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社會と自分

夏目漱石
(縮刷版 實業之日本社 1915.11.10
※ 縮刷第卅版(1924.2.25)に拠った。
〔原注〕(*入力者注記)縦書表示 for Lunascape, IE

縮刷に際して       目次   道楽と職業   現代日本の開化   中味と形式   文藝と道徳   創作家の態度   文藝の哲学的基礎

[目次]

中味と形式

―明治四十四年八月堺に於て述―
わたくしは此の地方にるものではありません、東京の方に平生へいぜいすまつてります。今度大阪の社の方で講演會をゥ所しよ/\で開きますに就て、助勢をしろといふ命令──だか通知だか依ョだか兎に角催しに參加しなければならない樣な相談を受けました。それでわざ/\出て參りました。もつともこのさかひだけで御話をしてすぐ東京おもてへ立ち歸るといふ譯でもないので、現に明石の方へきましたり、和歌山の方へ參りましたり、明日あすは又大阪でやる手順になつてります。無論話すことさへあれば、何處どこへ行つて何を遣つても差支さしつかへない筈ですが、暑中の際さう/\身體も續きませぬから、い加減の所で斷りたいと思つて居ります。併しこの堺は當初からの約束で是非何か講話をすべき筈になつてりましたから私の方も夫は覺悟の上で參りました。從つてしつかりした御話らしい御話をしなければならない譯でありますが、どうもさううまかないから甚だ御氣の毒です。唯今は高原君が樺太からふと旅行談つけたり海豹島かいへうたうなどの話(*高原操「樺太視察談」)をされましたが實地の見聞談で誠に有uでもあり、かつ面白く聽いてりました。私のはゥ君に興味又は利uを與へると云ふ點に於て、とても高原君ほどに參りませぬ。高原君は御覽の通りフロツクコートを着てりましたが、私は此の通り背廣で御免蒙る樣な譯で、御話の面白さも亦此の服裝の相違ぐらゐ懸隔してるかも知れませんから、先づ其のへんの所と思つて辛抱してお聽きを願ひます。高原君は頻りに聽衆ゥ君に向つて厭になつたら遠慮なく途中で御歸りなさいと云はれた樣ですが私は厭になつても是非聽いて居て戴きたいので、其の代り高原君ほど長くは遣りません。此の暑いのにさう長く遣つては何だか腦貧血でも起しさうで危險ですから出來るだけ縮めてさつさと片付けますから、其の間は歸らずに、暑くても我慢をして、終つた時に拍手喝采かつさい(*原文ルビ「かつらい」)をして、さうして目出たく閉會をして下さい。
私は先年せんねん堺へ來たことがあります。是れは餘程まへ私がまだ書生時代の事で、明治二十何年になりますが、何でも餘程久しい事のやうに記憶してります。實を言ふと今登つた高原君、あれは私が高等學校がくかうでヘへてゐた時分の御弟子おでしであります。あゝ云ふ立派なお弟子を持つてる位でありますから、私も餘程年を取りました。其の私がまだ若い時の事ですからまあ昔といつてもよろしう御座いませう。今考へるとほとんど其の時に見た堺の記憶と云ふものはありませんが、何でも妙國寺と云ふお寺へ行つて蘇鐵を探したやうに覺えてります(*ママ)。それから其の御寺おてらそばに小刀や庖丁を賣る店があつて記念のため一寸した刄物を其所そこで求めたやうにも覺えてゐます。夫から海岸へ行つたら大きな料理店があつたやうにも記憶してゐます。其の料理店の名はたしか一力いちりきとか云ひました。凡てがぼんやりして思ひ出すと丸で夢のやうであります。其の夢のやうな堺へ今日こんにち圖らずも來て再び昔の町を車にられながらとほつて見ると非常に廣い樣な心持がする。停車場ステーシヨンから此の會場迄の道程みちのり大分だいぶある。斯うまをしては失禮であるが昔見た時はくケチな所であつたかのやうにしか、頭に映じないのであります。夫れで車の上で感服したやうな驚いた樣な顏をして、きよろ/\見廻して來ると所々ところ/〃\辻々つじ/\に講演の看板と云ひますか、廣告と云ひますか、夏目漱石君などと云ふやうな名前が墨K々くろ/〃\と書いて壁に貼り付けてある。何だか雲右衞門くもゑもん(*浪曲師桃中軒雲右衛門)なにかゞ興行のため乘り込んだやうである。社の方から云へばあの方がいのでせうが、夏目漱石氏から云へばあゝさらしものになるのはあまり難有ありがたくない。なほ車の上で觀察すると往來の幅が甚だ狹い。が夫は問題ではない、私の妙に感じたのは其細い往来がヒツソリして非常に靜かに晝寢でもしてゐるやうに見えた事であります。尤も夏の眞午まひるだからあまり人が戸外に出る必要のない時間だつたのでせう。私が此所こゝに着いたのは丁度十二時少しすぎでありました。二階へあがつて長い廊下のはづれに見える會場の入口から中の方を見渡すと、少し人の頭がKく見えたくらゐで、市内がヒツソリしてごとく聽衆も亦ヒツソリしてる。