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吉田了以  吉田素庵  戴曼公  鵜飼石齋  鵜飼錬齋  鵜飼稱齋

先哲叢談續編卷之一

                          信濃 東條耕子藏著

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吉田了以(*角倉了以)
名は光好、字は了以、通稱は與七、山城の人にして、幕府に給仕す、

了以、其先は世々近江の人、佐佐木の族なり、夫れ近江の州たる、壤を皇畿に接す、其湖西を佐佐木の郷と曰ふ、少名彦の祠あり、延喜式に謂ふ所の沙沙喜の祠是なり、後仁徳天皇を配し、合せて之を祀る、蓋し少名彦は、人臣の功徳ある者なり、天皇は仁讓の君にして、流澤民庶に及ぶこと遠し、皆當に百世に祭祀し、此に廟食すべし、然れども、合せて之を祀るは、又何の故なるを知らず、宇多天皇五世の孫、左近將監成頼、始めて此に家す、因て地名を以て氏と爲す、其子兵部大輔章經、其子兵庫助經方、武官を以て祠官を兼領し、祭祀を虔供す、七子あり、嫡子式部少輔季定、父祖の蔭を襲て武官と爲り、後近江國の總追捕使に補せらる、第六子行定祠官と爲り、其子孫世々香火を掌り、今に至るまで絶えず、季定の子兵部少丞秀義、及び其長子左衞門尉定綱等、兄弟皆源幕府頼朝に屬す、旗を搴げ將を斬り、功を鎌倉の麾下に立つるを以て、天下定まつて後、定綱封を近江の一州に受け、子孫相承して以て足利幕府の季に■(之繞+台:たい・だい:及ぶ:大漢和38791)ぶ、年を歴ること五百、世を經ること二十なり、全國を奄有し、皇畿に藩屏とし、而して、祠は常に闔族の爲に崇奉せらる、屋宇を葺理し、祀典を修擧せざることなく、屹として全國の望たり、織田右府天下に覇たるに及び、佐佐木氏振はずして滅び、本支裔族四方に流離す、吉田氏は秀義の第六子、六郎嚴秀に出づ、後薙髪して宗場法橋と號す(、)嚴秀、泰秀を生み、泰秀、秀信を生み、秀信、長秀を生み、長秀、秀氏を生み、秀氏、秀綱を生み、秀綱、宗綱を生み、宗綱、秀春を生む、皆州の吉田邑に住す、其子徳春、出で室町將軍義滿・義持に仕へ、遂に郷里を去つて、洛西嵯峨の角倉に家し、應永二年八月十六日歿す、歳八十五なり、其子宗林、宗忠を生み、宗忠、宗桂を生み、意菴〔一に意安に作る〕と稱し、日華氏と號す(、)天文八年、天龍の僧策彦に從つて明に入り、醫方を學んで歸る、十六年再び策彦に從つて又明に入る、其技最も精し、元龜三年十月廿日を以て歿す、享歳を詳にせず、是れ乃ち了以の父なり、
意菴、中村氏を娶り、天文二十三年甲寅某月某日を以て、了意(*ママ)を嵯峨の角倉に生む、故に長じて後、或は角倉與七と稱すと云ふ、
了以、幼にして家庭に學ぶ、頭角嶄然たり、仕に志すと雖も、未だ嘗て安土・大坂の兩世に事へず、照君、兵馬の制を執るに及んで、初めて出で奉仕す、照君、壬寅の歳を以て降誕し、了以、甲寅を以て生る、國俗の所謂同寅なる者にして、眷遇自ら厚し、慶長八年、旨を奉じて巨船を監造し、安南に通信し、産物を交易す、九年、嘗て美作州の和計川に往き、詳かに■(舟偏+共: : :大漢和 )船の制を觀て、獨り以爲らく、我邦凡そ百川河、皆以て通漕すべしと、又自ら試みに大井河に泝り、丹波州の保津に至る、湍石多しと雖も、亦盡く以て通漕すべく、十年男玄之をして、江戸に到りて其建議を獻ぜしむ、官命じて曰く、昔在諸所未だ嘗て船を通ぜず、今之を運漕せんと欲す、是れ衆庶の利なり、宜く早く之を作るべしと、十一年三月、初めて大井河を浚ふ、其底にある所の大石巨巖は、轆轤を以て之を索牽し、磧石の水底沙中に在るものは、則ち浮樓を構へて、銃頭の若き鐵棒の長さ三尺、周り三寸、柄の長さ二丈許りなるを以て、繩に繋ぎ、役丁數十人をして挽扛し、徑に投下して之を衝かしむ、石悉く碎散す、石の水面に出づるは、則ち烈火にて之を燒破す、河廣くして淺き者は、石を帖みて岸を挾み、其流れを深くす、又瀑の湧出する所あれば、其上を鑿て下流と之を準平にす、秋八月に至つて功全く成れり、是より先き、筏を編み、桴を連ねて、僅に材木を流運するのみ、是に於てか、丹波の世喜邑より、數十百里嵯峨に到り舟楫初めて通じ、運漕の利永く後世に及ぶ、衆庶今に至るまでこれを便とす、十二年丁未の春二月、命を奉じて■(舟偏+共: : :大漢和 )舶を駿河の富士川に通じ、巖淵より甲斐の府中に至る、甲の地舊と巉峽多し、土人未だ曾て舟楫を知らず、水流嶮■(山+品: : :大漢和 )(*「嵒」か。)なること、嵯峨よりも甚だし、而して十月に至り、運漕又成れり、土人大に悦ぶ、十三年戊申、又命を奉じ、試むるに、信濃州の諏訪湖より遠江州の掛塚に至るまで、天龍河に通漕すべき事を以てす、了以、心志を盡し、之に從事すと雖も、水勢猛激にして、手を施す所なくして罷む、
慶長の末、豐右府大佛殿を洛東に建て、造營の費、其所有を傾く、大木・巨石は四國(・)九州より達し、挽牽甚だ勞す、了以、其送輸の便ならざるを見て、乃ち言ふ、河に循つて之を運漕せよと、蓋し、諸州より到る者は、悉く伏見に入る、其地、洛東より卑きこと六丈許なるべし、即ち、其高き處を壞ち、■(阜偏+是: : :大漢和 )を卑き處に作る、河曲の浮水の若く、水滿ちて潮の如し、溝流れて之に入り、搬致自在なり、是より先き、其事を督する者、許と呼び邪と唱へ、五丁之を憂ひ、萬牛之を艱んず、僅に了以の一言を以て、運搬煩ひなく、人力を勞せずして、木石悉く達せり、
了以、好んで經史を讀み、餘暇ある毎に諸書を鈔寫す、父意庵、方技に從事せしより、家に藏書多し、然れども、當時僅に干戈を免れ、學に志す者ありと雖も、甚だ書籍を得るに艱んず、故に三宅亡羊等、常に了以に請ひて之を借覽すと云ふ、
慶長十九年甲寅、富士河壅淤し、船通ずる能はず、了以に命じて疏■(三水+龠: : :大漢和 )通濬の諸事を董督せしむ、會〃病ありて之を作すこと能はず、男玄之をして之に代らしめ、三月を以て始め、七月を以て終はる、其區畫處置悉く之を指揮し、遂に能く其の功を爲す、
了以、富士川濬通の將に終へんとする秋七月十二日、嵯峨の角倉に沒す、時に歳六十一なり、是より先き夏五月、大悲閣を嵐山に營む、山高きこと二十丈許、壁立ち溪深く右に瀑布あり、前に龜山あり、洛中を臨眺し、河水龜嵐の間に濆流し、舟の來往居然として視るべし、病中家人に謂て曰く、須く我が像を作り、閣側に安置すべし、巨綱を捲いて坐と爲し、犁を以て杖と爲せよと、乃ち遺命に從ひ、又此に葬る、
林文敏、其墓碣を製して云く、昔者白圭の水を治むるや、隣國を以て壑と爲し、張湯の褒斜を漕ぐ、嶮にして通ずる能はず、而して今了以は、大井河を疏し、鴨河を■(三水+龠: : :大漢和 )し、富士河を決し、阿部河を排す、凡そ其旁達洞開する所、舟楫能く通じて、其載を臭せず、人皆之を利す、白圭・張湯の爲す所と大に異なり、所謂舟楫の利以て通ぜざるを濟す者、豈此に在らずや(*と)、
間宮白水儒林叢語に云く、吉田光好、玄叟と號す、京師の人なり、始め光由に作り、與七郎と稱す、其學、水利・運漕を主とし、尤も經濟に長じ、著述頗る多し、就中、算法塵劫記三卷世に行はる、後世其裨益を受けて而して其人と爲りを知る者なく、塵劫の字、何の故なるかを知らず、算數に志す者、其書を讀まざる者なし、不朽と謂ふべしと、〔按ずるに、此言蓋し誤れり、光由、光好と訓を同じうするを認めて、一人と爲す、慶長八年癸卯冬、刻する所の重寶塵劫記三卷は、伏見の住人吉田七兵衞光由の作と題す、決して了以の著はす所に非ず、塵劫の字、詳かに楞嚴經に見ゆ、〕
了以、弟あり、名は宗恂、字は意安、又玄子と號す、能く家庭に學び、醫事に旁通す、幕府に仕へ、法眼に任ぜらる、食祿五百石、慶長十五年四月十七日、了以に先ちて歿す、歳五十三なり、著す所素問講義・難經注疏・重編醫經・小學纂類・本草名醫傳略等あり、


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吉田素庵(*角倉素庵)
名は玄之、字は子允、素庵と號す、通稱は與市、京師の人にして、幕府に仕ふ、

