木曾といふ所は信濃にとつても南のはしで、美濃國の境ぢやによつて、都へも無下に近かつたほどに、平家の人々洩れきいて、これはなんとせうぞというて、皆さわがれたれば、
清盛、これをきいて、「それは心憎うも思はぬ。信濃一國の者こそ從ひつくとも深いことはあるまいぞ。」といはるゝうちに、又河内國にも敵が出來、伊豫の
河野を初めとして、南海道には熊野の別當も平家にそむき、九州の者共も殘り少なに敵になつたと注進をしたれば、今度は
宗盛自身東國へ向はうずるといはれたれば、皆、「この儀はしかるべからうず。さうあるならば誰も
後足をふむものが
(*原文「か」)ござるまい。」と皆云うたによつて、それに定まつてあつた。その内に越後國の
長茂といふ者は、平家の味方をして
人數を
率して都合その勢四萬餘りで、
木曾を追罰せうというて信濃國へ發向して、信濃國の横田河原といふに陣をとつてゐるを、
木曾は聞いて、三千餘りで馳せ向ふに、
光盛といふ者が
謀で俄に赤旗を
七流れ作つて、三千餘騎を七手にわけて、かしこの峯、こゝの洞から(案内者であつたれば)、赤旗どもをてんでに差上げ\/寄つたれば、長茂はこれを見て、「何者がこの國にゐて平家の方人をするか。」と心嬉う力づいて、勇みのゝしる所に、次第に近うなれば、合圖を定めて、七手が一つになつて、三千餘りの者共が、一しよに鬨をどつと作つて、用意した白旗をざつと差上げたれば、
長茂が人數どもは、「敵は幾十萬といふ事かあらう。何としてもかなふまい。」というて、色を失ひ俄にふためいて、或は河に追入れられ、或は惡所に追落されて、助かる者少う、打たるゝ者は多かつた。
長茂が頼みきつた者共も皆そこで死んだによつて、我身もから\〃/命助かつて、河を渡つて越後國へ引き退いて、都へ告げたれども、平家の大將
宗盛はこれを事ともせいで、種々樣々の位あつかひばかりをしてゐられまらしたは、何ぼうぬるい事ではおりないか? 東國北國には源氏どもが蜂の如くに起つて、只今都へ攻上らうとする所に、浪の立つやら風の吹くやらも知らいで、このやうにせらるゝ事は、誠にいふ甲斐ない事どもでござる。
第二 平家木曾を滅さうとて北國へ下らるれば、その中に木曾と頼朝不和の事があつたれども、遂に和睦せられた事。又木曾殿が燧が城におかれた齋命威儀師むほんを起し、平家の味方してその城をとらせた事。
右馬。 平家の北國へ下られた事をもつゞけてお語りあれ。
喜。 さても飽く期もない人でこそござれ。さりながら語りまらせう。所々方々の者が平家をそむいて源氏に心を通ずるによつて、四方へ宣旨をなし下され、諸國へ院宣をつかはさるれども、皆平家の下知とばかり心得て、從ひつくものがござなかつた。その頃木曾と頼朝、不快の事があつて、頼朝、木曾を討たうとて、六萬餘騎を相具して信濃國へ發向せらるゝ事を、木曾は聞かれて、めのとの兼平をもつて、「何によつて、木曾を討たうとはせらるゝぞ? 但し藏人殿こそ、そなたを恨むることがある、というて、これにゐられたを某がかゝへまらしたによつてか? 此の外に御意趣があらうとも存ぜぬ。何の故に今中を違ひまらして合戰をして、平家に笑はれうとは存ぜうぞ。」と云ひやられたれば、頼朝、「今こそさうはいはるゝとも、頼朝を討たれうずるとあつた由を、たしかに謀をめぐらされたときいた。その假託にはよるまい。」というて討手の一陣を向けられたれば、木曾、眞實に意趣のない通りを顯はさうずるために、嫡子の義とも(*ママ。義基・義重とも。)というて生年十一にならるゝ人に歴々の侍どもをそへて、頼朝の許へやられたれば、頼朝此の上は意趣がないというて、義とも(*ママ)をつれて鎌倉へ歸られた。
木曾はやがて越後へ打越えて、長茂と合戰をして何卒して討取らうとしたれども、長茂主從五騎に打ちなされて、行方知らず落ちてゆいたによつて、越後國を初めて、北陸道のつはものども、皆木曾に從ひ附くによつて、木曾は東北の道をへて、只今都へ攻入らうずると聞えたれば、平家は「ことしよりも明年は馬の草かひにつけて合戰せうずる。」と披露せられたれば、つはものども雲霞の如くに馳せ參つた。東の方にも遠江國より東こそ參らなんだれ、それよりこちの人は歴々の者共が皆參つたによつて、平家はまづ北國へ討手を遣はさうずると評定あつて、すでに討手を遣はす。その大將には維盛、副將軍には通盛、其の外の一門を差添へて、都合その勢十萬あまりで都をたつて北國へ赴かれた。その道すがら人數があれたによつて民百姓もあまた逃去つてござる。
さて木曾、わが身は信濃にありながら、越前國の燧が城をかまへて、大將には齋命威儀師(*斎明威儀師)を先きとして七千餘騎を籠められてござる。平家の先陣は、越前國の木部山を打越えて燧が城へ寄せた。此の城の樣態は盤石がそばたちめぐつて、四方に峯をつらね、山を後ろにし山を前にあて、城の前には大きな二つの河が流るゝに、二つの河の落合に、大木をたてて、柵をついてかきあげたれば、水は東西の山の根にさしみちて、ひとへに大海にのぞむがごとくにござつたと申す。それによつて平家は向うの山に陣をとつて、空しう日數を送らるゝに、城の内の大將の齋明威儀師心變りをして、文をかいて、蟇目(*鏃)の中にこめて、忍びやかに山の根を傳うて、平家の陣へ射入れたに、この蟇目の鳴らぬことを怪しうで、取つてこれをみらるれば、中に文があつた。これを披いてみれば、「かの澤は昔からの淵ではござない。一旦柵をつきあげてたゝへた水なれば、雜人輩をつかはいて柵を切破らせられい。山川でござれば水は程なう落ちまらせう。馬の足だちもようござらう。渡させられい。後矢をば某が射まらせうず。」と書いたによつて、平家の大將は大きに喜うで、やがて雜人共をやつて切破られたれば、案のごとく、山川ぢやによつて水が程なう落ちたれば、其の時平家の大勢ざつと渡す所で、齋明威儀師はやがて平家と一つになつて戰ふうによつて、城の内の殘りの大將共暫し防いでみたれども、ならなんだによつて、加賀國に引退ぞけば、平家やがて加賀國へ越いて、林・富樫が二ヶ所の城郭をも攻落すによつて、一向はやおもてを向けうやうもなかつたと見えた。都にはこれをきいて喜ばるゝ事は限りもござなかつた。
第三 木曾も平家も互に方々へ人數くばりをした事と、同じく倶利加羅が谷で合戰して、平家を殘りずくなに打ちなし、又志保坂の合戰にも木曾打勝つた事。
右馬。 して、合戰はどこであつたぞ?
