第5章 筋ジストロフィーの合併症の治療


1.呼吸不全の治療

 はじめに
 筋ジスは筋力がどんどん低下し,下腿三頭筋(ふくろはぎ)のように一時的に肥大する筋肉はありますが,ほぼすべての筋肉が止まることなく痩せ衰えていく病気です.四肢筋のみならず呼吸をつかさどる呼吸筋や心筋も侵されますので,末期になりますと呼吸不全,心不全,あるいはその両者のいずれかの病像を呈することになります.したがって,呼吸不全や心不全の治療が末期の医療的ケアの中心になります.


(1)筋ジストロフィーの呼吸不全の本態
 まず,筋ジスの呼吸不全がどうして生じるか,についてもう少し説明しておきましょう.
 筋ジス患者では肋間筋や横隔膜の筋力が進行性に低下し,そのために胸郭の拡張が不十分となり,充分,大気を吸うことができなくなり,そのため気道の最も末梢の肺胞での換気(大気中の酸素を取り入れ,二酸化炭素を大気中に排出すること)が充分にできなくなり,呼吸不全に陥るのです.肺胞での低換気は,動脈血の炭酸ガス分圧(PaCO2 )が上昇,酸素分圧(PaO2 )が下降させ,身体各所の組織呼吸が障害し,生命の危機につながります.


(2)呼吸不全の症状
 通常,筋ジスの呼吸不全は徐々に進行する慢性呼吸不全ですので,対策を立てる時間的余裕があります.しかし肺炎など気道感染症を併発しますと,急性増悪の状態となり,PaO2の下降が著明となり意識障害も現われますので,適切かつ迅速な呼吸管理が必要になります.脊椎や胸郭の著しい変形や栄養状態の悪化は呼吸不全の増悪因子です.
 呼吸不全の症状として,まず,朝の覚醒が悪い,早朝時の頭重感,頭痛,全身倦怠感や顔色不良などの症状があらわれます.朝に症状が現われるのは,睡眠中は呼吸が浅かったり,無呼吸のことがあり換気が日中に比べて悪いからです.さらに呼吸状態が悪化しますと,早朝のみならず日中でも口唇や爪のチアノーゼ,舟漕ぎ呼吸(頭を前後に振りながら呼吸する),鼻翼呼吸や下顎呼吸が観察されます.もちろん,冷汗,頻脈,よだれ,食欲不振,胃部不快感,急性胃拡張,排尿・排便困難など多彩な症状もみられます.


(3)呼吸不全治療を始める前に
 人工呼吸器などを使用して積極的な呼吸不全治療を実施する場合,医師は予め患者や家族にからインフォームド・コンセント(説明と承諾)を得ておくことが必要です.説明すべき項目は,
1)呼吸管理は生命維持のため必要であるが,原疾患の筋ジストロフィーは根治しないこと,
2)呼吸管理を実施しない場合の予後と呼吸管理の長期予後,
3)呼吸管理後の生活・行動の範囲,
4)在宅人工呼吸療法を可能する条件,
などです.患者や家族の皆さんは担当医の説明をよく聞いて呼吸管理の実施の是非を決定して下さい.通常,呼吸管理実施の承諾は,承諾能力がある患者なら本人が,承諾能力がない患者なら法定代理人(親権者,後見人)など代諾権者が行います(イギリスでは成人より2歳下の患者の医療に関する承諾は,成人とそれと同様に扱われます).


(4)呼吸不全治療をいつから実施するか
 筋ジス慢性呼吸不全の場合,PaO2 が下降,PaCO2 が上昇して両者がほぼ等しくなるのは65Torr前後です.この時期から人工呼吸器を用いて積極的な呼吸管理を実施されないと,筋ジスの代表的病型であるデュシェンヌ型患者は平均6カ月で死亡することになるようです.
 人工呼吸器装着の開始は,日中PaCO2 が60Torr以上に上昇した時とする.使用される人工呼吸器には陽圧式人工呼吸器(閉鎖式人工呼吸器)と陰圧式人工呼吸器(体外式人工呼吸器)がある.繁用されるのは前者で,鼻マスクや口マスク,気管切開カニュ−レを介して患者と連結され,患者に一定の圧で医療ガスを送ったり(従圧式),あるいは一定量の医療ガスを送ったりする(従量式).後者は半世紀前,アメリカでポリオ後遺症の呼吸障害に対する機器として開発され,患者への精神的打撃が少なく導入しやすいという理由で,約10年前から本邦の筋ジス患者にも用いられていますが,換気効率が劣っており延命効果は不十分であると言われています.しかし,中には装着後10年以上生存している患者もいますので捨てがたい人工呼吸器です.
 なお,人工呼吸器装着の開始時期や使用する人工呼吸器については,各施設で異なっていますので,詳細は担当医にお尋ねして下さい.
 ここでは刀根山病院の治療方針を述べます.日中PaCO2 が60Torr以上に上昇した時,まず鼻マスクによる間歇性陽圧換気(Nasal mask intermittent positive pressure ventilation,NIPPV)を行います.気道感染症による痰増量や誤嚥などでNIPPVの効果が充分でない時は,気管内挿管を施行しNIPPVよりも換気効率の良いTIPPV(Tracheal intermittent positive pressure ventilation)に変更します.TIPPVで呼吸状態が改善したら抜管してNIPPVに戻すことになります.NIPPVに戻して再び状態が悪化するようであれば,最終手段として気管切開を考慮します.NIPPVに対する理解が得られない患者さんでは,気管内挿管ついで気管切開へと進めていくこともあります.
 体外式人工呼吸器,気管切開・閉鎖式人工呼吸器による管理,NIPPVによる管理については,次項以降に詳しく説明されますので,大いに参考にして下さい.


(5)筋ジストロフィーの在宅人工呼吸療法の現状
 1996年1月1日までに18国立療養所は筋ジス患者112名に在宅人工呼吸療法を行っています(生存例94名).刀根山病院では,1992年5月から筋ジス患者を対象に在宅人工呼吸療法を実施しており,1996年1月1日現在16名を数えています.
 当院では在宅人工呼吸療法を開始するあたり,患者は担当医の同意を得て,病院長の承認を受けることになっています.病状安定し,退院を希望する患者さんの家族の方は,医師や看護婦から呼吸不全に関する知識の獲得,呼吸器の操作,緊急時の対応などに関する指導を受け,実習を繰り返し退院に備えることになります.
 在宅で使用する人工呼吸器は,家庭電源,内臓バッテリー,外部バッテリーで作動する携帯式人工呼吸器であることが多く,医療機関が保険診療に基づき業者からレンタルして患者に貸し出されます.


(姜  進)

   

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