--- すべてのカナコファンに捧ぐ ---
▽ 堕落と奇蹟:(2004/11/11)
そう言えば、僕が過労で抑鬱状態に陥ってたころ、一度だけカナコに食事をおごってもらったことがあった。その頃僕は、仕事にもいかずに家でまったくなにもせずボーッとしたり、ゴロゴロしたり、本を読んだり、時に気分が良いとパチンコしたり、といったような今思えば世にも素晴らしい、快適な暮らしを送っていた。
しかも携帯電話の着信とかメールの着信とか、とにかくその類の電子音が死ぬほど怖くて、携帯は常にマナーモードで、身から遠ざけていたので、外部からの僕への連絡手段は完璧に遮断されていて、なんぴとたりとも僕を呼ぶことなんかできない状態であった。
にも関わらず、カナコは僕の携帯を何度もコールし続けていたようで、まったく執念深いというか、しつこいというか、うざいというか、そのガッツをどこか別の方向へ向ければ大成するんじゃないかと思う次第である。たまたま携帯メールとか着信とかをチェックするために携帯を触っているその瞬間を狙われたのだ。
ところが、いざその電話を受けてみるとその用件というのが、僕へのわずかな情をみせて、おごってやるから食事にでもでかけようというものであった。正直、カナコの着信を受けるか否かの選択はかなり迷った。ただでさえ気力が失せている時分である。それに拍車をかけかねないコールを受けるなどという行為は、自殺行為に等しい。下痢で苦しんでいるときに正露丸と下剤を間違って服用するようなものである。しかしながら、僕はむしろ自虐的にその電話を受けた。観念したわけではないが、マイナスベクトルを望む心境ゆえの条件反射に近い感じだと思う。
「…はい。」
「あ、こんにちは。あたしだけどー。」
「…はい。」
「なんか調子が悪くて休んでるってきいて、電話してあげたんだけど。優しいでしょ?どう?調子は?」(ひとことふたこと余分です)
「えーと、さっきまではよかったんですが…。」
「どういう意味?」
「…ごめんなさい。」
「ずっとなにしてるの?」
「…なにもしてません。」
「それじゃ体に毒でしょ。おごってあげるから食事でもどう?」
「…ありえませんよね。。」
「なにが?」
「…それじゃオチつきませんしね。。」
「なに?」
「あいや、こっちの話です。。」
「とにかく、一度こっちに来なさい。話でもして気を紛らわせないと。」
気分転換なんて無理矢理させてくれなくてもいいのに、と思いつつも、半ば強引に誘われて仕方なくOKした僕は、でもやっぱりちゃんと心配してくれてるんだな、と若干ながらカナコの母性本能をうれしく感じていた。
そう、奇蹟は起きたのだ。長く彼女の人生の修正を施していた僕にとっては、ひな鳥が巣を飛び立つのを見守る気分だ。激しくねじれあがった彼女の根性と従う者を震え上がらせるその理不尽ぷりを、僕はなんとかまっすぐにしようと血を流すような努力をしてきた。それが今報われたのだと思った。彼女の人生はもう下り坂に差し掛かってはいるが、ひとなみの人生を歩むにはまだ遅すぎるということはない。肌の曲がり角はとうに過ぎてしまったが、フツーの神経を持ち合わせるに手遅れということはない。そう、彼女はようやく一般人並のひとを思いやる心を手に入れたのだ。
いまさら言うまでもないが、当然、このケースでは僕に店を決める権利がある。
「なに食べたい?」
「じゃ焼き肉食べたいです。」
「アタシそれイヤ。」
「体重がこの一ヶ月で10キロ落ちたので戻したいです。」
「アタシはイヤ。」
「焼き肉喰ったら気力が充実しそうです。」
「パスタにしましょう。決定!」
いや、アンタ最初から僕に聞く必要ないですから。
金額の話を出すのはあまりに野暮だが、カルボナーラ 670 円とそれまでに僕が費やしてきた金額を比較しようとはいくらなんでもひどくないか。気は心とはいう。だがカナコはかつて僕に、「クリスマスのプレゼントに望むものの金額に関する論争」の時にこう言った。
「気持ちがあれば、贈り物の金額は大きくなるものよ。」
ではカナコよ。
おまえの気持ちはカルボナーラ級か。
670 円相当か。
季節のスープすらつかないのか。
病気で倒れたかつての戦友に対しての想いは、隣の貧乏学生の「和風たらこスパ:780 円」に劣るというのか!
仕方なく、食後のコーヒーも頼まずに、お冷やのおかわりを頼んだ僕は、それでもなお大人のほほえみをつくりつつ、カナコにごちそうさまを言った。いろんなことを考え過ぎさえしなければ、それはそれで彼女の厚意である。感謝せねばなるまい。
だが、こんな調子ではカナコの調教はまだしばらく続こう。コークスクリューのように複雑にねじ曲がった根性を矯正するには、やはりまだ時間が足らなかったのだ。彼女の人生そのものが手遅れになる前に、僕はその過酷な任務を終える必要がある。それこそが神が僕をカナコに出会わせた唯一の理由である。
しばらく息をひそめ、僕はそのため力を蓄えねばならない。
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