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 伊藤梅宇  伊藤分亭  伊藤竹里  篠崎東海  桑原空洞  関口黄山  田中大観  若林寛斎

先哲叢談續編卷之六

                          信濃 東條耕 子藏著
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伊藤梅宇
名は長英、字は重藏、又以て通稱と爲す、梅宇と號す、平安の人にして、福山侯に仕ふ、

梅宇は仁齋(*伊藤仁斎)の第二子にして、東涯(*伊藤東涯)の異母弟なり、母は瀬崎氏なり、仁齋先に緒方氏を娶りて、東涯を生む、蚤く歿す、故に再び之を娶る、瀬崎氏、名は總、丹後園部の人なり、頗る婦行あり、四男・一女を生む、梅宇は其長子なり、
梅宇は寶永中徳山侯に筮仕す、侯最も仁齋の學術を信じ、東涯を徴聘すれども應ぜず、侯懇請して息まず、故に梅宇をして之に代らしむ、而も猶堀河に在り、時々徳山に往來するのみにして其■(食偏+氣:::大漢和44316)廩を受く、正徳辛卯韓使來聘す、徳山侯時に館伴使と爲り、梅宇をして專ら文翰の事を掌らしむ、是より先き、徳山の地、文學の士、未だ甚だ多くはあらず、梅宇此に仕ふるに及び、經史の業に從事する者、■(足偏+妾:::大漢和37654)■(足偏+渫の旁:::大漢和37716)して進むと云ふ、
梅宇歳二十三のとき、仁齋を喪ひ、東涯の誨督を受く、後諸弟と環坐し、榻を連ね書を讀み業を肄(なら)ふ、皆梅宇の指揮に依りて、學術皆夙に就る、
梅宇は東涯より少きこと十三歳、分亭(*伊藤分亭)に長ずること二歳、竹里(*伊藤竹里)に長ずること九歳、蘭嵎(*伊藤蘭嵎)に長ずること十歳、能く之に友す、後、各先業を繼述し、家聲を墜さず、時人呼びて堀河の五藏と曰ふ、藏の字を字とするを以てなり、
梅宇は尤も言語に長ず、經史を講説するに、辭爽かに理暢び、音節亮々、また東涯の上に出づ、聽く者敢て倦怠して欠伸する者なし、
梅宇常に陸游劒南渭南の二集を愛し、以爲く、老蒼宏雅老杜(*杜甫)に讓らずと、我土の人是時に當りて、未だ眞に放翁(*陸游)の詩を知る者あらず、梅宇二集を校刻するに意ありしも果さざりき、
享保丁酉の春、徳山の■(食偏+氣:::大漢和44316)廩を辭し、專ら以て徒に教授す、翌年戊戌、福山に筮仕し、家を携へて移居す、蓋し福山の地、是より先き、皆山崎氏(*山崎闇斎)の學派にして、詞翰に長ぜる者なし、梅宇の此に到りてより、闔國風に向ひ、文學丕變じて、曩時の陋習私見を逞しうする無し、
梅宇、子弟を訓導するに、寛厚餘りあり、講習倦まず、鉛槧自ら娯む、鑽研博綜、老に至りて彌〃篤し、若し之をして輦轂の下に在らしめば、繼述の任、まさに東涯に減ぜざるべし、僻遠の地に居趾すること二十八年、故に其學術操行を識る者無し、惜しいかな、
梅宇は天和三年癸亥八月十九日を以て生れ、延享二年乙丑十月廿八日を以て歿す、歳六十三、〔按ずるに、奧田士享撰する所の墓碣に、貞享元年甲子の歳を以て生を爲すと、蓋し一年を差ふ、今家譜に據りて、墓碣に從はず、〕福山城の西、無量山定福寺に葬る、私に諡して紹孝〔一に■(广/環の旁:::大漢和に無し)(*■(病垂/環の旁:::大漢和22540)か。)獻に作る〕先生と曰ふ、佐野氏を娶り、六男・一女あり、伯祖禄百五十石を襲ふ、仲長鵬・叔長富、餘は皆夭す、著す所志林二卷・談叢(*見聞談叢)七卷・講學日記十二卷・相遺窩詩稿三卷・梅宇文稿五卷あり、


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伊藤分亭
名は長衡、字は正藏、又以て通稱と爲す、分亭と號す、平安の人にして、高槻侯に仕ふ、

分亭は仁齋(*伊藤仁斎)の第三子にして梅宇(*伊藤梅宇)の同母弟なり、貞享二年乙丑十二月十日を以て生る、舅進齋もと土屋侯に仕へ、江戸に在り、其子無きを以て、約して以て嗣と爲す、猶兄の許に在りて、其教育を受く、後進齋致仕して家居す、故に自ら文學を以て家を起さんと欲し、樵木街二條樋口に移居し、教授を業と爲す、
分亭少きより好んで字を書す、常に臨池の技を事とし、尤も行草に妙なり、經義の外、筆札を以て著稱せられ、又繪事を善くし、能く花卉を作る、
分亭は性稟樸質、粉飾を欲せず、聲譽を好まず、たゞ家學を研究し、先志を繼述するを以て專務と爲し、絶えて名父の遺業を人に誇耀するの態なし、然れども東涯(*伊藤東涯)歿するの後、其壽特に世に存するを以て、之を推尊する者極めて多し、洛攝の間、人毎に欽重し、聲價を一時に荷へり、
祇南海(*祇園南海)の梁蛻巖(*梁田蛻巖)に答ふる書中に云く、分亭詩筆兩つながら長じ、亦繪事を好くし、蘭竹・花卉・山水・■(山/品:::大漢和8295)湍を寫す、頗る風致あり、邦人の爲す所に似ず、其■(匈/肉月::〈=胸〉:大漢和29441)襟瀟灑の趣、また平生の端愨に似ず、之を要するに、繪事は小技と雖も、自ら讀書の上に在りて、方圓に隨ひ、規■(矢+獲の旁:::大漢和24020)に施すの餘地より出づ、後素の業に從事する者、識らざるべからずと、今按ずるに、此書の言ふ所を觀るに、分亭能畫の名、既に當時有識者の爲めに稱譽せらる、
分亭は人を待つ毎に、能く恭敬己を遜るの誠と、忠恕物を推すの實とを盡くす、故に一たび之に應接する者、皆其人と爲りに感服す、世稱して以て乃父の風ありとなす、
享保丙午四十二歳にして、高槻侯の聘に應じ、猶平安に居り、俸三十口糧を受く、屡〃高槻に往き、經義を講授す、侯家待するに賓禮を以てし、恩遇甚だ優なり、其侍讀の職に在るや、四世に歴事し、亦藩の政事を預聞し、頗る納約の益あり、上下皆依頼す、
分亭は東涯(*伊藤東涯)より少きこと十五歳、仁齋(*伊藤仁斎)歿して後、其撫育を受く、故に常に伯氏鞠養の恩を報ずるを以て志を爲す、嘗て坐右の銘を作り、自ら警めて云く、時に食し時に衣る、風雨侵す無し、一世の斯の恩、天高く地深し(*時食時衣、風雨無侵、一世斯恩、天高地深)と、其辭甚だ工ならずと雖も、至情より發し、些の虚構無し、以て其志を窺ふに足れり、
安永元年壬辰十月廿四日歿す、享歳八十八、小倉山二尊院先瑩の側に葬る、私に諡して謙節先生と曰ふ、皆門人の意に出づ、初娶りて諧はず、卒に姫待無く、潔居して身を終る、弟竹里(*伊藤竹里)の第二子、維孝を以て嗣と爲す、謀野危言救荒小言各二卷・經濟小言四卷・謙節遺稿十二卷あり、


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伊藤竹里
名は長準、字は平藏、又以て通稱と爲す、竹里と號す、平安の人にして、久留米侯に仕ふ、

