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 松浦霞沼  土肥黙翁  土肥霞洲  田中邱愚  陶山鈍翁  向井滄洲  松崎蘭谷

先哲叢談續編卷之五

                          信濃 東條耕 子藏著
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松浦霞沼
名は儀、字は禎卿、霞沼と號す、通稱は儀右衞門、播磨の人なり、對馬侯に仕ふ、

霞沼の父を彌五左衞門と曰ふ、舊と越後侯〔從三位中將光長卿〕に仕ふ、侯命に依て其支藩姫路侯〔從四位下松平大和守直短〕に附屬す、故あつて致仕し、江戸に至る、霞沼をして木下順庵に從學せしむ、時に小三郎と稱すと云ふ、
霞沼、歳十三にして西健甫〔既に後編に見ゆ〕に從つて對馬侯に謁す、侯一見して以て奇童と爲す、學資を賜與し、益〃心を經史に專にし、誦讀に從事せしむ、是より孜々として怠らず、未だ弱冠に至らずして、文筆の名、宿儒碩學の間に著稱せらる、
霞沼、詩稿を案上に置く、南部艸壽偶〃來り見、吟誦して已まず、既にして其自作たるを聞き、大に驚きて曰く、吾唐人の詩を抄寫すと謂(おも)へりと、時に歳十四なり、
霞沼、天資穎敏、文學性にして知、師訓を煩さず、日に翰墨を弄す、博渉宏獵、甚だ經思せずして成る、尤も詞藻に長ず、紀伊の祇南海(*祇園南海)と同甲子なり、同門の士、推して二妙と稱す、
南海、嘗て評して曰く、霞沼少壯の作、太だ盛唐に邇(せま)る、但恐くは字句の雷同、唐人の二王帖を臨■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)するに譬ふ、晩年韓人と應對し、自ら氣格の流れて彼の調に入るを覺らずと、〔按ずるに、南海鍾秀集、霞沼の古今體詩四十餘首を載す、中に白玉の寄懷を次韻し、却て古詩に呈するの詩あり、其高華誦すべし、〕
元禄壬寅歳二十七にして、雨芳洲(*雨森芳洲)の薦に因て、對馬侯に筮仕す、居宅を下谷の邸中に賜ふ、居ること四年にして對馬に移る、正徳辛卯、韓使來聘の時に及び、芳洲と同じく書記を掌る、文章の聲、海外に馳す、彼の製述官李東郭稱して謂はく、隣交起りてより以降、未だ曾て有らざる所の人なりと、
霞沼、人と爲り雄俊疎達、平生矜飾して世に■(火偏+玄:::大漢和18948)耀するを欲せず、能く其長ずる所を長として隱さず、曰く、華音の辭令を學ばんと欲せば、芳洲に往け、經義文章を學ばんと欲する者は我が許に來れ、人各〃自ら得て長ずる所あり、必ず強ひて之を爲さずと、
霞沼、歳不惑を踰え、志を善隣に專にす、嘗て侯の命を奉じて通交大記五十卷を撰ぶ、享保己亥、韓使來聘の時に至つて、侯之を大府に獻ず、特旨銀錠十枚を賞賜す、執政篠山侯信庸〔松平紀伊守〕命を傳へて曰く、交隣の事あつてより、徴實剴切、未だ嘗て此の如き事あらず、宜しく既廩を優にし、資給を豐にし、以て之をして其任に從事せしむべしと、侯是に於て擢んでて、原任儒學教授兼掌書記用人格と爲す、是より屡〃釜山浦に祇役すと云ふ、
