#019 それは夕立のように。 1999/6/25(2001/8/18改訂)
それはいつもいきなりやってくる。たんたんと繰り返される日常の中で、厳密にはその予兆と呼ばれるものがあるのかもしれないが、たいていの人は情報化社会というある種宗教めいたネットワークが与えてくれる情報過多におどらされて、微かな変化に気づかぬものなのだ。
その日も彼は、いつものようにいつもの時間に目を覚ました。
夜に降り出した雨がまだ降り続いているようだ。窓を流れる水滴に視線を移すと、不快そうにちっとひとつ舌打ちをして、ぼさぼさの寝癖頭をかきむしりながら布団を出た。6月の憂鬱な湿度がいやになるほど体にまとわりついて、またちっと舌をうつ。教育をする立場の人間とはいえど、教壇の前にたっていなければただのヒトだ。あれほど教え子たちには、憂鬱そうな顔をするな。前向きに生きろ。と毎日のようにどなりつけていても、ただのヒトである今はとても実践できそうもない。
だらだらと緊張感のないまま身支度を整えると、コーヒーメーカに水を注ぎ、スイッチを入れる。こうして昨日のコピーのような一日が始まるはずだった。だが、鳴り響いた電話がそのいやな安堵感を断ち切った。
「事故?自殺?わかった。すぐいく。」
1年前の記憶はまだ消えていない。いつもそうだ。こんなことが3度も起こるものなのか。何十年かで積み上げた人生論をひっくり返した2度の悲しみは彼をいつのまにかオトナにしていた。前向きに生きろとはいうが、死を意識しない日はない。たんたんと続く毎日がどれほど重要なのか今さら口にするほどのことじゃない。辛い日も悲しい日もこれから永遠に消えることのない胸の痛みに負けそうになる日だってある。彼ですらそんないらぬものを背負いながら、ただいたずらに過ぎていく時間を飲み込もうとしているのだ。
教え子が校舎から飛び降りるのはこれで3度目だ。明日を担う若者がなにを憂うか?俺がこうして生きているのに何故おまえらが死ななければいけないのか。と、彼は言う。こんな風にして始まる一日が残された者にとってどれほどの悔しさを与えるのか彼らはわかっているのだろうか。誰にも迷惑をかけずに死ぬなどと甘ったれたことを言うやつが彼は嫌いだった。誰にも迷惑をかけずに死ぬなんて土台無理な話だからだ。世間のしがらみを、家族の愛情を、そして多くの友人たちとのかけがえのない時間のすべてを簡単に白紙にもどすなんてことは不可能なのだ。
現場につくと、すでに検証は終わっていた。構内に警察権力が介入するなんてことは滅多にない。いわば治外法権的区域とされているキャンパスにこうして権力が立ち入ると、がぜん騒ぎは大きくなる。飛び降りた学生はすでに救急車で運ばれたようだ。幸か不幸か飛び降りたのは3階の窓から。頭からおちればひとたまりもないが足から落ちたらしい。彼はもしかしたらサイアクの事態はまぬがれることができるかもしれない。とひとつため息をついた。
やがて彼のところにも警察がやってきた。学生の日頃の生活態度や学業に対する意欲など、つまらぬことから関係があるのかどうかすらわからぬことまで聞かれた。ひどく疲れるその威圧的な態度に辟易としながらも丁寧にひとつひとつ答えていくのだった。
ぼんやりと頭にひっかかることはひとつ。「本当に飛び降りたのだろうか。」という事実から目を背けた疑問。あの学生は彼の講義をいつも熱心に聞いていた。前を向け。倒れるときも前のめりだ。という彼の言葉に強くつなづいていた。最近暗そうな顔がつづいていたことに彼は気づいていたが、それでもあの学生ならば、なお強く生きていけるだろうとそう信じていたからだ。確かめよう。確かめよう。彼はそう思った。学生が息を吹き返したなら直接話を聞いてやろう。もしも助かったなら共に涙を流そう。そう思った。
気がつくと彼は病院にいた。学生はすでに目を開けていた。両足を骨折したが意識は戻っていた。「眠っても、眠っても、まだ眠い。」彼に会ったとき、そんなことを学生はまず口にした。いくらかの憂いをいだいてはいたがそれでいて凛とした輝きを放つその両のまなこは決して自ら命を捨てるような生き方を選ぶひとのそれではなかった。自殺ではなかった。3度目の悲しみを彼は背負わなくともよかった。体の傷はこれからじっくりと時間をかけて直せばいい。それは医者の仕事だ。俺は、この学生にまたいろんなことを教えてやらなければいけない。それが俺の仕事だ。俺はこの学生たちに多くを教え、そして彼らを信じる。それが俺の仕事だ。信じてみてよかった。俺が教えたことをこの学生は覚えていてくれた。
学生の話を何時間もかけて聞きながら彼は心からそう思った。生きていて良かった…。
死を否定できない毎日が続こうとも結果として生きていける。それはたくさんの人間のエネルギーが俺を支えてくれているからだ。これからまた俺は書き上げたつもりでいた人生論をもういちど書き直さなければいけない。
やがて憂鬱な雨があがる。体にまとわりつく湿気が病院特有の臭いとまざって、ひどく気分を害される。これからまためんどうな事務処理と退屈な講義が始まるのかと彼はふっと息を吹いた。そして、空を見上げながら憂鬱そうに微笑んで彼はぼそりとひとりごとのようにつぶやいた。
そんなのもちょっとわるくない。