是れは幸ひだ──とは思ひません、又困つたと迄も思ひません。けれどもまあ不入ふいりだらうと考へながら控席へはいつて休息してゐると、何時いつにやらこんなに人が集つて來た。此の講堂に斯く迄詰め懸けられた人數にんず景況けいきやうからすと堺と云ふ所は決してけちな所ではない。偉い所に違ひない。市中があれ程ヒツソリしてるにかゝはらず時間が來さへすれば是れ程多數の聽衆がお集まりになるのは偉い。餘程講演趣味の發達した所だらうと思はれる。私も折角東京からわざ/\出て來たものでありますから、成らうことならば講演趣味の最も發達した堺のやうな所で、一度でも講演をすれば誠に心持がい。だからゥ君も其の志をりやうとして、終ひまで靜肅にお聽きにならんことを希望します。此の位にして此所に張り出した「中味と形式」と云ふ題にでも移りますかな。
第一、題からして餘り面白さうには見えません。中味は無論詰らなさうです。私は學會がくゝわいの演説は時々依ョを受けてやる事がありますが、斯う云ふ公衆、即ち種々しゆ/〃\の職業をつた方(*原文ルビ「はう」)がお集まりになつた席では餘り御話をした經驗がありません、又ョみにも來ません。ョまれても大抵は斷ります。と申すのは種々しゆ/〃\の職業を有つてられる方々かた/〃\すべての興味のあるやうなことは、私の研究の範圍、或は興味の範圍からして迚も力に及ばないといふ懸念があるからです。で成るべくは避けてりますが、已むを得ず今日こんにちのやうな場合には、出來るだけ一般の人に興味のある爲に、社會問題と云ふやうなものをえらみますけれども、其の社會の見方とか或は人間の觀察の仕方とかゞ又自然私の今日こんにちまでやつた學問やら研究にわづらはされてうも好きな方ばかりへ傾き易いのは免かれがたい所でありますから、職業の如何いかん、興味の如何につては、誠に面白くない駄辯だべんに始つて下らない饒舌ねうぜつをはることだらうと思ふのです。のみならずこれから遣る中味と形式といふ問題が今まをした通り餘り乾燥して光澤氣つやけの乏しいみだしなので殊更ことさら懸念をいたします。が言譯は此の位で澤山でせうからそろ/\先へ進みませう。
私はうちに子供が澤山ります。女が五人に男が二人、〆めて七人、それで一番上の子供が十三ですから赤んに至る迄ズツト順よくならんでまあ體裁よく揃つてります。夫はうでも宜しいが斯樣かやうに子供が(*ママ)ございますから、時々色々の請求を受けます。跳ねる馬を買つて呉れとか動く電車を買つて呉れとか色々強請ねだられるうちに、活動寫眞へ連れてけと云ふ註文が折々出ます。元來私は活動寫眞と云ふものを餘り好きません。どうも芝居の眞似などをしたり變な聲色こわいろを使つたりして厭氣いやきのさすものです。其の上なんぞといふと擲つたり蹴飛したり慘酷な寫眞を入れるので子供のヘ育上甚だ宜しくないから可成なるべく遣りくないのですが、子供の方ではしきりにきたがるので──尤も活動寫眞と云つたつて必ず女が出て來て妙なしなをするとはきまつてゐない、中には馬鹿氣ばかげて滑稽なのも澤山ありますから子供の見たがるのも無理ではないかも知れません。で三度に一度は頑固な私もつい連れ出される事があります。監督者と云ひますか、何と云ひますか、先づ案内者或はおもりとでも云ふかくなんでせう。暑い所へ入つて鼻の頭へ汗の玉を竝べて我慢をして動かずにる事があります。すると子供からよく質問を受けて弱るのです。尤も滑稽物や何かで帽子を飛ばして町内中おツかけてくと云つた樣な仕草は、只其のまゝ可笑味をかしみで子供だつて見てゐさへすれば分りますから質問の出る譯もありませんが、人情物、芝居がかつた續き物になると時々聞かれます。其のとひは甚だ簡單でたゞ何方どつちが善人で何方が惡人かと云ふ丈なんです。私から云へば何方も人間にはなつてない、善人にも惡人にもなつてらない。よしなつてゐたつて、幼稚にしろ筋は子供の頭より込入こみいつてゐるからさう一口に判斷を下してやる譯にはかない。夫でどうも迷兒まごつかされる事が度々出て來るのです。大人から云へば、只見てゐて事件の進行と筋の運び方さへ腑に落ちれば夫で濟むのですけれども、悲しいかな子供には夫程一部始終を呑み込む頭がない。と云つてたゞ茫然ばうぜんと幕に映る人物の影が頻りに活動するのを眺めてゐる譯にもかない。どうかして此の込み入つたの配合や人間の立ち廻りを鶯抓わしづか(*ママ)つくるめて其の特色を最も簡明な形式で頭へ入れたいに就ては已に幼稚な頭の中に幾分でも髣髴はうふつ出來る倫理上の二大性質──善か惡かを取り極めて此の錯雜した光景を締めくゝりたい希望から斯ういふ質問を掛けるものと思はれます。活動寫眞はまだい。所がお伽噺とぎばなしや歴史の本などを見て、昔の英雄などに就いて矢張やはり同樣に簡單な質問を掛けられる事がある。