻略していた南朝軍の一部を賀名生警備のために引き返させた、と書いているのだ。具忠に会った当人が具忠の首を見ているはずで、公賢もこの噂に驚きつつも信じてはいない気配だが、「具忠」と具体的に名が挙がっていることが興味深い。

参考文献
林屋辰三郎『内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)
岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選)

中院具光なかのいん・ともみつ生没年不詳
親族父:中院光忠
兄弟:中院親光・忠雲
子:中院具忠
官職蔵人頭・中将
生 涯
―尊氏召還の勅使―

 村上源氏・六条家から分かれた系統の中院家で、中院光忠の子。建武2年(1335)8月に中先代の乱平定のために関東に向かい、そのまま乱後も鎌倉に居座ってしまった足利尊氏を京へ召還するための勅使に選ばれたのがこの中院具光で、『梅松論』では「蔵人頭中将具光」『保暦間記』では「蔵人中将朝光」と記されている。
 具光は9月末か10月ごろに鎌倉に入り、尊氏は当初この召還命令に応じて京に戻る意思を示したが、弟の直義らの猛反対にあい、そのまま鎌倉に居座った。このため尊氏の叛意は明らかとして新田義貞らが尊氏討伐に派遣され、建武の乱が勃発することとなる。
 その後は南朝に仕えた。息子の具忠正平の一統の際に目立った活動をしている。
大河ドラマ「太平記」第34回に「中院ノ具光」として登場(演:石原辰巳)。尊氏に帰京の勅命を伝え、後醍醐が無断の出陣や恩賞を罰するつもりはないとの意向を個人的に伝えた。しかし直義が独断で追い返してしまう。

中院通顕なかのいん・みちあき1291(正応4)-1344(康永2/興国4)
親族父:中院通重 母:源通能の娘
兄弟:中院通持・成助・道祐・寛恵
子:中院通冬・中院通数
官職春宮権亮・左近衛中将・備中権介・丹波介・蔵人頭・参議・左衛門督・備前権守・権中納言・中納言・淳和院別当・奨学院別当・権大納言・大納言・春宮大夫・内大臣
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―廃された太子を補佐―

 村上源氏中院家本流で内大臣となった中院通重の子。初め「通平」と名乗り、その後「通真」「通顕」と改名している。
 誕生の翌年に従五位下に叙され、永仁6年(1298)に春宮権亮、翌年に左近衛中将、徳治2年(1307)には従三位・参議、延慶元年(1308)に権中納言、正和5年(1316)に中納言・淳和院別当・奨学院別当へと昇進。後醍醐天皇が即位した文保2年(1318)に権大納言となり、以後後醍醐治世のあいだ辞任と還任を繰り返した。
 後醍醐が笠置で倒幕の挙兵に踏み切った元徳3年(元弘元、1331)に通顕は大納言となり、後醍醐に代わって即位した光厳天皇の皇太子に康仁親王が決まると、彼を補佐する春宮大夫に任じられた。翌正慶元年(元弘2、1332)に内大臣に昇進する。

 ところが翌正慶2年(元弘3、1333)になると後醍醐に味方する倒幕勢力の勢いが盛んとなり、赤松円心らの軍が京に迫ったため光厳ら持明院統皇族は六波羅探題に避難した。皇太子・康仁も同行すべきということになり3月26日に六波羅に移ったが、康仁はまだ幼く(当時14歳)心もとないので、日ごろから面倒の全般を見ていた通顕が同じ牛車に乗り、同じ部屋に宿直した(「増鏡」)。こののち足利高氏の寝返りがあり、5月7日に六波羅は陥落。光厳や康仁は六波羅勢に奉じられて関東を目指したが、通顕はこれに同行せず、息子の通冬と共に8日早朝にひそかに自邸に戻っている(「増鏡」)
 六波羅勢は近江・番場で集団自決し、光厳・康仁らは都へ連行され、同行していた公家たちも多くが世をはかなんで出家した。通顕もこの5月8日のうちに出家し、「空乗」と号した。彼が養っていた康仁親王も皇太子の地位を廃され、以後皇位につくことはなかった。
 その後の建武政権の崩壊、持明院統の復権と息子・通冬の出世を見届けて、康永2年(興国4、1343)12月20日(西暦では1344年1月)に死去した。

中院通氏なかのいん・みちうじ1347(貞和3/正平2)-1395(応永2)
親族父:中院通冬 母:少将内侍
兄弟:中院通敏
子:中院通守
官職参議・備前権守・権中納言・権大納言
位階従四位下→従三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―南朝に仕えたので改名―

 村上源氏・中院通冬の子。彼がまだ幼い5歳の時に南朝が北朝を接収する「正平の一統」があり、父・通冬はそれを機に8年間南朝に仕えていた。このため息子の彼も父と行動を共にしていたらしく、南朝で元服を済ませ「通治」と名乗っていた。延文4年(正平14、1359)に通冬は北朝に復帰したが、南朝で名乗った「通治」の名では都合が悪かったのだろう、朝廷に願い出て「通氏」に改名している(「園太暦」)。なお「中院通氏」は鎌倉時代に若死にした人物で先例があり、その子孫がこの時点でいないことから選ばれたという。

 父の死後、貞治4年(正平20、1365)に従四位下・参議になる。応安元年(正平23、1368)に従三位に進み、応安3年(建徳元、1370)に権中納言となる。応安5年(文中元、1372)に正三位、永和3年(天授3、1377)に従二位、至徳2年(元中2、1385)に正二位と進み、明徳元年(元中7、1390)に母の服喪で辞任したのち、喪明けに権大納言となった。
 南北朝合一後の応永2年(1395)7月6日に49歳で没した。なお、彼の息子の通守は応永25年(1418)に後小松上皇から春日祭の上卿を命じられたが中院家の経済事情が苦しく、ノイローゼになって自宅の持仏堂で自殺するという事件を起こしている(貞成親王「看聞日記」)

中院通冬なかのいん・みちふゆ1315(正和4)-1363(貞治2/正平18)
親族父:中院通顕 母:明一
兄弟:中院通数
妻:少将内侍
子:中院通氏・中院通敏
官職侍従・左近衛中将・参議・左衛門督・検非違使別当・権中納言・淳和院別当・奨学院別当・権大納言(南朝でも)・大納言・右近衛大将(南朝)
位階従五位上→従四位下→従三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―北朝公家として昇進―

 村上源氏・中院家本流で、正二位内大臣まで昇った中院通顕の子。『尊卑分脈』によれば母は白拍子の明一。誕生の翌年に叙爵され、従五位上侍従となる。その後、左近衛少将となり、元亨4=正中元年(1324)3月に後醍醐天皇の石清水行幸が行われた際、まだ10歳の通冬が行列に付き従い、同じ年頃の少年たちをえりすぐって美しく着飾らせ、秦久俊という従者を連れ歩いている様子が『増鏡』に印象的に描写されている。
 さらに左近衛中将を経て元徳元年(1329)に従三位・左近衛中将、翌元徳2年(1330)には参議に昇った。元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐が倒幕の挙兵をして失敗、持明院統の光厳天皇が即位すると、左衛門督・検非違使別当に任じられる。さらに翌正慶元年(元弘2、1332)に権中納言に昇ったが、正慶2年(元弘3、1333)5月7日に足利高氏らの攻撃により六波羅探題が攻め落とされ、光厳と側近の公家たちは六波羅探題の一行と共に都落ちした。通顕・通冬の父子はこれに同行せずに三条坊門万里小路の自邸に帰ったが、このとき通冬は危険を避けるために折烏帽子に布直垂という従者の姿に変装し、たいまつもつけずに行列の先導の列に紛れこんでいた。自邸につくと通冬の母(「増鏡」では「北の方」)は暗がりのせいもあって息子の所在になかなか気付かず、「御方(通冬)はどうしたのです、どうしたのです」と声を震わせて叫んだという(「増鏡」。増鏡の作者は恐らく通冬本人からこの情景を聞いたのだと思われる)
 鎌倉幕府が滅亡して後醍醐が復位すると、左衛門督・検非違使別当を止められ参議に戻された。しかも中院家に代々あった上野国の知行権も取り上げられて新田義貞に与えられてしまうなど、建武政権下では明らかに冷遇されている。