竹里は仁齋(*伊藤仁斎)の第四子、梅宇(*伊藤梅宇)の同母弟なり、歳十四にして父を喪ひ、伯兄の爲めに撫育せられ、長ずるに及び、群書を博覽し、最も史學に長ず、享保中父の門人湯河東軒〔名は丙治、字は丁甫、平安の人なり〕の薦擧を以て、褐を久留米の文學に解き、俸廿五口糧を受け、猶平安に居る、後世子の侍讀に擢でられ、江戸に移り、赤羽の邸に居る、時に歳三十五なり、
竹里東到の後、名父の子たるを以て、其學術を信じ、從遊する者頗る衆し、江戸の堀河學を奉崇する者、篠崎東海之を首唱し、湯河東軒及び竹里之に和す、是より先き、東涯將に此に遊びて、關東の光を觀んとするもの、數次にして果さず、竹里此に至るに及び、詳に風俗習氣の五畿に異なるを識る、故に絶意して到らず、竹里は赤羽の邸舍に在りて、家學を繼述し、徒弟に教授す、服南郭(*服部南郭)の居と僅に赤羽の小流を隔て、北岸南畔、甚だ相遠からず、南郭■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の高足を以て一世に雄視し、其許可を得る者あれば、人皆其言を信ず、南郭一見して、竹里の人と爲りを知り、稱して温厚の長者と爲す、
東涯の竹里が久留米に赴くに贈る言に云く、先子(*伊藤仁斎)門を開き道を唱へてより、蓋し今に六十有二年なり、壯にして衡門の下、獨り遺經を抱き、聖人の道を闡明するを以て己の任と爲す、奮つて身を顧みず、孤論を持し、獨見を立て、肯て當世の人に知を求めず、一二の親厚なる者、其稍〃遜言して、以て時好に■(獣偏+旬:::大漢和20377)はむことを勸む、先子肯て其故を改めず、毎に千歳の後、必ず子雲あらむといひて、隱居自若たり、狃聞已に久しく、衆論稍〃静かなり、先に之が弧を張り、後に之が觚を説き、中歳にして家道甚だ艱し、予四弟三妹と坐食して家に在り、親厚なる者、亦其子弟をして仕に就き、出贅して以て後圖を爲さしめむことを勸む、先子亦依違して、肯て遽從せず、毎に曰く、人生れて地に墮つ、衣食自ら分あり、何ぞ必ずしも汲々せんと、從容晏如たり、既にして先子世を棄て、遺書を稍〃世に布く、未だ衆人の視聽を廻すに至らずと雖も、其書を讀み其人を知る者、唯だ其言の信ずべきに服するのみならず、亦其徳の欽ずべきを慕ふ、歳の戊戌、仲弟長英褐を福山に釋き、今茲四弟長準、亦將に久留米に赴かんとす、蓋し先子の門に及ぶ者、諸侯の國に分處し、遺徳を稱道し、以て其禄用を丐ふなり、嗚呼存歿六十年間、先子の言久しうして徴あり、行くに臨みて、同志多く贈言あり、長準予に亦、一言の以て別を敍せんことを丐ふ、因りて之に告げて曰く、予屬長に在るを以て、叨に宗盟を主り、先子の道を訪はんと欲せば、必ず咨ねよ、詩に云く、■(尸+鳥:::大漢和46667)鳩桑に在り、其子七つ、淑人君子、其儀一(*■鳩在桑、其子七兮、淑人君子、其儀一兮)と、先子の吾輩を成さんと欲する所以、豈に其儀を二にせんや、然らば則ち、先子の道に駕して、以て之を當世に傳へんと欲するは、豈に吾れ一人の責ならんや、漢の馬氏・宋の竇氏、皆五子あり、克く家聲を揚ぐ、庶幾くは汝の亦先子の道に服して、之を其身に修め、之を其同■(宀/采:::大漢和7198)執友と其士民とに傳へ、以て拔用の盛意に負くことなからんことを、享保八年癸卯孟夏朔日(*と)、〔按ずるに、時に竹里三十二歳、始めて久留米に到る、幾くもなくして還り、猶平安に居る、後五年、世子の侍讀と爲り、江戸赤羽邸に移居す、是を享保戊申三月と爲す、此よりして後、侯の駕に從ひて久留米に往來すること四次、平安に歸省すること三次、其世を謝するに至るまで、江戸に在ること、此に二十九年なり、〕
竹里の奧田三角に與ふる書中に云く、僕常に謂ふ、人の幸は、名家の子孫たるより幸なるはなし、而して其不幸も亦此より不幸なるはなし、學術受授あり、習業傳來あり、能く先緒を守りて、之に造るに、自ら艱澁勞苦の患なし、何の幸か之に及ばん、然りと雖も、學些かの精密ならざるあり、習少しく堅確ならざるあれば、概ね之を子孫に責めて、其父祖に及ぶ、其子不肖にして箕裘を守らずと爲さば、其不幸は此れより甚しきはなし、僕固より人に過ぐるの量なし、戰競萬端にして、先業の地に墜ちんことを恐る、故に日夜乾々として、父兄の志を紹述するを以て專務と爲す、實に咸之が爲めの故なりと、此言知言と謂ふべし、世人、仁齋(*伊藤仁斎)の諸子、東涯(*伊藤東涯)・蘭嵎(*伊藤蘭嵎)、時に呼んで堀河の首尾藏と號し、藝園に顯著するを以て、學術仁齋に讓らずと爲し、特に之を稱揚す、梅宇(*伊藤梅宇)・分亭(*伊藤分亭)・竹里(*伊藤竹里)の三子を以て、言ふに足る無しと爲す、未だ其人と爲りを知らず、是れ■(衞/足:::大漢和37987)言なり、今三子の人と爲りを考ふるに、其經學文章、遠く東涯・蘭嵎に及ばずと雖も、其言行藻履、復た眞儒と爲すに害なし、余梅宇の志林・分亭の經濟小言・竹里の赤羽漫筆等の諸書を讀むに、皆以て考援を資くるに足れり、之を要するに、東涯の博洽宏綜・蘭嵎の精核旁通、固より世の得易からざる所以なり、是を以て三子に比較するは、其類を知らずと謂ふべし、
竹里東移の後、故赤穗の遺士寺坂信行〔吉左衞門〕と交歡す、信行土佐の友封山内侯に仕へ、麻布の古河に在り、竹里の居と相近く、數〃互に往來す、嘗て其信行に聞く所を記して、枕干小録と曰ふ、記するに國字を以てすと雖も、一の虚飾無し、當時の實説なり、蓋し信行は大石良雄の指揮を受け、復讐の夜單身疾く馳せ、事を赤穗の遺族、廣島に在る者に告げしなり、信行歿して、竹里其墓碣の文を作ると云ふ、〔按ずるに、信行の墓は麻布古河の曹溪寺に在り、其の文に云く、寺坂吉左衞門、諱は信行、世〃故淺野侯に仕へ、播州の赤穗に於て、隊長吉田兼亮の屬吏と爲る、其人と爲りや朴實敦厚、君長に事へて忠、朋友と信、己を棄つる、癡のごとし、大石良雄等復讐の時に當り、卑職に在りと雖も、亦共にこれに與り、水を抱き火を握り、難險萬状、爲さゞる所なし、衆と之を謀り、事能く已に成る、衆議一決して、信行をして先君の遺族の安藝に在る者に報告せしむ、其役畢りて還れば、良雄等既に死す、其事人口に在り、今復た贅せず、名正しく義精しく、議すべきものなきなり、最後山内主膳侯に遊事し、恩遇殊に渥し、高節稜々、勇氣倫を超ゆ、世皆之を稱し、今に至りて衰へず、延享四年丁卯十二月六日、疾に罹りて終る、享歳八十有三、江戸麻布曹溪寺に葬る、男信保予が舊あるを以て、來りて予に墓石に誌さんことを請ふ、因つて大略を記し、之に係くるに銘を以てす、銘に曰く、身下列に在り、共に忠誠を輝かす、志既に遂げ、遠邇聲を傳ふ、心迹倶に全し、諤々の英、寛延二年、歳己亥に在り、冬十月、平安の伊藤長準謹みて誌し、并びに書すと、〕是亦世の知らざる所なり、
寶暦壬申の春の初、江戸に瘟疫流行す、赤坂・青山・麻布・南芝の諸地殊に甚し、方技の士、遠邇より奔馳し、棺槨價貴し、闔郷符を門戸に貼し、厭勝して之を避けんと欲す、巫祝祷穣して利を得る者あり、竹里の家人、亦之を治めんことを請ふ、符を貼るを肯ぜずして曰く、我れ生れて六十餘年家新樣の物無し、又時好を追ふことなし、夫れ我れ世と好を同じくせず、世亦豈に能く與に病を同じくせむや、時疫の傳染は恐ると恐れざるとに在り、更に此に關せずと、其家竟に之を疾む者無し、
竹里常に謂ふ、心平に氣和すれば、温柔と雖も、強毅奪ふべからざるの力あり、公を秉り正を持すれば、迂遠と雖も、透徹拘すべからざるの權あり、以て人物を語るべく、以て世務を言ふべしと、
寶暦六年丙子九月十一日、赤羽の邸舍に歿す、歳六十五、遺命に因りて、麻布の曹溪寺に葬る、二子、長は維章、次は維孝、維章禄を襲ひ、後、仕を辭して平安に還る、維孝は仲父分亭(*伊藤分亭)の嗣と爲る、竹里の著述數種あれども、未だ其目を詳にせず、余が見る所、赤羽漫筆四卷・枕干小録二卷のみ、余常に東涯先生(*伊藤東涯)を以て、我土先輩の第一と爲し、其學の本原あるに歎服す、故に仲叔の學術に於て、世の襲業と同じからざる、以て知るべし、