太閤樣と正成まさしげと何方が偉いとか、ワシントンとナポレオンと何方が強いとか、常陸山と辨慶と相撲を取つたら何方が勝つとか、中には返答に困らないのもあるが、多くは挨拶にきうする問題である。要するに複雜な内容を纒める程度以上に纒めた簡略な形式にして見せろとせまられるのだから困ります。尤も近來きんらい小學校せうがくかうなどでも生徒に問題を出して日本の現代の人物中で誰が一番偉いか抔と聞く先生がある。此の間私が或る地方へ行つたらある新聞でさう云ふ問題を出して小學生徒から答案の投書をつのつてました。其のうちで自分の御父さんが一番偉いといふ答を寄こしたのがあると聞いて甚だ面白く感じました。自分の親父が天下一の人物だなどは至極い了見で結構です。夫は餘事よじであるが、兎に角先生や新聞抔からして、日本につた一人偉い人があつて、其の人は甲にも乙にも丙にも凌駕りようがしてるからてゝ見ろといふ樣な數學的の問題を出す世の中だから子供から質問が出るのも無理はない。併し困ります。楠正成(*ママ)と豐臣秀吉と何方が偉いと云ふが、見方で色々な結論も出來るし、さう白でなければKといつた風に手早く相場をつける譯にもかないし、要するに複雜な知識があればある程面喰めんくらふ樣になります。
斯んな例を御話しするのは唯馬鹿らしいから御笑草おわらひぐさに御聞きに入れる迄の事だと御思ひになるかも知れんが、實はさうではない。斯う批評して見ると成程子供は幼稚で氣の毒なものだとしか取れませんが、其の幼稚で氣の毒の事を大人たる我々が敢てしてゐるのだから甚だ情ない次第で、私は大人として子供は斯くの如くたわいないものだといふ證據に自分の娘やなんかを例に引いたのではなく、かへつて大人も亦此の例に洩れぬ迂愚うぐなものだといふ事を證明したいと思つて一寸分り易い小兒せうにを例に用ひたのである。凡て政治家(*原文ルビ「せかぢか」)なり文學者なり或は實業家なりを比較する場合にだれより誰の方が偉いとか優つてゐるとか云つて、一概に上下じやうげの區別を立てようとするのは大抵の場合に於て其の道に暗い素人のやる事であります。專門の知識が豐かでよく事情が奄オく分つてゐると、さう手短かに纒めた批評を頭のなかに貯へて安心する必要もなく、又批評をしようとすれば複雜な關係が頭に明瞭に出てくるから中々「甲より乙が偉い」といふ簡潔な形式によつて判斷が浮んで來ないのであります。幼稚な知識を有つた者、沒分曉漢ぼつぶんげうかん或は門外漢になると知らぬ事を知らないで濟してるのが至當であり、又本人も其の積で平氣でるのでせうが、何うも處世上の便宜からさう無頓着むとんぢやくにくゝなる場合があると、一つは物數奇にせよ問題の要點丈は胸に疊み込んで置く方が心丈夫なので、兎角最後の判斷のみを要求したがります。さて其の最後の判斷と云へば善惡とか優劣とかさう範疇はんちうは澤山ないのですが、無理にも此の尺度に合ふ樣に何んな複雜なものでも委細御構おかまひなく切りつゞめられるものと假定してかゝるのであります。中味は込入つて居て眼がちら/\する丈だから責めて締括しめくゝつた總勘定丈知りたいと云ふなら、まだ穩當な點もあるが、何んな動物を見ても要するに是れは牛かい馬かいと牛馬一點張りで凡て四つ足を品隲ひんちつ(*ママ)されては大分無理が出來る。(*原文句点なし。)門外漢といふものは此の無理(*原文「理無」にルビ。)に氣が付かない、又氣が付いても構はない。どんな無理な判斷でも與へてくれさへすれば安心する。だからおかみでも高等官一等をこしらへて見たり、二等を拵へて見たり、或は學士、博士はかせを拵へて見たりして門外漢に對して便宜を與へ、一種の締括りある二字か三字の記號を本來の區別と心得て滿足する連中れんぢゆう安慰あんゐを與へてゐる。以上を一口にして云へば物の内容を知り盡した人間、中味の内に生息してゐる人間は夫程形式に拘泥こうでいしないし、又無理な形式を喜ばないかたむきがあるが、門外漢になると中味が分らなくつても兎に角形式丈は知りたがる、さうして其の形式が如何に其の物を現すに不適當であつても何でも構はずに一種の知識として尊重すると云ふ事になるのであります。
是れは複雜の事を簡略の例で御話をするのでありますから、其の積りでお聽きを願ひますが、こゝに一つの平面があつて、それに他の平面が交叉かうさしてるとすると、此の二つの平面の關係はなんで示すかといふとまをす迄もなく其の兩面の喰違つた角度である。何方が高いのでもない何方が低いのでもない。三十度の角度を爲してるとか、六十度の角度を爲してるとか云へば極めて明瞭で夫より以外に説明する事も質問する事もなんにもないのであります。夫を此の二面が何時でも偶然平らに並行でもしてゐるかの如き了見で、全體どつちが高いのですと聞かなければ承知が出來ないのは痛み入ります。人間と人間、事件と事件が衝突したり、き合つたり、ぐる/\囘轉したりする時其の優劣上下が明かに分るやうな性質程度で、其の成行が比較さへ出來ればい譯だが、惜しいかなこの比較をするだけの材料、比較をするだけの頭、纒めるだけの根氣がない爲に、即ち門外漢であるが爲に、どうしても、角度を知ることが出來ない爲に、上下とか優劣とか持ち合せの定規で間に合せたくなるのは今申す通り門外漢の通弊でありますが、私の見る所ではあに獨り門外漢のみならんやで、專門の學者も亦さう威張れた義理でもないやうな概括をして平氣でるのだから驚かれるのです。
