天草本平家物語 卷二
新村出 序並閲、龜井高孝 飜字
『天草本平家物語』(岩波書店 1927.6.28)
※ 〔マヽ〕 原注。/文意によって表記を改めたところがある。
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巻1
巻2・目録
巻3
巻4
平家卷第二
平家物語
卷第二
第一 祇王清盛に愛せられた事、同じく佛といふ白拍子に思ひ代へられて後、親子三人尼になり、世を厭うたことと、又その佛も尼になつた事。
右馬。 さてまことに誰にも彼にも清盛は難儀をかけた人ぢやの? また其の祇王が事をも聞きたい。お語りあれ。
喜。 長い事なれども申さうず。
清盛はこのやうに天下をたなごころに握られたによつて、世間の誇りをも憚らず、人の嘲りをもかへりみいで不思議な事のみをせられてござる。たとへばその頃都に聞えた白拍子の上手に
祇王・
祇女といふ
姉妹の者がござつたが、とぢといふ白拍子の娘であつた。姉の
祇王を
清盛の愛せられたによつて、妹の
祇女をも世上の人がもてなす事は
斜ならなんだ。母とぢにも好い家を作つてとらせ、毎
月に百
斛百貫を送られたれば
家内富貴して樂しいこと
限りなかつた。京中の白拍子ども
祇王が幸のめでたい
樣を羨む者もあり、そねむ者もあり、まち\/であつた。うらやむ者共は、「さても果報な
祇王やな! 同じ
遊女とならば、誰も皆あのやうでこそありたけれ。あはれ、これは
祇といふ文字を名についたによつてこのやうにめでたいか。いざ我等もついて
見。」というて、或は祇一とつき、祇二とつき、或は祇福、祇徳などといふものもあつた。また嫉む者共は、「なぜに文字により名にはよらうぞ? 幸は前世の生れつきでこそあれ。」というて、つかぬ者も多かつたと申す。
さうして三年目にまた都に聞え渡つた白拍子の上手が一人できたが、加賀國の者で、名をば
佛と申した。年は十六でござつた。昔から白拍子もあつたれども、このやうな舞は未だ見ぬというて、京中の
上下もてなす事はかぎりがなかつた。
佛御前が申したは、「我は天下に聞えたれども、當時さしもめでたう榮えさせらるゝ西八條へ召されぬ事こそ
本意ない事ぢや。
遊者のならひなれば、定めて苦しうもあるまい。いざ推參して見う。」と云うて、或時西八條へ參つたれば、人が參つて、「當時都に聞えまらした
佛御前こそ參つてござれ。」と申したれば、
清盛、「何ぢや? そのやうな遊者
は人の召しに從うてこそ來るものなれ。左右なう推參することがあるものか? その上
祇王があらうずる所へは、神ともいへ、佛ともいへ、かなふまい。疾う\/歸れといへ。」と云はれたれば、
佛すげなういはれて、既に歸らうとしたを、
祇王清盛に申したは、「遊者の推參することは常のならひでござる。その上年もまだ若うござるが、たま\/思立つて參つたをすげなう仰せられて歸させられうことは不便な儀ぢや。いかほど恥かしうかござらう。わが立てた道でござれば、人の上とも存ぜぬ。たとひ舞を御覽じ、歌を聞召されずとも、御對面ばかりあつて歸させられば、有難いお情けでござらうず。唯理を抂げて御對面なされい。」と申したれば、
清盛、「
我御前があまりいふ事ぢや程に、
見參をして歸さうずる。」とあつて、使をたてて召された。
佛はすげなう云はれて車に乘つて出たが、召されてまた歸り參つたれば、
入道やがて
出合はれて、「今日の見參はあるまじい事であつたを、
祇王が申し勸むるによつて見參はしつ。見參するほどでは、なぜに聲をも聞かいであらうぞ? まづ今樣を一つ謠へかし。」とあつたれば、
佛、「畏まつてござる。」と申して、今樣を一つうたうた。
君を初めて見るをりは、千代も經ぬべし姫小松
御前の池なる龜岡に、鶴こそ群居て遊ぶめれ。
と推返し\/三遍まで謠うたれば、見聞く人みな
耳目を驚かいたによつて、
清盛も面白げに思はれて、「
我御前は今樣は上手ぢや。この態では舞も定めてよからず。一番舞ふほどに鼓打を呼べ。」というて召された。さて打たせて一番舞うたに、
佛御前は髪姿よりはじめて、
眉目貌世に勝れて聲も好う節も上手であつたれば、なにしに舞も損ぜうぞ? 心も及ばぬほど、舞ひすまいたれば、
清盛、舞に愛でられて、
佛に心を移されたれば、
佛申すは、「こはされば、何事でござるぞ? もとより私は推參の者で追ひ出だされまらせうずるを、
祇王御前の申状によつてこそ召し還されてもござるに、留め置かせらるゝならば、
祇王の思はれうずる心の
中も恥かしうござらうず。はや\/暇を下されて
出させられい。」と申したれば、
清盛、「一圓其儀はあるまい。たゞし
祇王が居るを憚るか? 其儀ならば
祇王をこそ出さうずれ。」と云はれたれば、「それまたあらうずることでもござない。もろともに召置かれうさへ片腹痛うござらうずるに、
祇王は出されて
妾一人を留め置かせられば、猶々迷惑に存ぜうず。おのづから後まで御忘れなさらぬならば、召されて又は參るとも、けふはまづお暇
をくだされい。」と申したれば、
清盛、「すべて其儀あるまい。
祇王疾う\/罷出い。」とあつて、お使を重ねて三度まで立てられた。
祇王はもとより思ひまうけた道なれども、さすが昨日今日とは思ひも寄らず。「急いて
(*ママ)出でよ。」としきりに仰せらるゝによつて、掃き
拭ひ塵を拾はせ、見苦しい物どもとりしたゝめて
出うずるに定まつた。一樹の蔭に宿り、同じ流を結ぶさへ、別れは悲しい習ひぢやに、ましてこの
三年が間住み馴れた所なれば、名殘も惜しう悲しうてかひない涙がこぼれた。さてあらうずる事でもなければ、「今はかうぢや。」というて出づるが、無からうずる跡の忘れ形見にと思うたか、障子に泣く\/一首の歌をかいた。
萌出づるも枯るゝも同じ野邊の草いづれか秋にあはで果つべき
さて車に乘つて宿所に歸つて障子の内に倒れ伏いて唯泣くより外の事はなかつた。母や妹是を見て、「何と\/。」と問うたれども、とかうの返事もせなんだによつて、伴した女に尋ねて、「さてはかうであつたよ。」と知つた。さうあつたれば、毎月に送られた百斛百貫も止められて、今は佛が縁り係りの者共初めて樂しみ榮えた。
京中の上下、「
祇王こそ
清盛の暇を下されて出たと云ふに、いざ
見參して遊ばう。」と
いうて文を遣はす者もあり、使を立つる者もあり。
祇王はさればとて今更人に對面して遊び戲れうずることでもなければ、文を取入るゝ事もなし、まして使にあひしらふまでもなかつた。これにつけても悲しうて涙にのみ沈んでゐた。さうさうする程にことしも暮れ、明くる春のころ、
清盛祇王が所へ使を立てゝ、「いかに
祇王、其の後は何事かある? さては
佛があまりさびしさうに見ゆる。何か苦しからうぞ? 參つて今樣をも歌ひ、舞などをも舞うて
佛を慰めい。」といはれたれば、
祇王とかうの返事にも及ばず、なみだをさゝへて打臥した。
清盛、「なぜに
祇王は返事をせぬぞ? 參るまいか? 參るまいならばそのやうに云へ。
清盛も計るやうがある。」といはれたれば、
母はこれを聞いて悲しうで、
何とせうとも覺えず、泣く\/教訓したは、「いかに
祇王御前、ともかうもお返事を申せかし。このやうにしかられまらせうよりは。」といへば、
祇王、「參らうと思ふ道なればこそ、やがて參らうとも申さうずれ。參るまいもの故に、何とお返事を申さうとも覺えぬ。『此の度召すに參らずは、計らう旨がある。』と仰せらるゝは、都の内を
出さるゝか、さらずは命をたゝるゝか、これ二つには過ぎまい。たとひ都を出さるゝとも歎かうずる事でもない。たとひ命を召さる
るとも惜しまうずる我身か? 一度詮ない者と思はれまらして、再び面を向けうずるものか。」というて猶お返事をも申さなんだを、
母とぢ重ねて教訓したは、「いかに
祇王御前、
天が下に住まうずる限りは、ともかうも
清盛の仰せを背くまいことでこそあれ、
男女の縁、定めない事今に始めぬ事ぢや。千年萬年と契れども、やがて離るゝ中もあり、事かりそめとは思へども、長らへはつる事もあり。世に定めないは男女の習ひぢや。その上
我御前は三年まで思はれまらしたれば有難いことでこそあれ、召されうに參らねばとて、命を失はるゝまではあるまじい。都の
外へ出されうずるまでゞあらう。たとひ都を出さるゝとも、
我御前達は年が若ければ
何たる岩木の
間でもすごすことが安からうず。それに我身年寄り、
齡も衰へた身が都の外へ出されうず。慣はぬ鄙のすまひをかねて思ふも悲しい。唯われを都の内で住みはてさせい。それこそ今生後生の
孝養であらう。」といへば、
祇王うらめしいと思うた道なれども、親の命をそむくまいとて、泣く\/また
出立つ心の中は誠に無慚な。「ひとり參らうずるもあまりものうい。」と云うて、妹の
祇女をもつれ、そのほか白拍子二人、惣じて
四人一つ車にのつて西八條へ參つたれども、日頃參つた所へは入れられい
で、はるか
下つた所に座敷をしつらうて置かれたれば、
祇王、「こはされば、何事ぞ? 我身にあやまる事はなけれども出さるゝだにあるに、座敷をさへ下げらるゝ事の恨めしさよ。いかゞはせう。」と思ふに、知らせまいと抑ゆる袖の
隙からあまつて涙が
飜れた。
佛御前是を見て、世に哀れに思うたれば、
清盛に申したは、「日頃召されぬ心でもなし、これへ召させられいかし。さないならば
私に暇を下されい。出て
見參申さう。」というたれば、
清盛「すべて其儀あるまじい。」といはるれば、力に及ばいで出なんだ。
清盛やがて