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平東海
(*篠崎東海)
名は維章、字は子文、東海と號す、篠崎氏にして通稱は金吾、江戸の人なり、

東海の父三庵、醫を業とす、其母嘗て奎宿光耀の懷に入ると夢み、身動いて孕めるものゝ如し、期にして之を生む、九歳にして平語(*平家物語)十二卷を讀み、事實を諳記す、遂に四書・五經を取りて自ら誦習し、時師の教授を假らず、十五歳にして博綜旁通、書として解せざるなし、時に三哲と稱す、後最も宏覽を事とし、偏主する所無く、獨り精核強記を以て自ら喜ぶ、
東海少くして父を喪ふ、生質脆弱、素羸に堪へず、自ら醫術を試み、常に藥餌を事とす、遂に尚藥御醫菅李蔭〔名は正■(*一字を欠く。)、字は宗圓、山田氏なり、〕の門に入り、方技を講習し、悉く秘訣を受く、李蔭國手を以て世に聞ゆ、深く東海の凡にあらざるを知り、乃ち謂つて曰く、子の才學を以て方技に從事するは、甚だ惜むべきに似たり、今より志を立て、宜しく儒を以て家を起すべし、吾子正朝、方技を厭薄し、家世の業を修むるを欲せず、將に儒士となさんとす、子其れ之を誘掖して、兒をして宿志を成さしめよと、東海敬諾して、相與に切瑳愈〃力む、正朝は乃ち麟嶼(*菅原麟嶼)なり、幾ばくもなく、歳十三、擢でられて儒官と爲る、東海の贊成する所最も多し、
李蔭(*菅李蔭)は物徂徠と友とし善し、麟嶼、東海の教督を承けて學術を講習すと雖も、之をして贄を其門に執らしむ、徂徠、麟嶼の才敏を驚き、菅神童と呼びて、敢て名いはず、亦東海の人と爲りを奇愛し、屡〃其學術を稱す、故に其門下の士、太宰春臺服南郭(*服部南郭)等、皆眷注せざるなし、時に歳二十八なり、後徂徠戲れて曰く、東海聖人を出さず、西海聖人を出さず、今若し子の輩のごとき、東海一儒者を出すと謂ふべしと、見る毎に、呼ぶに東海を以てす、是に因つて遂に以て自號と爲すと云ふ、享保乙巳の秋、麟嶼暇を請ひ、平安に遊學す、蓋し意、伊藤東涯が儒林に冠冕たるに嚮注す、東海之と倶に往きて、東涯に從事し、堀河の書院に寓す、年を踰えて、麟嶼病に罹り、亦父の疾を聞きて還る、東海之を護送す、何ばくもなく李蔭に謝し、呉服門外に僑居し、教授を業と爲す、
東海僑居の後、從遊する者衆く、戸外履常に滿てり、訓蒙の師あり、連墻すること三四年、交を納め屬を請へども、情態透らず、一室に晤言すと雖も、席を遜つて遁れ、或は途に相遇ふも、目覩ざる者のごとく、常に之を避く、東海亦唯々の間、其気宇に錯ふを知り、遜言恭色、其猜忌を避く、是より先き、東海聲價甚だ高し、王侯貴紳、其名を知らざる者なし、恰も後進の晩生を以て、先修の耆宿を壓倒する者のごとし、白面青衿長老に附和し、向背を巧成し、其才學の富を冐嫉し、其講業の盛を羨妬す、而も之を摧屈する能はず、亦之と軒輊する能はず、莠言を作爲して、故らに之を誣妄す、吠響の甚しき、遂に之をして衡門に栖遲せしむ、嗚呼聲價の在る所、謗議亦之に從ふ、昔在より然り、
享保中、小幡侯信久〔從四位下侍從織田越前守〕聘を厚くして東海を召す、之に見えて問うて曰く、先生將に何を以て余に教へんとすと、東海對へて曰く、臣知らざるなり、已む無くんば、君の國政に在らむか、臣幸に天の寵靈に頼り、苟も■(立心偏+夢の頭/目:::大漢和11451)眛せず、文武卷舒、敢て郷人に後れずと、侯大に喜び、延きて上客と爲す、
小幡侯東海を優待す、穀粟の餽、聘帛の遺、歳時絶えず、禮貌替らず、其藩の執政松原某等、弟子の禮を執りて皆之に師事し、奉款尤も至る、東海嘗て見る所を陳べ、當時の要務數條を建議して、庶政を輔裨し、煩碎を■(益+蜀:けん・けい・け:明らか・払い除く・直る:大漢和33873)除す、屡〃小幡に往きて封内を巡視す、嘗て輿人の謡を聞きて曰く、東海の黔、實に我心を慰す、西山の旱、實に我霖と爲ると、闔境信服し、百廢皆興る、時に稱して上毛第一の治と爲す、
享保中、林鳳岡一代の耆宿を以て、名天下に重し、嘗て東海の詩文を見て召見す、東海喜びて曰く、此れ吾が願ふ所なりと、從遊益を請ふ、鳳岡其才學を愛し、之を侯伯の間に延譽す、稱して學博と爲す、是より方に聞人の目に列る、當時淳質の風習、先輩の虚襟、後進を推奨する、率ね此の如し、
東海素と貧にして、家に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)石の儲なし、而して書を聚むること數千卷、衣被具はらざるも自若たり、鳳岡之を顧眄し、毎月費資若干を給賜す、窮窘故の如し、後東海をして邸中に移居し、經史を講説し、諸生を誨督せしむ、幾ばくも無く都講と爲り、學政の外、諸務盡く其手に決す、鳳岡神宇宏豁、財利に淡し、其有る所を以て盡く之に依頼し、出入を問はず、諸國より至りて此に寓する者數十人、常に之に依頼す、東海亦意を檢■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)に留め、最も事に勤め、煩劇を厭はず、誨督に倦まず、六年にして辭し去り、再び呉服門外に僑居す、
東海は井蘭臺〔名は通熈、字は子叔、江戸の人なり〕(*井上蘭臺)・關松窗〔名は修齡、字は君長、河越の人なり〕と友とし善し、二人皆贄を鳳岡の門に執り、又東海に兄事す、然りと雖も、二人儼然として自ら林氏の徒と稱し、諸侯に求む、皆洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の性理を研究するを好まず、漢唐の傳疏を尋繹す、故に經書を講説するに、專ら程朱を主とせず、衆説を博用す、或人嚴に之を禁ぜんと請ふ、東海曰く、林氏の學は博を貴び雜を厭はず、豈に山崎氏(*山崎闇斎)の徒と其旨趣を同じうせんやと、
東海は宏覽の識・特通の見、唯〃經史のみならず、殊に我中世以降の典詁に精し、謂はゆる國學・記傳・有職故實・物語・家集の諸書、盡く通ぜざる所なし、
東海、林公の邸に在るに當りて、常に己の資を減省して、塾中の寒酸の子弟に惠施す、故に此に寄寓する者、悉く之に慕附し、最も衆の歡心を得たり、稱して欣娯生と曰ふ、國音金吾と同じければなり、
東海嘗て人に告げて曰く、吾れ歿して後、鮑魚の腥に甘んじて、其臭を忘れ、余が言を傳誦し、余が心を推察する者あらんと、其言三十餘年を經て、果して驗あり、平生我が中世以降の典詁を振起して、一家の言を成さんと欲するの意あり、既に同時に羽倉澄種〔名は□□(*二字欠く。)、伊豫の人なり〕・加茂眞淵〔名は□□(*二字欠く。)、京師の人なり〕等のごとき、此に著眼するあり、本居宣長〔名は□□(*二字欠く。)、伊勢の人なり〕・村田織錦〔名は春海、字は士觀、江戸の人なり〕等に至り、其説大に世に行はる、
東海の菅野兼山〔名は彦、字は勘平、江戸の人なり〕に答ふる書、詳に其見る所を抒ぶ、今にして傳へずんば、恐らくは逸せむ、故にこゝに附載す、曰く、僕嘗て謂ふ、人明師良友に遇はざるを患ふるのみ、幸に其人に遇へば、宜しく情實を吐露し、自ら隱す所なかるべしと、以て益を求むるに急なればなり、故に初め問を通じて後、書を奉じて、自ら其學を爲し始終を敍す、足下厭棄して之を外にせず、乃ち復書を辱うす、慰藉して將に之を誘はんとする所以、甚だ至る、且つ諭すに師友淵源の自ら起る所を以てし、併せて當世の人物を評論し、固陋の愚をして、取舍する所を知りて、趨向に迷はざらしめんと欲す、又僕をして試に其心の存する所を言はしむ、將に以て復た教へられんとするなり、足下の眷亦厚し、僕亦まさに何を以て之に報ずべき、竊に足下の書を讀み、其蚤歳學を好むの篤きと、友を求むるの急とを知る、此れ皆古人の遺美、君臣の素行なり、他人をして之を能くせしめば、將に反復嗟嘆の暇あらざらむとす、足下に於て之を得るは、以て之を稱するに足らざるなり、其歴擧する所の者に至りては、皆世の推して以て巨擘と爲す者なり、學行の高卑・造至の疎密、僕亦嘗て之を聞く、知らず、數子の古人に於ける、是のごときの班か、其道に於て、孰れか能く此に得失せる、學者にありては、まさに辨識すべき所なり、僕聞く、君子の道は一ならず、道徳を以て之を師とする者あり、謂はゆる人の師是なり、術業を以て之を師とする者あり、謂はゆる經の師是なり、其餘一事の師・一行の士・一