學者と云ふものは、色々の事實を集めて法則を作つたり概括を致します。或は何主義とか號して其の主義を一纒めに致します。是れは科學にあつても哲學にあつても必要の事であり、又便宜な事で誰しも夫に異存のある筈は御座いません。例へば進化論とか、勢力保存とか云ふと其の言葉自身が必要である許りでなく、實際の事實の上に於て役に立つてゐます。けれども惡くするとぜん申した子供や門外漢と同じ樣に、内容に餘り合はない形式を拵へて唯表面上のまとまりで滿足してゐる事が往々ある樣に思ひます。此の間私は或學者の書いた本を讀みました。夫はオイケンと云つて、近頃獨逸ドイツで、有名な學者の著はしたものであります。尤も澤山の著述のうちで極く短かい一冊を讀んだ丈でありますが、兎に角其の人の説の中に斯う云ふ事が書いてありました。現代の人は頻りに自由とか開放と云ふ樣な事を主張する。同時に秩序とか組織とか云ふものを要求してる。一方では束縛を解いて自由にして貰はなければ堪らないと言つてながら、一方では(例へば資本家と云ふ樣なものが)秩序とか組織を立てなければ事業が發展しないと騷いでる。が、此の二つの要求を較べると明かに矛盾である。──此所ここ迄は宜しいのです。然しオイケンはこの矛盾は何方どつちかに片付けなければならず、又片付けらるべきものであるかの如き語氣で論じてゐた樣に記憶してゐますが──即ちさう云ふ樣に相反あいはんする事を同時に唱へてつては矛盾だから、モツと一纒めにして、意味のある生活を人がやつてかなければならぬと云ふ樣な事を言ふのです、ですが貴方がたはまあどうお考へになりますか。オイケンの云ふ通りでいと御思ひですか、果して此の矛盾が一纒めになるものとお思ひになりますか、又明かに矛盾してると云ふお考へでありますか。貴方方にこんな質問を掛けたつて詰らない。又掛ける必要もありません、が私は何う考へてもオイケンの説は無理だと思ふのです。何故なぜ無理だと言ひますと、資本家とか或は政府とか、或はヘ育者とか云ふものが、すべて多數の人間を相手にしてさうして、何か事を手早く運び、手際よく片付けようと云ふ爲には、どうしたつて統一と云ふ事と組織と云ふ事と秩序と云ふ事を眞向まつかう振翳ふりかざさなければ出來ない話である。例へば事業家が事業をする。其の爲に人夫を百人雇ふ職工しよくこうを千人雇ふ。さうして彼等の間に規律と云ふものが無かつたならば、──彼等のうちには今日けふは頭が痛いから休むといふものも出來ようし、朝の七時からは厭だからおれは午後から出ると我儘を云ふものも出來ようし、或は今日は少し早く切り上げて寄席よせくとか、或は今日は朝出掛でがけに酒を飮むんだとか各々おの/\勝手な事を、ばらばらに行動されては折角一箇月で出來る事業も一年掛るか二年掛るか見込が立たなくなります。けれども何うでせう斯う云ふ軍人ヘ育者實業家抔が公務を仕舞つてうちへ歸つてさあ是れからがおれの身體だといふ場合に、矢張同じ樣な窮屈極まる生活に甘んずるでせうか。人によつては寢食の時間抔大變規則正しい人もあるかは知れないが、原則から云へば樂に自由な骨休めをしたいと願ひ又出來る丈其の呑氣のんき主義を實行するのが一般の習慣であります、すると彼等には明かに背馳はいちした兩面の生活がある事になる。業務に就いた自分と業務を離れた自分とはどう見たつて矛盾である。然し此の矛盾は生活の性質(*原文ルビ「せつしつ」)から出る已むを得ざる矛盾だから形式から云へば如何にも矛盾の樣であるけれども、實際の内面生活から云へばかく二やうになる方が却つて本來の調和であつて、無理にそれを片付けようとするならば夫こそ眞の矛盾に陷る譯ぢやなからうかと思ひます。何故なぜといふと、一つは人を支配する爲の生活で、一つは自分の嗜慾しよくを滿足させる爲の生活なのだから、意味が全く違ふ。意味が違へば樣子も違ふのがもつともだと云つた樣な話であります。反對の例を擧げて今度は同じ事を逆に説明して見ませう。世間には藝術家といふ一種の職業がある。是れはすこぶる氣まぐれ商賣で、共同的には決して仕事が出來ない性質のものであります。幾ら間敷ましく小言を云はれても個人的にこつ/\遣つてくのが原則になつてゐます。しかも其の個人が氣の向いた時でなければ決して働けない。