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 木下蘭皐  寺田臨川  松崎白圭  松崎觀海  服部梅圃  服部栗齋

先哲叢談續編卷之七

                          信濃 東條耕 子藏著
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木蘭皐
名は實聞、字は公達、一の字は希聲、蘭皐と號す、又玉壺眞人と號す、通稱は宇左衞門、木下氏にして、自ら修めて木と爲す、尾張の人にして、本國に仕ふ、

蘭皐、其先は世〃愛知郡中村の人にして、豐太閤の同族なり、尾の誠公の時に當りて、博く封内名家の後裔を徴す、遂に望族を以て、廩糧を賜給し、仕籍に入る、蘭皐に至るに及んで、擢でて侍臣と爲る、食祿二百石、特に命じて采地を中村の邑に賜ふ、蓋し太閤此に産するを以てなり、元祿丁丑、會〃太閤一百年の忌辰に當り、蘭皐太閤舊栖の處を訪捜し、樵牧を禁止し、豐王舊趾の碑を立つ、物徂徠、蘭皐の爲めに、豐王の舊栖に題する詩を作る、云く、

絶海の樓船大明を震はす、豈に思はんや此地柴荊を長ぜしを、前山風雨時時に惡し、今に至り猶ほ叱■(口偏+它:::大漢和)の聲を作す(*絶海樓船震大明、豈思此地長柴荊、前山風雨時時惡、今至猶作叱■聲)
是なり、
蘭皐能く華音を作す、始め岡島冠山に京都に從ひて學ぶ、後江戸に遊び、業を徂徠に受く、同門の士山縣周南太宰春臺等、皆能く音韻に長じ、兼ねて華音を執り、衆胥[しゅうしょ|諸々の下級官吏]を講肄[こうい|講習]す、蘭皐二人に兄事し、究尋すること數年、頗る得る所あり、徂徠嘗て謂く、木生の詩、我邦人の口氣に似ざるは、能く華音を解する故なりと、蘭皐嘗て曰く、謂ふに、凡そ天下の事は、曲藝小技最も下なるものと雖も、必ず學んで後之に通ず、況や己を修め、人を治むるの道に於てをや、今の士大夫、苟も其道を學ばず、徒に己の智力を以て、衆庶を制御し、自ら之を臆に斷ずるは、譬へば猶有力の曾て射御の術を學ばずして、彎強を好み、悍馬に騎するがごとし、以て射れば激發し、以て御すれば風逸す、其能く命じて正鵠に中て、銜轡を按ぜんと欲するも、豈に之を得べけんや、今の君長たる者、此に類するもの多し、世射御の以て學ばざるべからざるを知りて、己を修め、人を治むるの、以て學ばざるべからざるを知らず、亦惑へるの甚しき者なりと、
享保己亥の秋、韓使來聘す、其尾を過ぐる時に當り、蘭皐侯命を奉じ、外府の吏曹を以て客館に在り、廚事を管檢す、素と文學の選を以て、其任に當らざれば、一人の其學術あるを知る者なし、強ひて對馬の記室雨芳洲(*雨森芳洲)に請ひて、同僚の士晁玄洲〔名は文淵、字は涵徳、尾張の世臣にして、徂徠の門人なり〕と與に、同じく筆語すること、前後兩次なり、玄洲は筆札を以て稱揚せられ、蘭皐は華音を以て歎賞せらる、二人の名、始めて時に顯著す、
蘭皐は中年の後、近習に服事し、交を外人に通ずるを得ず、方丈の室を構造し、四周に堊[あ|白土・漆喰]を加へ、一關竇[かんとう|穴蔵・穴蔵の出入口]の如し、月光四壁に入りて瑩然[えいぜん|鮮明な様]たり、其■(木偏+眉:び:まぐさ・門の横木・軒:大漢和15155)に顔[がん|額に書き付ける]して、白玉壺と曰ふ、蓋し明人胡元瑞の舊規に傚ふなり、公退の暇に、書を其中に讀むこと三十餘年、專ら宏覽を事とすと云ふ、
蘭皐服仕すること已に久し、寶暦元年辛未六月十九日、帷幕の主司と爲り、班格故の如し、蓋し其老を以て、之を散職に居らしめ、其資俸を優給するなり、翌年壬申八月六日を以て、病にて歿す、歳七十二なり、名古屋橘街の□□□(*原文欠字)に葬る、長尾氏に娶りて、希元を生む、希元祿を襲ふ、著す所、玉壺吟草四卷・附録一卷・客館■(玉偏+崔:::大漢和)粲集二卷・往還日記二卷・呉下舊聞八卷・蘭皐遺文六卷あり、


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田臨川
名は革、字は士豹、一の名は高通、字は鳳翼、臨川と號す、初通稱は立革、後に半藏と更む、寺田氏にして、自ら修めて田と爲す、安藝の人にして、本國に仕ふ、

臨川、其先は世〃近江の人にして、佐々木氏の族なり、曾祖寺田五郎左衞門なる者、諸州に宦遊[かんゆう|仕官するため郷里を出ること]し、南海に羇寓して、和歌山侯長晟〔從四位下侍從淺野但馬守〕(*綱長)に仕ふ、元和中、侯封を安藝に移す、亦從つて之に移る、其男吉次は仕籍に蔭補[いんぽ|先祖の功績により官位を賜わること]す、吉次の第三子正茂、字は知還、林庵と號す、幼稚にして學に就く、長じて馳馬撃劒の技を喜び、肄習して怠らず、一旦腹疾を得、治久しくして愈えず、是に於て其志業の成らざるを知り、慨然として情を方技に留め、遍く經方を讀む、業を堀杏庵に受け、以て其奧を窮む、竟に醫に隱れて、終身仕へず、專ら養衞を事とし、歳七十二にして終ふ、是を臨川の父と爲す、
寶永・正徳の間、物■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園修辭の説、海内に喧傳す、人稱して一世の龍門[りゅうもん|出世の関門・亀鑑]と爲す、其賞譽を得る者、人皆之を艷羨[えんせん|ひどく羨む]す、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園は味立軒(*味木立軒)の爲めに、廣陵問槎に序し、極めて立軒の詩文を賞す、又臨川に及び、獨り鳳翼氏の業を愛し、清綺整贍、瀛[えい|大海]を出で奎[けい|奎宿=文運を掌る星宿、の意か。瀛奎律髄と関連するか。]に入り、寒水青藍[かんすいせいらん|弟子が師よりも優れる譬え]、駸々[しんしん|物事が速く進む様]として已まず、得易からざるの才と謂ふべしの語あり、是に由りて、臨川の名、一時に傳播す、
寶永中侯命じて、安藝諸士系譜を撰む、享保八年成を告ぐ、又命じて三備諸士系譜を撰ましむ、十六年成を告ぐ、辛丑元旦詩あり、云く、

