3/9 [INDEX] [PREV] [NEXT]

鳩翁道話

柴田鳩翁 (男 武修 聞書)
(塚本哲三 校訂『心學道話集』〈有朋堂文庫普及版〉 株式會社有朋堂 1945.2.25
※ 原文を目次小見出しに従って適宜段落に区切り、会話・心話には鈎括弧を施した。
※ 漢文は、原文の読み方に従って読み方を付した。

 (正編)  (続編)  (続々編)

 序(手島毅庵)  壹之上  壹之下  貳之上  貳之下  參之上  參之下  跋(前川常営)

[TOP]

參之上


 身を愛する桐梓にしかず
 身贔屓・身勝手
 かし雪隱の話
 孝行な繼子娘の話

[目次]

身を愛する桐梓にしかず

孟子の曰く、「拱把之桐梓、人苟欲之、皆知2以養1之者。至2於身1而不2以養1之者。豈愛身不2桐梓1哉。弗思甚也。」(*拱把きようは桐梓とうし、人苟もこれを生ぜんと欲せば、皆これを養ふゆゑんのものを知る。身に至りて、これを養ふゆゑんのものを知らず。あに身を愛すること桐梓に若かざらんや。思はざるの甚しきなり。)扨此章は前晩の續きにて、孟子また譬を設けて、御示しなされたのでござります。拱とは左右の指をもつて圍みましたるを拱といふ。把とは隻手把かたてにぎりを把と申します。とうとはきりの木、とはあづさの木でござります。畢竟拱把の桐梓とは、わづか一握や二握の、細い小さい樹木うゑきでも、これを育てようとぞんじますれば、必ずこれにこえをし、やしなひをなしてそだつる事を知らぬ人はござりませぬ。故に「人苟欲之、皆知2以養1之者。」(*前出。)と仰られました。サアこゝが入用いりようの所でござります。樹木をそだつる事は、養がなければならぬといふ事を知て居る人が、己が身をやしなふことを知りませぬ。是はどうしたものでござりませうぞ。養ふことを知らねばこそ、明ても暮ても思ひつく事は、「錢がほしい。金がほしい。」「よいものが著たい。うまいものが喰ひたい。」と、得手勝手な事ばかり思ひ附いて、我身の倒るゝをも、我身の害になる事もかまはず、無分別ばかり。是則うゑ木をそだつる事を知て、我身をやしなふ事を知らぬ。かるがゆゑに「至2於身1而不2以養1之者。」(*前出。)と仰られました。ナント人はかしこい樣でも、また愚な所があるものでござります。畢竟「我身を可愛がる樣で、實は可愛がらず、却つてうゑ木を可愛がる事を知つてゐるは、ナント無分別ではない歟。」と、扨こそ「豈愛身不2桐梓1哉。弗思甚也。」(*前出。)と御叱りなされたのでござります。

[目次]

身贔屓・身勝手

さてこゝに身を養ふと申してあれども、強ち身の事ばかりではござりませぬ。則心のやしなひじや。「身心一雙」と申して、心をやしなふ事を知らねば、身をやしなふことが出來ませぬ。心を捨てておいて、身ばかり養はうとするは、所謂身贔屓・身勝手と申す私心・私欲のかたまりに成りまする。その私心・私欲で身を養はうといたしますると、かへつて身をそこなひまする。こゝの境がいたつてむづかしい所じや。心を捨ては何もする事はござりませぬ。心をすててする事が有たら、みな身贔屓・身勝手でござります。古歌に、
つく\〃/と思へば悲しいつまでか身につかはるゝ心なるらむ
成ほど心が主人となつて、身を家來としてつかふ時は、皆道に叶ひまする。身を主人として心をつかひまするは、心をすつると申すものじや。心が身につかはれますると、いつでも道にはづれて、みな身贔屓・身勝手になりまする。「此道理は能う辨へてゐながら、ヤツパリ身贔屓・身勝手がやめられず、身に心のつかはれてゐるは口惜くちをしい。」と詠んだうたでござります。

[目次]

