天草本平家物語 卷一
新村出 序並閲、龜井高孝 飜字
『天草本平家物語』(岩波書店 1927.6.28)
※ oの開音に、sにの画像を用いた。 ※ 〔マヽ〕 原注。
※ 文意によって表記を改め、鈎括弧を施したところがある。
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序
凡例
目録
原書扉紙
前書
巻1
巻2
巻3
巻4
序
同友龜井文學士が一年有餘の努力を經て還原を完うせられし天草本平家物語抄將に單行世に出でんとす。實に大正十年植松文學士將來せる所の東洋文庫藏複製本に據る。斯道にありては慶幸のきはみとすべく予自身においても喜悦かぎりなし。
遡れば文祿のいにしへ、この書の原本が天草の吉利支丹學林に於て我國西教徒の先達ハビアンによりて、口語體羅馬字に抄出印行せられし以來こゝに至つて三百三十有五年、わづかに一本を極西英京の秘庫にとゞめて天が下に全く佚亡したりしもの、昭和の新運に會していま本地に更正せり。豈に祝福せざるを得んや。
顧みるに二十年のむかし、
予この原本に就きて拔書しをはれるにあたりて册子の末に手書して曰く、「
明治四十一年十二月二十九日午後大英博物館貴重本閲覧室に於て抄了、時に一昨日來の雪華益々ふりしきり寒氣肌に迫る。」と。あゝ
予當年な
ほ壯、倫敦の南郊に住して、霧を侵し雪を衝き日ごとに彼の名閣にかよひつる意氣、彼のなつかしき圓堂を過ぎて奧の一室に進み入り朝な朝な此の稀籍を手にしつるをりの感興、いまなほ髣髴たり。その書國字に還原せられて皇土に復活す。何ぞ悦ばざるを得んや。
天草本平家物語とその抄者
ハビアン(*恵俊)とに關しては、往年
予が著はしゝ所の諸篇、
南蠻廣記中に存するあれば、更めて贅せず。禪より耶に入り、耶より俗に歸したる這の一箇
巴鼻庵の半面は、夙に
吉利支丹物語・
南蠻寺興廢記等の名著にて知らるれど、或は
聖教要理を録して駿府に上つり、或は
妙貞問答書を編して
羅山と對論し、遂に
破提宇子(*破デウス)の一篇を草して跡を江湖にくらましゝ怪僧一生の事績に至つては、近世初期の新時代に於ける思想界の産物として尚詳にするの要あるべし。たゞ西教史籍上未だ
ロレンソや
パウロや
ヰ゛センテ等の如く甚だ顯はれざるを憾とするのみ。近ごろ
シユールハンメル氏の獨譯せる
ルイス・フロイスの
日本志(*日本史)中、
西紀一五六〇年即ち我が
永祿三年の條下洛下一老禪僧の受洗せる
ハビアン某なる者の名見ゆるを、
譯者の細註に、一書を引きて
南蠻寺興廢記の
梅庵となしたるを注意す
れども、時代年齡頗る齟齬するを以て從ひがたしとなす。
龜井氏將に天草本平語抄の新刊書を抱き、「茫々たる巨海に船渡して」西征の途に上らんとするに臨みて、序言を囑せらる。予本書にありて因縁素より淺からず、敢て辭することなく乃ち蕪辭を題するのみ。
昭和二年三月二十八日
新村出
凡例
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一、本書は大英博物館所藏の原本をロートグラフとなしたる副本、東洋文庫本につき、特に同文庫の許諾を得て、これを飜したるものにかゝる。
-
二、原本は葡萄牙(*ポルトガル)風の綴字法によれる羅馬字本なり。扉紙一頁、本書(平家物語)及びイソポのフワブラス開板に關する緒言一頁、本書の解題「讀誦の人に對して書す」三十行組二頁(こゝより頁附け始まる)。次に本文毎頁二十四行、第三頁に起りて四〇八頁に終る。次に目録六頁、少許の正誤表を添ふ。別にイソポの扉紙一頁と外一頁(ともに頁附けを缺く)。その後にイソポのフワブラス(四〇九頁—五〇二頁)、金句集(五〇三頁—五五三頁)、五常(五五四頁)、並に四十二頁に亘る「此の平家物語とイソポのフワブラスのうちの分別しにくき言葉の和らげ」と題したる難語解あり。以上を合綴して一書をなし居れど、平家物語以外の分に關しては本書に關係薄ければ、こゝに一言するにとゞむ。
-
三、原本を國字にかへすに當つては、つとめて原文の味と香とを保存せん事を期したり。唯本書は國語學上の資料としてよりも、讀物として提供せん事を志ししを以て、原文における嚴密なる音韻上の區別は一々これを表現しえざりし場合なきにあらず。
-
四、本書原本の綴字發音は頗る法に適ひ、精確に微妙なる音の變化を現せるが、ここには一々その綴字法を述べず、たゞ二三注意すべきものをあぐるにとゞめんとす。
- イ、今日h音に發音せらるゝ「ハ」行音をfにてfa, fi, fu, fe, foの如く現はす。又「シ」行の拗音「シヤ」以下はxa, xi, xu, xe, xoの如く、「カ」行は主にq(またc)を用う。
- ロ、o音は(*&obreve;)(アウ、アフ等)ô(オウ、オフ、オホ)の如く開合の別正しく、拗音となる場合も同樣なり。京qi、今日qeô、少將xôx、痛うit、いとほしやitôxiyaの如し。
但し、「イ、ヰ」、「エ、ヱ」、「オ、ヲ」の別なし。
- ハ、又、ズ(zu)・ヅ(zzu)・ジ(ji)・ヂ(gi)〔ギはgui〕の別を正し、促音のツはcc, cq, tt, (*ss), s, xx, pp.の初めのc, t, , x, pにてそれ\〃/現はし、たとへば颯々と(asatto)、一筆(ippit)の如し。m, b, pの前の「ン」はm, 又nを用ふ。例・關白(Quambacu)、文武(bunpu)。
- ニ、尚他に一二の例をあぐれば、「イ」はi, y, jに、「ウ」及び「ワ」行はv, u, 及びそれを母音と結合せられ、sは主にを用う。
-
五、原文の發音・語法等をなるべく原のまゝに傳へんため、且つ又一方に國字本として讀み易からしめんがために、大要左の用意をなしたり。
- イ、漢字を充當せし場合に、同一漢字にて二通り以上の讀方ある時、或は音讀、訓讀の別あるものは、概ね旁訓を施せり。
- ロ、延音、音便、促音などより來る發音上の變化にして、今日一般周知のものに對しては普通の假名遣に據れりと雖も、その今日のそれと異なりて本書中に特色を示せるもの、或は固有名詞等にして地方的に異なりと覺しきもの、その他紛れ易きものに對しては、原音を傳へんがために、片假名を用ゐて發音を示せり。母、福原、一日、三四年、無骨さの如し。
- ハ、前項「ロ」に屬する中の特殊の讀方、固有名詞にして原著者の陷れる誤解又は特別のもの、意味のやゝ解し難きものは欄外下部に註して原綴を示せり。(尚その括弧を以てせるものは、本書並に本書と合綴したるイソポのフワブラスのために設けし本書卷末に於ける難語解中の解釋を示す。)(*このファイルでは省略。)
- ニ、誤記・誤植と思はるゝもの少からず。是等は原形そのまゝを載せて左側に小さくマヽ(原のまゝの意)とし、或は前項「ハ」にのべし如く、註せる事もあり。また原本卷尾に掲載せられし正誤表「平家の書き誤り」(拾壹ヶ所)に擧げられし誤謬は、本書には訂正して掲げたり。
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六、原本に於ける〔,〕〔;〕〔.〕等はそれ\〃/適宜〔、〕〔。〕を以て現はしゝが、多少手心を用ゐて増減し、原文の陷れる晦澁を訂せり。また引用符「 」、『 』はすべて新に加へしものにして原本になし。かゝる場合、原本には往々〔:〕符を以てせる事あり。
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七、節の切れ目は殆ど原文に從ひしかど、當然續けらるべき個所(會話の途中など)に節を改め、新しき節にすべき所を續けたるもの少なからず。それらの中、文脈の上にて特に甚しきものに對しては私意を以て改めたり。
-
八、本文の字間中、一頁に一ヶ所(まま二ヶ所)づゝ横線「—」を引き、その行の下に數字を記せるは、その線を境にして原本の頁の移り目を、又その數字は原本の頁附けを示す。(*このファイルでは省略。)
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九、卷首の原述者の緒言「讀誦の人に記す」の末尾に、
f Fito, q Quan, c Cuni, t Tocoro, l Tera narito xirubexi
と記して本文中にあらはるゝ人名、官名、國名、地名、寺院名の左肩にそれ\〃/f, q, c, t(*,l)の文字を小く標記せるが、本書には必要なければ、これを省略したり。
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十、挿入のコロタイプは、特に新に大英博物館の原本につき原大に撮影したるものをもととして複寫せしものにかゝる。
目録
平家卷第一
平家卷第二
平家卷第三
平家卷第四
(原書扉紙)
日本のことばとイストリヤを習ひ知らんと欲する人のために世話に和らげたる平家の物語。
ゼススのコンパニヤ(*イエズス会)のコレジヨ天草においてスペリオーレスの御免許としてこれを板に刻むものなり。
御出世より一五九二。
此の一卷には日本の平家といふイストリヤと、モラーレス・センテンサス(*金句集か。)と、エウローパのイソポのフヮブラスを押すものなり。しかればこれらの作者はゼンチヨ(*異教徒、異端者)にて、その題目もさのみ重々しからざる儀なりと見ゆるといへども、且うは言葉稽古のため、且うは、世の得のため、これらのたぐひの書物を板に開くことは、エクレシヤ(*南蛮寺、吉利支丹寺)において珍しからざる儀なり。かくの如きの極めはデウス(*造物主、神)の御奉公を志し、そのグローリヤをこひねがふにあり。しかれば、このコレジヨにおいて今まで板に開きたる經は、これらの儀に就いて定め置かるゝ法度の心あてに應じてせんさく(*調査、吟味)したるごとく、この一部をもスペリオーレスより定め給ふ人々のせんさくを以て板に開きてよからんと定められたるものなり。天草において、ヘベレイロの二十三日にこれを書す。時に御出世の年紀一五九三(*文祿2年)。
讀誦の人に對して書す
それ
ゼススのコンパニヤのパードレ、イルマン
(*宣教師)故郷を去つて蒼波萬里を遠しとしたまはず、茫々たる
巨海に船渡りして
粟散邊地(*小国)の扶桑
(*日本)に迹を留め、天の
御法を弘め、迷へる衆生を導かんと
精々を抽んでたまふことこゝに切なり。
予も亦造惡不善の身にして、聊か以て
功力なしといへども、この人々を師とし、そのしりへに隨ひ、願ひを同じうす。これを物に比するときんば
(*「時には」か)、
蠅驥に附くに異ならず。
師こゝにおいて
予に示したまふは、「工匠の家屋を造らんと欲するには、まづ其のうつはものを
利くし、
漁人の魚類を獲んと思ふときんば、退いて網を結ぶに若くことなし。さればわれら此の國に來つて天の御法を説かんとするには、この國の風俗を知り、又言葉を達すべきこと專らなり。かるが故にこの兩條の助けとなるべき
日域の書をわが國の
文字に寫し、
梓に
鏤めんとす。
汝その書を選んでこれを編め。」と。
われもとより
工み淺うして才短し。力のおよぶ所にあらざるによつて、千辭萬退すと
いへども、サンタオベヂエンチヤの旨にまかせ、是非を論ぜず貴命にしたがふものなり。しかれば言葉を學びがてらに、日域の往時をとむらふべき書これ多しといへども、なかんづく叡山の住侶、
文才に名たかき
玄惠法印の製作
(*平家物語の作者の一人に擬せられる)、
平家物語に若くはあらじと思ひ、之を選んで
書寫せんと欲するに臨んで、また
我が師宣ふは、「今この
平家をば書物の如くにせず、兩人相對して
雜談をなすが如く、言葉の弖爾波を書寫せよ。」となり。その故を尋ぬれば、「下學して
上達するは常の法なり。何ぞ本を勉めずして末を取らんや? 賢きより賢からんとならば、そのてだてを變へ、一隅を守るべからず。かるが故に言葉の弖爾波のみにあらず、この國の風俗として、一
人にあまたの名、官位の
稱へあることをも避くべし。」となり。故いかんとなれば、「これ物の理を亂すによつて、他國の言葉を學ばんとする初心の人のためには大きなる妨げなり。今此の言葉を學ばんと自他
企つること全く以て別の儀にあらず。
貴きおんあるじ
ゼスキリストのエバンゼリヨの御法を弘めんためなれば、この志願のたよりとならざることをば、皆以て除かずんばあるべからず。」との儀なり。
予退いて愚案を加ふるに、此の事誠にその謂れなきにあらず。一々以て皆しかなり。よつて右の
志願のあてどころに應じ
師の命に從つて、嘲りを萬民の指頭に受けんことを顧みず、此の物語を力の及ぶ所は
本書の言葉を違へず
書寫し、拔書となしたるものなり。伏して請ふ、博雅の君子、これを讀んで、
情深うして才の短きを嘲弄すること勿れ。時に御出世
一五九二、デゼンブロ、一〇
不干ハビヤン謹んで書す。
平家物語
卷第一
第一 平家の先祖の系圖、また忠盛の上の譽れと、清盛の威勢榮華の事。
物語の人數
右馬之允 喜一檢校
右馬之允。 檢校の坊、平家の由來が聞きたい程に、あら\/略してお語りあれ。
喜一。 やすい事でござる。おほかた語りまらせうず。まづ
平家物語の書き始めには、奢りを極め、人をも人と思はぬやうなる者はやがて亡びたといふ
證跡に、
大唐・日本において驕りを極めた人々の果てた
樣態をかつ申してから、さて六波羅の入道前の
太政大臣〔マヽ〕
清盛公と申した人の行儀の不法なことを載せたものでござる。
さてその
清盛の先祖は
桓武天皇九代の後胤、讚岐守
正盛が孫、刑部卿
忠盛の嫡男でござる。この
忠盛の時までは、先祖の人々は
平氏を
高望の王の時下されて、武士となられてのち、殿上の仙籍をば許させられなんだ。しかるを
忠盛に
鳥羽の院と申す帝王、「得長壽院と申す寺を建て、また三十三間の堂を造つて一千一體の佛を据ゑよ。その御返報にはどこなりとも明かうずる國を下されうずる。」と仰せられた。しかるところで、かの
堂寺を宣旨の如くに、程經て
造畢せられたによつて、その折節に但馬國が明いたをすなはち下されてござつた。
鳥羽の院なほ御感の餘りに内の昇殿を許されたによつて、
忠盛三十六の年初めて昇殿いたされた處で、
公卿達がこれをそねみ憤つて、同じ年にある時、
忠盛を闇討にせうずると
談合せられたを、
忠盛も傳へ聞いて思はるゝは、「我は
長袖の身でもなし、武士の家に生れた者が、今不慮の恥に遇はうずる事は、家のため、身のため心憂いことぢや程に、詮ずる所は身を全うして、君に仕へよといふ
本文(*本分)があるぞ。」と云うて、かねてその用意をせられた。それといふは、
參内の始めから大きな鞘卷を用意して、束帶の下にいかにもしどけなげにさいて、火のほの暗い
方へ向うて、やはらこの刀を
拔出いて鬢に引當てられた
れば、よそからは、たゞ氷やなどのやうに見えた。それによつて
諸人の目をすまいてこれを見まらした
(*見参らせた)。その上かの
忠盛の郎黨、もとは一門でござつた
家貞といふもの、薄淺黄の狩衣の下に萠黄威の鎧を着て、弦袋をつけ、太刀を脇
挾うで、殿上の小庭にちやうど畏まつてゐた。これを見て、その所の番衆どもが怪しめていふやうは、「そこに布衣のものがゐるは何者ぞ? 狼藉な奴ぢや。出よ、出よ。」とせめたれば、
家貞これをきいて、「その事ぢや。わたくしが相傳の
主殿忠盛を今宵おの\/闇討に召されうとあることを傳へ聞いてござるほどに、そのなられうずるやうを見屆けうとて、かくて罷入るほどに、えこそ出で申すまじけれ。」とて、なほ
揺り坐つた。これらを詮ない事と思はれたかして、その夜の闇討はござなかつた。
さうあつて
忠盛は御前で舞はれてござつたれば、公卿達がこの人をあざけつて、拍子をかへて、伊勢瓶子は酢瓶なりと云うて、はやされてござつた。さうせられた仔細は、
忠盛中ごろ都の住居もうと\/しうなつて、伊勢國に
住國がちにあつたによつて、その國の
器物にことよせて、伊勢瓶子と申された。その上
忠盛目がすがめであつたによつて、かう申されてござつた。さうあつたれども、
忠盛も御前のこと
ではあつつ、せうやうも無うて、まだそのお遊びもすぎなんだれども、面目なさにかひそかに罷出でらるゝとて、横たへてさゝれたかの刀を紫宸殿のうしろで皆人の見るに、ある人に預け置いて出られてござつた。かの郎黨の
家貞待ち受けて「さていかゞござつたぞ。」と申したれば、
忠盛その樣態を知らせたう思はれたれども、云ふならば、殿上までも切り上りさうな、ものゝ面魂であつたによつて、「別のこともないぞ。」と答へられてござつた。
右馬。 さて\/それはいたづらなこと(*無益な悪さ)を公卿達はせられたの?