花柳欣然たり一畝宮、身安く心靜かに春風に坐す、架頭の族譜三千卷、遲日輯録の功を收むるを要す[ようす|邀す=待ち迎える・遮る](*花柳欣然一畝宮、身安心靜坐春風、架頭族譜三千卷、遲日要收輯録功)
蓋し當時の實を記せるなり、按ずるに、辛丑は享保六年なり、自注に云く、頃歳教を奉じて、諸士の系譜を編輯す、故に句中之に及ぶと、
夫れ士の仕ふるや、苟も其祿を私し、以て其身を榮するにあらず、將に上は忠を君主に盡し、中は徳を祖先に報じ、下は裕を後昆に垂れんとするなり、故に其君たる者は、其士の賢を訪求し、其士の能を禮待し、宜しく祖先の功績を録し、其在る所を詳にし、而して後これを將來に表はし、以て後裔を勸勵すべし、是れ乃ち系圖譜牒の廢すべからざる所以なり、寛永中、官、林文穆等に命じて、諸家の系圖傳を輯著せしむ、是よりして後、斯擧を爲すもの、新井白石藩翰譜谷田博古改撰諸家系圖等のごとき、往々にして出づ、藝侯藝備の封内に其■(去/廾:::大漢和)藏する所を出さしめ、臨川をして之を輯録せしむ、甲午より始まり、癸卯に迄りて畢る、凡そ十年を經て全く成る、題して藝備諸士系譜と曰ふ、總べて三百六十四卷、附録十二卷・目録六卷なり、侯喜びて金若干を賞賜す、當時の侯伯其擧を傳稱し、以て諸藩未曾有の盛典と爲す、
藝侯不朽を謀るの意、最も盛にして、諸士系譜一部を淨書せしめ、之を嚴嶋の神祠に納め、自ら系譜を藏收するの記を製すと云ふ、其記實は臨川をして之を代り作らしめしなり、當時の王侯文學の盛なる、以て欽賞すべし、今時の公伯、此のごときの類、極めて稀なるは何ぞや、上は固より君主の意を此に措く無く、下は素より臣子の志を此に留むる無し、上下偸安にして、互に因循を喜び、貴賤吝嗇にして、迭に虚捏を悦ぶ、祖先に報ずるの誠、苗後を覆ふの意を思はず、〔其記に云く、山陽は方鎭の雄にして、藝州こゝにあり、海嶽の勝は、嚴嶋これに首たり、而して其土最も樂しく、其神最も靈にして、百代に廟食し、威靈衰へず、我顯高祖封を此に受けしより後、闔境清淨、烝民富庶、皇化の致す所なりと云ふと雖も、實に是れ神徳の相する所にして、豈に■(音+欠:::大漢和)戴せざらんや、向に綏撫[すいぶ|安んじ労る]の暇に於て、詞臣に命じて、諸士系譜を撰ましむ、合せて若干卷、以て待顧の意を寓す、詩に曰く、赳々[きゅうきゅう|勇猛な様]たる武夫は、公侯の干城と、士の用固より少くなからざるなり、其先を爲す者は親しく祖宗に從ひ、備に櫛風沐雨[しっぷうもくう|外で風雨に曝され苦労する譬え]の艱を嘗む、則ち我の其功に報ゆる所以、亦まさに心を盡すべし、因つて全函を捧げてこれを神庫に藏す、■(瑞の旁+頁:::大漢和)ら穰福に憑りて、以て久遠に示す、仰ぎ祈る今より以往、社稷益〃安く、君臣益〃和し、共に爵祿を保つて、裕を後昆に垂れ、永く精■(示偏+湮の旁:::大漢和)[せいいん|真心をこめて祀ること]を助け、千馬斯年と云ふ、享保十二年、歳丁丑に次る、孟陬[もうすう|正月の異名]穀旦[こくたん|吉日]、謹みて記す、從四位下侍從安藝守淺野綱長と、按ずるに、此事平維章續東海談に見え、近時臨川の玄孫寺田他人助なる者の音問を得、始めて臨川全集を讀み、之を比較するに、少しく異同あり、然りと雖も、維章の記す所、已に同時に在り、覽る者、彼を以て此を疑ふなかれ、〕
藝侯儒術を奉崇し、尤も文學を重んず、大に州學を興し、講道館と云ふ、師長を立て生員を置き、臨川をして學政を總督せしむ、闔國の士日に學に進み、徳行文學、異能才俊の徒、踵を繼いで起る、又治下の民は、城府閭巷より山陬海隅に至るまで、孝義旌表[せいひょう|善行を賞し、国家がその家門に旗を掲げて表彰すること]の輩、年を逐ひて出で、治に裨益し、教化大に行はる、皆臨川の建白する所、甚だ少からざるなり、
臨川は侯命に依りて、講道館の學規三條を作る、一に曰く、講學の道、要は身を修むるに在り、苟も其本を忘れて、其末に循へば、日に萬言を誦すと雖も、亦己が爲めにするの學にあらざるなり、會ふ者其れこれを審にせよ、二に曰く、辭氣容貌はこれ徳の符なり、平居に在りて、猶忽にすべからず、況や講習の間に於てをや、禮にあらざれば、視聽言動するなかれ、三に曰く、執業の貴賤長幼、宜しく其志を勵まし、以て其力を竭すべし、然らざれば、啻に己に益なきのみにあらず、抑〃亦將に藩鎭[はんちん|諸侯]善を勸むるの意に負かんとす、豈に愼まざるべけんやと、臨川常に時習[じしゅう|時俗]の詞藝人を眩耀するを厭ふ、其人を教ふるや、身を修むるを以て先と爲し、經を治むるを以て後と爲す、意を竭して之を導き、譬を取り類を引き、諄々として已まず、故に人々自ら誠實の功夫を致し、皆意を傾けて敬服■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)從せざる無し、
享保乙卯六月、特に教授の怠るなきを賞し、先に給する所の俸祿を改めて、采地三百石を増賜す、十二月に至り、亦班格を進む、是より先き、侍讀教授等の設ありと雖も、未だ全く職を專らにせず、臨川出づるに及び、たゞに學政を料理するのみならず、亦機務に預り、藩政を參謀す、人始めて儒臣の貴きを知る、
享保壬戌四月、自ら編撰する所の臨川集六卷、及び鍛工吉道の制する所の雄劒一口を携へ、之を嚴島の祠に納む、■(瑞の旁+頁:::大漢和)(もつぱ)ら丹誠を効し、以て靈護を祷り、將に千歳に傳へんとす、虔誠と謂ふべし、癸亥五月、又臨川集及び其師味立軒(*味木立軒)の覆載遺稿四卷を以て、之を侯に上り、老を告げて致仕を請ふ、侯數年の勤勞を褒して、之を許し、男高年をして祿を襲がしむ、猶亦金若干を賜ひ、以て優老の資と爲す、
臨川は延寶六年戊午七月八日を以て生れ、延享元年甲子十一月四日を以て歿す、歳六十七、廣島城西の自昌山龍華院に葬る、永原氏に娶り、先だつて歿す、再び古高氏を娶り、男女を生む、皆夭す、故に植木氏の子を養ひて嗣と爲す、名は高年、字は士渙、桂叢と號し、文次郎と稱す、堀南湖に從ひて學び、才俊の聲乃父に減ぜず、子孫今盛なり、
臨川の著述は、諸士系譜の外、韓館酬和集二卷・二孝傳一卷・藝備古城志十卷・臨川全集八卷あり、