又働かないといふ甚だ我儘な自己本位の家業になつてゐる。だから朝七時から十二時まで働かなければならないと云ふ秩序や組織や順序があつた所で、それだけ手際のい仕事は出來るものでない。即ち自分の氣の向いた時にやつたものが一番氣の乘つた製作となつて現はれる。從つて藝術家に對しては今申した資本家ヘ育者抔の執務ぶりや授業ぶりは當嵌あてはまらない。が其の個人的に出來上つた藝術家でも、彼等同業者の利uを團體として保護する爲には、會なり倶樂部くらぶなり、組合なりを組織して、規則其のの束縛を受ける必要が出來てくる。彼等の或者は今現に之れを實行しつゝある。して見れば放縱はうじゆう不覊ふきを生命とする藝術家ですらも時と場合には組織立つた會を起し、秩序ある行動を取り、統一のある機關を備へるのである。私は是れを生活の兩面に伴ふ調和と名づけて、決して矛盾の名をくだしたくない。矛盾には違なからうが、夫は單に形式上の矛盾であつて内面の消息から云へば却つて生活の融合なのである。
こゝに學者なるものがあつて、突然こゑを大にしてそれは、明かに矛盾である、どつちか一方が善くつて一方が惡いに極つてゐる。或は一方が一方より小さくて一方が大きいに違ひないから、一纒めにしてモツト大きなもので括らなければならないと云つたならば、此の學者は統一好きな學者の艶_はあるにも拘はらず、實際にはうとい人と云はなければならない。現にオイケンと云ふ人の著述を數多くは讀んでりませんが、私の讀んだ限りで云へば、こんな非難を加へることが出來るやうにも思ひます。斯う論じてくると何だか學者は無用の長物の樣にも見えるでせうが私は決してそんな過激の説を抱いてゐるものではありません。學者は無論有uのものであります。學者のやる統一、概括と云ふものゝ御蔭で我々は日常とのくらゐ便宜を得てゐるか分りません。まへに擧げた進化論と云ふ三字の言葉だけでも大變重寶ちようはうなものであります。併しながら彼等學者には凡てを統一したいといふ念が強い爲に、出來る限り何でもでも統一しようとあせる結果、又學者の常態として冷然たる傍觀者の地位に立つ場合が多いため、たゞ形式丈の統一で中味の統一にもなんにもならない纒め方をして得意になる事も少なくないのは爭ふからざる事實であると私は斷言したいのです。
冷然たる傍觀者の態度が何故なにゆゑに此のへいかもすかとの御質問があるなら私は斯う説明したい。一寸考へると、彼等は常人より判明はんめいしたあたまつて、普通の者より根氣強く、確乎しつかり考へるのだから彼等の纒めたものに間違はない筈だと、斯う云ふことになりますが、彼等は彼等の取扱ふ材料から一歩退しりぞいて佇立たゝずくせがある。云ひ換へれば研究の對象を何處迄も自分から離して眼の前に置かうとする。徹頭徹尾觀察者である。觀察者である以上は相手と同化する事は殆ど望めない。相手を研究し相手を知るといふのは離れて知るの意で其の物になりまして、之れを體得するのとは全く趣が違ふ。幾ら科學者が綿密に自然を研究したつて、必竟ひつきやうするに自然は元の自然で自分も元の自分で、決して自分が自然に變化する時期が來ない如く、哲學者の研究も亦永久局外者としての研究で當の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしてゐない場合が多い。學校がくかうの倫理の先生が幾ら偉い事を言つたつて、詰り生徒は生徒、自分は自分と離れてゐるから生徒の動作丈を形式的に研究する事は出來(*原文「來出」にルビ。)ても、事實生徒になつて考へる事は覺束ないのと一般である。傍觀者と云ふものは岡目八目をかめはちもくとも云ひ、當局者は迷ふと云ふ諺さへある位だから、冷靜に構へる便宜があつて觀察する事物がよく分る地位には違ありませんが、其の分り方は要するに自分の事が自分に分るのとは大いに趣をことにしてゐる。斯う云ふ分り方で纒め上げたものは器械的に流れ易いのは當然でありませう。換言すれば形式の上ではよく纒まるけれども、中味から云ふと一向纒つてゐないといふ樣な場合が出て來るのであります。が、詰り外からして觀察をして相手に離れて其の形をめる丈で内部へり込んで其の裏面りめんの活動からしておのづから出る形式を捉へ得ないといふ事になるのです。