喜。 その事でござる。あの公卿達がこのやうな事をせらるゝことは、今に始めぬことでござる。それによつて中頃
權の帥(*藤原季仲)と申す人あまり色がKうござつたによつて、見る者ども
K帥と異名をつけてござる。その人が右の如くに、御前において舞はれたれば、それもまた公卿達拍子をかへて、「あなくろ\〃/Kき
頭がな。いかなる人の漆ぬりけん。」というて、はやされてあつた。また
忠雅公と申したお人がござつたが、これは十ばかりの時、父におくれさせられて、
孤兒にならせられたを、
播磨守と云ふ人が聟にとつて、いかにも花やかにもてなされたが、この
忠雅公もさきの如
くに内裏で舞はせられたれば、また公卿達の細工に、「播磨
米は木賊か、椋の葉か。人の綺羅を研ぐは。」と云うて、はやされてござつた。
右馬。 そのやうに惡口狼藉をせられたれども、みな人がこらへてゐたよの?
喜。 その事でござる。上古にはかやうの事がござつたれども、事が出できなんだが、末代には何とあらうぞと云うて、みな人も忠盛の面目を失はれたときは、氣遣ひをいたされたと、きこえてござる。
右馬。 してそれは何と果ててあつたぞ?
喜。 なか\/、猶さきを語りまらせうず。さてそのまゝでも置かれいで、殿上人達が一同にまた
忠盛のことを帝王へ訴へられまらした。その仔細は、「總別劒を帶して座敷に列り、兵仗をたづさへて内裏へ
出入りをすることは別しての仔細が無うてはないことぢやに、この
忠盛は相傳の郎黨ぢや申して、つはものを内裏のお庭に召置き、或は腰刀をさしながら節會の座に列らるゝ、この兩條は前代未聞の狼藉でござるによつて、罪科に行はせられいではかなはぬ儀ぢやほどに官位をも剥がせられいではかなふまじい。」とまつくろに訴へられた。帝王も大きに驚かせられ
て、即ち
忠盛を召して、「この事は何と。」とお尋ねあつたれば、
忠盛その時申さるゝは、「まづ郎黨がお庭まで伺候仕つたることは全く拙者か存じての儀ではござない。但し近日御前の人々私に對せられて
何ぞたくませらるゝ仔細があると云ふ儀を傳へ承つて、
年來の家人ではござり、その恥を助けうずるために、
忠盛に知らせまらせいで、ひそかに參つてござれば、更に力に及ばぬ儀でござる。もしこの上でもなほその科あると思召すならば、かの身を召し進ぜうずるか? 次にまた刀の儀は、やがて身内に預け置いてござる。これを召出だされ御覽ぜられて、刀の
實否によつて、科の御沙汰をもなされうずるか。」と、申されたれば、
帝王之を聞召されて、「げにもそれは尤もぢや。まづさらばその刀を取寄せよ。」と仰せられて、御覽なさるれば、上は鞘卷のKう塗つたに、中は
木刀に銀箔を押いてさゝれてござつた。これは當座の恥辱をのがれうずるために刀をさいたふりを人には見せられたれども、
後日の訴訟をかへりみて木刀をさゝれた。それによつて
帝王も「この
謀は弓箭にたづさはる者の上には尤も
神妙なことを仕つた。」と仰せられ、又「郎黨がお庭へ伺候仕つたことも武士の郎黨の慣ひなれば、
忠盛が科ではないぞ。」と仰せられ、以ての外叡感なされた
れば、罪科などの沙汰は夢にもござなかつた。
右馬。 さて\/忠盛と云ふ人はおぞい(*賢い、恐ろしい)人であつたの?
喜。 して、こればかりと思召すか? 忠盛といふ人は文武二道の人でござつた。それによつて、ある時また忠盛備前國から都へ上られてござつたに、帝王「明石おもては何とあるぞ。」と、御尋ねなされたれば、その御返事には、
有明の月も明石の浦風に、波ばかりこそよると見えしが
と、申上げらるれば、帝王御感なされてござつた。
右馬。 それはいかほどのよはひを保たれてあつたぞ?
喜。 年五十八で死なれてござる。清盛は嫡男でござつたによつて、その跡をついでしだい\/に官位にもあがり、遂には天下をも一人してほしいまゝにせらるる程の威勢でござつた。
右馬。 なう喜一、ついでにその清盛の事をも聞きたいよ。
喜。 こなたさへ草臥れさせられずは、わたくしはなんぼうなりとも、語りまらせう。
右馬。 いや、このやうな事をば身共らは七日七夜聞いてもあかぬぞよ。
喜。 それならば語りまらせう。
清盛家督を受取られてより、右に申したごとく、威勢、位も肩を並ぶる人もござなかつた。さて
清盛五十一のころ病に冐され、存命も不定に見えたによつて、その祈りのためにか出家入道して法名をば
淨海と名のられてござつた。
天道からその所作を御納受なさるゝしるしにか、病もたちどころに
平癒して、人の從ひつくことはまことに吹く風の草木を靡かすがごとく、また世のあまねく仰ぎ敬うたことは、さながら降る雨の國土を濕すやうにござつた。それによつて、かの
清盛の御一
家の人々とさへいへば、公家武家ともに面を迎へ、肩を並ぶる人もござなかつた。
清盛の小舅に
時忠の卿と申す人がござつたが「此の一門でない人はみな人非人ぢや。」と申された。それによつていかな人もそのゆかりに結ぼほれうと仕つた。餘りの事に衣紋の書きやう烏帽子のためやうまでも、六波羅樣と云へば、一天四海の人々みなこれを學ぶほどでござつた。まことに
何たる威勢、位のある人をも、蔭では
徒者は譏らいでかなはぬものなれども、此の
清盛の
世盛の程は聊か
忽せにも申すものもござなかつた。その仔細は
清盛の謀に、
十四五六の
童を三百人揃へて髪を禿に切りまはし、赤い直垂をきせて使はれたが、京
中にみち\/て往返仕つた。それによつて、もし平家の事を惡しい樣に申すものがあれば、一人聞き出ださぬ程こそあれ、三百人の者のうち誰なりとも、これを少しきけば、やがて朋輩に
觸廻らいて、その家に亂れ入つて、財寶、
世帶道具までをも、こつと
(*すっかり)奪ひ取つて、剰さへ平家を譏つた奴をば搦め捕つて、六波羅へ引いて參つた。このやうにござつたによつて、平家の惡しい事共をたとひ目に見、心に知れども、言葉に現はいては得申さなんだ。
清盛の召使はるゝ禿とさへ云へば、道を過ぐる馬、車もよけて通り、内裏の御門を出入するにも何者ぞと咎むるものもなく、まことに都方にて威勢あるやうな人も目を側めて萬事見ぬふりをせられたと申す。この
清盛はわが身の榮華を極めらるゝことは申すに及ばず、一門ともに繁昌せられたによつて、世にはまた人もないやうに見えたと聞えてござる。姫君も八人までござつたが、面々みな縁につかせられた。その内に一人は后に立たせられて皇子を御誕生あつて後には
建禮門院と申した。人のあがめうやまふ事は
言語に及ばぬ儀でござつた。
右馬。 して清盛の嫡子をば何と云ふたぞ。
喜。 重盛と申した。又次男は宗盛、三男をば知盛と申した。此の人々の威勢何れを何れとも申さうずるやうもござなかつた。
第二 重盛の次男關白殿へ狼藉をなされたこと。これ平家に對しての謀叛の根源となつた事。
右馬。 とてもの事に平家に對して起された謀叛の起りをまちつとお語りあれ。
喜。 畏まつてござる。
嘉應元年のことでござつたに、
一院(*後白河上皇)は御出家なされてござつた。されども御出家ののちも萬機のまつりごとをば聞召されたによつて、
院の御所または内裏のうちというても分くかたもござなかつた。
院の御所に召使はるゝ公卿、殿上人、北面にいたるまで、寶、位、みな身にあまるばかりの
態であつたれども、人の心の習ひなれば、なほ
飽足らいで、あはれその人が亡びたらば、その國は明
かうず、その人が失せたらば、その官にはならうずるなどというて、疎からぬ
同士は寄合ひ\/、さゝやきまはられた。
法皇も内々仰せられたは、「昔より代々の朝敵を平ぐるものも多けれども、今の
清盛がやうに心のまゝに振舞ふものはなかつた。これも世も末になり
王法も盡くるしるしぢや。」と、仰せられたれども、ついでがなければ御誡めなさるゝこともござなかつた。平家もまた別して朝家を恨み奉らるることもなかつたに、世の亂れそめた根本は、過ぎし
嘉應二年に、
重盛の次男
資盛の卿十三の年でござつたに、雪ははだれに降つたれば、枯野のけしきまことに面白かつたによつて、若い
侍ども三十騎ばかり召具して、蓮臺野や紫野、右近の馬場に
打出て、鷹どもあまた据ゑさせ、鶉、雲雀などを
追立て\/終日狩り暮いて晩景に及うで、六波羅へ歸らるゝが、道で
關白殿(*藤原基房)の御參内あるに、鼻つきにひたと入合はれた所で、皆人が「何者ぞ。狼藉な奴ぢや。
關白殿の
御出なるに、乘物より下りよ\/。」と制したれども、あまり驕り勇うで、世を世ともせぬ上に、召連れた
侍ども皆二十より内の若い者共なれば、禮儀骨法をわきまへた者は一人もなく、
關白殿の御出ともいはず、一
切下馬の禮にも及ばず、駈け破つて通らうとする所で、暗さは暗し、しか\/
入道の孫
とも知らず、また少々は知つたれども、素知らずして、
資盛の卿を始めとして侍どもみな馬より取つて引落いて大きな恥をかゝれてござつた。
資盛ははふ\/六波羅へ行つて
祖父の
清盛禪門にこの由を訴へられたれば、
清盛は大きに怒つて、「たとひ
關白なりとも
清盛があたりをば憚られうずることぢやに、幼い者に左右なう恥辱を與へられた事は遺恨の次第ぢや。このやうな事よりしてこそ人には欺かるゝぞ。このこと思ひ知らせ奉らいではおくまい。
關白殿を是非とも怨み奉らうずる。」と云はれたれば、
重盛の申されたは、「これは少しも苦しうもござない儀ぢや。若し
頼政ぢやは、
光基などゝ申す源氏どもに欺かれたればこそ、誠に一門の恥辱でもござらうずれ。
重盛が子供とてあらうずる者の、
關白殿の御出に參り
會うて、乘物より下りぬこそ尾籠にござれ。」というて、その時、事にあうた侍どもを召寄せ、「
自今以後も汝等能う心得い。過つて
關白殿へ無禮の由を申さうずるとこそ思へ。」と云うて歸られたれば、その後
清盛、
重盛に
談合もめされず、田舍の侍どもの
強らかな、
清盛の仰せより外はまた恐ろしいこともないと思ふ者ども、
難波・
妹尾などゝいふものを初めとして、都合六千人あまり召寄せて、「來る二十一日
主上(*高倉天皇)御元服の定めのために、
關白殿御出あらうずるほどに、いづくにてもあれ、待受けてお供の奴原どもが髻悉く切つて、
資盛が恥を雪げ。」といひつけられた。
關白殿はこれをば夢にも知らせられず、
主上御元服のお定めのために、常の御出よりも引繕うてござる所に、平家の
兵ども、ひた甲三百騎あまり待受けて、
關白殿を中に取籠め
奉て〔マヽ〕、前後より一度に閧をどつとつくつて、お供の者共が、けふを晴れとでたつたをあそこに追つかけ、こゝに追つつめ、馬より取つて引落し、さん\〃/に打ちたゝいて一々髻を切つた。それのみならず、
御車の内へも弓の筈つきいれなどして、簾かなぐり落し、牛の
鞦、
胸懸切りはなし、散々にしちらいて、喜びの閧を作つて、六波羅へ歸つたれば、
清盛これを聞いて、ようこそしたれと、譽められた。誠に昔から今まで關白殿ほどの人が、このやうな目にあはせられたことは聞きも及ばぬことぢや。これが平家の惡行の初めと、きこえてござる。
重盛はこれを聞いて大きに騷いで、その所へ行き向うたほどの者を皆勘當して云はれたは、「たとひ
清盛いかなる不思議を下知せらるゝとも、なぜに
重盛に夢ほどなりとも知らせなんだぞ? およそは
資盛が
曲事ぢや。栴檀は二葉より
香ばしい
とこそ見えたに、既に十二三にならうずるものが、今は禮儀を存じ知つてこそ振舞はうずるに、かやうに尾籠を現じて
清盛の惡名をたつること不孝の至りぢや。この過りは汝ひとりに歸する。」というて暫く伊勢國へ追ひ下されたによつて、
帝王もこれを聞召され
公卿達も傳へきいて、この
重盛をば別して感ぜられてござつた。
第三 成親卿、位爭ひ故に平家に對し謀叛を企てられたことが現れ、その身を初め、與みした程のもの搦め捕られ、その内に西光といふものは首を打たれた事。
右馬。 さて平家の惡行はかゝらぬ事ぢやの?