素庵は、了以の長子、蔭を以て、近江の阪田縣令に補せられ、五萬石の采税を管領す、猶ほ嵯峨の角倉に居る、慶長十六年、了以自ら船を鴨河に通じ、伏見より流に上つて漕遡し、二條に達せんと請ふ、穀粟・材木・鹽鐵諸物を論ぜず、載乘運漕して民其利を得んと、官許して運漕の税を收めしむ、又命を奉じて淀河運漕の事を掌る、因て別墅を河側に造り、子孫居住し、奕葉變せず、古三世官に居るの難きを稱す、蓋し素庵、慶長甲寅を以て始めて其職に居りしより、今に至るまで世襲すること二百五十年、其任に服事して失措あることなし、實に遺澤の存する所、久遠なりと謂ふべし、
素庵、藤惺窩を友とし善し、惺窩より少きこと一歳、常に之に兄事し、相與に經史を研究す、惺窩毎に言ふ、素庵、道を信ずるの篤き、企て及ぶべからずと、
素庵、少壯の時より既に職鑒あり、嘗て林羅山の凡ならざるを知り、甚だ之を器重す、羅山、素庵より少きこと二十一歳、慶長九年甲辰三月朔、素庵の紹介を以て、初めて惺窩に謁し、遂に其門に入る、時に羅山、歳二十二なり、
素庵、性好んで詩を賦し、又和歌を詠ず、其風流以て一時を推倒するに足る、筆札最も妙なり、從つて其書を學ぶ者衆し、當時、鷹峰光悦〔本阿彌氏、大虚菴と號す〕・八幡昭乘〔中沼氏、松花堂と號す、〕と之を洛下の三筆と謂ひ、販夫・傭奴の輩と雖も、其名を知らざる者なし、
素庵、父に嗣ぎて嵯峨に居り、宅を河側に造る、嘗て惺窩を招き、水邊に遡遊す、奇石激湍左右に掩暎し、勝景頗る多し、諸を惺窩に請ひて、其地境の故套を改む、白浪激揚すること、花を散らすが如し、舊名を大瀬と曰へり、改めて浪花隈と曰ふ、石あり、相距ること二十丈許、■(獣偏+爰: : :大漢和 )■(獣偏+宀+儿: : :大漢和 )子を抱いて其間に飛超す、猿飛と曰へり、叫猿峽と改む、石壁斗絶、形萬卷の堆きが如し、出合と曰へり、群書巖と改む、急湍船を流し奔飛するが如き、■(朿+鳥: : :大漢和 )川と曰ふ、烏船灘と改む、是の四境は皆其在る所に因るなり、他の觀瀾・磐柳・鷹巣・石門關・蒙山・鏡石の五境は、其山水の形状を以て、新に之が名を造る、山麓に浮田の神祠あり、十境を合總す、後世之を嵯峨の十景と謂ふ、詞人・韻客、題詠極めて多し、然るに未だ誰人の創剏する所なるを知らず、實に素庵・惺窩と吟哦彷徨して、而して一時の戲題する所に出づるなり、
素庵能く父の志を繼ぎ、流■(三水+龠: : :大漢和 )排決前後一ならず、尤も時態に達練す、慶長甲寅の冬、及び元和乙卯の夏、諸軍大坂を征伐するの時、舟に兵器を載せ、京師より野田に達す、又命を奉じ、小船數艘を連架して、中島・長柄の兩河を壅塞す、軍馬倶に便利を得たり、故に凱旋の日に及んで、特に其の勞を賞し、永世嵯峨の地税を免じ、又淀川運船の賦を以て之を賜ひ、又其儲備する所の■(舟偏+共: : :大漢和 )船數十百艘許、之れが抽税を歛めしむ、子孫之を傳へ、今に至つて絶えずと云ふ、
了以、始め志を水利・漕政の學に留む、素庵又先業を墜さず、後世永く其利に頼れり、寛文中、河村瑞賢〔名は義通、字は士通、隨軒と號し、十右衞門と稱す、伊勢の人、幕府に給仕す、詳かに餘編の中に載す〕創めて漕運を奧羽に開けるの後、旨を奉じて畿内の河道を巡視し、濬鑿通穿の議を上つる、其言多くは了以・素庵の論ずる所と、其趣意を同じうす、蓋し達人の觀る所、符節を合するが若し、然りと雖も、首唱の任は之を、了以父子に讓らざるを得ず、
素庵、吏務に長ずること、獨り漕運を繼述するのみならず、再び江戸樵樓粉■(土偏+世+木: : :大漢和 )を修築するの時に當つて、了以、命を奉じ、材木を信濃・美濃兩州に採り、木曾川に浮べ、苗木川を經、天龍川を過ぎて浦賀に到り、品川に達す、皆素庵をして其事を監督せしむ、世皆能く其任に勝へたりと稱す、
素庵、縣令と爲り、吏をして■(彳+扁: : :大漢和 )く山野を觀しむ、宅毛せざる者は罰あり、田闢かざる者は責あり、常に諭示するに、稼穡の艱難を以てし、又自ら其利病を檢覈す、江州の地、京畿に犬牙し、豪奢染み易し、而して素庵の治下、敦樸の俗、特り他に異なり、覊縻の方自ら漸ありと云ふ、
素庵、明の■(三水+凌の旁: : :大漢和 )穉隆の史記評林を得、始めて之を翻刻す、我が土、海外の正史を整版にするは、此を以て始と爲す、坊間、今猶ほ嵯峨本と稱する者是なり、謠曲百番、所謂嵯峨樣なる者は、素庵の自書する所なり、又著す所、藤原系圖一卷・武家系圖三卷あり、
素庵、元和九年癸亥六月廿二日を以て歿す、歳六十二なり、二子あり、伯は玄徳〔一に玄紀に作る〕與市と稱す、職を襲ぐ、叔は嚴昭、平治と稱す、尾藩に仕へて、擢んでて郡宰に至ると云ふ、


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戴曼公
名は笠、字は曼公、荷鋤人と號す、明の■(木偏+亢: : :大漢和 )州の人なり、

曼公、其先は世々山陰の會稽に居る、晉の安道の後なり、祖某に及び、始めて■(木偏+亢: : :大漢和 )州に移る、父の名は敬橋、銓部に官す、母は陳氏、六産雙男を生む、曼公は其季なり、神宗の萬暦二十四年丙申二月十九日を以て■(木偏+亢: : :大漢和 )州仁和縣に生る、
余嘗て曼公手澤本の東坡詩集註を、先輩源益卿(*小笠原冠山)〔名は謙、冠山と號す、通稱は小笠原仲、小倉侯の世臣、〕の許に觀る、卷毎に三印あり、一に戴觀胤、字は子辰と曰ひ、二を荷■(金偏+且: : :大漢和 )(*ママ)人と曰ひ、三を戴笠印と曰ふ、是に由りて之を觀れば、初の名は觀胤、字は子辰なり、又朱彜尊記す所を按ずるに、中ころ名は鼎立、字は則之と更む、蓋し戴笠の名は、姓によりて名を命ずる者なり、晩年僧と爲るに及び、名は性易、字は獨立、天外戴笠人と號す、又勍菴(・)天外老人・獨立一間人・■(立心偏+曷: : :大漢和 )芳等の諸號あり、皆其遺墨の印章に見ゆ、
朱彜尊の靜思居詩話に云く、戴笠、初の名は鼎立、字は則之、後今の名に改め、字は耘野と更む、又字は曼公、呉江の人、縣の學生曼公、谷隱巖耕して城府に入らず、句(*以下、書き方は先哲叢談前後編で採った体裁に倣う。)