享保中、對馬侯官命を奉じて、人參一萬斤を朝鮮に貿買す、霞沼、以酊に在て、佳惡を監督し、其輸致する所を按ず、蓋し鮮參迩年價高く、漸く以て贋僞を雜置するを致す、若し明晰して之を辨覈する能はざれば、啻に巨萬を費して欺詐を受くるのみならず、之を病者に施し、害を貽すこと少からず、彼獨り産參の諸國に勝るを以て、■(門構+困:こん:門の閾・宮中の小門:大漢和41329)外に誇驕す、然りと雖も生熟常ならず、豐歉時あり、寒暄定まらず、乾濕變あり、外に富饒を示し、内實に贍らず、毎に自ら其蕃殖茂熟せざるに苦しむ、故に奸黠の徒、最も巧に利を射、形状の參に似るの物を以て、能く之を僞造し、言を土に在るの淺深、山を出づるの早晩、乾■(火偏+共:::大漢和19012)の收拾、形色の厚薄なるに託して、種々の名目を立て、品類を衆多にし、彼の鑒定に精しき者と雖も、往々之が爲に欺詐せられ、贋僞を以て售を求め、動もすれば輒ち■(間+見:::大漢和34959)せられ、反つて罪戻に入るを恐る、緻密■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)固にして、辨識を難しと爲す、故に誣を受けざる者鮮し、霞沼一見、乃ち謂ふ、上品に非ざれば、固より以て我用に充つるに足らず、我既に情を以て告ぐ、若し請ふ所を得ざれば、其斤量を半にして可なり、而して已に之を許す、今輒ち致す所は、畢く是れ中の下品のみ、僅に數斤を鑒し、業已に此の如し、豈に近似だもせず、信約なからんやと、彼の士怫然として色を作して曰く、弊邦■(彳+扁:へん・べん:遍く行き渡る・巡る・偏る:大漢和10174)小と雖も、敢て■(鹿三つ:そ:離れる・粗い・大きい:大漢和47714)物を以て高價に易へず、意ふに牙■(人偏+會:::大漢和1189)の徒、粉飾裝成、主司を■(言偏+匡:きょう・ごう:偽言・欺く:大漢和35473)賺し、此に至る所以なり、俺輩預め認知せず、則ち禮曹宰臣、豈に能く此に關係せんや、請ふ須く貨に憑て上・中・下を品題し、以て之を貿買すべしと、霞沼又數十斤を見る、悉く佳品ならず、彼の士多方回護して巧に遁辭を作る、只曰く、豈に敢て言疑似に渉らんと、頗る慙愧の色あり、霞沼斷然として曰く、貴國産物を貿易し、有無互に資くるは今に始まらず、素と以て貲を求め、財を貪るが爲ならず、而して一々檢覈して之を審治せば、人を窮るに似たり、數千斤封署猶全し、今悉く之を却け、再び我用に充る者を撰べよと、彼の士騎虎の勢に因り、退くべからざるを知り、憤然として曰く、萬斤既に些も用に充てず、用に充てざれば則ち人命に係る、人命至重なり、豈に耗羨折利を以て之を論ぜんや、霞沼曰く、然らば則ち用捨損益處置する所あり、僕等の揣度を待たず、必ず薄故なきを確保せよと、彼れ畏縮して一言を發せず、稽核憶量して、其國體を損せんことを恐る、之を久しうして曰く、公等情を遣れ、俺れ一■(阜偏+是:::大漢和41740)調の區畫する所ありとて、薪木を請うて之を庭に積み、參萬斤を烈火の中に投じて、暫時に之を燒く、聞く者之を快とす、