技の師・一言の師あり、其得る所、深淺均しからざるありと雖も、然れども之を謂ふは不可なり、足下始めて中村■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋毛利貞齋とに從ひて遊ぶ、其得る所未だ深からず、其後山崎闇齋の諸書を得るに及び、始めて其趨向する所を知る、其高弟佐藤翁(*佐藤直方)に見えて之に從事し、遂に能く斷然として得る所あるを以て、終身の師と爲す、知らず、足下の佐藤翁に於ける、之を師とする所以は、道徳か術業か、其之を信服賞揚する所のものを觀るに、亦經典を講論し、簡編を修述するに過ぎず、則ち是れ術業の師ならんのみ、遂に此を以て、推尊の至、崇奉の極、其受授の由つて出づる所に及ぶ、闇齋の學術・操行に至りては、以て朱子の後一人と爲す、則ち其朱子を視る如何ん、朱子は博文約禮、三代以降第一の人、兩つながら其至を極むる者なり、これに加ふるに、宏覽多識を以て群言を折衷し、以て其家學を成す、集めて大成する者に庶幾し、故に之を傳ふるの盛なる、今に至りて廢せず、攻むる者ありと雖も、愈〃攻むれば愈〃熾なり、撲滅すること能はざるものは、實に聖意に近似し、遠く漢唐諸儒の上に出づるある故なり、其晩年に及んで、義精しく仁熟し、徳盛に道尊く、聲名夏夷に遍く、古今に照暎す、朱子の朱子たる所以此の如し、近世の人、學行ありて一家を立成するものと雖も、豈に能く以て藩籬を望むに足らんや、朱子の後、宋に眞西山あり、元に許魯齋あり、明に薜敬軒あり、其學術・操行、醇疵ありと雖も、亦近世の人の企て及ぶ所にあらざるなり、今數子を蔑視し、獨り闇齋を推崇して之を上げ、以て紫陽の學統を繼がしめんと欲す、闇齋を尊び、朱子を卑む者にあらざるを得むや、昔は杜預左傳を註し、顔師古漢書を註し、胡三省通鑑を註す、皆左丘明班固司馬光の旨をして、後世に明著ならしむ、後儒乃ち其功あるを稱して、以て三家の忠臣と爲す、未だ三子を以て、左・班・司馬の後、一人のみと爲すあるを聞かず、今足下稱する所の闇齋の數事、亦之を要するに、朱子に功あるのみ、夫の易・詩・四書・小學・近思録・大極圖説・語類・文集等の諸書を校刻する事を視るに、猶螢燭の太陽に於ける、涓流の江河に於けるがごとし、之を朱子の後一人のみと謂ひて可ならんや、此れ足下師の受授を尊びて、其好む所に阿り、自ら其言の過美なるを知らざるなり、蓋し君子の過は、常に厚きに失するものか、夫れ道とは、天下に公なるものなり、師とは道を求むる所以なり、若し一二相近似するあるを以て、遂に其小なる者を以て、其大なる者を信ずるは、僕の能く信ずる所にあらざるなり、闇齋のごときは、佛を逃れて儒に歸し、朱子を尊びて百家を黜け、師道を嚴にして後進を誘ふ、其此道に裨あるは固より僕の言を待たず、實に近世の豪杰なり、然れども其人自ら處る太だ高く、人を待つ太だ嚴、含弘の風少く、寛優の氣乏し、些も人の過失を容れず、其受授の間、能く平心虚懷、從容委曲して、以て彼我の情を盡すなし、此れ其短とする所なり、足下の謂はゆる聖賢の氣象なるもの、恐らくは此の如くならじ、古へ稱す、温恭温厚、寛裕寛容と、闇齋豈に之を知らざらんや、晩節に至り、謂はゆる神道なるものを好み、人をして失望して、之が爲めに嗟嘆已む能はざらしむ、嗚呼僕何人にして、後進の■(魚偏+取:::大漢和46260)生を以て先輩を私議せん、固より僭倫の罪、逃れ避くる所なきを知る、區々の見、決して高明の爲めに許されざるなり、然れども足下の論ずる所に云ふ、近時の人物如何を觀よと、今已に命を奉ず、乃ち曲狗苟合、自ら誣ひて雷同するは、僕交誼に於て敢て之を爲さず、君子は人の過を言はず、先輩は輕議せず、此れ士の常行にして、まさに愼むべき所なり、其師友と人物の賢否を評論するに至りては、則ち然らざるものあり、必ずまさに其詞理を達し、盡く軒輊を致し、曲直得失、各其趣を極むべきのみ、然らざれば、以て講學の益、質疑の地と爲す無し、故に狂妄の言を肆にし、略〃辭讓せず、願はくは足下僕の愚を矜み、能く之を教へよ、僕幼にして記問詞章の學を事とし、未だ嘗て經世有用の學に及ばず、既に長じて後、奔走に衣食し、復た當時の逢掖の士に接するなし、交る所の二三の舊故は、固陋寡聞、甚だ醜づべしと爲す、足下其然るを知らず、友を取る多少を以て、誤つて之が問を爲す、稱引する所ありて以て厚意を塞ぐ能はず、則ち逡巡自ら安ぜず、益〃慙懼を増すのみ、足下又經學、王侯・大人に達せざるを以て遺恨と爲す、此れ固に其所なり、然れども經學は自ら達せず、必ず能く之を達する者あり、今の王侯・大人、儒臣文學の顧問に備へて、書を説く者を待つ所以は、方技・小藝の徒を以て、之を寵幸するに過ぎず、何ぞ敢て其道を尊び、其人を禮するを知らんや、儒臣文學の公に奉じ、職に供する所以も、徒に亦此を以て、其上の好む所に投ずるを偵視し、僥倖して容れられむことを求む、語默去就の間、畏るべく信ずべき者を見ず、武人・俗吏と雖も、亦易々として之を侮る、況や王侯・大人をや、王侯・大人は士に下らざること久し、固より是れ好んで自用に勝る者と爲す、聖賢の言多くは諱忌に觸る、今自用の人をして、侮る所の人に就き、忌む所の言を聽かしむ、宜しく其れ遽爾として心を經ざるべきなり、然れども經學の行はれむを欲す、豈に其れ得べけんや、竊に謂へらく、儒者は寧ろ人主の爲めに忌まるゝも、人主の爲めに侮らるゝ無くんば、其得る所多し、夫れ唯侮らず、然る後能く信ずる者至る、能く信ずる者至らば、吾學漸く上に達すべし、達すると達せざるとは命なり、侮ると侮らざるとは、我れ自ら爲す所なり、願ふに、其志を立つるの高卑如何のみ、故に云く、人必ず自ら侮りて後、人之を侮る、然れば人主の儒者を侮るにあらず、儒者の自ら侮るなり、足下亦云ふ、苟禄以て妻子を肥し、世に誇るは、識者を待つて後、之を醜とせず(*と)、今世絶えて此等の語なし、足下特に能く之を言ふ、其の抱負する所、亦知るべきのみ、苟も世の人をして、皆足下の如く、激昂憤發して、自ら能く進ましめば、身卑からずして道尊く、志屈せずして學行はれむ、未だ嘗て遽に以て人に語らず、恐らくは是れ怨咎を取らん、願はくは足下以て他人に示すなかれ、もし足下と志を同じうする者あらば、僕此に隱すなし、書言を盡さず、伏して冀はくは良察せよ、不二と、
元文の初、痒疥を患ひ、痾を小幡侯の邸舍に養ひ、自ら藥方を制して之を服す、已に舊しく衆醫之を攻め、期にして癒えず、其服飮する所、多くは是れ眞砂・龍脳等の諸藥、價資最も貴し、侯若干金を捐て之を給ふ、積年の痼疾、漸々都除して竟に■(病垂/廖の旁:::大漢和22453)え、遂に邸に寓す、侯丞〃鼎肉を饋り、■(糸偏+兼:けん:かとり絹〈書画用の素絹〉・ふたこ絹・生絹:大漢和27750)帛を贈り、優待初に陪す、嘗て東海に謂つて曰く、小幡は■(艸冠+最:さい・せつ:小さい・集まる:大漢和31977)爾たる小邑と雖も、民人あり社稷あり、請ふ先生安んじて、公養の■(食偏+氣:::大漢和44316)廩を受けよと、饋贈ある毎に、侯命を以て之を將(おく)らす、有司其供奉を掌る、藩の士大夫・諸曹、及び侯族支封の諸貴人、皆之に師事す、武人・俗吏、經史に於て未だ通曉せずと雖も、各自道を尊び賢を禮するの意を識り、また虚言薄行を事とする者無し、時人東海の其隆禮を得るを艶羨す、
東海病癒ゆるの後、年を踰えて、亦肺渇を患ふ、松原某、侯の命を受けて、東海を家に看護し、己の妻子をして、晨夕之を保養せしむ、撫衞懇待、至らざる所無し、東海謝して曰く、予狗馬の病を以て、飽くまで優養を承く、死すとも餘榮あり、蜉蝣の楚々の中に衣食するがごとしと雖も、豈に結草の報なからんや、小幡の地、是より先き、未だ絹を織り紙を製するの事を知らず、東海侯に告げて、土人に教ふるに此擧を以てし、潤益を公私に謀る、生造緒に就き、未だ全成を覩るに及ばず、施して詳確と爲す、將に利する所あらんとし、竟に大漸(*たいぜん:病勢が進行すること)に至る、人皆之を惜む、
東海は元文二年丁巳八月、疾に罹りてより、庚申の歳に至るまで、前後蓐に在り、其病間僅に三閲月、遂に四年七月朔日を以て、松原氏の宅に歿す、其生の貞享四年丁卯二月八日を去ること五十四歳、娶らずして子なし、谷中里の善性寺に葬る、病中述懷の詩に云く、