喜。 その事でござる。平家の惡行はこればかりでもござない。その上無理な位爭ひをしてあまたの人々をこえて次男
宗盛、右大將といふ官に
上られた。さうあつた所で、
成親卿と申す人、これを無念に思うて
何卒して平家を亡ぼいて本望を
遂げうずると
企てられた。これも思へばいらぬ事であつた。親の
卿〔マヽ〕にまさつてこの
成親卿は大きな國をもあまた持たれ、また子息所從ともに朝恩に誇り、何の不足もなかつたに、このやうな心のついた事はひとへに天魔の所爲と見えた。この
成親卿に限つて平家に對して
疎略あるまいことが本望でござる。その仔細は、その古へ
信頼卿(*藤原信頼)といふ人に一味して平家に
敵對はれたによつて、既に誅せられうずるに定まつたを、
重盛さま\〃/に申して首をつがれたに、その恩を忘れて
外人もない所に
兵具を調へ、武士を語らいおいて謀叛の營みの外には他事なかつた。東山の麓
鹿谷といふ所はよい城であつたによつて、こゝに常は寄合ひ\/、平家を滅ぼさうずるとの謀を回らされたと申す。ある時
法皇も御幸なされたれば、
淨憲法印といふ人もお伴せられてござつた。その夜の酒宴にこの謀叛の事を仰せ合はされてあつたれば、
淨憲の申されたは、「さてもこれほどあまたの人の聞きまらすに、左樣の事はな仰せられそ。若し洩れ聞えたらば、天下の大事に及びまらせうずる。」といはれた所で、
成親卿氣色をかへて、ざつと立たれたが、お前にあつた瓶子を裝束の袖にかけて引倒されたを、
法皇「あれは。」と仰せられたれば、
新大納言(*藤原成親)立歸つて、「
平氏倒
れてござる。」と申されたれば、
法皇笑壺に入らせられ、「猿樂ども參つて曲をつかまつれ。」と仰せられた所に、
康頼(*平康頼)といふ人、「あまりへいじの多いにもて醉うた。」と申されたれば、
俊寛、「それをばなんとせうぞ。」といはれたれば、
西光法師、「首を取るにはしかぬ。」と云ひさまに、瓶子の首を取つて内に入られた。
淨憲これを見て、あまりの事に呆れて、しか\/物をもいはれなんだ。その謀叛に與みした者はあまたあつた中に、先づ
俊寛、
康頼、
西光、また
行綱などといふ者でござつた。
成親卿、
行綱を呼うで、「御邊をば一方の大將に頼むぞ。此の事しおほせてあるならば、國をも庄をも所望にまかせうず。まづ
弓袋の料に。」というて
白布五十端送られた。
やがて勢をも揃へ謀叛を企てられうずる事であつたれども、その折しも比叡の山にむつかしい事ができたによつて、
成親卿は私の宿意を暫くは止められてござつた。されども内議
(*内々の相談)においての支度は樣々であつた。然れども催しばかりでこの謀叛叶ひさうにも見えなんだ所で、
行綱、この謀叛に與みする事は
無益ぢや、と思ふ心がついて、弓袋の料に送られた布どもをば直垂
帷に
裁縫はせて、家の子郎黨共に着せて、目うちしばたゝいてゐたが、平家の繁昌する
樣態を見るに、當時たやすう
傾けがたい儀ぢやに、由ない事に與みしたものかな! 若しこの事が洩れ聞えたならば、
行綱まづ失はれうず。他人の口よりもれぬさきに返り忠して命
生うと思ふ心がついたによつて、
同じ年(*治承元年[1177])の
五月二十日頃
(*ママ)の小夜ふけがたに、
行綱清盛の許へ參つて、「
行綱こそ申さうずる仔細あつてこれまで參つた。」といはせたれば、
清盛、「常にも來ぬ者の來たは何事ぞ? あれ聞け。」と云うて、
盛國といふものを出だされたれば、「人傳に申すまじい事ぢや。」と云ふによつて、さらばというて、
清盛自ら中門の廊まで出でて、「夜ははるかに更けたと見えたに、只今これまで
來らるゝ事は何事ぞ。」と問はれたれば、「晝は人目が繁うござるに依て、
夜に紛れて參つた。この程
院中の人々
軍兵を集めらるゝ事をば何事とか聞かせられた?」「それは比叡の山を攻められうずためと聞いた。」と、事もなげに云はれた時、
行綱近う寄り、小聲になつて申したは、「その儀ではござない。
一向御一家の上とこそ承つてござれ。」「
法皇もしろしめされたか?」「仔細にや及ぶ。
成親卿の軍兵をあつめらるゝも院宣とてこそ呼ばせらるれ。
俊寛が、とふるまうて、
康頼が、かう申して、
西光が、と申して。」などと云ふ事まで、始めからありのまゝにはさし過ぎて云ひ散らいて、「『お暇申す。』というて出でた。」と聞えまらし
てござる。その時、
清盛大きに驚いて、大聲をあげて侍共呼びのゝしらるゝ事
夥しかつた。
行綱なましひ
(*ママ)なる事云ひ出だいて證人にか引かれうと怖ろしさに、大野に火を放いた心地をして、人も追はぬに
執袴して急いで門外へ出でた。
清盛まづ
貞能といふ者を呼うで、「當家を傾けうとする謀叛の者共が京中にみち\/たぞ。一門の人々に觸れい。侍どもをも催せ。」と云はれたれば、馳せまはつて催すによつて、
宗盛、
知盛、
重衡、
行盛その外の一門の人々を始めとして、兵ども甲冑をよろひ、弓矢を帶して雲霞の如く馳せ集つたによつて、その夜の内に、西八條に兵共六七千騎はあらうと見えた。あくれば六
月ついたちのまだ暗かつたに、
清盛、
資成(*安倍資成。検非違使。)といふ者を呼うで、「
院の御所へ參れ。
信成(*平信業。院の近臣。)を招いて申さうずるやうは、『よな\/
近習の人々この一門を滅ぼいて、天下を亂らさうずると企てらるゝによつて、一々に召捕つて尋ね沙汰いたさうずる。それをば
君もしろしめされまじ。』と申せ。」と云はれたれば、
資成急いで御所に馳せ參つて、
信ふさ〔マヽ〕を呼出だいてこの由を申せば、その人も色を失うて御前へ參つてこの由を奏問
(*ママ)せられたれば、
法皇は、「はやこれらが内々たくんだ事が洩れたよ。」と思召されて驚かせられ、「これは何事ぞ。」と計り仰せられて、
分明の
御返事
もなかつた。
資成急いで馳せ歸つて
清盛にこの由を申したれば、「さればこそ
行綱は
眞實をいうた。この事を
行綱が知らせずは
清盛安穩にあらうか。」というて、やがて「謀叛の
輩を搦め捕れ。」と
下知せられたれば、二三百騎ほどづゝ、あそここゝに押寄せ押寄せ搦め捕つてござる。
さて
成親卿の許へ、「申合はせうずる事があるほどに、きつと立寄らせられよ。」と云ひ送られたれば、
成親卿は我身のうへとは露ほどもお知りなうて、「あはれ、これは
法皇の比叡の山を攻めさせられうとあるを、申し止むるために、呼ばるゝ。」とお心得あつて、結構な車にのり、侍
三四人連れて、常よりも引繕うて出でられた。誠にそれが最後とは後に思ひ知られてござつた。西八條近うなつて見らるれば、四五町ばかりが間に軍兵どもみち\/てあつたによつて、「さても夥しい事かな! これは何事ぞ。」と胸打騷いで車より下りて門の中へさしいつて見られたれば、内にも兵ども
隙はざまもなう、みち\/てゐた。中門の口に怖ろしさうな武士どもあまた待受けて、
成親卿の左右の手を取つて、引張つて、「繩をかけまらせうか。」と云うたれば、
清盛御簾の内から見出だいて「あるべうもない。」といはれたによつて、武士ども十四五人前
後左右に立圍うて、縁の上に引上せて、一間な所に押籠うでおいた。
成親卿は夢の心地して、つや\/物をもいはれなんだ。伴をした侍どもも押隔てられて散り散りになり、雜色、牛飼どもも色を失うて、牛、車をすてゝ逃げ去つた。さうする所に、この謀叛に與みした程のものを悉く搦め捕つて參つてござる。
西光はこの事をきいて、さては我身の上ぢやと思うて、鞭を打つて
院の御所に馳せ參る所に、平家の侍共、道で馳せ向うて、「西八條へ召さるゝぞ。きつと參れ。」というたれば、「申上ぐる仔細があつて、
院の御所へ參る。やがて歸り參らう。」というたれども、「憎い入道かな! 何事を奏問せうぞ。さな云はせそ。」というて、馬より取つて引落し、
中に括つて西八條へさげて來た。日の始めから
(*最初から)固より與力の者であつたれば、殊に強う縛めて、坪の内に引据ゑたれば、
清盛大床
(*広縁、廂)に立つて、「この一門を傾けうとする奴がなつた
樣は! しやつこゝへ引寄せよ。」というて、縁の際に引寄せて、物履きながら、しやつらをむず\/とふんでいはるゝは、「もとより己れがやうな下郎の果を
君の召使はれて、なさるまじい官職を下され、父子ともに過分の振舞をすると見たに
違はず、過分の振舞をするのみならず、剰さへ、この一門を滅さうずるとの謀叛に與みし
た奴ぢや。ありのまゝにその樣態を申せ。」とあつた所で、
西光はもとより勝れた
大剛の者ではあり、ちつとも色も變ぜず惡びれた態もなう、居直りあざ笑うて
(*高笑いして)申したは、「さもさうず
(*とんでもない)。
清盛公こそ過分のここ〔マヽ〕をば仰せらるれ。他人の前は知らず、
西光の聞かうずる所では、左樣の事をばえ仰せられまい。院中に召使はるゝ身なれば、
成親卿の『院宣。』というて催された事に、與みせぬとは申さうずるやうもない。それは與み仕つた。但し耳に留まる事を仰せらるゝものかな! 御邊は
忠盛の子であつたれども、十四五までは出仕もえ召されず、
家成の卿(*藤原家成)の邊に立寄らせられたをば、京
童は
高平太とこそ申したが、
保延の頃大將軍を承つて、海賊の
張本三十人あまり搦めて進ぜられた恩賞に四品して、
四位の兵衞佐と申したをさへ、過分の事ぢや、と時の人々は申合はれたに、殿上の交りをさへ嫌はれた人の子で、
太政大臣まで成上つたか? 過分におりやらうず。
侍ほどの者の
受領・
檢非違使になること
例ないことではない。なぜに過分にあらうぞ。」と憚る所もなう申したれば、
清盛はあまり
怒て〔マヽ〕物もいはれなんだ。しばしあつて、「しやつが首左右なう切るな。よく\/縛めておけ。」といはれたれば、
重俊(*松浦重俊)といふ者これを聞いて、足を挾うで、樣々に痛めて問うた。本よ
りあらがはぬ上に責めは嚴し、殘りなう申したを、白状四五枚にしるいて、やがて、「しやつが口を裂け。」というて、口を裂かれ、首を刎ねられた。その外一門眷族
(*ママ)まで成敗にあひまらした。
さて
成親卿は一間な所に押籠められて汗水になつて、「あはれ、これは日頃のあらましごとが洩れ聞えたと見えた。
誰が洩したか。定めて北面の者どもが中にあらうず。」と、思はぬ事なう案じ續けておぢやつた所に、後ろの方から足音が高う聞えたれば、「すは我命を失はうずるとて
武士どもが來る。」と待たるゝ所へ、
清盛自ら板敷高らかに蹈み鳴らいて、
大納言のゐられた後ろの障子をざつとあけられたを見らるれば、
素絹の衣の短からかな
(*短いもの)に、白い大口蹈みくこうで
(*踏みくくみて。大口袴を穿って)聖柄の刀
(*木地のままの柄、又は三鈷の形の柄。法体の者の佩びる刀。)押寛ろげてさすままに、以ての外怒つた氣色で、
成親卿を暫し睨うで、「抑も御邊は平治にも既に誅せられうずる人であつたを、
重盛が身に代へて申しなだめ首をつぎ奉つたに、なんの遺恨を以て、この一門を滅さうずるとの企は何事ぞ? 恩を知る者を人とは云ふ。恩を知らぬをば畜生とこそ云へ。然れども當家の運がつきぬに依つて迎へ奉つた。日頃の御結構
(*企て。計画。)の次第
直に承らうずる。」といはれたれば、
成親卿、「全く左樣の儀はござ
ない。人の讒言でござらうず。よく\/尋ねさせられい。」と、陳ぜられたれば、
清盛云はせもはたさいで、「人やある\/。」と呼ばれたれば、
貞能がそこへ參つたに、「
西光が白状持つて來い。」と云うて、こいよせて
(*「掻き寄せて」か。)二三邊押返し\/讀みきかせ、「あらにくや。この上は
何と陳ぜうぞ。」と云うて、
成親卿の顔にざつと投げかけて、障子をちやうどたてゝ出でられたが、
清盛なほ腹を据ゑかねて、「
經遠(*難波経遠)、
兼康(*瀬尾兼康)。」と呼ばれたれば、そこへ參つたに、「あの男取つて庭に引落せ。」と下知せられたれども、これら左右なうもせず、畏まつて、「
重盛の
御氣色何とござらうぞ。」と申したれば、
清盛大きに怒つて、「よいぞ\/。己れらは
重盛が命をば重んじて我が云ふ事をば輕しむるか? その上は力に及ばぬ。」といはれたによつて、この事惡しからうずと思うたか、二
人の者共、
大納言の
左右の手を取つて庭に引き落いた。その時
清盛心地よげにて「取つて伏せてをめかせい。」と、云はれたによつて、二人の者共、
成親卿の左右の耳に口をあてゝ「
何とやうになりともお聲をそつと出ださせられい。」と囁いて引伏せ奉つたれば、二聲三聲ほどをめかれた。その態あはれなといふも愚なことでござる。
成親卿我身のかうなるにつけても、子息の
少將(*藤原成経)と幼い人々
何たる目にかあはる
ると思ひやらるゝにも、心は身にそはなんだと聞えてござる。さしも暑い六月に裝束をさへも寛げず、暑さも堪へがたいによつて、胸もせきあぐる心地して、汗も涙も爭うて流れた。さりとも
重盛は思ひ離れまじいものをと、いはれたれども、誰して
云はうとも別く方がなうておぢやつてござる。
重盛父の清盛に成親卿を害せられぬやうに教訓をせられた事。
右馬之允。 して重盛はこの事について清盛へ意見をば召されなんだか?