愁邊ノ細雨孤舟遠ク、夢裏ノ青山故國ノ春、夜雨聲中流水急ナリ、東風陌上野花開ク、眠鳬夢裏誰家ノ地ソ(*ママ)、啼■(鴃の左右反対: : :大漢和 )聲中故國ノ秋(*愁邊細雨孤舟遠、夢裏青山故國春、夜雨聲中流水急、東風陌上野花開、眠鳬夢裏誰家地、啼■聲中故國秋)
の如き、大に孤山處士の遺韻あり、又明詩綜に偶作一首を載す、云く、
老大徒ニ傷ム事事非ナルヲ、三年客裏故山違フ、涼風地ヲ動シテ(*略字)衰草ニ迷(*ヒ)、白露人ニ逢(*ヒテ)葛衣ニ透ル、江漢數行鴻鴈斷、天涯幾個カ友朋歸ル、闌ニ凭テ盡日佳句ヲ思(*フ)、西北遙ニ瞻レハ(*ママ)是レ落暉(*老大徒傷事事非、三年客裏故山違、涼風動地迷衰草、白露逢人透葛衣、江漢數行鴻鴈斷、天涯幾個友朋歸、凭闌盡日思佳句、西北遙瞻是落暉)
と、清の聖祖佩文齊書譜に云く、戴笠字は曼公、■(木偏+公: : :大漢和 )州の人、博學にして詩を能くす、兼ねて篆隸に工なり、崇禎中番禺の人に從ひ、桴に乘りて海に入る、後其終る所を知らず、
清の高宗四庫全書提要〔史部四十九紀事本末類、〕に云く、永陵傳信録六卷は、明の戴笠の撰、笠字は耘野、呉江の人なり、是書紀事本末の體を用ひ、一を興獻大禮と曰ひ、一を更定郊祀と曰ひ、一を欽明大獄と曰ひ、一を二張之獄と曰ひ、一を曾夏之獄と曰ひ、一を經略和冦と曰ふ、事各〃卷を爲し、皆敍して後斷ふ、其河套の事を論じて謂く、效し難きの功を爲し、幸に上怒に觸犯し、其事中止す、然らざれば、兵を請ひ餉を轉じ、工役騒擾禍患將に此より大なる者あらんと云ふ、則ち宋の儒者因循苟且の見より、明の世を終る所以、一日も邊患なきはなし、按ずるに、高宗諸臣に命じ、詳かに、古今典籍の醇疵を論じ、門戸の見を破り、好惡する所なく、其精核なる者を以て、文淵閣の著録に收入す、其蕪雜なる者は、之を存目中に附す、而るに曼公の遺編を以て、著録に入る、其學術の醇正なる、以て知るべし、
朱禎が桐郷縣志に云く、戴笠字は曼公、■(木偏+公: : :大漢和 )州の人、博學にして詩を能くす、兼ねて篆隸に工みなり、儒術を以て顯はるゝを欲せず、乃ち潛に素問難經の諸書を究め、壺を濮里に懸く、崇禎中楚蜀擾亂す、公慨然として曰く、此れ君子の世を避くる時に非ずやと、遂に番禺の人に從ひ、桴に乘つて海に入り、後終る所を知らず、今諸書に云ふ所を按ずるに、曼公、明の季に在りて聲名著聞、未だ耳順に至らずして、鼎革の變に遭ふ、會〃僧隱元東渡す、俄に薙髪して之に從行す、其擧已むを得ざるに出づ、實に釋教に信服する者に非ず、然らずんば則ち何ぞ能く諸家の書に收載する、此の如きを得んや、
曼公、天資頴悟、目を過ぐれば誦を成す、幼にして擧子の業を肄にし、早に黌舍に登る、而して時習八股の文を喜ばず、歳廿五にして、府城の火災に罹り、又魏豎の朝政を亂すに遭ひ、竟に■(口偏+占: : :大漢和 )■(口偏+畢: : :大漢和 )を棄て西湖に放遊し、山水を欣領す、歳三十に比ひ(*ママ)未だ志を韻語に專にせず、一日諸友逼つて詩を作らしむ、即ち聲に應じて云く、
我來テ溪頭ニ坐セハ(*ママ)、溪月我ヲ留宿ス、晴景十分清ク、江山俊秀ヲ競(*フ)(*我來溪頭坐、溪月我留宿、晴景十分清、江山競俊秀)
と、衆皆之を驚異す、是より以後情を聲律に寄せ、長篇巨作筆を下せば立ろに成る、藻思涌出、清新自然にして、糟粕を洗脱し、陳語を襲はず、竟に歌詩を以て時に名あり、
曼公、歳五十に向はんとして天下騒擾し、滿眼の虜塵慘憤に堪へず、乃ち長水の語溪に往き、踪跡を晦養す、時に粤人、曼公を招致し、桴に乘つて海に浮び、煩襟を快滌する者あり、癸巳の上春、帆を發し、三月直に崎■(奧/山: : :大漢和 )に著す、是を承應三年と爲す、鎭臺橘正述〔甲斐庄喜右衞門〕請うて此に淹留せしめ、書を馳せて上乞す、曼公、崎に在ること一年にして辭して歸る、是を踏海の啓行と爲す、翌年甲午七月、僧隱元、徴聘に應じて東渡し、將に大に黄檗宗旨を此土に振揚せんとし、■(彳+扁: : :大漢和 )く書記の任に堪ふる者を求む、曼公歎じて曰く、將に耳順に至らんとし、命幾何かある、心に矢つて脱白し、以て殘喘を畢らんと、状して出家を求め、乃つて之に歸して薙髪す、即ち臘月八日なり、
僧隆■(玉偏+奇: : :大漢和 )字は隱元、姓は林氏、明の■(木偏+亢: : :大漢和 )州仁和縣の人なり、父の名は徳龍、母は■(龍+共: : :大漢和 )氏、八■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の望族たり、明暦元年乙未八月を以て東渡し、後洛南の兎道に開山して、黄檗萬福禪寺と曰ふ、曼公之に從行し、專ら書記文翰の事を掌る、時に歳六十なり、嘗て高玄岱に謂つて曰く、儒を棄て釋に歸し、一世を酬同す、風光は磊落、山容は■(足偏+龍: : :大漢和 )踵、雙■(亠+臼+衣の脚: : :大漢和 )殊に哂ふべし、而して語るべき者なし、青天白夢の同塵なりと、獨り宏覽を事とし、竝に儒釋を擔ふ、世人稱して覺範の流亞と爲す、
萬治元年九月、隱元の江戸に朝參するに從ふ、是時に當り、貴紳高官の曼公を見る者、嘆慕せざるはなし、執政河越侯信綱〔松平伊豆守〕・參政臨江侯正次〔三浦志摩守〕・皆請ふて此に住せんと欲す、事■(三水+且: : :大漢和 )んで果さず、幾くもなくして崎に歸り、三年再び東して幻奇山に住す、居ること三年にして歸る、寛文三年三月八日、崎■(奧/山: : :大漢和 )大火あり、災に罹る、是より後、居地を擇ばざるも其縁に礙ることなし、文墨の外、又方技に精しきを以て、活溌藥を施し、癈を起し、痼を愈すこと其數を知らず、其到る處、神醫を以て治を請ふ者甚だ多し、
曼公、常に謂ふ、術同じく道廣し、治方に視ず、人を濟ひ物に及ぶ、内外行を本とす、機に應じ變に臨むは儒釋の活路、方技又然りと、最も痘科に長ずと云ふ、〔或は曰く、近時都下に曼公の方書を傳へ、其説を祖述する者あり、獨り痘科を以て一家を爲す、今其傳來する所の者を詳にせず、曼公に附託し、粉飾して人を欺き、世皆其籠絡を受く、知らず、高玄岱親しく業を曼公に受く、遺事を修録し、遂に一言此に及ばず、甚だ疑ふべし、〕
曼公の書法、長州の王寵履吉より出で、正鋒古に逼る、故に其片紙隻字を獲る者、珍しとして之を重んず、猶ほ文董の遺墨の如く、洪壁も啻ならず、曼公、其法を以て之を北島雪山及び高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)に傳へ、雪山之を細井廣澤に傳へ、天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)之を男頤齋に傳へ、頤齋之を澤田東江に傳ふ、而して後廣澤・東江異論ありと雖も、其執管五法・把筆三腕・撥鐙等の説に至るまで、皆曼公の授受する所に淵源す、且つ水筆麝墨を用ふること、我土是より先き嘗て之を知る者なし、又曼公の教示する所に流漫すと云ふ、
曼公、崎に在る時、其孫二人、父に代り行趾を捜索し、祖父の我土に寓するを聞き、竊に賈舶に托し來り見る、曼公意を桑梓に絶ちて還らず、自ら一篇の文を著し、名けて有樵別緒自■(炎+立刀: : :大漢和 )分宗記と云ふ、其文に云く、
世人類を合せば、盡く一生物のみ、居は兩間に當りて一中に分合し、體は陰陽を媾せ、形は氣化に生じ、其時運の推遷に隨て、以て生死息まざるに至る、齊同吹萬、獨り一性の聰明睿智を得たる者は、惟だ吾人のみ、夫れ是の人の生あるや、始め人に長たるの長を以て、而も自ら其長たるを知らず、時に用ゐるの用は、蓋し自ら其用を專らにせず、端を原ぬるに本末あり、一氣の從ふや、各〃一姓に本づきて自ら其宗に出づ、前一姓の果不果なるを推して、始めて方に之を間出す、以て別に之を輿地紀籍に載す、隱顯其れ微なり、彼賤しくして我貴く、渠左にして余右と曰ひて、以て一夕の雄を矜るに非ず、時命天成一氣を推遷するにあらずば、安んぞ其專ら用は以て用たるに在らんや、天我が中夏を闢きてより、鱗分羽集して六虚を合せ、往古來今、生繁齒序す、盍ぞ一姓に■(遙の旁+系: : :大漢和 )て家を分たざる、一源を別つて氏を古に今に成し、家に因て以て氏するに至る、誰か一源の自譜するなからんや、一日の盛衰、昭々として隆替するに當り、靡々として一瞬の光華を見し、其時を艶羨す、各家乘を出し、爰居爰處の相因れる、自ら分かれ自ら別つて、譜の一系を成す者なり、大なる哉予が家、戴氏は殷の後より出でて、封は■(言偏+焦: : :大漢和 )に始まる、後の代祚封遺して、九土四交に枝分葉布す、三千餘歳の傳檄爭馳を歴て、百有餘世の遷移變革を盡し、以て大陸に分流するに至る、或は一枝を出して春華を榮敷し、或は一葉を墮して飄落寒を凌ぐ、誰か親を親とするの系と曰はざらんや、或は遠邇分を生じ、竟に陌路を成し、用て一腔を別つて異同を審にせず、間を井井に作し、其爾は爾よりし、吾は吾を以てするに成る、經を分ち派を別つて、各一方に見る、吁、覆載の下、命を屬し、胎を投じ、漫然として姓を稱す、世次は一源にして終始異ならず、豈に自ら繆分錯合の分れなからんや、由て一日光華判然なるに當り、家門の以て異屬■(亠+臼+衣の脚: : :大漢和 )同するを得ざる者に至ては、瓜■(瓜+失: : :大漢和 )の柳蔓に纏る莫く、苦李の甜桃に結ばざるが如し、世、之をして同姓婚を爲す者をして、之を民社に頒せしむ、今に古に一源の牝牡生成より出でて、人道を立つるの大本は、一系に始まることを重ずるなり、我家門の分流聚散するを數ふるに、何ぞ團沙に勝へんや、忽ち晉祚淪亡して、五胡夏を亂るるを以て、江左に東與す、祖先安道公といふもの有り、大に人道一姓の違ふを慨し、人各自ら其本を愼むを得を同じうして、■(言偏+焦: : :大漢和 )を去りて、越に來り、稽山巖壑の中、■(炎+邑: : :大漢和 )溪の半壁に卜隱す、家を開くこと伊れに始まる、世、高風を仰ぐ、時に■(炎+邑: : :大漢和 )溪を稱して、戴溪といふ、江南の一方に、戴氏あるを知るは、此に始まる、乃ち曰く、江南に二戴なしと、易姓を歴る者、一十六代なり、紀季を稱する者一千三百有寄なり、後の孳生は、出處一ならず、其詳、台、勤、陸、呉に散見す、而して瓜緜土著、■(炎+邑: : :大漢和 )より端を崇ぶ、占分一ならず、其源を推始するに、何ぞ水流雲曳、風撲塵飛に似て、其れ茫々として而も役々たる耶、一日又我祖耕一行を出して、戴谿より山陰の管墅郷に卜築し、基を開き室を作る、宋に始まりて明に迄(いた)る、門は鏡水を通じ、地は柯亭に接す、渡濟には杠を横たへ、橋を棲鳳と名づく、分流左顧すれば■(土偏+已: : :大漢和 )を永新といふ、披襟結帶に一任す、偃水垂虹に跨る可し、人咸稱して戴橋といひ、戴溪の望を屬するが如し、我祖家を開き、以て耕じ以て讀み、俗を混じ理を同じうして、世用に關するなく、只家風を■(手偏+邑:ゆう:組む〈=揖〉・取る・抑える・推重する〈すすめる〉:大漢和12105)(く)む、其前に彰れて後に晦き者は、譜を集めて以て榮を褒るに非ざるなり、之を譜するは、門を盡し別を序して、以て行を分つなり、我高大父淳齋公、諱は彰、曾大父直菴公、諱は文奎といふものより、隱に依りて世を玩び、光を■(弓偏+屮+又: : :大漢和 )(をさ)めて晦を善くし、高を世を避くるの墻に爭ひ、犢を抱きて■(奚+隹: : :大漢和 )を■(口偏+虍+乎: : :大漢和 )(よ)び、矮低の屋に安住し、乃ち安道と伯仲する、其兩祖の若きを歉はず、之を久しうして、棲鳳の一家、門を分ちて合祀し、各大小宗系に就く、端を承けて別るゝ我が一源よりす、貴も驕るに足らず、貧も以て辱とせず、親を親むの同體を統べ、而も爭分して直菴祖の嗣出に就く、大父の輩伯仲其れ四なり、大父我一系に出づるを奉じて、會城に創始し、大主を建推す、乃ち之を名づけて有■(言偏+焦: : :大漢和 )別緒自■(炎+邑: : :大漢和 )分宗といひ、以て家門千百世、毅然たるの別緒を啓く、大父諱は徳情、雙橋と號す、棲鳳永新の舊なるを忘れざるなり、嘉靖丁酉に生る、時に年十七なり、曾大父と會城に携同して、事を試み、黽勉として業を肄ふ、その湖山を愛するや、遂に分源に志し、以て一室を占し、大母趙孺人を娶る、長じて王父敬橋諱は朝卿を出し、嘉靖の丙寅に生む、嬰より冠に至るまで、深く戴橋の祚に切なり、是故に敬橋と號す、次に季父繼橋公、諱は朝相を出し、還た管墅に家す、自ら山を首するの志に比す、予が父は仁和に籍住し、予が母陳孺人は姚江の八楞木に出づ、陳龍公の季女なり、自産して七子を乳す、末に雙男を産めばなり、予時に胞を破りて先出す、連翩として其六を夭折す、雙胎の一系を存する者に至りては、天始一の緒を成すなり、萬暦庚申三月、予が父館舍を捐つ、次年辛酉三月六日、■(木偏+亢: : :大漢和 )城灰劫す、城十里を空くし、家に子遺なし、卓絶せる一身、■(口偏+占: : :大漢和 )■(口偏+畢: : :大漢和 )の技を棄去し、他、圖用の母老を安ずる時なし、世法長を爭ひ、家私手短く、■(秉二つ: : :大漢和 )(かね)て男女乳懷芸々として、蠶食坐銷するを以て、先世の貽謀、命有りと曰ふと雖も、其家門を敗懷するを致す者は、嘲を解く可き莫し、一身屡〃空く、時に痛み時に貧しく、坐して老大を致す、頃年知命、清代りて明を革め、一室に藏頭して、劇かに豪奸蕩子に此天地を竊まれ、人我を分爭し、滑亂の日、恃に織造の官役を以て、威を假して白占す、敢て誰何する莫し、錐を立つるの倚計なきに至る、一十二胎を育して、僅に一子を存す、■(山+及: : :大漢和 )々として孤危せり、幸に往に軒岐を習ふ、家を省下に寄せ、潛に語溪に出でて、一たび醫天に展べ、聊か一家半飽の腹を慰む、深く之を恥ぢて、以て死せざるを■(女偏+鬼: : :大漢和 )つ(*ママ)、生を亂時に貪求し、殊に憂に喘々して、漸く已む莫きなり、歳甲午の臘八日、薙染して僧となり、灑然として世を謝し衲を天涯に飄して、叢林に寄息す、到頭の日と曰ふ可し、我子我孫よ、我が自ら其我たるを善くするに任せて、其我たる者を念ふことなくば幸なり、然れども是の甲午より壬子に至る者、一十九年なり、一日香を散して纔に罷み、就庵に默坐す、忽ち善孫至る、老妻の逝世を報ずるが爲にして來るなり、六歳與に別るゝに方て、今尚ほ孱然として立つこと莫く、其懷に悲憤す、萍■(木偏+更: : :大漢和 )泊々たり、想著何れに依らん、予年七旬に七を餘せり、龍踵として斃るゝを待つ、其れ日夕ならん、道人一たび念ふに、再面期し難し、第た我家門出處、爾か知らざる所なり、從源を識らずんば、何ぞ本有ることを知らんや、此の一面の頃、聊か筆頭を借りて、草々に意を至し、用て幻化の紛更を紀する者、此の如し、吁、世事の高に因るは、卑きよりして始めて大を成す、江河は水を積み、衆流を會して而も巨■(宀+浸: : :大漢和 )を合はす、汝灰心せざれ、汝が兄汝が弟、齊しきこと手足に同じ、丞力壯志せば、戴氏子有るに負かざらん、■(人偏+尚: : :大漢和 )し、土を寄せ家を克くし、弟兄成立することを得ば、地に從ひ天に隨て、用て予が言を恃んで、■(炎+邑: : :大漢和 )鹵の分派を盡し、戴氏の別譜と曰ひ、以て一源の序分を紀し、千世の承を衍して、吾が今日汝に語れるを慰めよ、康熈十一年歳壬子に在る首夏の日、
又長孫に贈る文に曰く、
汝兄弟時に童年に在り、天傾地覆の中に當りて、而して能く解作力に任じて、以て父母を養ふ、人道の大は、孰れか此より重きこと有らんや、世病の凶頑を革むるは、孰れか此より望みある有らんや、且つ汝兄弟祖父の力を失うて、家業消亡し、黍離萍■(木偏+更: : :大漢和 )、最も不造に當るを以て、力學に從はざるに苦しむ、五常正命の教は自ら知らむ、■(門構+言: : :大漢和 )々として親に孝なるを以て念と爲し、怡々として昆弟を以て懷に持せよ、皆夙生の地あるに出づれば、貧しと雖も何ぞ厄せんや、賤しと雖も何ぞ鄙まんや、夫れ生を受くるに、命薄く匪劣なるに縁ればなり、是の大中の天地に生れ、虚生にして乖異せざる者は、天豈に知ること無くして終に背かんや、古よりこのかた、未だ終に孝弟の人を疚困すること有らざるなり、汝兄弟は當に天道のあることあるを知るべし、而も夫の天命を造すに至つては、方に力學源端文言の獨造るに非ざるを知らん、孔子曰く、孝弟也者其爲人〔仁〕之本與と、未だ嘗て風行偸薄を以て、人の法たることを成樹せざるなり、且つ、天道は困を孝弟の子に爲さず、聖教は機を風戻の逆作に先せんや、世風草を偃す、惟れ此の孝弟、以て斡旋の柄に代る、今予八旬の年を望む、飄■(遙の旁+風: : :大漢和 )として殆んど風燈の夕に盡きなんとす、幸に汝遠く來りて吾を候せんとし、辛苦を憚らずして、二十年の一面を成す、汝が父の成を行ふ者に代り、切々として方に汝が父の子あり、吾祖の孫あつて■(女偏+鬼: : :大漢和 )づること無きを知る、■(黍+邑: : :大漢和 )に從ふの頃、言、汝が弟龍孫に及ぶ、年十六の時、父病苦だ篤し、煢々として遠く徙り、勤作給せざるに時し、何ぞ醫藥を問はんや、乃ち自ら天に告げて、股を■(圭+立刀: : :大漢和 )(さ)き羮を進めて、人をして知らしめず、立ちどころに、父の疾を起し、孝養を力めて、而して沈痾を愈す、童年にして孝行至れるか、夫れ奈せん、生て閏朔に逢ふを以て、爲に風勵する莫し、天道昭回せば、豈言行の大化に負かんや、痛らくは吾異域に盡くるに垂んとして、天、日夕を斯須し、能く汝兄弟の信に及ぶの地を見ること莫きを、■(禾+祗の旁: : :大漢和 )だ此れ懃々として、自ら吾後人の者を懷ふに、其れ天地に生れて、而して人の行に稱ふるに愧づること無し、吾今聞て言はずんば、則ち後日宜を言ふ者、將た何ぞ諸を風行紀化に質して、之れを野史に附せんや、康熈十一年■(女+后: : :大漢和 )月の望、禿頂漢獨立漫筆す、
又、季孫に贈る文に曰く、
人の塵雰隙影の中に役々たる、夭すれば則ち三旬、長すれば則ち百歳、一瞬目の間、便ち今古を成す、遠くしては秦漢より、近くしては、宋明に至るまで、鼎新に代革まる、帝子も誰か敢て故土を承る有らんや、況んや我が卑々下命のものをや、啻に蜉蝣の朝夕に寄するのみにあらず、生死之を以てす、憶ふ吾が年六旬を望むに當りて、窮愁困轍して死に近し、其時忽ち起ちて放游し、遂に格外を成す、竊かに此の黍離の悲むべき、夫の家の亡びて繼く(*ママ)こと莫きを慨く、一朝手を撤すれば、萬慮皆空し、是れ我が妻汝が父を顧みるに及ばずして、別に其身たるを有つのみ、且つ地遠く天遼かに、頭を擧ぐれば白日を見、影を顧みれば、更に他儕沒(な)し、今に迄(いた)りて二十年來 (このかた)なり、此身七旬に七を逾え、枯瞳雪髪、■(耳偏+貴: : :大漢和 )耳脱齒、其れ何の形か憐むに堪へたる有つて、寄身の息まざるを慰むるに足らんや、聞く生年丙申の後、我が六甲一見するに■(遙の旁+系: : :大漢和 )(よし)沒く、數々我が孫に屬すと、則ち此れ一滴血胤の一本を承統して、千祺を繋く(*ママ)る者、最も切にして分明なり、相關せざるの地と爲すと曰ふに非ざるなり、家門を承けて一葉を該ね、其宗を嗣て、乃ち一姓の源委謬ならざるを見る、人道の大端を成し、身の四體より出生し、以て名の昭々を頒分する者其れ至れり、爰に念ふ、汝が父五十有六にして、一身困頓す、惟れ命其れ然り、數々力行して己を持し、絶だ繞指藏鬮の態なく、直だ一隨の■(章+攵+二+貝+下心: : :大漢和 )漢なるのみ、多く己を潔くして自ら新にするを見るに、近時の積習と同じうするを期せず、成す所家を破り、倒置を作す者は命なり、風氣の囂に從つて以て自ら甘ぜざるなりと、幸に晩に汝が兩兄を出して、侍養食息す、嗟々吾は汝が父の如くなるに及は(*ママ)ざる者なり、此に至つて天外に流離し、歸ることの亡きなり、天既に此の兩孝子を生ずること此の如し、赤骨赤膚は何の地よりして莖草を挿んで以て家縁に樹てん、書して此に至り、覺えず淫々たる老涙、痛く一心より出づ、之を筆して自ら言の忍びざるを羞ぢ、更に格外の思に切なり、其れ何ぞ言の口よりせん、二十年の積思、機を忘るゝに■(遙の旁+系: : :大漢和 )つて、覺えず灑落の白紙、我が情の源より赤溌することを露はすのみ、憶ふ汝が大母吾家に適せしより、六十年の中、孝慈淑徳、克く勤め克く愼む、布衣を珍重し、一室の中饋偕にすること有つて、夫子の厄運に枉げらるゝを奈何ともすること無し、相遭て之を忍んで怨尤無し、其柔量包容を盡して、一己盛徳の慈命に愧ぢざるなり、第だ吾夫子の貧且つ賤なるは、是れ榮典に與するを失ふなり、予は汝が兄の善生なる、乃父の父あるを思ふ一點の孝念は、苦辛を憚らず、千山を歴遍して、津に逢へば、渡を問ふ、天一面の縁を假す、時方に六歳にして別れ、今二十五歳の身と成る、我方に孩提の孫を識り、方に我が祖の顔貌を見る、其れ夢の如きか、覺めたるか、意の外に出づ、之れ何れよりするか、親を親とするの一會に至れるか、其赤骨の能く自ら持するを審にするは、吾家の白眉と謂ふべし、竊かに其幼にして學を失ひ、少に至て從容なるを見るに、自ら貧なるの故に■(遙の旁+系: : :大漢和 )て、多く慊々の心を見す、學を棄つるに縁つて、自ら忽にするの事を來すに非ざるのみ、然れども其體統終に窮劣の相に非ず、必ず造就に■(之繞+台: : :大漢和 )ばん、晩成の君子なり、聞く汝が次兄龍生は、身亂離窮迫に當りて、兄と力勤し、母の瞽父の病を養ひ、敢て股を■(圭+立刀: : :大漢和 )き以て藥を進むと、孱然たる童竪、九日に三喰するは、中情父あるを知ればなり、大なる哉、其の孝を行ふや、且つ聞く「訥於言而敏於行」と窮々たる一力、年始めて垂髫にして、兄に從つて力を并せ、祖母を養ひ、以て父母に及ぶ、其口體を適し、其温■(二水+青: : :大漢和 )を盡す、天性の本にあらざれば、以て今人の力を畢ふるを見ることあらんや、又聞く汝の慧性は、天成にして文を解し、字を説く、老學に出づるが如く、喜んで性命の學を造すと、知る無く爲す無く、一心に■(遙の旁+系: : :大漢和 )つて道に造る、止水の如く、明鏡の如く、青空の如く、秋月の如く、一塵を著けず、活溌發中に皎々の地を見ると、此の三教は聖人の一體、同工の實際理地なり、若し言語文章を以て、各教の別を分てば、其れ何ぞ天性の道と曰はんや、汝が父汝が母は、凡そ人の知れるものなり、口腹に困められて其知を感じて而して生を有つは、此浮生なり、勞生なり、汝三子の者、各一氣の凡を超え、俗を絶する有りて、自ら一斑を見す者を知らざるなり、噫、一母の懷より出でゝ、而も自ら各其奇を致す者を見る、天の人を成す所以は、各其氣に因て之を見す、道の自る所は其人となりと成すなり、吾や方外に煢々し、當に二十年なり、雪髪頭陀、格外に參方す、其錺合の因縁に拈して以て付す、康熈壬子四月中澣、禿頂漢遺世獨立手筆す、
斯の眞蹟、今崎■(奧/山: : :大漢和 )の田邊某の家に存す、文の言ふ所を按ずるに、蓋し孫男三人、各孝悌を以てすること此の如し、伯名は善官、仲名は龍、叔名は喜、伯・季來て此に見ゆる者、其艱苦の状、以て想像すべし、〔按ずるに、此文常を嘗に作り、由を■(遙の旁+系: : :大漢和 )に作り、以を■(耜の旁: : :大漢和 )に作るの類、皆國諱を避くるなり、〕
曼公、壯にして代革の運に遭ひ、老いて倫理の變に處す、妻子に■(耳偏+癸: : :大漢和 )離し、跡を異域に晦ます、人世の不幸なり、而して從容自得して思を經ざる者に似たり、涵養の素あるに非ざれば、豈に此の如きを得んや、
余向に、天外老人集鈔二卷を得て之を讀み、始めて其學術の洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)を主とするを知る、文章經藝固より朱舜水に讓らず、高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)、獨立全集を編集し、將に之を刻布せんとす、稿本火に罹り、散佚既に舊く、其言源良弼なる者の撰ぶ所の獨立髪齒碑に見ゆ、極めて知る、天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)の家更に副本なく、而して其の之を鈔する者は、何人の爲す所なるかを詳にせず、蓋し天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)門人の手寫する所に係ること疑なし、余之を掃葉叢書中に收む、天保五年甲午二月、余が家火災に罹り之を亡ふ、今これを追思す るに、再び得べからず、惜む可く、歎ず可し、
曼公、勢已むを得ずして釋氏に入ると雖も、忠憤義烈、後世を昭映するに足る、而して其高情逸想の聲詩に播する者一にして足らず、近時西湖の懷感三十韻を得て、此に附載す、云く、
blockquote>一鑑ノ湖山畫中ニ似タリ、四時ノ流賞古今同シ(*ママ)、波ハ倒影ヲ含(*ムコト)三千頃、■(阜偏+是: : :大漢和 )垂橋ヲ飮(*ムコト)十二虹、有美ノ樓臺地勝ヲ占(*メ)、無私花柳天功ニ答フ、江聲息(*マズ)東奔急ニ、愁切回(*シ)難(*シ)犬戎ニ據ル(*一鑑湖山似畫中、四時流賞古今同、波含倒影三千頃、■飮垂橋十二虹、有美樓臺占地勝、無私花柳答天功、江聲不息東奔急、愁切難回據犬戎)〔其一〕
