森信三先生をして、「明治以後のわが国の教育界おける『100年一出』の巨人」、「超凡破格の教育者」と言わしめた人物。それは、熊本の小学校教師、徳永康起であった。
徳永先生は、36才の時(昭和22年)校長を拝命するのですが、在任5年にして、自ら願い出て、平教員に降格してもらった。という人物です。
徳永先生は、毎朝3時に起床され、教え子にハガキを書かれました。
徳永先生は、森先生に師事しておりましたが、森先生がある時、「あなたは、実にいいハガキを書かれる。複写にして残しなさい」と徳永先生に指導されたが、徳永先生は、「嫌です。」と受け入れなかった。ある日、徳永先生の修学旅行先(京都)の旅館に森先生が突然訪ねて来られ、
「あれだけいってもまだ判らぬのですか!!」とお叱りになった。
さすがの徳永先生も観念されて、ハガキを複写にするようになった。
(このエピソードは私が、学生時代、寺田清一さんから直接聞いたものです)
かくして、徳永先生のハガキは後世に残ることとなった。それ以後没するまで、十有二年。その数、約二万三千通。
徳永先生は、ハガキだけでなく、当時ガリ版による学級通信『天意』を毎月発行され、没後間もなき日から、“鉄筆の行者”さらには“鉄筆の聖者”と呼ばれるようになったそうです。
昭和54年6月29日、徳永先生はついに逝去された。享年68歳。地元熊本日日新聞は、この一教師のために、三段抜きで徳永先生の逝去を大々的に報道した。校長でもない、一退職教師の死に対して、このような破格の扱いをしたという例は、戦後おそらく空前絶後のことであろう。《『徳永康起先生の人と教育』p.27より作成》
(2)徳永先生のエピソード (東井義雄著 『拝まない者もおがまれている』より)
(3)徳永先生の石碑 (広島県三瀧寺の参道)