■◇■ ある理不尽の肖像 ■■■■

 --- すべてのカナコファンに捧ぐ ---

▽ 秋の夜長に:(2000/10/24)

 秋の夜は長い。
 心地よい静けさと虫の調べに耳を傾け、今し方大きな檜風呂からあがったばかりの火照った体を夜風に晒しながら女はグラスに少し口をつけた。
 浴衣が少し大きめなのが気に入らないが、料理もお風呂も概ね満足できるものだった。職場のひとたちと旅行なんてどれほどつまらないだろうかと随分嫌がっていたが、思ったよりもずっと素敵な旅だった。普段は見られない課長の失態を見ることができたし、京の散歩道で後輩の男の子におごってもらったみたらし団子もおいしかった。これで文句なんて言ったら普通ならば罰が当たるというものだ。
 「カナコさん、あっちでトランプやってますよー。行きませんか?」
 男は自分のグラスにビールを注ぎながら、女を振り返ってそう声を掛けた。持ち上げた黒い髪が艶やかに月の光を返し、その時男は彼女が和装も似合うということに初めて気が付いた。

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 秋の京都はただそれだけで趣のある風景だった。都心を離れ、秋の慰労バスツアー一同は疲れを癒すどころか仕事中よりもずっと精力的に動き回った。金閣、銀閣、清水、名の知れた観光所はくまなく歩き、一泊二日という短い小旅行にしては恐るべき行動力を持って京都の街を闊歩した。
 我が職場の慰労バスツアーは毎年秋頃に企画される。たいていは入社したての歳の若い社員が企画幹事長というたいそうな肩書きをいただいて、課内15人からの複雑な要望(とはいえ、主に課長の意向である)をまとめ、その日程等を決めるのだ。もちろん、右も左もわからない新入社員だったその年、僕も例外なくこの重大な任務を預かることになったのである。
 僕の職場に何年も居座るお局アルバイター宮下加奈子は僕の天敵である。齢29にして、年下の男の子(主に僕とその財布)を我が物顔でこき使う末恐ろしい娘である。その堂々たるキングぶり、ある時は無理矢理食事に連れて行かれその代金を支払わされたり、またある時は奴隷のように僕を連れ回したりするほどである。
 通称カナコの僕に対するそのおそるべき理不尽な言動のほとんどは、ただ自分の思うがまま、欲するがままに僕を縛り付けようというだけでなく、ジャイアン法則よろしく、僕と僕のお金を自分の所有物とさえ思っている節すら感じさせるものである。もちろんこの慰労ツアーに際しても、彼女はツアーの企画幹事長である僕に執拗なほど細かく注文を付けてきた。以下はカナコがメールでよこした幾つかの我が侭である。

 ・行き先はなるべく近場にすること。温泉に入りたい!
 ・宴会の時、課長の横には座らせないこと。
 ・宴会ではお酒をついで回らない。
 ・バスの座席は一番前にすること。
 ・ゴルフなどはしない。
 ・参加する代わりに幹事長はアタシをディナーに招待すること。

 最後のひとつを除いた要求は理解ができる。しかし最後のひとつだけはどうにも理解ができない。本当なら参加したくないが、ディナーに招待してくれるのなら行っても良い、ということだろうか。しかし確かにカナコは最初からこのツアーには消極的であったが、それを言うなら僕も同じなのである。そもそもエライひとたちのご機嫌をとるための旅行なんてお金を払ってまで行きたいと思っている若者などひとりたりともいるはずがない。にもかかわらずカナコは僕に、行きたくないもない旅行について行くのだからと言って、報酬を求めるのである。しかもカナコの場合アルバイト職員という理由で旅行貯金は我々の半額で済んでいるにもかかわらず、である。
 だがここでカナコを怒らせるわけにはいかない。機嫌を損ねれば「じゃ、行かない。」と言うに決まっている。企画幹事長としては、できるだけたくさんの犠牲者、じゃなくて参加者、を募りたい故、穏便に穏便にやり過ごさねばならない。
 これらのたくさんの約束事に対し、僕はすべて了解しましたとカナコに告げ、苦々しく思いながら(特に最後の一行に)も大きく頷いた。実はその時点ではカナコの約束に反するゴルフ案も出ていたのだがそれだけはどうしても言えなかった。そんなことを告げればどうなるかなど誰の目にも明かである。