喜。 なか\/
(*勿論)、教訓を召されてござる。その樣態をも語りまらせう。
重盛その後遙かに程を經て嫡子
權亮(*平維盛)を車の尻にのせて、兵をば一人も具せられず、只世の常の伴ばかりで、いかにもおほやうげでそこへ出でられたれば、
清盛を始めて皆不審さうに見られた。車より下りらるゝ所へ、
貞能つゝと寄つて、「なぜにこれ程の御大事に軍兵どもをも召具せられぬぞ。」と申したれば、「大事とは天下の大事をこそ云へ。
かやうの私事を大事といふ事があるか。」といはれたによつて、兵仗を帶した者共も皆そゞろびいて
(*そぞろいて。そわそわして)見えた。さて
成親卿をばいづくに置かれたかと、こゝかしこの障子を引きあけ\/見らるれば、ある障子の上に蜘蛛手結うた所があつたを、こゝかとあけて見られたれば、
成親卿は涙に咽び、うつぶしになつて目も
見合せられなんだを、
重盛いかにと云はれたれば、その時見つけ、嬉しげに思はれた氣色
何とも譬へがたかつた。その時
成親卿云はれたは、「何事とは存ぜねども、かゝる目に會ひまらするを
御覽ぜられい。貴邊さやうにござれば、さりともとこそ憑み奉つてござれ。平治にも既に誅せられうずるを御恩を以て首をつがれまゐらせて、二位の大納言に
上つて、年も既に四十に餘り
候。御恩こそ
生々世々にも報じつくし難う存ずる。今度も同じくは甲斐なき命を助けさせられて下されよ。さもあるならば、出家入道仕り、如何なる片山里にも引籠つて、ひたすら後世菩提の勤めを營みまらせうずる。」と申されたれば、
重盛、「さはござりともお命を失ひ奉るまではよもござるまじい。たとひさありとも、
重盛請うで罷入れば御命にも代り奉らうずる。」と云うてそこを出て、父の
禪門の御前へ參つて、「あの
成親卿を失はれうずることをば能く\/御思
案なされい。その仔細は、あれは先祖にもなかつた
正二位の大納言まで上られ、殊に當時
君の御寵愛も並びないに、やがて
首を刎ねられうずる事は如何ござらうぞ? 唯都の
外へ出ださせらるゝを以て事は足ることでござる。昔から今に至るまで讒奏もある習ひでござれば粗忽な御成敗は
似合はぬ。既にこのやうに召置かれた上は、急ぎ失はせられずとも苦しうもない儀ぢや。『刑の疑はしきをば輕んぜよ。功の疑はしきをば重んぜよ。』と申すことがござる。事新しうござれども、
重盛かの
成親卿の妹に相具し、子にてござる
維盛はまた聟になつてござる。その縁にひかれてかう申すと思召さるゝか? 全く其儀ではござない。世のため、家のため、國のため、君のための事を存じて申す。むさと人を死罪に行へば、世も亂れ、また身の上に報ふと見えてござれば、恐ろしい儀ぢや。御榮華は殘る所ござなければ、思召すこともあるまじい。さりながら子々
孫々までも繁昌こそ希ふことでござれ、先祖の善惡は必ず子孫に報ふと見えた。それによつて
積善の家には餘慶あり、
積惡の門には餘殃とどまると申し傳へた。如何樣にも今夜首を刎ねられう事は然るべうもない。」と申されたによつて、死罪をば思ひ止められてござつた。
その後重盛中門に出でて侍どもにいはれたは、「縦ひ仰せなりとも成親卿をむさと失ひ奉るな。清盛腹の立つまゝに物騷がしい事をめされては、後に必ずお悔みあらうず。僻事して我を怨むな。」と云はれたれば、兵ども皆舌を振つておそれをののいたと申す。さて經遠・兼康に向うて、「けさ成親卿に情なう當つた事は返す\/奇怪な。重盛がかへりきかうずる所をば何とて憚るまいことは? 片田舍の者はかうあるぞ。」といはれたれば、經遠も兼康もともに恐れてござる。かやうにあつて重盛は立歸られた。
さて
成親卿の侍ども宿所へ走り歸つてこの由を告ぐれば、
北の方以下の女房達聲も惜まず泣き叫ばるゝ態、誠にあはれにあつた。「既にはや武士が向ひまらする。
少將殿を始め、公達も皆
捕れさせられうずると聞えたれば、急いで何方へも忍ばせられい。」と申したれば、「今はこれ程の身になつて殘り留まり、
安穩にゐて何にせうぞ。唯同じ一夜の露と消えうことこそ本意なれ。さても今朝を限りと知らなんだ。悲しや。」というて、ふしまろうで泣かれた。既に武士ども近づくときこえたれば、「このやうにしてまた恥がましううたてい目を
見うもさすが
(*やはり絶えられぬ)ぢや。」というて、
十(*ママ)にならる
る
女子、八歳の
男子を車に取乘せ、いづくをさすともなく
遣出だいて、漸うとして
雲林院といふ所に落着いて、その邊りの寺に
下しおいて、送りの者どもも、みな我身の捨てがたさに暇を乞うて歸れば、その跡はいとけなうをさない人々ばかり殘り留まつて、また事とふ人もなうておぢやらうずる。
北の方の心の中は誠に推し測られて哀れな事でござる。日の暮れ行くにつけても、
成親卿の露の命この夕を限りぢやと思ひやらるゝにも、消え入る心地であつた。その宿所の態をいふに、女房・侍多かつたれども、物をさへとりしたゝめず
(*片づけず)、
門をだにもおしもたてず。馬どもは厩に
並立つたれども、草飼ふもの一人もなし。夜あくれば馬・車
門に立並び、あまたの
客人〔マヽ〕座に列なつて遊び、戲れ、舞ひ、踊り、世を世とも思はれず、近いあたりの人は、ものをさへ高ういはず、怖ぢ畏れてこそ、きのふまでもあつたに
夜の
間に變る態、「樂しみつきて悲しみ來る。」と、ある人
(*大江朝綱、後江相公)の書き置かれたも、今目の前に知らるゝ態でござる。
第五 成親卿の子息少將についての事。
右馬。 してその子息少將は何となられてあつたぞ?
喜。
少將はその夜しも
院の御所に
上臥(*宿直)してまだでられなんだに、
成親卿の侍共急いで御所へ馳せ參つて、
少將殿を呼出だいて、この由を申したれば、「なぜに
宰相(*平教盛)の許からは今まで知らせられぬぞ。」と云ひも果てられぬ所へ、
宰相殿からと云うて使が來た。この
宰相と申すは
清盛の弟でござるが、宿所は六波羅の總門の内にあつたによつて、
門脇の宰相殿と申した。
少將のためには舅ぢや。「何事かは知らねども、
清盛きつと西八條へ具し奉れとある。」と云はせられたれば、
少將このことを心得て、近習の女房達を呼出だいて、「ゆうべ何とやら、世上が物騷がしうござつたを、例の山法師の下るか、などとよそに思うてござつたれば、はやそれがしが身の上になつてござる。
成親卿は夜さり斬られうとの沙汰ぢや。それがし
少將も同罪でござらうと存ずる。今一度御前へ參つて
君をも見奉りたうは存ずれども、既にかゝる身に罷成つてござれば憚り存ずる。」と申された所で、女房達御前へ參つてこの由を奏せられたれば、
法皇大きに驚かせられて、「さればこそ、けさ
清盛が使は此の事であつ
たよ。まづこれへ。」と御氣色あつたによつて、
少將御前へまゐられた。
法皇も
御涙を流させられ、仰下さるゝ旨もなし、
少將も涙にむせび申上げらるゝ旨もござなかつた。やゝあつてさてもあらうずることでなければ、
少將袖を顔に押しあてゝ、なくなく罷出でられた。
法皇は後ろをはるかに御覽じ送られて「たゞ末代こそ心憂けれ。これをかぎりでまた御覽ぜられぬ事もやあらうずる。」とて御涙を流させられたと申す。まことにこれは
少將の上にとつては忝けない儀でござつた。
院中の人々
少將の袖をひかへ、袂にすがつて、名殘を惜み、涙を流されぬはなかつた。さて舅の
宰相の許へでられたれば、その
北の方は近う産をせられうずる人であつたが、けさよりこの歎きを打添へては既に命も絶入らるゝかと、疑ふほどにあつた。
少將御前を罷出でらるゝよりして流るゝ涙はつきせぬに、
北の方の有樣を見らるれば、いとゞ詮方なう見えられたと聞えてござる。
少將の
乳人に
六條と云ふ女房があつたが、そこへでて申したは、「生れおちさせらるれば、やがて
君を
抱き上げまゐらせ、月日も重なるに從うて、わが身の年のゆくことをば歎かいで、
君の大人しうならせらるゝをのみうれしう思ひ奉つて、あからさまとは思へども、ことしは既に二十一
年離れ奉らず、
院内へ參らせられて遲う出でさせらるゝをさへ、おぼつかなう思ひまらしたに、今更いかなる
御目にかあはせられうずらう。」と云うて泣くところで、
少將「いとな泣いそ。
宰相殿のさてござれば、命ばかりはさりとも請ひ受けられうずる。」と慰めらるれども、人目も知らず、泣き悶えられてござる。
さうある所へ、西八條から使しきなみに立つたれば、
宰相、「行き向うてこそ、ともかくもならうずれ。」と云うて、
少將も
宰相の車のしりにのつて出でられた。保元・平治よりこの方、平家の人々は樂しみ榮えのみあつて、憂ひ歎きはなかつたに、この
宰相ども〔マヽ〕ばかり、由ない聟ゆゑに、このやうな歎きをばせられてござつた。西八條近うなつて車をとゞめ、まづ案内を申入れられたれば、
清盛「
少將をばこの内へは、入れらるゝな。」といはるゝによつて、そのあたり近い侍の家におろしおいて、
宰相ばかり門の内へは、入られた。
少將をば、いつしか兵ども打圍うて守護した。憑まれた
宰相殿には離れらるゝ
少將の心の
中、さこそはたよりなかるらうと、哀れに見えた。
宰相中門に入られたれども、
清盛對面もせられず。
季貞を以て申入れられたは、「由ないものに親しうなつて悔しうござれども、今更かひもなし。相具しさせて
(*相具せさせて)ござるも
の
(*少将の北の方)、このほどは惱むことのござつたに、けさよりこの歎きを打添へては、すでに命も絶えうずる態と見えてござる。なにかは苦しうござらうぞ?
少將をば、しばらく
宰相に預けさせられい。
宰相かうでござれば、なじかはひがことをさせまらせうずるぞ。」と申されたれば、
季貞參つて、かの由を申せば、「あはれ例の
宰相がものに心得ぬ。」とて、とみに返事もせられいで、やゝあつて、
清盛云はれたは、「『
成親卿この一門を滅いて天下をみだらさうずる
(*乱らむとする、乱さむとする)と、くはたてられた。
少將は既に
成親卿の嫡子であれば、疎うもあれ、親しうもあれ、えこそ申し宥むまじけれ。もしこの謀叛遂げられたならば、御邊とてもおだしうやあらう。』と申せ。」といはれたれば、
季貞歸りまゐつて、このよしを
宰相に申したれば、まことに本意なさうにして重ねて申さるゝは、「保元・平治よりこのかた
度々の合戰にもまづ
御命に代りまらせうずるとこそ存じたれ。この後もあらい風をばまづ防ぎまらせうに、たとひそれがしこそ年罷寄りたりとも、若い子供があまたござれば一方の御固めになり奉らぬことはござるまい。それに
少將暫く預りまらせうと申すをお許されないことは、
一向宰相を
二心あるものと思召さるゝか? これほどにうしろめたう思はれ奉つては、世にあつても何
に致さうぞ? 今はたゞ身の暇を下されて出家入道して、高野・粉河にも籠りゐて、一筋に後世菩提の勤めを營みまらせうず。由ないうきよの交りぢや。世にあればこそ望みもあれ、望みのかなはねばこそ怨みもあれ。しかじ、うき世を厭うて、まことの道に入らうずるには。」といはれたれば、
季貞參りて、「
宰相殿ははや思召し切つたと見えてござれば、ともかうもよきやうに
御計らひなされい。」と申したれば、その時
清盛大きに驚いて、「さればとて出家入道まではあまりけしからぬ儀
(*とんでもないこと)ぢや。それならば、『
少將をば暫く御邊に預け奉る。』と云へ。」といはれたによつて、
季貞歸つてこの由を申せば、「あはれ人の子をば持つまじいものぢや。我子の縁に結ぼほれぬにおいては
(*関係を持たなかったならば)、これほどまで心をば碎くまじいものを。」というて出でられた。
少將は待受け奉つて、「さて何とござるぞ。」と申されたれば、「
清盛あまりに腹を立てて
宰相には遂に對面もせられず。『叶ふまじい。』としきりに申されたれども、出家入道まで申したれば、それ故にか暫く宿所に置き奉れといはれたれども、始終しかるべからうとも見えぬ。」
少將、「さござればこそ、それがしは御恩を以てしばしの命ものびてござる。それについては、
成親のことをば何と聞召されたぞ?」「それまでは
思ひもよらぬことぢや。」といはれたれば、その時涙をはら\/と流いて、「まことに御恩をもつて、しばしの命も生きまらせうずることは然るべうござれども、命の惜しいも
父を今一度見たう存ずる故ぢや。
成親が斬られうずるにおいては、
少將とても、かひない命生きて何に仕らうぞ? たゞ一所でいかにもなるやうに仰せられて下せ〔マヽ〕れうずるか。」といはれたれば、
宰相世にも心苦しげで、「いさとよ。御邊の事をこそとかう申したれ、それまでは思ひもよらねども、
成親卿の御事をば、けさ
重盛樣々に申されたれば、それもしばしは心易いやうにこそ承れ。」と云はるれば、
少將なく\/手を合せて喜ばれた所で、「子ならずは誰か只今わが身の上をさしおいて、これほどまでは喜ばうぞ? まことのちぎりは親子のの〔マヽ〕か
(*中)にこそあれ。子をば人の持つべいものかな。」とやがて思ひかへされた。さてけさのごとくに同車して歸られたれば、宿所には女房達死んだ人の生きかへつた心地して、皆さしつどうて
喜泣きどもせられてござつた。
第六 重盛父清盛の法皇へ對し奉つての憤りのふかいことを諫められ、その謀として勢を集められた事。
右馬。 喜一、まちつとおつゞけあれ。
喜。 さらば夜がふけまらせうずれども、語りまらせう。
清盛はこのやうに人々をあまた
警めおいても心ゆかずや思はれつらう、すでに赤地の錦の直垂にK糸威の腹卷の
白金物打つたをき、
銀の蛭卷した小長刀の、つねに枕を放たず立てられたを脇に挾うで中門の廊へ出でられた態、まことにゆゝしう見えた。そこで、「
貞能。」と召された。
貞能も
木蘭地の直垂に、緋威の鎧をきて、お前に畏まつたに、やゝあつて、
清盛云はれたは、「
貞能、この事をばいかゞ思ふぞ? 保元・平治よりこの方、汝が知るごとく
君のお爲に命を捨てうとする事は度々の儀ぢや。たとひ人なんと申すとも、七代まではこの一門をばいかでか思召し捨てさせられうぞぢやに、
成親といふ無用のいたづらもの、
西光といふ下賤の
不當人(*不道人。道に外れた慮外者。)が申す事につかせられて、やゝもすればこの一門を滅させられうずるとある、
法皇の御結構こそ遺恨の次第なれ。この後
も讒奏するものあらば、當家滅せとの院宣を下されうずと思ふぞ。朝敵となつては、いかに悔ゆるとも益あるまじい。しばらく世を靜めうほど、