南北青排漢ヲ挿(*ム)峯、白雲媾影重重ヲ抱(*ク)、歴殘ノ宋闕西風冷カニ、話頭ノ明湖大業鍾ル、四顧ノ陰晴衆壑ニ連(*リ)、一番ノ烽火孤■(竹冠+工+卩: : :大漢和 )ヲ斷(*ツ)、十年ノ客放塵夢ヲ勞ス、翠掃テ空(*シク)懷フ九里ノ松(南北青排挿漢峯、白雲媾影抱重重、歴殘宋闕西風冷、話頭明湖大業鍾、四顧陰晴連衆壑、一番烽火斷孤■、十年客放勞塵夢、翠掃空懷九里松)〔其二〕
愁絶■(林/分:::大漢和)■(林/分:::大漢和)トシテ一邦ヲ亂(*シ)、錢塘ノ舊恨今ノ降ルヲ説ク、人ハ東海ニ迷(*ヒ)日ノ雙關、夢ハ西冷ニ杳(*カナリ)月ノ半窗、固(*ヨリ)自ラ仇ヲ避(*クレドモ)漢ヲ棄(*テ)難(*シ)、洗辱ヲ將(*テ)胥江ヲ決スル無(*ク)、■(三水+卞:::大漢和)遷記得ス遺風ノ在ルヲ、彈鳴箏ニ到テ指急ニ撞ク(*愁絶■■亂一邦、錢塘舊恨説今降、人迷東海日雙關、夢杳西冷月半窗、固自避仇難棄漢、無將洗辱決胥江、■遷記得遺風在、彈到鳴箏指急撞)〔其三〕
誰カ當年竹枝ヲ唱ルヲ解(*セン)、聲聲相應シテ(*ママ)黄■(麗+鳥:::大漢和)ヲ詬(*ス)、從(*リテ)挑花ノ面ヲ痩減シ(*テヨリ)、道ハズ柳葉ノ柳葉ノ眉ヲ、白■(巾偏+合:::大漢和)嗟ス(*ベシ)徃事ヲ譚ルヲ、畫船何レノ處カ名姫ヲ載ス、而今腐艸芳徑ヲ埋メ、山色蒼蒼樹景夷ナリ(*誰解當年唱竹枝、聲聲相應詬黄■(麗+鳥:::大漢和)、自從痩減挑花面、不道瞋含柳葉眉、白■可嗟譚徃事、畫船何處載名姫、而今腐艸埋芳徑、山色蒼蒼樹景夷)〔其四〕
西子湖頭事已ニ非ナリ、羣屏銷シ盡ス四山ノ圍、鑿開セル天鏡臨妝在ルヲ、眄到ノ雷峯落照微ナリ、尚漁人ノ夜火ヲ傳ル有(*リ)、已ニ鴎侶ノ朝饑ニ伴(*フ)無(*ク)、咄ナルカナ野鹿ノ斯民命、役役トシテ誰ニ從テ采薇ヲ問ン(*西子湖頭事已非、羣屏銷盡四山圍、鑿開天鏡臨妝在、眄到雷峯落照微、尚有漁人傳夜火、已無鴎侶伴朝饑、咄哉野鹿斯民命、役役誰從問采薇)〔其五〕
莫尋花港去觀魚、芳躅從今已絶裾、虜運不消天厭在、人心自眛日亡餘、山寒剩得蒼蒼影、澤竭旋空決決渠、幾息風前黄鳥路、竟無飛絮燕■(口偏+釘:::大漢和)初(*莫尋花港去觀魚、芳躅從今已絶裾、虜運不消天厭在、人心自眛日亡餘、山寒剩得蒼蒼影、澤竭旋空決決渠、幾息風前黄鳥路、竟無飛絮燕■(口偏+釘:::大漢和)初)〔其六〕
老我難尋谷是愚、十年捫影背明湖、昔人有美方西子、今日空勞念褐夫、桃柳爭春空色相、谿山改觀任朝■(日偏+甫:::大漢和)、江城杳杳悲塵鞅、俛首應慙説事胡(*老我難尋谷是愚、十年捫影背明湖、昔人有美方西子、今日空勞念褐夫、桃柳爭春空色相、谿山改觀任朝■(日偏+甫:::大漢和)、江城杳杳悲塵鞅、俛首應慙説事胡)〔其七〕
寂寂春殘十綿■(阜偏+是:::大漢和)、舊時桃柳怨前谿、亭空四照湖心冷、月映三潭塔影迷、歌盡遏雲屏座散、笳吹落日轅門西、恠來飮馬胡兒隊、大羽■(弓偏+肅:::大漢和)弓白革■(革偏+是:::大漢和)〔其八〕
江城一變慘予懐、燈火春宵斷六時、舊時武林誇有紀、新愁瀛海量無涯、東家語昔顰空效、西子蒙今怨莫排、剩得湖山青面美、臨風索句恨難諧〔其九〕
客至開籠放鶴纔、扁舟到處自歸來、梅花不問當年種、松柏猶歌昔時哀、舊墓逋仙書有碣、畫樓蘇小鏡亡臺、風流南國西湖夢、斜日孤亭土一坏〔其十〕
水咽流空莫問津、殘山剩得郭西隣、六橋走馬紅塵冷、三竺傳經白衲新、畫裏有詩誰薦筆、鏡中遺照景亡眞、只今幾度風兼雨、奇好空懐■(賣+頁:::大漢和)面人〔其十一〕
澄澄一鑑水和雲、鳧散鴎驚慘絶群、欲買扁舟過湖去、好占奇句紀時聞、棹穿■(艸冠+行:::大漢和)藻牽波遠、■(土偏+合/田:::大漢和)倒漣■(三水+猗:い:漣・岸:大漢和18164)印月分、落照沙頭魚網合、時忘身陷在奴■(獣偏+熏:::大漢和)〔其十二〕
峯露童童水盡■(髟/几:::大漢和)、南屏撞出晩鏡喧、僧歸遠寺山門掩、日落平湖水氣昏、聽徹斷腸猿叫月、棲來錯夢鳥驚魂、城■(門構+湮の旁:::大漢和)待閉人爭渡、一任吹笳不息奔〔其十三〕
峨峨南北兩峯寒、接漢離雲尺五端、伐木盡空低四被、呼雲若可駕雙■(人偏+官:::大漢和)、千秋一徑樵風冷、三竺孤■(虍+丘:::大漢和)虎道寛、此際不禁當下瞰、瀕湖樓閣已消殘〔其十四〕
鷲嶺雲痕已盡刪、孤亭一枕水潺潺、昔年流斷泉心冷、今日嘗同世味間、亂石倚門成虎踞、重城無■(金偏+龠:::大漢和)鎖龍蟠、攜胡欲問前朝事、洞口呼猿莫可攀〔其十五〕
南薫閣外藕花邊、枕簟空懷對酒眠、風動潟香珠露滑、日長呼飮碧■(竹冠+甬:::大漢和)傳、世情莫假酩然地、國恨難銷藐矣天、自昔幾經摧拍按、不勝老我憶當年〔其十六〕
秋水平湖浸六橋、荒■(阜偏+是:::大漢和)莽莽(*原文は廾の上に十あり。)遍寒蕘、西風此夕懷孤客、明月當年見舞腰、不問芙蓉端寫照、已無楊柳匝枯條、誰知車馬勞爭逐、到此空或變一朝〔其十七〕
十年戎馬覆居巣、百六辰當此日交、飮馬但存流水咽、養魚不復上船教、湖山易主驚千古、風月隨他發一嘲、白社青袍成往夢、可懷東海繋如匏〔其十八〕
東風三月興偏豪、十里芳■(阜偏+是:::大漢和)柳間桃、玉勒漫調嘶白鼻、錦纏爭解按紅槽、望中簾■(巾偏+莫:::大漢和)家家捲、花外樓船處處操、今日不逢於此勝、一聲誰唱鬱輪袍〔其十九〕
湖開天鏡迥如何、樓閣當中厭錦波、若似捧心顰一點、不勝解舞蹙雙蛾、南屏雨歇鉤簾下、東閣晴搖落照多、再顧當年自傾國、名傳西子較爭他〔其二十〕
六橋■(阜偏+是:::大漢和)接古金沙、沙暖鴎古一鳧家、自昔春風迷杜若、只今秋水冷蒹葭、投竿倚息人何在、吹角關門日未斜、剩得浮沈寒■(土偏+合/田:::大漢和)影、時時■(風+占:::大漢和)浪撥■(三水+區:::大漢和)花〔其二十一〕
天目西來遠發祥、山廻一帶遞餘杭、時兮不逮明湖勝、事乃爭遺闔國傷、半壁西風雲負郭、三更殘月獨侵牀、何年續夢還佳麗、碧浪重翻柳帶狂〔其二十二〕
衆山排闥一■(阜偏+是:::大漢和)平、奇好時時弄雨晴、蔓艸自經迷有宋、聖湖不解到亡明、風前桃李分誰主、方外烟霞締我盟、曳箇短■(竹冠+工+卩:::大漢和)衣百衲、扶桑思切幾呼庚〔其二十三〕
剩得山圍帶郭青、寒驕石甑對南屏、熟眠自押馴鴎慣、假夢難消逐鹿醒、觸目嵐光愁■(匈/月:::大漢和)(*胸)■(匈/月:::大漢和)、傷心時事忽冥冥、前朝遺恨應多少、十里西湖水漫渟〔其二十四〕
百年夢幻自騰騰、話到明湖慨不勝、横海踏翻雙短屐、遼天囓斷一枯藤、衣冠化外忘多楚、桃李風前已莫仍、望盡六橋何處所、無從把臂遽呼朋〔其二十五〕
慘淡湖波寒不流、亂雲零落兩峯頭、眠鳧夢裡誰家業、啼鴃聲中故國秋、寂寂斷橋沽酒路、沈沈倒影畫眉樓、而今莫向西冷望、一徑■(阜偏+是:::大漢和)平錦帶浮〔其二十六〕
千秋幽討説經尋、酬對傷多西子心、金粉盡銷當代跡、銅■(金偏+是:::大漢和)爭唱小■(女偏+圭:::大漢和)吟、忙忙逐鹿驚同聚、渺渺眼鴎散復沈、一劫不勝重駁触、湖山改觀恨生今〔其二十七〕
監國時方奉御南、端臨五日不堪堪、人無石畫匡明鼎、世已風行翼慮■(敢/下心:::大漢和)、湖水倒窺羞面面、江城亂發喜耽耽、於斯攘有居延主、滿眼都忌辮髪慙〔其二十八〕
醉底湖山喜自沾、酒家樓閣掛青■(穴/巾:::大漢和)、舊遊漫滅坡公跡、好句曾經白傳拈、盡日舟携停柳岸、當春花發映珠簾、只今寂寞窺鴬燕、落照垂垂下短簷〔其二十九〕
破夢方餘枕半函、遊思不復問時監、摧翻一覺錢塘夢、古斷孤■(虍/丘:::大漢和)若水緘、楚楚衣冠亡故論、童童艸木斬寒巖、千秋厄絶湖山勝、慘澹吟成愁復芟〔其三十〕
尾書して云く、
萬里の家郷、一湖の夢寐、六橋の花柳、十歳の荒蕪、時なり、虜に媚びて臣に居る、慘なり、戈を倒にして主を弑す、天を掃ふの風氣、命を絶つの衣冠、予が浪息東に徂くに至りて、世外に寓庸し、衣を更め俗を脱し、頂摩して踵を放つ、兀々たる團蒲、冥々たる結思、未だ一息の西湖を忘るゝこと能はざるのみ、此百六の艱丁に罹り、三十韻次を憤叶す、青山眼を眛し、攘々として塵を驚かす、白雲場に登り、昏々として額に■(石偏+盍:::大漢和)す、眛者を假り得て歌を聞せん、寧ろ頭を垂れて羞死せざらんや、
寛文五年乙巳三月、僧雪峯〔名は如一字は即非浙江紹興縣の人なり〕東渡す、幾もなくして豐後州の廣壽に開山し、遥に曼公に柬して、坐を■(虍/丘:::大漢和)して以て待つ、時に曼公宇治に在り、輙ち翻然として往いて餘喘を憚らず、操觚の任、勤勞息まず、雪峯其志に感じ、特に山中に就きて精舍を造營し、以て憩息の所と爲す、曼公此に寓し、自ら扁して白雲室と曰ふ、
曼公、隱元に隨從すること總べて七年、後辭して崎■(奧/山:::大漢和)に歸り、興福寺に寓す、或は福濟寺に居り、或は廣壽に寓す、而して數々隱元を省觀すること、其初に減ぜず、寛文十二年壬子八月、兎道に省して而して還る、途中病起る、平時健啖猶ほ壯年の如し、此に至りて飮食稍減ず、衆皆藥を服せんことを勸む、肯ぜずして曰く、報身病に非ず、何の藥餌か之れ爲さんと、匡牀に倒臥して吟誦自若たり、一朝忽ち起きて筆を索め、書して云ふ、
鑿鑿塵塵傍間邨、不忘殘夢繞空軒、咄任陀凍折梅花影、接却江南白玉魂
と題し、罷めて溘然として逝く、容貌生けるが如し、衆皆驚異す、春秋七十七なり、僧臘十九年、實に十一月六日なり、侍者祖命等、兎道の黄檗山に護葬す、
曼公、兵著述極めて多し、皆散佚して知るべからず、僅に其書目を知る者は、永陵傳信録六卷、流寇編年録殉國彙編の二書、未だ卷數を詳にせず、皆彼土に在りて著す所なり、一峯雙詠二卷、有樵別緒記一卷、就庵獨語三卷、此に來りて後著す所なり、天外老人全集十五卷は、門人高玄岱が編輯する所にして、既に佚す、
余、顧炎武亭林文集を讀み、戴耘野に與ふる書を得たり、顧氏は明末清初に在りて、醇儒を以て後進に領袖たり、曼公之と友とし善し、以て其學術の精核を窺ふに足る、故に此に附すと云ふ、
一別廿歳、南郷關を望む毎に、指を松陵の數君子に屈す、何ぞ曾て林宗を緬想し、仲尉を長懷せざらんや、音儀闊しと雖も、志嚮移ること靡し、其一鴈逢ひ難く、雙魚寄する莫きを如せん、而して故人良友存亡出處の間、又其感涕に禁へず、遥に素履の恙無きを審にす、風雪彌々高、已に三輔の書を成し、獨千秋の躅を表す、晨星碩果君に非ずして誰ぞ、弟生多く難に罹ひ、異邦に淪落し、長く率野の人となる、復た邱を首するの日無し、而して九州其七を歴、五嶽其四に登る、今將に太華に卜居して以て、餘齡を卒へんとす、百家の説、粗古人を■(門構+規:::大漢和)ふ有り、一卷の文、思は後代を裨ること有り、此れ則ち區々自矢つて、敢て惰愉せざる者なり、關中の詩五首は、耕に寄次せり、詩一首呈覽す、以て出處の大概を徴すべし、昔年南都の時事を纂録して付す可き有り、既に持來るに足る、尊著流寇編年録(・)殉國彙編、聞く已に藁を脱すと、恨む所は道遠く、從て披讀する無きを、敬て徳音を佇ち、以て懸金を慰めむ、
高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)、曼公に從遊すること數年、東到の後、負恩の深きを追思し、常に一區の間地を得て、祠堂を造營せんと欲す、都城を距ること五十里、河越の治下、野火止邑に一大刹あり、金鳳山平林寺と曰ふ、故の閣老河越公の建立する所なり、其子院聯芳軒頗る隙壞あり、天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)、其住持僧靈峯及び其徒黙雲といふ者に就いて、相謀つて茆舍を造り、題して戴溪堂と曰ふ、中に洪範金の大士を置く、蓋し曼公平生の歸崇する所なるを以てなり、左に曼公入釋の像を奉り、以て之を奠す、梅花關主と曰ふ、乃ち隱元禪師自書して贈る者なり、又舍側に就きて石碑を立つ、天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)自ら文を製し、書するに正隸を以てし、署して明の獨立禪師碑と曰ふ、
曼公、躬衰運に遭ひ、時の艱難に目撃して、苟くも其桑梓を安んぜず、遷徙多端、鼎革の後は、深く志を滿清に屈するを恥ぢ、遂に以て海を踏んで跡を方外に晦ます、實に其志に非ず、蓋し時勢の巳を得ざるに出づるなり、子を辟け妻に離れて、我土に沈淪す、而も其耿介卓絶なる、■(石偏+燐の旁:::大漢和)して磨せず、余常に其操持の世に顯れずして、尋常の■(髟+几:::大漢和)徒と伍を爲すを慨く、故に今諸を僧傳に收めずして、特に之を儒家に載せり、聊か其志を成して、遺事を不朽にする所以なり、