出合うて、
祇王が心の中をばお知りなうて、「如何に
祇王、そののち何事かある? さては
佛御前があまりつれ\〃/げにみゆる。何か苦しからう? まづ今樣を一つ歌へかし。」といはれたれば、
祇王參る程ではともかうも
清盛の仰せを背くまいと思ひ、落つる涙を抑へて今樣を一つ歌うたが、其の
道理時に當つて
似合うてあつたれば、その座に並居られた平家の一門の人々皆涙を流された。
清盛も面白げに思はれて、「時にとつては
神妙に申した。さては舞も見たけれども、けふは折節紛るゝ事がある。此の後は呼ばずとも、常に來て今樣をも歌ひ、舞などをも舞うて
佛を慰めい。」といはれたれども、
祇王とかうの返事にも及ばず、涙を抑へて歸つた。
「『親の命を背くまじい。』とて、つらい道に赴いて、再び憂目を見た事の心憂さよ。かうして此の世にゐるならば、また憂目を見うず。今はたゞ身を投げうずる。」と云へば、妹の
祇女もこれを聞いて、「我も共に身を投げう。」といふ。
母とぢ是を聞くに悲しうて何とあらうとも覺えず、なく\/又教訓したは、「誠に
我御前の恨みも理りぢや。さやうのことがあらうとも知らいで、教訓して參らせた事の心憂さよ。但し
我御前身を投げば妹の
祇女も『共に身を投げう。』といふ。若い
二人に娘共におくれたらば、年老い齡衰へた母が留まつても
何にせうぞ? 我も共に身を投げうず。まだ死期も來ぬ親に身を投げさせたらば、深い罪にもならうず。此の世は僅の假の宿りなれば、恥ぢても恥ぢいでも、させる事でもない。只永い世の闇こそ悲しけれ。今生でこそあらうずれ、後生まで惡道へ赴かう事こそ悲しけれ。」というて、袖を顔に押當てゝ
潸々とかきくどいたれば、
祇王涙を抑へて、「一旦はぢを見た心憂さにこそ『身を投げう。』とは申したれ。げにもさやうにござらば、罪の深からうずることは疑ひない。さあらば、自害をば思ひ止まりまらした。此の分で都に居まらするならば、また憂目をも見うずれば、今は只都の外へ出う。」と云うて、
祇王は二十一で尼になり、
嵯峨(*ママ)の
奧な山里に柴の庵を引結んで、念佛申してゐた。妹の
祇女もこれをみて、「『姉が身を投げば、われもともに投げう。』とこそ契つたに、まして世を厭ふに、誰かは劣らうぞ。」というて十九で樣をかへて、
姉と一しよに籠つて後生を願うたは、まことにあはれな事ぢや。
母のとぢもこれを見て、「若い娘どもさへも樣をかゆる世の中に年寄り齡の傾いた母白髪をつけても
何にせうぞ。」というて、四十五で髪をそつて、二人の娘とともにひたすらに念佛申して、ひとへに後生を願うたと申す。さて春もすぎ、夏もたけて、秋の初風がふけば、星合の空
(*七夕の夜空)をながめ、日かげの西の山のはにかゝるを見ても、『日の入る方は極樂ぢやときくが、我等もいつかあそこに行つて物を思はいですごさうぞ? 』これにつけても過ぎつる方のことどもを思ひつゞけて、唯つきせぬものは涙であつた。たそがれ時も過ぐれば竹の編戸をとぢふさいで、ともし火をかすかにかきたてて、親子三人念佛してゐた處に、竹の編戸をほと\/とうち叩く音がした。そのとき尼ども肝を消して、「あはれこれはいう甲斐ない我等が念佛してゐるを妨げうとて魔縁
(*魔物)の
來るでこそあるらう。晝だに人もとひこぬ山里の柴の庵のうちであれば、夜ふけてたれかはたづねうぞ? 僅の竹の編戸であれば、あけず
とも押破らうず
(*ママ)ことは安からうず。なか\/たゞあけて入れうと思ふ。それに
情をかけいで、命を失ふならば、年ごろ頼み奉つた
彌陀の本願を強う信じてひまもなう名號をとなへさせられい。聲をたづねて迎へとらせられうずとの儀ぢやほどに、かまへて念佛を怠らせられな。」と、互に心をいましめて、竹の編戸をあけたれば、魔縁ではなうて
佛御前であつた。
祇王涙をおさへて、「あれはさて
佛御前と存ずるが、夢か現か。」というたれば、
佛申したは、「このやうな事を申せば、事新しう
(*わざとらしく)ござれども、申さずは又思ひしらぬ身となりまらせうずれば、初めよりして申す。もとより
わたくしは推參の者で
出されまらせうずるを、
祇王御前の申状によつてこそ召寄せられてもござつたに、女のかひない事は、我身を心にまかせいで押
留められまらした事は、いか程心憂うござつたが、
其方のだされさせられたを見たにつけても、いつか我身の上であらうと思うたれば、嬉しうはなうて、障子に、『いづれか秋にあはではつべき』と書き置かせられた筆の跡を、『げにも。』と思うてかなしう存じた。いつぞやまた召されさせられて今樣を歌はせられたにも思ひ知られてこそござつたれ
(*ママ)。その後はゆくへを
何方とも知りまらせなんだに、『かやうに樣をかへて一とこ
ろに。』と承つて後は、あまり羨しうて、つねに暇を請ひまらしたれども、
清盛さらに
御用ゐなされなんだ。つく\〃/物を案ずるに、娑婆の榮華は夢の夢なれば、樂しみ榮えても何せうぞ? 今此のせに後生を願はいでは
泥梨(*奈落)に沈んだらば、浮む世はあるまじい。年の若いを恃まうずることでもない。老少不定の世界なれば、たれとても定めがない。出づる息の入るをも待つまじい。蜉蝣・稻妻よりもなほはかない。一旦の樂しみに誇つて後生を忘れうずることの悲しさに、けさ紛れ出でてかうなつてこそ參つたれ。」というて、かづいた衣をうちのけたを見れば、尼になつてきた。「このやうに樣をかへて參つたれば、日ごろのとがをば赦させられい。赦さうと思はせられば、もろともに念佛を申して、一つ蓮の身とならうず。それも尚氣に合はずは、是より
何方へなりとも迷ひ行いていかなる岩木のはざまにも倒れ伏いて、命のあらうかぎりは念佛を申して、後生をたすからうずる。」というて、袖を顔に押しあてて、さめ\〃/とかきくどいたれば、
祇王「まことにそなたのこれほどに思ひあるとは夢にも知らいで、うき世の中のあさましさは我身をこそうしと思はうことぢやに、ともすればそなたの事が怨めしうて往生の素懷をとげうずる事もかなはうとも
覺えず、今生も後生もなましひに
(*ママ)し損じた心地であつたに、このやうに樣をかへておぢやつたれば、日頃の怨みはつゆちりほども殘らぬ。今は往生も疑ひない。此の度素懷をとげうずる事こそ何よりもうれしい事ぢや。我等が尼になつた事を、世にありがたい事のやうに人も云ひ、我身にも思うたが、これは身を怨み、世を怨みての事なれば樣をかゆるも理ぢや。今
そなたの出家にくらぶれば、事の數でもない。
そなたは歎きもなし、怨みもなし、ことしはまだ十七にこそなる人が、これほど穢土を厭うて淨土を願はうと深う思ひおいりあつたこそ、誠の大道心とは見えたれ。いざさらば諸共に後生を願はう。」というて、
四人一所に籠つて、朝夕佛の前に花、香をそなへて餘念もなう後生を願うて遂に無事に終つたと申す。
第二 高倉の宮の御謀叛あらはれて、三井寺へ落ちさせられた事。また長兵衞といふ宮の侍、あとに殘つて合戰をし、生捕られた事。
右馬。 高倉宮の御謀叛の樣態をもきゝたい。お語りあれ。
喜。 まづはさて退屈も召されぬお人ぢや。さらば語りまらせう。
高倉の宮の御謀叛の由を披露仕つたれば、
法皇はこれをきかせられ、「由ない都へでて、またこのやうなうとましい事をきく。」と仰せられて、御涙にむせばせられた。
清盛は
福原の別業にゐられたに、次男
宗もりのかたから、飛脚をたてゝ此の由を
云ひ送られたれば、
清盛大きに腹を立てゝ、「別の仔細もない。急いで
宮を搦め捕りまらして土佐の畑へ流しまらせい。」というて、
出羽の判官(*源光長)と
源太夫判官(*源兼綱)にこの由をいひつけられた。この
源太夫の判官といふは、
三位入道(*源頼政)の養ひ子でござる。したをこの人
數に入れられた事はなんとした事ぞといふに、
三位入道宮をすゝめられた事を平家はまだ知られなんだによつてゞござつた。
三位入道これをきいて、急いで
宮へお文を進ぜられた。
宮は五月十五夜の雲間の月をながめさせらるゝ所に、
三位入道の使というて、急ぎふためいて文をもつて參つたを、
宮のおめのと
(*御乳母子)の
宗信(*六条宗信)これをとつてお前へまゐつて、
慄ひ\/讀うだは、「
宮の御謀叛すでに露はれさせられたによつて、官
人どもが只今お迎ひに參るほどに、急いで御所をでさせられて三井寺へ出でさせられい。
それがしも子供を引具してやがて參りまらせうずる。」と書いたれば、
宮は「これはなんとせうぞ。」と騷がせられたれば、
長兵衞の尉(*長谷部信連)と申す侍が申したは、「
別のことがござらうか? 女房の裝束を借らせられて、出させられたればようござらう。」と申したれば、「げにも。」と仰せられて、その分にでたゝせられ
(*その扮装をなされ)、市女笠を召させられて出させらるれば、
宗信は直垂に玉だすきをあげて傘をもち、お伴を仕る。
K丸(*鶴丸)といふこものは袋に物をいれて戴いて、あの侍
(*ママ。青侍)の女を迎へていくやうにもてないて、落ちさせらるゝに、溝のあつたを、
宮のいかにも輕うざつと越えさせられたれば、道を行くものが立ち
留まつて、「あら! はしたなの女房の溝のこえやうや。」というて、怪しさうに見まらしたれば、いとゞそこを足早にすぎさせられた。
長兵衞の尉は御所の御留守にのこつたが、「只今官人どもが參つて見うに、見苦しいものどもを取納めう。」とて、こゝかしこをこしらゆるうちに、
宮の
御秘藏なされた小枝といふ笛を常の枕に取忘れさせられたをみて、ひしと心にかゝつて