かし雪隱の話

いかさま身贔屓・身勝手をする人の、はらわたの開帳に能う似た咄がござります。至極尾籠なはなしなれども、ねむりさましに聞いて貰はにやならぬ。これは都の咄でござりまするが、花の頃に成りますると、嵐山・御室の櫻がりとて、京中の貴賤皆花見にまゐります。其中には大家たいかの奧樣、或は娘御、または遊女町の藝子女郎、衣裝に花をかざり、こゝをはれと見物にまゐりまする事じや。嵐山までは京をはなれて一里半ばかり、何んぼ美しうかざりたてた娘御でも、「出ものはれもの所きらはず」といふ譬の通り、途中で便所へ行きたい事がある。流石に野中で尻もまくられず、通筋の見苦しい百姓家へかけこんで、
「御無心ながらてうづ場を、ちよつと御かし下されませ。」
と、赤い顔してことわりいひ、裏口へ出て見た所が、うそぎたないこもだれの雪隱、是には京の女中がたが、毎年大きに困る事でござります。成程人間かしこしと申して、ある通筋の小百姓が、此事を考へ出して、かし雪隱といふ事を始めました。其趣向は、門口に雪隱をたて、かたはらに手水鉢をすゑ、墨ぐろに、「かし雪隱一度三文」と、かき附た看板を懸けました。尤これは甚面白い趣向で、至極重寶ちようはうな事ゆゑ、花の頃はけしからず流行はやります。勿論これは兩徳の趣向で、女中がたは赤い顔して口たれて(*臆面もなく言う)、きたないめをせいでも、三文で挨拶なしに、我家の雪隱へはいるやうな顔つきして、用がとゝのひます。又雪隱の貸元は、三文のかし代をとるばかりじやない、あとへこえがのこります故、これも至極勝手がよろしい。全くかし座敷からおもひ附た趣向とみえまして、此ごろめつきり身代を能ういたしました。或人の道歌に、
よい中も近ごろうとく成にけりとなりに藏をたてしよりのち
とかく人のかねまうけが羨しうて、又ねたましうて、かち落し(*搗ち落とす=妨害する)てなりとも、おのが田へ水の引きたい例の身贔屓・身勝手の強慾ものが、其村方にござりまして、あるとき女房をよんで相談には、
「八兵衞が近頃かし雪隱で、めつきり錢儲をしをる。おれも此春はかし雪隱をこしらえて、八兵衞の銀まうけをたゝき落してやらうと思ふが、どうであらうぞ。」
女房中々合點せず、
「夫はこなたわるい分別じや。たとへこちのかし雪隱をこしらへた處が、八兵衞殿は仕にせ(*商い)も古う、得意もたんとあるであらう。こちはまた新店なり。はやらぬときは貧乏の上ぬり、それは止めにさつしやるが能からう。」
といへば、
「イヤ\/それはわれが何も知らぬによつてじや。此度おれが思ひ附いた雪隱は、八兵衞のやうな汚ない雪隱ではない。當時京の町は、茶の湯がはやると聞いたゆゑ、茶方の雪隱をたてるつもりじや。まづ四本柱はよしの丸太では汚ない。北山の入節いりぶしをつかひ、天井は天井にして、蛭釘をうつて釣釜のくさりをぶらさげて、きばり繩のかはりに用ふるのじや。ナントきめう(*格好をつけよう)歟。窓は下地窓(*壁の一部を塗り残し、下地の木舞を見せるようにした茶室風窓。)、ふみ板はけや木のじよりんもく(*如鱗木=魚鱗のような木目)、きん隱しはさつま杉、穴のぐるりは蝋色ろいろ(*蝋色塗。漆塗の一種。)ぶち、壁は中ぬりの切りかへし(*漆喰の上塗りをしないもの)、戸は檜木の長へぎ、白竹しらたけおさへ、屋根は杉皮青竹おさへのわらび繩(*蕨根の繊維で綯った繩。水に強い。)、大和葺にこしらへ、沓ぬぎはくらま石(*庭石等に用いる閃緑岩)かたはらに青竹まじりの四つ目垣、橋杙はしぐひ(*橋脚仕立ての意か。)の手水鉢に、かゝりの松はしよろ\/とした女松をあしらひ、千家でも遠州でも有樂でも逸見はやみでも、何でもかでも取りこめるこしらへ、おそらくはこいつをいだしたら、八兵衞の雪隱はへたばるにちがひはない。」
と、自慢顔にいひならべると、
「夫は奇麗でよからうが、かし代はなんぼ取るのじや。」
「しれた事、一度は八文よ。」
「イヤ\/それはわるい分別。茶方でも水かたでも、どちらのみちきたない所、三文でも安い方が、ヤツパリはやりさうな事じやに、必ずそれはやめにして下され。」
といへば、
「何をぬかすやら。『女賢うて牛うられぬ。』と、さいくはりう\/仕上げを見をれ。」
と、かの亭主が無理に工面して、とう\〃/(*=とうとう)此春間にあふ樣に、立派な雪隱をこしらへました。勿論かんばんは醫者どの歟、坊さまを頼んだと見えて、唐樣で「かし雪隱、一度八文」と書いて出した。