喜。 そのお事ぢや。平家は加賀のくにの篠原といふ所で勢揃へをして、軍兵を二手にわけて砥波山といふ所へ押向けられた。さうある所で、木曾殿は越後の國府から五萬餘騎で馳せ向はるゝが、さきにまづ行家といふものを大將にして、一萬ほど引分けて志保坂へ差向けられた。殘るところの四萬餘騎をば七手にわけて、木曾殿の云はれたは、「平家は大勢で下る程に、山を打越いて廣みへ出るならば、懸合(*正面からの衝突)の合戰でこそあらうずれ。但し懸合の合戰は何としても勢の多少による事ぢや。大勢をかさにうけてはかなふまい。搦手へ廻せ。」というて、楯の六郎に七千餘騎をそへて北K坂へまはし、仁科・高梨などといふものも七千餘騎で南のK坂へ向ふに、我身は大手から一萬餘騎で向ふが、又一萬餘騎をあそこ、こゝに引隱いて置いて、兼平といふ者は六千餘騎で日宮林に陣をとられてござつた。
そこで木曾殿のいはれたは「此の勢がK坂へまはらうずる事は遙かの事ぢやほどに、その中に平家の大勢が山より此方へ越さうぞ。勢は向けずとも、旗を先に立てたならば、源氏の先陣が向うたというて、山よりあなたへ引かうず。旗をさきに立てい。」というて、勢は向はねども、K坂の上に白旗を三十流ればかり打立てたれば、案の如く、平家これをみて、「あは! 源氏の先陣が向うたぞ。こゝは山も高し、谷も深し、四方は岩石ぢやほどに、搦手へもたやすうはよも廻らじ。馬の草飼、水の便りなどもよい程に、こゝに馬を安めうずる。」とて、大勢皆山の中に下つてゐられた所で、木曾は八幡の社頭のかきをの莊といふ所に陣をとつて、きつと四方を見渡せば、夏山の峯の緑の木の間から朱の玉籬がほのみえて、かたそぎ作り(*千木の片方がそがれている造り)の社があつたれば、木曾これを見られて、案内者を召して、「これは何の社ぞ? 何たる神を崇めたぞ。」と問はれたれば、「これは八幡を祝ひまらして當國には新八幡と申す。」と答へたれば、木曾大きに喜うで、手書につれられた覺明を呼うで、「木曾こそ幸に八幡のお前についた。合戰をとげうずるなれば、それについて且うは後代の爲でもあり、且うは當時の祈祷の爲に願書を一筆かいて捧げうと思ふが、何とあらうぞ。」と云はれたれば、「尤も然るべうござらうずる。」というて、馬から飛んで下りた。覺明は褐の直垂に、K絲威の鎧をきてゐたが、箙から小硯と疊紙をとりだいて木曾殿のお前につい跪いてかけば、數千のつはものがこれを見て、文武ともに達者ぢやというてほめた。
さうして源氏も平家も陣を合せて互に楯をついて向うた。その間三町ばかりあらうと見えた。されども源氏も進まず平家も進まず、やゝあつて源氏方に何と思うたか、精兵をすぐつて十五騎出いて十五の鏑矢を平家の陣へ射入れたれば、平家も十五騎出いて十五の鏑を射交はせば、源氏また三十騎だいて三十のかぶらを射させたれば、三十のかぶらを射返やす。五十騎だせば五十騎をだしあはせ、百騎を出せば兩方百騎づゝ楯のおもてに進んで互に勝負を決せうとすれども、源氏の方には總じて制して勝負をせられまらせなんだ。その仔細はこのごとくあひしらうて日をくらいて、後ろの谷へ追落いてほろぼさうとするをば知らいで、平家もともにあひしらうて日を暮すことはおろかな事ぢや。次第に暗うなれば、搦手の人數一萬餘り平家の後ろな陣の倶利加羅の堂のあたりで廻合うて、倶利加羅の堂の前で一萬ばかりのものが箙の方立を打叩いて、天も響き、大地も動くほどに、鬨をどつと作つたれば、木曾はこれをきいて、はやわが人數が後ろへまはつたと知つて、又一萬ばかりの者共が、鬨をどつと作りあはすれば、あそここゝに隱いて置いた一萬ばかりの者も出會ふ。兼平も六千餘騎で日宮林から一度にをめいて馳せ向ふによつて、前後から四萬ばかりの鬨の聲で山も河も唯一度に崩るゝかと覺ゆるほどにござつた。
平家は、こゝは山も高し、谷も深し、四方は岩石ぢやほどに、搦手はたやすうよもまはるまいと思うて打解けた所に、思ひもかけぬ鬨の聲に驚いてあわて騷いで、もしや助かると、側な谷へ轉け落つる所で「きたなし\/、返せ\/。」と云ふものも多かつたれども、大勢の傾きたつたは取つて返すことがないものぢや。それによつて、われ先き\/にと落ちた。親が落とせば子もおとす、主が落とせば郎黨もつゞく、兄が落とせば弟もおとす。馬には人、人には馬が落ち重なつて、さしも深かつた谷一つを平家の人數七萬餘りを以て埋上げまらしたれば、血は河の如くに流れ屍は岡の如くになつてござつた。大將軍維盛ばかり辛い命生きて加賀國へ引退かれた。平家の歴々の者は大略そこで死にまらした。その谷のあたりには矢の穴、刀の跡が今にあると申す。
生捕りにせられた者も多かつた中に、燧が城で心變りをした齋明威儀師も捕られたと聞えたれば、木曾これを召寄せて前に引据ゑてやがて首を刎ねられた。夜明けてから又三十人餘りの首を斬りかけてから、木曾殿のいはれたは、「行家がまはつた志保坂の手が覺束ない。いざいて見う。」とて四萬騎が中から、馬人強いを二萬あまりすぐつて志保坂の手へ馳せ向はるれば、案の如く、行家はさん\〃/に射しらまかされて(*射すくめられて)引退いて馬の足を休めゐたところに、木曾さればこそというて、二萬餘騎を入れかへて、鬨をどつと作つてをめいてかゝつたれば、平家しばしこそさゝへたれ、志保坂の手をも追落されて、加賀國の篠原へ引退かれまらした。
第四 篠原の合戰にも平家まけられた事、並に實盛が討死してその鬚を洗はれた事。
右馬。 篠原の合戰にも双方いかう死んだなう?
喜。 おゝなか\/、源平ともにいかう討たれたと聞えまらした。
同じ二十三日の卯の刻に源氏篠原へ押寄せて、午の刻まで戰うたが、暫時の合戰に源氏の人數も一千餘騎討たるゝ。平家の方には二千餘り歴々の者が討たれて、平家篠原をも遂に攻落されて落ち行かるゝが、その中に有國と實盛といふものは大勢の人にひき離れて、たゞ二騎連れ立つて引返いて戰ふが、有國は敵に馬の腹を射られて頻りにはぬるによつて、弓杖をついて下りたつて敵のなかに取籠められて、さん\〃/に射て、矢種が皆になつたれば、打物を拔いて戰ふが矢を七つ八つほど射立てられて立死に死んでござる。有國が討たれて後は、實盛は存ずる仔細があつたによつて、只一人殘つて戰ふところへ、手塚の太郎といふ者が馳せ寄せて、「味方は皆落ち行くに、只一騎殘つて軍をするこそ心憎けれ。誰ぞ? おぼつかない。名乗れ。聞かう。」というたれば、「さういふ和殿は誰ぞ? まづ名乘れ。」といふによつて、「かういふものは信濃國の手塚の太郎。」と名乘つた所で、實盛、「さる人があると聞及うだ。但し和殿を敵に嫌ふではない。思ふ旨があるほどに今は名乘るまいぞ。寄れ、組まう、手塚。」と云うて押並べて組まうとする所に、手塚が郎黨中にへだゝつてむづと組むを、實盛は手塚の郎黨をとつて、鞍の前輪に押附けて、刀をぬき首をかゝうとする所で、手塚は郎黨が鞍の前輪におしつけらるゝを見て、左手からむづと寄せ合せて、實盛が草摺を引上げて二刀さす。弱る所にえいごゑをあげて組んで落つるが、實盛心は猛けれども、老武者なり、手は負うつ(*ママ)、二人の敵をあひしらはうとするほどに手塚が下になつて遂に首をとられた。
手塚は遲ればせにくる郎黨に實盛が物の具をはがせ(*ママ)、首をもたせて、木曾殿の前に馳せ參つて申したは、「手塚こそ今日は稀代の曲者に組んで首をとつてござれ。何と名のれとせめてござれども、つひに名乘りまらせなんだ。侍かと存ずれば、錦の直垂を着、また大將かと存ずれば、續く勢もござなかつたが、聲は板東聲でござつた。」と申したれば、「あはれ、これは實盛でかあるらう。但しそれならば身が一とせ幼な目に見たときに、はや白髪が少しあつたほどに今は定めて白髪にこそあらうずる事ぢやが、鬢鬚のKいはたゞしあらぬものか? 年來の知人ぢやほどに樋口は見知らうず。樋口を召せ。」というて呼ばれたれば、樋口は參つて實盛が首を只一目見て、やがて涙に咽ぶを、いかに\/と尋ねらるれば、「あらむざんや。實盛でこそござれ。」と申すに、鬢鬚のKいは何事ぞ。」と問はれたれば、樋口、涙を押拭うて申したは、「さござればこそ、その樣を申さうとすれば、不覺の涙が先立つて申し得まらせぬ。弓矢を取るものは、あからさまの坐席とは思ふとも、思出になる言葉をば申し置かうずる事ぢや。つねは兼光に向うて物語り仕つたは、『實盛六十に餘つて軍の場に向はうには、鬢鬚を墨に染めて若やがうと思ふ。その仔細は若殿原に爭うて先をかけうずるも大人げなし。又老武者ぢやというてあなどられうも口惜しからうず。』などゝ常は申したが、今度を最後と存じてまことに染めまらした事の無殘さよ。洗はせて御覽ぜられい。」と申しもあへず、又涙をはら\/と流いたれば、さもあらうずというて、洗はせて見らるれば、白髪になりまらした。「實盛が錦の直垂を今度着まらした事は、都を出樣に宗盛へ參つて申したは、『一年東國の軍に罷下つて、駿河の蒲原から、矢一つをも射いで逃上つてござる事は、誠に老後の恥辱たゞ此の事でござる。今度北國へ向ふならば、年こそ寄つてござりとも、眞先をかけて討死を仕らうずる。それにとつては、實盛もとは越前の者でござるが、近年所領について武藏の長井に居住仕つてござる。事のたとへがござる。故郷へは錦をきてかへると申す。然るべくは實盛に錦の直垂を許させられれよかし。』と申したれば、宗盛、さらばと云うて、錦の直垂を許されたと聞えまらした。」と申せば、皆これを感じて涙を流されまらした。
第五 木曾軍の評定をして比叡の山を語らはるれば、即ち比叡の山も木曾に與みし平家を叛いた事、並に平家西國の合戰には勝利をせられた事。
右馬。 平家はその分にして京へ上られてあつたか?