之れに反してみづから活動してゐるものは其の活動の形式が明かに自分の頭に纒つて出て來ないかも知れない代りに、觀察者の態度を維持しがちの學者のやうに表面上の矛盾などを無理に纒めようとする弊害に陷るうれひがない。先程オイケンの批評をやつて形式上の矛盾を中味の矛盾と取り違へて是非纒めようとするは迂濶だと云つて非難しましたが、あの例にしてからが、もしオイケン自身が此の矛盾の如く見える生活の兩面を親しく體現して、一方では秩序を重んじ一方では開放の必要を同時に感じてたならば、たとひ形式上斯う云ふ結論に到着した所で、何うも變だ何處かに手落ておちがある筈だと先づみづから疑ひを起して内省もし得たらうと思ふのです。いくら哲學的でも、概括的でも、自分の生活に親しみのない以上は、此の概括を敢てすると同時にハテ可笑しいぞ變だなと勘づかなければなりません。勘づいて内省の結果段々分解のを進めて見ると、成程形式の方にはそれだけの手落があり、拔目ぬけめがあると云ふことが判然して來るべきです。だからして中味を持つてるもの即ち實生活の經驗を嘗めてゐるものは其の實生活が如何なる形式になるか能く考へるひまさへないかも知れないけれども、内容丈は慥かに體得してゐるし、又外形を纒める人は、誠に綺麗に手際よく纒めるかも知れぬけれども、何處かに手落がありがちである。丁度文法と云ふものを中學の生徒抔が習ひますが、文法を習つたからと云つて夫がため會話が上手にはなれず、文法は不得意でも話は達者にもやれる通辯などいふものもあつて、其の方が實際役に立つと同じ事です。同じ樣な例ですが歌を作る規則を知つてるから、和歌が上手だと云つたら可笑しいでせう。上手の作つた歌が其の内に自然と歌の規則を含んでゐるのでせう。文法家に名文家なく、歌の規則抔を研究する人に歌人が乏しいとはよく人のいふ所ですが、もしさうすると折角拵へた文法に妙に融通の利かない杓子定規の所が出來たり、又苦心して纒めた歌の法則も時にはい歌を殺す道具になる樣に、實地の生活の波濤はたうをめぐつて來ない學者の概括の中味の性質に頓着とんぢやくなくただ形式的に纒めた樣な弱點が出てくるのも已むを得ない譯であります。なほ此のを適切に申しますと幾ら形と云ふものが、はつきり頭に分つてつても、どれ程斯うならなければならぬといふ確信があつても、單に形式の上でのみ纒つてゐる丈で、事實それを實現して見ない時には、何時でも不安心のものであります。それは貴方がたの御經驗でも分りませう。四五年まへ日露戰爭と云ふものがありました。露西亞ろしあと日本と何方が勝つかといふ隨分な大戰爭でありました。日本の國是こくぜは詰り開戰説で、とう/\あの露西亞ろしや(*ママ)いくさをして勝ちましたが、あのたゝかひを開いたのは決して無謀にやつたのではありますまい。必ず相當の論據があり、研究もあつて、露西亞ろしやの兵隊が何萬満洲へ繰出すうちには、日本では是れだけ繰出せるとか、或は大砲は何門なんもんあるとか、兵糧ひやうらうはどのくらゐあるとか、軍資はどの位であるとか、大抵の見込は立てたものでありませう。見込が立たねば戰爭抔は出來る筈のものではありません。が其の戰爭をやる前、やる間際、及びやりつゝある間、どの位心配をしたか分らない。と云ふのは如何に見込のちやんと明かに立つたものにせよたゞ形式の上で纒つた丈では不安で堪らないのであります。當初の計畫通りを實行してさうして旨く見込にちがはない成績を振り返つて見て、成程と始めて合點がてんして納得のつた樣な顏をするのは、いくら綺麗に形丈が纒つてゐても實際の經驗がそれを證據てゝ呉れない以上は大いに心細いのであります。つまり外形と云ふものはそれ程の強味がないといふ事に歸着するのです。近頃流行はやる飛行機でもその通りで、いろ/\學理的に考へた結果、斯う云ふ風にうよくを附けて、斯う云ふやうに飛ばせば飛ばぬ筈はないと見込がついた上でさて雛形を拵へて飛ばして見れば果して飛ぶ。飛ぶことは飛ぶので一應安心はするやうなものゝそれに自分が乘つていざといふ時飛べるかどうかとなると飛んで見ないうちは矢張やつぱり不安心だらうと思ひます。學理通り飛行機が自分を乘せて動いて呉れた所で、始めて形式に中味がピツタリ喰付くツついて(*原文ルビ「つツつ」)ゐる事を證明するのだから、經驗の裏書を得ない形式はいくら頭の中で完備してゐると認められても不完全な感じを與へるのであります。
して見ると、要するに形式は内容の爲の形式であつて、形式の爲に内容が出來るのではないと云ふ譯になる。もう一歩進めて云ひますと、内容が變れば外形と云ふものは自然の勢ひで變つて來なければならぬといふ理窟にもなる。傍觀者の態度に甘んずる學者の局外の觀察から成る規則法則乃至凡ての形式や型のために我々生活の内容が構造されるとなると少しく筋が逆になるので、我々の實際生活が寧ろ彼等學者(時によれば法律家と云つても政治家といつても教育家と云つても構ひません。兎に角學者的態度で觀察一方から形式を整へる方面の人を指すのです)に向つて研究の材料を與へ其の結果として一種の形式を彼等が抽象する事が出來るのです。其の形式が未來の實施上參考にならんとは限らんけれども本來から言へばどうしても是れが原則でなければならない。然るに今此の順序主客しゆかくさかさまにしてあらかじめ一種の形式を事實よりまへに備へて置いて、其の形式から我々の生活を割出さうとするならば、ある場合には其處に大變な無理が出來なければならない。しかも其の無理を遂行しようとすれば、學校から騷動が起る。一國では革命が起る。政治にせよヘ育にせよ或は會社にせよ、わが朝日社の如き新聞にあつてすらさうである。だから世間でもさう規則づくめにされちや堪らないとよく云ひます。規則や形式が惡いのぢやない。其の規則を當嵌あてはめられる人間の内面生活は自然に一つの規則を布衍ふえんしてゐる事はぜん申し上げた説明で既に明かな事實なのだから、其の内面生活と根本義に於て牴觸ていしよくしない規則を抽象して標榜へうばうしなくては長持がしない。徒らに外部から觀察して綺麗に纒め上げた規則をさしけて是れは學者の拵へたものだから間違はないと思つては却つて間違になるのです。