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松崎白圭
名は堯臣、字は子允、白圭と號す、通稱は左吉、江戸の人なり、篠山侯に仕ふ、

白圭の先は、亂に遭ひて播遷[はせん|他国に流離する]し、家系譜牒知るべきものなし、祖父正平、五郎左衞門と稱する者、河内の稻田郷に隱居す、其子嘉言、始めて羇旅を以て篠山侯に仕ふ、篠山は今の龜山侯の先封なり、四世の君に歴事して、藩の參政に至る、食祿二百石、木村氏を娶り、天和二年壬戌五月十五日を以て、白圭を芝田街の邸舍に生む、
白圭幼より聰慧、五歳にして戲嬉し、田街の八幡祠に謁す、時に三人の祠に賽拜するあり、白圭の容貌、群兒に異なるを愛し、嚢を探りて錢を出し、二枚を與ふ〔是時十文錢は通用今の二十文に當る〕、稽首[けいしゅ|座って頭をやや地面に接する礼]して拜受し、之を祠壇に投ず、三士人大に愧ぢて去る、白圭八九歳、岐嶷として成人のごとし、父嘉言退朝して公服を脱せず、跪坐して受くる所の書を誦せしむ、之を聞きて後、帶を解く、白圭能く謹みて業を卒ふ、倦意あることなし、夏の夜蚊蚤足脛を■(口偏+最:::大漢和)むも、■(口偏+占:::大漢和)■(口偏+畢:::大漢和)して旦に達す、肉瘡を生ずるに至るも、其苦を厭はず、
白圭母木村氏に從ひ、出行して還り、數寄屋門に至る、會〃漏下り、門引[もんいん|通行手形]を齎さざれば、婦女は通行するを得ず、白圭酒肆に入り、筆墨を假りて、自ら門引を製する法の如くし、衞司に稟し、乃ち入るを得たり、時に僅に十歳なり、
白圭既に冠するの後、世子の近習と爲り、正體整飾、嚴莊を以て憚らる、世子嘗て語るに、將に木枕を造らんとするを以てし、詳に制作に及ぶ、白圭曰く、凡百の玩好、務めて觀美を爲すものは、其衆人の爲めに供觀するを以てなり、枕に至りては、夜臥獨り用ふる所、精巧を極むと雖も、孰適[じゅくてき|ちょうど釣り合いがとれている]を美と爲す、若し或は賓客既に醉ひて、此物を用ふるに至れば、是れ禮容を失し、墮怠自ら取る、以て訓ふべからざるなりと、世子乃ち止む、
篠山侯信庸は儒術を奉崇し、宗廟を祭祀す、悉く禮制に遵ふ、世子封を襲ひ、國に就くに及び、又廟社の制度を謀議す、時に藩の執政藤井某は、儒員松崎祐之に謂つて曰く、先君儒術を好むの故に、廟制甚だ大なり、諸件も之に稱ふ[かなふ|適する・釣り合う]、今必ずしも其制を須ひず、たゞ習俗の爲す所の如く、之を制して可なりと、祐之之を白圭に訪ふ、白圭色を正しうして曰く、先公信じて古を好む、廟祭謨[ぼ|しきたり]あり、周旋[しゅうせん|立居振舞]舊を失はず、斯れ之が美となす、況や今世子未だ此意あらざるをや、得失是非、豈に人に問ふを待たん、吾れ待顧[たいこ|君主の顧問するを待つ、の意か。]の任あり、而して此儀を執政の重臣に得、恥たる亦大ならざるか(*と)、祐之赧然たり、是に於て廟制・祭法、皆變更せざるを得たり、
藩の世家奧平廣武は學を好み士を愛し、儒術を隆崇す、侯頗る之を禮貌[れいぼう|礼儀正しく人に接する]す、白圭書を廣武に贈り、其學を勸むるを言ひ、且つ佞を遠ざけ、正に近づくるを以てす、廣武其言に因りて、近臣の奸を廢し、叔慝(*淑慝)[しゅくとく|奸悪]を旌別[せいべつ|善悪を識別する]し、一藩股栗す、侯儒臣をして日に經義を進講せしめ、上下學に嚮ふ、白圭之を聞きて喜び、又書を侍臣西脇長博に贈りて曰く、恭しく聞く、君侯國に就き、威惠兩つながら行はる、今よりの後、謀謨[ぼうぼ|はかりごと]人あり、具瞻[ぐせん|人民がひとしく仰ぎ見ること]の歸する所、近習の責、尤も辭すべからず、夫れ美田ありて後に、嘉禾を種ゑ、日月の温、雨露の潤、莠を刈り蝗を除き、培養灌漑、一も廢すべからず、今や美田既に耕し、嘉禾既に種ゑたり、温潤刈除は奧平太夫の任なり、培養灌漑は足下の任なり、今や君侯藩に在りて間暇、加ふるに善に從ふの機あり、納約■(片+戸/甫:ゆう:櫺子窓:大漢和19890)よりす、時失ふべからずと、其君を愛するの惓■(立心偏+遣:::大漢和)、國を憂ふるの款懇、此の如し、
白圭上書して三事を陳ぶ、一に曰く、宜しく經義を講じて、以て先君の訓を奉ずべし、二に曰く、宜しく禮儀を修めて宴遊を節し、以て治を出すの本となすべし、三に曰く、大婚近きに在り、宜しく閨門を正し、以て後嗣を立つるの法を爲すべしと、反覆數千言、其終に言く、臣が父羇旅[きりょ|他国に身を寄せている身の上]を以て、知を先公に受け、太夫の後に從ふことを得、恩遇過厚なり、臣少くして洪恩に浴し、日夜砥礪して、力を竭し、骨を粉き、以て之に報いんと思ふ、不敏にして、能く萬一に奉答する無し、臣幼より學を好み、先公嘗て稱して、以て用ふべしと爲す、内旨を奉じて、第下の嗣封するに及び、擢でて近習の長と爲り、今に三年なり、夙に帷幄[いあく|枢機・幕下]に侍すれども、竊に慮る所あり、建白する能はず、明徳を補ふこと無し、曠久日を持し、尸位素餐[しいそさん|仕事もせず地位を貪ること]恐らくは先公の明を傷り、第下の恩に負く、臣伏して自ら念ふに、不忠の罪、これより大なるはなし、敢て請ふ、第下悉く臣の罪を録して、其籍を削り、之を處するに刑を明にし、以て後の人臣たる者、重祿偸安、過ちを知りて言はざるの戒を爲し、身を謹み行を正し、以て先君の遺訓に奉答せば、徳日に新にして、國家治安、四方の民、第下守成の徳を稱揚せざるなからむ、臣死するの日と雖も、猶生の年のごとし、其大恩たる、其祿を増し、官を進むるに過ぐること萬々なりと、今按ずるに、其言は痛快忱款[しんかん|誠心誠意]にして、至性に發す、以て今世從諛意を承くるの輩を懲戒するに足れり、緘默の人、豈に慙愧せざらんや、