喜。 其のお事ぢや。平家は北國へ下られた時は十萬餘騎と聞えたが、上らるゝ時は僅に三萬計りになつて、さしも結構にでたつて都を出られた人々が、徒らに名をのみ殘いて越路の末の塵となられた事は、まことにあはれな事でござる。清盛の末の子の三河守もそこで死なれ、又忠綱、景時(*景高か。)も歸らず、其の外歴々の者どもがみな討たれた。「餌をつくして漁りをなす時は、多くの魚ありと雖も、あくる年には魚なし、林をやいて狩する時は多くの獸ありと雖も、あくる年には獸なしといふごとく、のちを思案して少々は一門の衆を殘されうずる事であつた。」と申す者も多うござつた。飛騨守といふ人は最愛の總領の景高が討たれたと聞えたれば、伏し沈んで歎いたが切りに暇を乞ふによつて、宗盛許されたれば、やがて出家して打臥す間は十日餘りであつたが、遂に思ひ死に死にまらした。これを初めて親は子を討たせ、子は親を討たせ、妻は夫に遲れて、家々にをめき叫ぶ聲はおびたゝしい事でござつた。これは都の事。
木曾は越前の國府について合戰の評定をせらるゝに、今井、高梨、其の外歴々の者共百人計り前に並居ゑて、木曾殿のいはるゝは、「我等が都へ上らうずるには、近江國を經てこそ上らうずるに、例の山法師の憎さはまた防ぐ事もあらうず。蹴破つて通らう事は易けれども平家こそ當時は佛法を滅ぼし、僧をも失へ、それを守護せうために上洛する者が大衆に向うて合戰をするならば、少しも違はぬ二の舞であらうず。これこそ安大事の事ぢやが何とせうぞ。」といはれたれば、覺明が進みでゝ申したは、「尤もの仰せぢや。さりながら三千の衆徒でござれば、必定一味同心する事はござるまい。皆思ひ\/にこそござらうずれ。まづ御状を送らせられて御覽なされい。事のやうは返札で見えまらせうず。」というたれば、さらばかけというて、覺明にかゝせて、山門へ状を送られた。その文態は、まづ平家の惡行をかいて、「是を靜めうずる爲に、上洛する事なれば、山門も源氏へ一味せられいかし。」とかゝれた。山門にはこれを見て、僉議區々にして、或は平家に同心せうといふ衆徒もあり、或は源氏につかうといふ者もあり、思ひ\/にあつた所で老僧共の申したは、「我等は帝王も御無事にござり、天下も無事なやうにと祈りをなせば、殊に當代の平家は御外戚ぢやによつて、今までかの繁昌を祈誓仕つた。されども惡行法に過ぎ、萬民これを背くによつて、國々へ討手をやらるれども、結句人より滅さるゝ態ぢや。源氏は近年度々の合戰に打勝つて運を開き始むるに、何ぞ運のつきた平家に同心して運の開く平家に背かうぞ? 只平家に値遇した事を飜へいて源氏に合力せうずる。」と一味同心に僉議してやがて返札を送つた。其の趣は、これも同じやうに平家の惡行をそしつて又木曾をばほめて一味せうずると返事をしたに、平家これをば知られいで、「奈良や三井寺は憤りの深い折節ぢや程に、語らふとも靡くまい。比叡の山は當家を大切に思ふ。當家もまた比叡の山の爲に仇を結ばねば、山王に祈誓をして三千の衆徒を語らひ取らうずる。」というて、一門の公卿同心して願書をかいて、比叡の山に送つて、三千の衆徒に力を合せいと頼まれたれども、年來日頃の振舞がそでなかつたによつて、祈れども叶はず、語らへども靡かず、弓折れ矢竭きた態であつたによつて、衆徒これを見て、誠にさこそとは憐れに思うたれども、既に源氏に同心せうずると返事をしたれば、其の儀を改むるに及ばいで、皆これを許容仕らなんだ。
さて肥後守といふ者を西國へ下されてあつたが、これは鎭西の謀叛を平げて、菊地ぢやは、原田ぢやはなどゝいふものを先きとして、三千餘りの者を引連れて、都へ上つたによつて、西國ばかりはわづかに平かなれども、東國、北國の源氏はいかにも鎭まらいで、氣遣ひをせられてござつた。
第六 木曾諸方から都へ入ると聞いて、平家主上をも法皇をも取り奉つて西國へ落てうとせらるゝ時、法皇いづちともなく失せさせられた事と、同じく平家の都落ちと、又忠度の歌の沙汰。
右馬。 さても平家はいかう分が惡かつたの?
喜。 まことに天道から離されられたと、見えてござる。其の頃ある夜夜半ばかりに六波羅のあたりが大地を打ちかへいたやうに騷いで、馬に鞍を置き、腹帯を締め、具足を着、東西に走り血惑うてござつた。其の仔細は重貞といふ者がござつたが、これは一年保元の合戰に源氏の大將の爲朝の軍に負けて落ち行かるゝを搦め捕つて渡いた勳功によつて、位にもあげられて日頃は平家を〔マヽ〕諂うてゐたが、夜半ばかりに急ぎふためいて六波羅へ參つて、「木曾が既に近江國まで亂れ入つたが、其の勢は五萬餘りでござると申す。東坂本に滿ち\/て人をも通さず。郎黨の楯と、また覺明といふ者が六千餘りで比叡の山へ攻上つて總持院を城にしてゐるに、衆徒も皆同心して只今都に攻入らうずると申す。」と告げた故でござつた。
平家はこれを防がうずるために、瀬田へは知盛、重衡三千あまりで向はるれば、宇治へは又通盛、能登殿これも三千あまりで下られた。さうするほどに、木曾方からは行家が一萬ばかりで宇治から入り、又矢田の判官は丹波の大江山を越えて五千餘騎で京へ入るといひ、津の國、河内の源氏も同じやうに力を合せて、淀・川尻から攻入るとのゝしれば、平家はこれを聞いて「さてこれは何とせうぞ? 只一しよで何ともならうずる。」と云うて、宇治・瀬田の手をも皆呼返へされた。吉野山の奧の奧へも入りたう思はれたれども、諸國七道が皆亂れたれば、どこの浦、山の奧にも身を隱れられうずる所がなかつた。それによつて夜更けてから、宗盛、建禮門院の六波羅にござつたに參つて申されたは、「此の世の中の有樣を見まらするに、世は既にかうと見えてござるほどに、院をも内をも取り奉つて西國の方へ御幸をなし奉らうと存ずる。」と申されたれば、建禮門院、「ともかうも、只宗盛の計らひでこそあらうずれ。」と仰せられて、皆もろともに涙を抑へかねさせられた。法皇は平家の取り奉つて西國のかたへ落ちて行かうずるといふ事を内々きかせられたによつてか、資もち〔マヽ〕(*藤原資時)といふ人ばかりをお伴で、ひそかに御所を出させられて、鞍馬の方へ御幸なされたれども、誰もこれを知る人がござなかつた。
平家の侍に季康といふ者があつたが、さかざかしい(*賢明な)者でござつたによつて、院にも召使はれたが、その夜しも院の御所に泊つたに、常に〔マヽ〕御所の方がさわがしうさゞめき合うて女房達も忍聲に泣きなんどせられたれば、これは何事ぞと思うてきくほどに、「法皇のござらぬは。」「どこへ御幸なられたか。」と云ひあはるゝ聲に聞きないて、さてもあさましい事かなと思うて、急いで六波羅へ馳せまゐつて、此の由を申したれば、宗盛、「いや、それはひがことであらうず。」と云ひながら、やがて院の御所へ馳せまゐつて見られたれば、げにもござらなんだれば何と\/と尋ねられたれども、我こそお行方を存じたれと申す女房は一人もござなかつた。あくれば七月の二十五日であつたに、法皇御所にござらぬと申すほどにこそあつたれ、京中のものども騷動することはなのめならなんだれば、況や平家の人々があわてさわがれた(*ママ)有樣は、家々に敵が討入るとも限りがあれば、これには過ぎまいと見えまらした。日頃は院をも内をも取り奉つて、御幸をもなし奉らうと思はれたれども、このやうに法皇の捨てさせられたれば、憑む木の下に雨のたまらぬ心地をせられた。さりとては行幸ばかりをなりともなし奉らうずるというて、二十五日の卯の刻計りに御輿をよせて主上の六にならせらるゝが、何心もなうござつたをやがてお輿に召させまらしたれば、國母建禮門院も同じお輿にめさせられた。其の外いろ\/の大道具などをも持つて參れ、と下知せられたれども、あまりあわてゝ取落さるゝものも多うござつたと、きこえた。
忠度はどこから引返されたか、侍を五人つれて、俊成卿の宿所に打寄せてみらるれば、門を閉ぢて開かなんだに、うちをきけば、落人が歸りのぼつたなどゝいうて夥しう騷動して、門を叩かれたれどもあけぬによつて、「これは忠度と申すものぢやが、ま一度お目にかゝつて申さうずる事があつて、道から歸りのぼりまらした。たとひ門をあけずとも、この際まで立出させられい。」といはれたれば、俊成卿これをきかれ、「その人ならば苦しうもないぞ。入れまらせよ。」というて、門を開いて對面せられたれば、忠度のいはれたは、「年來申し承つて後は聊かもおろそかには存ぜなんだれども、この三四年は京都の騷ぎ、國々の亂れ、しかしながら當家の身の上でござれば、その事どもについて疎略はござなかつたれども、常に參りよる事もござなかつた。されども撰集のござらうずると承つたれば、一期の面目に一首御恩を蒙りまらせうずると存じた所に、軈て世の亂れができて、その沙汰もござなかつた事、一身の歎きと存ずる。君は既に都を出でさせらるれば、我等も亦屍を山野にさらさうずる外は期する方もござない。世が靜まりまらしたならば、定めて撰集の沙汰もござらうずれば、其の中に一首御恩を蒙つて草の陰までも嬉しう存ぜうずる。」というて、鎧の引合せから卷物を一卷取出いて俊成卿へ奉られたを、俊成ちつとこれを披いて見て、「かゝる忘れ形見を賜りおく事なればゆめ\/疎略を存ずまじい。若し撰集の事がござるに於いては、餘の人は知らず、拙者に仰せつけらるゝならば、少しも疑はせらるゝな。」といはれたれば、忠度、「今生の見參こそ只今を限りと申すとも、來世では必ずお目に掛らうずる。」というて、兜の緒をしめ、馬の腹帯を固めて打乘つて、西を指いて歩ませてゆかるゝを、はる\〃/と見送つてから内に入られた。
げにも世が靜まつてから、歌をえらばれた内へ、忠度の歌も一首入れられたと聞えまらした。志が深かつたによつて、あまたも入れたう思はれたれども、勅勘の人ぢやによつて、名字をば顯はさいで「讀人知らず」とかゝれたが、その歌は「故郷の花」といふ題でよまれてござる。
さゞなみやしがの都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
其の身既に朝敵となられた上は仔細には及ばねども、これ程の作者を「讀人知らず」とかゝれた事はまことにその身にとつては口惜しい事でござる。
第七 維盛の落ちらるれば、北の方を初め、子達の維盛を慕はれた事。
右馬。 その時勿論、維盛も都を落ちられてあつたか?