 足利尊氏の反乱により建武政権が崩壊、持明院統の光明天皇が即位して光厳による院政が始まると、暦応元年(延元3、1338)7月に上野国の知行権を取り返し、権中納言に返り咲くなど復権が進んだ。暦応2年(延元4、1339)には左衛門督を兼ねてさらに淳和院別当、翌暦応3年(興国元、1340)には従二位に進んで奨学院別当、源氏長者となった。この年の末に興福寺が強訴に及んで春日大社神木を京に持ち込んだため藤原氏が政務をとれなくなり、源氏である通冬が権大納言に任じられて政務にあたった。康永元年(興国3、1342)には正二位に進み、ふたたび奨学院別当・源氏長者。貞和元年(興国6、1345)には三度目の源氏長者となった。貞和5年(正平4、1349)には大納言にまで昇進した。

―南朝にも仕える―

 足利幕府の内戦「観応の擾乱」が起こると、観応2年(正平6、1351)11月に足利尊氏が南朝に「降参」し、南朝が北朝を接収する「正平の一統」が実現する。慌てた北朝公家たちは南朝の本拠地である大和の山奥の賀名生へ駆けつけ、南朝の後村上天皇に地位や所領の安堵を願い出たが、中院通冬も12月26日に賀名生に参内し南朝から権大納言に任じられて年明けの正月5日に退出して京に戻っている。洞院公賢の日記『園太暦』によると、この正平7年(文和元、1352)正月17日に通冬は公賢に会い、賀名生の南朝の状況を伝えて、「賀名生に参じないやからは官位は望めぬでしょう」と話し合ったという。その後南朝軍による京の一時占領、足利軍の奪回および南朝軍の敗退と事態は変転するのだが、通冬はそのまま8年にわたって南朝に仕え続け、賀名生や金剛寺に滞在していたらしい。
 北朝の有力公家であった通冬がなぜそのまま南朝に仕えたのかは不明だが、この時期南朝軍はいずれも一時とはいえ京を三度も占領しており、まだまだ南朝の実力が上と思っていた可能性もある。また南朝に持明院統皇族を奪われた幕府が「超法規的措置」で後光厳天皇を擁立したことに対して反発もあったのかもしれない。
 正平14年(延文4、1359)4月に後村上の生母・阿野廉子(新待賢門院)が死去すると、その四十九日の追悼願文を通冬がしたためている(「新待賢門院七七忌御願文」)。この願文によって通冬が南朝で権大納言に加えて右近衛大将となっていることも分かる。

 この年10月、二代将軍となっていた足利義詮は関東からも大軍を動員して河内へ侵攻、南朝への大規模攻勢をかけた。これは南朝に仕える公家たちの動揺を引き起こして多くの者が北朝へ投降する動きを見せ、10月25日には大物である通冬が京へ赴き、仁和寺周辺に滞在して北朝への帰参を求めた。十日もせずに幕府の執事・細川清氏から赦免と北朝への復帰を認める知らせが来たが、さすがに本領安堵までは認められず、12月13日に洞院公賢のもとを訪ねて心細さを打ち明けている(「園太暦」)。その後一部領土の安堵を認められたが、一時的に南朝に走ったことは彼の汚点となり、三条公忠『後愚昧記』「進退落居せず」(腰が据わっていない)と非難されることにもなった。本人は大臣への昇進を望んでいたが、これも南朝に仕えたことを理由に許されなかった。

 貞治2年(正平18、1363)閏正月24日に千本の宿所で病没。49歳であった。死の翌日に従一位の宣下があったが、記録上は生前に宣下されていたことにするために24日に宣下、25日に死去したことにされている(「公卿補任」)。その日記『中院一品記』は不完全な残存状況ながらも当時を知る貴重な資料となっている。

参考文献
林屋辰三郎『内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)ほか

中院義定なかのいん・よしさだ生没年不詳
官職中納言
生 涯
―九州で活躍した南朝公家―

 征西将軍宮・懐良親王に従って九州で活動したことが知られる公家。「中院」は村上源氏で、同族の北畠氏も「中院」を称することがあったほか南朝公家にはしばしばこの名が現れる。しかし義定についてはその系譜はまったく不明である。
 正平元年(貞和2、1346)の3月に、薩摩にいた懐良親王に先だって義定は肥後・八代へと入り、南朝方の菊池武光や阿蘇(恵良)惟澄と連携して阿蘇惟時を味方につけようとしきりに運動している。翌正平2年(貞和3、1347)11月に懐良は肥後に入り、義定は懐良を迎え入れてしばらく活動の痕跡を残している。吉野の南朝とも連絡を密にとっていたようで、楠木正行の戦死や吉野陥落と賀名生潜行の知らせも受け取っていたことが書状から知られる。
 義定の活動を示す最後の痕跡は、正平3年(貞和4、1348)10月28日に阿蘇惟澄に出した書状である。この中でも義定は阿蘇惟時の動向を心配し、翌月に約束通り挙兵させるようにと惟澄に求めている。惟時はその後も煮え切らない態度を続けているが、義定の消息はこの書状を最後に途絶える。
 正平3年2月の時点で義定が「前中納言」とされており、南朝の重臣の一人で大納言までのぼった中院定平がほぼ同時期に懐良の令旨の奉者となっていることから、義定と定平は同一人物ではないかとする説もある(定平は一名を「良定(よしさだ)」という)。もしそうだとすれば、義定=定平は懐良の肥後入りを果たしたのち賀名生へ向かったと考えられる。
PCエンジンCD版肥後の菊池武敏の配下武将として登場する。初登場時の能力は統率76・戦闘67・忠誠83・婆沙羅37

中原章兼なかはら・あきかね(のりかね)生没年不詳
親族父:中原章房  兄弟:中原章信
官職右衛門大志・右衛門少尉・右衛門大尉・左衛門大志・左衛門少尉
位階
正五位
建武の新政
雑訴決断所
生 涯
―文官ながら父の仇を討つ―

 代々法律関係を専門とする中原家の一人で、中原章房の子。家業として検非違使に勤めている。
 元徳2年(1330)4月1日、章兼の父・章房が清水寺参詣のおりに何者かに襲撃され、殺害された。章兼と弟の章信は父の仇を独自に捜索、犯人が「名誉の悪党」(名の知れた悪党)の瀬尾兵衛太郎なる武士であること、彼らが白河に隠れていることを突き止め、5月17日にそこを少人数で襲撃、瀬尾兵衛太郎を討ち取って父の仇討ちを果たし、ほか一名を生け捕りにした(『太平記』島津家本、『常楽記』『東寺執行日記』)。文官の身ながら見事に父の仇討ちを果たしたと京で評判になったという。だがこの事件は単なる無法者による殺人事件とその仇討ちというわけではなく、討幕計画を進める後醍醐天皇が章房を口封じのために殺させたという、政治的暗部が背景にある事件であった。
 章兼がそうした背景事情をどこまで知っていたかは分からないが、その後醍醐による建武の新政で設置された「雑訴決断所」の職員の中に章兼も名を連ねている。

 なお『徒然草』第206段に、検非違使官庁において「官人章兼」すなわち中原章兼の牛車の牛が暴れだし役所に飛び込んだ逸話が出てくるが、搭乗する人物から文永年間(1270年前後)の話となり、本項の章兼が活動した時代より60年も前なのでこの「章兼」が同一人物とは考えにくい。

中原章信なかはら・あきのぶ(のりのぶ)生没年不詳
親族父:中原章房  兄弟:中原章兼
官職右衛門大志・右衛門少尉・右衛門大尉・左衛門大志・左衛門少尉
生 涯
―目ざとい判断で父の仇を討つ―

 代々法律関係を専門とする中原家の一人で、中原章房の子。
 元徳2年(1330)4月1日に父・章房が清水寺参詣の際に何者かに襲われて殺害される。章信と兄・章兼は独自に犯人の捜査を行い、犯人が「名誉の悪党」瀬尾兵衛太郎であることを突き止め、5月17日に白河にある彼の隠れ家を急襲した。『太平記』島津家本ではこの仇討ちが詳細につづられていて、特に章信の活躍が目立つ。兄弟は二人だけで隠れ家を襲ったが中はもぬけの空、いくら探しても瀬尾を発見できず一時は引き上げようともしたが、章信が屋根裏に衣服のはしが動くのを目ざとく見つけて刀を突き上げると瀬尾が落ちてきた。章信は斬り合いの末に瀬尾を討ち取ることに成功、もう一人(弟の卿房という)を生け捕りにした。
 彼ら兄弟の仇討ちは京で評判になったといい、江戸時代には『大日本史』で兄弟の伝が立てられたほか、幕末に編纂された『前賢故実』では直接仇討ちをしたのが章信ということで兄より大きく取り上げられている。

中原章房なかはら・あきふさ(のりふさ)?-1330(元徳2)
親族父:中原章保
子:中原章兼・中原章信
官職右衛門大志・右衛門少尉・右衛門大尉・左衛門大志・左衛門少尉・左衛門大尉・明法博士・大判事
位階
正五位
生 涯
―後醍醐の計画をいさめて暗殺される―