享保癸卯の冬、郡山侯忠列〔本田喜十郎、敍爵に至らず〕卒す、嗣子無く、國除かる、朝篠山侯に命じて、其城邑を收めしむ、故事、城邑を收むるに、專ら軍法を以て之を處置す、侯白圭をして諸事を總督せしめ、諸曹衆士皆約束を白圭に受く、白圭嘗て上杉氏の兵法を茂久景泰なる者に學び、其奧底を極む、謂はゆる越後流なり、區畫既に成り、孜々として已まず、甲辰の春、侯大に閲して兵を練る、幾ばくもなく、日を期して衆に誓ひ、軍律を示す、先驅既に發し、侯兵を率ゐて篠山に啓行し、郡山に規入す、令を施し法を布き、遂に其城邑を收め、事を竣りて還る、此役や前後煩劇、人皆難んずる所にして、緩急失ひ易く、殆んど言ふべからず、而して師律錯はず[たがはず|負く・誤る]、兵賦潰えず、約束嚴明にして、處分悉く當り、少誤あること無し、
篠山嘗て桔梗門を衞り、延陵侯と更直す、白圭をして番帥と爲し、衞門の總監を掌らしむ、蓋し衞門の政事は、常に憲臺[けんだい|御史台の別名。若年寄などをいうか。]の指揮に依る、凡そ侯伯此役に當り、番帥の當直する者は、憲臺を畏怖すること、恰も政府の如し、其屬吏城門に往來すれば、驅使の臺卒と雖も、陪臣を視ること甚だ卑しく、勢焔殊に強く、小過を苛察して、少しも宥假せず、失誤あるを幸とし、因つて以て■(貝偏+求:::大漢和)を貪ること、前後一のごとし、白圭當直すれば、幄中に坐して、法令を詳審し、事を隊帥に委ね、藩の執法源仲敏と、毎に聯句[れんく|各人が一句ずつ作り、詩となす遊戯。]を作りて、以て日を消す、憲臺の屬吏、事故ありて來れば、之に飮ましむるに醇酒を以てし、言はんと欲する所を箝し、終に開説することを得るなし、隊帥をして之に接待せしめ、大事あるにあらざれば、容易に之を見ず、一夜風大に起り、下馬牌を吹倒し、墜ちて御溝に入る、屬吏之を知り、將に明に之を憲臺に白さんとす、竊に之を聞き、故を問ふ、白圭曰く、風烈しく木乾く、之を怪むに足らず、幸に弊損する無し、收めて之を懸くれば、人孰れか之を非とする者あらんや、今夜更既に深し、若し之を憲臺に告ぐれば、必ず檢者をして之を按閲せしめ、而して後事を行ふ、展轉相傳へて、必ず曉に至らん、終に徒に諸君を勞し、官私共に煩して益なし、遂に紙索を以て牌を表に繋ぎ、風の爲めに墜ちざらしめ、以て明朝の事を闕かざるの用を爲すに若かずと、決斷して之を爲す、屬吏相爭ふこと能はずして、之に從ふ、憲臺之を聞きて、亦問はず、
享保己酉、祿五十石を増賜し、藩の執政と爲す、白圭職に居り、衆に臨むに、專ら以て君恩を宣べて臣節を勵まし、廉偶[れんぐう|折り目正しいこと]を砥して名分を正し、偏頗を杜ぎて賄賂を絶ち士風大に振ふ、是より先き、郡山の役を竣りてより、費資巨萬にして、國用足らず、これに加ふるに、封内旱歉[かんけん|日照りによる不作]にして、已むを得ず、士民の俸を減省す、上下共に窮し、侯甚だ之を病む、白圭と謀議して、儉約の令を封域に傳へしめて曰く、若し士人藩に在れば、衣綿布を服せよ、官を進め祿を増すも、官長[かんちょう|上司]に贈ものせず、同僚と宴せず、吉凶慶弔、有服の親にあらざれば、相饋遣せず、相宴會せざれ、若し會すれば、一羮二豆に過ぎず、嫁娶は儉素を務め、奩具[れんぐ|鏡箱・化粧箱]は美を飾らず等の數件、皆白圭の建議する所を以て、之を行ふ事三年、極めて侯家の用費を省き、稍〃辨給して、其借減する所の士民の俸を還す、
白圭廳に坐して訟を聽く、兄弟財を爭ふ者あり、蓋し父早く死し、弟幼にして兄に鞠養せられ、後弟分居し、頗る家財を殖す、兄從つて之を貸り償はず、母小子を昵みて、之が爲めに、其曲兄に在るを證す、白圭曰く、兄を敬するは、天下の通義なり、且つ父死して兄に養はる、恩所生に同じ、貨殖は固より力を竭して之に供すべし、財を爭ひて得ず、廳に訴へて、兄の過を彰はすは、是れ倫理を亂るなり、曲直は須らく後に之を議すべし、其不弟の罪は、檢覈せざるべからずと、乃ち弟を鎖して、兄を問はず、母涕泣して宥を請ふも聽さず、數日にして弟自ら罪に服し、悔いて和解を請ふ、乃ち曉すに孝悌を以てし、之を遣る、是時兄弟財を爭ふ者兩家、召して廳外に坐せしむ、兩家墻に附きて、傍ら之を聞き、相讓りて解を請ひ、而して止む、
享保中、連年登熟し、穀價甚だ賤し、大坂の時値、金拾九兩にて米百苞を買ふべし、江戸は拾六兩、陸奧・出羽は拾參兩、菽麥雜穀之に準ず、是に於てか諸侯皆財に匱しく、公私給せず、上下の窮窘、勝げて言ふべからず、辛亥の春、白圭は侯命に依りて大坂にゆき、將に金を富商に貸借せんとし、淹留すること數十日なり、或は白圭を妬忌する者あり、言黨を立て權を專らにするに託し、亦誣ふるに金を致すに、約の如くならざるを以てす、是によりて落職[らくしょく|罷免されること]し、篠山の留守に左遷せられて、此に移居す、公事の外は、人に應接せず、門を杜ぎ、客を謝すること、此に四年なり、當路の人、舊時の吏人を罷め黜け、盡く其黨を樹て、朋黨を固結し、政賄を以て成る、舊格漸く變じ、典章自ら壊る、白圭國を憂へて已まず、利害言はず、沈晦して時を待つ、侯其寃を知り、近臣をして竊に密旨を傳へしむ、乙卯の夏、命じて舊職に復し、亦江戸に移居す、侯時に大鴻臚卿〔謂はゆる奏者番衆〕と爲り、白圭をして府事を總管せしめ、司賓の知務〔謂はゆる押合役、侯國大鴻臚と爲れば、必ず押合員三を置く、皆故事なり、〕を兼ねしむ、侯の掌る所、一切之に倚り、以て辨給す、朝野翕然として、贊佐人ありと稱す、