ようした物じや。錢がたかいと、なんぼ奇麗でも借人かりてがない。猫の子ものぞいて見をらぬ。ソコデ女房がぼやき出し、
「これじやによつて止めさつしやれといふのに、仰山な錢かねいれて、此しまひはどうするのじや。」
と、疊たゝいてわめけば、亭主は落著たかほつきして、
「何もやかましくいふ事はない。明日はおれが得意まはりをして來ると、借人は澤山出來る。われもはやう起きて、こほり飯(*未詳。行李飯か。)をつめておけ。一ぺんかけ廻つてくると、門前市をなす事疑なし。」
と、太平樂をいひちらして、その夜は寐る。女房は合點が行かねど、朝早う起き、めしを焚き、こほりめしをつめると、親父はいつもより朝寐して、四つ時分に(*十時頃に)目を覺し、茶漬喰ふと身ごしらへ、ぱつち(*股引)尻からげ、かのこほりめしを首筋へくゝり附け、小遣ぜにを懷へ入れ、出かけに、
「コリヤかゝ、得意まはりしてくると夥しい借人があらう。モシこえがつかへたら中入札なかいりふだ(*休憩の札)をかけて、隣の次郎兵衞をたのんで、一も二荷も取つてもらへ。」
と、いひすてて出てゆく。
ます\/女房は不思議がはれず、「どうして得意まはりが出來るぞ。京の町を『何村の何兵衞が方で、かし雪隱かし雪隱。』と、菜や大根だいこ賣るやうにふれ歩くの歟しらぬ。」と、しあんしてゐる所へ、錢筒へ八文、錢をなげこんで、一人雪隱へはいつた人がある。此人が出ると、入りかはり\/引もきらず借人が出てくる。かゝはびつくりし、「かし代を取りはづすまい。」と、目の玉をきよろつかして、雪隱のわきに張番をしてゐると、後には段々糞がつかへる。ソコデ中入札をかけて、一荷こえをくみ上ぐる。また追々にかりがある。とう\〃/日のくれまでに、雪隱のかし代八貫文(*八千文)とりあげ、糞を五荷くみ出した。ソコデかゝがひとり歡び、「何さまこちの親仁は文殊菩薩の再來か。さるにても、得意まはりはどうして仕られた事じややら。此やうに流行るといふは、ありがたい事ではある。」と、酒をかうて待つところへ、亭主がのろりと戻つて來て、
「どうじや、かり人は有つたか。」
といふ。
「あつただんか。(*未詳。恐らく「あったとも。」の意か。)かし代が八貫、糞が五荷。こなたはどうして得意廻をさつしやつた。京の町を一軒々々、ところ書を持て頼みにはいらしやつたか。」
と問へば、亭主は、
「何をぬかしをるやら。おれが得意まはりといふは、今朝内を出て、すぐに三文出して、八兵衞が雪隱へはいり、内から掛けがねをかけて、一日隣の雪隱をふさげたのじや。人が戸をあけかゝると、内からエヘンと咳ばらひすると、はづんで(*せわしくなる・催す)はあるし、おれが所の雪隱へかけ込みをるのじや。アヽけふは仰山なせきばらひして聲がかれた。此永い日を一日つくばうてゐたれば、持病の疝氣(*腹痛)がおこつた。」
と腰をなでていはれた。
ナント面白い咄でござりませうが。これがこれ、小人せうにん凡夫のはらわたの開帳じや。おのが金銀の儲けたいも、人の金銀をまうけたいも同じ事なれば、すこしはおもひやりも有りさうなもの、なれども我と人とは別々のものじやと覺えて、わが勝手さへよければ、人はこけても倒れてもかまはばこそ、爰を大事とわが身勝手をいたしまするは、皆わが身を養はうとおもふのじや。是が大まちがひと申すもので、「人とわれとはおろか、萬物と我と一體、」この道理が知れぬによつて、人我にんがへだてをなし、めぐり\/て我身の害になる事を知らぬ。ひどいものじや。我身勝手をおもひつくと、むさい事もきたない事もうち忘れて、春の日の永いのに、一日雪隱の中で、ひきがいるの樣に、目ばかりぱち\/してゐて、くさいとも思はず、まだある、晝じぶんになると、首筋にくゝり附けたこほり飯を取出して、雪隱の中で辨當をつかひまする。これが女房子に見せられた姿か。箇樣に申すは、雪隱の事ではござりませぬ。腹の中のむさいきたない店おろしを、たとへて御はなし申すのでござります。ある人の道歌に、
我心かゞみにうつるものならばさこそ姿の見にくかるらめ
しかしながら此樣な人は日本の地にはない。得て唐や天竺には、あるやうにうけたまはりました。是じやによつて、「至2於身1而不2以養1之者。豈愛身不2桐梓1哉。弗思甚。」(*前出。「也」を省く。)孟子の仰られましたも無理ではござりませぬ。