 代々法律関係を専門とする中原家の一人で、中原章保の子。後伏見天皇の時代から後醍醐天皇の時代まで検非違使職をつとめ、明法博士を経て、嘉暦3年(1328)に大判事に任じられる。「法曹一途ノ硯儒」(法律に精通した学者)と称賛されていたという。
 元徳2年(1330)4月1日、清水寺参詣の帰りに瀬尾兵衛太郎という武士に襲われ、殺害された。『太平記』島津家本など一部版本によれば、このころ章房は後醍醐天皇から鎌倉幕府打倒の計画を打ち明けられたが、勝算無しとして逆に後醍醐を強くいさめた。このため秘密が漏れることを恐れた後醍醐が側近の平成輔に章房の「口封じ」を指示、これを受けた平成輔が刺客を放ったとしている。この事件は『常楽記』『東寺執行日記』など一次史料にも見え、暗殺事件自体が事実であることが確認でき、その背景事情も恐らく『太平記』島津家本が伝える通りであろうと考えられている。後醍醐の手段を選ばぬ冷酷な一面を良く表す事件といえよう。
 暗殺事件の翌月、5月17日に章房の息子である章兼章信の兄弟が白河にて瀬尾兵衛太郎を襲撃、仇討ちに成功している。

中山(なかやま)家
 藤原北家・花山院流の支流となる公家で、「羽林家」の家格。鎌倉後期にやや衰退したが、南北朝期に親雅が足利義満の側近となって家勢を盛り返した。のちに江戸時代には松平定信の「尊号一件」に関わるなど公家の中でも強硬派で、明治天皇の生母を出した家でもある。明治以後は侯爵家となった。

藤原忠宗┬忠雅→花山院






└忠親──兼宗─忠定─家親定宗親雅満親┬定親





└家宗

└有親

中山定宗なかやま・さだむね1317(文保元)-1371(応安4/建徳2)
親族父:中山家親 母:佐々木頼綱の娘?
子:中山親雅
官職侍従・左近衛少将・右近衛少将・右近衛中将・蔵人頭・参議・讃岐権守・権中納言
位階従五位上→正五位下→正四位下→従三位→正三位→従二位
生 涯
―歌人として活躍―

 花山院流庶流の公家で、参議・中山家親の子。後醍醐天皇が親政を開始した元亨2年(1322)に従五位に叙せられ、侍従・左近衛少将・右近衛少将・右近衛中将・蔵人頭を歴任、貞和5年(正平4、1349)には参議、貞治6年(正平22、1367)には権中納言にまで昇った。
 鎌倉幕府滅亡から建武の新政、南北朝動乱といった激動期を北朝公家の一員として生きているが、これといって目立つ政治的事績は残していない。歌人としてはやや目立つ活動をしており、北朝での各種歌合に参加しているほか、『風雅和歌集』などの勅撰和歌集に合計12首が選ばれている。
 応安4年(建徳2、1371)に55歳で死去。

中山親雅なかやま・ちかまさ1353(文和2/正平7)-1402(応永9)
親族父:中山定宗 妻:加賀局
子:中山満親
官職侍従・左近衛中将・蔵人頭・宮内卿・参議・権中納言・権大納言
位階従五位上→正四位上→従三位→正三位→従二位
生 涯
―義満に妻をさしだす―

 花山院流庶流の公家で、権中納言・中山定宗の子。貞治2年(正平18、1363)に従五位上に叙せられる。侍従、左中将、蔵人頭、宮内卿などを歴任した。
 後光厳天皇の後宮にあって筝の名手として知られた加賀局を妻に迎え、応安4年(建徳2、1371)に息子の満親をもうけているが、将軍足利義満が加賀局を見初めて関係を持ってしまった。親雅は妻を義満に差し出す形となり、康暦2年(天授6、1380)8月に加賀局は公式に義満の愛妾として将軍邸・室町第へと迎え入れられ、やがて義満の長男・尊満を産んでいる。しかし妻を奪われた親雅は特にそれで評判を落とした様子もなく、むしろ義満の信任を受けてその側近の一人となり、幕府と朝廷の橋渡し役を務めるようになってゆく。それまで権中納言どまりで落ちぶれ気味だった中山家も親雅の代で勢いを取り戻している。このように自分の女性を義満に差し出してその信任を得た例はほかにもあるが、親雅のケースはその最初のものである。
 
 参議を経て永徳3年(弘和3、1383)に権中納言に任じられる。いったん辞任するが、その後応永元年(1394)に復帰し権大納言となった。翌応永2年(1395)6月20日に義満が室町第で絶海中津の剃髪により出家すると、親雅も即座に義満の目の前で絶海の剃髪により出家し、「宗雅」あるいは「祐雅」「祐元」とも号した。応永9年(1402)5月27日に50歳で死去した。
 南北朝末期の歌壇で活躍した歌人でもあり、『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』に歌が選ばれている。

参考文献
臼井信義「足利義満」(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生「足利義満」(中公新書)

中山満親なかやま・みつちか1371(応安4/建徳2)-1421(応永28)
親族父:中山親雅 母:加賀局
子:中山定親・中山有親・権大納言局・広橋兼顕の母
官職侍従・左近衛中将・蔵人頭・参議・権中納言・権大納言
位階正五位下→正四位上→従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―父子二代で義満側近―

 花山院流庶流の公家で、権大納言・中山親雅の子。母親は実相院の坊官・長快法印の娘で、筝の名手として知られた加賀局。応安4年(建徳2、1371)に生まれ、応安6年(文中2、1373)に叙爵される。康暦2年(天授6、1380)に母の加賀局は将軍・足利義満の愛妾として室町第に引き取られ、やがて義満の長子・尊満を産んでいる。
 はじめ「親兼」と名乗ったが、至徳3年(元中3、1386)に正五位下に叙された際に義満から一字を受けて「満親」と改名する。父の親雅も義満の側近となっており、実母の加賀局の影響もあったらしく満親も義満から目をかけられ、侍従から左近衛中将、蔵人頭を経て応永9年(1402)には正四位上、参議へと順調に出世した。なお、満親は母・加賀局を通して異父弟である尊満とも親しく交流していた。

 応永24年(1417)に正二位に叙せられ、さらに応永25年(1418)には権大納言へと昇進した。応永28年(1421)4月に京で大流行した疫病にかかり、16日に出家して「祐満」と号し、十日後の4月26日に51歳で死去した。息子の中山定親は日記『薩戒記』の著者として知られる。

参考文献
臼井信義「足利義満」(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生「足利義満」(中公新書)

名越高家なごや・たかいえ?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:名越時家 子:名越高邦
官職尾張守
幕府評定衆
生 涯
―派手な武装があだになり―

 名越家は北条氏の一門で承久の乱で北陸軍を率いた北条朝時を祖とし、高家は朝時から五代目の子孫。高家について詳しい記録はないが、『太平記』『梅松論』では「名越尾張守高家」と明記され、文保元年(1317)3月30日付関東御教書案の文書で「地頭尾張守高家」とあるのでこれ以前に尾張守に補されていたことが確認できる。嘉暦元年(1326)3月に評定衆のメンバーに加わっている。

 元弘3年(正慶2年)3月、後醍醐天皇の隠岐脱出に意気上がる畿内の反幕府軍を鎮圧するため関東から大軍を派遣することが決定され、幕府はその大将に一門の名越高家と準一門である足利高氏を指名した。総大将となる高家は高氏に遅れること三日で鎌倉を立ち、京都に入った。