享保戊戌十二月、篠山侯の白山の邸舍、火に罹り、人毎に僅に身を以て免る、時方に改歳、人心恟々として、寢ぬるも席に帖かず、白圭夷然として之を屑しとせず、小河街の侯邸に入る、假居すること四閲月、凡百の器財、一も之を存せず、僅に風雨を庇ふのみ、退朝の暇に、門人來りて業を請ふ、經史を講説して、教授懇勤、平素に異なるなし、其師中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙、人を遣して、之を■(口偏+言:::大漢和)(と)はしむ、則ち從容として誦讀し、其患を知らざるものゝごとし、
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙は程朱の學を修め、篠山の■(食偏+氣:::大漢和)廩を受け、侯家に賓師たり、故に白圭之に從事す、又三輪執齋に從ひ、王姚江が良知の學を學ぶ、後、伊藤堀河物赤城と友とし善し、積思講究して、遂に見る所あり、晩年其獨得する所を録し、名づけて正言と曰ふ、識者其卓見を稱す、
白圭嘗て謂ふ、今の諸侯・先づ仰ぎて照祖治を制するの意を體して、之が本と爲すべし、又近世の名将良臣の行事を以て、法と爲せば、中らずと雖も遠からずと、自ら林羅山記する所の東照宮御遺訓二卷、人見卜幽の著す所、近世君臣言行録十卷を寫して、之を侯に上る、告げて曰く、國家創業の績、知らざるべからず、蓋し二書を藏する者ありと雖も、珍秘の厚き、輕く人に示さず、遂に其傳を失ふに至るは、大に照祖の得意にあらず、又記者の欲する所に背くと、〔余毎に此を以て同志に話すに、未だ嘗て嗟賞せざるはあらず、今時の人は、能く其嘉言懿行を傳へ、以て訓ふるに足る者あれども、悉く之を諱忌して容易に世に示さず、崇重の甚しき、愛秘の極、還つて其傳を失ふに至る、夫れ天下の事は、彼我相資け、以て秘すべきの理なし、隱顯時に在り、用捨人に在り、達士の觀、物として可ならざるは無し、而して官途の士、時事を秘密にして、之を知るを諱む、方術の士、經訣を愛惜し、之を知るを諱む、衆技百工の士、則ち其爲す所を堅隱し、敢て之を言はず、滿天下其爲す所を諱忌し、自ら以て善く此に有りと爲す、みな是れ鄙吝陋嗇の人なり、余小壯より下問を恥ぢず、たゞに文藝の上のみならず、負養兒[ふようじ|子守か。]・肩販漢[けんぱんかん|行商人か。]と雖も、未だ解き得ざるの事を訪捜し、其一端を窺はんと欲す、絶えて之に應ずる者なし、貴賤言はざらんと欲するの弊、業に[すでに|もはや]已に此の如し、嗚呼度量の狭隘、亦之を奈何ともするなし、學者に至りては、此弊習最も甚し、一卷の書も、人に假貸するを欲せず、曰く、是れ吾れの珍秘する所なりと、之を要するに、其言利を好むの意にして、肺肝に淪胥[りんしょ|沈淪するの意か。]するの故と雖も、皆朋友と之を供にするの心なし、亦有無を交通するなし、彼我相資するの念、地を掃ふの致す所なり、〕
白圭は毎旦夙に興き、公服して祖先の神主を拜す、四十年一日の如し、君方に物を家に賜へば、夜と雖も、公服して必ず之を拜す、
白圭君前に在れば、善を陳べ閉づるを以て、己が任と爲す、顔を犯して直諌すること、前後數なし、其事を言ふや、一言をも苟[かりそめ|おろそか]にせず、誠情謹恪にして、君臣の非を格す、故に君亦能く己を虚しうして聽納す、其上疏する所數十通、事機密に係れば、盡く自ら稿を焚き、一通をも後に留めず、皆知るべからず、
白圭仕途に就きてより、殆んど虚歳なし、班格を進むること五、官を攝する[せっする|兼務・代理]こと十五、祿位を増すこと一、落職すること一、火災に罹ること三、京師に遷ること一、篠山に移ること三、江戸に徙ること三、東西南北、寧居に遑あらず、然れども生計を問はず、事を家人に委ぬ、是を以て家屡〃空しく、祿は費すに足らず、常に稱貸[しょうたい|利子を払って金を借りる。]して之を給す、
白圭身に奉ずるの具、一の長物もなし、常に寄寓の人の如し、顯任に居ると雖も、豐華を好まず、儉素なり、其性清潔にして、自ら家人子弟の薫陶自ら化するを喜び、更に險■(言偏+皮:::大漢和)欺誕の言なし、
白圭篠山に在りし時、朱子の家禮に依りて、新に祠堂を制す、是より以降、遷移一ならずと雖も、輙ち亦必ず之を造營す、先を報ずるの禮、務めて力の及ぶ所を盡す、父母平時甘旨する所を念ひ、以て供祀す、家甚だ貧しと雖も、其忌辰に至れば、未だ嘗て一日も酒食を奉ぜずんばあらず、
寶暦三年癸酉五月十二日歿す、歳七十二、麻布廣尾の天眞寺に葬る、著す所、中庸管見一卷・正言六卷・三勇傳三卷・史材乾坤小説經世五論觀瀾小記各一卷・君道撮要岐■(山偏+且:::大漢和)紀行各二卷・窗下草五卷・白圭集十五卷あり、


