▽ 雑 文 

#006 日本語とはいかに。 1998/7/1(2001/8/15改訂)

 乱文がとびかうホームページ群ではあるが、ときに「ややこれこそが雑文」という文章にお目にかかるときがある。無論、それらの文に比べれば我が輩のかく文章など稚拙にして、乱雑。文章と呼ぶにはおこがましく、あえていうなら単なる文字列である。

 この手のエッセイの真似事みたいな文章を定期的に書いているヒトであればわかると思うが、これくらいの長さの文章でも定期的に書くとなると、けっこう大変なのである。最初の5回くらいまでは、あらかじめ書きたいネタというのを持っておるので、すいすい書けるものだが、10回、20回と重ねる毎にだんだんとネタがなくなっていき、更新が滞りがちになる。

 しかし誰かが読んでくれている(かも)というのが心の支えになり、なんとかがんばって次を書こうとする。が、所詮は素人芸、なかなかひとをひきつけるような文章というのが書けるわけでもなく、あくまで趣味の範囲でやっているわけだから時間のすべてをこれにかけるわけにもいかない。結果乱文飛び交うホームページの群の一部になりさがってしまうわけだ。

 昨今の教育事情ではとりわけ理系大学の台所事情では、ヨーロッパ系の言語に重きがおかれ、むしろ日本語教育というのは割合ないがしろにされがちである。日本語くらいいつでも書けるわい。と一言で片づけようとするには少々難しい問題である。書ける、しゃべる、理解できる。と、思っている輩の中にも結構な確率で実際日本語の日の字も知らぬ者がいるようである。

 某大学教授の話では、最近の学生は小学生程度の作文も書けないらしい。大学生が。である。本来大学のような高等教育機関に籍を置く学生は、基礎教育はもちろんある程度の専門分野に通じていて当たり前なのに、である。これらの学生は英語、ドイツ語をはじめとするヨーロッパ系の言語をたいていは2カ国について学んでいる。が、こと母国語ともなると、あえて勉強する学生など皆無である。もちろん母国の言語を研究する者や我が日本の歴史を研究する者などは、否が応でも学ばねばならぬのでこの例からは除外するが、それにしても次世紀の世界を担う者たちが日本語教育をきちんと受けていないのである。

 口語的表現を正規表現として受け止めて行かねばならぬ。という方向性ももちろんある。あるにはあるがしかし、これにも限度があるではないか。いわゆる「ら抜き言葉」ごときに目くじらをたてている場合ではない。この程度は日常茶飯事。てゆーか本文中で我が輩も多用していることだろう。(笑)

 いかに学生たちの日本語ができぬかという具体例はあえて出さぬが、何故文章が書けなくなるかというプロセスを追ってみよう。それほどムズカシイ話ではない。たんなる活字離れが問題なのだ。本を読まぬ。これにつきる。テレビが発達し、映像という新しい伝達手段は我々から文字を遠ざけた。マンガすら読まぬ子どもがふえた。ゲームばかりする子どもが増えた。それがいけないわけではないが、少なくとも活字離れの1要因であることには間違いないだろうと思う。

 以前、マンガをもっと読ませなさい。というようなことを書いたが、これはもっと活字に慣れろということである。絵を見て、言葉を聞き、文字を読む。五感を用いたあらゆる要素を偏りなく、鍛え上げることが本来あるべき姿である。日本語とは、活字を読むことでスキルもあがるものだ。逆に言えば、活字を読まねばいつまでたっても小学生レベルの日本語でしかないのだ。日常の会話からのみ日本語を鍛えることは不可能である。多くの日本語にふれあい、あらゆるケースでの語彙を増やすことによって我々の日本語はより高きへ登って行くであろう。

 乱文飛び交うホームページ群である。しかしこの乱文を我慢して読み進めることによってより優れた日本語を体得し、またそうすることによってこの事件簿のような稚拙な文章ですら楽しくよめるようになるはずなのだ。

 ほれ。この文章読んでつまらんと思ったあんた。このページがおもしろくないと思うのは、我が輩の文章がおもしろくないのではなくて、あんたの日本語能力がたりないのである。不平・不満のメールを出す前におもしろく読む努力をしては見ないか??少々強引にオチをつけて今回はこれにて一件落着。

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