開設一周年記念 全翼機の世界特別編


1.HK1(萱場1型無尾翼グライダー)
 HK1(萱場1型無尾翼グライダー)は萱場資郎、日野熊蔵、木村秀政、伊藤音次郎 各氏らにより生み出された、日本初の無尾翼機です。

1.1 その誕生まで
 萱場資郎氏は萱場製作所社長としての勤務の傍ら、毎週日曜に東京湾に繰り出しての海釣りを唯一の道楽としていました。 その海釣りで観察した「かつをどり」(まま)と「いか」に惹かれていきます。
かつおどりは氏曰く「完全な無尾翼機で、長い胴や水平尾翼がなく」、大気圏内航空機の理想像と見えたようです。そして「かつをどり」の平面形に、「いか」のジェット推進を組み合わせた無尾翼ジェット機を構想、10年後完成を目指して会社の長期研究項目として作業を開始します。
構想名はKF。昭和10年秋のことです。

 その後、KFに関して陸軍との協議を経て、個人会社での研究に限界を感じ、軍による研究引継ぎを申込みますが、逆に継続を力押しされ、昭和11年から5年間研究費として20万づつを交付されることになります。
困った萱場氏は東大航空研究所の小川太一郎博士に援助を依頼、研究開発に乗り出すとともに、萱場社の技術部にKF研究課を設立します。このKF研究課の機体顧問に、前出の小川太一郎博士、木村秀政技師らが迎えられました。
 更に当時定職がなく「働かせて欲しい」という日野熊蔵氏(明治43年12月19日、徳川大尉とともに日本初飛行、14日にも飛行していますが初飛行とはされず)が萱場氏の知人の紹介で来社、KF研究課に加わります。各顧問陣を迎えてのKF研究会が毎週土曜日に開かれたようです。
 その中で日野氏は「かつをどり」と「いか」の生態に興味を示し、萱場氏は「かつおどり」のペーパーモデル製作を依頼、次第に改良されていったペーパーモデルは良く飛ぶようになり、航空研究所にもそれを 持参して、小川博士、木村技師に披露、最初怪訝な顔をしていた木村技師も自ら手にとって飛ばすなど興味を示してのを見て、「無尾翼グライダーの設計、製作、実験指導までを御願い申し上げた」のです。
 当時の木村技師は航研機作業の真最中でしたが、この模様をこう回想されています。 「 小さくて速度の遅い紙飛行機はよく飛んだからといって、それと外形だけが相似の実機を作って、よい性能が得られるとは限らないが日本でまだだれもやったことのない無尾翼機のことではあるし、それではやってみましょうと安請け合いをしてしまった。飛行機のことなら何でも興味をもってしまう癖が現れたとみえる。」
昼は航研機で忙しいので、無尾翼機の作業は自宅で夜なべとなり、「さむいときで、コタツの上に製図版をおき、夜遅くまで図面を書いていたことを思い出す。」で、設計では平面形は日野氏の案をそのままが使われ、縦安定のために計算で捻じり下げと重心位置が決定されました。
とても楽しい経験だったとのことです。

1.2 誕生と飛行

 強度計算から製図までを一人でこなした木村技師による2ヶ月ほどの設計を経て、千葉県津田沼の伊藤音次郎氏の伊藤飛行機研究所工場で製作が開始されました。 (これは伊藤音次郎氏がやっていた日本軽飛行機倶楽部の理事に木村氏が就任していたことに関係があると思われます)
伊藤氏は民間航空の第一人者で、数多くの飛行機製作をこなしていましたが、無尾翼機のコントロールシステム、特に補助翼としても昇降舵としても動くシステムに苦労したようです。 が、なんとか製作は完了、機体完成は昭和13年2月末のことです。名をHK1(日野熊蔵氏の日本式イニシャル)またを萱場1型、登録記号は「A-1017」が後に与えられます。