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松崎觀海
名は惟時、字は君修、觀海と號す、通稱は才藏、丹波の人なり、龜山侯に仕ふ

觀海は白圭の子なり、享保十年乙巳五月四日を以て、篠山城下の邸舍に生る、母は富永氏、其家を治むるに禮を以てす、巫覡符章は門内に入れず、好んで經史を讀み、善く和歌を詠ず、時々夫白圭の鈔寫を助け、殆んど數十帙を成す、嘗て明人堵胤昌達生録を讀み、自ら胎教の法を試む、既にして觀海を生む、顧みて族人に謂つて曰く、古人胎教を説く果して誣[ふ|偽り]ならずと、觀海を撫育して、慈惠尤も至る、其嬉戯に至るに及びて、婢奴に告げて曰く、造言して以て之を罔することなかれ、謂ふこゝろは、若し兒走りて僵仆し、面を撲ち體を傷けば、必ず其實を告ぐべし、託して牀案柱礎の故と曰ふは、是れ兒を教ふるに、詐欺を以てするの初なり、費を惜みて物を易ふなかれ、兒の欲する所は、先づ之を與へよ、食物玩具は、價の高卑を論ぜざれ、託して或は盛に鬼神道佛・魑魅罔兩の怪を稱し、以て之を嚇怖し、兒の欲する所を禁止せば、是れ兒に教ふるに、■(言偏+匡:::大漢和)騙を以てするの初なり、放言して以て之に驕ることなかれ、若し人を罵貲誹謗するがごときは、もと色慾財利・自譽誇慢の意より出づ、或は淫聲俚曲を唱へ、鄙猥褻雜を謠ひ、兒をして慣れ聞かしむるは、是れ兒に教ふるに放縦を以てするの初なり、此三つは其害酖毒よりも甚し、愼みて爲すことなかれと、觀海燥髪より聞見する所、事として禮儀ならざるはなし、内訓の功、最も多きに居ると云ふ、
觀海八歳の時、白圭に從ひて郊外にゆく、蛇に逢ひて、畏怖の色あり、白圭曰く、蛇毒は口舌に在り、首を蹈めば、人を螫すこと能はず、以て之を畏怖するに足らず、兒試に能く之を殺せと、履を脱し、跣にして之を蹈ましむ、觀海唯々として艱ずるの容無し、忽ち蹈んで之を殺す、白圭の嚴訓以て想ふべし、
觀海童齔の時に、近鄰失火す、怖れて曰く、逃げんと、白圭曰く、吾れ幼にして、亦逃ぐと言ふ、一老人あり、丈夫の語、まさに火を避くると曰ふべし、火を逃ぐると曰ふべからずと、吾れ容を改めて之を謝す、爾後逃亡を曰はず、富永氏亦曰く、男兒一話一言を出すも、婦女子の如くなるべからずと、
觀海十三歳にして、始めて父に從ひ、江戸に來り、贄を太宰春臺の門に執る、春臺■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社に出づと雖も、世當時第一流の人と稱す、其周旋する所、俊傑にあらざるは無し、自ら方正端嚴を以て生徒を規誨す、同社の士と雖も、服南郭平金華越雲夢板帆邱等を觀ること甚だ卑く、各〃詞藻を以て世に名ありと雖も、皆經義に精通せざるの故に、之を比肩すること能はず、觀海春臺の意を洞視し、經義を■(靡+立刀:::大漢和)切し、衆説を貫串す、其志す所は、経濟の學に在り、歳十九にして六術を著す、一に曰く、下情に達す、二に曰く、貨財を通ず、三に曰く、穀價を平にす、四に曰く、穀を貴ぶを教ふ、五に曰く、風俗を變ず、六に曰く、服章を改む、春臺之を讀み、嘆じて曰く、當今の賈生なりと、賞するに其大體を識り、時務に明かなるを以てす、之を愛すること他の弟子に逾ゆ、
延享四年四月、侯命を奉じて、憲府に謁し、璽書を受く、十二月、侯官命を奉じて、紅葉山の寢廟を衞す、是れ皆火器隊長と爲り、管庫の事を總ぶ、時に歳三十二なり、
寛延戊辰、篠山侯龜山に移封す、是時に當りて、職事鞅掌、勝げて言ふべからず、侯の居邸は、雉子橋門外の小河街に在り、觀海南芝田街の邸に在り、小河街を去ること遠し、退朝の暇、猶膝下に侍し、經史を商■(手偏+寉:::大漢和)し、以て父の志を成す、煩劇を知らざる者のごとし、
觀海居れば恒に軍旅を講じ、武技を慣習し、尤も劒槍を善くす、其心を設くるや、以謂らく、古は文武岐ならず、春秋列國の卿士大夫、出でては將、入りては相なり、謂はゆる乃ち文乃ち武なる者なり、蓋し備前の熊澤伯繼(*熊澤蕃山)の論ずる所を服膺す、故に其藩政を執るに當り、施爲する所、多く此に類す、
觀海父の喪に遭ひ、哀瘠殊に甚しく、喪期既に■(門構+癸:おは:終:大漢和41430)るも、職に就くに忍びず、侯職事闕くべからざるの故を以て、勢ひ已むを得ず、情を奪ひて起復せしむ、觀海亦固く拒むを得ず、強ひて出でて事を視る、然れども素を喫し粥を哺し、酒肉を食はざること三年なり、
觀海公事に服勞するや、前後煩劇、更僕■(謦の頭/缶:::大漢和)きず、寶暦中、侯の命を奉じて、數〃桔梗門を衞す、觀海掌鑰と爲り、隊帥と爲り、番帥と爲る、朝廷其衞事を慣習して、能く其任に堪へたるを聞き、特旨ありて紗綾二卷を賜ひ、以て其數次の功を褒賞す、實に陪臣の榮なり、
觀海は身體巨偉、眉目畫けるが如し、其人と爲りや、温雅謹愼、敢て嶄危の行を爲さず、倫理に篤く、名節を重んじ、好んで人の善を稱す、故に一善あれば、斗■(竹冠/肖:::大漢和)の人と雖も、之を口にして置かず、其人と語り、或は人の問に答ふ、苟も誤謬あれば、數年を經と雖も、必ず改めて曰く、吾れ嘗て是言あり、其説未だ是ならず、後に見る所あり、其事此の如し、昔の言吾れ過てりと、眞率皆これに類す、
觀海少より多病、常に藥餌を事とす、然れども其素餐を愧づるを以て、勉強して服勤し、未だ嘗て旬日も病と稱して、職掌を廢せざること三十年なり、亦人の難しとする所なり、
觀海春臺を崇信し、其説を服膺すと雖も、敢て師説を主とせず、故に持論とする所、公正平穩にして、春臺の己の自得する所を以て、人を律格するの刻薄なるに似ず、寛裕にして餘りあり、故に追慕する者、身後に至るまで、猶自ら多し、
觀海志を詩律に留む、春臺の詞藻に於ける、未だ之を盡さずと爲し、雌黄を高蘭亭(*高野蘭亭)に乞ふ、蘭亭失明の後、徂徠の言を奉じて、歌詩を研精す、歌詩の聲は、南郭の上に在り、遂に蘭亭の社に於て、五子の名あり、五子は觀海及び谷藍水〔詳に後編に見ゆ〕(*横谷玄甫)・藤山懷月〔名は惟熊、字は子祥、初め僧と爲り名は禪軾、字は輙外と曰ひ、白石と號す、相模の人なり、〕・竹鳴鳳〔名は正辰、字は子徳、竹川氏、江戸の人なり、〕・近藤西涯〔名は篤、字は士業、備前の人なり、〕を謂ふ、就中觀海は之が魁たり、
井金峨(*井上金峨)の匡正録に云く、學問の道は、同好にして否なる者あり、異趣にして佳なる者あり、世人阿黨して、唯其己に同じき者を稱し、己に同じからざる者は、沒して之を説かず、甚だしきは、彼れ我を譽む、我れ惡んぞ亦彼を稱せざらんや、彼れ我を毀る、我れ亦惡んぞ彼を議せざらんと曰ふに至る、是風一と度蕩いて、浮薄日に成る、市井亡頼の目を瞋らし臂を攘ひ、喜んで人を罵■(此+言:し:謗る:大漢和35344)するが如し、士たる者、宜しく之を愧づべきのみ、龜山の松崎君脩、流俗の表に獨立して、同異を胸中に挾まず、以て難しと爲すべし、古へ云く、好んで其惡を知り、惡んで其美を知る者は、天下に鮮しと、豈に然らざらんやと、今按ずるに、金峨の此言は、當時に在りて、觀海の人と爲りを稱揚す、實に比黨を爲す者にあらず、
觀海弱冠にして、父の蔭を以て、武騎に補せられ、行人謁者・贄御長兼伴讀・世子傅・火器隊長・藩參政等の諸職に歴任して、班は藩の執政に比す、安永四年丁未の夏、咯血を病む、侯將に藩に就かんとし、内命あり、觀海疾を力めて侯に朝す、時に七月十六日なり、侯親しく面命して、爵を藩の執政に進め、其食祿を優にし、之を撫養せしむ、蓋し異數なり、恩を謝し家に歸る、其夕病大に起り、疲弊殊に甚し、竟に十二月廿三日を以て歿す、歳五十一、先塋の側に葬る、松浦氏を娶り、男國望を生む、國望祿を襲ふ、
觀海病革まるに至り、子弟に遺屬して、後事を謀る、一言の家事に渉るに及ばず、其指揮處分する所は、皆侯家の要務なり、一藩の士、皆其誠懇を感ずと云ふ、
觀海早に仕途に登り、教授を以て專と爲さずと雖も、門下多く名流を出す、菊地衡岳〔名は禎、字は叔成、紀伊の人なり、〕・金谷玉川〔名は英、字は世雄、江戸の人なり、〕・内田南山〔名は士顯、字は長卿、龜山の人なり、〕・熊坂台洲〔名は邦、字は子彦、陸奧の人なり、〕・太田南畝〔名は覃、字は子耜、江戸の人なり、〕・蒲阪修文〔名は圓(*原文一字欠)、字は行方、江戸の人なり、(*原文「行方、江戸人」欠字)〕の如き、是なり、頃ろ南畝文集を讀むに、先師觀海先生を祭る文を載せて云く、維れ安永九年庚子冬十二月廿三日、門人太田覃、謹みて清酌庶羞を以て、故龜山太夫觀海松崎先生の靈を祭る、梁木一たび壞れて泰山を見ず、觀海一たび涸れて、黄泉に歸らず、昔は函丈に侍し、今は蒼天を仰ぐ、俯して之を思ふ、茲に六年、既に廬家に慙ぢ、又逝川を歎く、この行潦を酌み、庶羞筵に在り、尚くは饗けよと、按ずるに、正徳・享保より天明・寛政まで、蓋し八九年、諸家の文章中に、其師及び朋友を祭る文、比々としてあり、今時の人、獨り遊記議論の文多くして、是等の事極めて少し、當時師弟淳樸の風習、以て見るべし、