[目次]

孝行な繼子娘の話 (*参之下に続く。)

我身を愛する\/とおもうて、思の外に損ひまする。是について恐ろしい話がござります。序に御聞下さりませ。これは東國の事でござりまするが、相應にくらしまする百姓がござつて、夫婦の中に娘一人、其外めしつかひの下男下女が五六人。かの娘が十三歳になりました。母親が風のこゝちと打ふしましたが、わづか五七日で相はてますると、跡は爺親てゝおやとむすめ、親類村内むらうちから、「後妻をいれよ。」とすゝめますれど、かの亭主の了簡には、「後妻をむかへて、自然(*万一)繼子・繼母の中が、むつまじうゆかぬときは、我も苦勞し、むすめもまた不便ふびんなり。何とぞ此まゝで娘の成人を待たん。」と、餘ほど辛抱はして見られたれども、何分娘のとしは行かず、家内の取締とりじめをしてくれるものがないと、奉公人が育ちにくい。よんどころなうあれこれと聞きあはせ、幸ひ近村に相應の人がらが有つて、やがてこれを迎へとり、家内の世話をして貰はれました。
時にかの後妻は、はなはだ深切にむすめを養育する。むすめもまた「かゝさま\/。」というて慕ひまする。ソコデ爺親も大きに安堵し、月日をおくりまするうちに、彼後妻が懷妊をいたして、ほどなく一人の男子をうみました。ソコデてゝ親はよろこびの中に、また氣にかゝる事も出來て、「後妻がうみの子を可愛がつて、先妻のむすめをにくむやうに成つたらば、至つて難澁な事じや。」と、あんじわづらうて居ましたが、案じるよりうむがやすいと、實子が出來てのち、ます\/繼子娘を可愛がる。中々わけ隔ては見えませぬ。これで爺親もおほきによろこび、親子四人がむつまじう、明しくらして娘は十七歳になり、男子なんしは三歳に成りました。
ある夜の寐ものがたりに亭主がいふは、
「こなたがござつた時は、まだ娘は十三、何のわきまへも無かつたが、早十七になつたれば、今は牛にも馬にもふまれる氣づかひはなく、依つて思ふに、どうぞ能い聟をもらうて此家をゆづり、こちら夫婦は、その小兒をつれて新宅でもかまへ、心やすう世をおくらうと思ふが、こなたはなんとおもはつしやるぞ。」
ソコデ女房が、
「それは何より有がたい事。わたくしもはやう隱居して世事の世話が助かりたい。どうぞはやう聟をもらはつしやれ。」
と、きげんよう承知しました。
亭主は大に安心して、夫より一月ばかり立つて、用事につき一夜ひとよさどまりに他所へ參りました。其夜はいつもの通り、繼母も娘もめしつかひも、夫々のよなべ仕ごと、ねる時分から、在中(*田舎)の事なり、下男も下女もどこへやら、こそ\/と出てゆく。あとには母おやは、小兒を添乳そへぢしてねる。娘も部屋へ入てねる。夜はしん\/と更わたつて、七つまへ(*午前四時前)とおもふ頃、かの繼母けいぼが寐所からそつとぬけ出で、そこらにあるたすきを取つて娘の部屋へしのび込み、よう寐入てゐる娘の首へ、かのたすきをまきつけ、力にまかせて〆ころさうと仕ました。思ひがけなき事ゆゑ、娘はおどろきさま、襷に左右の手をかけて〆させまいとする。母親は乘かゝつて〆ころさうとする。行燈あんどうはきえて眞くらがり、母親も聲をたてず、娘も驚いて聲も出ず、狼のくひあふ樣に、くらがりで上になり下になりつかみ合ましたが、とう\〃/母親が娘のたぶさ髪(*髻)をつかんで、うらの方へ引ずつて出る。隣は遠き在中の事、折ふし其夜は眞のやみ、半町ばかり引ずつて出たが、側にある野中の井戸へ、かの娘を投込うとする。娘は井戸へはまるまじと、母おやに取りつくを、踏みたふしかいつかんで、井戸の中へ難なく打ちこみ、跡をも見ずして母おやは家にかへり、そこら取りかた附、何氣なき體で、小兒の添乳をして寐入りたるは、おそろしい繼母のふるまひ、ある知識(*善知識)のうたに、
おく山の杉のむらだちともすればおのが身よりぞ火を出しける
チトかんがへてごらうじませ。四年このかた中のよかつた繼子けいし・繼母、たちまち手のうらを返すやうに、毒惡な(*凶悪な)繼母まゝはゝの仕かた、此おそろしい心はどこから來たぞ。うろたへる(*思慮分別を失う・正気を見失う)と銘々どもの腹の中にも、此やうな鬼が住んでゐようも知れませぬ。折々たちかへつて、腹の中を吟味せぬと、思ひの外に鬼の玉子が、へり附いてあらうも知れぬ。油斷は一せつ(*=いっさい)なりませぬ。此繼母がよめ入りしてくる時に、先方へいたら(*嫁いだら)繼子むすめをにくんで、〆殺さうといふ分別をして嫁入して來るものじやない。サアどういふ處から、此心が出てまゐりましたぞ。四年の辛抱、タツタ一夜の寐ものがたりに、娘に聟を取つて、家をゆづらうというた亭主の一言で、此おそろしい心になりましたのじや。なぜなれば、「亭主のある間は、たとへ新宅かまへても、聟や娘が大事にもせう。もし亭主が目をふさいだら、娘は先妻の子なり、聟は近ごろの入人いりびとなり、我身は後妻のことなり、ちひさいものはあるし、決して(*必ずや)聟やむすめに、おひまはされて、口をしい日を送るであらう。さればとて『聟をとる事はよしにさつしやれ。』といへば、繼子娘をにくむやうで、亭主へのきこえもわるし。どうぞ我がうみの子に跡をとらせ、亭主はなくとも、かまど將軍(*竃将軍=権勢を振るう妻や夫)で威勢ばり、おのれがまゝにくらしたい。」と、惡念がきざしてより、「どうぞして繼子娘を、人知れず失ひたい。」と、此三十日よるも晝も、ねてもさめても、念々こゝに在つてわすれず、つひに恐しい志になつて、今娘をころしたのじや。是全くおのが身の贔屓より、ひいきの引倒し(*身贔屓が過ぎて己に害をなすこと。)といふものになつて、飛で火に入るなつの虫、おのが身よりぞ火を出しける。是がこれ身を愛するの間違、可愛かあいのとんぼがへり。畢竟亭主の一ごんをわるう耳に留めたゆゑ、此樣なおほ騷動鬼貫の發句に、
やとはれて鬼になつたるまつりかな
亭主の一言に雇はれて(*使われて・駆られて)、四年の辛抱は水の泡。心にもあらで鬼に成りたるまつりかな。ナントこはいものじやござりませぬか。是みな身贔屓・身勝手からじや。御用心なされませ。どうやらする拍子に一念化生けしやうの鬼女と成ります。鬼女じやというて、口は耳までさけてあり、髪を手にからまいてしもとをふり上げ、うろこ形や紋盡しの衣裝をきて、足拍子をふんでゐるものじやござりませぬ。可愛らしい口もとして、繼子や嫁をかみこなす安達が原のK塚は、得て京にも田舍にもをりふしあるやうに聞えまする。甚だこはい、なさけない事でござります。どうぞ心の鬼の出ませぬやうに、御吟味をなされて下さりませ。 休息。