お前の云ふ通りにすると、大變可笑しいことがある。例へて見れば芝居の型だ。又音樂の型とも云ふべき譜である。又は謠曲のごまぶし(*詞章に振る節点。)なにかの樣なものである。是れにはすべ(*原文「凡は」)一定の型があつて、其の形式をまづ手本にして却つて形式の内容をかたちづくる聲とか身振とか云ふ方を此の型に當嵌あてはまるやうに拵へてくではないか。さうして其の聲なり身振なりが、自然と安らかにがうも不滿を感ぜずに示された型通り旨く合ふやうに練習の結果として出來るではないか。或は舊派の芝居を見ても、能の仕草を見ても、此所で足を此の位前へ出すとか、又手を此の位上へ擧げると一々型の通りにして、しかも自分の活力を其所に打込んで少しも困らないではないか。型を手本に與へて置いて其のなかに艶_を打ち込んで働けない法はない。と斯う云ふ人があるか知れない。けれども斯ういふ場合には此の型なり形式なりの盛らるべき實質即ち音樂で云へば聲、芝居で云へば手足などだが、是れ等の實質は何時も一樣に働きる、いはゞ變化のないものと見ての話である。若し形式のなかに盛らるべき内容の性質に變化をきたすならば、昔の型が今日こんにちの型として行はるべき筈のものではない。昔の譜が今日に通用してく筈はないのであります。例へて見れば人間の聲が鳥の聲に變化したら、どうしたつて今日けふ迄の音樂の譜は通用しない。四胸腰きようえうの運動だつても人間の體質や構造に今迄とは違つた所が出來て筋肉の働き方が一筋間違つて來たつて、從來の能の型などは崩れなければならないでせう。人間の思想や其の思想に伴つて推移する感情も石や土と同じやうに、古今永久變らないものと看做みなしたなら一定不變の型の中に押込めてヘ育する事も出來るし支配する事も容易でせう。現に封建時代の平民と云ふものが、どの位長い間一種の型の中に窮屈に身を縮めて、辛抱しつゝ、是れは自分の天性に合つた型だと認めてつたか知れません。佛蘭西ふらんすの革命の時に、バステユと云ふ牢屋を打壞ぶちこはしてなかから罪人を引出してやつたら、喜ぶと思ひの外、却つて日の眼を見るのを恐れて、依然として暗い中に這入はひつてゐたがつたといふ話があります。一寸可笑しな話であるが、日本でも乞食を三日すれば忘れられないと云ひますから或は本統かも知れません。乞食の型とか牢屋の型とか云ふのも妙な言葉ですが、長い年月としつきの間には人間本來の傾向もさういふ風にめることが出來ないとも限りません。こんな例ばかり見れば既成の型で何處迄も押してけるといふ結論にもなりませうが、夫れなら何故なにゆゑコ川氏が亡びて、維新の革命がどうしておこつたか(*原文ルビ「おこた」)。つまり一つの型を永久に持續する事を中味の方で拒むからなんでせう。成程一は在來の型で抑へられるかも知れないが、どうしたつて内容にれ添はない形式は何時か爆發しなければならぬと見るのが穩當で合理的な見解であると思ふ。
元來ぐわんらい此の型そのものが、なんの爲に存在の權利を持つてゐるかといふと、まへにもお話した通り内容實質を内面の生活上經驗することが出來ないにも拘はらずどうでも纒めて一括りにして置きたいといふ念に外ならんので、會社の決算とか學校の點數と同じ樣に表の上で早呑込はやのみこみ(*原文ルビ「はやのみ み」)をする一種の知識慾もしくは實際上の便宜の爲に外ならんのでありますから、嚴密な意味でいふと、型自身が獨立して自然に存在する譯のものではない。例へば茲に茶碗がある。茶碗の恰好といへばたれにでも分るが、其の恰好丈を殘して實質を取り去らうとすれば、到底取り去る事は出來ない。實質を取れば形も無くなつて仕舞ふ。強ひて形を存しようとすればたゞ(*原文「たゝ」)想像的な抽象物として頭の中に殘つてる丈である。丁度いへを造る爲に圖面を引くと一般で、八疊、十疊、床の間と云ふやうに仕切はついてゐても圖面はどこまでも圖面で、家としては存在出來ないに極つてゐる。要するに圖面は家の形式なのである。從つていくら形式を拵へてもそれを構成する物質次第では思ひの儘の家は出來かぬるかも知れないのです。いはんや活きた人間、變化のある人間と云ふものは、さう一定不變の型で支配される筈がない。まつりごとを爲す人とか、ヘ育をする人とかは無論、總て多くの人を統御してかうと云ふ人も無論、個人が個人と交渉する場合に在つてすら型は必要なものである。會ふ時にお時儀をするとか手を握るとか云ふ型がなければ、社交は成立しない事さへあるけれども、對手あひてが物質でない以上は、即ち動くものである以上は、種々しゆ/〃\の變化を受ける以上は、時と場合に應じて無理のない型を拵へてやらなければ到底此方こつちの要求通りに運ぶ譯のものではない。