青年意氣幾回の春、白髪原來心神ならず、誰か識らん平生書劒の業、如今變じて出塵の人と作るを (*青年意氣幾回春、白髪原來心不神、誰識平生書劒業、如今變作出塵人)
此れ戊午の春作る所、果して讖を爲す、
東海の著述三十種、今に至りて知るべからざる者、極めて多し、今此に擧ぐる所は、盡く大田南畝の家に■(去/廾:::大漢和9605)藏する所のものに係る、東海談二卷・後編四卷・續編四卷・朝野雜記六卷・和學辨二卷・後編四卷・不問語續不問談各一卷・懷卷秘草知命筆録各二卷・故實拾要十五卷・附録五卷・於乎止點圖譜譯訓法各一卷なり、亡友小山田松屋〔名は與清、字は文儒、江戸の人なり〕(*小山田与清)余が爲めに云く、東海に詳略日本史八十卷あり、近世塙氏(*塙保己一)群書類從の編纂は全く分類を以て創思を爲す者なり、首唱の功は、これを東海に讓らざるを得ず(*と)、余が見る所、亦物徂徠奈留別志五卷・伊藤東涯復性辨一卷・唐音語類五卷を校刊するものあり、


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桑原空洞
名は守雌、字は爲谿、空洞と號す、又以て通稱と爲す、平安の人なり、

空洞、其先は世〃三河の人にして、幕府に奉仕せり、慶長甲寅の冬、浪華の役に當り、故ありて黜けられ、洛東の白川に隱る、遂に京人と爲る、祖世榮・父正貞、皆醫を以て業と爲す、正貞は谷氏を娶り、三男・二女を生む、空洞は其季なり、五歳にして好んで字を書し、心を臨池に專らにす、十二歳にして、筆札の美、諸貴紳の間に稱せらる、
空洞は稟賦菲弱、夙に隱操を抱く、歳廿五、世事を謝絶し、僧にあらずして自ら■(髟/几:::大漢和45359)し、婚官を欲せざるを示し、讀書これ耽る、初め合田晴軒〔名は厚元、字は仲循、三宅道乙の子なり〕に從ひて、性理家言を學ぶ、業就りて教授す、中年の後、其筆札を請ふ者衆し、卒に書名の爲めに掩はれ、世人目するに書家者流を以てす、今に至りて、其學術を知る者なし、
空洞初京師に居り、中ごろ大坂に移り、終に亦京に居る、常に城市の喧囂を避けて、郊外の間曠に卜築し、居を移し趾を易ふ、前後一ならず、其幽棲の適する所を擇んで、其勝景の宜しき所を愛す、琵琶・泉谷・雙邱(*双ヶ岡)・北野・廣澤の諸地、最も戀賞する所にして、各別墅あり、居趾定まる無く、訪ね尋ふ者をして、其毎に居る所を測り知るべからざらしむ、
空洞六書を研究し、歴代書家の論説に博覽にして、唐宋以降の墨池譜法叢記を鈔録すること、前後數百卷、遍く金石の遺文を捜り、周・秦・漢・魏より唐・宋・元・明に至る、亦名人の眞跡墨本、其臨■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)する所、殆ど四十年、藏■(去/廾:::大漢和9605)の富、比肩する者なし、葛烏石〔名は辰、字は君岳〕(*松下烏石)京に到り居るの後は、常に之に倚頼し、書を貸借して、以て其考を資く、烏石常に人に謂つて云く、空洞翁の書學に於ける、先師廣澤先生(*細井広沢)と伯仲するのみ、惜しいかな、之をして時を同じうし、一室に晤言せしめざるをと、
空洞多病にして娶らず、固より妻子なし、多田東溪を養ひて嗣と爲す、東溪初め三宅尚齋に學び、居ること數年、他姓を冒すに歉らず、然れども敢て言はず、空洞其意を料知し、之を許して本姓に歸復せしむ、且つ謂つて曰く、吾伯兄子あり孫あり、吾は自ら附■(敖/耳:::大漢和29159)のみ、安んぞ人を強ひて、以て筥■(曾+邑:::大漢和39643)の譏を招くを爲さんやと、意を留めざるがごとくして、撫養益〃厚し、其衣食を給すること、また初時の如く、志を其欲する所に專にして、學術を贊成せしむ、東溪後江戸に遊び、又室鳩巣に學ぶ、遂に儒を以て著聞し、館林公に仕ふ、東溪深く其恩義に感ず、常に曰く、翁の儀を視ること、猶子のごとし、儀の翁に事ふること、父のごとき能はずと、終身其人と爲りに服す、儀は東溪の名なり、
空洞は學實踐を事とし、講實益〃密に、造詣益〃邃し、嘗て云く、教化の術は特に知慧に在り、智慧は精神に長じ、精神は喜悦に成る、故に人を責むる者は、其之を怒らんよりは、之を教ふるに若かず、其之を教ふるよりは、之を化するに若かず、從容寛宏、其能はざる所を諒し、其及ばざる所を納れ、其欲せざる所を恕し、其知らざる所を體し、筆に隨ひて講諭し、時に隨ひて開發すれば、彼れ接引の誠を樂み、嗜好する所を喜び、督責の寛に感じ、至らざる所に■(女偏+鬼:::大漢和6600)ぢむ、人木石にあらず、則ち教化すべからざるは無しと、
空洞、佩文書畫譜を一友人に貸す、其人家火に罹りて灰燼し、後其値を償ふ、受けずして曰く、物の數は、自ら盡くる期あり、何ぞ以て償を爲さんと、當時書畫譜、舶來未だ甚だ多からず、其價拾六七兩に下らず、其宏量以て窺ひ知るべし、
空洞は元文癸亥の秋、病に罹りしより、藥餌驗なく、遂に延享元年甲子五月六日を以て、雙邱の別墅に歿す、享歳七十二、洛西北泉谷の西壽寺に葬る、病間自ら作りて云く、

