〜〜 本をめぐるモノローグ 〜〜
LAST UPDATE 2003.1.1

著作権保護期間延長反対


本の現在

 電子本というものにかかわるようになり、電子本と呼ばれる本をたくさん読むようになっても、紙の本は、相変わらず読む。人が本を読まなくなったと言われてから久しいのに、自分はなぜこんなに本を読むのだろうといぶかしみつつ、年末年始が近づいたりすると、さて読書だとばかりに、いつもにも増して、本を買い込んでしまう。ここ最近、年末恒例となったのが、塩野七生『ローマ人の物語』。年末年始の休みにゆっくり読もうとして買うけれど、つい読み始めてしまい、年を越す頃には、読み終わってしまっているのも恒例。
 『ローマ人の物語』よりも少し前、同じ著者の別の本が出て、当然のことながら、これも買ってきた。普通なら、塩野七生の本ともなれば、買って帰ると早速読み始め、ひたすら読む。だから、『ローマ人の物語』を買う頃には、とっくに読了しているはずだ。しかしながら、この本に限っては、なんとなく読む気になれず、いっこうに進まない。『ローマ人の物語』を読み終わっても、この勢いで引き続いて読もう、という気にならない。それどころか、買うときにも、かなり躊躇してしまったのだった。
 この本は、B5版、横組である。横組なのはいいとして、横三段組で、段の間に線が入っている。一行の文字数は13文字で、新聞並み。ひと目見たときの印象は、「何なんだこれは」。これでは、文章がひとつながりのものとして頭に入ってこない。そして、いわゆる「ビジュアル版」であるらしく、横三段組、13文字のそこここに、図や写真が入っている。説明図や遺跡の写真はともかくとして、内容には全く関係のない、現代のローマの街頭とおぼしき大判の写真がやたらと挿入してあり、思考の流れが分断される。ふたたび「何なんだこれは」。見るだけで食欲ならぬ読書欲が減退し、読書は、いっこうにはかどらないのである。世の中の普通の人は、こういうのを読みやすいと感じるのだろうか。
 げんなりしながら版面を眺めていて、ふと考えた。これって、もしかすると、ケータイ電話の画面なのじゃないか。
 人が本を読まなくなったというけれど、文字を読まなくなった、というわけではない。みなさん四六時中ケータイ電話を握りしめ、メールを読み、メールを打つ。ケータイメールというものに全く興味がなく、メールといえばパソコンに限ると考えている人間は、かなりの少数派に属しているのだろう。ワープロやパソコンの普及で、手書きの手紙が隅に押しやられてから何年かが過ぎ、いまや「パソコンメール派」は、ケータイメール派によって、かつての手書き派と同様、隅に押しやられつつあるのかもしれない。
 そういうケータイメールの時代に、人の「読む」という行為は、どうやら、ケータイ電話の画面に近づきつつあるらしい。
 いまどきの文庫本は、やたらに文字が大きくなり、1ページにおさまる文字数が減り、紙いっぱいに文字が締まりなく並んでいるという印象が強くなった。版面のバランスが悪くて、美しくないのだ。最近、文庫本を手にとって、買おうかと思ってひらくと、買う気が失せることが多くなってきた。自分が買う本の中で、ハードカバーの占める割合が大きくなりつつあるのは、文庫本のラインナップが雑誌的になったことに加え、自分にとって読みやすくない、という要素があるからなのだろう。ここでも、パソコンメール派は、ケータイメール派に押しのけられる。
 人が「読む」ものが、たとえば起承転結のある文章ではなく、細切れの「情報」だけ、という時代になってきたのだとすれば、本が紙だとかデジタルだとかいう次元を超えて、人間は、かつてない時代を迎えようとしているのだ。行が長いと頭に入らず、筋道のある長い文章だと流れについていけず、1行13文字くらいの横組で、ところどころに写真が入ったりしている、断片的な文章が読みやすいのだとしたら、たしかに、これまでの「本」が読まれなくなるのも無理はないかもしれない。一億総ケータイ化現象なんて、本読みや本書きにとっては、洒落にもならないではないか。紙がデジタルになったという「器」の問題どころではなく、本の作り方や文章の書き方がこれからどうなっていくのやら、見当もつかない時代になったということなのだから。
 本は、紙からデジタルに流出し、それとともに、「情報」の断片と化しつつある。この「ケータイ化現象」を救うのは、ケータイ電話の画面が高解像度になって、1行や1画面の文字数が増えてくることだったりすると、これはもう、洒落にならないを通り越して、悪い冗談としか言いようがないのだけれど。 (2003-01-01)