喜。 なか\/。維盛も日ごろは思ひ設けられたことなれども、差當つては悲しう思はれてござつた。この北の方は新大納言の娘で、此の腹に六代御前と申して十におなりある若君もござつつ、夜叉御前と申して八におなりある姫君もござつたが、此の人々も遲れまいというて、面々にでたゝるれば、維盛北の方に云はれたは、「維盛は一門の人々につれて西國の方へ落ち行く。共に相具しまらせうとは思へども、道にも源氏どもが待てば、平かに通らうことも難い。もしいづくの浦になりとも心易う落着いたならば、急いで迎ひを進ぜうず。又なにたる人になりとも一つにおなりあれ。都の内になさけをかけまらするものがなうてはかなふまじい。」と云はれたれば、北の方はとかくの返事をも召されいで、やがて引きかづいて泣き倒れられたれば、維盛は鎧をきて、馬を引寄せ出うとせられた時、北の方なく\/起き上つて、袖に取附いて、「都には父もなし、母もなし。捨てられまらして後に、また誰に見えまらせうぞ? いかなる人にも見えよかしなどゝ仰せらるゝ事の恨めしさよ! 此の頃はお志も深かつたによつて、人しれず深う頼もしう思ひまらしたに、いつのまに變りはてた御心ぞ? 同じ野原の露とも消え、同じ底の藻屑ともなりまらせうずると契つた事も皆僞りになるか? せめて我身一つならば、捨てられまらしても身の程を思ひしつても留まりまらせうが、幼い者共をば、誰に御讓つて何となれと思召すぞ? 恨めしうもお留めあるものかな。」というて、且うは慕ひ、且うは恨みて泣かるゝによつて、維盛も詮方なう思はれた。
「實に人は十三、維盛は十五といふ時から、互に見初め、見え初めて、ことしは既に十二年、火の中水の底までも共に入り、共に沈み、限りのある別路にも後れ先立つまじいとこそ契つたれども、心憂い軍の場に赴けば、ゆくへもしらぬ旅の空に憂目を見せまらせうずるも心憂からうず。その上今度は用意もおりないほどに、迎ひの者をお待ちあれ。」とすかいて置かうとせられた所へ、若君も姫君も御簾の外へ走りでて、鎧の袖、草摺にとりついて、「これはさていづくへござるぞ? 我も行かう。我も參らう。」と慕うて泣かるゝ所で、維盛も詮方なう思はれたと聞えまらした。さうする所へ、五人の兄弟達が門の内へ打入つて、「行幸は遙にのびさせられたに、なぜに今まで後れさせらるゝぞ。」と面々云合うてすゝめられたれば既に馬にのつて出うとせられたが、大床の際にまた打寄つて弓の筈で御簾をざつとかきあげて、「これをお御覽じあれ。幼い者共があまり慕ふを、けさからとかう賺いておかうとするほどに、存じの外におそなはつた。」と云ひもあへず泣かれたれば、五人の人々も皆鎧の袖を絞られてござつた。
齋藤五・齋藤六というて兄は十九、弟は十七になる侍がござつた。これは篠原で打たれた實盛の子供でござる。これも維盛の馬の左右のみづつき(*轡の穴)に取附いて、「いづくまでもお伴を仕らうずる。」と云うたれば、維盛、「あれらに深う慕はれて詮方なさに、多い人のなかに汝等を留むるは、思ふやうがあつてとゞむるぞ。末までも六代が頼りとは汝等こそならうずれ。留まるならば、連れてゆくよりも、われは尚嬉しう思はうずるぞ。」などとこま\〃/と云はれたれば、力及ばいで涙を抑へて留まりまらした。北の方は此の頃はこれほどに情なからう人とは思はなんだというて、ふし轉んで泣かるれば、若君も大床にまろびでて、聲を計りにをめきお叫びある聲が門の外まで聞えたれば、維盛は馬をも進めやられず、ひかへ\/泣かれてござる。誠に人はけふ別れては、又いつの日、いづれの時は必ず廻合はうと契るさへも、其の期をまつは久しいに、これはけふを限りの別れなれば、其の期を知られぬ事は深い悲しみでござらうず。此の聲どもが耳の底にとまつて、西海の旅の空までも、吹く風の聲、たつ風の音につけても、只今きくやうに思はれたと、聞えてござる。
第八 平家の一門は都を落ちらるゝその中に、池の大納言殿は都に留まられた事、同じく福原を立たるゝとて一門の人々名殘を惜まれた事。
右馬。 さて平家の一門の中に都に留まられたは、なかつたか?
喜。 そのお事ぢや。皆六波羅を初めて面々の館に火をかけて、燒立てゝ落ちらるゝうちに、池の大納言殿と申す人は、館に火をかけて、これも出らるゝが、何と思はれたか、道から手勢三百餘りを引分けて、赤旗をば皆切つて捨てゝ都へ引返へされたれば、越前の前司といふ人がこれをみて、宗盛に申したは、「池の大納言殿の留らせらるゝに、侍共も多うついて留まりまらする。池の大納言までは恐れ深うござれば、侍共に矢を一つ射かけまらせう。」というたれば、宗盛、「いやそれはそのまゝおけ。苦しうもない。年來の重恩を忘れて、此の有樣を見果てぬ奴原ぢや程に、なか\/とかういふに及ばぬ。」といはれてござる。「維盛は何と。」といはれたれば、「小松殿の公達は未だ一人も見えさせられぬ。」と申したれば、さこそあらうずれとて、いよ\/心細げに思はれたと、聞えてござる。新中納言のおしやつた〔マヽ〕は、「都を出てまだ一日もへぬに、はや人の心も變りはてたればまして行末の事は推量られた。たゞ都の中でともかくもならうものを。」と云うて、宗盛の方を見やつて、世にも恨めしさうに思はれた事は、誠に理りでござる。池の大納言は仁和寺に引籠つておじやつた。
これは故池の尼御前の頼朝を助けられたによつて、頼朝からも誓文をもつて、「池殿にも意趣はない。」というて、討手の使の上るにも、「構へて汝等池殿の侍共に弓を引くな。」と下知せられたによつて、此のやうな事を頼うで都にお殘りあつたと聞えたが、なましひに一門には離れつ、浪にも磯にもつかぬ心地をせられてござる。
畠山の庄司・小山田・宇都宮、これ三人は召籠められてあつたを、宗盛ばかり「これらが首を刎ねうずる。」といはれたを、平大納言(*ママ)・新中納言の申されたは、「これら百人千人を斬らせらるゝとも、御運がつきさせられて後は、世を取らせられうことは難い。國にまらする彼等が妻子どもがさこそは歎きまらせうずらう。今や下る今や下ると待ちまらする所へ、斬られたと聞えたらば、いか程か歎きまらせうずらう? これらをば東國へ歸しつかはされいかしと存ずる。」と申されたれば、宗盛これも「げにもぢや。」というて、この三人を呼出いて、「暇をやるぞ。急いで下れ。」といはれたれば、三人の者共かしこまつて、「いづくまでも行幸のお伴を仕らうずる。」と申した所で、宗盛「汝等がしきだい(*挨拶・世辞)はさる事なれども、魂はみな東國にこそあらうずれ。ぬけがらばかり西國へ連れうか? とう\/下れ。」とあつたれば、力に及ばいで、涙を抑へて下らうとするが、是等もさすが二十年餘りの主であつたれば、別れの涙をば抑へかねてござつた。
小松殿の子達は、兄弟その人數六七百計りで、淀のあたりで御幸に追ひつかれた。宗盛此の人々をおみつけあつてからちつと力づいて、世にもうれしさうにして、さて「今まではなぜに遲かつたぞ。」とあつたれば、維盛、「そのお事でござる。をさない者共がけさからあまりに慕ひまらするによつて、とかう賺しまらするうちに、遲なはつてござる。」と申されたれば、宗盛、「なぜにそれはお連れあらなんだか?」維盛、「行方とても頼もしうもござない。」というてとふにつらさぬ(*ママ)涙を流された。さて平家の人々は一門その外の侍をかけてむねとの者共は百六十人餘り、その附々の勢を合せては七千餘騎でござつた。これは東國、北國この三四年方々の合戰に討ち洩らされて殘る分と聞えてござる。山崎の關戸の院といふ所に主上の召された玉の御輿をかき据ゑてござる所へ、貞能といふ者が、川尻へ源氏共が向うたときいて、蹴散らかさうというて五百あまりで向うたが、ひがことであつたによつて歸り上るほどに、道で御幸にあひまらして、宗盛のお前で馬から飛んでおり、弓を脇に挾うで、畏まつて申したは、「これはいづくをさゝせられてござるか? 西國へ落ちさせられたらば、助かせられう〔マヽ〕と思召すか? 落人と申して、こゝかしこで打ちとめまらせう事は餘り口惜しい事でござる。只都でともかうもなされられいかし。」と申したれば、宗盛、「貞能はまだ知らぬか? 源氏は既に比叡の山まで攻上つて、總持院を城にして山法師も皆與力して今は都へ入らうずるといふ。せめておの\/身ばかりならば、何ともならうずれども、女院・二位殿に憂目を見せまらせうずるも笑止なれば、一先づ都を落てうずると思ふ。」といはれたれば、貞能、「さらば某はお暇を下されい。」というて、手勢三百人引分けて都へ歸つて、西八條の燒跡に大幕を引いて一夜ゐたれども、歸りのぼらるゝ平家は一人もなかつたによつて、さすがに心細う思うたか、「源氏の馬の蹄にはかゝるまい。」というて、重盛の墓を掘り起いて、あたりの鴨川へ流させ、骨をば高野へ送つて、「世の中は頼もしうない。」と思うたれば、思切つて勢をば維盛の方へ奉つて、われは乘換一匹具して、宇都宮と打連れて、平家と後合せに關東へ落ちて行いてござる。