木石と居り、水雲と移り、興來て字を寫し、醉去て詩を賦す、七十餘歳、鬼神に戲れらる(*と) (*與木石居、與水雲移、興來寫字、醉去賦詩、七十餘歳、被鬼神戲)
空洞は博通の餘暇、傍ら禪を好み、亦老莊を好む、晩暮其宗とする所は無爲恬澹にして、平生交友の善き所は、高遊外金蘭薺(*金蘭齋)・張放蕩〔三人世に聞ゆと雖も、其名字知るべからず〕のみ、皆隱趣の高尚を以て、一時に知らるゝ者なり、
著述は龜毛録三教合論和漢草字辨比倫教世話千字文空洞消息集・同續集・同法語及び詩文集あり、未だ卷數を詳にせず、


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關口黄山
名は忠貞、字は世篤、黄山と號す、通稱は貞助、後、嘉平と更む、江戸の人なり、

黄山、其先は世〃上毛の人なり、父興貞、字は行休、金鷄陳人(*関口金鶏)と號し、嘉平衞と稱す、始めて江戸に到り、世に謂はゆる大橋流なるものゝ書法を學ぶ、是より先き、大橋隆慶及び其父重政〔長左衞門〕、能書を以て著る、二世相繼ぎて書吏と爲り、聲價天下に傳播す、世に呼んで大橋派と曰ふ、學ぶ者甚だ多し、興貞は故ありて、出でて篠田氏を冒す、姻族長澤昌純なる者に依り、礫川牛天神の祠前に住し、筆札の技を以て徒に授く、後薙髪して沙彌行休と號し、其業盛に行はる、世亦呼んで篠田大橋派と曰ふ、其刊行する所、法帖墨本數十種、世に貴ばる、寶暦十三年癸未正月十九日歿す、歳七十九、其書風を祖述するもの、今に至りて絶えず、
黄山生れて逸氣あり、童丱にして戲嬉を爲さず、僅に十二歳に及び及び、明敏才俊、與に比する者なく、好みて野史を讀む、父興貞、太宰春臺と友とし善し、遂に之に從ひて學ばしむ、未だ弱冠に至らず、誦讀既に遍し、十七史を渉獵し、鈔録亦成る、尤も魏・晉・六朝の典詁に精し、名物の稱謂、考覈せざるなし、人呼んで六朝史童と曰ふ、
黄山亦關鳳岡に從ひて、臨池の技を學び、六書に精通す、父常に筆札を以て世に顯れんと欲し、勤めて止まず、故に力を此に肆にして成立する所あり、諸老先進皆其才を稱し、筆札に刻苦するは、甚だ惜むべしと爲す、自ら亦小藝を以て世に著聞するを欲せず、
黄山を、父篠田氏を冒すを以て、もと某氏を稱す、初父の蔭を以て、先鋒隊の騎士に補せらる、然れども其好む所にあらず、幾ばくも無く、禄を棄てゝ家居し、教授を業と爲す、
黄山、細井廣澤が篆に精しからんと欲する者は自ら一書を輯成するに若くはなし、縦令粗略にして未だ全備せず、人に裨益あるに足らずと雖も、己に於ては裨益蓋し亦尠からず(*ここまでが細井広沢の言葉)と云ふを傳聞し、遂に李攀龍唐詩選に收載する所の今體詩の字數を輯成し、題して篆書唐詩選と曰ふ、蓋し百年以前、舶來の書籍、捜索するも獲難し、考援尤も勤む、自ら之に序して曰く、夫れ子の母に於ける、饑ゑては哺を仰ぎ、寒くしては襲を仰ぐ、饑ゑては食を得ず、寒くして衣を得ざれば、慈母と雖も其子を保つこと能はず、篆の隷に於ける、母なり、凡そ操觚の士、思を罩め、精を研き、■(竹冠/{手偏+一/丱の左右の上を閉じた形/田}::〈=籀〉:大漢和26702)斯の學に於ては、盍ぞ閃々たらざらんや、其子の爲めにして、其母を求めんと欲す、庶幾くは鞠育の道を失はじ、隷方の進むは嬰兒の長ずる如し、然れども、世の篆を爲す者鹵莽鑿空、■(竹冠/{手偏+一/丱の左右の上を閉じた形/田}::〈=籀〉:大漢和26702)の甘滑、斯の要領を得ず、苟且に模倣せば、其食たるや半菽、其衣たるや百結、亦慈母と雖も其子の饑寒を保つこと能はざるなり、余自ら揣らず、碑誌・金石・群籍・法帖を探討して、晩學乳臭の徒の爲めに、唐詩選一部を鈔書し、夫の篆に饑寒する者をして、慈母の恩を蒙らしめんと欲す、然りと雖も、余亦饑寒の一なり、身未だ其患を免れず、任重く道遠し、其嘲を逃るゝなし、之に加ふるに刀■(刀の左払を下から払った形:ちょう::大漢和1846)の誤、管窺蠡測の失、其罪勝げて言ふべからず、古人言へるあり、云く、能く之を言ふ者、未だ之を行ふこと能はず、猶混々の源を以て、察々の流を求むるがごとしと、願はくは四方好事の諸君、鑒正を惜まず、愆を繩し謬を糾し、以て寒を防ぎ饑を救ふことを得よ、相與に温飽の至樂を享けば、何の幸かこれに加へん、亦何の賜かこれに加へんと、
黄山は少壯より志を音韻に留め、五方の音、通曉せざる所なし、我邦中葉より以上、三韓と往來し、韻學音訓、之を彼に得るもの少からず、これに加ふるに、保元以降、文教振はず、漢呉相混じ、近世に至りては、■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)音あり梵音あり、夷蠻の音あり、習俗の音あり、訛傳の音あり、往々雜出して分別すべからず、今之に通曉せんと欲せば、宜しく先づ其世を論じて、其由つて出づる所の前後を考ふべし、然して後、參伍錯綜するも、其差はざるに庶幾からむ、黄山此に見る所あり、將に皇和音韻を著し、國訓方言、其起る所を捜索し、衆書を宏輯し、群説を博采し、また遺蘊なからしめんとす、鉛槧年あり、稿を易ふること既に再びなれども、果さずして歿す、人皆之を惜む、亡友關■(三水+黄:::大漢和18251)南〔名は克明、字は子徳(*原文二字欠字を日本偉人言行資料で補ったもの)、鳳岡(*関鳳岡)の孫なり〕、余が爲めに云く、黄山が音訓は、新井白石東音譜東雅と暗合するもの多し、我土の著述、小學訓詁類の傑出するものなりと、
黄山は享保三年戊戌三月六日を以て礫川(*小石川)に生れ、延享二年乙丑四月十八日を以て■(病垂+祭:さい・せい:病気・疲れる・肺結核〈=肺癆〉:大漢和22458)を疾み、日本橋浮世小路の僑居に歿す、歳僅に廿八、小日向金剛寺に葬る、著す所、篆彙六卷・篆書唐詩選四卷・黄山遺草一卷・皇和音韻十二卷あり、未だ全く成らず、最後に關南樓〔名は其寧、字は子永(*原文二字欠字を日本偉人言行資料で補ったもの)、鳳岡の子(*養子)、■(三水+黄:::大漢和18251)南の父なり〕較定して編を成すと云ふ、


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田大觀
(*田中大観)
名は■(玉偏+贊:::大漢和21361)、字は文瑟、大觀と號す、通稱は興三郎、田中氏にして、自ら修めて田となす、平安の人なり、