 4月27日に両軍は出陣し、京目指して山崎・八幡に迫っていた赤松円心千種忠顕らの後醍醐方の軍を攻撃することになった。すでに足利高氏は後醍醐方との内通を進めており、寝返りの意図を秘めて未明のうちに京を発った。これを聞いた高家は「先を越された」と焦り、急いで久我畷へと出陣した。
 『太平記』によれば高家は「元より気早の若武者」であり、今度の合戦で人々を驚かせるような戦いを見せようと大変に意気込んでいた。高家は「花段子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく着下して、白星の五枚甲の吹返に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透して打たる」という人目を驚かす派手な甲冑を身につけ、太刀・弓矢・馬具にいたるまで輝くばかりの姿で戦場に立った。「あれが総大将だ」と気づかぬ者はなく、敵軍の兵士たちが彼一人を狙って攻めよせたが、隙のない鎧は矢をはね返し、鋭い太刀は寄せ来る敵をなぎ倒した。誰もがその勢いに恐れるありさまだったという。
 しかし赤松一族の佐用範家が田の畔(あぜ)の陰に隠れて高家に接近、奮戦の合間に一息入れて太刀の血をぬぐっていた高家を近距離から狙撃した。その矢は高家の眉間を射抜き頭蓋を貫通、矢じりが後頭部に突き出したと『太平記』は生々しく描写している。以上はあくまで『太平記』のみが伝えるもので、その派手ないでたちとあっけない戦死は物語的潤色の可能性もある。
 『太平記』によればこの間、高氏は桂川近くに陣を張って酒盛りをしており、高家戦死の報を受けて丹波・篠村へと軍を進める。そしてついに反幕府の挙兵を宣言するのである。
大河ドラマ「太平記」9・18・20の3回と意外に多く登場している(演:小山昌幸)。9回と18回では幕府の評定衆の一員として、20回では六波羅での軍議の場面で「北条軍の武将の一人」という形での地味な登場に限られ、その派手な出陣や戦死シーンは全く描かれなかった。
歴史小説では足利高氏が反幕府の兵をあげる直前に行動を共にし、あっけない最期を遂げる武将なので小説類でも登場する機会は多い。
漫画作品では
古典「太平記」の戦士場面が印象的なので「太平記」漫画版で戦死シーンが描かれることがある。
変わったところで天王洲一八作・宝城ゆうき画『大楠公』では、楠木の女忍者・八千代が弓矢で高家の馬具を射て落馬させ、戦死のきっかけをつくる描写になっている。
河合真道『バンデット』の終盤で登場、かなり強烈な顔つきで印象に残るが、すぐに足利高氏らによって陣内で暗殺されてしまう。
メガドライブ版楠木・新田帖でプレイすると「千早城攻防」のシナリオで敵軍に登場する。パラメータは体力98・武力106・智力79・人徳54・攻撃力89。  

なつめ
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物(演:土屋久美子)。第23・24・26回に登場し、藤夜叉と共に二条河原の橋の下で物売りをしている。

成良親王
なりよし・しんのう1326(嘉暦元)-1344(康永3/興国5)
親族父:後醍醐天皇 母:阿野廉子 同母弟:恒良親王・義良親王
立太子1336年(建武3/延元元)11月
建武新政征夷大将軍(建武2、1335)
生 涯
―後醍醐・廉子の第二皇子―

 後醍醐天皇と寵妃・阿野廉子の間に生まれた第二皇子。1333年の立親王のとき数えで8歳、1335年の立太子のとき11歳とする史料があるので嘉暦元年(1326)の生まれと推測される。同母兄の恒良とは1歳違いであったらしい。「太平記」は成良を「第七の宮」「第八の宮」、恒良を「第九の宮」としてなぜか順序を逆にし、成良が兄であるかのように描いている。後に南朝の後村上天皇となる義良は二つ下の弟になる。

 元弘元年(1331)8月に父・後醍醐が討幕の挙兵をして失敗、捕縛されて翌年に隠岐へと流刑になった。これに母の廉子も同行している。後醍醐の皇子たちはいずれも流刑となったが、十歳未満の幼児については罪に問わないことになり、廉子が産んだ恒良・成良・義良の三皇子は西園寺公宗邸に預けられることになった。

 元弘3年(正慶2、1333)5月に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐と廉子は隠岐から京に凱旋した。当然廉子に対する後醍醐の寵愛はますます深まり、その三人の皇子たちも重きを置かれることになり、成良はこの年の11月に8歳で親王宣下を受ける。そしてその翌月には足利直義に報じられて鎌倉に下り、「鎌倉将軍」として足利氏による関東支配のミニ幕府の象徴的首長となる。このとき弟の義良は北畠親房顕家父子に報じられて奥州・多賀城に入って同様のミニ幕府首長となっているが、これは廉子の愛児を東北・関東に配置して天皇による支配を実現すると同時に、関東に事実上の独立幕府を作ろうとする足利を懐柔しつつ牽制もするという狙いがあったとみられている。建武元年(1335)正月には四品・上野太守に任じられた。

 幼い「宮将軍」を鎌倉に招いて象徴とし、武士をたばねるというやり方は鎌倉幕府のやり方そのものと言ってよかった。尊氏直義は成良の育ての親と言っていい立場となり、『保暦間記』は成良について「尊氏養いまいらせたり」と表現している。この時期に成良の名のもとに出された文書も、実際には直義がかつての北条執権と同様の立場で発給している。ある段階まで足利兄弟は成良を将軍とする関東幕府を既成事実化しようとしていたフシがあり、これは鎌倉幕府創立以来の関東武士の発想だったのかも知れない。
 このとき成良には阿野廉子の兄、つまり伯父である阿野実廉がつきそっていた。恐らく尊氏はこの成良と実廉とを媒介にして廉子に接近し、共通の敵となっていた護良親王を失脚させたのではないかと思われる。

―激動の中で―

 建武2年(1335)7月、信濃に落ち延びていた北条時行を主将とする北条残党の反乱「中先代の乱」が勃発した。7月23日に直義は鎌倉を放棄して脱出、成良も実廉と共に西へと落ち延びた。8月2日に直義と成良は足利氏の拠点である三河・矢作宿に入り、直義はここにとどまって成良だけ京へと帰した。そしてこの同じ日に尊氏は後醍醐に征夷大将軍に任じてくれるよう要請するが拒絶され、結局出陣の許可を得ぬまま関東へと出陣していくことになる。後醍醐は尊氏が征夷大将軍となるのを防ぐため、事前に8月1日付で成良を征夷大将軍に任じた。
 こののち尊氏・直義は公然と反旗を翻し、建武政権は崩壊していくことになるが、いったん足利軍が九州へと去った後、もう尊氏を牽制する必要もないということか、建武3年(1336)2月に成良の征夷大将軍職は停止されている。

 この年の5月に京に戻ってきた尊氏は後醍醐側と10月まで激しく戦い、11月に後醍醐といったん和睦を結んだ。このとき後醍醐はいったん持明院統の光明天皇を承認して三種の神器を譲って「上皇」となり、鎌倉時代以来の「両統迭立」、すなわち大覚寺統と持明院統が交互に即位にする原則にのっとって後醍醐の皇子・成良が皇太子に立てられた。このとき成良の兄・恒良は新田義貞と共に北陸に去っており(形式的には後醍醐はこちらに皇位を譲っていた)、また「鎌倉将軍府」時代以来、成良が足利氏と深い関係にあったことが成良立太子の理由となったのだろう。
 しかし間もなく後醍醐は京を脱出して吉野に行き、自らが正統の天皇と主張する。この時点で「両統迭立」の原則は大覚寺統側から破られたといってよく、成良も皇太子の立場を剥奪されたのではないかとみられる。ただ北朝側の新皇太子となった興仁親王(光厳の子、後の崇光天皇)の立太子は暦応元(延元3、1338)8月のことなので、しばらくは南北朝講和による両統迭立を模索していた可能性もある。

 古典「太平記」では、金ヶ崎城で捕虜となった恒良と成良が延元3年(1338)4月に直義によって毒殺されたことになっている。二人とも差し出された「薬」が毒だと察して、成良は飲まなかったが、恒良が「もう逃れようはない。どうせ死ぬならさっさと死のう」と毒をあおぎ、成良もこれに同意して毒を飲んで200日あまり後に亡くなった、と記している。
 だがこの時代の日記である「師守記」には康永3年(興国5、1344)1月6日の条に「前左大臣・近衛基嗣のもとに預けられていた後醍醐院皇子先坊が亡くなった」との記述がある。この「先坊」とは直前の皇太子だった人物を指す言葉なので、後醍醐天皇の皇子であり前皇太子である成良親王その人がこのとき亡くなったということが分かるのだ。「太平記」における直義が両親王を毒殺するストーリーは後年直義が自滅する展開とつながる文学的フィクションと見た方がいい。実際、当時の尊氏・直義にとって両親王を毒殺する理由はほとんどなく、まして成良は深い結びつきのあった存在だ。それでも数えで19歳という早死にであるのは確かだが、決して珍しい例ではない。

参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』中公文庫
佐藤進一「南北朝の動乱」ほか
大河ドラマ「太平記」第26回と第28回に登場する(演:長谷川宙。第26回では父・後醍醐の前で兄の恒良、弟の義良と並んで登場。第28回では直義と共に鎌倉に下るシーンで登場している。
歴史小説では 桜田晋也の「足利高氏」では恒良・成良の毒殺を「太平記」そのままに史実とし、尊氏を「史上まれな極悪人」とする大きな根拠に挙げている。
メガドライブ版「足利帖」でプレイすると「中先代の乱」のシナリオで登場する。ただし能力は体力43・武力42・智力80・人徳84・攻撃力15とすこぶる無力で、彼と千寿王を無事に逃がすことがクリア条件となっている。