平家は維盛の外には、宗盛を初めて、皆妻子をつれられた。其の外行くも留まるも、互に袖をしぼらるゝばかりでござつた。相傳譜代の誼であれば、年頃の重恩を忘れやうがなければ、若いも、老いたも唯うしろをのみ顧みて、前へは進みもやられなんだ。おの\/後ろをかへりみて、都の方は打霞んだやうな心地がせられて、煙ばかり心細う立上つたれば、一門の内の經盛、みやこを顧みて、なく\/かう咏まれてござる。
ふるさとを燒野の原とかへりみて末も煙の浪路をぞ行く
又忠もり〔マヽ〕も、
はかなしやぬしは雲井を別るればあとはけむりと立ちのぼるかな
と咏うで、まことに故郷をば一片の煙にへだてられて、ゆくへもしらぬ旅路へ赴かるゝ人々の心の中は推量られてあはれな事でござる。一期に習はぬ磯邊の浪枕で、八重の潮路に日をくらいて、入江を漕ぎゆく櫂の雫と、落つる涙も爭うて、袂もさらに乾しあへられなんだ。或は駒に鞭をうつ人もあり、或は舟に棹をさす者もあり、思ひ\/、こゝろ\〃/に落ちてゆかるゝが、福原の古い都について、宗盛然るべい侍どもを三百人餘り呼集めていはれたは、「積み置いた善の慶ひもこと\〃/くつきて、今は積み重ねた惡の殃が身にむくうて、君にもすてられまらして、浪の上に浮ぶ落人となつて、既にこのやうに漂ひ歩く上は、行末とても憑みあるべうはなけれども、一樹のかげに宿るも前世の契り深う、一河の流れを渡るも多少の縁(*ママ)が深い故ぢや。況や汝等は一旦從ひつく渡りなみ(*世間並み)の人々ではない。代々傳はつた主從の間ぢやによつて、或は側近う使はれた人もあり、或は重代の恩を深う着た人もあり、この一門が繁昌したときは深い恩をうけたれば、今この難儀の時節にも思慮をめぐらいて重恩を報はれうずる事ぢや。
忝けなくも帝王も、三種の神器もござれば、何たる野の末、山の奧までも御幸の御伴を仕らうとは思はぬか。」といはれたれば、老いたも、若いも皆涙を流いて、「怪しの鳥獸までも恩を報じ、徳を報ふ心が皆ござると聞きまらする。中にも弓箭に與さはる習ひは二心のあるを恥と仕る。この二十餘年が間妻子をはごくみ、所從を省みる事、しかしながら君の御恩でないと申す事はない。然れば即ち日本の外、鬼界・高麗・天竺・震旦までも御幸のお伴を仕らうずる。」と口を揃へて申したれば、その時皆色をそつと直いて、たのもしう思はれてござる。
平家は福原の故郷に一夜を明かされた折節、秋の月がさえて、夜も靜にあつたれば、旅寢の床の草の枕に、涙も露も爭うてたゞ物悲しう、いつ歸らうとも知られなんだれば、心細さは限りがなかつたと、聞えまらした。清盛の作りおかれたところどころもいつしか三年にあれはてゝ、苔は徑をふさぎ、草は門をとぢて、瓦には松が生へ(*ママ)、葛かづらがしげつて、臺も傾いて、そこを出入る者とては松風ばかりでござつた。あくれば主上を初めまらして、人々皆御船に召されて、都をたゝせられた程はなけれども、これも名殘は惜しうて、海人のたく藻の夕べのけむり、尾上の鹿の曉の聲、汀による浪の聲、袖に宿かる月のかげ、千草にすだく蟲、すべて目に見、耳にふるゝ事の一つとしてあはれを催し、心を傷ましめぬといふ事はござなかつた。昨日は東山の關の麓に銜をならべ、けふは西海の浪の上に纜を解いて浪をわけて潮にひかれてゆけば、船は半ばは天の雲に沂るやうにあつた。經盛の嫡子經正、御幸に供奉せられたが、なく\/、
みゆきする末も都と思へどもなほ慰まぬ浪の上かな
と、よまれまらした。平家は日數をふれば、都をば山、川、海にへたてられて(*ママ)、くもゐのよそに見成いて、はる\〃/來たと思はるゝにつけても、たゞつきせぬものは涙でござつた。
第九 法皇鞍馬の寺から比叡の山へ還御あつた事と、平家の西國へ落ちられてからの事。
右馬。 して法皇の御行方は後にも知れなんだか?
喜。 いや、それは知れまらした。七月の二十四日の夜半計りに法皇は資時といふ人ばかりをお伴で御所をでさせられて鞍馬へ入らせられたに、鞍馬の坊主共、これはなほ都が近うてわるいというて、奧へいれまらしたれども、比叡の山からやがてこれをきゝつけて、比叡の山へなしまゐられた。この事がまた天下に聞え渡つた所で、關白殿を初めて、其の外都にゐられた程の公卿たち、總じて世に人と數へられ、官、位に望みをかくるほどの人は一人も洩れず、やがて宮比叡の山へ參られたによつて、法皇の御所になつた寺には家のうちには皆人が居あまつて、庭から門外までびつしと滿ち\/てゐた所で、比叡の山の繁昌、門跡の面目と見えてござつた。それからやがて法皇都へ還御なさるゝに、木曾が萬餘騎で守護仕つたに、白旗を先きに立てたれば、この二十餘年あまり見なんだ源氏の白旗がけふ初めて都へ入ることのめでたさよといふものが多かつた。さて院の御所へ入らせられてから、木曾や行家などがお縁のはしにかしこまつてゐたに、法皇からして「平家の大將の宗盛を初めて一門の者共を皆討果せ。」と仰せられたれば、やがて領掌を申してござつたが、宿所がない由を申したれば、皆めい\/に宿を仰附けられたによつて、その朝恩の深い事を皆感じ合はれた。
主上は平家に取られさせられて、西國の方にさまよはせらるゝ事を、法皇は斜ならず歎かせられて、主上並に三種の神器をももろともに都へ返し入れまらせいとあつて、度々に及んで院宣をなさせられたれども、平家は一圓用ゐまらせなんだ。それによつて高倉の院の皇子、主上の外に三人までござつたが、二の宮をば平家からして取りまらして、西國へ下つたによつて、三四の宮ばかり都にござつたを、法皇此の宮たちを呼寄せまらせられて、まづ三の宮の五つにならせらるゝを、「さて何と、こなたへこなたへ。」と仰せられたれども、法皇を御覽ぜられて、したゝかむつからせらるゝによつて、やがてこれをば出だしまらしやつて、其の後四の宮の四にならせらるゝを迎へさせられて、「これへ\/。」と仰せられたれば、これはそつとも恐れさせられいで、やがて法皇のお膝の上へ上らせられて、一段とむつましうござつたれば、法皇涙をはら\/と流させられて、「げにもそゞろな者はこのやうに年のよつた法皇をみては、なぜになつかしう思はうぞ? これこそ誠に孫なれ。」と仰せられて、お髪などをかき撫でさせられて、「高倉の院のをさないお時にそつとも違はぬ。」と仰せられて、お涙を流させられた。そこに丹後殿と申した女房衆がゐられたが、これを見まらして、「さてお讓りは此の宮こそござらうずれ。」と申されたれば、法皇、「仔細にも及ばぬ事ぢや。」と仰せられた。
さうあつて同じ月の十日に木曾をば左馬頭になさせられて、越後國を下され、其の上に朝日の將軍といふ宣旨を下された。されども木曾は越後國をば嫌うて、伊豫國を下された。其の時に十人餘り源氏の人々が受領をせられた。その日平家はまた百六十人内裏の御札を削り除けられたと聞えまらした。誠に昨日は今日にかはる世の中の態はあはれにござる。さて平家は筑前國の太宰の府といふ所にゐて歌を咏うづ、連歌をして旅の愁ひを慰めてゐられた。さうあつて九州二島の人數はやがて馳せ參らうずるとは申したれども、まだ參らなんだれば、重衡そこであまり都の事を戀しう思うて、
住みなれし古き都のこひしさは神も昔を忘れたまはず
と、なく\/よまれたれば、皆これをきいて感涙を催さるれば、都にはまた法皇四の宮(*鳥羽天皇)を位につけまらせられて皆喜びあはれた。又平家は西國で此の事を傳へ聞いて、さても四の宮をも連れまらして下らうずるものをと後悔をしたれども、益もなかつた。さうして彼方此方とあかし暮さるゝ所に、九月の十三夜になつて、名を得た月がその夜しもなほ\/隈もなかつたれば、一門の人々が都での事を思出いて、歌をよまれたが、まづ
經盛の歌には、
戀しとよこぞの今宵のよもすがら契りし人の思ひでられて
又行盛の歌には、
君すめばこゝも雲井の月なれどなほ戀しきは都なりけり
忠盛(*ママ)の歌には、
月を見しこぞの今宵の友のみや都にわれをおもひいづらん
さて經正の歌には、
わけてこし野べの露とも消えずして思はぬ里の月をみるかな
と、思ひ\/咏うで慰うでゐられてござる。
第十 院宣によつて豐後の緒方平家に對し謀叛を起すによつて、平家あつかはるれどもかなはず、遂に太宰の府にも得たまらいで、徒歩はだしで落ちさまよはれた事と、八島の内裏造の事。
右馬。 してそれはそのやうに自由にして西國には何としてゐられたぞ? 京からの咎めはなかつたか?
