開設一周年記念 全翼機の世界特別編


2. 萱場2型無尾翼グライダー

2.1 2型/3型の開始
 陸軍航空技術研究所からの「エンジン付き機型を買い上げるので製作して欲しい」との要請を受けて、萱場では2型、3型の開発に着手します。
まず昭和14年8月、製作された数種類のペーパーモデルを持って航研の小川、木村両氏が萱場へ来社、実際に飛ばしてみて型式を決定、翌日に立川の技研を訪問し、そこでも飛ばしてみて了承を得ます。 そこで「エンジン付きのものを最短期間に試作するつもりで、まず2型、3型のグライダーを飛ばしてみてほしい。技研はあらゆる援助をする」という安田所長の言を得て、何れもエンジンを付け得る形として、2型が戦闘機型、3型が双発長距離機型と決まりました。
 2型の設計は萱場の内藤繁樹氏を中心として両翼端に方向舵付きの垂直安定板を持つ単座機、3型は大日本飛行協会の鷲見譲次氏を中心として、ほとんど同時に設計が開始されました。両型とも木村氏の指導を仰ぎますが、2型の製作は1型と同じに伊藤飛行機製作所に依頼しました。
なお、2型には陸軍グライダーである略譜号「ク2」が、3型には「ク3」が割り当てられました。

2.2 飛行試験
 2型は昭和15年10月3日に完成、翌4日から島飛行士の操縦で試験思考を開始、各舵の効き具合や各部調製のためにゴム索牽引により67回を飛行、ついで10月20日から飛行機曳航により試験を継続(59回飛行)し、改修を加えています。
 明けて昭和16年1月からは立川に持ち込んでの95式3型練習機による曳航飛行が始まり、特に安定性、旋回性を重点として失速性や回復性の確認を行っており、1月18日には後にマレーの虎として知られることになる山下奉文中将らが見学、この時に連続宙返りを披露しています。
 島飛行士の2型の感想は、「1型より安定性、操縦性ともに優れ、方向安定はとくにいい。また、失速に入りにくいし、回復性は抜群、強いて言えば静的、動的にやや不安定さが残る。」というものでした。

萱場2型飛行記録(『航空技術 '67年11月号』 より)
 期間  場所  飛行方法 回数 備考 
S15.10.5 〜 15.10.19津田沼ゴム索牽引 67 各部調整飛行テスト
S15.10.20 〜 15.11.6津田沼飛行機曳航(高度500〜1000m) 59 昇降舵面積を増加することに決定。
S15.11.12 〜 15.12.3津田沼ゴム索牽引 58 昇降舵改修後のテスト・良好。
S16.1.15 〜 16.1.24立川航空技研飛行機曳航(高度1000〜2000m) 57 本試験(安定性、旋回性、失速性、回復性等の実用テスト)
S16.2.2立川、津田沼空輸曳航テスト 4 操縦席小改修を決定。
S16.2.7津田沼飛行機曳航 5 操縦席小改修後のテスト。
S16.3.7津田沼、立川空輸 4 空輸テスト・良好。
S16.3.19立川飛行機曳航(高度1000〜2000m) 3 急旋回、急反転宙返り、失速その他のテスト。
S16.3.20立川飛行機曳航(高度1000m) 4 急反転中操縦席後方に異常音あり、胴体側桁中央に30cmの亀裂を生ず。津田沼に運び補強修理。
S16.5.10立川飛行機曳航(高度1000m) 2 第1回目島飛行士操縦、各種高等飛行異常なし。2回目N少佐練習飛行、着陸に失敗破壊。