[TOP]

參之下


 孝行な繼子娘の話 (*承前)
 K■(元/黽:げん::大漢和48261)・毒蛇の話
 九年甫の話
 我なしの行ひ

[目次]

孝行な繼子娘の話 (*承前。)

としを經てうき世の橋を見かへればさても危ふく渡りつるかな
何さま人間一生の間には、火事にもあひ、大地震にも出あひ、大雷・大風・洪水・飢饉、其外おもひがけない災難をかうぶる人もあるもの、中々ついは年のよられぬものでござります。幸にそんな目にあはぬ御かたは、有がたいとおぼしめせ。五十年・三十年のあとをふりかへつて見れば、うき世のはしをさてもあやふくわたりつるかな。能う命があつたものでござります。扨かの娘は罪なくして、繼母の手にかゝり、井戸の中へ投げこまれたれば、所詮たすかるべき道はない。爰が有がたいものじや、わるい事をせぬ御かげで、不思議にこの娘のいのちは助かりました。其ゆゑは始め井戸へうちこまれたとき、幸にさかさまに落ちいらなんだ。順に井のそこへ落ちとゞまり、そのまゝ浮くと、忽井戸がはへ手をかけて、水をのまぬ用心し、あがらうともがけども中々上られず、聲をかぎりに「助けてくれよ。」と叫びました。をりふし夜あけまへに、隣家となりの人が早うおき出で、田を見まはりに出かけました處が、どこやら女の聲がする。ふしぎにおもうて、こゑをしるべに窺ひますれば、井戸の底じや。さては井戸はまりと心得、さま\〃/にして引上げてみれば、見しりある隣の娘、「何ゆゑぞ。」と問ふ間もなく、かの娘あがると其まゝ氣絶いたしました。
夫から大騷ぎになり、近所へ知らせ、内へ知らす。繼母はびつくりしたが、息がたえてあると聞いて、少しはおちつき、何くはぬ顔で、
夜前やぜんから見えませず、亭主は留守なり、『忍びをとこの方へでもまゐつたの歟。』と、心づかひに存じましたが、これはおもひよらぬ事が出來ました。」
と、人まへ作つて泣き\/いへば、近所の人も氣のどくがり、先うちへ死骸を舁きこみ、「醫者よ。」「鍼たてよ。」とたち騷ぎ、親類も追々寄て來る。亭主の方へも飛脚をたてる。氣つけなど色々もちひ、身をあたゝめますると、彼娘が息を吹出しました。「さては人心地が附いた歟。」と、みな\/よつて介抱をするうち、やう\/氣がたしかになり、親類・隣家の人はよろこぶ。臺所でまゝ母は、茶の下をたきながら、「蘇生した。」と聞いて胸を冷し、「もう駈出さうか。井戸へ飛びこまう歟。どうしたら能からう。」と、胸は早がねを撞くごとく、惡のむくいは早いものじや。ある人のうたに、
世の中をめぐり車のわがうへにつみかさねたる果のくるしさ
「天網恢々、疎而不洩。」(*天網恢々、疎にして洩らさず。)というて、天の網は至極ゆるやかなやうなれども、中々もらすものではござりませぬ。因果歴然、用心をせにや成りませぬ。
さて親類中は、かの娘を中に取りまき、
「どういふ譯で井戸の中へおち入つたのじや。」
と、口々にとへば、娘はため息をついて、
「夕べはいつもの通り夜なべをして、其うち寐入ましたが、何かは知らずこはい夢を見まして、これはと思うて目がさめたれば、井戸の中へおちてをりました。それから『助けて下され。』というた事は覺えてゐますが、又そのあとはどう成つたかおぼえませぬ。」
といへば、親類中が、
「そのこはい夢はどの樣な夢であつたぞ。其譯をいへ。」
といふ。娘はたゞこはい夢でござつたとばかり、繼母ともどうしたとも更にいはず、唯「こはい夢じや。」とのみいうてをりまする。ソコデ親類中もわけがわからず、
「大かた狐狸のしわざであらう。まづ怪我はなうて重疊じや。」
と家々にかへりまする。母親もむすめがわけをいはぬを幸と、ぬつぺりとおしつよう、
「どんな夢を見やつたのじや。さだめてこはかつたであらう。」
と、是もおもてむきの口上ばかり。其内に爺親てゝおやも戻りまして、これも譯が知れねば、狐狸のわざにして、何事なう此一件がをさまりましたが、たゞ繼母は明ても暮ても底ぎみわるうおぼえまする。されども娘は敢て色にも出しませぬ。ナント孝心な娘ではござりませぬか。古歌に、
深山木のそのこずゑとは見えざりしさくらは花にあらはれにけり
人のこゝろは恥かしいものでござります。事のないときは善も惡もおしなべて、同じやうに見えますれど、事にあたると、其おのれ\/が平生のこゝろざし、所作の上にあらはれて、芥子ほどもかくされませぬ。此むすめも、此一件がなかつたら、只よのつねの在所娘。繼母の毒惡にかゝつた故、日頃の孝行のこゝろざしが、おのづから顯れまして、くるしい中にも、親の名を出しませぬは、「みやま木の其梢とは見えざりしさくらは花にあらはれにけり。」ナント健氣な志ではござりませぬか。