法皇を鳥羽の北殿へ遷し奉るか、しからずは、これへまれ御幸をなし參らせうずる、と思ふぞ。其儀ならば、北面のともがら箭をも一つ射ようずる。侍どもにその用意せよと觸れい。大方は
清盛院方の奉公をば思切つたぞ。馬に鞍置かせよ。きせなが取出だせ。」とわめかれた。
盛國(*主馬判官)急いで、重盛へ馳せ參つて、「世は既にかうでござる。」と申したれば、重盛聞きもあへず、「あ
は、はや
成親卿が
首を刎ねられたな。」といはるれば、「さはござなけれども、しげ盛〔マヽ〕きせながを召さるゝ上は侍共、皆
打立つて、只今法住寺殿へ寄せうと出立ちまらする。
法皇をば鳥羽殿へ押籠めまゐらせられうずるとぢやが、内々は鎭西のかたへ流し奉らうずると、ぎせられたと聞ゆる。」と申せば、
重盛、「なぜに只今さやうの事があらうぞ。」と思はれたれども、けさの
清盛の氣色さる物狂はしい事もやあるらうとて、車を飛ばせて西八條へ出でられて、門前で車よりおり、門の内に差入つて見らるれば、
清盛腹卷をきられた上は、一門の人々おの\/色々の直垂に思ひ思ひの鎧をきて、中門の廊に
二行に着座せられた。そのほか諸國の諸侍などは縁に
居こぼれ、庭にもひしと並居て旗竿ども、引きそばめ\/、馬の
腹帶を固め、兜の緒を締め、只今
打立たうずるけしきどもぢやに、
重盛烏帽子・直衣に、大紋の指貫のそばを取つてざやめき入られたは、事の外に見えた。
清盛伏目になつて、「あはれ例の
重盛が世をへうする
(*世を軽んじる)やうに振舞ふものかな! 大きに諫めうずる。」と思はれたれども、さすが子ながらも、内には五戒を保つて慈悲を先とし、外には五常を亂らず、禮儀を正しうする人であれば、あの姿に腹卷をきて向はうずる事、さすがおもはゆう恥しう思はれたか、障子を少し引立てゝ素絹の衣を腹卷の上にあわてぎに着られたが、胸板の金物少しはづれて見えたを隱さうと、しきりに衣の胸を
引違へ\/せられた。
重盛は舍弟
宗盛の
座上につかれた。
清盛も云出ださるゝ旨もなし。
重盛も申さるゝ事もなし。
やゝあつて
清盛云はれたは、「
成親の卿が謀叛は事の數でもない。
一向法皇の御結構であつたぞ。しばらく世を鎭めうほど、これへまれ御幸をなし奉らうずると思ふはいかに。」と云はれたれば、
重盛聞きもあへず、はら\/と泣かれた。しげ盛〔マヽ〕いかに\/とあきれらるれば、やゝあつて、
重盛涙を抑へて申さるゝは、「この仰せを承
るに、御運ははや末になつたと存ずる。人の運命の傾かうとては、必ず惡事を思立つものでござる。また御有樣さらに現とも覺えず。太政大臣の官にいたる人の甲冑をよろふこと禮儀にそむくではござないか? なかんづくに御出家の御身でござる。これまことに、内には既に破戒無慚の罪を招くのみならず、
外にはまた仁、義、禮、智、信の法にも背かうずる儀ぢや。かた\〃/恐れある申事でござれども、心の底に意趣を殘さうずる儀でござなければ申上ぐる。世に四恩がござる。それといふは天地の恩、國王の恩、
父母の恩、衆生の恩、これでござる。そのなかに最も重いは朝恩でござる。普天の下王土にあらずと云ふ事はござない。さればこそもろこしにかの
頴川〔マヽ〕の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折つて露の命をついだる賢人も、勅命そむきがたき禮儀をば存じたとこそ承つてござれ。いかに況や、先祖にもいまだ聞かぬ太政大臣を極めさせられ、かう申す
重盛も
愚なる〔マヽ〕身にてござりながら内大臣の位に至り、しかのみならず、國郡なかばは一門の所領となつて、
田園悉く一家のしんだいとなつた儀は、希代の朝恩ではござないか? 今これらの
莫大の御恩を忘れて、みだりがはしう
法皇を傾けさせられうずる事は、
天道の
御内證にもそむきま
ゐらせられうずる。その上
君の思召し立つところ、道理なかば無いではござない。中にもこの一門は、代々の朝敵を平げて四海の
逆浪をしづむる事は
無雙の忠なれども、その賞に誇ることは傍若無人とも申さうず。然れども當家の運命未だつきぬによつて、謀叛も既に露はれてござる。その上仰合はせらるゝ
成親卿を召置かれた上は、たとひ
君いかなる不義を思召し立たせらるゝとも、
何の恐れがござらうぞ?
所當の
(*相応の、しかるべき)罪科行はれうずる上は、退いて事の由を陳じさせられば、
君のお爲にはいよ\/奉公の忠勤をつくし、民の爲にはます\/撫育の哀憐をいたされば天命に叶はせられ、天の御加護あらば、
君も思召し直す事、などござるまじいか? 君と臣とを並ぶるに親疎わくかたなく
(*親疎に拘わらず君を立て)、道理と僻事をならぶるにいかで道理につきまらすまいか? これは君の
御理でござれば、叶はぬまでも
院の御所を守護し奉らうず。その故は
重盛今大臣の大將に至るまで、しかしながら
君の御恩でござる。その恩の重いことを思へば、千顆萬顆の玉にもこえ、その恩の深い色を案ずれば
一入再入(*重ね染めした)の紅にもすぎた。しかれば院中に參り籠らうず。其儀にてござらば、
重盛が身に代り命に代らうずるとちぎつた侍ども少々ござらうず。これらを召具して
院の
御所を守護しまゐらするぞならば、さすが以ての外の御大事でござらうず。さても迷惑な事かな!
君のお爲に奉公の忠をいたさうずるとすれば、迷盧
(*須弥山)八萬
(*八万由旬)の頂よりもなほ高い
父の恩を忽ち忘るゝに、不孝の罪を忘れうとすれば、
君のお爲に既に不忠の逆臣とならうず。
進退こゝに窮つて是非いかにも分ちがたい儀ぢや。申受くる所
詮はたゞ
重盛が
首を召されよかし。院中をも守護し奉らず、院參のお伴をも仕るまじい。かの
唐土の
蕭何は大忠節かたへに越えたによつて、大きなる位に至つて劒を帶し沓をはきながら殿上に昇る事を許されたれども、叡慮に背くことがあれば
高祖重ういましめて深う罪せられた。かやうに先蹤を思ふにも
富貴と云ひ、榮華といひ、朝恩といひ、重職といひ、かた\〃/極めさせられたれば、御運の盡けうずる事もかたい事ではない。『富貴の家には祿位重疊せり。再び實なる木はその根いたむ。』と
(*後漢書に)見えてござれば心細う存ずる。いつまで命生きて亂れうずる世をも見まらせうずるか? たゞ末代に
生をうけてかゝる憂目にあふ
重盛が果報の程をこそつたなうござれ。只今も侍一人に仰附けられて
御坪の内に引出だされて
重盛の
首を刎ねられうことは易い程のことでござる。これをおの\/聞召せ。」と
て、直衣の袖もしぼる計りに涙を流しかきくどかれたれば、其の座に並居られたる程の人々、心あるも心ないもみな袖をぬらされぬはござなかつた。
清盛、頼み切られた
重盛はかやうにあれば、力もなげになつて、「いや\/、それまでは思ひもよらぬ儀ぢや。惡黨どもが申すことにつかせられて僻事などが出でけうずる
(*出で来むとする)かと思ふばかりでこそあれ。」といはれたれば、
重盛、「たとひいかなる僻事出でくるとも、
君をば
何となせられうか。」と云ひすてゝ、つい立つて中門に出でゝ侍どもに仰せらるゝは、「只今
重盛が申した事をば汝等聞かぬか? けさよりこれにあつて、かやうの事ども申し靜めうと存じられ〔マヽ〕ども
(*存じつれども)、餘りに
只騷ぎに騷いだによつて歸つた。院參のお伴においては、
重盛が
首の刎ねられたらうずるを見て仕つれ。さらば人參れ。」と云うて、小松殿へ歸られた。さて
盛國を呼うで、「『
重盛こそ天下の大事を聞出だいたれ。我を我と思はう者共は皆物の具して馳せ參れ。』と披露せよ
(*触れ回れ)。」と下知せらるればこの由を披露した。おぼろけには騷がれぬ人の、かゝる披露のあるは別の仔細のあるにこそと云うて、皆物の具して我も\/と馳せ參る。淀・
羽束師・宇治・岡の屋そのほか京あたりの在々所々にあふれゐた兵共、或は鎧を着ていまだ兜をき
ぬもあり、或は矢を負うて未だ弓を持たぬもあり、片鐙ふむやふまつであわて騷いで馳せ參る。小松殿にさわぐ事あると聞えたれば、西八條に
數千騎あつた兵ども、
清盛にかうとも申さず、ざゞめきつれて小松殿へ馳せ參つて、少しも弓箭にたづさはるほどの者は、一人も殘らなんだ。その時
清盛大きに驚いて、
貞能を召して、「
重盛は何と思うて是等をばよびとるぞ? これで云うたやうに
清盛が許へ討手などを向へうずる
(*向けんとする)か。」と云はれたれば、
貞能涙をはら\/と流いて、「人も人にこそよれ。いかでかさやうの儀はござらうぞ? こゝで仰せられた事どもをも御後悔でこそござらうずる。」と申したれば、
清盛、
重盛に中
違うては惡しからうずと思はれたか、
法皇を迎ひ〔マヽ〕奉らうずる事をも、はや思ひとゞまり、腹卷ぬぎおいて素絹の衣に袈裟打掛けて、心にも起らぬ念誦してゐられた。
小松殿には
盛國著到
(*著到帳)をつけたに、馳せ參じた兵共一萬餘騎と
註いた。著到披見の後、
重盛中門に出でて
侍共に云はるゝは、「日頃の契約を違へず參つたる事は、まことに
神妙な儀ぢや。異國にさるためしがある。周の
幽王、
褒■(女偏+似:し::大漢和6177)と云ふ最愛の后をもたれた。天下第一の美人であつたれども、
幽王の心にかなはなんだ事は、
褒■(女偏+似:し::大漢和6177)笑み
を含まずというて、
一圓后笑ふ事をせられなんだ。異國の慣ひには、天下に亂が起るとき所々に火をあげて、太鼓を打つて兵を召す謀がある。これを
烽火と云ふ。或時に
兵亂が起つて所々に火をあげたれば、
后これを御覽ぜられて、「さても不思議や。火もあれほど多いか。」と云うて、その時初めて笑はれた。この
后は一度笑めば
百の媚生ずるほどの美人であつたによつて、
幽王うれしいことにして、その事となう常に烽火をあげられたによつて、皆人馳せ集れども、何事もなければ、やがて散つた。かやうにせらるゝ事が度々に及うだれば、後には參る者がなかつた。或時隣國より敵が起つて、
幽王の都の〔マヽ〕攻むるによつて、烽火はあぐれども、例の
后の火に慣らうて、兵も參らず、その時都は傾いて
幽王も敵に滅び〔マヽ〕られた。かやうの事があるときは、
爾今以後もこれより召さうとき、かくの如く參れ。
重盛不思議の事を聞出だいて召した。されどもその事を聞直いた。僻事であれば疾う\/歸れ。」とて皆歸された。
眞實にはさせる事をも聞出だされなんだれども、
父を諫められた言葉に從うて、我身に勢のつくかつかぬかの程をもしり、又父子軍をせうではなけれども、かやうにして
清盛の謀叛の心も和がうずるかとのはかりことと聞えた。「君君たらずと
云ふとも臣臣たらずんばあるべからず。父父たらずと云ふとも子以て子たらずんばあるべからず。」と云ふ語
(*古文孝経)のごとく、この
重盛は
君の爲には忠あつて、
父の爲には孝ある人ぢやによつて、
法皇もこの由を聞召されて、「今に始めぬ事なれども、
重盛が心の
中はまことにはづかしい事ぢや。
仇をば恩を以て報ぜられた。」と仰せられた。「果報こそめでたうて大臣の大將にまで至られうずれ。容儀
帶佩(*風采)人にすぐれ、才智才覺さへ世にこえた人ぢや。」と云うて、時の人々みな感じ合はれたと申す。「國に諌むる臣あればその國安く、家に諌むる子あればその家必ず正し。」
(*古文孝経)といふことは尤もぢや。昔にも末代にもこのやうな人は稀な事でござる。
第七 成親卿とその子少將流罪に行はれた事。
右馬。 成親卿の果てをお語りあれ。
喜。 其のお事ぢや。
同じ年の六月二日に
成親卿をば公卿の座へ出だし
奉つて〔マヽ〕
物を參らせたれども、胸せきふさがつて、お箸をだにも立てられなんだ。車を寄せて疾う\/と申せば、心ならず乘らせられたを、軍兵ども前後左右に打圍うだれば、我方の者は一人もなし。「今一度
重盛にあひ奉りたい。」と云はれたれども、それも叶はなんだによつて、「たとひ重科を蒙つて
遠國へ行くものとても、人一人身にそへぬ事があるか。」というて、車のうちでかきくどかれたれば守護の武士共も皆鎧の袖をぬらいてござる。西の
朱雀を南へゆかるれば、大内山
(*上皇の御所)をも今はよそに見られ、年頃見馴れ奉つた雜色・牛飼までも名殘を惜うで涙をながし、袖をしぼらぬはなかつたれば、まして都に殘り留まらるゝ
北の方、をさない人々の心のうちは推量られて哀れな。鳥羽殿を過ぎらるゝにも、「此の御所へ御幸なされたには一度もお伴には外れなんだものを。」とて通られた。南の門に
出て船を遲しと急いだれば、「これはいづくへ行くぞ? とても失はれうならば、同じうは都近いこゝもとでもあれかし。」と云はれたは、せめての事
(*思い余ってのこと)でござつた。側近うそうた武士を誰そと尋ねらるれば、
經遠と答へたに、「もし此の邊に我方樣のものやある。船にのらぬさきに云ひ置かうずる事がある。尋ねて參らせよ。」といはれたれば、その邊を走りまはつて尋ねたれども、我
こそ
成親卿の方といふものは一人もなかつた。
經遠歸つてこの由を申したれば、
成親卿涙をはら\/と流いて、「さりともわが世にあつた程は、隨ひ附いた者共一二千人もあらうずるに、今はよそながらもこの有樣を見送る者のない事の悲しさよ。」とて泣かれたれば、猛い
武士共も、みな袖をしぼらぬ者はなかつた。
熊野
詣、天王寺詣などには、二つ瓦の三棟につくつた船にのり、次の船二三十艘も漕ぎつゞけてこそあつたに、今は世の常の屋形舟に大幕を引いて、見もなれぬつはものどもに具せられて、けふを限りに都を出で、浪路はるかに赴かれた心の中推量られてまことに哀れな。その日は津の國
大物の浦につかれた。
成親卿、既に死罪行はれうずる人が流罪になだめられたは、
重盛のさま\〃/に申された故ぢや。同じく三日に大物の浦へ京より
御使がついたというてひしめいたによつて、
成親卿「こゝで失へといふ儀にてこそあるらう。」と聞かれたれば、さはなうて、備前の兒島へ流せとの使であつた。
重盛の方よりも、「いかにもして都近い片山里におき奉らうずるとさしも申しつれども、かなはぬ事こそ世にある甲斐もござなけれ。さりながらも、御命ばかりは申受けてござる。」との文を送られた。
經遠が許へも、「相構へて
よく\/いたはり奉れ。
御心にばし違ふな。」といひやり、旅のよそほひをも細々と沙汰し送られてござつた。
成親卿さしも忝けなう思召された
君にも離れ奉られ、束の間も去りがたうおもはれた
北の方、をさない人々にも別れはてゝ、「こはいづちへゆく身ぞ?