長兵衞これをとつて小門を走りでて、五町がうちで追附いて捧げたれば、
宮なのめならずに
喜ばせられて、「わが死んだならば、この笛をかまへて
御棺に入れい。」と仰せられたと申す。さうあつてやがて「お伴を仕れ。」と御意なされた時に、
長兵衞の尉、「もつともお伴をこそ仕りたうござれども、只今官人どもがお迎ひに參らうずるに、御所
中に一言葉もあいしらう者がござなうては、あまりなことでござる。物の數ではござなけれども、『あの御所には
長兵衞がゐまらする。』と、みな人が知つてござるに、今宵まかりゐずは、それもその夜逃げたなどと申されうこと疑ひもない。弓矢をとる身の慣ひは、かりにも
(*少しでも)名こそ惜しうござれ。一言葉あいしらうて、やがて參らうずる。」と暇を申して走り歸つた。
さて門どもをこと\〃/く開いてたゞ一人まつところに、夜半ばかりに、
出羽の判官と
源太夫判官、都合二百騎ばかりで押寄せたが、
源太夫判官は存ずる仔細があるとみえて、門の前にしばらくひかへたに、
出羽の判官は馬にのりながら、庭に打入れて申したは、「
君の御謀叛すでに露はれさせられたによつて、官人どもが御迎ひにまゐつた。」と申せば、
長兵衞の尉がこれを聞いて、「何事でござるぞ? 當時はこの御所にはござない。」と申せば、
出羽の判官、「なぜにこれならでは、どこへござらうか? 其儀な
らば下部ども參つて御所中をさがし奉れ。」と申したれば、
長兵衞、「ものも知らぬやつばらが
云ひやうやな! 馬にのりながら、
庭上に參るさへ奇怪なに、『下部まゐつてさがし奉れ。』とは、おのれらが分でなんとして申さうことぞ? 日頃は音にもきゝ、今は目にもみよ。
長兵衞の尉といふものぢやぞ。近うよつて過ちすな。」というたれば、源太夫判官〔マヽ〕
(*出羽の判官)これをきいてをめいて駈け入れば、
大剛の下部ども太刀や長刀の鞘をはづいて、
長兵衞をめがけて斬つてのぼれば、
長兵衞は狩衣の下に腹卷をきて太刀をはいたが、下部どもが斬つてのぼるを見て、狩衣をばひきちぎつて脱ぎすて、太刀をぬいて斬つてまはれば、面に向ふものはなかつた。
長兵衞ひとりに斬立てられて嵐に木の葉のちるやうに、みな庭にざつと下りた。五月雨のころであつたれば、むらさめの絶間の月のいでたに、敵は
無案内なり、我身は案内者なれば、こゝのつまりにおつかけてははたと斬り、あしこのつまりにおひこめてはちやうどきり、斬つてまはれば、「宣旨のお使をばなぜにかうはするぞ。」といへば、「なんの宣旨とは。」というて、太刀がゆがめば、躍り
退いてふみ直しおし直し、たちどころに屈竟の者を十五人斬伏せたれば、太刀の切尖五寸ばかり打折つてすてゝのけた。「今は自害をせう。」と思う
て腰をさぐれば、脇差がおちてなかつたによつて、高倉表の小門に人のない間に走り出うとする所に、
手塚の八郎といふもの、長刀をもつて寄せ合せたにのらうとて、とんでかゝつたが腹
(*股)をぬいさまにつらぬかれて、
長兵衞心は猛う思へども、生捕りにせられた。
そののち御所中をさがし奉つたれども、ござらなんだれば、
長兵衞ばかりを生捕つて六波羅へ引いて行つて、つぼの内に引据ゑておいたれば、
宗盛出て縁に立つていはれたは、「『宣旨とは何事ぞ。』というて、下部どもを刃傷し殺害した事はちかごろ分別に及ばぬ。その仔細をくはしう問うて、其の後河原へ引出いて首をはねい。」といひつけられたれば、
長兵衞あざわらうて申したは、「さうでござらうず。此の程あの御所をよな\/ものが襲ふほどに門を開いてまちまらする所に、夜半ばかりによろうたものが庭に亂れ入るを、『何者ぞ。』と問うてござれば、『宣旨のお使。』と申したれども、
強盜などと申すものは、或は『公達のござつた。』或は『宣旨のお使ぢや。』などゝ申すと、内々承り及うでござるほどに、『宣旨とはなんぞ。』というてきつてござる。天性は
日本國をすでに敵にうけさせられうずる
宮の
侍として、下部どもを刃傷殺害仕つた
は事もおろかでござる。
鐵のよい太刀をさへ持つてござらば、官人どもを
安穩には一人もよもかへしまらせうぞ? また
宮のござりどころをばいづくとも存ぜぬ。たとひ知つてござり〔マヽ〕とも、侍ほん
(*侍の身分)のものが『申すまじい。』と思切つた事をば、糺問によつて申すことがあらうか?
長兵衞、
宮のおために
首を刎ねられうことは今生の面目、後生の思出ぢや。」と申してその
後はものをもいはなんだ。
平家の
人數は並び居られたが、「さても
剛の者の手本やな! あたら者のきられう事のふびんさよ。」というて惜まれた。その中にある者が申したは、「先年御所の衆につらなつてゐた時、大番の衆がとめかねた強盜六人を一人しておひかけて
四人は矢庭に斬伏せ、二人をば生捕りにして、その時なされた
長兵衞でござる。誠に一人當千とも、この者をこそ申さうずれ。」などと口々に申せば、
宗盛、「さらばしばしな斬つそ。」というて、その日は斬られなんだ。
清盛も惜しう思はれたか、「思ひ直いたらば、後には當家に奉公をもせいかし。」というて、伯耆の日野へ流されたと申す。そののち源氏の世になつて、
頼朝より尋ね出させられて、事のやうを初めから次第に語りまらしたれば、
頼朝もその志のほどを感じさせられて、能登國で知行をくだされたと
聞えてござる。さて
宮は如意
山へかゝらせられ、習はせられぬ山路をよもすがら歩かせられたれば、お足もやぶれはれ、血を流させられながら、とかうしてあかつきがたに三井寺へいらせられて、「かひない命の惜しさに衆徒をたのみ來た。」と仰せられたれば、
大衆はこれを承つて、法輪院に御所をしつらうて入れ奉つた。あくれば十六日、「
高倉の宮は御謀叛を起させられて失せさせられた。」といふ程こそあれ、都の内が騷動することはおびたゝしかつた。
第三 三位入道の嫡子仲綱馬ゆへに面目を失はれたによつて、この恥を雪がうずるとて、謀叛を起された事。並に競が宗盛をたばかつて主の恥をすゝいだ事。
右馬。 三位入道の謀叛の由來をもお語りあれ。
喜。 畏まつた。さても年來日頃もあればこそあつたに、
三位入道ことし
何たる
心がついて謀叛をば起されたぞといふに、
宗盛ふしぎな事をせられた故ぢや。まことに人は世にあるとても、すまじい事をしいふまじい事をいはゞ、やう\/思慮生ずる事ぢや。たとへばその頃
源三位入道の嫡子
仲綱の許に都にきこえわたつた名馬があつたが、名をば
木下というた。
宗盛使者を立てゝ、「承り及ぶ木下を見まらしたい。」と云ひ遣られたれども、「乘り損じてこの間養生のために田舍へつかはいた。やがて召しこそ上せうずれ。」と返事せられたれば、
宗盛「さては及ばぬ。」というてゐらるゝ所に、平家の侍どもが並居たが、その中からある者が、「いや、その馬は一
昨日まではあつたものを。」と申せば、またある者が「きのふもあつたものを。」「けさも庭乘りしたものを。」などと、口々に申せば、
宗盛「憎いことぢや。さては惜しむげなぞ。其儀ならばその馬、責乞ひにこへ。」と云うて、侍を走らかし、文などを以て押返し\/五六度までも乞はれたれば、
三位入道これを聞いて、
仲綱を呼うで、「たとひ黄金をまるめた馬なりとも、それほどに人の乞はうずるに惜しむ事があらうか? その馬を六波羅へ遣はせ。」といはれたれば、
仲綱「馬を惜しむではござない。權威についてせめとらるゝと思へば、無念さに今まで遣はしまらせぬ。」というて、やがて木下を六波羅へやられた。
宗盛はこの馬を引廻はさせ\/、「あら憎や! これをば主が惜しうだ馬ぢやものを。」と云うて、やがて「主が名乘を金燒にせい。」というて、仲綱といふ烙印をしてすゑられた。客人が來て、「承り及ぶ木下を見まらせう。」といへば、宗盛「仲綱めが事か? やれ仲綱め引出せ。仲綱め打て。はれ。」なんどと云はれた。仲綱はこれを聞かれて、「馬をば打つとはいへども、はるといふ事は聞いた事はない。命にもかへて惜しかつた馬を權威について取られたさへも無念なに、馬故に仲綱が日本國の笑草にならう事が無念な。『恥を見んよりも死にをせい。』といふ事があるものを。」といはるれば、父の三位入道もこれを聞いて、「げにもそれ程に人にいはれて、命を生きて何にせうぞ? 詮ずる所は便宜を窺うでこそあらうずれ。」というてゐられたほどに、なましひに私にはえ企てられず、宮を勸めまゐらせられたと聞えた。さて十六日の夜に入つて、三位入道は家の子郎黨を引具して、都合三百騎ばかりで我が館に火をかけて三井寺へ馳せまゐられたときこえた。
源三位入道の郎黨に
競といふ者があつたが、馳せおくれて
留つたといふ事を、
宗盛聞及ばれて、使者を立てゝよばれたれば、
競は召しに從うて參つた。
宗盛もやが
て
出會うて對面して、「
己れは相傳の
主の
三位入道の伴をばせいで留つたは何と? 仔細があるか。」と問はれたれば、
競畏まつて申したは、「日ごろは何事もござらば、眞先きをかけて討死をいたさうと存じたに、今度は
何と思はれてござるか、終にかうとも知らせられなんでござる。此の上はあとを尋ねまらしてゆかうずることでもござなければ、
留まつてござる。」と申したところで、「年頃我がこのあたりを
出入するを、『あはれ召遣はうずるものを。』と常に思うたに、さては幸ぢや。當家に奉公せいかし。
三位入道の恩には少しも劣るまい。」といはれたれば、
競畏まつて申したは、「たとひ
三位入道は日頃のよしみでござるとも、朝敵となられた人でござれば、なぜに同心をば仕らうぞ?