名和(なわ)氏
 村上源氏を称しているが、名和長年以前のことはほとんど確証がない。もともとは長田氏で、承久の乱で敗者にまわり零落したとの説もある。伯耆国名和荘に移ってから「名和氏」を称するようになったという。「鰯売り」であったとの風聞もあり、漁業・交易業で財をなした商人的豪族との見解もある。南北朝動乱で名和長年が隠岐から脱出した後醍醐天皇を助けて戦い、建武政権で一躍脚光を浴びることになるが、建武政権の崩壊と共に栄華は失われた。その後一族は一貫して南朝方として戦い、肥後に移った一族の子孫は明治まで続き、忠臣の家柄として男爵を授けられた。
(名和氏の系譜は後世の作が多く、判然としないところが多い。以下は便宜的に作成したもの)

長田行高長年義高顕興

泰長基長顕興

├氏高長秋

長生


長重


└長義


名和顕興なわ・あきおき生没年不詳
親族父:名和義高
子:名和顕年
官職検非違使・弾正大弼・伯耆守(南朝)
位階従四位下(南朝)
生 涯
―一族引き連れ八代に移住―

 名和長年の孫で、名和氏系図によると長年の子・基長の実子で、伯父・義高の養子となったとされる。義高は延元3年(暦応元、1338)5月に堺で戦死したとされ、顕興が名和氏の家督を継いだ。顕興の生年は不明だがまだかなり幼かったのではないかと推測される。
 正平7年(文和元、1352)に南朝軍は一時京都を占領したが奪回され、後村上天皇みずから男山八幡にたてこもって抗戦を続けたが、5月11日についに男山は陥落、後村上らは敗走した。『祇園執行日記』同年5月12日の記事には、このとき北畠顕能と共に「伯耆守」が三百騎を率いて後村上を護衛していたとあり、この「伯耆守」は名和顕興であった可能性が高い。

 のちに菊池武朝が南朝に弁明を述べた『菊池武朝申状』によれば、正平13年(延文3、1358)に名和顕興は肥後国八代へと移住してきた。八代は建武新政期に養父・義高が領地を与えられた地であり、しかもこの時期の肥後は懐良親王菊池武光が率いる南朝の征西将軍府の勢いが盛んであった。それまで吉野にいたと推測される顕興は、本来の本拠地である伯耆にも戻れないので、南朝の戦略の一環として新天地・九州に派遣されたものとみられる。翌正平14年(延文4、1359)7月の「筑後川の戦い」に顕興の姿はないが、叔父と推定される名和長秋が南朝軍に参加している。

 ところが正平16年(康安元、1361)、顕興は同じ南朝方である阿蘇大宮司・阿蘇惟澄から、八代に隣接する大宮司末社の甲佐社の領地・小河郷への侵略を行ったとして訴えられている。訴えによれば顕興は肥後の豪族・宇土高俊と連携して阿蘇氏に対抗、代官に兵を率いさせて小河郷に送りこみ、阿蘇氏側の神人たちに刃傷にまで及んだとされている(阿蘇文書)。菊池武光の介入で事態は収拾されたようだが、新天地に移った名和氏が現実的に勢力拡大を図って実力行使に及んでいたことをうかがわせる。

 その後十年ほど懐良と菊池氏による九州制覇が続いたが、文中元年(応安5、1372)に九州探題・今川了俊に大宰府を攻め落とされると一気に衰退、懐良は征西将軍の地位を良成親王に譲って引退、菊池武光も死去して幼い武朝が跡を継いだが指導力については周囲から疑問を持たれていた。弘和3年(永徳3、1383)に懐良が死去すると、南朝は武朝に対して事情の尋問を行い、それに対する弁明が先述の「武朝申状」である。この中で武朝は「顕興入道紹覚は武光を頼って肥後に住むようになって正平13年以来27年になり、菊池家の勲功については良く知っている者である」という趣旨のことを述べており、この時点で顕興がまだ存命であること、また出家して「紹覚」と号していること、肥後に移ったのが正平13年であることなど貴重な情報を伝えている。
 元中4年(嘉慶元、1387)に良成と武朝は顕興を頼って八代に将軍府を移したが、元中8年(明徳2、1391)8月に顕興は良成ともども今川了俊に投降した。翌年には南北朝合一が成り、九州の南北朝動乱は終焉する。顕興の子孫はその後も八代の領主として戦国時代まで続くことになる。

名和長秋なわ・ながあき生没年不詳
親族父:名和長年
兄弟:名和義高・名和基長?
官職伯耆権守(南朝)
生 涯
―筑後川合戦に参加―

 『太平記』巻三十三「菊池合戦事」に名が現れる人物。そこでは名和長年の次男と明記されており、三男の「修理亮」も名を連ねている。ただし名和氏子孫が江戸時代に提出した『伯耆巻』『名和氏系図』には長秋の名がなく、『大日本史』では『太平記』が別人を誤って記したものと推定したが、編纂時期や内容からいえば『太平記』の方がずっと信用が置ける。
 名和一族が建武政権から恩賞として肥後国八代荘を与えられ、名和顕興の代で八代に渡ったことは菊池武朝の申状でも確認でき、長秋らも甥の顕興に従って八代に移住したのだろう。正平14年(延文4、1359)7月に懐良親王菊池武光の南朝軍が少弐頼尚らと激突した「筑後川の戦い」に南朝軍の侍大将の一人として参加したことが『太平記』に見えるが、名前のみで逸話などはまったく書かれていない。

名和長年なわ・ながとし?-1336(建武3/延元元)
親族父:名和行高? 兄弟:名和長義?・名和長義?名和長生?・名和泰長?源盛?
子:名和義高・名和長秋?・名和修理介?
官職伯耆守・因幡守
位階従四位下→贈正三位(明治19)→贈従一位(昭和10)
建武の新政記録所・武者所・雑訴決断所・東市正
生 涯
 伯耆国(現・鳥取県西部)の土豪で、隠岐から脱出した後醍醐天皇を助けて建武政権で名を挙げ、それに殉じた武将。楠木正成と並んで謎だらけの人物である。

―山陰の「いわし売り」?―


 名和氏はその出自がほとんど謎である。また後年南朝に仕えて自然消滅していったためその系譜はますます解明困難となっている。当時「村上源氏」を称していたことは確認できるが(南北朝の有名人では北畠・千種・赤松が村上源氏)、ほとんど信用できないとみられる。
 「太平記」では長年について「さして名のある武士ではないが、家が富み、一族も多く、度量が広い」と記し、「梅松論」「裕福な人物である。ともに討ち死にしようという親類が一、二百人もいる」「増鏡」「低い身分の者だが、親類が多く、しっかりとして頼りになる人物」と記す。いずれも長年が知名度も身分も低く、財産家で結束力のある多数の一族がおり、人間的にも信用できる人物と語る点で共通している。名和一族の笠印も「帆かけ舟」のマークで(後醍醐から与えられたとの説もあるが、それ以前からそうだったという見方が強い)、海運業で財産を築いた豪族だったのではないかとの推測がある。また、150年も後の記述なので信用度は高くないのだが、季弘大淑の日記「蔗軒日録」のなかに「名和伯耆(長年)は鰯(いわし)売りである」との記述がある。「商業に深くかかわる悪党的武士」ということで楠木正成との共通点も指摘されている。

 父親は「行高」とされるが、断定はできない。ただ長年がはじめ「又太郎長高」と名乗っていたのは確からしい。この「高」が得宗・北条高時の一字を与えられたものとすれば、すでに北条氏と主従関係を結ぶ勢力であったことになるのだが、父親の名の一字だとすればその疑問は解消する。だが、わざわざ後醍醐が「長高」の名を「長年」に改めさせたとみられるので、やはり「高時の高」だったのではないかと思える(「足利高氏→尊氏」や「小田高知→治久」の例もある)。確定した説ではないが、名和氏は霜月騒動により所領を失い北条に恨みを持つ御家人との見方もあり、後醍醐側で挙兵した地方豪族に同様の例が多いことからその可能性も高いと考えられる(楠木氏についても同様の指摘がある)