[目次]

K■(元/黽:げん:青海亀:大漢和48261)・毒蛇の話

また日頃の志が、よからぬ方へ志すものは、是また事のうへにあらはれる。釋迦遺教經ゆゐけうきやうにも、K■こくげん(元/黽:げん:青海亀:大漢和48261)(*■(元/黽:げん:青海亀:大漢和48261)は青海亀・イモリの意。K■(元/黽:げん:青海亀:大漢和48261)は未詳。)というてござりまするは、毒蛇のことじや。則銘々の腹の中のたとへじや。此毒蛇が常には寐てゐれど、何んぞ事があると、あたまをあげて騷ぎ出します。犬が中ようあそんでゐるとき、肴のあたまを一つ投てやると、俄に牙をむいていがみ合ふ。この繼母も丁度これと同じ事で、むすめに聟をとるといふ一言に、K■(元/黽:げん:青海亀:大漢和48261)があたまをあげてこの騷ぎを引出しました。是がこれ、日頃氣質をかくしてをりまするけれども、事にあたつて毒蛇がはねまはるのでござります。是じやによつて、御互に平生つね\〃/腹の中をきれいに掃除して、若K■(元/黽:げん:青海亀:大漢和48261)が居をつたら、早う退治して御仕舞なさりませ。さうせぬと折々あたまを出しまする。遊所・生洲いけす(*川魚料理屋)・芝居・淨るり・鼈甲のくしかうがい、緋がのこのわげくゝり(*髷を結ぶものか。)、茶わん・茶杓・花見・ゆさん、何であたまを出さうも知れぬ。こはい毒蛇でござります。
さてかのむすめは、是ほどのくるしい目にあうても、さらに色目にも出しませぬ。繼母はもとより、是が知れては身の上の一大事じやによつて、おくびにも猶出さず、爺おやは何も知らず、親類はわけが分らず、どうしても知れまする樣がござりませぬが、こはいものじや、「莫2於隱1。」(*隱れたるより見はるゝ〔は〕なし。)と、誰いふともなく、村中でうす\/と評判がある。「あの娘の井戸へはまつたは、繼母のしわざじや。」と、爰ではいひかしこではいふ。是がつひに番人の耳に入り、次第に御役人樣の御聞おきゝに入つて、かの繼母がたちまち召とりに成りました。壬生忠見の歌に、
戀すてふ我名はまだきたちにけり人しれずこそ思ひそめしか
「人しれずこそ」とは、己獨り知る所で、腹の中の事じや。「いまだ色にも出さず、詞にもなほいはぬなれども、はや世間の人が、我名をいひたてる。」とよんだ戀歌こひか(*ママ)でござります。なるほどこはいものじや。何んぼ人の知らぬ腹の中の事でも、かくれてあるものじやない。たとへば肝の臟に病があると、目がわるうなる。腎の臟に病があると、耳が遠くなる。腹の中のやまひが顔へハツキリと出まする。是じやによつてかくされぬ。