一年山門の訴訟によつて既に流されたを、
君惜ませられて、西の七條より召しかへされたが、これはされば
君の御誡めでもなし。これは何とした事ぞ。」と天に仰ぎ、地にふし、悶え焦れられた。明くれば船押出だいて下らるゝに、道すがらもたゞ涙にのみむせばるれば、長らへられうずとは見えねども、さすが露の命は消えやらいで、あとは白浪に隔たれば、都はしだいに遠ざかり、日數やう\/かさなれば、遠國は既に近づいて、備前の兒島に漕ぎよせて、民の家のあさましげな柴の庵に入れ奉つた。島の習ひなれば、後ろは山、前は海、磯の松風、浪の音、いづれもあはれはつきせぬ事であつた。およそは
成親卿一人にも限らず、縛めを蒙むつたともがらが多かつたを、皆それぞれに流罪せられたと聞えまらした。その頃
清盛は
福原の別業にゐられたが、同じ月の十九日に
盛澄と云ふ者を使者で
宰相の許へ、「存ずる旨があれば、
少將を急いで
これへ賜はれ。」と云ひ遣はされたれば、
宰相、「さらばたゞ有つたる時、ともかくもなつたぞならば何とせうぞ?
(*仕方のないことだが。) 今更物を思はせうずることこそ悲しけれ。」とて、福原へ下らせられうずると仰せられたれば、
少將も泣く\/
出立たれたれば、女房達は「叶はぬもの故、猶もたゞ
宰相の申されいかし。」と歎かれた。
宰相、「存ずるほどの事をば申しつ。世を捨つるよりほかは、今は何事を申さうぞ? されどもたとひいづくの浦にござるとも、我命のあらう限りは
訪ひ奉らうず。」と云はれた。
少將は今年
三にならるゝ
をさない人を持たれたが、日頃は若い人なれば、公達などの事もさしも
濃やかにもなかつたれども、今はの時になれば、さすが心にかゝつたか、「この幼い者を今一度見せい。」といはれたれば、
めのと抱いて參つたを、
少將膝の上に置いて髪をかきなで、涙をはら\/と流いて、「あはれ、汝七歳にならば、男に成いて
君へ參らせうとこそ思うたに、今は云ふかひもない。若し命生きて生立つたらば、法師になつてわが後の世を弔へ。」といはるれば、まだいとけない心に何事をか聞きわきまへられうぞなれども、うちうなづかるれば、
少將を始め
たてまツて
母上、
めのとの女房、その座に
竝居たほどの人は、心あるも、心ないも皆袖をぬらさぬはなかつたと申す。
さうある所に、福原の御使、「やがて今夜鳥羽まで出でさせられい。」と申したれば、「いくほども延びないもの故に今宵ばかりは都の内で明かさう。」といはるれども、
切りに申すによつて、その夜鳥羽まで出でられた。
宰相もあまりの怨めしさに、今度は同心もせられなんだ。福原へくだりつかるれば、
清盛、
兼康に云ひつけて備中國へ流された。
兼康は
宰相のかへり聞かれうずる所を恐れて、道すがらもさま\〃/にいたはり慰め奉つた。さりながら
少將は慰まるゝ事もなし、夜晝たゞ父
成親卿のことのみを歎かれた。
成親卿は備前の兒島にゐられたを、これを預つた
經遠、「こゝはなほ船津近うて惡しからうず。」というて
地へ渡し奉り、備前と備中兩國の境に庭瀬の郷有木の別所といふ山寺に置き奉つた。備中の妹尾と備前の有木の別所の間はわづかに五十町に足らぬ所であれば、
少將吹き來る風までをも懷しう思ひ、或時
兼康を召して、「是より
成親卿のござる備前の有木の別所へはいかほどの道ぞ。」と問はれたれば、直ぐに知らせまらしては惡しからうと思うたか、「片道十二三日でござる。」と申した。其の時
少將涙をはら\/と流いて「日本はむかし三十三
箇國であつたを、なかごろ六十六箇國に分けられたと聞えた。さいふ備前・備中・備後ももと
は一國であつた。さうあれば備前・備中の間、遠うても兩三日には過ぎまじい。近いを遠う云ふは、
成親卿のござる所を我に知らせまいとてこそ申すらう。」とてその後は戀しけれども、問ひもせられなんだと申す。
第八 成親の最期の事。その北の方都にて尼になり、かの後世を弔はれた事。ならびに少將重ねて鬼界が島へ流され、そこで康頼や俊寛やなどと憂目をしのがれた事。
右馬。 とてもの事に(*どうせのことだから)成親卿の果てられた樣態と、少將の鬼界が島へまた流された事をお語りあれ。
喜。 心得まらした。さうござつて
俊寛僧都と、
康頼と、この
少將相具して三人薩摩の鬼界が島へ流されてござつた。かの島は都をでてはる\〃/と浪路を凌いで行くところぢやによつて、おぼろけでは船も通はず、島にも人がまれな。おのづか
ら人はあれとも此の土の者にも似ず、色はKうて牛のごとく、身にはしきりに毛が
生へて、云ふ言葉も聞き知らず。男は、烏帽子もきず、女は髪もさげず、衣裳がなければ人にも似ず、食するものもなければ、たゞ殺生をのみ先きとする態ぢや。賤が山田をかへさねば、米穀の類もなく、園の桑を取らねば、絹綿のたぐひもなし。島の
中には高い山があつて常に火が燃え、硫黄といふものがみち\/たによつて硫黄の島とも名づけたと申す。
雷は常に鳴り
上り、鳴り下り、麓には雨が繁うて、
一日片時も人の命絶えてあらうずるやうもなかつた。
さて
成親卿は少しくつろぐ事もあらうかと思はれた所に、子息
少將もはや鬼界が島へ流されたと聞かるれば、「今はさのみつれなう何事をか待たうぞ。」というて、出家の志があるといふ儀を、便りにつけて
重盛へ申されたれば、此の由を
法皇へ伺ひ奉つて御免なされたによつて、やがて出家になつて、榮華の袂を引きかへて憂世をよその墨染の袖に身をやつされた。
成親卿の
北の方は都の北山邊に忍うでおぢやつた。唯さへも住馴れぬ所はものういに、いとゞ昔をしのばれたれば、過行く月日をも明かしかね、暮しわづらはるゝ態であつた。女房・侍多かつたれども、或は世
を恐れ、或は人目をつゝむほどに、問ひ
訪ふもの一人もなかつた。されどもその中に
信俊(*源左衛門尉信俊)といふ侍一人情の深い者であつたによつて常は訪ひ奉つたに、或時
北の方信俊を召して、「あはれ、是には備前の兒島にと聞えたが、此の程聞けば有木の別所とやらんにござるといふ。何卒して今一度はかない筆の跡をなりとも奉つて
御音信を聞かうとこそ思へ。」と云はれたれば、
信俊涙を抑へて申すは、「幼少より御憐みを蒙つて
片時も離れ奉らなんだれば、お下りの時も何卒して御伴を仕らうずことでござつたれども、平家より許されなんだれば、力に及ばいで罷留まつた。いまに召されたお聲も耳に留まり、諫められ奉つたお言葉も肝に銘じて片時も忘れ奉らぬ。たとひ此の身はいかなる目にも會はばあへ、疾う\/御文を賜つて參らうずる。」と申したれば、北の方
斜ならず喜うで、やがて書いて出された。をさない人々も面々に文を書いて、
信俊に渡されたを取つて、はる\〃/と備前國有木の別所へ尋ね下つて、預つた武士
經遠に案内を云うたれば、志の程を感じてやがて見參に入れた。
成親卿は唯今しも都の事を云ひ出だいて歎き沈んでゐらるゝ所に、「京より
信俊が參つた。」と申したれば、「夢か。」と云うて、聞きもあへず起き直つて「これへ\/。」と召さ
れたれば、
信俊參つて見奉るに、まづ御住居の心憂い態はさる事で、墨染の御袂を見奉るにこそ、
信俊目もくれ心も消え入るやうで、漸うとして
北の方の仰せられたる事どもを細々と申してお文を取出だいて參らするに、是をあけて見らるれば筆の跡は涙にかきくれて、そこはかとは見えねども、「幼い人々の餘りに戀ひ悲しまるゝ態、我身もつきせぬ物思ひに堪へ忍ぶべうもない。」と書かれたれば、「日頃の戀しさは事の數でもない。」と云うて悲しまれた。さて四五日過ぎて
信俊、「是に在つて最期の御有樣を見奉らうずる。」と申せば、預りの武士
經遠の、叶ふまじいとしきりに申すによつて、力及ばいで「さらば上れ。我は近う失はれうずと思ふ。此の世にないものと聞くならば、相構へて、わが後世を弔へ。」と云うて、返事を書いて出だされたれば、
信俊はこれを受取つて、「又こそ參り奉らうずれ。」と云うて、暇を申して出づれば「汝が又來う度を待ちつけうとも覺えぬぞ。あまりに慕はしう覺ゆるに暫し\/。」と仰せられて、度々呼返された。さてあらうずることでなければ、
信俊も涙を抑へて都へ歸り上つて、
北の方にお文を參らせたれば、これをあけて御覽ずるに、はや出家めされたと覺しうて、
御髪の一房、文の奧にあつたを、二目とも見もせられず、「形見こそなか
なか今はあだなる事よ。」と云うて伏しまろうで泣かれたれば、幼い人々も聲々に泣き悲しまれた態、申すも愚かぢや。
さて成親卿をば同じ八月の十九日に備前と備中兩國の境、庭瀬の郷吉備の山中といふ所で、遂に失ひまらした。その最期の有樣はさま\〃/にきこえた。酒に毒を入れて進めたれども、叶はなんだれば、岸の二丈計りある下にひし(*長柄の刺股)を植ゑて、上より突き落せば、ひしに貫ぬかれて遂に果てられたと申す。まことに無下にうたてい事どもでござる。成親卿の北の方は此の世にない人と聞かるれば、いかにもして今一度變らぬ姿を見もし、見えうとてこそけふまで樣をもかへなんだれ、今は何にせうず。」と云うて、菩提院といふ寺へ行つて樣を變へ、形の如く弔ひなどをして、後世を弔はれた。幼い人々も面々に花を手折り、閼伽の水を掬んで、父の後世を弔はれたは、まことに哀れな事ぢや。
又鬼界が島の流人共は、露の命を草葉の末にかけて、惜まうずるではなけれども、
少將の舅
平宰相の知行
肥前國鹿瀬の庄から衣食を常に送つたれば、それをもつて
俊寛僧都も
康頼も命を生きてすごされた。
康頼は流された時、周防の室づみ
(*室積)で出
家になつて法名をば
性照とついた。出家はもとより望みであつたれば、
終にかく背きはてける世の中を疾く捨てざりしことぞ悔しき
と讀うでござる。
第九 康頼と少將とかの島で熊野詣での眞似をし、また卒都婆を作つて流されたことを蘇武が雁書に引合はせて語る事。
右馬。 その島であつた事どもをもお語りあれ。
喜。 畏まつた。
少將と
康頼はもとより熊野信心の人であつたによつて、「
何卒して此の島の内に熊野に似た所を尋ね
出いて、熊野と名づけて拜まうずる。」と云うて、あそここゝを尋ねらるゝに、或所に、やまの景色の木立に至るまで、ほかよりもなほすぐれた所があつた。南を見れば、海が漫々として雲の波、煙の浪深う、北を顧れば、また
山峯の峨々
とし聳えた所から瀧が漲り落ちて、その音まことに凄じうて松風神さびたすまひ
(*有様)、熊野の權現のゐらるゝ那智の山に似たによつてやがてそこを那智の山と名づけて、日毎に二人ともに熊野詣での眞似をして、都へ歸るやうにと祈られた。
康頼入道あまりの詮方なさに、千本の卒都婆を作つて、
假名・實名
(*通称・名乗り)と二首の歌をかいて、もし故郷の方へゆられゆく事もあらうかと云うて流いた。その歌は、
薩摩潟沖の小島に我ありと親には告げよ八重の汐風
思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほ故郷は戀しきものを
と書いて、その卒都婆を浦に持つて出て、「せめて一本なりとも都あたりへゆられゆけかし。」と云うて、千本ながら海に入れたれば、そのうち一本安藝國の嚴島の渚に打上げた所で、
康頼のゆかりの僧のあつたが、然るべい便りがあらばいかにもしてかの島へ渡つてそのゆくへを聞かうずる、とて西國修行に出て、まづ嚴島へよつたが、日暮れて月のさしいでて汐の滿ちくるに、そこはかともない藻屑どものゆられよるなかに、卒都婆の
形の見えたを、何となう取つて見たれば、「沖の小島に我あり」と書いたその
文字をば
彫入れ刻みつけたれば、波にも洗はれず、あざ\/として見えた。
「さても不思議や。」と云うて、これを取つて笈のかたにさいて都に上り、
康頼が老母の
尼公、妻子どもが、一條の北、紫野と云ふ所に忍うでゐたに見せたれば、「さらばこの卒都婆が唐土の方へもゆられ行かいで、何しにこれまで傳へ來て、今更ものをば思はするぞ。」と悲しむことは計りもなかつた
(*計り知れなかった)。程經て是を
法皇も御覽なされ、「さてもむざんや! 未だこの者共は命の生きてあるにこそ。」と仰せられて、御涙を流させられ、即ちその卒都婆を
重盛の許へ送らせられたを、父の
清盛に見せられたれば、
清盛も岩木でなければ、さすが哀れに思はれたと聞えてござる。
清盛のあはれまれた上は、京
中の
上下老いたも若いも鬼界が島の流人の歌と云うて口ずさまぬはござなかつたと申す。
さても千本まで作つた卒都婆ぢやほどに、さこそは小さうあつたらうに、薩摩潟からはる\〃/と都まで傳はつたことは不思議ぢや。餘り思ふことは昔もこのやうな驗のある故か。古へ
漢王胡國を攻められた時、初めば
(*ママ)李少卿(*李陵)と云ふ者を大將軍にして三十萬騎向けられたが、漢の
軍は弱く、胡國の戰ひは
強うて、官軍皆打滅され、剰さへ大將軍
李少卿まで生捕られた。次に又
蘇武といふ者を大將で五十萬騎
を向けられたれども、猶漢の軍は弱う
胡の戰ひは強うて
官軍〔マヽ〕は皆滅びて兵六千人餘り生捕られた。その中に大將軍
蘇武を初めとして宗徒の兵
(*衆徒になぞらえるか。)を六百三十人ほどすぐりだいて、一々に片足を切つて
追放いたれば、即ち死する者もあり程をへて死ぬる者もあつた。その中に
蘇武ばかりは死ないで片足ない身となつて、山に登つては木の實を拾ひ、春は澤べの根芹を摘み、秋は
田面の落穗を拾ひなどして露の命を
過いた。田にいくらもあつた
雁どもも
蘇武に見慣れて恐れなんだ所で、
蘇武これは皆わが
故郷へ通ふものぢやとなつかしさに、思ふ事を一筆かいて、雁のつばさに結びつけて放いたに、かひ\〃/しうもこの雁がその文を受取つて、漢の
昭帝と申した帝王御遊びなさるゝに、夕ぐれの空薄曇つて、何とやら物哀れな折節、
一行の雁がとびわたつた。其の中に
雁一つ飛上つて〔マヽ〕
(*飛び下がって)己れが翅に結びつけた玉章をくひきつて落いたを、官
人これを取つて、
みかどへ奉つたれば、披いて御覽なさるゝに、「昔は岩のほらに籠められて三年の愁歎を送り、今はいかにも曠い
(*広い)田のうねに捨てられて足一つの身となつてござる。
屍は此の地に散らすといふとも、魂は再び
君のほとりに仕へうずる。」と書いた。それからして文を雁書とも雁札とも名づけたと申す。
さて
漢の帝王はこれを見て「まだ胡國に
蘇武が生きてゐればこそかうはあれ。」と云うて、今度は
李廣といふ將軍にいひつけて、百萬騎を差遣はされたれば、此の度は漢の戰ひが強うて胡國の軍がやぶれた。味方戰ひ勝つたと聞いたれば、