―船上山の挙兵―

 元弘の変の挙兵に敗れて隠岐に流された後醍醐は、元弘3年(正慶2、1333)閏2月24日に隠岐を脱出した。後醍醐一行は海を渡って出雲にゆき、そこから伯耆へ向かったとされる。伯耆での後醍醐の上陸地点は「太平記」は「名和湊」、「増鏡」は「稲津浦」、「梅松論」は「奈和(名和)荘野津」ととする。「名和湊」は現在の鳥取県大山町の御来屋(みくりや)港とされ、明治以後に「後醍醐上陸地」として整備されているが、実は「太平記」に拠っただけで確たる証拠があるわけではない。

 「太平記」「梅松論」ともに後醍醐が何の計画性もなく脱出して伯耆にいたり、「ここらに頼みになる有力な武士はいないか」と人に聞いたところ、「名和長年(又太郎長高)」の存在を聞きつけて千種忠顕を勅使に送り(あるいは彼が勅使を立てて)、協力を求めたと語っている。立場の異なる軍記二つがほぼ同じ話を書いているのでおおむね事実と思われるが、脱出にあたってすでに名和長年を頼る予定だったとみるのが自然だろう。あるいは事前の連絡はなかったが、天皇の隠岐脱出を知った名和氏の方から接触してきた、というあたりかも知れない。

 「太平記」の語るところでは、後醍醐の勅使がきたとき名和一族は集まって酒宴を楽しんでいた。後醍醐からの協力を求められた長年は考え込んで即答を避けたが、弟の長重が挙兵をうながし、一同それに決したとされている。「梅松論」では長年は迷うことなくただちに忠顕を馬に乗せて一族ともども後醍醐を迎えに馳せ参じたことになっている。
 後醍醐を奉じての挙兵を決断した長年の動きは素早く、船上山の要害に立てこもる用意のために近隣の人々を集め、「我が家の倉の中にある米を一袋運んでくれた者には銭500を与えよう」と呼びかけ、たちまち五、六千人の人夫が集まり、一日のうちに五千余石の兵糧を船上山に運び上げてしまったという。「太平記」に載るこの逸話もまた名和一族の「商業的武士」の性格をよくあらわしたものであるとされる。少ない軍勢を多く見せかけるために白布500を旗に仕立てて山になびかせた、という話も出来過ぎではあるが「太平記」における正成と同様の武士と描かれていることは注目される。

 伯耆・船上山に後醍醐を擁して立てこもった名和一族は追って来た隠岐守護・佐々木清高の軍を巧みなゲリラ戦で翻弄し、打ち破る。この勢いに山陰・山陽の武士たちが船上山に馳せ参じ、倒幕の流れは一気に加速する。長年の功績をたたえて後醍醐は「忘れめや 寄るベもなみの 荒磯を 御船の上に とめし心は」(立ち寄るところもなく波間に漂っていた私をお前は船の上=船上山に迎え入れ助けてくれた)という歌を詠んでいる(「新葉和歌集」)
 5月22日に鎌倉幕府が滅亡、その翌日に後醍醐は船上山を出発して京に凱旋し、名和長年はその輿の右で帯剣の大役をつとめ、名和一族がそろってその周囲の警護にあたったという。

―「三木一草」の一角―

 京にのぼった長年は恩賞として伯耆守・因幡守に任じられた(伯耆守については船上山で授かったらしい)。また建武政権において復活した「記録所」、恩賞問題を扱う「恩賞方」、京の治安にあたる親衛隊「武者所」、そして多発した土地問題に対応する「雑訴決断所」といった部署に名を連ねることになる。
 これら建武政権を象徴する一連の部署のメンバーに武士から選ばれているのは楠木正成・結城親光と名和長年だけで、これに中級公家出身の千種忠顕を加えて人々は「三木一草(さんぼくいっそう)」ともてはやした。名和伯耆(ほうき)・結城(ゆうき)・楠木(くすのき)・千種(ちぐさ)のセットというわけである。彼らはそれまで身分も低く目立たなかった者が突然後醍醐の大抜擢を受けてのし上がったという点が共通していたからこう呼ばれたのだが、「成り上がり者」とさげすむニュアンスも含まれている。

 名和長年個人の人事で注目されるのは、京の市場の管理を行う「東市正(ひがしのいちのかみ)」の職を任されているという点だ。この役職は官僚下級貴族・中原家が代々世襲していたもので、このとき中原章香がつとめていたが後醍醐はわざわざ彼を辞めさせて長年にこの職を与えている。後醍醐は貴族たちが官僚職を世襲する平安以来のシステムを破壊し、家格を無視した天皇中心の独裁体制を志向していたとされ、この長年の人事はその典型例とみなされている。また市場の管理職を長年に任せたのは、彼がまさに「商業的武士」だったからに違いない。

 伊予の「歯長寺縁起」には、都の人々が名和長年の風変りな烏帽子(具体的にどういうものだったのかは分からない)を見て「伯耆様(ほうきよう)」とはやしたてたという話が載る。これも京童(きょうわらんべ)が田舎者をバカにしていた空気を感じるのだが、ファッションからしてかなり独特の人物だったのではないかと思わせる話だ。
 また長年がその書状に残した花押(サイン)も丸を三つ書いてその真ん中から上にピンと一本線を伸ばす、日本の花押史上でも極めて独特のデザインだ。これは家紋の「帆かけ舟」と同じく船を意識した花押なのではないかとの説もある。

―建武政権に殉じて―

 建武元年(1334)10月21日、足利尊氏と対立していた護良親王は宮中の催しに呼び出されたところを後醍醐の命により捕縛された。この指揮にあたったのは名和長年と結城親光、すなわち後醍醐親衛隊たちであった(正成はこのとき紀伊の反乱討伐で不在)
 さらに翌建武2年(1335)6月の西園寺公宗による後醍醐暗殺未遂事件では、当初出雲へ流刑となっていた公宗を処刑したのが長年だった。あくまで「太平記」の伝える話だが、公宗を連行する途中で中院定平が「早(はや)!」とせかす指示を「早く殺せ」の意味に勘違いした長年が即座に首をはねたという。これは恐らく、公卿以上の上級貴族は死刑にしないという通例を破ることになるので「事故」ということにして処刑してしまったものだと思われる。

 間もなく足利尊氏が建武政権から離反して京を攻撃、名和長年も「三木一草」の諸将達と共に京の防衛にあたった。建武3年(1336)正月10日に後醍醐側の防衛戦は突破されて後醍醐らは比叡山へ逃れる。これを聞いた長年は比叡山へ向かう前にいったん内裏に戻っておかねばと考えて、敵兵をかきわけて空っぽになった内裏に到着、建武政権の崩壊を実感したのか庭にひざまずきながら涙を流したという(「太平記」)。足利軍の入京の直後に「三木一草」の一角であった結城親光もこれまでと観念したのか、尊氏の暗殺を謀って失敗、斬り死にしている。

 いったんは足利軍を破って九州に追い落とし、京を奪い返した後醍醐側だったが、それも長くは続かなかった。5月には九州を平定して勢いを回復した足利軍が大挙東上、湊川の戦いで楠木正成を戦死させ、さらに京を再占領した。後醍醐側は再び比叡山にこもって足利軍と戦うが、6月5日には千種忠顕が戦死した。

 6月30日、新田義貞・名和長年を主力とする軍勢は、後醍醐に拝謁した上で決死の覚悟で比叡山を出陣して京を目指した。軍勢が白鳥付近を通過した時、見物する女子供たち(京都人の戦見物は実は源平合戦のころからの風物詩だった)「このごろ天下に結城・伯耆・楠木・千種の『三木一草』と言われて栄華を誇った人々のうち、三人は戦死してしまって、伯耆守一人だけが残ってしまったなぁ」と口にしているのを、長年は聞いた。(さては長年がこれまで討ち死にしないのを、人々は情けなく思っているのだな。だからこそ女子供までがそう言うのだろう。京の戦いでもし味方が敗れるようなことになったら、たった一人であろうと踏みとどまって討ち死にしてやろう)と、長年は独り言をつぶやいて戦死の覚悟を決めたという(「太平記」。ただし太平記は日時がなぜか7月13日になっている)
 その覚悟の通り、この日の戦闘で少弐頼尚の軍と激突した長年は、三条猪熊において松浦党の草野秀永に討ち取られた(「梅松論」。太平記では一条大宮とする)。ここに建武政権の象徴とも言えた「成り上がり者」たち、「三木一草」は全て散ってしまったのである。