[目次]

九年甫の話

これについて面白いはなしがござります。ある家に、田舍のぼりの丁稚がござりました。「九年甫(*九年母・香橘)を親るゐへ持てゆけ。」といひ附られて、有馬籠(*未詳。)さげて門へ出ましたが、道々の思案に、「九ねんぼといふものは、在所ではきかぬ名じや。どのやうなものぞ。」と、葢を取つてのぞいて見れば、ついに見た事も無いうまさうな物。數をよんでみれば九つある。「さてはこれで九ねんぼといふのじやな。」と、早合點して、忽ち一つたもとへかくし、殘りを持つて先方へゆき、つかひの口上をいうて、
「此八ねんぼを御めにかけます。」
と申したれば、取次の女中がびつくりして、
「何いうてじや。是は九ねんぼじや。」
といふ。丁稚も「さてはあらはれた。」と、たもとから一つ取出し、
「實は一ねんぼをかくしました。」
と、赤い顔をしられた。
是がこれ、誰も吟味したのではござりませねど、あらはれる道理がある。これじやに仍てめつたに物はかくされませぬ。
扨かの繼母がだん\/御ぎんみに逢ひまして、こと\〃/く白状いたしました。全く我うみの子に家をつがせんといふ心から、先妻のむすめを〆殺さうといたしたるしまつ、井戸へうち込んだ事のこらず、訊状とひじやうにかゝつて、一々申しました。
ソコデさつそく彼娘を御めしなされて、其始末を御尋になりました處が、娘は何も申しませず、
「たゞその夜はこはい夢を見ましたと思うたばかり、井戸へはいつたのも、上つたのも、すべておぼえませぬ。」
といふ。御役人樣がたが、
「それではすまぬ。まさしく繼母がしめ殺さうといたし、又井戸へ投こんだではない歟。」
と、御たづねなさるゝ。
「イヽエ、左やうの事は決してござりませぬ。母はつねに、私を可愛がつてくれまして、中々さやうなおそろしい事が、ありさうな事ではござりませぬ。」
といふ。ソコデ御役人樣の仰には、
「まゝ母がすでに白状におよんだれば、今さらかくしても詮なき事。有體に申せ。」
と、すかしたり叱たりなされて、さま\〃/と御たづねなさる。されども、
「一向ぞんじませぬ。」
と計り、
「さだめて夫はあなた方が、こはい顔をなさるゝ故、おそれて母が左樣に申しましたか。一さい私においては覺えませぬ。」
といふ。いくたび御尋なされても、たゞ「夢じや。」とばかりいうてゐる。これはこれ正しく娘のいふ處いつはりに相違なけれども、「子は父の爲にかくす。」といふ眞實の孝心、親をおもふまことより、いつはりていふ處なれば、御役人樣がたも如何ともなされやうがない。たとへ水火の責をもつて御尋なされたりとも、又千萬石をもつて、その心を御ひきなされても、確乎くわくことして動かざる孝行の心は、實にありがたいものでござります。これを佛法では、金剛不壞ふゑの心と申します。思案や分別で、「問はれてもいふまい。」などと、こしらへたこゝろは、責苦におどろき、金銀にまなこくれて、必ず動くものでござります。親をおもふ誠はしあんでもなく、分別でもなく、天然自然とうまれついた、仁義禮智のこゝろ、こればかりはうごかすことは成りませぬ。
さるによつてつひに御評定決著して、これほどの大騷が、手がるうすみました。まづ繼母は御叱りの上、居村ゐむらばらひに成りました。又娘はこれも御しかりにて、
平生つね\〃/うか\/といたしをるゆゑ、かやうの騷にもなる。已來きつと相心得よ。」
と、御しかりにてすみました。
こゝを能う御きゝなされませ、御上の御仁政のありがたい事を。此むすめは世にたぐひまれなる孝子でござりますれば、急度御褒美を下されたいおぼしめしなれども、此娘が孝行ものになると、母親のつみが重うなる。それで御褒美に替へられ、むすめを御叱りなされたのじや。實にありがたい思めし。このとき御立會の御役人樣方が、むすめを御しかりのせつは、御らくるゐなされぬはなかつたと、さる御歴々さまの御はなしでござりました。ナントありがたい、おそろしい咄ではござりませぬ歟。
是でとくと御合點なさりませ。「身贔屓・身勝手といふものは、わが身のためによい事じや。」と、皆おもうてをりまする故、假初にも身贔屓・身勝手をしてなりませぬ(*とかく身贔屓・身勝手をして仕方がありません)。しかるに此一件をみれば、身贔屓・身勝手は、とんとやくにたゝぬものでござります。なぜなれば、此繼母が娘を殺さうとするしわざは、皆わが身の勝手をおもひ、わが身の贔屓をして、「實子にあとをつがせ、まゝ子を殺してかまど將軍に成つて、わがまゝをせう。」という身贔屓・身勝手なれど、その通うまうはゆかぬ。却て此身勝手から、我うみの子にそふ事もならず、奪はうと思うた家にもすまはれぬやうになり、村拂に成つて忽ち天竺浪人(*浮浪人)。こんな不了簡な女が親里へ戻つたとて、親たちが「能う戻つた。」といはれさうなもの歟。世間への外聞、または聟の手まへ、敷居ばたもふまされは致しますまい。又一・親類じやとて、繼子ころさうとした女を、かくまふ事は出來ませぬ。親類・親子義絶は知れた事じや。タツタ一つの了簡ちがひ、我身の贔屓・勝手から、忽ちひろい世界も狹うなり、天にせぐくまり地にぬき足して、五尺のからだのおき所がないやうに成りました。ある人の道歌に、
世の中を四尺五寸となしにけり五尺のからだ置所なく