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服部梅圃
名は行命、梅圃と號す、通稱は與右衞門、播磨の人なり、飯野侯に仕ふ、

梅圃は播の加東郡穂積の人なり、父を道存と曰ひ、母は前川氏なり、道存始めて攝の豐浦郡濱村に徙る、斯地は飯野侯の別邑なり、道存擢でられて邑宰となり、頗る嘉績あり、梅圃職を襲ひ、後累遷して郡宰に至り、之に服勤すること四十年なり、清白の聲、鄰國に著ると云ふ、
梅圃、性敦厚にして公正、動止を苟もせず、直方以て家を御し、節儉以て躬を檢す、職を奉じ理に循ひ、常に經術を以て吏務を修飾す、餽遺苞苴、一も受くる所なし、壁間常に「百術は一廉に如かず」の語を掲げ、以て自ら警戒す、
梅圃は民を治むるに長ず、其治績稱して攝の最も第一と爲す、河内・和泉の壤を接するの地、比邑の稷官、往々視て之に傚ふ者あるに至る、
梅圃少くして平安に遊び、業を三宅尚齋に受け、好んで洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)諸家の書を讀む、其學は踐履を主とし、文詞を喜ばず、其趣く所、大に夫の藻繪自ら喜び、浮華自ら衒ふの輩に異なり、故に甚だ文苑儒林の中に顯著せずと雖も、之を學びて優なれば仕へ、仕へて優なれば學ぶの意に得たり、濱村の地、今に至るまで、猶其區畫創剏する所の規律を存し、之を沿用す、
寶暦五年乙亥十一月十二日歿す、歳七十、邑の北岸觀音寺先塋の側に葬る、私に諡して篤叟先生と曰ふ、歿するの日、庶民衆吏、痛惜して復た得難きの人と爲し、追慕して已まず、皆謂ふ、斯人世を捐て、公私共に不幸なりと、蓋し其學術操行、倫を超え群を出づるの人にあらずんば、何ぞ能く此の如くに至らん、
梅圃は上月氏を娶り、四男を生む、伯・仲皆夭す、叔信命祿を襲ふ、季保命、蔭仕して江戸に在り、後に仕を辭し、教授を以て業と爲す、世の謂はゆる麹溪書院栗齋先生是なり、


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服部栗齋
名は保命、字は佑甫、栗齋と號す、通稱は善藏、攝津の人なり、