カーテンコールは届かない

 
 2002年6月30日20時、横浜でワールドカップの決勝戦がはじまるのと入れ違いに、丸善広島本通り店が閉店した。1961(昭和36)年に広島出張所から昇格したのだそうで、約40年の歴史の幕を閉じたことになる。丸善のホームページによれば、近年の流通業の大型化傾向に伴い、店舗スペースに限界があって、顧客ニーズに応えられなくなったとのことだ。
 それにしても、顧客ニーズとは、いったい何なのだろう。雑誌とコミックと文庫本の新刊ばかりが幅をきかす書店がひしめく中、本通りの丸善は、近頃は少しばかり金太郎飴になりかけている傾向はあったけれど、それでもやはり、大人が歩くにふさわしい書店だった。コミック売場がない代わりに、洋書の売場があり、専門書の売場がしっかりしている、数少ない書店でもあった。
 丸善とのつきあいは、日曜日が店休日だった頃からだ。その後、時代の波にのまれて、本通りの店休日にあわせて水曜日定休となり、年中無休となり、営業時間も次第に延びて、午後8時までとなった。かつては晶文社の翻訳文学書がずらっと並んでいたりして壮観だったけれど、いつしかそのコーナーは果てしなく縮小され、それにつれて、店内が明るくなった。かつての面影を知る者は、ずいぶん俗っぽくなったものだと思うのだが、それでも周囲の書店に比べれば、大人の雰囲気を保ち続けていたものだ。おそらく、それが時代に合わないということなのだろうけれど。
 本好きの頭の中には、書店マップがある。少なくとも、私の頭の中にはある。「この傾向の本なら、この書店」といった具合に。そうやって、ニーズに応じて、最初に探しに行く書店を決める。たいていは、求める本が、その1軒で見つかるのだ。しかるに近頃、その書店マップが意味をなさなくなってきた。どこも同じような品揃えで、出版社ごとの文庫本や新書の比率までもが、同じような感じ。それに比例して、欲しい本が、どこに行っても見つからない確率が高くなる。
 そして、またひとつ、書店マップから店が消えた。
 6月30日の広島は、雨が一日中降り続けたせいもあり、ワールドカップ決勝戦の影響もあるのか、20時には、店内はひっそりとしていた。閉店時刻を告げるアナウンスの終わりに、「またのお越しをお待ちしています」は、もうない。
 地元のテレビ局がカメラを構える前で、店長以下の店員たちが、店の入り口に、ずらりと一列に並ぶ。お辞儀をする彼らの頭上から、スルスルとシャッターが下りる。ちょうど、舞台の幕が下りるのと同じように。
 私とって、この日は、横浜でブラジルがドイツに勝った日ではなく、広島で40年続いた書店が幕を下ろした日として、記憶に残ることだろう。 (2002-06-30)
 


LUNA CAT -- Atsuko Fujimoto --

 
 本を読んでいない時には、会社員として生計を立てている。汎用コンピュータのシステム開発という、古式ゆかしいコンピュータの仕事。
 何の巡り合わせか、西暦2000年問題という、1000年に一度の問題に出くわす星のもとに生きることになった。2000年の1月1日が過ぎ、これからも少しずつ、コンピュータが我々に残した宿題を解きながら、この仕事を続けていくことになりそうだ。

 文学部を卒業してから十数年。文学には縁もゆかりもない職業に就き、収入のかなりの部分を本にそそぎ込んでいる。もしかして、本を読むために働いているのかもしれない。
 紙の本のヘビーユーザである私が、ある日、幸か不幸か電子本に出会ってしまった。私にとって、「本」というキーワードは誘惑が強すぎる。いつしか電子本に関わり始め、いつのまにか、こんなところにいる。

atsuko_f@mvf.biglobe.ne.jp

電子本をめぐるモノローグ 2000.11.3 更新

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