 その後長年の息子たちや一族は畿内や九州で一貫して南朝党として活動した。このことは名和一族が海上活動に従事する商業的な武士であったことが背景にあるのではないかと言われている。
 後世、「太平記」人気と南朝びいきが高まると名和長年とその一族は「忠臣」として祭り上げられ、江戸時代前期にはすでに鳥取藩によって名和長年を祭る小さな神社が造られたという。そして明治11年に「名和神社」として別格官幣社に昇格した。ここには長年以下その一族と家臣たち42名もが合祀されている(何の資料をもとにしたものやらさっぱりの名が並んでいる)。明治19年に正三位の贈位がなされたが、物足りないと思ったか「建武中興600年」ムードで南朝賛美が高まった昭和10年には従一位に贈位された。

 なお、「名和長年肖像」なるものがしばしば南北朝本に掲載されることがあるが、まったく別人の画像に家紋を描きくわえて「長年像」に偽作したものであることが確実視されている。

参考文献
森茂晃「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
池永二郎「名和長年」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)ほか
大河ドラマ「太平記」第20回「足利決起」の回から登場、ドラマ中盤のレギュラーキャラクターの一人となった。演じたのは小松方正で、日頃は裕福な商人風、宮中では公家風のスタイルで個性的な存在感を見せた。隠岐脱出から後醍醐を助けたので阿野廉子グループ「隠岐派」に位置づけられ、護良親王捕縛シーンなど、どちらかというと悪役風味。脚本でも初登場時に「54歳」という設定にされ、「禿頭で人の好さそうな細い目。しかし野心も俗物根性もそのエネルギッシュな表情全体に見て取れる」と表現され、小松方正の当て書きかと思える。「伯耆様」の烏帽子もあくまで想像だが商人風の独特のものにデザインされた。第37回の京都攻防戦で草野秀永に討たれるシーンもしっかり描かれた。
その他の映像・舞台昭和9年(1934)に舞台「名和長年」の上演があり、市川左団次(二代目)松本幸四郎(七代目)が長年を演じたという。下記に書いておいた幸田露伴の戯曲の上演だろうか。
昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では中村福助(七代目)が演じた。
1983年のアニメ「まんが日本史」では八奈見乗児が声を演じている。
歴史小説では南北朝時代の小説ではほぼ確実に登場。ただあくまで群像の一人という扱いで、長年その人を主人公にしたのは今のところ自費出版しかない模様。
小説ではないが幸田露伴の戯曲「名和長年」がある。隠岐脱出した後醍醐を迎えて船上山で戦うまでを描いたもので、吉川英治随筆によると長年が神格化された戦前の作ということであまり人間的な面白さはないとのこと。報道によると2009年11月に米子市で44年ぶりに歌舞伎で上演されるという。
漫画作品では 南北朝時代を扱う学習漫画ではチラリとだけだがだいたい登場している。上記の「長年肖像」をもとにデザインされていることも多い。小学館版「少年少女日本の歴史」では後醍醐と忠顕の会話の中に顔つきで言及されるだけだが、ここでは脱出以前から迎え入れる密約ができていたことになっている。
 沢田ひろふみ「山賊王」は少年漫画の王道スタイルで鎌倉幕府打倒を描く異色作だが、名和長年はちゃんと「名和長高」の名前で登場し、準重要キャラクター扱い。
河部真道『バンデット』では後醍醐の隠岐脱出直後に1シーンのみ登場、児島高徳と会話を交わしている。
PCエンジンCD版南朝側独立勢力の君主として出雲伯耆に登場。初登場時の能力は統率77・戦闘87・忠誠68・婆沙羅33。 息子の義高がいるのは当然として、なぜか家臣に塩冶高貞がいたりする。
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で伯耆国・船上山砦に登場。軍略は「弓6」でかなり強力。なおシナリオ2「南北朝動乱」では息子の義高が代わりに登場する。
メガドライブ版京都攻防戦のシナリオなどごく少ないシナリオで南朝側武将として登場(足利帖で敵として登場する機会が多い)。能力は体力62・武力126・智力128・人徳94・攻撃力102
SSボードゲーム版公家方の「武将」クラスで勢力地域は「山陰」。合戦能力2・采配能力4。ユニット裏は子の名和義高。

名和長重なわ・ながしげ生没年不詳
親族父:名和行高?
兄弟:名和長年・名和長生ほか
生 涯
―後醍醐天皇を背負って―

 『太平記』によると「小太郎左衛門尉長重」あるいは「太郎左衛門尉長重」とあり、名和長年の弟とされる。後世の名和氏系図では長年の甥になっている。
 元弘3年(正慶2、1333)閏2月に後醍醐天皇が隠岐を脱出し、伯耆に上陸してこの地の有力者である名和長年に使者を立てた。使者が来た時、長年は一族を集めて酒宴の最中だったが、後醍醐の要請を受けて考え込む様子を見せた。このとき長重が進み出て「いにしえより、人の望むところは名と利の二つ。我らはかたじけなくも帝に頼みとされたのです、しかばねを軍門にさらすことになろうとも名は後世に残りましょう。ここは心をお決めになるしかありますまい」と意見し、一同もそれに賛成して後醍醐を報じて船上山にたてこもることに決まった。長重は長年の指示で後醍醐を港まで迎えに行ったが、急なことなので後醍醐を乗せる輿も用意できなかったため、長重が鎧の上に「こも」を巻き、後醍醐を背負って山を登ったという(「太平記」)。直後の船上山の戦いでも兄弟らと協力して幕府軍撃退に活躍している。

 その後も名和長年に従って後醍醐=南朝方で各地に転戦したとみられるが、長重個人の動向はほとんど伝わっていない。建武3年(延元元、1336)5月に後醍醐が比叡山に逃れた際「名和太郎判官長生」が付き従ったと『太平記』が記しており、これは長重の誤りの可能性が高い。
 さらに正平7年(文和元、1352)閏2月に南朝軍が一時京都を占領し、その後5月まで男山八幡で籠城戦を続けた際、「伯耆太郎左衛門長生」という武士が南朝軍にいたことを『太平記』は記している。名和長年の兄弟に「長生」という人物もいるのだが彼の通り名は「小次郎」であり、「太郎左衛門」は長重の方がふさわしいと思われ、これは長重の誤りとみる説がある。
 5月11日に南朝軍は男山を放棄して敗走、三種の神器のうち鏡を納めた櫃も田の中に打ち捨てられる有様だった。『太平記』ではこの「伯耆太郎左衛門長生」が神器を収めた櫃を拾い、よろいを脱ぎ棄てて背に担いで矢を雨のように浴びながらもどうにか賀名生で逃れることができたと伝えている。その後の消息は一切不明である。
漫画作品では石ノ森章太郎「萬画・日本の歴史」の第18巻に、懸命に後醍醐を背負いながら船上山を登る長重が名前入りで描かれている。

名和長生なわ・ながたか生没年不詳
親族父:名和行高?
兄弟:名和長年・名和長重ほか
生 涯
―神器の櫃を背負った?―

 『太平記』によると「小次郎長生」といい、名和長年の弟とされる。
 元弘3年(正慶2、1333)閏2月に後醍醐天皇が隠岐を脱出し、伯耆に上陸して名和長年を頼った。名和一族は後醍醐を迎え入れて船上山にたてこもり、幕府方の軍を迎え撃つことになった。このとき長生は兄弟の長重と共に敵兵に矢を浴びせた上で斬りこむといった活躍を見せている。『太平記』ではその後、千種忠顕を主将とする京都攻略軍に加わり児島高徳らと共に六波羅勢と一条方面で戦っているが(「名和小次郎」と表記されている)、六波羅軍の勇将・陶山次郎とは「知人」であったとされ、お互い名誉をかけて激しく戦ったとされている。

 その後の活躍については全く不明だが、『太平記』では正平7年(文和元、1352)5月に南朝軍が男山八幡を撤退した際、「伯耆太郎左衛門長生」という武士が、田に捨てられていた神器の鏡を納めた櫃を拾って背中にかつぎ、矢を雨のように射られながらも賀名生まで落ちのびたと記されている。この印象的な場面のおかげで、南朝称揚が高まった幕末から明治にかけて出版された『前賢故実』の中に長生が南朝忠臣の一人としてわざわざ採り上げられるなど長生の有名人化も進んだが、長生は同じ太平記に「小次郎」とあるため、長重の誤りとみる見方も強い。他の箇所でも『太平記』は長生と長重の混同とみられる記述がある。