語に云く、天壤の間、未だ鄰を善くして存せず、鄰を善くせずして亡びざる者あらずと、東西相竝ぶ、何ぞ睚眦して永圖を相保つことを得んや、宗氏の對馬島を據有するや、既に久し、其朝鮮に於けるや、一葦相航し、利澤互に關し、未だ曾て背憎違■(之繞+午:::大漢和38759)することあらず、豐臣氏、強梁にして武を黷すに及び、一國の群靈靡爛して殆んど盡く、慶長丁未に至り、申■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)初て成る、乃ち復た周旋す、我爽ふことなからんの盟を修むれば、彼共に天を戴かざるの讎を解き、蠢爾の民、永く其賜を受く、善鄰の政偉なりと謂ふべし、故を以て宗氏藩鎭を襲封し、世〃西陲の管鑰を掌る、歳時の聘問、行李往來、慶弔其好を修め、貿易其利を通ずること、此に二百有餘年、境城以て安し、寛永中、監舍を釜山浦の地に置き、以酊庵と曰ふ、五山の禪侶をして此に祇役せしめ、三年にして交替し、通信文翰の事を考檢す、霞沼、此に往來すること數次、正徳中、新井白石志を時に得、建議して通信の舊格を變革する者多し、然りと雖も得失相半し、人或は之を便とせず、享保中、復た舊格に依りて新法を用ひず、霞沼、芳洲と相議し、必ず偏倚せず、新舊を折衷し、其當る所を取て其典禮を贊成す、今に至り循用して變ぜず、皆霞沼の參謀預畫する所に依ると云ふ、
芳洲、霞沼より長ずること八歳なり、後進を以て之を遇せず、情交最も密なり、嘗て謂ふ、我輩桑梓を離れ、都下に遊學し、又彈丸黒痣の地、萬里■(瓊の旁:::大漢和71416)絶の域に羈宦し、弟と休戚を同じくせずんば、則ち與に語るべき者なしと、霞沼、之に依頼するの厚き、四十年一日の如く、終始變ぜず、其知命の歳に及びて嗣子なし、請うて芳洲の第二子、名は權允、字は文平を養ひて襲禄す、權允、通稱は贊次郎、頗る學術あり、其裘を墜さず、
芳洲が橘窗茶話に云く、霞沼余と同じく雉塾木順庵(*木下順庵)家塾の名〕に寓す、我より少きこと八歳なり、最も成翠虚が富士山を賦する、空に浮ぶ積翠煙鬟を開く(*浮空積翠開煙鬟)の句を喜び、吟賞して已まず、一日我に問ふ、杜詩中、何者か最も意に可なる、我答ふるに、萬里蒼茫の水、龍蛇只だ自ら深し(*萬里蒼茫水、龍蛇只自深)を以てす、時に霞沼年十四五、余今已に六十歳に近からんとす、之を追想すれば、稟天の資る所、敏鈍■(之繞+向:けい:遠い・遙か〈「迥」の俗字〉:大漢和38868)に別るゝこと此の如し、
對馬の地、元禄中より、今に百五六十年、其士大夫、學術を語れば、則ち必ず芳洲・霞沼を曰ふ、嘉言懿行、以て一國を師表するに足り、議論勸戒、以て四民を榮辱するに足る、敢へて之を優劣する者なし、
霞沼、嘗て芳洲に謂て曰く、吾兄と生きては則ち其師受を同じうし、其出處を同じうし、其志趣を同じくす、死せば則ち當に其墓地を同じうし、其傳記を同じくすべしと、其情境の眞、以て想像すべし、余向に對馬の醫員上田玄龍といふ者と交歡し、霞沼の事實を問ふ、玄龍役畢り、國に歸るの後、遠く霞沼の遺事一卷を寄せ來る、是に依て其の■(既/木:::大漢和15363、58223)を知ることを得たり、又雨森勘兵衞といふ者あり、舊と役して都邸に在り、此人は芳洲の玄孫なり、余が爲に屡〃高祖の遺事、及び霞沼の官途に功績あるを語る、其話説は之を文苑雜志に載す、故に此に贅せず、
霞沼の著述、通交大記の外、君命に依り宗氏家譜卅二卷を作る、又新井白石殊號事略を辨駁し、殊號辨正二卷・殊號事略正誤一卷を作る、其餘善鄰原始録三卷・通志彙編十卷・霞沼寓筆若干卷、皆家に傳ふ、