今日よりは當家に奉公を致さうずる。」と申したれば、
宗盛いかにもうれしさうで内に入られた。其の日は「
競はあるか?」「ゐまらする\/。」というて、朝から
夜さりまでそこにゐたが、既に日もやう\/暮るれば、
競が申したは、「
宮また
三位入道殿も三井寺にと承つてござる。定めて今は討手を迎へられうずれば、三井寺法師を初めてよからうずるものを
選討ちにいたさうず。さりながら乘つて事にあはうずる馬を親しい奴原にぬすまれてござる。お馬を一匹あづけ下されうず
るか。」と申したれば、
宗盛何卒してありつけうずる
(*手懐けよう)と思はれたによつて、
白蘆毛な馬のいかにも大きなを
煖廷(*南鐐。白銀)と名をつけて
秘藏せられたに、
白覆輪の鞍置いて
競にやられた。この
競は此の馬をひかせて宿へ歸つて、「早う日がくれいかし。三井寺へ馳せ參つて
三位入道殿の眞先きをかけて討死せうと思うた。次第に日も暮るれば、妻子共をばしのばせて、われは水に千鳥をおした
平紋の狩衣をきて、重代の緋威の鎧を着、いかものづくりの太刀をはいて、大中Kの矢を頭高に負うて、塗籠籐の弓の眞中をもつて
宗盛から下された煖廷にうちのつて、
乘換一匹ひかせて、
仲間にも太刀を脇挾ませて、館に火をかけ、三井寺へ馳せ參つた。
競が館から火が出たといふ程こそあれ、六波羅中が騷動することは限りがなかつた。
宗盛、「
競はゐるか。」とたづねられたれば、「ゐまらせぬ。」というたれば、「すは! きやつにたばかられたよ。無念や。」といはれたれども、甲斐もなかつた。三井寺にはをりふし
競が沙汰があつて、「さても
競を召具せられうことであつたものを! 捨ておかせられて何たる目にかあひまらせうずらう。」と口々に申されたれば、
三位の入道は、
それが心を知られたか、「
其の者は
無體に捕られ搦められうものではない。今みよ。參
らうず。」といはるゝ言葉もまだ
乾ぬうちに、ひよつとそこへ參つたれば、
三位の入道、「さればこそ。」というて喜ばれた。
競畏まつて申したは「
仲綱の木下が代りに
宗盛の煖廷を取つてまゐつた。」と申したれば、
仲綱大きによろこうで、やがて此の馬をこうて、宗盛といふ金燒をさいて、その朝六波羅へやつて、門の内へ追ひ入れたを侍ども此の馬をとつて來たを、
宗盛見らるれば、宗盛といふ烙印をあてゝおいたを見て、大きに腹を立てゝ「今度三井寺に寄せうずるに、餘はしらず、かまへてまづ
競めをば生捕りにせい。鋸で首を引かう。」といはれてござる。
第四 三井寺には長僉議をして、夜をあかいて、夜討をしそこなうて道から戻つた事。
右馬。 して三井寺からは京へよする事はなかつたか? 又京から三井寺をも攻めなんだか?
喜。 そのお事ぢや。
三井寺には貝、鐘をならいて
大衆どもが起つて僉議したは、「近日世上の態を案ずるに、佛法も
王法も衰微する。このたび、
清盛が惡逆を戒めぬならば、いつの日をまたうぞ? こゝに
宮入らせられた事は、
神佛の
御計ひぢや。比叡の山へも、奈良へも状をやつて
合力をうけうず。」と
談合して、まづ比叡の山へ状を送つたれども、比叡の山はなんのかのというて同心せず、奈良はまだ參らなんだによつて、
三位入道の申されたは、「この如くに事がのびては惡しからうず。今宵六波羅へ押寄せて夜討にせうと存ずる。その儀ならば、老いた、若い、二千あまりはあらうず。老僧どもは如意が嶺から搦手にまはらうず。若い者共は二三百人ほど先立つて、白河の在家に火をかけて、下りへやいてゆくならば、京、六波羅の
逸り者共、『あはや! 事が出來たは。』というて馳せ向はうぞ。その時
岩坂、櫻本に引つかけ\/暫し支へて防がうずる間に、若大衆どもは大手から
仲綱を大將にして六波羅へ押寄せ
風上から火をかけて一揉み揉うでせむるならば、なぜに
清盛を燒出いて討たいではあらうぞ?」さうして大衆どもゝ僉議するに、其の内に平家の祈りをした
眞海といふ老僧、僉議の場
へ進み出でて申すは、「これを申せばとて、『平家の方人をする。』とな思はせられそ。縦ひさもござれ、なぜに我等の恥をも思ひ、門徒の名をも惜しまぬ事がござらうぞ? 昔は源平
左右に爭うて、いづれも
優劣はなかつたれども、平家世を取つて二十餘年、天下になびかぬ草木もない。内々お
館の樣態も小勢でたやすう攻落しがたからうず。さうあるならば、よく\/はかりことを廻らいて、勢をも集めて寄せさせられうずか。」と、時刻を移さうずるために、なが\/と僉議したところに
慶秀〔マヽ〕といふ者がまた進みでていうたは「小勢を以ても勝つ事はなる。その證據はよそまでもない。日本にも多い。餘の人はさもあらばあれ、
慶秀〔マヽ〕が門徒に限つては、こよひ六波羅へ押寄せて討死をせう。」といへば、また或者が申したは「とかく僉議が多うてわるい。夜がふくるに早う急げ。」というて如意が嶺から搦手に向ふ老僧共の大將には
源三位入道、其の外名ある大衆共をさきとしてひた甲六百ばかり向うた。大手から向ふ若大衆には、
仲綱などが大將になつて、これもひた甲が千人あまりあつたと申す。さて三井寺を
打立つに、三井寺には、
宮の入らせられてから、大關小關を置き、堀を掘りきり、逆茂木をすゑたれば、堀に橋をわたし、逆茂木をのけなんどする内に、時
刻が移つて
鷄が鳴いたれば、或者がいうたは、「このやうな時は敵がはかりことを以て鷄を鳴かする事もあるものぢやほどに、たゞ寄せい。」というたれども、
五月の短夜なれば、はやほの\〃/とあけた所で、
仲綱のいはれたは、「只今こゝで
鷄がなくならば、六波羅へは、白晝にこそ寄せうずれ。夜討にこそさりともと思うたれ、
晝軍には何としてもかなふまい。」というて、搦手は如意が嶺から呼び返す。大手は松坂から取つて返すに、若大衆どもが申したは、「これは所詮、
眞海が長僉議によつて夜があけた。その坊主め斬れ。たゝけ。」というて、押寄せてさん\〃/に打破つて、防ぎ戰ふ弟子・
同宿共をもあまた打殺いたれば、
眞海ははふ\/六波羅へ行つて、一々に此の由を申したれども、六波羅には
軍兵共が馳せ集つてゐたによつて、さわぐ事もなかつた。
第五 宮、三井寺を落ちさせられて、宇治橋において矢切の但馬や、淨妙房が合戰の事。
右馬。 して宮は其の分で(*そのことだけで)三井寺にござつたか?