[目次]

我なしの行ひ

ナントこれが身の贔屓したのでござりませう歟。身の勝手でござりませう歟。畢竟ひいきの引倒しといふものじや。皆これ身をほろぼすゆゑんのものを樂しむのじや。又娘は身のひいき・身の勝手は、ちよつとも致しませぬ。その證據は〆殺されても、井戸へ打ちこまれても、すこしも繼母をうらみず、とかく繼母の難儀にならぬ樣と、としもゆかぬに「夢じや。」といふ一言、取りつきやうのないことばじや。是が思案から出たのでもなく、また學問して勘辨(*熟考すること・理非曲直を弁えること)のうへで、いうたのでもない。只親を大事とおもふばかりで、我身のことはすこしもかまはぬ。是がほんの「我なし」と申すものじや。
此「我なし」といふものは、ありがたいもので、身の勝手をせぬゆゑ、かへつて身の勝手になりまする。願はずして家の相續が出來る、御上より世間にも、「孝行なものじや。」と譽められ、する事なす事勝手のよいことばかりになる。眞實の身贔屓・身勝手がなされたくば、「我なし」に御なりなされませ。「我なし」というて、體が消えて仕廻しまふのではない。「おれが」といふ心がなくなるのでござります。さりながら此「我なし」にはつい成りにくい事で、皆御幼少から出家をしたり、學文をなされたり、孳々しゝとして御つとめなされるは、此「我なし」に成りたいばかりでござります。
幸に先師石田先生手島先生相續あいついで、此「我なし」になられる仕やうを御傳授下された。尤箇樣に申せば、何やら箱傳授(*秘伝の文書を箱で伝授すること。秘伝。)のやうにもきこえ、又石田手島の兩先生が御作爲なされた道のやうに聞えますれど、全く左樣ではござりませぬ。ひとへに堯舜の道にさかのぼつて、少しもわたくしの分別をまじへず、聖賢のをしへをやはらげ、「人は無我が生れつきじや。」といふことをお示し下されたゆゑ、銘々ども(*各自。ここは「我々」の意か。)のやうな、文盲なものでも、いさゝか道のかたはらをわきまへ、その無我がうまれ附じやといふことを會得してみれば、「おれが\/」といふ事は、さすがに恥かしうて、あたまも出されませぬ。されば此「我なし」になる道に御すゝみ下されい。此「我なし」にならぬと、わが身を愛する\/と思うてゐて、おもひの外に身を害し家をほろぼします。さるによつて孟子も、「豈愛身不2桐梓1哉。弗思甚。」(*前出。「也」を省く。)と、御しかりなされたのでござります。猶明ばん御はなし申しませう。 下座。


[TOP]

「士之相須也難矣。非才之難其知己者則難矣。而士有一見輒爲終身之交者何哉。有所感也。」におけるもまたしかなり。、庸愚の質、人を知るの明あらざれども、久しく莫逆の知己として、義骨肉のごとく、自家一般平素爾汝の交をなすといへども、笑談の間、時として覺えず容を改たむるに至るは、の令徳睿敏人をして、能感發せしむる處あればなるべし。頃年、諸州に遊歴して道を唱ふ。聴衆ややもすれば千二千に及び、益を得る人常に多し。嗣子武修、侍坐して聞く處を筆記せる、積て若干卷となりぬ。往日或人上梓せん事を乞ふと雖も、の許さゞること久し。此頃友人頻に武修に計り、卒に世に弘くす。武修爲人謹厚實踐、學んで倦まず。且其記之詳にして遺さゞる、以て其志を觀るに足れり。冀くば此篇年々増帙して、窮なからむ事を。此擧あるを悦び、贅言を後へに書するものは、抑又爲有感也。

天保甲午(*天保5年〔1834〕)秋七月
前川常營

(*参巻了。正編終。)

 序(手島毅庵)  壹之上  壹之下  貳之上  貳之下  參之上  參之下  跋(前川常営)

 (正編)  (続編)  (続々編)

[INDEX] [PREV] [NEXT]