蘇武は曠い野の中から這出て、「是こそ古への
蘇武よ。」と名のつて、十九年の
春秋を送つて片足は切られ、輿に
舁れて故郷に歸つた。
蘇武十六の年胡國に向けられたに、
みかどより賜つた旗をば何として隱いたか、身を放さいで持つたを今取出だいて
みかどの
御目にかけたれば、
君も臣もなのめならず感じて、その
重賞に大國をもあまた下されたと聞えてござる。唐土の
蘇武は書を雁の翅につけて故郷へ送り、日本の
康頼は浪のたよりに歌を故郷に傳へた。あれは唯一
筆のすさみ、これは二首の歌、かれは上代、これは末代、胡國、鬼界が島の境を隔て、世々はかはれども風情は同じ風情であつた。まことにふぎ〔マヽ〕
(*不思議)なはかりことでござる。
第十 鬼界が島の流人を許さるゝについて後に殘らるゝ俊寛の悲しみ深い事。
右馬。 その鬼界が島の流人どもを清盛の許されたやうをお語りあれ。
喜。 后に立たせられた
清盛の娘
中宮御懐妊あつて、以ての外惱ませられたによつて、
帝王をはじめ
諸人みな氣遣ひをいたいた。
清盛も種々の祈祷などをせられたれども、その
驗がなかつた所で、鬼界が島へ流された
少將のしうとの
宰相殿、此の事を傳へ聞いて
重盛へ申されたは、「
中宮御産の御祈りさま\〃/にござるとも、非常の赦にすぎた事はござるまいと存ずる。中にも鬼界が島の流人ども、召し還されうずるほどの功徳・善根はいかでかござらうぞ。」と申されたれば、
重盛父の
禪門の前に出でて、「あの
少將が事を
宰相の
強ちに歎かるゝが不便にござる。
中宮の惱ませらるゝ御祈りにも、あの
少將をこそ召し還されうことなれ。人の思ひを休めさせられば思召す事もかなひ、人の願ひを叶へさせられば、天道これを
御納受あつて
御願もすなはち成就致いて、
中宮やがて
皇子御誕生なされて、家門の榮華も
彌盛んにござらうずる。」と申されたれば、
清盛日頃にも似いで以ての外に和らいで、「さて\/
俊寛と
康頼が事はなんとあらうぞ。」といはれた所で、「それをも同じく召し還されてよ
うござらうず。若し一人なりとも留めさせらるゝならば、なか\/罪業でござらうず。」と申されたれば、「
康頼が事はさる事ぢやが、
俊寛は隨分
重盛〔マヽ〕
(*入道)が
口入(*口添え)を以て人となつたものでありながら、所こそ多いに、かの
鹿谷に城郭を拵へて、
我に謀叛を
企んだものであれば、
俊寛をば思ひもよらぬ事ぢや。」といはれた。
重盛叔父の
宰相殿を呼うで、「
少將は既に赦免せられたぞ。御心易う思召せ。」と云はれたれば、
宰相手を合せて喜ばれた。「下る時も、『これほどの事をなぜに見
(*ママ。「身」か。)は申受けぬぞ。』といふふりで、
私を見る度毎には涙を流いたが不便にござる。」と申されたれば、
重盛、「誠にさこそござるらう。子は誰とても悲しい者なれば、猶々よう申さうずる。」というて、鬼界が島の流人を召し還さるゝ
清盛の
許文を取つて、使を下された。
宰相殿はあまりの嬉しさにお使に私の使をそへて下された。
夜を晝にして急いで下つたれども、心にまかせぬ海路なれば、浪風を凌いでいく程に都をば七月の下旬に出たれども、九月の二十日ごろにやう\/と鬼界が島にはついてござる。お使をば
基康(*丹左衛門尉基康)と申したが、船から上つて、「是許に都から流されさせられた
丹波の少將殿や
俊寛御坊、また
康頼などはござらぬか。」と聲々に尋ねた所
で、二人の人は例の熊野詣でをして留守で、
俊寛一人ばかり殘つてゐられたが、是を聞いて、「餘り思へば夢か。また天魔破旬が我心をたぶらかさうとていふか。現とも覺えぬものかな。」というて、あわてはためいて、走るともなく倒るゝともなく、急いで使の前に走り向うて、「何事ぞ。是こそ京から流された
俊寛よ。」と名乘られたれば、雜色が頸にかけさせた
文袋から
清盛の許文を取出いて捧げた。披いてみらるれば、「重科は遠流に免ず。早く歸洛の思ひをなすべし。
中宮御産の御祈りによつて非常の
赦〔マヽ〕行はる。然る間鬼界が島の流人
少將、
康頼法師赦免。」と許り書かれて、
俊寛と云ふ文字はなかつたによつて、「
禮紙(*添紙・包紙)にこそあるらう。」というて禮紙を見るにも見えず。奧より端へ讀み、端から奧へ讀めども、二人とばかりかゝれて三人とは書かれなんだ。さう\/する内に、
少將や
康頼の戻られたが、
少將の取つて見らるゝにも、
康頼が讀むにも、二人と計り書かれて三人とは書かれなんだ。夢にこそこのやうな事はあれ、夢かと思ひなさうとすれば現なり、現かと思へばまた夢のやうなり。その上二人の人の許へは都から言傳文どもがいくらもあつたれども、
俊寛僧都の許へは言問ふ文一つもなかつた所で、
俊寛いはるゝは、「さて\/、我等三人は罪も同じ罪、配所
も一つ所ぢやに、なんとしたれば赦免の時、二人は召し還されて、一人こゝに殘らうぞ? 平家の思ひ忘れか、
執筆の過りか? 是は
何とした事どもぞ。」と、天に仰ぎ地に俯いて、泣き悲しまるれども甲斐もなければ、
少將のたもとにすがつて、「
俊寛がかやうになるといふも、
御邊の父
大納言殿の由ない謀叛の故ぢや。さうあればよその事とは思召すな。赦されねば都までこそは叶はずとも、此の船にのせ九國の
地へつけて下されい。おの\/のこれにござつた程こそ、春は
燕、秋は
田面の雁のおとづるゝやうに、おのづから故郷の事をも傳へ承つたれ。今より後は何として聞かうぞ。」と云うて悶え焦れられた。その時
少將の申さるゝは、「誠にさこそ思召すらう。我等が召し還さるゝ嬉しさはさる事なれども、そなたの御風情を見置き奉れば、行く空をも覺えねども、打乘せ奉つて上るにも及ばず、せん方ない事ぢや。都のお使も叶ふまいと申さるゝ上、赦されもないに、三人ながら島を出でたなどゝ聞えば、なかなか惡しうござらうずる程に、
それがしまづ罷上つて人々にも申合せ、
清盛の氣色をもうかゞうて、迎ひの人を進ぜうず。其の間はこの日頃ござつたやうに思ひないて待たせられい。命はいかにも大切な事なれば、縦ひこの瀬
(*機会)にこそ洩れさせ
らるゝとも、遂には何故に赦免なうてあらうずるか。」と慰めらるれども、人目をも知らず泣き悶えられた。
既に「船を出ださうずる。」と犇きあへば、
俊寛乘つては下り、下りては乘つつ、あらましごとをせられた。
少將の形見には夜の衾、
康頼の形見には一部の法華經を留め置いて、
纜を解いて押出せば、
俊寛は綱に取附いて、腰になり、脇になり、たけの立つまで引かれてでられたが、たけも及ばねば船に取附いて、「さていかに
各、
俊寛をば遂に捨て果たさせらるゝか? 是程には存ぜなんだ。日頃のお情も今は何ならず。ただ理を枉げてお乘せあつて、せめて九國の地まで。」と口説かれたれども、都のお使、「いかにも叶ふまい。」というて、取附かれた手を引きのけて、船をば遂に漕ぎ出だせば、
俊寛は詮方なさに、渚に上つて、倒れ伏いて、幼い者の乳母や
母などを慕ふやうに足ずりして、「これ乘せてゆけ、具してゆけ。」とをめき叫べども、漕ぎ行く船の習ひなれば、跡は白波計りであつた。さほどまだ遠ざからぬ船なれども、涙にくれて見えねば、
俊寛は高いところに走り
上つて沖の方を招かれた態、かの
松浦小夜姫が
唐土(*ママ)ぶねを慕うて領巾ふした
(*ママ)も
(*肥前風土記・万葉集)、是には過ぎまいと見えた。船も漕ぎ隱れ、日も暮るれども、あ
やしの
臥床へも歸らず、浪に足打洗はせて露にしをれて、その夜はこゝにあかされた。「さりとも
少將は情の深い人ぢやほどに、よいやうに申しなさるゝこともあらうず。」とたのみをかけて其の瀬に身をも投げられなんだ
心中は、誠におろかな事でござつた。
第十一 少將・康頼都へ歸らるゝ道すがらの事。
右馬。 さてこれは誠にあはれなことであつたな? して少將や康頼はそのまゝ上られてあつたか?
喜。 其のお事ぢや。其の人々は鬼界が島をでて、
宰相の知行の肥前國鹿瀬の莊に着かれたれば、
宰相京より人を下いて、「年の内は浪風がはげしうて道のあひだも覺束ないほどに、そこもとで、能う身をもいたはつて、春にならばお上りあれ。」とあつたれば、
少將も鹿瀬の莊で其の年をば暮された。
あくる年(*治承3年[1179])の
正月下旬に
丹波の少將も成經も〔マヽ〕
(*同一人。平康頼とあるべきところ。)鹿瀬の莊を立つて都へと急がれたれども、餘寒がなほはげしうて
海上もいかう荒れたれども浦傳ひ島傳ひにして、二月の十日頃に備前の兒島に着かれた。それより父
大納言殿の住まれた所を尋ね行つて見らるゝに、竹の柱、古りた障子などに書きおかれた筆のすさみを見て、「あはれ、人の形見には手蹟にすぎたものはない。書き置かれぬならば、
何として是をば
見うぞ。」というて
康頼入道と二人讀んでは泣き、泣いては讀みなどせられた。そこに、「
安元三年七月二十日出家。同じき二十六日
信俊下向。」とかゝれた。是を以て
信俊が參つたといふことも知られた。さてその墓を尋ねて見らるれば、松の一むらある中に、かひ\〃/しう壇を
築いた事もなうて、唯土の少し高い所に、少將は袖をかき合せて、生きた人にものを云ふやうに泣く\/申されたは、「御死去あつた事をば、島においてかすかに傳へ承つたれども、心に任せぬ憂き身でござれば、急ぎ參る事もござなし。
成經かの島へ流されて露の命消えやらいで
二年を送つて召し還さるゝ嬉しさは、さる事でござれども、此の世に長らへさせらるゝを見奉らばこそ、命の長い甲斐もござれ、是までは急がれたれども、今より後は急がうずるとも存ぜぬ。」とかき口説いて泣かれた。まことに
存生の時ならば、
大納言入道殿こそ「いかに。」とも仰せられうに、
生を隔つる習ひほど恨めしいことはない。苔の下には誰が返事をもせうぞ? たゞ嵐にさわぐ松の響き計りでござつた。其の夜はよもすがら
康頼入道と二人墓のまはりを
行道して念佛を申し、あくれば新しう壇を築いて
釘貫(*柵)などもさせて、前に假屋を作り、
七日七夜念佛を申し、經を書いて結願には大きな卒都婆をたてて、其の年號月日の下には「孝子
成經」と書かれたれば、賤山賤の心ないものも、「子に過ぎた寶はない。」というて、涙を流し、袖を絞らぬはござなかつたと申す。
さて
少將は、「今しばらくも念佛の功をも積みたうござれども、都に待つ人共も心許なうござらうずる程に、まづ罷上る。又こそ參らうずれ。」というて、亡者に暇乞をして、泣く\/そこを立たれた。草の陰でもさこそ名殘惜しう思はれつらう。されどもさてあらうずる事でなければ、そこを立つて、同じ三月の十九日に
少將は鳥羽へ明かう着かれた。
大納言殿の山
莊洲濱殿というて鳥羽にあつたが、住みあらいて年を經たれば、築地はあれども覆ひもなく、門はあれども扉もなし。にはに立入つて見らるれば人跡絶えて苔深う、池のあたりを見廻さるれば、秋の山
(*築山の名)の春風に、白
波しきりに折りかけて
鴛鴦・
鴎のたぐひ此方彼方へ
泳ぎまはるにつけても、これを興じた人の戀しさにつきせぬものは涙であつた。家はあれども、欄門
(*羅文。連子窓。)も破れ、蔀・遣戸も絶えてなし。「こゝには
大納言殿こそござつたものを、この妻戸をばかうこそ出でさせられたが、あの木をば自らこそ植ゑさせられたが。」などゝ云うて、言の
端につけても
父の事を戀しげに仰せられた。彌生
中のことなれば、花はまだ名殘があつて、楊梅桃李の梢も折知顔に色々に咲き亂れて、昔の
主はなけれども、春を忘れぬ花であれば、
少將その花のもとに立寄つて、
桃李不レ言春幾暮 煙霞無レ跡昔誰栖
故郷の花のものいふ世なりせば如何に昔の事を問はまし
と、この古い詩歌(*和漢朗詠集・後拾遺集)を口ずさまれたれば、康頼入道も折節哀れに思うて、墨染の袖をぬらされた。暮るゝほどをば待たれたれども、餘り名殘惜しうて、夜ふくるまで、そこにゐられた。ふけゆくほどに荒れた宿の習ひなれば、古い軒の板間より洩る月影は隈もなかつた。鷄籠の山(*前出和漢朗詠集の余韻を引く。)も明けうとすれども、家路へは更に急がれなんだ。
さてあらうずる事でもなければ、「迎ひに乘物どもを遣はいたに、人の待たうずる
も心無い事ぢや。」というて、泣く\/洲濱殿を出でて、都へ歸り入られた心の
中どもは、さこそ嬉しうも哀れにもござつつらう。
康頼入道が迎ひにも乘物があつたれども、それには乘らいで、「今更なごり惜しい。」と云うて、
少將の車のしりに乘つて、七條河原までは行きつれて、それから行きわかるゝが、猶行きもやられなんだ。花の
下の
半日の客、月の前の一夜の友、
旅人が
一村雨の行き過ぐるに一樹の陰に立寄つて分るゝ名殘さへも惜しいに、況んやこれは恨めしかつた島のすまひ、船の中、浪の上、
起臥ともに一つにせられたことなれば、
前世の
縁も淺からずに思はれたれば、これは道理至極ぢや。
少將は舅の
宰相の宿所へ立入らるゝに、
少將の
母上は
靈山(*東山三十六峰の一。)におぢやつたが、きのふより
宰相の宿所に出て待たれた所へ、
少將の立入らるゝ姿を一目見て、「命あれば。」
(*新古今集の歌を踏まえる。)と計り云うて引被いて臥された。
宰相の内の女房・侍共さしつどうて、皆喜泣きどもをしたれば、まして
少將の
北の方や、めのとの
六條が心の中に〔マヽ〕さこそは嬉しう思はれつらう。
六條はつきせぬ物思ひにKかつた髪も皆白うなり、
北の方はさしも花やかに美しう見えた人であつたれども、いつしか痩せ衰へて、其の人とも見受けぬほどにあつた。
少將の流されられた時、三歳で別れられた
幼い人も
成人しうなつて、はや髪を結ふほどにあり、又そのそばに三つ計りになる
幼い人があつたを、
少將「あれは
誰ぞ。」と問はれたれば、
六條「これこそ。」とばかり云うて袖を顔に押當てゝ、涙を流いたをもつて、「さては下つたみぎり、心苦しげな有樣を見置いたが、何事なう育つたよ。」と思出さるゝにつけても、猶悲しう思はれたと聞えてござる。
少將は元の如く
院に召使はれて
宰相の中將に上られ、
康頼入道は東山の雙林寺にわが
山莊のあつたに落着いて、まづ思ひ續けて一首の歌をよまれた。
故郷の軒の板間に苔むして思ひしほどは洩らぬ月かな
やがてそこに閉ぢ籠つて、うとましかつた昔を思ひ續けて、寶物集といふ物語を書きたてられた(*編集した、の意か。)と聞えてござる。
第十二 有王鬼界が島に渡つて俊寛に會ひ、俊寛死去せらるれば荼毘をして、その遺骨を頸にかけ、都へ歸り上り、方々修行してその後世を弔うた事。
右馬。 して俊寛は何と果てられたぞ?