享保十三年戊申九月朔日歿す、歳五十三なり、其病革まるに至り、子弟に命じて、其作る所の詩文數卷を燒燼す、故に片言隻辭の世に遺す者なし、其意謂へらく、近時浮華の風習、詩文を刻行し、世人に誇示す、深く厭惡すべしとて、之を懲芥す、其言激饑詭に似たりと雖も、絶俗の見、以てその人と爲りを想ふべし、〔按ずるに、霞沼の詩文、世に傳はる者尠からず、白石停雲集南海鍾秀集、京師の書肆瀬尾維賢の校刻する所にして、正徳辛卯、韓館唱酬等の諸書、畢く之を載す、好事の人就て見るべし、〕


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土肥默翁
名は政平、字亦政平、默翁と號す、一に自觀居士と號す、通稱は左仲、越後の人なり、

默翁、其先は世〃相模の人なり、北條氏此に割據し、近壤を鞭撻するに及び、遁れて越中に入り、竟に新川城に據有す、天正中、兵敗れて地を失ひ、擧族播遷して、多く三越に在り、父良繁、始めて越前侯に仕ふ、默翁、糸魚川に生れ、長じて江戸に來り、坂井漸軒に從つて學ぶ、學就りて徒に授く、又筆札を善くす、其書法を受くる者多し、
延寶中、下谷廣徳寺門前街に僑居す、三體唐詩古文眞寶文章軌範等の書を講説す、毎に其筵に上つて聽受する者數十百人、少き時と雖も五六十人に下らず、人毎に月の盡日に至り、錢二百文を以て謝儀と爲す、世の所謂賣講なる者なり、當時文學を講習し、子弟を教授する者、未だ甚だ多からざること以て覩るべし、是より後、駒籠吉祥寺門前街・芝増上寺門前街等、處々皆此事あり、其擧默翁に胚胎し、藤東野(*安藤東野)・石筑波(*石島筑波)に産出し、千葉芸閣松村梅岡〔名は延年、字は子長、多仲と號す、江戸の人なり、〕に生長し、井金峨(*井上金峨)・原狂齋等に老成す、今に至り絶えず、
默翁、夙に考妣を喪ふ、繼母に事へて甚だ謹み、四十年間侍養怠ることなし、鄰人未だ之を知らず、認めて以て眞と爲す、常に孝行先生と稱し、敢て名はず、
默翁、性温厚なりと雖も、好みて古今の興廢を論じ、暗に時政の得失を諷す、蓋し貞享中、朝野褒貶多し、人民擧錯に安堵せず、輿論囂々たり、故に仕進の意なし、
一貴紳禄仕を勸むる者あり、之を肯んぜず、嘗て言ふ、鸚鵡の金籠綵牢を愛せずして、隴山を愛する者は、其體を桎せばなり、鷽鳩の荒榛野草に死せずして、稻梁に死する者は、其性に違へばなり、物類猶ほ能く自適するを知る、焉んぞ人を以て衣冠に桎梏し、禄餌に豢養すべけんやと、
享保十一年丙午四月廿九日歿す、歳六十七なり、城西の市谷長延寺に葬る、著する所、須留毛餘志一卷・美奴餘濃登毛二卷・狎草三卷あり、


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土肥霞洲
名は元成、字は允仲、霞洲と號し、又新川と號す、通稱は源四郎、江戸の人なり、幕府に給仕す、

霞洲は默翁の子なり、生れて蚤慧、其僅に言ふに及びて、口授句讀、即ち能く誦を成す、六歳書を善くし詩を賦す、水府義公、嘗て之を聞き、召見し稱して神童と爲す、
霞洲、新井白石の門に學び、講習既に久し、學術操行、唯能く髣髴たるのみならず、其行草に於ける、筆意氣韻、甚だ眞に迫る、常代の書少からず、既に當時に在りて、人之を辨識する能はず、