 さて、この2型は昭和16年3月20日に桁に亀裂が入るという事態に見舞われます。
『航空技術(67年11月号)』での萱場氏の回想録では飛行記録の中でしか触れられていませんが、この辺を『昭和の日本航空意外史(鈴木五郎、1993)』から引用します。
 高度800mで急反転した時だった。突然、バリッと木の裂けるような異常音がした。
「なんだ!」
と危険を察知した島は両翼や座席のまわりを見回したがわからない。ただ、なにかおかしな振動が感じられる。
「よし冷静に、とくかく静かに着地させることだ」
島は冷静にあまり操縦せずにだましだまし降下していく。まことに緩やかな緩旋回でうまく着地させた。二型機のまわりにかけよる人々−萱場の須藤技師、葉方技師、野村技師、そして陸軍からのN少佐、野田少尉。 上空でのトラブルなどつゆ知らず、みなにこにこしている。島飛行士もつとめて平静をよそおい、N少佐と野田少尉に申告した。
「いい手ごたえです。異常ありません。」
 (中略)
島飛行士は一同を集めると、さりげなく声をひそめて言った。
「いや実はね、降りてくるとき座席の下あたりで、バリッといういやな音がした。どこかやられているんじゃないかね!」
「え〜そりゃ大変だ!」
葉方技師が、さっそく座席の下の床をはずしてのぞき込んでいたが、
「こりゃ遺憾。桁のまん中に亀裂が入っているぞ」
 『昭和の日本航空意外史』では翌3月21日は軍の納入テストで、軍にばれないよう芝浦の萱場工場にトラックで運び込まれ、徹夜で補強修理したことになっています。ただ、萱場氏の回想録での飛行記録には津田沼で修理していることになっており、 またしばらく飛行が5月までないこと、トラックで運び出して航空技研にばれなかったのかは多少疑問に残りますが、なんとか急場はしのいだようです。

2.3 2型の終焉
 昭和16年5月10日、伝習飛行に飛んだ島飛行士の後で、陸軍のN少佐が飛びます。
が、1型と同じく、着陸の時バルーニング現象によってなかなか接地しない機体を無理に着地させようとして転覆、大破してしまいます。 操縦していたのも1型事故と同じ人で、萱場氏の回想録では次のようになっています。
 N少佐は民間の若造パイロットの注意などろくに耳に入れず、特に無尾翼機の特性たる着地直前のバルーニング現象(地面効果が大きく、浮力が増しなかなか接地しない)の注意を無視し、むりに着地せしめたための事故である。 幸い怪我はなかった。
 N少佐は前にも同じ原因の乱暴な操縦で一型を壊している。こんどが二度めなのである。同氏の事故報告書には原因はなにも書かず、「あんな玩具みたいなものは役に立たん」との所見だったそうである。豚に真珠とはこのことで、自分のあやまちを反省しないし、当時の不勉強で、粗暴なパイロットの悪例である。島君は今もって憤慨しているのである。 もっともなことだと思う。私も同感である。
 N少佐と名前を伏せてあるのは、回想執筆時、存命だったからでしょうか。

2.4 機体緒元
 2型の緒元は以下の通りです。また図面は、秋元 実 氏の労作『日本軍用航空戦全史(第五巻)』に掲載されています。 (尚、文中には「コクピットは解放式」とありますが、図面ではキャノピーが描かれています)
翼はごく短い矩形の中央翼と後退角をもった外翼とに別れ、外翼後縁にはほぼフルスパンに渡って補助翼と昇降舵(Winged Wondersによる)が付いています。胴体は布張りで、翼は木製のように見受けられます。
 ・翼幅9.8 m
 ・全長3.04 m
 ・翼付根弦長1.8 m
 ・翼端弦長0.75 m
 ・後退角25.5 °
 ・翼面積14.5 u
 ・垂直尾翼総面積2.323 u
  (内 方向安定板)1.380 u
 ・自重124 kg
 ・翼面荷重13.4 kg/u(パイロット自重 70kg時)
 ・最適滑空速度75 km/h


使用/参考文献
  ・航空技術 No.149(67-8),152(67-11),154(68-1)、萱場資郎、日本航空技術協会
  ・WINGED WONDERS THE Story of Flying Wings、1983、 National Air & Space MuseumE. T. Wooldridge
  ・昭和の日本航空意外史、鈴木五郎、1993、グリーンアロー出版社
  ・日本軍用航空戦全史(第五巻)、秋元 実、1995、グリーンアロー出版社

 使用した写真は、『航空技術』からのものです。



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