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鵜飼石齋
名は信之、字は子直、心耕子と號す、通稱は石齋、江戸の人なり、

石齋、其先は世々近江の甲賀の人なり、名は眞元、母は中路氏にして、元和元年乙卯正月十五日を以て、江戸神田に生る、僅に弱冠を逾えて、平安に遊學し、業を那波活所に受け、其塾に寓すること此に數年なり、五經に精通し、百氏を旁捜す、遂に帷を油小路に下して、教授を業とす、後、史學を以て世に著聞すと云ふ、
正保丙戌、歳三十二なり、尼崎侯幸和〔青山大膳亮〕學術の名を聞きて、禮を厚うして招致す、遂に之に遊事して、其■(食偏+氣:::大漢和)廩を受け、尼崎に移居す、此に在ること十五年なり、萬治庚子、歳四十六にして、祿を辭し還りて平安に到る、山崎闇齋毛利貞齋等と、聲價相均し、
石齋、思を世榮に絶ち、貧尤も甚しと雖も、之に居て晏如たり、常に書肆の請ふ所に應じて、諸書を校訂し、國讀を本文の行側に附して、之を刊布せしむ、習俗之を訓點と謂ふ、書肆謝するに潤筆を以てす、其資料を受けて以て衣食に給す、當時儒生■(口偏+占:::大漢和)■(口偏+畢:::大漢和)を事とする者、其講習する所は、僅に四書・五經・近思・小學・史・漢・蒙求等の數種に過ぐる能はざりき、石齋、始めて諸書を翻刻せんことを謀り、書肆をして其擧に從事せしむ、其刊刻する所のもの、果して大に世に行はれ、裨益を獲る者最も多し、京師の地、家に藏版を儲え、人剞■(厥+立刀:::大漢和)を好むの習氣、此時に始まり、傳へて今に至りて盛なり、
萬治・寛文の間、學者ありと雖も、書を獲るに艱み、經史百家と醫卜釋老とを論ぜず、概ね舶來の者を以て其考援に充つ、故に之を翻刻する者も、元祿・寶永以後の手を下し易きに及ばず、石齋、能く時態を識り、有用の書を翻刻するを以て先務と爲す、今に至りて、坊間に行はるゝ所の、石齋の訓點と稱する者は、班固の白虎通義、應劭の風俗通義、劉安の■(二水+隹:::大漢和)南子、黎靖徳の朱子語録、陳淳の性理字義、蔡正孫の詩林廣紀、許謙の魯齋全書、蘇爵の治世龜鑑、傳習の皇元風雅、邵寶國の杜詩集註、■(艸冠+將:::大漢和)蕘の韓柳文集註、■(三水+凌の旁:::大漢和)廸知の萬姓統譜・帝王世系・氏族博攷、袁黄の歴史綱鑑補、劉寅の武經七書直解、張介賓の素問類經、王■(冖+月:::大漢和)堂の證治準繩、李滉の自省録等、無慮數百千卷なり、皆世に行はる、
我土、語孟集註、學庸章句を奉崇するを知りてより而降、永樂勅修の四書大全を讀むことを知れるは、實に藤惺窩より始まる、而して之を刊する者は、寛永十二年、讚州の高松大本寺の僧自乾といふ者、詳かに訓點を附して、書估秋田平助をして、平安に刻せしむ、今坊間に所謂古版大全是なり、〔按ずるに、大全に五あり、其一を古版と曰ひ、自乾の校刻する所なり、二を官版大全と曰ひ、三を官版首書と曰ふ、皆、萬治寛文中の刻する所なり、四を首書點附と曰ひ、惺窩の標註する所にして、石齋の刻する所なり、五を新増と曰ひ、熊谷了庵の校刻する所なり、〕惺窩、標註を大全に加へ、之を刊布するに意ありて、其志を果さず、活所は惺窩の門人なり、將に繼述して之を作らんとす、先づ四書註者考二卷を著し、詳かに宋元以降、四書の解釋を作る者を擧げて、之が首端を爲す、而も卷帙浩瀚にして、速に刊布し難く、緒に就くに及ばずして沒す、石齋、其遺命を受け、■(冖+月:::大漢和)する所に背かず、遂に能く其學を成しぬ、又林希元の四書存疑、陳■(玉偏+深の旁:::大漢和)の四書淺説を刊して、皆活所の託する所を畢る、
石齋、少壯より讀書に耽り、硯田に朝夕し、几畝に寒暑す、老の將に至らんとするを知らず、故に自ら心耕子と號す、
石齋、嘗て謂ふ、氣は以て道義を沈むべく、以て勝負を角ふべからず、心は以て性命を研くべく、以て機械を弄すべからずと、
石齋、寛文四年甲辰季春を以て■(病垂+重:::大漢和)を病む、數〃醫療を更へども、藥餌效なくして、七月廿一日に至り、堀河の茅舍に歿す、歳四十九なり、時に明人陳贇尾州に寓す、嘗て石齋と友とし善し、故に子姪門人と相議し、諸を孟東野の私諡、貞曜、陶元亮(*陶淵明)の朝諡、靖節の兩字に取り、私諡して貞節と曰ふ、洛北の一條村の圓光寺に葬る、