文昭公、甲府に在る時、嘗て召し見て論語・中庸の數章を講ぜしめて之を聽く、辨説最明なり、又字を書かしむ、席上筆を走らし、其賦する所の詩を大書す、筆勢遒勁、老成の如く然り、傍人擧な之を嗟賞す、時に元禄癸未八月、歳十一なり、遂に童子を以て甲府の侍讀を爲す、俸十人糧を賜ふ、後公入つて大統を繼ぐに及びて、二百石を加賜し儒員となす、
正徳辛卯、韓使來聘す、命じて儒曹に下し、筆語應酬せしむ、是の時に當りて、新井白石旨を奉じて儀注を改定し、多く舊格を變ず、而して其選に入る者、木菊潭(*木下菊潭)・高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)三宅觀瀾室直清(*室鳩巣)・服寛齋(*服部觀齋)等の五名、皆儒員なり、祇南海(*祇園南海)、宗室紀府の文學たるを以て焉に加ふ、霞洲時に十九歳にして、白石の推敲を以て又焉に加へ、合せて七名と爲し、韓使に應接せしむ、霞洲、通信從事李邦彦が、大阪城の五十韻を和せり、其詩人口に膾炙す、聘問ありてより、妙齢の唱和する者、律絶に過ぎず、是を以て聲價一時に著聞す、其詩載せて正徳七家韓館唱和集に在り、〔按ずるに、此七人皆白石の薦擧に係る者なり、蓋し當時の儒員惟此七人のみならず、坊間刻する所の正徳■(奚+隹:::大漢和42124)林唱和集林大學頭信篤同七三郎信允同百助信智同又右衞門信如人見又兵衞沂同七郎左衞門洗同帶刀行察莊藤左右衞門良資和田傳藏長房安見文平宗恒深尾權左衞門南直同權十郎南謙桂山三郎左衞門義樹徳力十之丞良顯秋山正藏正房津田武左衞門玄存佐々木萬一郎玄龍等十七名を載す、人見以下、皆林家の門人に係る、固より白石の徒に入らず、白石、文學を以て登用して勢位に居ると雖も、天資執拗、虚心人を御すること能はず、其好む所に私す、桂山義樹、文章ありと雖も、其林門に出づるを以て、之を排擯して容れず、正徳七家唱和集の如き、全く其好む所を以て、其人を撰む者なり、嗚呼古より明達の人と雖も、同を褒し異を貶するの弊習を免るゝこと能はず、難いかな、〕
霞洲、服仕すること十五年、竊に時事變革多く、舊に復すべからざるを知り、病を謝して職を辭し、出て散官に就き、後十年にして致仕し、是より逢迎を專絶し、白石の遺書を校定するを以て、終身の業と爲す、蓋し使命に從ふなり、白石の家、今に傳ふる所の諸書、多くは其淨書する所に出づと云ふ、
寶暦七年丁丑八月十四日、病んで歿す、歳六十五なり、先塋の側に葬る、著す所、新川詩集四卷・文集六卷・霞洲雜纂十卷・退省私記六卷・桑韓唱和集一卷・享元聞見志五卷あり、
霞洲の男、名は君澤、字は徳甫、鶴洲と號す、吉篁■(玉偏+敦:::大漢和に無し)(*吉田篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470))・太田錦城等と友とし善し、嘗て先人の口語を誦して云く、童齔より不惑に至るまで、隨從すること殆んど四十年、先人現に白石親炙の門人と爲る、著述成る毎に必ず校定に任じ、或は代つて手書す、多く目覩に在り、又疑を容れず、白石著述編纂、蓋し三百種二千卷あり、其淨書半ば先人の手に出づ(*と)、是に由りて之を觀れば、其信服推奉の意、至篤と謂ふべし、


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田中邱愚
名は邱愚、字は喜古、冠帶老人と號す、通稱は邱愚右衞門、後兵庫と改む、武藏の人なり、幕府に給仕す、