名和基長なわ・もとなが生没年不詳
親族父:名和長年
兄弟:名和義高・名和長秋? 子:名和顕興
生 涯
―名和顕興の実父?―

 『太平記』など同時期資料には登場せず、江戸時代に名和氏子孫が提出した『伯耆巻』『名和氏系図』にのみ事績が詳しく書かれる人物。このためそもそも実在したのかも含めてその事績の扱いについては慎重を期すべきである。
 『伯耆巻』では名和長年の次男とされ、通り名は「孫三郎」。系図では「弥三郎」「三郎左衛門尉」ともある。元弘3年(正慶2、1333)閏2月に後醍醐天皇が隠岐を脱出して名和長年を頼り、長年らは船上山にたてこもったが、このとき嫌がる基長を説得していったん家に帰らせ、家族を連れ出して屋敷に火をかけさせている。佐々木清高らが率いる幕府軍との船上山の戦いでも奮戦し、敵を撃退してもむやみに追撃させずに投降を呼びかけ、それでも投降しない塩冶高貞を長年の命令で攻めると、それを聞いた高貞はすぐ投降したという。
 名和氏系図によるとその後、三十歳で高野山に入って出家、「心阿」と号したという。その後名和氏の家督を継いで九州に移った名和顕興は基長の実子で兄・義高の養子になったとされている。

名和泰長なわ・やすなが?-1333(正慶2/元弘3)?
生 涯
―名和長年の弟?―

 名和長年の弟とされるが詳細不明。「名和悪四郎泰長」という名であったとされ、その子孫を名乗る熊本藩の嘉悦(加悦)氏がいるが、悪四郎泰長なる人物の活躍を語る史料が「南朝人気」の高まった後世のものばかりなのであまりアテにならない。そもそも名和氏そのものが楠木氏同様に謎だらけで、後世作られた系図と称するものもあまり信用はされてない。
 それらの伝説で語られるところでは、名和悪四郎は隠岐に流されていた後醍醐天皇の救出を富士名義綱と共に図り、これを実行して兄の長年のもとに連れて行ったことになっている(その途上で戦死したことにしてるのもあるらしい)。だが「太平記」も含めて同時代史料に名和悪四郎の名はまったく登場しない。
 「太平記」「梅松論」ともに後醍醐が隠岐脱出後に名和氏の存在を知ってそこを頼ったことにしているが、明らかに不自然ということで隠岐にいる段階で名和氏と接触していたのではないかと考えるうちに創作された人物(むろんそういう人物がいた可能性そのものは高い)とみるべきではなかろうか。
 子孫を称する熊本藩嘉悦氏系の「名和系図」では元弘3年(正慶2、1333)閏2月末に出雲国で自害したと注されている。明治後の名和一族顕彰で建立された「名和神社」にも祭神として名を連ねている。
大河ドラマ「太平記」第18回「帝の脱出」に登場(演:白石貴綱)。吉川英治の原作に従い、ましらの石とともに後醍醐の隠岐脱出を実行する。
歴史小説では吉川英治『私本太平記』では隠岐脱出のくだりで大活躍。兄・長年の家臣の妻を寝とって逃亡していたという設定になっていて、後醍醐脱出を手土産に兄のもとへ戻ってくる。

名和義高なわ・よしたか1302(乾元元)?-1338(暦応元/延元3)
親族父:名和長年
兄弟:名和基長・名和長秋 養子:名和顕興
建武の新政窪所・武者所番衆
生 涯
―北畠顕家と共に戦死―

 名和長年の嫡男。その事績については詳しいことはほとんど分からず、『太平記』など同時期の記録に名前が出てこない上に生没年については後世作られた「伯耆巻」「名和氏系図」の記述以外に根拠はなく、信憑性にやや疑問がある。
 元弘3年(正慶2、1333)閏2月に隠岐を脱出した後醍醐天皇を奉じて船上山に挙兵して以来、父に従って戦った(「伯耆巻」では幕府の命で千早城攻めに参加していたことになっているが、あまり信用できない)。その功績により建武政権では窪所・武者所の番衆に名を連ねたほか、建武元年(1334)正月に恩賞として肥後国八代荘の地頭職を与えられている。建武2年(1335)5月にこの八代荘から杵築神社、熊野神社への寄進が行われたことを示す文書が残っている(そこでは「伯耆大夫判官」とある)
 その後の具体的な活動についてはほとんど不明で、「名和氏系図」によると延元3年(暦応元、1338)5月22日に和泉国堺で北畠顕家と共に高師直軍と戦い、戦死したとされている(系図ではこのとき37歳とあり、乾元元年生まれと推定させる)。彼の死後、甥で養子の名和顕興が家督を継ぎ、やがて義高が所領を持っていた肥後八代へと移住することになる。
漫画作品では沢田ひろふみ『山賊王』で登場している。
PCエンジンCD版1336年ごろに元服し、父・長年のいる国に出現する。初登場時の能力は統率73・戦闘80・忠誠81・婆沙羅65
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」で、伯耆国の船上山砦に登場する。能力は「弓4」
SSボードゲーム版父・名和長年のユニット裏で、身分は「武将」クラスで勢力地域は「山陰」。合戦能力1・采配能力3

南条高直なんじょう・たかなお?-1333(正慶2/元弘3)
官職左衛門尉
生 涯
―赤橋守時と共に戦死―

 南条氏は伊豆・南条を名字の地とする一族で、北条得宗被官(御内人)のうち重要な地位を占めたものと考えられている。得宗専制が強まるとともに幕府内で頭角を現したとみられ、「太平記」でも鎌倉末期の情勢の中で「南条」一族が何人か登場している。だがその系図はまったく不明である。
 古典「太平記」で南条高直が初登場するのは巻二、二度目の討幕計画が発覚して逮捕された日野俊基が鎌倉に送られてきた時で、鎌倉に到着した俊基を受け取り、諏訪左衛門に預けさせた人物として「南条左衛門高直」の名が明記されている。なお、北条貞時の十三回忌法要(元亨2、1322)のなかに「南条左衛門入道」の名があるので、これが高直ではないかとする推測もある。

 正慶2年(元弘3、1333)5月18日、新田義貞率いる大軍が鎌倉に迫った。執権・赤橋守時は巨福呂坂から洲崎(鎌倉北西部、山を越えた地域と思われる)へ出撃して新田軍と交戦、激戦の末に自害して果てた。「太平記」では自害の前に守時は南条高直を呼び寄せ、「妹が足利高氏の妻だから、高時どの以下、みな私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と語った。守時の自害を見とどけた高直は「大将がすでにご自害された上は、士卒は誰のために命を惜しもうか。ではお供つかまつろう」と言ってただちに腹を切った。これを見て90余名の兵たちも一斉に腹を切ったという。
 「梅松論」でも赤橋守時と同じ場所で命を落としたとして「南条左衛門尉」の名を挙げている。
大河ドラマ「太平記」第10回で登場(演:岸本功)。六波羅の武将ということになっていて、文観を捕縛する場面で登場している。ただし「南条左衛門」の役名であって「高直」とは別人ということになってる可能性あり(南条次郎左衛門宗直というのがいるのでそっちかもしれない)ドラマでは分からないが第22回の赤橋守時戦死の場面で傍らにいる武将(演者不明)は脚本では「南条高直」と明記があり、「お逃げ下され!」等の若干のセリフもあった。
メガドライブ版楠木・新田帖でプレイすると「鎌倉攻防戦」のシナリオで敵軍に登場する。パラメータは体力71・武力97・智力106・人徳74・攻撃力78。 

南条宗直なんじょう・むねなお生没年不詳
官職左衛門尉
生 涯
―日野俊基らを捕縛した御内人―

 鎌倉幕府末期に活動している北条得宗被官(御内人)の一人で、上記の「南条高直」の祖父か父の可能性がある。「南条貞直」という人物の活動も確認されており、「宗直」の名は『太平記』のみにしか出てこないが恐らく北条時宗からの偏諱と思われ、「高直」より二世代ほど前と推定される。正応5年(1292)と正応6年(1293)に幕府の使者として親玄僧正を訪問している「南条二郎左衛門尉」も宗直の可能性が高い。
 『太平記』では正中の変直後に長崎泰光と共に上京した幕府の使者の名を「南条次郎左衛門宗直」とするが、史実ではこの時の幕府の使者は別人であった。その代わり、元徳3=元弘元年(1331)5月に同じ両名と思われる「長崎孫四郎左衛門尉」「南条次郎左衛門尉」が上京して日野俊基らを逮捕しているので(「鎌倉年代記裏書」)、『太平記』はこの時のことを正中の変の時点に持って来ているのであろう。『太平記』は俊基を逮捕した人物の名は書かないが、鎌倉に連行された俊基の身柄を受け取ったのは南条高直であったとしていて、同族同士で身柄の引継ぎを行ったことになる。

参考文献
梶川貴子「得宗被官南条氏の基礎的研究-歴史学的見地からの系図復元の試み-」(創価大学大学院紀要30)


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