喜。 そのお事でござる。
宮は比叡の山と、奈良表こそ「さりとも。」と思はせられたれ、「三井寺ばかりでは、いかにしてもかなふまい。」と思召されて、同じ二十三日のあかつきに奈良へ赴かせられた。
宮は
蝉折、小枝といふ
漢竹の笛を二つ持たせられたが、その蝉折をば金堂の彌勒へ、今生の祈祷のためかまたは後生のためにか寄進させられて出させらるゝ所に、
慶秀は杖にすがつて
宮のお前へ參つて申したは、「
私は年もすでに八十に及うでござれば、
供奉も叶ひがたうござるによつて、お暇を申してまかり留まる。弟子でござる
俊秀〔マヽ〕を進上いたす。これは幼少から
跡懷で
(*実子同様に)生ひたゝせて心の底まで知つてござる。これをばどこまでも召しつれられい。」と申しもあへいで、涙に咽ぶを、
宮御覽ぜられて、「いつのよしみにかうは申すぞ。」と仰せられて、
宮も御涙を流させられた。然るべい老僧どもをば留めさせられて
三位入道の一類と三井寺法師、都合千人餘り召連れさせられて、醍醐寺にかゝつて南都へ赴かせらるゝに、
宮は宇治と寺との間で六
度まで御落馬あつた。「これは去んぬる夜御寢ならなんだ故ぢや。」というて、宇治の橋二間ひきはづし、
宮をば平等院に入れ奉つ
たれば、それにて暫く御休息あつた。宇治川に馬どもを引きつけ\/ひやいて
(*冷やして)、鞍具足をこしらへなんどする程に、六波羅には之を聞いて「
宮ははや南都へ落ちさせられた。」というて、平家は大勢の
人數を以て追ひかけ奉られた。
清盛の三男
知盛・
通盛を大將にして、都合其の勢は二萬計りで
木幡山を打越して、宇治の橋詰へ押寄せて、敵が平等院にあるとみたれば、橋よりこなたから二萬あまりの者共が、天もひゞき地もうごくほどに三度まで閧を作つた。
先陣が「橋を引いたぞ。過ちすな。」というたれども、
後陣は之を聞きつけいで、われ先にとかゝる程に、先陣が二百人ばかり押落されて水に溺れて流れた。
宮の御方には
大矢の俊長・
五智院の但馬などが射る矢は鎧も盾もたまらずくつとぬけた。さて
五智院の但馬は長刀のさやをはづし、兜のしころを傾けて、橋は引いつ、敵にはあひたし、錣を傾けて立つた所に、平家の方からこれを見て、さしつめひきつめさん\〃/に射れば、
但馬は越ゆる矢をばついくゞり、
下る矢をば飛越え、向うて來る矢をば長刀で切つて落すによつて、敵も味方も「あれ見よ。」というて見物した。それからして
矢切の但馬とはいはれてあつた。堂衆に
淨妙房は
褐の直垂にK革威の鎧をきて、K漆の太刀をはき、大中Kの
矢を負うて、塗籠籐の弓のまん中をとつて、好む
白柄の長刀と取りそへて、橋の上に進んで、
大音をあげて名のるは、「日頃は音にもきゝ、今は目にも見よ。三井寺において隱れもない
筒井の淨妙房といふ一騎當千のつはものぢやぞ。平家の方に我と思はう人々はかけださせられい。見參申さう。」と
云ひ
樣に二十五さいた矢をさしつめひきつめさん\〃/に射るに、十二人矢庭に射殺いて、十二人に手を負うせ、一つは殘つて箙にあつた。弓をうしろへからと投げ捨てゝ、箙をも解いて川へ投げいるゝを、敵は「何事ぞ。」と見るところに、つらぬき
(*皮革製の沓)をぬいで、はだしになつて長刀の鞘をはづいて、橋の行桁をさら\/と走り渡つた。人は恐れて渡らなんだれども、
淨妙房が心には一條二條の
大路のやうに振舞うた。長刀で、向ふ敵を五人薙ぎ伏せ、六人に當る度に長刀の柄を打折つてすてた。その後太刀をぬいて切つたが、三人斬伏せて
四人に當る度にあまり兜の鉢につよううちあてて、目貫のもとからちやうど折れて河へざぶと入つた所で、今はたのむ所の腰刀でひとへに死なうと狂うた。その所に
一來法師というて十七になる法師があつたが、
淨妙に力をつけうとて、つゞいて戰うたが、橋の行桁はせばし、通らうやうはなし、
淨妙が兜の手先きに手をおいて
「惡しう
候(*失敬)、
淨妙の坊。」というて肩をゆらりつとこえて戰うたが、
一來法師はやがてそこで死んだ。
淨妙ははふ\/歸つて平等院の門前の芝の上によろひをぬぎおいて、矢目を數へてみたれば、六十三ヶ所あつた。裏をかいた矢目は
五所であつた。されども痛手でなかつたれば、
頭をひつつゝんで弓を打切つて杖について南都の方へ落ち行いたときこえまらした。
第六 足利の又太郎宇治川を渡いた事と、又源三位入道そのほか此の一族討死の事。
右馬。 宇治川を渡いた事と源三位入道の討死を召された所をもきゝたい。
喜。 それをば明日と存ずれども、さらば只今申さうず。
源三位入道は長絹
(*長尺に織り出した絹布)の直垂に品革
(*藍地に羊歯の模様を白く染め出した革)威の鎧を着て、けふを最後と思はれたれば、わざと兜をばきられなんだ。嫡子の
仲綱も赤地の錦の直垂にK絲威の鎧をきて、弓を
強う引かうとて、これも兜をば着られなんだ。橋の行桁を
淨妙が渡つたを手本にして、三井寺の惡僧
(*荒法師)ども、渡邊のつはものども走り渡り走り渡り戰うて、引組んでかはに入るもあり、討死するものもあり、橋の上の軍は火の
出るほどに見えた。平家の方に先陣をした
忠清が
大將に申したは、「橋の上のいくさは火の出るほどになつてござる。かなひさうにもござないほどに、今は河を渡らうずるでござるが、をりふし五月雨のころで水嵩がはるかにまさつてござるほどに、渡すほどならば馬、人、押流されて失せまらせうず。淀・芋洗へ向ひまらせうか?
河内路へまはりまらせうか。」と申したれば、下野國の
足利の又太郎(*足利又太郎忠綱)といふ人が進み出て申されたは、「恐れある申しごとでござれども、
忠清の申されやうは、然るべいとも存ぜぬ。目にかけた敵を只今討たいで、南都に入れまらしたならば、吉野・十津川とやらの者共がまゐつて只今も大勢になつたならば、それはなほ
御大事であらうず。軍がのびてよい事はござない。淀・芋洗・河内路へは、天竺・
震旦の者が參つて向はうか? それもわれら共こそ向ひまらせうずれ。武藏と下野の境に、利根川といふ
大河がござるが、それをも馬筏をつくつて渡いてござる。此の河の深さ淺さも利根がはにいかほどの劣り優
りがよもござらうぞ? いざわたさう。」と云うて、手綱をかい繰つて眞先に打入れたれば、同時に三百餘騎打入れてわたすに、
足利、
大音聲を揚げて下知したは、「強い馬をば
上手にたてよ。弱い馬をば
下手になせ。馬の足の及ばうほどは手綱をくれて歩ませい。はづまば手綱をくつて泳がせい。
下らうものをば
弓弭に
取附かせい。肩を並べて渡せ。馬の
頭がしづむならば引上げい。強う引いて引被くな。馬には弱う、水には強うあたれ。敵が弓射るとも、相引きすな。つねに錣をかたむけい。あまりに傾けて
天邊を射さすな。かねに
(*真っ直ぐに、直角に)渡つてあやまちすな。水にしなうてわたせやわたせ。」と下知をして、三百餘騎を一騎も流さいで、向ひの岸にざつと渡いた。
足利は褐の直垂に赤革の鎧をきて、
白月毛な馬に
金覆輪の鞍置いてのつたが、鐙をふんばり
突立ちあがつて、まづ名のつたは、「
足利の又太郎と申すものはそれがしぢや。生年十八歳にまかりなる。
官位もないものゝ、このやうに
宮へ向ひ奉つて弓をひく事はその恐れ多いことなれども、弓も矢も冥加の程も、今日みな
清盛のお上にこそあらうずれ。我等は
主命なれば存ぜぬ。
宮の御方に我と思はう人々は駈け出でさせられい。見參いたさう。」というて平等院の門の前に押寄せ\/をめき叫う
で戰うた。これを見て二萬餘りの者共が打入れ\/わたすほどに、馬、人にせかれて、さしも早い宇治川の水は
上にたゝへたが、おのづからはづるゝ水には何もたまらず流れた。何としたか、伊賀・伊勢兩
國の武士が六百あまり馬筏を押切られてながれた。萠黄・緋威いろ\/の鎧をきながら、浮きぬ沈みに〔マヽ〕
(*沈みぬ)流れたれば、
神南備山のもみぢ葉が峯のあらしに誘はれて、龍田川の秋の暮に井堰にかゝつて流れもやらぬに似た。何としたか緋威の鎧きた武者が三人、宇治の網代にかゝつてゆられたを何者が咏うだか、
伊勢武者はみな緋威の鎧着て宇治の網代にかゝりぬる哉
これは伊勢國の
K田(*黒田後平四郎)・
日野(*日野十郎)・
鳥羽(*乙部弥七とも。)といふものであつた。
K田(*日野か。)が弓の弭を岩のはざまにねぢたてゝ、かきのぼつて二人をも引上げて助けたときこえてござる。そののち大勢河を渡つて平等院の門の内へ攻入り\/戰うた。