冠帶、本姓は窪島氏、其先は世〃相模の人なり、甲斐の武田氏に仕ふ、武田氏亡びて後、武の八王子郷に移居す、父某委它氏を娶り、寛文三年壬寅三月十五日を以て、此処に生る、幼にして奇才あり、兄祖道と、書を近鄰瀧山の大善精舍に讀む、早に神童の名あり、
冠帶、弱冠の時より、常に志を富國強兵の術に留む、嘗て謂ふ、財は聚むるに難からず、取予能く當れば、則ち國富む、方は施すに難からず、賞罰能く正しければ、則ち兵強し(*と)、
天和中、川崎の里正田中兵庫といふ者、一見して冠帶の人と爲りを愛し、且つ其遠器あるを識り、女を以て之に妻はし、請うて嗣子と爲す、遂に出でて田中氏を冒し、後義父に代つて里正と爲る、
川崎邑、舊と里正五人あり、亭長を兼ね、置驛の諸事を掌る、其職貴からずと雖も、東海一道海陸漕輸の諸件を總管し、尤も繁劇と稱す、關東郡代伊奈忠賢、特に能く冠帶の凡ならざるを知り、四人を弛免して、專ら之を冠帶一人に委任す、川崎の土壤、南神奈川に接し、北大森に連り、鹵田羨なく、該部常なく、民其諸役に供するに足らざるに苦しむ、故に廬舍を典し、妻子を鬻ぎ、猶ほ給する能はざる者あり、六郷の津、舊と大森に屬す、冠帶、建議して請うて之を川崎に屬せしむ、津に税するに、人毎に錢二文を以てす、之を用て邑中の窮窘を賑救す、而後今に至るまで闔郷其惠に頼る、
冠帶、官に請うて渡錢を税してより僅に五年許、邑中■(宀/浸:::大漢和7253)く富む、冠帶も亦自ら貨殖す、嚮に免ぜらるゝ所の四人、及び大森の里正等、其津を奪はるゝの事を以て、皆冠帶を妬忌し、竊に之を傾けんと謀りて、江戸に詣り、擅に私■(貝偏+藏:::大漢和36990)を有すと誣訴す、冠帶、敢て之を辨雪せず、甘心して呵責を受く、常に畜資を出して、孤獨を賑濟す、民之に依頼する者數百戸、幾くもなくして邑中火を失し、延燒數里、乃ち盡く儲財を傾け、災に罹る者に假貸し、敢て息を收めず、只邑中をして諸件に給仕し、官役を缺けざらしむ、訴ふる者慚愧謝解す、
正徳中、江戸に遊び、鳴錦江(*成島錦江)に憑る、初め物徂徠の門に入り、是より經史を講習して息まず、邑中の子弟を喩告し、勸むるに孝弟力田を以てす、風俗丕に變ず、詩書を誦し、禮讓を尚び、學に向ふ者、往々にして起る、皆冠帶の力なり、
都令大岡忠相、嘗て幕府に侍し、冠帶の人と爲りを言ひ、亦其著す所の治民策を上る、大に旨に■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)ふ、享保癸卯、召して農政水利の要務を問ふ、冠帶諱忌を避けず、忠告懇々、皆時情に切なり、銀十錠を賞賜し、後十口糧を賜ふ、荒川の水を治めしむ、日ならずして畢る、又酒匂川を濬はしむ、殊効あり、初建議して■(阜偏+是:::大漢和41740)防を此に修築せんと欲す、衆民をして一畚の土石を以て、■(土偏+冉:::大漢和に無し)所に運輸せしむ、老幼男女を問はず、人毎に錢十文を與ふ、時星夕に屬す、土俗夜毎に燭を點じて戲遊す、之を盆躍と謂ふ、又邑中の兒婦をして、新築の上に鼓舞せしむ、徒役を勞せず、未だ百日に至らずして、修築全く成る、