そこで現今げんこん日本の社會状態と云ふものは、何うかと考へて見ると目下もくか非常な勢ひで變化しつゝある。それにれて我々の内面生活と云ふものも亦、刻々と非常な勢ひで變りつゝある。瞬時の休息なく運轉しつゝ進んでる。だから今日の社會状態と、二十年ぜん、三十年ぜんの社會状態とは、大變趣が違つてる。違つてるからして我々の内面生活も違つてゐる。既に内面生活が違つてゐるとすれば、それを統一する形式と云ふものも、自然ズレて來なければならない。し其の形式をズラさないで元の儘に据ゑて置いてさうして、何處までも其のなかに我々のこの變化しつゝある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えてゐる。我々が自分の娘若くは妻に對する關係の上に於て御維新ぜん今日こんにちとはどのくらゐ違ふかと云ふことを、貴方がたが御認めになつたならば、此のへんの消息はすぐ御分りになるでせう。要するに斯くの如き社會をべる形式と云ふものはどうしても變へなければ社會が動いてかない、亂れる、纒まらないと云ふことに歸着するだらうと思ふ。自分の妻女に對してさへもぜん申した通りである。いなわが下女げぢよに對しても昔とは趣きが違ふならば、ヘ育者が(*原文「か」)一般の学生に向ひ、政府が一般の人民に對するのも無論手心がなければならない筈である。内容の變化に注意もなく頓着とんちやくもなく、一定不變の型を立てゝさうして、其の型は唯だ在來あるからと云ふ意味で、又其の型を自分が好いてると云ふだけで、さうして傍觀者たる學者の樣な態度を以て、對手の生活の内容に自分が觸れることなしに推してつたならば危ない。
ごんにして云へば、明治に適切な型と云ふものは、明治の社會的状况、もう少し進んで言ふならば、明治の社會的状况を形造る貴方がたの心理状態、夫にピタリと合ふやうな、無理の最も少ない型でなければならないのです。此のごろは個人主義がどうであるとか、自然派の小説がどうであるとか云つて、甚だやかましいけれども、斯う云ふ現象が出て來るのは、皆我々の生活の内容が昔と自然に違つて來たと云ふ證據であつて、在來の型と或る意味で何處かしらで衝突する爲に、昔の型を守らうと云ふ人は、それを押潰おしつぶさうとするし、生活の内容に依つて自分自身の型を造らうと云ふ人は、それに反抗すると云ふやうな場合が大變ありはしないかと思ふのです。丁度音樂の譜で、聲を譜のなかに押込めて、聲自身が如何に自由に發現しても、其の型に背かないで行雲流水かううんりうすゐと同じく極めて自然に流れると一般に、我々も一種の型を社會に與へて、其の型を社會の人にのつとらしめて、無理がなくくものか、或はこゝで大いに考へなければならぬものかと云ふことは、貴方がたの問題でもあり、又一般の人の問題でもあるし、最も多く人をヘ育する人、最も多く人を支配する人の問題でもある。我々は現に社會の一にんである以上、親ともなり子ともなり、朋友ともなり、同時に市民であつて、政府からも支配され、ヘ育も受け又或る意味ではヘ育もしなければならない身體しんたいである。其の邊の事を能く考へて、さうして對手の心理状態と自分とピツタリと合せるやうにして、傍觀者でなく、若い人などの心持にも立入つて、其の人に適當であり、又自分にも尤もだと云ふやうな形式を與へてヘ育をし、又支配してかなければならぬ時節ではないかと思はれるし、又受身の方から云へば斯くの如き新らしい形式で取扱はれなければ一種云ふべからざる苦痛を感ずるだらうと考へるのです。
中味と形式と云ふことに就て、何故なぜお話をしたかと云ふと、以上のやうな譯で此の問題に就て我々が考ふべき必要があるやうに思つたからであります。それを具體的にどう現はしていかと云ふことは、ゥ君の御判斷であります。下らぬことを大分長く述べ立てまして御氣の毒です。大分御疲れでせう。最後迄靜肅に御聽き下すつたのは講演者として深く謝する所であります。

(「中味と形式」<了>)


縮刷に際して       目次   道楽と職業   現代日本の開化   中味と形式   文藝と道徳   創作家の態度   文藝の哲学的基礎

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