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鵜飼錬齋
名は眞昌、字は子欽、錬齋と號す、通稱は金平、平安の人なり、水府に仕ふ、

錬齋は石齋の第二子なり、母は湯本幸勝といふ者の女にして、四男を生む、伯叔早く歿す、錬齋弟稱齋と皆學殖あり、錬齋歳三十二にして、父の憂に丁り、三年の喪を服し、制■(門構+癸:::大漢和)逾えて家學を繼述す、從遊する者最多し、
錬齋、幼にして聰慧なり、七八歳にして已に四書五經を誦し、能く大義に通ず、十三歳にして詩を賦し文を屬す、十六七の時、父に代り講説して徒に授け、其誨督を贊成す、
錬齋、十六歳の春、始めて通鑑綱目を讀み、深く其筆削の志を感ず、竟に國讀を全部五十九卷に施し、校訂畢く成る、石齋其督學を賞し、書估をして之を謀らしむ、將に開雕に從事せんとす、又陳仁錫が校閲する所の三編通鑑綱目といへる者、新に舶來すと聞き、人をして之を長崎に購求せしむ、果して之を獲たり、所謂三編とは、南軒が通鑑前編二十五卷、商輅が通鑑綱目續編二十七卷、原書の五十九卷を以て正編となし、合せて三編一百十一卷と爲す、旃に加ふるに、尹起■(艸冠+辛:::大漢和)が發明、劉有益が書法、汪克寛が考異、王幼學が集覽、徐昭文の考證、陳濟が正誤、馮智舒が質實等、皆散見して各條の下に附す、三編百十一卷と曰ふと雖も、七家の論説、原書に三倍す、錬齋再び國讀を正編に施し、又前續七家の論説に及ぶ、併せて與に校を畢る、慶安四年剞■(厥+立刀:::大漢和)全く成る、坊間發販して今に至る、世呼んで金平點と曰ふ者、是なり、
承應元年甲辰、歳二十にして、始めて、山崎闇齋の門に入り、性理を研尋す、博覽強記にして、同門の士、其右に出づる者なき是なり、
中年の後、江戸に遊ぶ、安藤年山〔名は爲章字は新甫通稱は新之助〕之を水府義公に薦む、公徴して近侍と爲す、祿二百石を賜ふ、後、國史を編修するの事に預る、遇待最も厚し、
錬齋、嘗て其男文平の爲に婦を娶る、公鴈一隻を賜ひて、之が婚儀を賀す、將に庖廚に給して之を■(者/火:::大漢和)んとす、小緘十圓金を封じて、繋ぎて鴈翼に在り、錬齋始めて之を知り、公に拜謝して曰く、文士貧窶なれば、則ち胸裏壅塞し、操觚簡を授くるに、之が爲に縮屈して、暢達すること能はず、甚だ述作を害す、故に之を賜與すと、蓋し元祿・寶永の間、文學の盛なる、正徳・享保に及ばずと雖も、王侯貴紳、逢掖を尊崇するの厚き、此の一事を以て想ひ視るべし、嗚呼、此の如きの臣あれば、此の如きの君あり、噫、
大高芝山(*大高坂芝山)、錬齋に答ふる書中に云く、

