#028 結婚式におけるご祝儀。 1999/9/17(2001/9/11 改訂)
結婚式が重なった。一ヶ月の間に三件というかなり(金銭的に)厳しいスケジュールだ。しかし、いろいろなヒトに話を聞くとどうも、人間こういう風に結婚式や不幸が重なる時期というのは誰にでもあるようだ。ヘタをすると三件なんて生やさしいモノではすまないというから恐ろしい。
単純に披露宴にすべて出ると
「3万円*3=9万円」
という、恐怖の図式が成り立つ。9万円といったら、ハワイ3泊4日旅行に行けるし、液晶ディスプレイが買えるし、1台パソコン組めてしまいそうだし、豪華食事も楽しめそうだし、うげげげげげげ。
イカンイカン。考えていたらノウミソがショートしかかった。
さて、人生において結婚というのがひとつの節目であるのは、今更言うまでもないがこうまで他人を苦しめるような儀式をするのは何か意味があるのだろうか。ご祝儀。ああ、ご祝儀。別に祝ってやりたくないわけではないが実にきつい。恐るべきは義理という得体の知れないモノである。
ワタシは別に先方からご祝儀を3万円だせ。といわれたわけではない。なのに何故ワタシはお金を用意するのか。非常に疑問である。経済学的に考えるならば、人間は常にある選択をする時に無意識のうちにあらゆるパターン中で一番合理的なモノを選ぶということであるが、ここでワタシはご祝儀を持っていかずに披露宴に参加することも可能である。可能であるにもかかわらず、ワタシはご祝儀を厳しい財政状況の中、捻出して持っていくのであるから、
1.財政は安泰だが祝儀を持っていかずに恥ずかしい思いをする。
2.恥ずかしい思いはしないが財政状況がかなり切迫したモノになる。
と、いう2つの要素を天秤に計ったことになる。つまり、1か2かのどちらかの状況を選ぶことを無意識のうちにしているのである。
ワタシは、ご祝儀を持たずに披露宴の受付に行って名前を告げ、通常そこで回収されるべきご祝儀を渡さずに披露宴だけ列席するというやたら非常識な人間のレッテルを貼られることよりも、かなり切迫した現在の自分の財政状況を少し目をつぶってでも3万円を持っていこうというのだ。
しかしこれは、よく考えれば単なる無言の強制ではないだろうか。
上司におしりを触られたOLが、セクハラで上司を訴えるかわりにその後のその会社での将来を捨てるか、ここは我慢して将来をとるといった選択に似ているではないか。言い替えれば披露宴にワタシを呼ぶということは、OLのおしりをなでるに等しい行為なのだ。
繰り返して言う。別にお金が惜しいわけではない。披露宴に出るヒトはみなご祝儀を払わなければいけないという義務感にかられ、ご祝儀を払わずに列席する自由を奪われているというのが気に入らないのだ。断じてお金がないわけでももったいないわけでも生活が苦しいわけでもお祝いしたくないわけでもないのである!!
はぁっ。はぁっ。はぁっ。
ちょっと、気合いを入れすぎて息が切れたようだ。みんなもそう思うだろう。思っていても口に出せないだけだろう。ワタシには痛いほどみんなの気持ちがわかるからかわりにここで、こんな無茶を言っているが、ふと今考えた。
まぁ、多少理不尽ではあるが、こういう儀式的なものも必要であるし、義理というもの大切にしなければいけないのもオトナのワタシとしてはよくわかる話だ。おまけにいつかワタシが結婚するときにはみんなから逆に搾取できるのだから、まぁ結婚さえできれば問題はなくなるわけだ。
そこでワタシは一案思いついた。発表すると真似されるおそれがあるが、こんな妙案を自分一人でほくそ笑んでいるのも気分が悪いのでみんなにも教えてやる。結婚式ご祝儀の奥義とでも言っておこう。それは、
『今から既婚者の友達を増やそう!』
既婚者ならもう出すことはないだろうから、もらうだけもらえるじゃん。こりゃ、名案だ。あ。石を投げないでください。石を投げないでください。