 宴会を終え、一風呂浴びたカナコの部屋。僕はほぼ無理矢理カナコの酒に付き合わされていたのだが、仕事やカナコの彼氏に関する愚痴を聞き続けることにほとほとうんざりしていたので話の合間を見てカナちゃんをトランプに誘った。本当はカナちゃんに呼ばれる前に、後輩の坂田くんにトランプしませんか、と誘われていたのだ。カナちゃんがアタシの部屋に来いというので仕方なく坂田くんには後で行くと告げてカナコの部屋で飲んでいたわけだが、さすがにいつまでも愚痴に付き合うのは得策でないと判断したのである。
 しかし、皆でトランプをしませんか、という僕の誘いにカナコはやる気のなさそうな声で言った。
 「アタシ行かない。」
 「え。でもみんな隣の部屋に集まってますよ。」
 「だからナニ?」(テンポはやすぎ、もうぴくついてる)
 「ってか、その。せっかくだから……。」
 「浴衣着ちゃったからなの。」
 「そ、そーですか。じゃ、じゃあ僕だけでも行ってこよっかな。」
 「アタシにひとりでテレビ見てろってこと!?」(意味不明!!)
 「で、でも、ホラ、その。僕もみんなで…。」
 「アタシの話なんて聞けないっていうの?悲しいわ、そんな子に育てた覚えないのに。」(理不尽ゾーンに足を踏み入れた)
 「(俺も育てられた覚えはないけど)そういうわけじゃ…。」
 「(Trurururu)あ、電話。!!彼からだ!!ちょっと電話するから、待ってなさいよ。あっち行ったら怒るからね。」(もう怒ってるくせに)
 「…なんで俺が待ってなきゃ…。」
 まったくこの娘だけは生かしておいて良いことなどナニもない。次から次へと無理難題をふっかけるあたり、将軍様と桔梗屋のソレとかぶるところがある。切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだ。
 自分がやりたくないことになると意地でもやらないし、それだけならまだしもそういう時は必ず僕も巻き添えにする。だいいち彼氏と電話するにしろ、テレビを見るにしろ、僕はまったく関係ないではないか。
 こういう風に書くと、カナちゃんは僕を気に入っていると誤解されそうだが真実はそうではない。僕とカナコの間にあるのは常にセンパイとコウハイの関係なのである。断じて気に入る気に入られるの関係ではない。ここで重要なのは正社員とかアルバイトとかそういう問題は無視されていることだ。単に歳上で長いこと働いているので僕はカナコに奴隷のように使われているというだけのことなのだ。
 しかし僕とてこのままカナコごときの小間使いに甘んじるつもりはない。慰労バスツアー企画幹事長の名にかけて、いつまでもカナコの相手をしているわけにはいかないのである。いやむしろ相手にしたくない。できれば今すぐにでも声をあげて逃げ出したい気分である。
 僕は覚悟を決めると、カナコが電話をしているのを横目にトイレに行くフリをしながらさりげなく部屋を出て、皆の待つ隣の部屋へ移った。隣室は「大富豪」というトランプゲームが行われている最中だった。僕はちょうど入り口付近にいた美砂ちゃんのうしろからカードを覗き込みながら、どう?と声をかけた。
 「ぼちぼち〜。あ、そういえばカナコさんは?」
 「なんか電話してたみたい。」
 僕はそう応えて、美砂ちゃんの横に座り込んだ。美砂ちゃんも職場ではセンパイにあたるが、カナコと違って年下なので話もしやすい。カナコもある意味話はしやすいが、それはあくまで同等でなく上下関係の厳しい間柄なのである。とにかく僕と美砂ちゃんはしばらくの間ふたりグループで「大富豪」に参加していた。これぞ慰安旅行という雰囲気である。トランプゲームというものは、何故かこういう場によく合う。5,6人でわいわいとやるには丁度いい遊びなのだ。
 しかしその安らぎの時はあまり長くは続かなかった。僕がその部屋に入って20分程たったろうか。突然、僕の背後の襖がガラリと開いた。僕はカードを持ったまま硬直した。背後に立っているのが誰であるか、うしろなど見ずともはっきりとわかる。ヤツだ。僕の平穏と幸福を乱す暗黒の使者はいつも決まってヤツなのだ。
 「幹事長さん、ちょっといい?」(黒魔法使いっぽく)
 「は、はいぃぃ。なんでしょうか。」(ヘビににらまれたカエルっぽく)
 背筋の凍るような囁きに、何故か両手をあげて無抵抗を示しながら僕はゆっくりと振り返った。ぞくぞくと悪寒が走る。幹事長もかんじちゃう恐怖の囁き、僕はその声に導かれるようにその場を立ち、持っていたカードを美砂ちゃんに預けると使者の後について再び元の部屋に戻った。

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 嘆きの門をくぐり、男は女の元へ戻った。同僚たちの笑い声が遙か遠くから聞こえる。女の部屋の入り口を抜けるとき、男はどこからか暗い声を聞いた。
 我を通る者、一切の希望を捨てよ。
 女の顔にもはや笑顔はなかった。つい先刻までの作り笑顔すらすっかり消えていた。机の上に転がる携帯電話と8分目までビールの残ったグラスが、恨めしそうに男を睨み付け、女はそのグラスになみなみとビールをつぎ足すと、男にすすめた。
 男はそれを飲むほかなかった。ぬるくなったビールが咽をとおらずに口に残る。コクリと大きな音を立ててそれを無理矢理流し込み、なるべく視線はあげぬよう気を配りながらグラスを机に置いた。女はそれを見て再びビールを注ぐ。そして樹海のような深いまなざしで男を見据えた。永遠とも思える長い沈黙を終わらせたのは女だった。
 「楽しそうだったわねぇ、ず・い・ぶ・ん・と。」
 声を荒げたのは怒っていたからではない。これから楽しい夜が始まると思うと押さえきれない喜びが体中を駆け巡ったからだ。今宵の宴はさぞ楽しいものになるだろう。
 男は諦めたようにうなだれた。同じフロアの一番奥にあるスナックから上機嫌なカラオケの声が聞こえる。隣室で騒ぐ声も旅の夜らしく徐々に大きくなり、最高潮に向けて更に盛り上がろうとしている。
 夜はまだ続く。

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