聞く國史を修むること既に半を過ぐと、我邦古今の事實、瞭然として肇めて昭に、歴代の孝子忠臣の靈、是に由りて安に就き、亂臣賊子の魂、是れに由りて誅に就かんとす、吾子當に勤勵して、早く其功を終ふ可し、豈啻だ後世の龜鑑たるのみならんや、仰いでは君の明命に任じ、俯しては父の偉業を繼ぐ、苟も忠を盡す者の道を秉るなり、舊臘請ふ所の吉良記六本は、今許借を蒙る、南學先輩の謂ゆる南史野史といふもの是れなり、我が祖先の武功も亦具さにこれに載せり、他繕寫し畢らば、乃ち還璧すべし、寄懷の一律は、漫に瑤韻を歩す、吾子必ず痛く斧削を加へよ、僕日に多事にして、今三餘と雖も、敢て書を讀み、文を講ずること能はず、徒に洛に遊學せしの舊を追懷するのみ、日として之れを思はざるはなし、
と、按ずるに、芝山と錬齋と往復する者一ならず、其書、皆芝山存一稿に見えたり、煩雜に渉ると雖も、以て當時の紀事に充つべし、而して文長し、故に此に録せず、錬齋、山脇重顯に贈る詩一首、立原翠軒〔名は萬字は伯時、水府彰考館の史官總裁なり〕が文苑類纂に載す、余近人の別集總集を讀めども、未だ嘗て錬齋の詩一篇を見ず、故に此に附記す、云く、
奇材剱客孰無功、晤語從容事却空、塞上聲名存臥虎、呉中結構掣蟠龍、千金良藥從人乞、一卷兵書爲國終、我亦男兒負膽氣、與君高處賦關東
と、按ずるに、重顯、字は士晦、道圓と稱す、京師の人なり、
錬齋、祿仕の時、未だ何年に在るかを詳にせずと雖も、蓋し不惑の前後に在らん、大高芝山、南學傳を著して、眞昌二十にして、山崎嘉に從ひ經義を受け、其名都鄙に達す、宗室の爲に召されて祿仕し、未だ年所を經ず、僅に四十許にして早世すと云ふ者は是にあらず、
錬齋、元祿六年癸酉四月廿一日を以て、病みて小石川の邸舍に歿す、歳六十一なり、駒込の龍光寺に葬る、子なし、伯兄眞俊が男文平を養ひて嗣と爲し、祿を襲がしむ、著す所の書十一種、皆家に傳ふ、最後火に罹り、一種を存せず、其書目を知るなし、


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鵜飼稱齋
名は眞泰、字は子雅、稱齋と號す、通稱は權平、平安の人なり、水府に仕ふ、

稱齋は、錬齋の同母の弟、石齋の第四子なり、陳元贇、石齋の墓誌を作りて、三子ありと曰ふ者は、是時に當りて伯・叔・季存す、仲既に歿して在らず、故に三子と曰ふ、承應元年壬辰八月廿四日、平安の堀河の家に生る、錬齋より少きこと十九歳なり、故に四子五經を錬齋に受け、敢て贄を人に執らず、長じて後、才學父兄に減ぜず、博洽を以て聞ゆ、
天和三年、義公、其學術を知り、遥に之を徴聘す、東到の日、二百石を賜ふ、時に歳三十二なり、幾くもなくして史館編修の事に預る、其勞に服すること此に三十七年なりと云ふ、
稱齋の學、洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)を主とし敢て之に拘泥せず、通鑑綱目を讀む毎に、甚だ意に滿たずと爲し、常に司馬君實(*君美か。司馬光。)の人と爲りを慕ひ、資治通鑑を讀むこと數回、事實を諳記し、傍ら王應麟の地志通釋、胡三省の釋文辨誤に及ぶ、疑事を質問する者あれば諳誦して之に應答し、一字を差はず、
稱齋、尤も史學に長ず、常に曰く、史を讀む者は、時世の勢を知るを以て先と爲す、又當世の得失を論辯するも此を以て斷となす、陳壽が三國志は、魏を紀して蜀を傳へ、習鑿齒が漢晉春秋は、漢を繼ぎて魏に超ゆ、其識見の高卑に關するに非ずして時勢なればなり、壽、志を晉武禪を受くるの初に撰ぶ、晉、魏の禪を受けて、魏の廢せらるゝや、蜀は已に破亡す、安んぞ魏を尊ばざるを得んや、鑿齒が、春秋を元帝中興の後に著す、蜀宗室を以て漢緒を存するは、猶ほ元帝の藩庶を以て晉統を復するが如し、安んぞ蜀を尊ばざるを得んや、司馬温公の通鑑、朱文公の綱目、時勢亦此の如し、北周、宋の授禪を受く、温公魏を以て正統と爲さざるを得ず、南渡偏安、文公蜀を以て正統と爲さざるを得ず、壽と鑿齒と、温公と文公と、地を易へば則ち皆然り、四子は皆能く時世の勢を知れる者なりと、
稱齋、人と爲り寡欲にして聲色を嗜まず、貨利に趨らず、仕籍に入りてより、三十餘年、謹格謙遜、史局に朝夕し、寒暑を厭はず、職事に供給し、編修を以て己が任と爲す、元祿中、將に擢んで史官の總裁に充てんとす、辭して曰く、總裁は史局の諸務を管領す、事煩に堪へず、還つて撰述に害あり、情に願ふ、故の如くにして志を輯纂に專にし、群籍を瀏覽せんと、遂に其請を許す、
稱齋、享保五年庚子六月、累疾に罹り、八月十八日に至りて起たず、時に歳六十九なり、龍光寺に葬る、小栗氏に娶り、男なし、乃ち津田信貞の子、知之を養ひて嗣と爲す、配するに長女を以てし、祿を襲がしむ、其家今に存すと云ふ、余文化の末、嘗て鵜飼錬之助といふ者に逢ふ、自ら稱齋の玄孫と稱す、余遺事數件を問ふに■(巾偏+曹の上部・下辺を冖に作る/目:::大漢和)乎として知らず、後、立原杏所、〔名は任字は遠卿、翠軒の男、任太郎と稱す〕文苑雜纂燃犀逸史等の著を以て借さる、故に其履歴を得て之に收む、著述する所、稱齋竹馬鈔三卷・華夷通信録十卷・■(鷄の偏+隹:::大漢和)肋集十卷あり、〔按ずるに、其校刻する所、萬多親王の新撰姓氏録、坂上兼明の法曹至要鈔等の類、數種世に行はる、今一一せず、葢し兄弟入て仕へてより五十年、世の遍く知る所なり、或は鵜飼氏に附託して、和漢珍書考三卷を贋作し、水戸鵜飼信興著と題す、其記載する所、杜撰百出、識者の辨論を待たずして其妄を知るべし、世誤つて之を信じ、以て信興の著と爲す、葢し錬齋・稱齋の子孫ならんと、笑ふべきの甚だしきなり、然れども其附托する所を要むるに、二子の聲價、藝園に高きを以ての故なり、〕


先哲叢談續編卷之一