喜。 そのお事ぢや。鬼界が島へ三人流された流人、二人は召し還されて、都へ上つたに、
俊寛一人うとましい島の島守になつて果てられた。
俊寛の幼うより不便にして召使はれた
童があつたが、名をば
有王と申した。鬼界が島の流人けふ既に都へ入ると聞えたれば、鳥羽まで出迎うて見たれども、我主は見えられず。「何と。」と問へば、「『それは猶罪が深い。』というて島に殘された。」と聞いて悲しうだは事も愚かぢや
(*言うまでもない)。常は六波羅の邊に佇み歩いて聞いたが、赦免あらうとも聞出さなんだによつて、
俊寛の
娘の忍うでゐられた所へ參つて、「この瀬にも洩れさせられて上させられねば、
何卒してかの島へ渡つて
御行方をも尋ねまらせうと存ずる。お文をも下されい。」と申したれば、「なく\/書いて出だされた。暇を乞ふとも、よも許す事はあるまいと思うて、父にも母にも知らせいで、三月の末に都を出て、多くの浪路を凌いで薩摩潟へ下つた。薩摩からかの島へ渡る船津で人が怪しめて、著た物を剥取りなどしたれども、少しも後悔をもせず、かの
娘の文ばかりを人に見せまいとて
髻結の中に
隱いたと申す。さて
商人船に乘つて、くだんの島へ渡つてみれば、都でかすかに傳へきいたは事の數でもない。田もなし、畑もなし、村もなし、はた〔マヽ〕
(*里)もなし。
自ら人はあれども、云ふ言葉も聞き知らず。「若しかやうの者のなかに
我主の行方を知つた者があるか、尋ねう。」と思うて、「物申さう。」といへば、「何事ぞ。」と答へた。「こゝに都から流されさせられた
法勝寺の
執行御坊と申す人の行方を知つた人があるか。」ととへば、法勝寺とも、執行とも知つたらばこそ返事もせうずれ、只
頭をふつて「知らぬ。」というたが、其の中に或者が心得て「げにもさやうの人は三人これにゐられたに、二人は
こぞの秋召し還されて都へ上られたが、ま一
人は殘されてあそここゝに惑ひ歩かれたが、その行方をば知らぬ。」と云うた。
山の方が覺束なさに遙かに分け入つて、嶺に上り、谷に下れども、尋ねもあはず。唯白雲が跡を埋んで
(*和漢朗詠集の言葉)往來の道定かにも見えず。嵐がはげしうてまどろむ事もならねば、夢にさへも其の面影をも見なんだ。山でつひに尋ねあはいで、海のほとりについて尋ぬるに、
砂に印を刻む鴎、沖の白洲にすだく濱千鳥の外は跡訪ふものもなかつた。ある
朝磯の方からかげろふなどのやうに痩せ衰へたものがよろぼひでた
を見れば、もとは法師であつたとおぼえて、髪は
空樣へ生へ
上つて、萬の藻屑が取附いて、おどろ
(*荊)を戴いたやうで、
繼目(*関節)もあらはに、皮もゆたひ
(*たるみ)、身に着たものは
絹布の
別も見えず、片手には
荒海布を拾うて持ち、片手には
網人に魚を貰うて持ち、歩むやうにはしたれども、
捗もゆかず、よろ\/として來た。「都であまたの
乞丐人を見たれども、このやうな者をばまだ見たことがない。若し餓鬼道に尋ねて來たか。」と思ふほどに、彼もこれも次第に歩み近づく。もし此のやうなもお〔マヽ〕
(*もの)も我
主の御行方をしる事もやあらうかと、「物申さう。」と云へば、「何事ぞ。」と答ゆるに、「是は都から流させられた
俊寛といふ人の行方を知つたか。」と問ふに、
童は見忘れたれども、
俊寛はなぜに忘れうぞなれば、「是こそ
其よ。」と云ひもあへず、手に持つたものを投げ捨てゝ
砂子の上に倒れ伏された。「さてこそ我主の行方とも知つてあつたれ、さなくんば思ひもよるまい。やがて消え入られたを、膝の上にかきふせ奉り、「
有王が參つてござる。多くの浪路を凌いで是まで尋ねまゐつた甲斐もなう、やがて憂目を見せさせらるゝか。」と泣く\/申したれば、やゝあつて、少し人心地ができて扶け起されて、「誠に
汝がここまで尋ね來る志のほどは近頃
神妙な。明けても暮れても都の事のみが思出だ
され、ゆかしい者共が面影を夢に見る折もあり、幻に立つ時もあり。別して身も疲れはてゝ後は、夢も現も思ひをかず〔マヽ〕
(*思ひ分かず)。されば
其方の來た事も、たゞ夢とばかり思ふ。もしこの事が夢ならば覺めて後はなんとせうぞ。」と悲しまるれば、
有王「現でござる。この御姿で今までお命をのびさせられた事こそ不思議でござれ。」と申したれば、「さればこそ、去年
少將や
康頼に捨てられて後の頼りなさ、心の中をば推量れ。其の瀬に身をも投げうとしたを、由ない
少將の『今一度都の
音信をもまてかし。』などと慰めおかれたを、愚かで『若しや。』と頼うで長らへうとはしたれども、此の島には人の食物が絶えてない所なれば、身に力のある程は、山に登つて硫黄と云ふものを掘つて九國より通ふ商人に逢うて食物に換へなどしたれども、日にそへて弱り行けば、今はそのやうなわざもせず、このやうに日ののどかな時は、磯に出て網人・
釣人に手をすり腰をかゞめて魚を貰ひ汐干の時は貝をひろひ荒海布を取り、磯の苔に露の命をかけてこそけふまでも長らへたれ。さなうては世を渡るよすがをば何としてせうとは思ふぞ? こゝで何事をも
云はうと思へども、まづいざわが
家へ。」といはるれば、この有樣でも家を持たせられたかと不審に思ひながら行くほどに、松のひとむ
らあるなかに、より竹
(*漂着した竹)を柱にして、蘆を結ひ、桁・梁に渡いて上にも下にも松の葉をひしと取懸けたれば、雨風も溜らう態ではなかつた。昔は法勝寺といふ寺のつかさであつたれば、八十餘箇所の知行を
進退せられたれば
(*自由に処分なさってきたので)、
棟門・平門
(*屋根のある門・ない門)の内に四五百人程の所從・眷屬どもに用ゐられて
(*心を労して)こそ過ぎられたに、まのあたりに此のやうな憂目を見らるゝ事は誠に不思議ぢや。
俊寛は其の時やう\/と現であると思ひ定めて、「して去年
少將や成親〔マヽ〕
(*康頼)が迎ひにも、かれらが文といふ事もなし。今また
其方のたよりにも音信のないは、こうとも云はなんだか。」
有王涙に咽びながら、うつぶいて暫しは物をも申さず。やゝあつて起き上つて涙を抑へて申したは「
君の西八條へ
出させられたれば、やがて
追ふくの官
人が參つて資材
雜具をも奪ひ取り、身内の人々をも搦め捕つて、御謀叛の次第を尋ねて皆失ひ果いてござる。
北の御方樣は幼い人を隱しかねさせられて、鞍馬の奧に忍ばせられてござつたに、
それがしばかりこそ時々參つて宮仕ひをも仕つてござるが、いづれもお歎きの愚かな事はござらなんだれとも、幼い人々はあまりに戀ひ焦れさせられて、參る度毎に、『
有王よ。
父御前のござる鬼界が島とやらへ連れて
行け。』とむつからせられたが過ぎし二月にもがさと申す事で隱れさせられた。
北の御方樣はそのお歎きと申し、これの御事と申し一方ならぬ御思ひに沈ませられ、日にそへて弱り行かせられたが、同じ三月二日に遂にはかなうならせられて、今
姫御前ばかり奈良の
姨御の許にござる。そのお文は是へ持つて參つてござる。」というて、
取出いたを見らるれば、
有王が申すに違はず書かれて、其の文の奧には、「何とて三人流された人の、二人は召し還されてござるに、今までお上りないぞ? あはれ、高いも卑しいも、女の身ほど心憂いものはござない。
男子の身でござらば住ませらるゝ島へもなぜにまゐらいでござらうぞ? 此の
有王をお伴で急いで上らせられい。」と書かれたれば、「これ見よ。此の子が文の書き樣のはかないことよ。
おのれを伴にして急いで上れと書いた事こそ恨めしい。心に任せた
俊寛が身ならば、なぜに三
年といふ春秋をば送らうぞ? ことしは十二になるとこそ思ふに、是程はかなうては、人にも見え、宮仕ひをもして身をも育てうずるか。」というて歎かれたをもつて、人の親の心は闇ではなけれども、子を思ふ道には迷ふこと
(*後撰集を踏まえる。)も知られた。此の島へ流されて後は暦もなければ月日のかはりゆくをも知らず。只おのづから花の散り葉
の落つるを見て春秋をも辨へ、蝉の聲を聞けば夏と思ひ、雪のつもるを見て冬と知る態ぢや。月夜・闇の夜の變り行くを見て三十日をわきまへ、指を折つて數ゆれば、ことしは
六になると思うた幼い者も、はや先立つたよな! 西八條へ出た時、この子が「我も行かう。」と慕うたを、「やがて歸らうぞ。」とすかいて置いたが、今のやうにおぼゆる。それを限りと思うたならば、今暫しも
見うものを! 親となり子となり、夫婦の縁を結ぶも、皆此の世一つにかぎらぬ契りぢやに、何故にさらば是等がさやうに先立つたを今まで夢幻にも知らなんだぞ? 人目も恥ぢず、いかにもして命を生けうと思うたも、是等を今一度見うと思ふためぢや。
姫が事こそ心苦しけれども、それも
生身なれば歎きながらも過さうず。さのみ長らへて
おのれに憂目を見せうも我ながらつれない事ぢや。」というて、おのづからの食事をも
止めて唯ひとへに彌陀の名號を唱へて、臨終正念を祈られたが、
有王が渡つて二十三日といふに、其の庵の内で遂に終られた。年は三十七ぢやと聞えてござる。
有王は空しい姿に取附いて、天に仰ぎ地に俯いて泣き悲しめども甲斐もなし。心の行く程泣き飽いて、「やがて後世のお伴を仕らうずる事なれども、此の世には
姫御前ばかりこそござれ。後世を弔ひまゐらせうずる人もござなければ、暫し永らへて後世を弔ひまらせうずる。」というて、ふしどをも改めず、庵を切り懸け、松の枯枝、蘆の枯葉を取り掩うて、藻鹽の煙となし奉つて、荼毘も事畢れば、白骨を拾うて頸にかけ、また商人の船のたよりに九國の地へついて、それから
俊寛の娘のゐらるゝ所へ行つて有りし
樣を初めよりこま\〃/と語つて申すは、「なか\/
此方のお文を御覽ぜられてこそ、いとゞ御思ひはまさらせられてござる。硯も紙もござないによつてお返事にも及ばれず、唯心計りで果てさせられてござる。今は生々
世々を送らせらるゝとも、何としてお聲をも聞かせられ、お姿をも見させられうぞ。」と申したれば、ふしまろうで聲をもおしまず泣き悲しまれたが、軈て尼になつて奈良の法華寺といふ寺に行ひすまいて、父母の後世を弔はれたと申す。あはれや、
有王は
俊寛僧都の
遺骨を頸に懸けて、高野へ上つて、奧の院に納めて蓮華谷で法師になり、諸國を修行して
主の後世をとむらうて果てゝござる。このやうに人の思ひ歎きのつもる平家の末はなんとあらうか? 恐ろしいことぢや。
(*卷一 了)
序
凡例
目録
原書扉紙
前書
巻1
巻2
巻3
巻4