喜。 そのお事ぢや。さう\/せらるゝ内に豐後國に代官の心になつてゐられた頼もり〔マヽ〕といふ人の所へ、京から御使が立つて、「平家は天道にも離され、君にも捨てられまらして、都を出て浪の上に落人となつてたゞよふを鎭西の者共がうけとつてもてなすこそ聞えぬ事なれ。早々そこもとの者みな一味して平家を亡せ。」と仰せられたによつて、頼經これをその國の緒方といふ者に下知せられたれば、やがて院宣ぢやというて、九州二島へ文を廻いて、よい武士共を集むるに、みな一味した事は、まことにこれは平家の運のつきた謂れでござる。平家はいま國を定めて西國に又内裏を造らうと沙汰せられたれども、緒方が謀叛と聞えたれば、「何とせうぞ。」というて、騷ぎ合はれた所で、時忠卿といふ人申されたは、「かの緒方は小松殿の御被官(*原文「御被管」)ぢやほどに、その子達のうちから一人豐後へ遣りまらして、何卒とゝのへてごらうぜられい。」といはれたれば、「げにもぢや。」とあつて、資盛の卿五百餘騎で豐後國へ打越えて、さま\〃/にとゝのへられたれども、緒方は一切同心せいで、あまつさへ此の資盛をもそこで討果しさうに(*推定・伝聞「さうな」)あつたれども、「大事の中には小事なしと、いらぬ事ぢや。取籠めまらせずとも、何程の事をか召されう。たゞとう\/太宰の府へ歸らせられて、一所でともかうもならせられい。」というて、情なう追ひかへいて、我がおとうと〔マヽ〕の野尻といふ者を使にして、太宰の府へ申し遣つたは、「平家は重恩の君でござれば兜を脱いで、弓の弦をはづし、降參仕らうずる事なれども、都からの御諚には、「疾う疾う追出しまらせい。」とござるによつて、そこをとう出させられい。」と申送つたれば、時忠卿出會うていろ\/すかいて、「頼朝や木曾に一味したならば、國を預けう、郡を呉れうなどゝいふを眞實かと思うて、その豐後の國司頼經がいふ事に同心しては惡しからうぞ。」といはれたれば、野尻歸つてこの由を父(*緒方維義)に云うたれば、「それならば急いで追出せ。」というて、軍勢を催すと聞えたれば、平家の侍頼貞(*ママ。源季貞か。)、守澄(*ママ。平盛澄か。)などはこれを召捕つて死罪に行はうというて、三千餘騎で筑後國たけのした〔マヽ〕の庄といふ所へ發向して、一日一夜攻め戰ふ所で、緒方三萬餘騎で寄すると聞えたれば、取るものも取りあへず、太宰の府へ平家の侍共は皆落ちてかへられたが、そこにもえたまらいで主上をば輿に召させ、國母をはじめてやごとない女房達、袴のそばをとり、宗盛なども狩衣のそばを高う挿うで、我先きにと徒歩跣で落ちさせらるゝに、折節雨がふつて車軸を流せば、吹く風は砂を飛ばして、目口に入れば、落つる涙と降る雨はいづれをいづれと見別けられなんだ。嶮しい所どもを歩かせらるゝ事をばいつ習はせられうぞなれば、御足から流るゝ血は砂を染めて、そのあはれな態は言語にのべられぬ態でござつた。
さうしてやう\/と山鹿といふ城へ入らせられたれども、そこへも尚敵が寄すると聞えたれば、小舟どもに取乘つて、よもすがら豐前國の柳浦へお渡りあつたが、そこにも又えたまらいで、あそここゝへ漂ひ歩かるゝうちに、小松殿の三番目の子の清しげ〔マヽ〕(*平清経)といふ人は平家の運のつきはてた態を見限つて、「網にかゝつた魚のやうにしてゐてはいらぬ事ぢや。」と思はれたか、月夜に心を澄まいて、船の屋形に立出て笛などを吹いて遊ぶ態にもてないて、海へざつと沈んで死なれたれば、男女泣き悲しうだれども甲斐もおりなかつた。その分にして平家は重能といふ者をたのうで四國の地へ渡られたが、そこで重能が才覺をおもつて〔マヽ〕四國の國中を催いて、讃岐の八島にかたの如くな板屋に内裏や御所をつくらせた。其の間は百姓の家をばさすがに皇居にする事がならなんだれば、船を御所に定められたれば、宗盛を初め、皆あまたの苫屋に日を送り、夜を重ねて、浪の上に漂はるれば、少しの間も心靜かな事はなうて、深い憂ひに沈んで、霜のおほふあしの枯葉を見ては、命の脆い事に思ひなし、洲崎にさわぐ千鳥の聲をきいては、曉のうれひをまし、そばにひきかくる楫の音は夜半に心を傷ましめ、白鷺の遠の松に群居るを見ては、源氏の旗をあぐるかと疑ひ、夜雁のなくをきいては、敵の船を漕ぐ音かと驚き、寒い潮風に揉まるれば、姿形も漸々に衰へて、命を長らへられうずるやうもないほどにござつた。
第十一 木曾が猫間殿に會うての無躾と、車に乘つて牛に曳きずられた事。
右馬。 して木曾は都へ上つて躾などはよかつたか? 又辭儀法をも知つたものでおぢやつたか?
喜。 そのお事ぢや。木曾は都を守護してゐたが、顔はにが\/しい男であつたれども、立居振舞の無骨さ、ものいふ言葉つきの頑しい事は、限りもござなかつた。道理かな、二つの年から信濃國の木曾といふ山里に三十まで住馴れたれば、なんとして禮儀をも知られうぞ? 其の頃猫間殿といふ人があつたが、木曾に談合せう事があるというて、木曾が宿所へゆかれたれば、郎黨共が出合ふに、「木曾殿へお目に掛りたい仔細があつて來た。披露してたまうれ。」といはれたれば、やがてその由を郎黨が告げたれば、木曾は大きに笑うて、「何? 猫でありながら、人に見參せうといふか。」と云はれたれば、「いや、これは猫間殿と申して公卿でござる。」というたれば、木曾「さらば見參せう。」というて、出會うて對面して、猫間殿とはえいはいで、「猫殿の初めておぢやつたぞ。もてなしまらせい。」というて、飯の時分になつて、新しいものをば、何をも無鹽といふと心得て、「お肴に無鹽の平茸があるを早う出せ。」といはれた所に、配膳する者共が、田舍御器の粗う塗つたが、極めて大きう深いに、飯をおしつけて入れて、菜は三つで平茸をば汁にして、木曾が前にも猫間殿の前にも同じやうに据ゑた所で、木曾は箸を執つてこれを食へども、猫間殿は御器の不審さにくはれなんだれば、「なぜにおまゐりあらぬぞ、猫殿? これは木曾が晴れの合子でおぢやる。」といふによつて、猫間殿も食はずは惡しからうと思うて、箸をたてゝくふ由をせられたれば、木曾はこれを見て、「猫は小食なよ。しひておまゐりあれ。」といはれてござつた。猫間殿は談合せられうずる事も多かつたれども、その態を見て、しか\/云ひもせいで、やがて歸られまらした。
猫間殿が歸られてから、木曾も出仕をせうというてでたつたが、「官加階に上つたものが直垂で出仕せうことはあらうずる事でもない。」というて、はじめて本々に束帶うたが、その鳥帽子ぎはなどの見苦しさ、かたくなしさ、鎧をとつてひつかけ、兜の緒をしめ、馬に打乘つた時には似も似ず、見苦しうござつた。車をば前の平家の宗盛の召使はれた彌次郎といふ者が、世に從ふ習ひなれば、力に及ばいで召されてやつたが、餘りのめざましさに、飼ひに飼うた牛の逸物なり、門を出うとした時、ぶち(*鞭)を一つあてたれば、なしかは(*ママ)よからう? 飛出るほどに、木曾は車の内でのつけに倒れて、蝶の羽をひろげたやうに、左右の袖をひろげて起けうとすれども、やうか(*「良うか」か。)起きられう。猶も五六町ほど曳きずつたに、兼平鞭にあぶみを揉合せて追附いて、「なんと。なんと。」と申したれば、「牛の鼻が強うてなんともならぬ。」といはれた。牛飼、「此の分ではあしからうず。仲直りをせう。」と思うて、「さうでござる。手がたにとりつかせられい。」と申したればむづと手がたに取附いて、やう\/として院の御所へ參りついて、車をかけはづさせて、後ろから下れうとしたを、その雜色は京の者であつたによつて、これを見て、のらせらるゝ時は後ろから召させられ、下りさせらるゝ時は、前からこそ下りさせられい。」と申したれども、「なに、どこも車であれば、すみづをついて下るるに、むつかしい事があらうぞ。」というて、遂に後ろから下りられてござつた。誠に笑はうずる事は多かつたれども、恐れて有繋さうとはえいはなんだ。
第十二 平家室山、水島二ケ所の合戰に打勝たれた事と、兼康が木曾に對しての謀叛と、源氏の大將行家の合戰の事。
右馬。 してその間に平家は何とせられたぞ?