宮をば南都へ先立てまらして、
三位入道以下は殘つて防矢を射られた。
三位入道は八十になって
(*七十にあまって)軍をして右の膝口をいためて、「今はかなふまじい。」と思はれたか、自害をせうとて平等院の門の内へ引退かるゝに、敵が追ひかゝれば、次男
源太夫の判官、紺地の錦の直垂に、緋
威の鎧を着て、白蘆毛な馬に
鑄懸地(*漆地に金粉・銀粉を蒔いて磨いたもの)の鞍を置いてのつたが、中にへだたつて返し合せ返し合せ戰はれた。
上總守七百餘騎で取籠めて戰うたに、
源太夫の判官は十七騎でをめいて戰はれたが、
上總守が放す
(*ママ)矢に内兜をいられてひるまるゝ所に、
上總守が内の
三郎丸(*次郎丸とも。)といふもの押並べてむずと組んで落ちた。
判官は手を負はれたれども、
三郎を取つて押へて首を掻き切つて立上らうとせらるゝ所に、平家のつはもの共が我も\/と落ち重なつて、つひにそこでうちとゞめた。
三位入道は平等院の釣殿で渡邊の長七唱をめして、「わが首をとれ。」といはれたれば、唱涙を流いて「御首を只今うちまらせうずることは、なか\/かなひがたい。御自害をだにさせらるゝならば。」と申したれば、三位入道殿「げにも。」というて、鎧をぬぎおいて、高聲に念佛を申された最後の樣態があはれにござる。
埋木の花さくこともなかりしにみのなる果てぞ悲しかりける
と、これを最後の言葉にして、太刀の切尖を腹につきたてゝ倒れかゝり、貫かれて死なれた。此の時歌をよまれうずる事ではなけれども、若い時から、あながちに嗜なみ好かれた道ぢやによつて、最後までも忘れられなんだと聞えてござる。首をば
唱泣く\/掻き落いて直垂の袖につゝみ、敵陣をのがれて、人にも見せまいと思うて石に括りあはせて、宇治川の深い所に沈めた。
仲綱はさん\〃/に戰ひ、痛手を負うて、「今はかう。」と思はれたか、自害してふされた所で、その首をば
清親(*下河辺藤三郎清親)といふものが取つて本堂の大床の下へ投入れてかくした。その外の人々も思ひ\/に自害をし、或は討たれてみな死なれた。
競をば平家のつはもの共が「
何卒して生捕りにせう。」とて面々に心がけたれども、
競も心得てさん\〃/に戰うて自害をして死にまらした。
三井寺の大衆は矢だね皆射つくいて、「今ははや宮もはるかにのびさせられうずる。」と思うたれば、大きな太刀をはき、長刀をもつて敵の陣を打破つて、宇治川へ飛入つて物の具一つもすていで、向ひの岸に泳ぎついて、高い所に登りあがつて、「平家の人々はこれまではお大事かな(*ここまでは難儀であろうよ)。」と呼ばはつて、長刀で敵の方をまねいて、三井寺へむけてかへつた。
第七 飛騨守といふ平家のつはもの、宮を追ひかけて討ち奉つた事と、その後宮のお子をも平家失ひ奉らうとせられた事。
飛騨守といふ平家のつはものは巧者であつて、「定めて
宮をば南都へ先立てまらせうず。」と推量して、
軍をばせいで、五百餘騎で南都をさいておひかけまらしたれば、案の如くに二十四騎で落ちさせらるゝ所に、光明山の鳥居の前で
飛騨守が追ひつきまらして、雨の降るやうに射奉つたれば
誰が矢とはしらなんだれども、
宮のおん
側腹に一筋立つておん馬にもたまらせられいで落ちさせられたを、つはものどもが
落合うてやがて御首を討ち奉つた。お伴を仕つたほどの惡僧もその所で一人ももるゝはなかつたと申す。
宮のお乳人の子に
六條の助といふ者がござつたが、ならびもない臆病な者で、馬は弱し、敵はつゞく、せんかたなさに馬から飛下りて、
新らが池
(*贄野池)に飛入つて、目ばかりそつと出いて慄ひゐたれば、暫くあつて、敵みなあ首ども
を取つて歸る。その中に淨衣着た人の首もないを蔀のもとにのせて舁いて通るを「誰ぞ。」と思うて、恐ろしながらのぞいてみれば、わが主の
宮でござつた。「わが死なば
御棺に入れい。」と仰せられた小枝といふ笛もまだお腰にささせられてあつたを見て、「走りでて取りつきまらせう。」とは思うたれども、恐ろしければ、かなはいでたゞ水の底で泣きゐた。敵が皆すぎて後に、池からあがつて、ぬれたものどもを絞りきて、なく\/京へ向けて上つた。南都の大衆
先陣は木津川に進み、後陣はまだ興
福寺の南の
大門にたゝへて、老いた、若いに七千餘騎ほどお迎ひに參るが、
宮ははや光明山の鳥居の前で討たれさせられたときいたれば、大衆共も涙を流いて
引返いた。今五十町ばかりをまちつけさせられいで討たれさせられた
宮の御運のほどがうたてい。
平家は、
宮ならびに
三位入道の一類、三井寺
法師、都合五百人あまりの首をとつてゆうべに及んで京へ上るが、つはものどもがのゝしり騷ぐことはおびたゝしかつた。
三位入道の首をば、
唱がとつて石に括りあはせて宇治川の深い所に沈めたれば、人は見つけなんだれども子供の首をば皆たづねだいた。
宮の御首は、
宮の御方
へつねに參り通ふ人がなかつたによつて、見知りまらした者もなかつた所で、「
定家(*ママ。和気定成)といふ
藥師がひとゝせ御療治のために召されたれば、定めてそれが見知りまらせうず。」というて、よばれたれども、所勞と申して參らなんだれば、
宮の年頃召使はれた女房一人を呼びだいて尋ねられたれば、御首を見奉つて、やがて涙にむせぶを見て、「さてはこれこそ
宮のお首である。」と定められた。この
宮はお子をあまた持たせられたが、そのお子達をば、
女院(*八条女院。鳥羽帝皇女■(日偏+章:::大漢和になし)子内親王)わが子のやうに思召して、御懷で育てまゐらせられたが、
宮の御謀叛を起させられて失せさせられたと聞えたれば、
女院は「たとひ、いかなる大事に及ぶとも、この宮たちをば出しまゐらせうずるとは覺えぬ。」と仰せられて惜しませられた。六波羅から
頼盛を使にして、「この御所に
高倉の宮の
若宮、
姫君たちがござるときいた。
姫君をば申すに及ばぬ。
若君をばだしまゐらせられい。」と申されたれば、
女院の
御乳人の
宰相と申す女房に、
頼盛相具せられたによつて常に參られたれば、日頃はなつかしうおぼしめされたに、今このやうに申して參られたれば、あらぬ人のやうにうとましう思召した。
女院のお返事には「さればこそ、此の事の聞えたあかつき、お乳人などが心をさなうて具し奉つて出たか、この御所にはご
ざらぬ。」と仰せられたれば、
頼盛、「さては力に及ばぬ。」と申してゐられた所へ、
清盛また重ねていはれたは、「なぜにその御所ならでは、いづくにござらうぞ? 其儀ならば、御所をさがし奉れ。」というて、使がしきなみにたつたによつて、
頼盛ははしたない事柄
(*事態)になつて、門に武士どもをおきなどして、「御所の内をさがし奉らうずる。」と聞えたれば、「これはなんとせうぞ。」とあつて、御所中の女房たち、あきれさわがれた。
若宮は、その年七歳にならせられたが、これを聞かせられて、
女院の御前へ參つて仰せられたは、「今はこれ程の御大事に及うでござれば、只疾う\/くださせられい。」と仰せられたれば、
女院「人の七つやなどでは、まだ何事をも思はぬものぢやが、われ故大事の
出けうことを悲しうで、このやうに仰せらるゝいとほしさよ。由ない人をこの六七年手馴れまゐらした事よ。」と仰せられて、
御衣の袖をしぼらせられたれば、その
おん母(*三位局)は申すに及ばず、女房たちもみな涙を流し、袖を絞られぬはござなかつた。
御母なく\/
御衣を召させまゐらせて、でたゝせ參らせられたが、只これも最後のお
出立と思召された。
頼盛もなく\/御車のしりわに參つて六波羅へ渡し奉られた。
宗盛この
宮を一目見奉つて、父の
清盛に申されたは、「さきの世になんた
る契りがござるか、一目見奉つたれば、あまりにいとほしう存ずる。この
宮のお命には
宗盛が代りまらせうずる。」と申されたれば、
清盛はこれを聞いて、「むさとした事
(*無分別な事)をいふ
宗盛かな。」というて、しばしは聞きも入れられなんだが、重ねて再三申されたれば、「さらば早う出家をさせまらして御室へ入れまらせい。」と申されたれば、
宗盛も大きに喜んで、この由を
女院へ申されたれば、
女院も
御手を合させられて喜ばれ、その
御母のお心の中は飛立たせらるゝ程に喜ばせられてやがて出家になし參らせられたと申す。
第八 しん三位入道の由來と同じくその■(空+鳥:こう::47034)を射られた高名の事。
右馬。 してその三位入道は總別は(*一体)何たる人であつたぞ?