大觀の父由眞は、算術を以て世に崇重せられ、學ぶ者尤も衆し、其歿するや、諸子猶幼し、乃ち門人川田由易なる者に遺言して、之をして後事を管せしむ、大觀之に兄事し、常に訓督を受け、能く其術に通ず、又父の門人中井璋なる者あり、尤も天學に精し、大觀之に從ひて、星暦を講究す、僅に弱冠に及び、其技老生の間に著稱せらる、
明の末、清の初、彼土の先輩、始めて泰西の人、天經地緯・星暦の學に精通すること前古に過絶するを知り、其説を採用し、因循して今に至る、夫れ華夷を論ぜず、衆技を兼存し、其長ずる所を取り、其短なる所を捨つるは、達人の觀なり、日月の行に盈縮あり、星辰の度に遲促あり、我土當時未だ曾て能く其至理を得る者あらず、大觀造意推測し、乃ち始めて之を得、泰西の説に暗合す、其法載せて大觀隨筆の中に在り、故に此に贅せず、
我土の儒家、博洽を以て世に聞ゆる者と雖も、意を天象星暦に留むる者、極めて少し、故に能く歴代の史書を瀏覽するも、其渉獵する所は紀傳に過ぎず、天文・地理・律暦・輿服の諸志を通解すること能はず、則ち一を知りて、二を知らざる者と謂ふべきなり、蓋し天文・律暦は、固より我道の一端なり、其術に精通せずと雖も、其梗■(既/木:::大漢和15363、58223)を知らざるべからず、近世明の游藝天經或問・清の梅文鼎乾坤體義等、皆渾象施游輪を載せて、以て月行の南北を測る、我土の中井璋、亦其輪を測る、これを前時に比するに稍〃便捷と爲る、然れども其環尚頗る贅なり、大觀輪を去りて、輪徑を比し、短梁を以て、其度を勘驗し、然る後推明甚だ捷なり、當時斯學に從事する者、老成の人と雖も、皆盡く其創思する所に感服すと云ふ、〔按ずるに大觀の創思して製する所のものは、蓋し渾天に依りて捷法を取るものなり、錢竹汀養新録に云く、古の天を言ふ者は、蓋天・宣夜・渾天の三家あり、宣夜の學は久しく其傳を失す、周髀は則ち蓋天の術なり、其書周公に出で、商高の授くる所、乃ち算術の最古なるものなり、楊子雲論を著し、蓋を抑へ渾を申べてより、其後蔡邑葛洪の徒、みな其説を宗とし、蓋天の義、久しく置いて講ぜず、近世歐邏巴(*欧羅巴)人中國に入りて、器を製し、渾葢通憲の名あり、而して後、歩天家葢の渾に殊ならざるを知る、平儀の用は、渾儀を視るに、尤も簡にして曉り易し、之を梁代に攷ふるに、崔靈恩已に渾蓋合一の論あり、北齊の信都芳亦云く、渾天覆觀は靈憲を以て文と爲す、蓋天仰觀は周髀を以て法と爲す、覆仰殊なりと雖も、大歸是れ一なれば、古人早く先覺ある者なり、近時清人泰西諸家天地の理を言ひ、最も精密を極むるを以て之に倚據すと雖も、其實は三代以降、古法舊有する所にあらず、間〃其新奇を疑ひて之を闢く者あり、遂に之に勝つこと能はず、要は各實驗に就きて獨り得る所なり、清の聖祖、康煕中諸臣に命じて、暦象考成數理精蘊等の書を撰む、其論説皆前代に過絶せり、其書東に渡るは皆大觀歿する後に在り、往々符節を合すがごときものあり、〕
大觀は清敏多才、衆技を博綜し、尤も音韻の學に精し、毎に呉音を操り、亦俗語を解し、象胥の言を爲す、近時の小説傳奇を遍覽し、傍ら院本・雜劇、邦人の解了し難き者を譯す、是より先き、諸儒の未だ嘗て之あらざる所なり、
我土當時未だ詞曲を傳ふる者あらず、大觀、宇明霞(*宇野明霞)と相謀りて、元明諸家の詞曲別集を博捜し、始めて其作爲する所を悟る、是亦先儒の未だ嘗て有らざる所なり、
大觀は明霞に從ひて遊び、其誨督を受く、明霞は大觀より長ずる十二歳なれども、後進を以て之を遇せず、屡〃其人と爲りを稱す、今按ずるに、明霞の遺稿に載する所、大觀に贈る七言古詩二首、詳に音韻の我土に起る所を言ふ、古今を商■(手偏+確の旁:かく:打つ・叩く・占める・量る:大漢和12451)し、其詩を自註し、併せて大觀が此に精思して、また遺蘊なきに及ぶ、音韻に從事する者讀まざるべからず、
大觀文章は尤も自負する所なり、今其作る所を視るに、時習の李王修辭を奉崇すと雖も、機軸の由る所、結撰の原づく所、服部南郭平金華(*平野金華)等の爲す所と、其趨歩を異にす、蓋し能く漢魏以上の古書を熟讀して、皆妙悟に從ひて之を得る者なり、
大觀は明霞と同じく、福田俊卿が輯むる所の名公四序を觀て、其文章の疵瑕を評論す、名公とは物徂徠及び門人服南郭(*服部南郭)・平金華(*平野金華)・越雲夢(*越智雲夢)等を謂ふ、四序とは釋玄海の崎に歸るを送る序・釋守緯の大垣にゆくを送る序・土伯曄(*土屋藍洲)の豐城に歸るを送る序・菅神童(*菅原麟嶼の愛称)に贈る序を謂ふ、蓋し是時、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、各〃是序を作り、遠邇に傳播し、人口に膾炙するものなり、明霞初徂徠に服し、其學術を奉ずと雖も、後其見る所を抒ぶ、卓然として一家の言を成し、其説を■(手偏+倍の旁:ばい・ほう・ふ:打つ・打たれる・打撃・攻撃:大漢和12244)撃す、實に大觀と四序を彈駁するの事より出づと云ふ、今に至り、坊間名公四序評一卷あり、世に行はる、
明霞の大觀に復する書中に言へるあり、云く、僕足下の評する所を覽るに、語々皆破的、或は人の意表に出で、爽然自失す、足下自ら謂ふ、雌黄の癖あり、自ら已む能はず、乃ち以て病と爲すと、僕の才足下に及ぶ能はず、雌黄の病、固より之に先んず、今此を以て告げらるゝ者は、是れ余が病を鍼石するか、抑〃其病に鍼石するを求むるなり、僕の病已に痼し、以て醫すべからず、足下の病を治する、亦僕の能くする所にあらざるなり(*と)、是れ蓋し四序を評する時の語なり、
大觀廿一歳より膝風を患へ、蓐に臥すこと五年、常に几案に對し、誦讀を廢せず、其發明する所、經史子集・解説叢考數十卷、未だ編を成すに及ばず、病羸日に甚し、自ら其起つべからざるを識り、乃ち門人をして隨筆五卷(*大觀隨筆)を鈔録せしむ、幾ばくもなくして歿す、生の寶永七年庚寅二月十日を距り、歳を得る僅に廿六、時に享保二十年乙卯十一月九日なり、洛東の紫雲山に葬る、娶らずして子無し、人皆未だ嘗て津々然として之を惜哀せざる者あらず、著す所、尚書天文解一卷・天經或問解三卷・天學指要二卷・聲韻■(微の「兀」を「口」に作る。:び:「微」の俗字:大漢和10226)闡三卷・名公四序評一卷・續大觀隨筆五卷・大觀遺稿四卷あり、〔此二書は、歿して後、門人の集録する所なり、〕


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若林寛齋
名は進居、寛齋と號す、初め強齋と號す、通稱は新七、平安の人なり、