喜。 そのお事ぢや。平家は讃岐の八島にゐられたれども、そつとふをしなほいて(*ママ)、あそここゝ十四が國ほど伐り從へてはびこらるゝ所で、木曾はこれを聞いて安からず思うて、やがて討手を遣はいた。その大將には義清、侍大將には行廣を定めてその勢都合七千餘騎で馳せ向うたが、備中の水島といふ所で小舟が一艘くるをたゞ世の常の海人などの舟かと思うたれば、平家方から文を以てゆく舟であつたによつて、源氏方から船を五百艘ほど押出いて、そのまゝ取廻さうとしたれば、また平家方からも船を船を千餘艘で漕出いて、をめきさけうで漕ぎよせた所で、能登殿のいはれたは、「合戰の仕樣が忽せな。敵の船は皆舫うと見えたぞ。味方の船も組め。」というて、千餘りの船を、艫舳に繩を組合せて、歩みの板を引渡いたれば、船の上は平地の如くにあつて、源平兩方ともに鬨を作り、船を押合せて攻め戰ふが、遠いをば弓で射、近いをば太刀で斬り、熊手にかけ、とるもあり、とらるゝもあり、組んで海に入るもあり、刺違へて死ぬるもあり、思ひ\/こゝろ\〃/に勝負をしたが、そのうちに源氏の侍大將の行廣も討たれたを、總大將の義清きいて、「安からぬ事かな。」というて、主從七人小舟に乘り移つて、まつさきに進んで戰うたが、なんとかしつらう、船をふみ沈めて皆死なれてござる。
平家の船には鞍置馬をたてたれば、船をさしよせて馬共を追下し\/、ひた\/と打乘つて、陸にゐた源氏の陣へ能登殿をめいてかけられたれば、源氏方には大將が討たるゝ上は、我先きにと落ち行きまらした。平家は水島の軍に勝つてこそ前の恥をすゝがれてござれ。さないならは(*ママ)をかしい事でござらう。
木曾は是を聞いて、安からぬ事と思うて、一萬餘りでやがて馳せ下らるゝが、備中國の兼康といふものは、北國の軍に藏ずみ〔マヽ〕(*藏光)といふ者が手にかゝつて生捕られたが、剛の者であつたによつて、木曾殿、「あたら者をまづ斬るな。」というて、藏光が弟に預けておかれたが、心樣も優で、なさけある者であつたによつて、藏光も懇ろに扶持して置いてござる。されども兼康は表面ばかりで、底には何卒してま一度もとの主の平家へ歸らうと思うたが、或時藏光にいうたは、「去年の五月からかひない命を助けられまらしてござれば今より以後戰ひがござらば、眞先きかけて木曾殿に命を奉らうずると存ずる。」と眞しやかにいうたれば、藏光その樣を木曾殿に語るに、木曾殿も「それは神妙な事ぢや。さらばまづ案内者をつれて先へ下つて、馬の草かひなどをもこしらへさせい。」といはれたれば、藏光も喜うで兼康を先として、三十騎ばかり引連れて備中國へ下れば、兼康が兄〔マヽ〕平家の方にゐたが、弟が木曾殿が木曾殿から許されて下るときいたれば、郎黨共を催しあつめて五十騎ばかりで迎ひに上るほどに、播磨の國府で行合うて連立つて下るが、備前國の三石の宿に泊つたれば、兼康が親しい者共酒をもたせて來て、その夜よもすがら酒盛をして、預りの武士の藏光が郎黨共三十人餘り前後も知らず醉ひ臥してゐたを起しもたてず、一々に皆刺殺いてのけてござる。備前國は源氏方の行家といふ人の國であつたによつて、その代官が國府にゐたを押寄せてこれをば打殺いて「兼康こそ木曾殿から暇を下されて下れ。平家に志を通ぜうずる者共は、兼康を先きとして、木曾殿のお下りあるに矢を一つ射かけまらせい。」と言觸らいたれば、備前・備中・備後〔マヽ〕、此の三ヶ國のつはもの共、物の具の然るべい子供をば皆平家方へやつて休んでゐたが、此の兼康に催されて、いかにも見苦しい出立で、山靱や、しこや(*ママ)などを取附け\/て、兼康が許へ馳せ參つたものは二十人〔マヽ〕ばかりであつたが、兼康をさきに立てゝ、備前國の福龍寺繩手に城をこしらへて、口二丈深さ二丈に堀をほり、逆茂木を引いて、櫓をかき鏃を揃へてまちかけてゐてござる。
備前の國府にゐた行家の代官の被管(*被官)どもが、主は殺されてから京へ逃げて上るが、道で木曾殿に行合うて、その有樣を語つたれば、木曾腹を立てゝ、「斬らうずるものを、憎い命を助けておいてあたになつた。」といはれたれば、兼平が申したは、「さればこそ眼差、骨柄けしからぬ者と存じたほどに、『疾う斬つてすてさせられい。』と申したに、事を延べさせられて、このやうな事が出來まらした。」そこで木曾殿「剛の者ときいたがゆかしさに、今まで斬らいでおいた。何程の事があらうぞ? 追ひかけて討て。」といはれたれば、兼平、「さござらば、まづ下つて見まらせう。」というて、三千餘騎で馳せ下つて、その城へ押寄せてみれば、そのあたりは深田で馬の足も及ばなんだれば、三千餘騎の者共が、心は先きに進んだれども、馬次第に歩ませたに、兼康が兄弟、高櫓から大音をあげて罵つて、「去んぬる五月からかひない命を助けられまらして、おのおのの御芳志を受けたは、れんれんこれを用意仕つてござる。」というて、屈竟の射手を數百人すぐつて、鏃をそろへてさしつめひきつめさん\〃/に射るによつて、面を向けうずるやうはなかつたれども、兼平を初めて歴々の剛の者共、兜のしころを傾け、射殺さるゝ者を取入れ引入れ、堀を埋めて、をめきさけうで攻め戰うが、遂には左右の深田へ打入れて、馬を泳がするやら、歩まするやらで、をめいて押寄せ、或は谷の深いをも嫌はず、懸入れ\/一日戰ひ暮いたれば、兼みつ〔マヽ〕が催し集めた驅武者共さんざんにかけちらかされて、助かる者は少う、討たるゝ者は多かつたによつて兼康その城を攻落されて、備中國の板倉河の端に掻楯(*楯の牆壁)をかいて待ちかけた所へ、兼平息をもくれず押寄せたれば、矢種のある程こそは防ぎも戰うたれ、皆射つくいてから、我先きにと落ちてゆくほどに、兼康は主從只三人に討ちなされて逃げてゆくを、初め北國で生捕りにしたかの藏光、また之を生捕りにせうというて、大勢の中を一町ばかり駈拔け追附いて、「いかに兼康、なぜに敵に後ろをば見するぞ? 返せ\/。」というたれば、板倉河を西へ打渡るが、河中に控へてまちかけたに、藏光馬を馳せ寄せて、押並べてむずと組んで、どうと落ち、互に劣らぬ大力であつたによつて、上になり下になり、轉び合ふほどに、河岸の淵があつたに轉び入つて、藏光は水練なし、兼康は水練が上手なれば、水の底で藏光を取つて押へて、刀をぬき、草摺を引上げ、三刀刺いて、首を取つて、馬は乘捨てたり、敵の藏光が馬にひた\/と打乘つてにげて行つたが、兼康の總領の宗康馬にはのらず、徒歩で郎黨と共に落ちてゆくほどに、まだ二十二三な者であつたれば、あまり強うは一町ともえ走らず、具足などをも脱ぎすてゝ、やうやうと十町餘りほど落ちたれども、親にはまだ追附かなんだ所で、兼康下人にいふは、「兼康あまたの敵に向うて軍をして名を擧げたれども、今度あの宗康を捨てゝ行くならば、たとひ命生きて再び平家の味方へ參つたりとも、朋輩共、兼康あまたの敵に向うて軍をして名を擧げたれども、今度あの宗康を捨てゝ行くならば、たとひ命生きて再び平家の味方へ參つたりとも、朋輩共、兼康は六十に餘つていくほどもない命を惜うで、只ひとりある子を捨てたなどといはれう事は恥しい。」というた所で、郎黨が返事には、「さござればこそ、只一所でともかうもならせられいとは申したはこゝでござる。取つてかへさせられい。」というたれば、心得たというて、取つて歸いて見れば、宗康は足がしたゝか腫れて、歩く事もならず、たゞ地にひたと伏してゐたに、「汝が追附かねば、一所で討死をせうと思うて歸いたが、なんと。」というたれば、宗康そこで起き上つて、「某は無器量にござれば、自害をも仕らうず。我故お命を失はせらるゝならば、私がために深い罪となりまらせうずれば、只歸らせられい。」といへども、思切る上はというて、休む所へ、兼平眞先きかけて五十騎ばかりでをめき叫うでかゝつたれば、兼康矢を七つ八つほど射殘いておいたをさしつめひきつめさん\〃/に射たに、生死は知らず、矢庭に敵を五六騎ほどは射落いて、そののち打物を拔いて、まづ嫡子の宗康が首を討落いてから、敵をあまた討取つて、遂に討死仕つた。郎黨共も主におとらず戰うたれども、大事の手をあまた負うたによつて、自害をせうとする所を生捕りにせられた。首を切つてこれら主從三人の首をば備中國の鷺の森といふ所にかけられたを、木曾殿が見られて、「さても剛の者かな! これこそ一人當千のつはものとはいはうずる者共なれ。惜しい者共ぢや。助けて見うものを。」と云はれてござる。