喜。 この
三位の入道と申すは、
兵庫守(*源仲政)といふ人の子でござつたが、保元に
御味方を申して、眞先きをかけられたれども、させる恩賞にも預られず、平治にも亦親類を
捨てゝ參られたれども恩賞はこれまた
疎かにあつた。重代の職であつたによつて、
大内の守護を承つて年久しうゐられたれども、昇殿をばまだ許されなんだ。年
老け、齡も傾いてのちに
述懷の歌を一首仕つてこそ昇殿をば許されてござれ。その歌には、
人知れず大内山の山守は木隱れてのみ月をみるかな
と仕つて、昇殿せられたと聞えた。その分でも位は四位でゐられたが、つねは三位に心をつけて、又歌をよまれた。
のぼるべきたよりなき身は木の下にしゐを拾ひて世を渡るかな
と仕つて、三位になられたと聞えまらした。其の後にやがて出家をせられてから、その討死の年は七十七でござつた。此の
頼政の一期の高名とおぼゆるは
近衞の院の御時、よな\/おびえさせらるゝ事があつたによつて、種々の御祈祷どもがあつたれども、
驗もなうて、人が申したは「
東三條の森からK雲が一むらたつて來て、御殿に蔽へば、その時必ずおびえさせらるゝ。」と申す。「これは何としてよからう事ぞ。」と公卿僉議あつて、「所詮源平のつはものゝ中に然るべいものを召して警護をさせ
られうず。」と定められた。昔も
堀河の天皇と申したが、そのやうにおびえさせらるる事があつたに、その時の將軍
義家を召さるゝに、
義家は紺色の狩衣に、塗籠籐の弓をもつて、山鳥の尾ではいだとがり矢を二筋とりそへて、南殿の大床に伺候して、御惱の時に臨うで、
弦音をば三度ちやう\/どして、そののちお前の方を睨うで「
義家。」と
高聲に名のられたれば、聞く人も身の毛がよだつて、御惱もおこたらせられたによつて、「すなはちこの例にまかせて警護あらうずる。」とて
頼政を選みだされて參らするが、「われは武勇の家に生れて、群に抽んでて召さるゝことは家の面目なれども、たゞし朝家の武士を召さるゝは、叛逆の者を平げ、違勅の者をほろぼすためぢやに、『目に見えぬ變化のものを仕れ。』とある勅諚こそ、然るべいともおぼえね。」とつぶやいて出られたと申す。
頼政は薄青の狩衣に滋籐の弓をもつて、これも山鳥の尾ではいだ尖り矢を二筋取りそへて、頼みきつた郎黨には
猪の早太といふものを只一人つれて、夜ふけ、人も靜まつてから、さま\〃/に世間を伺ひみるほどに、日頃人のいふにたがはず、東三条の森のかたから、例の一むら、雲が來て御殿の上に五條ばかりたなびいて、雲の中に怪しいものゝ姿があるを
頼政見て、「これを射損ずるものならば、
世にあらうずる身とも覺えぬ。」と心の底に思ひさだめて、とがり矢をとつて番うて、しばしたもつて、ひやうど射たれば、手應へがしてふつとなるが、やがて矢たちながら、南の小庭にどうと落ちたを、
猪の早太つゝとよつて、取つておさへて
五刀まで刺いた。
その時上下の人々火をともしこれをみるに、頭は猿、躯は蛇、足手は虎の姿で、なく聲は■(空+鳥:こう::47034)(*虎鶫)に似てござる。「これはごかいによといふものぢや。」と申す。主上も御感のあまりに獅子王といふ御劒を頼政に下さるゝを、頼長と申す人がこれを取次いで頼政に下さるゝとて、頃は卯月はじめのことであつたれば、雲居にほとゝぎすが二聲三聲ほど音づれて過ぐれば、頼長、
ほとゝぎす雲居に名をやあぐるらん
と仰せかけられたれば、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげて、月を傍目にかけ(*横目で見)、弓を脇挾うで、
弓張月のいるにまかせて
と仕つて、御劒を賜はつて罷出でられた。「弓矢の道に長ぜらるゝのみならず、歌道
にもすぐれた人ぢや。」と仰せられて、皆感じさせられたと申す。さてこの變化のものをば、
空舟に入れて流されたときこえた。
頼政は伊豆國を下されて、子息の
仲綱は
受領せられ、我身は丹波の五箇の庄、若狹の
東宮河を知行して、さてあらうずる人が、由ない事を思ひ企てゝ、我身も子孫も滅びられた事は、まことにあさましい次第でござつた。
第九 文覺の勸めによつて頼朝の謀叛を起させられた事と、平家は又これを平げうとて討手を下された事。
右馬。 頼朝の謀叛を起された由來をもお語りあれ。
喜。 畏まつた。
頼朝は去んぬる
平治元年十二月に父
義朝の謀叛によつて、十四の年から、伊豆國蛭が小島へ流されて、二十餘年の春秋を送られてござるが、「年來日頃もこそあつたに、ことし何たる心がついて謀叛をば起されたぞ。」と申すに、高雄の
文覺上人の申し勸められた故と聞えた。この
文覺は都で事を仕損うて伊豆國へ下られたが、そこで常には
頼朝へまゐつて、昔今の事どもを申して慰まるゝほどに、
頼朝にある時
文覺の申されたは、「平家には
重盛こそ心も
剛に
謀も優れてあつたが、平家の運命の末になる故か、
去年(*治承3年)の八月に死去せられてござる。源平の中には、御身ほど將軍の位に
上らせられう人はない。早う謀叛を起いて、日本國を從へさせられい。」といはれたれば、
頼朝、「この
聖の御坊は思ひもよらぬ事を承るものかな!
われは故
池の尼にかひない命を助けられておぢやれば、その後世を弔はうずるがために、毎日法華經を一部讀誦するより外は他事ない。」といはれたれば、「天の與ふるを取らざれば、却つてその禍を受く。時到つて行はざれば、却つてその
殃を受くといふ本文
(*ほんもん。典拠)がござる。かう申せば、
御心を見まらせうとて申すなどと思はせらるゝか?
御身に志の深かつた事を
御覽ぜられい。」というて、白い布につゝんだ
髑髏を一つ取出いたれば、
頼朝「それはなんぞ。」と問はるゝに、「これこそ
御身の父
左馬頭殿の
首でござれ。平治の合戰の後、苔の下に埋まれさせられてのちは、後生を弔ふ人もなかつたを、それがし存ずる旨があつて、これを取つて四十年頸にかけ、山々寺々を拜みめ
ぐつて弔ひ奉つた。」というたれば、
頼朝一定とは思はれなんだれども、
父の
首と聞かるれば、まづ涙を流いてそののちは打解けて物語をめされて、仰せらるゝは「さて
頼朝は勅勘を許されいでは、何として謀叛を起さうぞ?」とあつたれば、「それは易い事でござる。やがて罷上つて申し開いて進ぜうず。」「さもおりやらうず。
御坊も勅勘の身で、人を許さうとうけたまうるは、大きに
實しからぬ事ぢや。」
文覺「我身の勅勘を許されうずと申さばこそひがことでもあらうずれ。
君の事を申さうずるには、何か苦しうござらう? 今の都福原へ上らうずるに、
三日には過ぎまじい。院宣を伺ふずる
(*ママ)に一日の逗留があらうず。都合その間七八日にはすぎまい。」というて、つつと出て、わが坊に歸つて、弟子どもには「伊豆の
御山にしのうで
七日參籠の志がある。」というて出たが、げにも三日目には福原の都へ上りつくが、
光能卿のもとに、聊かゆかりがあつたれば、まづそこへ行つて、「伊豆國の流人
頼朝こそ、勅勘を許されて院宣をだに下されば、八ヶ國の家人どもを催しあつめ、平家を滅いて天下を治めうと、申さるゝ。」というたれば、
光能卿、「當時は我身も官をもやめられて心苦しい折節ぢや。また
法皇も押籠められさせられてござれば、何とあらうか知らねども、伺うて見う。」
というて、ひそかに奏問せられたれば、
法皇、やがて院宣を下されたを、
文覺はこれを頸にかけて、また三
日といふに、伊豆國に下りつかれた。
頼朝は「文覺はなましひに、由ない事を申し出いて、頼朝をまた何たる目にかあはせられう。」と思はじ事なう案じつゞけておぢやる所に、八日といふ午の刻ばかりに下りついて、「これ院宣よ。」というて捧げらるれば、頼朝これをみて、天に仰ぎ、地に俯いて大きに喜うで手水をつかひ、うがひして、新しい淨衣を着て、院宣を三度拜して、披いてみらるれば、「早々平家を滅いて世を治められい。」とかゝれた。石橋山の合戰の時も、この院宣を錦の袋に入れて、旗の上につけられたと聞えた。
さうある程に、福原には「
頼朝に勢のつかぬ前に、急いで討手を下さうずる。」とて、公卿僉議あつて、大將軍には
入道の孫
維盛、副將軍には
忠度で、都合勢は三萬餘り
引率して、九月十八日に福原の新都をたつて、十九日に
舊の都について、やがて二十日に東國に打立たれた。大將の
維盛は、その時二十三でござつたが、その形は繪にかくとも筆に及びがたい程に美しかつたが、重代の鎧の唐革といふを