寛齋は世〃京師に居り、家尤も貧し、親善く病むも奉養足らざるを以て、故らに大津に移り、三井寺の支院、微妙寺の域内に僑居す、一日窮殊に甚し、詩を賦して云く、

寺は大津小關の邊に在り、僧房五六半は主無し、北窗坐して見る比良の雪、東皋歩して望む志賀の浦、樹密にして落葉食を炊ぐに足り、土濕て蹲鴟圃を種ゆるに宜し、平生素と菜根を咬んと欲し、今日幸に辛苦を嘗むるを得たり (*寺在大津小關邊、僧房五六半無主、北窗坐見比良雪、東皋歩望志賀浦、樹密落葉足炊食、土濕蹲鴟宜種圃、平生素欲咬菜根、今日幸得嘗辛苦)
寛齋菽を啜り水を飮み、老親に孝養す、其艱嶮の中、學問を廢せず、日に萬言を誦す、親亦其篤志を悦び、之をして專習せしむ、遂に淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋の門に入る、■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋の家は平安の錦小路に在り、大津を去ること三里、毎晨期するに辰刻を以てし、子弟を會して經書を教授す、寛齋常に星を戴きて行き、寒暑を避けず、
■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋業を京に唱ふ、師道の嚴、峻岸勵勉、其師山崎闇齋よりも甚し、講筵課業、門人子弟、函丈待坐して、殆んど臣の君前に在るがごとし、人或は之を厭ふ、寛齋却つて其人と爲りに感服し、崇奉尤も至る、嘗て人に謂ひて曰く、余定省の餘暇、努力して師に謁す、師固より嚴刻にして少しも恕容なく、或は其在らざるに値ひて、虚しく反る、然れども尚恕意ある無し、余の居京を去ること三里、數年の間、隔日謁見して、雨暘を避けず、小恙ありと雖も、勉強して必ず到る、師垂憐する所なく、曾て稱譽せず、事に服し命を奉じ、唯〃謹むのみ、已に必ずしも經を授けざるも、從游の久しきに及びて、稍〃其味あるを覺ゆ、獨り自ら探索の功を負ひ、之を函丈に質す、師未だ嘗て容易に之を許可せず、適〃説き得て十分に至る處あれば、師只〃謂く頗る好、此の如く説了するも亦可なりと、豈にたゞ伊川門前の雪のみならむやと、
寛齋は學に志す最も晩し、蓋し廿歳の後に在り、進居の名、強齋・寛齋の號、皆■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋の擇ぶ所なり、其師説を確信するの厚き、是に於て以て知るべし、今■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋文集に載する所、若林生進居と名づくる説を按ずるに、尾に寶永元年甲申十二月十五日、淺見安正謹書すと署す、是時寛齋二十六、
■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋家貧し、臘月に至るも、尚一の綿衣なし、寛齋の叔母、布袍を寛齋に贈る、蓋し以て新年の瑞服に充つるなり、寛齋拜受して之を謝し、大に喜びて以て之を■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋に上る、又嘗て■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋の許に到り、途中春餅一頓を買ひて之を進む、■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋素と健善く啖ふ、輙ち一口に吃し了る、乃ち云く、吾子能く餅を沽ふ餘計あり、吾實に之なしと、
寛齋は性質任達にして、毀譽に拘らず、嘗て外艱に丁り、自ら喪服を制して之を著す、偶〃事ありて■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋に詣る、途中の人、視て以て怪と爲す、寛齋却つて甚だ自得す、又行く毎に眼鏡を著け、圓笠を戴き、一長劒を帶ぶ、
寛齋四十二に向んとし、再び京師に移り、錦里(*錦小路か。)に僑居す、師説を祖述するを以て專務と爲す、故に■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋の學術を信ずる者、皆悉く之に從ひ、其業一時に振ふ、
彦根の家老某、嘗て寛齋に請ひて、城中に到らしむ、寛齋の族人此に在る者多し、蓋し將に之を薦擧し、以て教授の任に充てんとす、寛齋傲然として曰く、若し暗夜ならば或は往かん、白晝ならば請ふ辭せんと、某其故を問ふ、曰く、我れ諸侯城■(土偏+渫の旁:ちょう::大漢和5248)の白泥を堊塗するを視れば、頻■(戚+頁:しゅく::大漢和43664)して唾するに堪へずと、
寛齋嘗て人の聘に應じて、美濃の北縣に到り、經義を講究す、此に老狐の舊住するあり、土人呼んで元正狐と曰ふ、既に數百年を經、物類と雖も、能く未然を識り、吉凶を察し、禍福を人に告ぐ、祷れば必ず驗あり、又醫療を知る、土人病あれば、啓して之に治を請ふ、藥方を書して之を與ふ、其治せざるものは、之を啓すと雖も、曾て與へず、闔郷之を信ず、嘗て一老翁あり、來りて講筵に侍す、寛齋一見して、乃ち心に其人類にあらざるを識る、講畢り人散ずるの後、強ひて留めて語晤すること數次、狐遂に形を現し、實を告げて退き去つて再び到らず、
寛齋は■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋の門に出づと雖も、謂はゆる神道の説を玉木葦齋に受け、之に師事し、其蘊奧を極む、又和歌を學ぶ、葦齋は闇齋(*山崎闇斎)の神道の門人なり、
葦齋酒を嗜み、寛齋又飮を好む、二人會〃飮み、醉うて出遊し、二條橋を渡る、葦齋■(足偏+圭:き::大漢和37520)歩して歩を進むる能はず、寛齋後より葦齋の腰を扶推す、弟子兩三人、亦寛齋の腰を抱持して行く、
寛齋は常に實踐躬行を以て務と爲し、志を文藻に留むるを欲せず、故に述作する所なし、蓋し山崎氏(*山崎闇斎)の學を崇奉する者、皆文藻に刻苦して、詞藝に巧なること能はず、動もすれば輒ち寛齋を以て口實と爲す、以謂らく、我儒教は詞章の上に在らずと、以て其不文を飾り、只性理心法を談ずるを以て主と爲す、能く群籍を博究し、衆説を參綜する能はず、徒に一先生の言を守る、故に勢ひ寡聞狹見ならざるを得ず、然れども人毎に悍然として自ら高ぶり、道學者流を以て居る、未だ能く程朱の旨を通解する能はず、其講習する所は、科場の勘監試を受くるの用に過ぎず、夫れ程朱の學は、豈に今人一章一句必ず遺説を守り、其教に違背せざるを要し、而して後其學を奉ずと爲すがごとくならんや、周密癸申雜識に云く、道學の名は元祐に起り、淳熙に盛なり、其徒の文を作る者は、則ち目して物を玩び志を喪ふと爲す、心を政事に留むる者は、則ち目して希世の俗吏と爲す、其讀む所のものは、四書章句集注近思録小學太極圖説東西銘語録の類に止まる、自ら其學を詭りて、正心・修身・齊家・治國・平天下、全く此に在りと爲す、其行ふ所を考ふれば、則ち言行相顧みずと、此弊習は宋の季に在りて既に斯の如し、夫れ朱子の往聖に繼ぎ、來學を啓き、管商の功利を擯け、老佛の空妙を排し、漢唐諸家の文質に勝つの陋習を辯論し、陸陳二家の非是に似るの誤謬を駁正す、唯其れ此の如きのみ、寛齋は一時の豪傑と雖も、其末流の風、實に周密の記す所の如し、志を文藻に留むるを欲せざるの弊、勝げて言ふべからず、故に積習の及ぶ所、同を褒め異を貶し、殊に門戸の見を爲す、椎魯不學の人、跡を其中に竄し、状有徳者に類し、一時の名を盜む、世の侯伯をして儒生を親近するを欲せざらしむるに至れる者は、正に是等の爲めなり、
山崎氏(*山崎闇斎)の學は、多く佐藤直方淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋三宅尚齋の三家に出づ、■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋の門人、寛齋、曁び山本復齋〔名は信義、攝津の人なり〕・西依成齋〔名は周行、肥後の人なり〕、之を淺見の三傑と謂ふ、其他甚だ世に聞ゆる者なし、寛齋未だ半白に至らずして歿すと雖も、三傑中の魁なりと云ふ、
寛齋は享保八年癸卯五月三日を以て、病んで外舅北川氏の宅に歿す、歳四十五、鳥部山に葬る、友人山本復齋、諸門人と相謀り、平生筆記する所を録し、編次して十二卷とし、若林子語録と曰ふ、我土の儒家に語録あるは、此に始まる、又詩文及び和歌を編して四卷と爲し、若林遺稿と曰ふ、〔按ずるに、近人云く、釋氏の語録は李唐に始まり、儒家の語録は趙宋に始まると、其行を儒にして其言を釋にす、教を垂るゝ所以にあらざるなり、故に語録の字を以て、宋儒釋氏の名稱を誤り襲ふと爲す、然れども唐書藝文志史部に、孔思尚宋齊語録十卷を載す、此語録の字、始めて此に見え、必ずしも彼釋氏に始まらず、記録の書、之を語録と謂ふは已に舊し、〕

先哲叢談續編卷之六


 伊藤梅宇  伊藤分亭  伊藤竹里  篠崎東海  桑原空洞  関口黄山  田中大観  若林寛斎

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