栗齋は梅圃の季子なり、蚤に父蔭を以て中扈從に補す、別に俸を受けて江戸の邸に在り、幾ばくも無く、拔擢せられて、世子に伴讀す、既にして善く病み、家居して痾を養ふ、是時に當り、村士玉水竊に其器を識り、爲めに舍宅を營みて、之に居らしむ、後玉水將に歿せんとするに及び、遺言して其講堂圖書及び凡百の器財を以て、皆之に附與し、以て其門人を育ふ、是に於て、玉水に代りて、其徒に教授す、都下の士、其學に志ある者は、悉く從ひてこれに學ぶ、
栗齋幼にして穎悟、志を學に鋭うす、年甫めて十四五、井蘭洲(*五井蘭洲)に大坂に從ひ、又中井竹山・弟履軒と友とし善し、長ずるに及びて、交る所、久米訂齋石王黄裳稻葉迂齋及び玉水、皆一時の名士にして、此道を講究し、切瑳せざるはなし、老に至りて息まず、嘗て謂ふ、近時の儒家は、闇齋翁を以て第一等の人と爲す、獨り惜む、其學術授受は、一傳二傳にして、其徒道を求むること太だ急に、工夫多端にして、文理を察せず、詞藻に渉らず、其末流の弊は、遂に文を捨て、理を説く者あるに至る、此れ吾黨の大患にして、宜しく深省すべき所なりと、平生の人と爲りに似ず、持論最も平穩なり、
安永・天明の間、江戸に山崎氏を崇奉する者は、菫々として晨星のごとし、間〃其遺訓を守る者ありと雖も、多くは學殖に乏しく、文詞に肆はず、蓋し佐藤直方淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋三宅尚齋の徒、相尋いで泉下に歸せしより、授受屡〃變り傳統一ならず、流分れ派別れて、小異同なきこと能はず、栗齋家庭に學ぶと雖も、講究年あり、且つ玉水の門より出づるを以て、之に信服する者、亦極めて多し、玉水業を山宮雪樓に受く、雪樓は尚齋の高足の弟子なり、故に其學に私淑する者、其授受の正統を以て、推奉仰戴、至らざる所なし、尾張侯嘗て其名を聞き、招延して經義を講ずるを聽く、禮遇最も厚く、十口糧を優賜す、其他列侯貴紳、弟子の禮を執り、從學する者數人なり、
栗齋經を講ずる、必ず先づ文義に據りて、以て義理を斷ず、其因循の舊陋を改正する者、亦尠からず、學術朱子を主とすと雖も、甚だ一家に拘々たらず、嘗て易の本義を講じ、門人に謂つて曰く、易道は廣大にして、世三古を經、人三聖に至る、實に一人の能く盡す所にあらず、若し一家の定説を堅守せば、未だ之を得ると爲さず、朱子の程子を尊ぶや至れり、然れども其自説たる、亦已に大に異なれり、我道に從事する者、まさに自ら之を知るべしと、世の山崎氏の學徒と稱するものは、多く此に異なり、皆偏習の弊を免れず、栗齋の爲す所のごときは、實に能く山崎氏を學ぶ者と謂ふべきなり、
栗齋の子弟を誨ふる、邇きより遠きに至り、巨細遺さず、其自得する所は、太極圖説・通書にあり、嘗て謂へらく、性理の淵源する所は、全く此二書に在りと、故に二書に於て、諄々疏解し、最も其力を極め、盡く精微を致す、
栗齋博く群書に渉り、旁ら詩文を善くす、世の謂はゆる道學者流と異なり、其韻度高雅、皆以て之を傳稱するに足る、蓋し天資の明敏、傍人の餘論を假らず、識見の高きは、時流に過絶す、當時道學と稱する諸儒、企て及ぶべからず、余今時自ら性理學と稱する者を見るに、多くは是れ寡單陋習、帖々自ら喜ぶ、豈に之を慙愧せざらんや、
栗齋喜怒色に見はさず、簡易にして要を得、其弟子に於ては、誘進多方、其業の成るを樂む、常に貧困資なき者を見れば、躬自ら衣食を節縮し、傾■(目偏+來:::大漢和)して之を贊く、頼つて以て業を立て生を得る者、前後亦少からず、
寛政の初、白河侯定信、其學術の醇正を聞き、官に告げて、宅地を麹街の善國寺谷に賜ふ、栗齋之に移居し、痒舍を設け、員生を置き、自ら教授を掌る、又平川市■(廛+邑:::大漢和)の地租を以て、膏火の費用に資給す、號して麹溪書院と曰ふ、列侯貴人質を執り教を請ひ、遠方より來り學ぶ者頗る衆し、最後に命じて、世〃院教を掌らしむ、蓋し異數なり、
栗齋平生居る所の一室は、短几小硯の外、餘は長物無く、奇册珍卷、架上に盈滿す、尤も書籍を重んじ、未だ嘗て之を狼藉せず、卷帙を整齊し、苟も披展せず、凡百の玩戲、一も嗜む所無し、たヾ佳辰良日暇あれば、乃ち酒を携へて出でて遊び、近郊を散歩す、
栗齋威儀に嫺ひ、進退度あり、又時務に通曉し、人情を洞視す、其論議する所は、皆施行に當れり、而して未だ深く其器宇を識る者に遇はず、徒に理學を以て稱譽せらる、遂に一時の用を爲し、其才幹を展ぶること能はず、洵に是れ惜むべきのみ、
栗齋曰く、近世の人材、俊秀はあれども、剛大なる者なし、温厚はあれども、強直なる者なし、之を要するに、皆宰輔に經世の宏器無く、教督に人を薫するの懿徳なきに因るなり、夫れ令を施し治を効すの政は、其意ふ所、舊例の條約に過ぎず、書を讀み道を講ずるの術は、其志す所、陳腐の空論に過ぎず、兩者皆活溌の機無し、甚だ以て愍むべしと、
寛政十二年庚申五月十一日、病を以て歿す、歳六十五、麻布里の善福寺に葬る、配大橋氏子なく、庶出二子あり、曰く順二、曰く彌三、皆早く夭す、平生著述を好まず、洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の學術を發揮し、山崎氏の遺書に精通するを以て、專主と爲す、
頼春水師友志に云く、服部保命、字は右甫(*佑甫)、栗齋と號し、善藏と稱す、攝洲小曾根の人なり、江戸の築地に在り、帷を下して教授す、洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)諸書の道理を講説し、爛熟して條理あり、其學これを稻葉迂齋に受け、且つ村士某と善し、皆山崎門の學裔なり、人と爲り夷曠にして、懇々言談す、一時儒宗と稱す、人或は其過高を議す、後に地を麹町に賜はり、學舍を開き、初て扁して信古堂と曰ふ、村士某の學舍の名を襲へるなり、最後に麹溪書院と改む、其郷里小曾根は、保科侯の采邑なり、其父兄皆之が宰と爲る、右甫初め又一職を受け、江戸の邸に在り、其學江戸に成る、初大坂の懷徳書院に寓す、故に善く五井蘭洲中井甃庵の事をいふ、竹山兄弟は垂髫の友なり、六十六にして歿すと、
柴碧海枕上■(肉月+巻頭/貝:::大漢和)言に云く、文章の道は、必ずしも其賈董斑馬、韓柳歐蘇の巧妙を爲すを求むるにあらず、要するに、能く文理を解して、紕繆せざるのみ、先君子嘗て崎門の徒、詞藻を輕視して、其技を攻めず、往々文理に■(立心偏+夢の頭/目:::大漢和)然たるを病む、故に子弟をして力を此に專らにせしむ、抑〃亦故あり、崎門の徒、經術見るべく、講説聞くべしと雖も、寡陋を免れざるは、皆之が爲めの故なり、近時西依成齋服栗齋の二子は、能く自ら之を譏る、其言に曰く、釋義は賤役なれども、幸人に應對せんと欲せば、之を修めざるを得ず、詞藝は小技なれども、經旨に精熟せんと欲せば、之を攻めざるを得ず、釋義・詞藝は皆我儒者の一端なりと、此言これを得たりと、碧海余が爲めに、諳記する所の、栗齋の五絶一首を誦して曰く、

處世も亦如何せん、愁は自ら草よりも多し、荒荊又蕪榛、一艾君を待ちて掃ふ(*處世亦如何、愁自多於草、荒荊又蕪榛、一艾待君掃)〔此詩もと三首、栗山、栗齋を訪ふ日、賦して贈る所なり、其餘の二首は今之を忘ると、世未だ栗齋の詩を知らず、故に記す〕


先哲叢談續編卷之七


木下蘭皐  寺田臨川  松崎白圭  松崎觀海  服部梅圃  服部栗齋

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