 伊藤航空機製作所の前の干潟を飛行場にして、初夏の頃からパチンコ式のジャンプ飛行が開始されますが、製作所の安岡駒好主任操縦士は「舵の効きが悪く、わしには向かん」とテスト飛行を降り、 代任として3級滑空士免許を持つ島安博氏が抜擢されます。昭和13年12月から島飛行士の慣熟訓練とそれによる各部改修が開始され、茨城県鹿島の砂丘におけるスロープ飛行、柏飛行場出の自動車曳航を経て、翌年8月に慣熟飛行を終了、昭和14年9月6日からの再び津田沼での飛行機曳航による本格飛行が始まります。
 昭和14年10月22日、初の高度1000mへの曳航飛行が行われ、アクロを含む高等飛行を実施(左写真はその時の曳航機から撮影)、この飛行を地上から見ていた木村技師、萱場氏、伊藤氏、萱場及び伊藤飛行機製作所の社員らは拍手喝采、その見事な飛行ぶりを喜びます。 木村技師によれば、「安定性・操縦性は予想以上だったが重量が予想以上に大きくなり、それに翼の揚力係数が小さいという無尾翼機の欠点が伴って、スピードが非常に速かった。グライダーとしては、必ずしも好ましい性質ではないのであるが、試験飛行に立ち会った人々は、無尾翼機だから空気抵抗が少なくてスピードが出たものと勘違いし、大成功、大成功と私の功績をたたえてくれた。私としてはくすぐったいおもいだった。」とのことです。

 その後、HK1の安定性・操縦性テストは昭和15年3月まで続けられ、曳航飛行回数も116回を数えます。
HK1が順調に試験飛行をこなすのを見た陸軍航空技術研究所は、昭和14年の夏ころから所長以下が度々見学に来ており、その後「試験飛行終了後の1型貸与、エンジン付き機型を買い上げるので製作して欲しい」との要請を行います。それを受けて昭和15年4月からは陸軍立川技術研究所飛行場において、HK1を陸軍航空本部に貸与するための伝習訓練に移行します。 伝習飛行では陸軍のテストパイロット(少佐)が搭乗しましたが、バルーニング現象でなかなか着陸できず、強引に下げ舵を取ったために前部を地上にぶつけ大破、その生涯を終えてしまうのです。
飛行回数182回目のことでした。

HK1飛行記録(『航空技術 '67年8月号 』より)
 期間  場所  飛行方法 回数備考
S13.12.15 〜 14.8.29 津田沼、鹿島砂丘、柏飛行場 ゴム策牽引  53 各部分調製、改修 
S14.9.6  〜 15.3.7津田沼飛行機曳航 116 安定テスト、操縦性テスト 
S15.4.5  〜 15.4.16立川技研飛行場飛行機曳航 13 伝習


1.3 機体緒元

 島飛行士によれば、操縦性もよく安定した飛行ぶりであったようです。 風洞実験もしていない(木村技師の談)のにこうもうまく飛んだのは、平面形の良さと木村技師の機体デザイン能力によるものでしょうか。
ただ、リピッシュ(独)などとは異なり、系統的に研究した結果ではないので、多分に偶然性も大きかったと思われます。

 鈴木五郎氏による『昭和の日本航空意外史』では、HK1は次となっています。
・全幅10.0 m
・全長3.5 m
・全高1.8 m
・後退角24.0 °
・翼面積14.0 u
・自重120 kg
・滑空速度 85 km/h
戦後に木村氏が情報提供した「WINGED WONDERS, NASM, 1983」では次のように記載されています。
 ・Wing Span 34.8 ft
 ・Length 11 ft
 ・Wegiht 448 lb
 尚、角度は不明ですが、翼(主翼)は上反角を持っています。
また、上図には描かれていませんが、主翼内側後縁には、昇降舵を持っています。

使用/参考文献
  ・航空朝日 昭和16年 1月号、朝日新聞社(A3-1型として、全体と後部胴体〜垂直尾翼まわりの写真が掲載)
  ・滑空機 昭和16年版、朝日新聞社(A3-1型として、日々丸付きの写真2葉が掲載)
  ・航空ファン 昭和29年 5月号、文林堂(試験飛行時の写真4葉が掲載)
  ・航空技術 No.149(67-8),152(67-11),154(68-1)、萱場資郎、日本航空技術協会
  ・航空70年史−1、、1970、朝日新聞社
  ・わがヒコーキ人生、木村秀政、1972、日本経済新聞社
  ・WINGED WONDERS THE Story of Flying Wings、1983、 National Air & Space MuseumE. T. Wooldridge
  ・昭和の日本航空意外史、鈴木五郎、1993、グリーンアロー出版社
  ・日本軍用航空戦全史(第五巻)、秋元 実、1995、グリーンアロー出版社
   (私は持っていませんが、航空情報60年10月に木村秀政氏の回想が掲載されています)

 使用した写真は、『航空技術』と『WINGED WONDERS』、図面は『航空技術』からのものです。



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