唐櫃に入れて舁かせ、赤地の錦の直垂に、萠黄威の鎧をきて
連錢蘆毛な馬に金覆輪の鞍を置いての
られた。副將軍の
忠度は、紺地の錦の直垂に、唐綾威の鎧をきて、Kい馬の太う逞しいに、
鑄懸地の鞍をおいて乘られたが、馬鞍、鎧、兜、太刀、刀まで
光り
輝く程に
出立たれたれば、誠によい見物でござつた。總別宣旨を下されて戰場へ向ふ大將は、
三の事を心得られいでは叶はぬ。それといふは、まづ參内して勅命を蒙る時、家を忘るゝ事と、家を出づる時は妻子を忘るゝ事、戰場で敵に會うては身を忘るゝ事でござる。定めてこのやうな事をば、
維盛もさこそ存ぜられつらう。おの\/九重の都をたつて、千里の東海に赴かるゝ事なれば、平かに歸り上られう事も難い事ぢや。或は
野原の露に旅寢をし、或は高嶺の雲に宿をかり、山を重ね水を隔てて行かるゝ程に、十月の十三日には平家は駿河國の清見が關へつかれてござつた。都をば三萬餘騎で出られたれども、
路次の兵共がついたによつて、七萬餘りと聞えまらした。
第十 平家のつはもの共、鳥の羽音に驚いて、敗軍して面目を失ひ、京へ上れば、頼朝は軍に勝つて鎌倉へ歸られた事。
右馬。 なう喜一、そのさきをもまつと(*もう少し)お語りあれ。
喜。 さらば果たしまらせう。
先陣はさう\/する内に、富士川のあたりにつけば、後陣はまだ手越のあたりに支へてゐた所で、大將維盛、上總守を召して、「維盛が存ずるには、足柄を打越えて、坂東で軍をせうと思ふ。」といはれたれば、上總守が申したは、「福原を立たせられた時、清盛の御諚に、『軍をば上總守にまかさせられい。』とあつた。然れば八ヶ國のつはもの共が皆頼朝についたと申せば、幾十萬かござらうずらう。味方の御勢は七萬餘りとは申せども、國々の驅武者どもで、馬も人も疲れはててござる。その上、伊豆、駿河の勢が參らうずる事もまだ知れねば、たゞ富士川を前にあてて味方の勢を待たせられい。」と申したれば、力及ばいで、控へられたところで、頼朝は足柄山を打越えて、駿河國の黄そ川(*黄瀬河)につかれたが、甲斐・信濃の源氏共が馳せ參つて一つになる程に、浮島が原で、勢揃ひをせらるゝに、二十萬騎と記された。
源氏方の
佐竹の太郎(*佐竹義政)が下人、主のつかひに文をもつて京へのぼるを、
上總守が是
をとゞめて持つた文をうばひとつて披いて見れば、女房の許への文であつたによつて、「苦しうもない。」というて、取らいで問うたは、「
頼朝の勢はいかほどあるぞ。」と。「およそ八日九日路には、ひつたとつゞいて、野も、山も、海も、川も、武者ばかりでござる。下郎の身でござれば四五百、千ほどこそ物の數をも知つてござれ、それより上は存ぜぬが、黄そ川で一昨日人の申したは、源氏の人數は二十萬騎と申した。」とこたへたれば、
上總守はこれをきいて、「さても
大將(*後出、「都の大將」の宗盛を指す。)の心の延びさせられたほど口惜しいものはない。ま一日もさきに討手をくださせられたならば、足柄山を打越えて八ヶ國に入らせられたならば、
畠山の一族などは、こなたへ參らいでかなふまい。これらさへ參つたならば、坂東にはなびかぬ草木もあるまい。」と後悔をすれども、かひもなかつた。
大將
維盛、東國の案内者というて、
實盛を召して「や、
實盛。そちほどの
強弓の
精兵は坂東にはいかほどあるぞ。」と問はれたれば、
實盛あざわらうて申したは、「さござれば、それがしをば
大兵(*強弓の精兵)と思召さるゝか? 僅十三
束(*十三束の長さの矢)とこそ仕れ。
實盛ほどの射手は坂東にはいくらもござる。大兵と申すほどの者は十五束に劣つて引くはござない。
弓の強さも
壯かな者が五六人して張りまらする。このやうな精兵が射れば、鎧も二三領も重ねてやすう射通しまらする。大名一人は勢をもたぬ分が五百騎には劣りまらせぬ。馬にのれば、落つる道をしらず、惡所を馳すれども馬も倒さず、軍には親もうたれよ、子もうたれよ、死ぬれば乘越え\/戰ひまらする。
西國の軍と申すは、親が討たるれば、孝養をして忌みがあいて後に寄せ、子が討たるれば、その思ひ歎きに寄することもござない。兵糧がつくれば
田作を刈り收めてよせ、夏はあついことを厭ひ、冬はさむい事を嫌ひまらするが、東國にはすべてそのやうなことはござない。甲斐・信濃の源氏共は案内は知つつ、富士の腰から搦手にまはる事もござらうず。かう申せばとて、
君を臆せさせまらせうとて、申すではござない。軍は勢にはよりまらせぬ。謀によるとこそ申し傳へてござれ。
實盛は今度の軍に命生きて再び都へ參らうとば
(*ママ)存ぜぬ。」と申したれば、つはものどもこれを聞いて皆ふるひわなゝき
合うたと申す。
さうして十月の二十三日のあくる日、源氏・平家、富士川で矢合せ
(*開戦)と定められて、
(*二十三日の)夜に入つて平家方から源氏の陣を見渡いたれば、伊豆・駿河の百姓共が軍に恐れて、或
は野に入り山に隱れ、或は船にのり海川にうかみ、螢火の見ゆるをも、平家のつはものどもは「あら恐ろしの源氏の陣の篝火や! げに野も山も海も河も皆敵ぢやよ! これはなんとせうぞ。」と騷ぐところに、その夜半ばかりに、富士の沼にいくらも群れ居たみづ禽どもが何に驚いたか、たつた一度にぱつと立つた羽音が、
大風や
雷などのやうに聞えたれば、「すは! 源氏の大將、
實盛が申したにたがはず、定めて搦手にや廻らうずらう。取りこめられては叶ふまい。こゝをば引いて、尾張の洲股を防げ。」というて、とるものをも取りあへず、我れ先きと落ち行くほどに、餘りあわてさわいで、弓を取るものは矢を知らず、人の馬にはわれのり、わが馬をば人にのられ、つないだ馬に乘つて走らかせば、ぐるり\/と
株をまはることは限りがなかつた。さうしてあくる卯の刻に、源氏の大將押寄せて、閧をつくれども、平家の方には音もせず、人を入れて見せられたれば、「皆落ちてゐまらせぬ。」と申して、或は鎧をとつて參る者もあり、或は大幕をとつて歸る者もあり、「敵の陣には蠅さへも飛びまらせぬ。」と申したれば、
頼朝馬からとんでおりて兜をぬぎ、手水・うがひして、都の方を伏し拜うで、「是は全く
頼朝が功名ではない。ひとへに天道の
御計らひぢや。」というて喜ばれた。「やが
て討取る所ぢや。」というて、駿河國をば
一條の次郎(*一条忠頼)、遠江國をば
安田の三郎(*安田義定)に預けられまらした。平家をば續いても攻めうずれども、「さすが後ろもおぼつかない。」というて、浮島が原から鎌倉へ歸られた。海道
宿々の者共が「あらいま\/しや! 討手の大將となつて下つたほどの人が、矢一つをさへも射いで逃げ上られた事のうたてさよ! 軍には見逃げといふ事をさへ心憂い事にいふに、これは聞逃げをせられた。」などと云うて、笑ひ
合うて、落書どもを多う立てまらした。都の大將をば
宗盛といひ、討手の大將をば
權亮といふあひだ、平家をひらやと讀み成いて、
平家なるむねもりいかにさわぐらん柱とたのむいた〔マヽ〕(*すけ。支柱)を落して
富士川の瀬々の岩こす水よりも早くも落つるいせ平氏かな
又上總守忠清が富士川で鎧をぬぎすてたをば、
富士川に鎧は捨てつ墨染の衣たゞきよ後の世のため
たゞきよはにげ(*「二毛」と「逃げ」を掛ける。)の馬にぞ乘りてける上總しりがいかけてよし〔マヽ〕(*甲斐とも。)なし
などと咏うで皆物笑ひにしまらした。
さて大將
維盛は福原の新都へ歸り上らるれば、
清盛は大きに腹を立てて、「
大將軍
維盛をば鬼界が島へ流し、
侍大將の
忠清をば死罪に行へ。」と下知せられた所で、平家の侍衆參會をして、「さて
忠清が死罪の事はなんとあらうぞ。」と評定せらるれば、その中に、或人が進みでて申したは、「
忠清は昔から不覺の
人とは承り及ばぬ。
あのぬし十八の年と覺ゆるに、鳥羽殿の寶藏に五畿内一の惡黨が二人逃げ込うでゐてござるを、寄つて搦めうと申す者は一人もござなかつたに、この
忠清白晝に只一人築地をはねこえて、はいつて一人をば打殺し、又一人をば生捕つて
後代に名を揚げたものでござるが、今度の不覺は
只事とも存ぜぬ。それにつけても、よく\/
兵亂を
御鎭め
(*叛乱鎮定の祈祷)なされい。」と申したれば、同じく二十三日に近江の源氏を攻めうずるとて、大將軍には
清盛の三男
知盛、副將軍には
忠度を定めて、その勢、三萬餘騎で近江へ發向して、所々方々の城を攻落いて、美濃・尾張へ越されまらしたれども、ついにはか\〃/しい事はなかつたと聞えまらしてござる。
(*卷二 了)
巻1
巻2・目録
巻3
巻4