さうして木曾殿はそこで勢揃ひをして、八島へ既に寄せうとせらるゝ所へ、都の代官に置かれた兼光、飛脚をたてゝ申したは、「行家は都にござつて、再々院へ參らせられて、木曾殿の事を讒奏めさるゝほどに、西國の軍をばまづさし措かせられて早う上らせられい。」と云ひやつた所で、木曾さらばというて、夜を日についで馳せ上らるれば、行家は叶ふまいと思はれたか、木曾にすつて違うて丹波路へかゝつて播磨へ下らるれば、木曾は津の國をへて都へ入る。平家はまた木曾を討たうずるというて、知盛を大將にして、都合その勢二萬餘りで千餘艘にのつて、播磨路へ押渡つて、陣を取つてゐらるれば、行家は平家と軍をして、木曾と仲直りをせうと思はれたか、五百餘騎でをめき叫うでかゝられたに、越中の次郎兵衞といふ人會釋するやうにもてないて、中をざつとあけて通いた。二番目の陣は家長といふ人であつたが、是も中をあけて通いた。又三番目の陣から四番目まではそのごとくにして通いて、約束をした事なれば、五番目でひたと受けとめて、敵を中に取籠めて、前後から一度に鬨をどつと作つた所で、行家今は逃れうずるかたがないと思はれたによつて、命も惜まず、面をふらず、こゝを最後と防ぎ戰はるゝを、平家の侍共源氏の大將に押並べて組め\/というたれども、さすが行家に組む者は一騎も居りなかつた。平家の大將新中納言の頼み切られた侍共もその所であまた死んだと申す。行家も五百餘騎がやう\/と三十騎ばかりに討ちなされて、四方が皆敵であつたによつて、何としても遁れうとは思はなんだれども、思切つて雲霞のやうな敵の中を打破つて出られた。されども我身は手を負はず、家の子郎黨二十餘騎あまた痛手を負うて、播磨國の高砂から船に乘つて押出いて和泉へついて、それから河内の長野といふ城へ引籠られたと申す。平家は室山・水島二ヶ所の合戰に打勝たれてこそ、いよいよ勢はついてあつたと申す。
第十三 木曾都に於いて狼藉をなすを、法皇からして誡めさせられたれば、法皇のござる法住寺殿まで押寄せて、合戰をし、御所を燒いた事。
右馬。 木曾が京で狼藉をしたは何たる事ぞ。
喜。 さればその事でござる。京中には源氏の勢がみち\/て、在々所々では入取を多うし、誰が知行ともいはせず、青田を刈り、馬に飼ひ、人の倉をば打開いて物をとり、衣裳を剥ぎ取り、狼藉をしてござる。平家の都にゐられた時、六波羅殿というても、たゞ大方に恐ろしいばかりで、衣裳を剥ぎ取るまでの事はなかつたものを! 平家の代りになほ源氏は劣つた、と申すによつて、木曾が許へ法皇からして壹岐の判官といふ人を勅使に立てさせられた。この人は天下に勝れた鼓の上手であつたれば、その時代の人が鼓判官と申した。木曾對面して、まづお返事をば申さいで「抑も和殿を鼓判官といふはよろづのものに打たれたか、はられ、叩かれたか。」と問ふによつて、判官返事にも及ばず、急いで法住寺殿へ歸り參つて、「木曾は嗚呼のものでござる。只今も朝敵になりまらせうず。急いで御成敗なされい。」と申したれば、さらば(*「とて」脱か。)然るべい武士にも仰附けられいで、山の座主、寺の長吏に仰せられて、比叡の山、三井寺の惡僧共を召されたれば、勢というても、言語道斷あさましい奴ども、所々の乞食坊主、或は京中に礫向ひ、印地(*石合戦)などをする連(*類)のものでござる。
木曾は法皇の御氣色が惡しうなると聞えたれば、五畿内の兵共、初めは木曾に從うたが、皆木曾を叛いて法皇の御方へ參つた。それのみならず、歴々の者が木曾を捨つるによつて、兼平が申したは、「これこそ以ての外の御大事でござれ。さればとて帝王に對せられて御合戰をさせられうずるでもなし、只兜をぬぎ、弓弦をはづいて、降人に參らせられい。」というたれば、木曾大きに腹を立てゝ、「我は信濃國を出た時から、方々の合戰をしたれども、まだ一度も敵に後ろをみせねば、帝王でござらうとも、まゝよ、兜をぬぎ弓弦を外いて、降人にはえこそ參るまじけれ。たとへば都の守護としてあらうずる者が、馬一匹づゝ飼うてのるまいか? さてこれ程多い田どもを刈つて馬に飼うたればとて、強ちに法皇のお咎めあらうずる事か? 兵糧がなければ下々の者共が片土などで時々入取をしたればとて、深い事か? 公卿達や宮々の御所へ參らばこそ僻事でもあらうずれ、これはひとへに鼓判官が仕業と思ふぞ。その鼓打破つてすてい。今度は木曾が最後の軍であらうず。頼朝がかへりきかうずる所もあるぞ。構へて軍を能うせい、者共。」というて、勢どもが皆落ちていんだれば、僅に六千餘騎あつたを、「わが軍の吉例(*慣例)ぢや。」というて、七手に分くる。先づ樋口の二郎二十〔マヽ〕餘騎で搦手からまはす。殘る六手は町小路から河原へでて、そこで皆寄合へと合圖を定めて出立つた。法住寺殿へも軍兵が二萬餘り參り籠つたと聞えた。木曾が方の笠印には松の葉をつけて、十月の十九日の朝、木曾法住寺殿の西の門へ押寄せて見れば、鼓判官は軍奉行をして、兜ばかりをきて、西の辻の上にあがつて、時々舞ふ折もあり、いろ\/のなりかゝりをしたれば、皆公卿達、「あれには天狗がついたか。」というて笑はれてござつた。
鼓判官大音聲をあげて申したは、「宣旨を向うて讀めば、枯れた草木も花榮え、實なるとこそいふに、末代というても、帝王に向ひまらして弓を引くか? 己れが放さうずる矢はかへつて身に當らうず。拔かうずる太刀も却つて汝が身を斬らうぞ。」などと罵つたれば、木曾、「さな云はせそ。」というて、鬨をどつと作つたれば、搦手からやつた樋口の二郎鬨の聲を合せて、鏑矢の中へ火を入れて、法住寺殿の御所に射立てたれば、をりふし風がはげしう吹いて、猛火天に燒上つて、焔は虚空に滿ち\/た所で、軍奉行のかの鼓判官は人よりさきに逃げた。軍奉行が落つる上は、二萬餘りの官軍共、我先きにと落ちて行くが、あまり騷いで、或は弓の筈をものに引掛けて捨てゝ逃ぐる者もあり、或は長刀を倒まについて、我足を突き貫くものもあり、しどろもどろになつて、方々に皆落ちて行くに、かねて軍以前に、「落人があらば、皆射殺せ。」と、院宣を下されたによつて、京片土の者共、わが家を楯について瓦の石を取集めてまちかけた所に、津の國の源氏が落ちて行くを見て、「あはや落人よ。」というて、石どもを拾ひかけ拾ひかけ打てば、「これは院方の者ぞ。過ちすな。」というたれども、「さないはせそ。只打殺せ\/。」というて、只打ちに打つによつて、或は馬を捨てゝ逃ぐるものもあり、或は打殺さるゝものもござつた。そのほか木曾を叛いて法皇へ參つた歴々の者共もあまた討たれたと申す。
法皇も車にめして他所へ御幸なさるゝに、武士共雨のふるやうに射奉れば、宗長といふ人お伴を仕られたが、「これは法皇の御幸ぞ。過ちすな。」といはるれば、武士共馬からおりてかしこまるに、「何者ぞ。」とお尋ねあれば、「信濃國の行綱と申す者でござる。」と申した。さて法皇をば五條の内裏へ押籠めまらして、嚴しう守護しまらしてござる。その樣態、あさましいといふも愚かでござる。さうして木曾はその明くる日、昨日斬つた所の首共を六條河原に竿を渡いて註すに、六百三十人餘りと記されてござる。木曾その時は人數が七千餘りあつたが、六條河原に人數を据ゑて、馬の鼻を東へ向け、天も響き大地も震動するほど、三度鬨を作つたれば、京中の者共また騷いて(*ママ)、「これは何事ぞ。」ときけば、喜びの鬨と聞えたによつて、皆安堵仕つてござる。
それから木曾はわが館へ歸つて家の子・郎黨共を呼び集めて、評定をするは、「身は一天の君に向ひまらして軍に勝つた上は、主上にならうか? 法皇にならうか? 主上にならうと思へどもわらんべになつては用もなし、法皇にならうと思へども法師にならうがをかしい。よし\/さうあらば關白にならうと思ふが、何とあらうぞ。」というたれば、覺明といふ人がいうたは、「關白は大職冠(*ママ)のお末で藤原氏でござるに、殿は源氏でござりながら、關白にならせられたならば、これこそ世にをかしい事でござらうずれ。」「さらばその上では力に及ばぬ事ぢや。」というて、院の御別當(*ママ)といふになつて、丹波國を知行してゐられた。誠に木曾が主上、法皇の別をも知らいで、むさとした(*不注意な、無分別な)ことを云うたことはをかしい事ぢや。君子はうつはものならずとこそいふに、ひとへに弓矢の事ばかりにたづさはつた事はあさましい儀ぢや。「まことに木曾が惡行は平家の驕つた時の仕業に遙かました。」と世上の取沙汰でござつた。
(*卷三 了)
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