酒匂川は武相の間、百川を會同し、霖雨旬に渉れば、■(阜偏+是:::大漢和41740)防墮壤し、洪流滔々として瀰漫すること數十百里、稱して治め難しと爲す、享保甲辰、冠帶をして之を治めしめしより、丙午に至り功成り、永く其患を絶つ、嚴流瀬(かるせ)■(阜偏+是:::大漢和41740)改めて文命東■(阜偏+是:::大漢和41740)と曰ひ、大口■(阜偏+是:::大漢和41740)改めて文命西■(阜偏+是:::大漢和41740)と曰ふ、大禹の祠を此に建て、又二碑を樹てゝ、其始末を記す、文命東■(阜偏+是:::大漢和41740)の碑に云く、相の酒匂川は、百川を會同し、東海に入る、富士・箱根其南に鎭し、大岳舟山其北に連なる、實に關中の襟帶、海東の咽喉なり、寶暦己亥の冬、富士山東南の隅、土中火を發し、砂礫數百里に飛ぶ、蓋し硫黄の氣の釀す所なり、其災傷の及ぶ所、關東八州の地、青草を見ざる者數百里、深き者は驤丈、淺き者は盈尺、武相の間、焦土最も甚だし、酒匂川遂に壅く、其後比年大水、■(阜偏+是:::大漢和41740)防悉く決す、故を以て居民流亡する者、此に二十年、朝廷方に水を治むる者を求め、以て生民の爲に利を興し害を除かんと欲す、享保丙午春二月、臣邱愚命を欽み、來つて此に載(こと)とす、乃ち大に徒役を興して以て土を搏ち、乃ち地勢に因て水を疏し、水勢に從ひて流を導き、既に平にして■(艸冠/執:::大漢和31743)すべく、人始めて著す、乃ち成功を告ぐ、然りと雖も神祐あらずんば、安んぞ永久に壞れざるを保たんや、謹んで按ずるに、昔者貞安二年、勢田判官爲兼、敕を奉じて水を治め、神禹の祠を鴨河に建つ、舊章據るべし、故に石を累ねて、神座を■(阜偏+是:::大漢和41740)上に設く、越(こゝ)に四月朔、四方の■(亡+民:::大漢和55317)庶、其擧を傳聞して、期せずして雲集し、膜拜する者已まず、其時土功未だ全く竣らず、則ち畚■(車偏+局:::大漢和に無し)を掲げ以て祭祀に擬ふ、乃ち民と約して曰く、今より肇めて歳々永久に逮び、四月朔に遇ふ毎に、爾老幼男女、神の惠を徼へ、來りて拜する者は、各〃土石を運び、以て神事と爲せよ、神其れ悦豫するや、乃ち福を下民に降さん、於(あゝ)穆として已まざれば、則水其常を失はず、地平に天成り、穀登り歳豐にして、乃ち爾の貢賦を納れ、仰いでは公役を供し、爾の父母妻孥を育し、俯しては私恩を全うし、其孝弟を修め、其鄰里を和し、詞訟興らず、盜賊屏■(揖の旁+戈:::大漢和11617)し、疾疫行はれず、災傷永く弭む者は、神の惠なり、伏して惟ふに、神、昔水を治むるや、塗山に娶る、辛壬癸甲、啓、呱々として泣けども子とせず、外に八年、三たび其門を過ぐれども入らず、股に肉なく、脛に毛なし、是れ獨り何の心ぞや、水を治め民を安んずるを以て、其心と爲すなり、故に今爾が輩土石を運んで以て■(阜偏+是:::大漢和41740)を■(宀/眞:::大漢和7257)けば、神豈に饗せざらんや、夫れ神は后土に配して、天と竝に隆なり、萬世と雖も尚ほ新なり、故に神は乃ち后土の神なり、威靈甚だ顯なり、爾が輩凡そ疾患事故あらば誠に虔んで之を固め、以て神功を賽せよ、■(阜偏+是:::大漢和41740)樹を伐ること勿れ、■(阜偏+是:::大漢和41740)土を動すこと勿れ、寧ろ一塊を履んで之を固め、以て神功を賽せよ、■(阜偏+是:::大漢和41740)樹を伐ること勿れ、■(阜偏+是:::大漢和41740)土を動すこと勿れ、寧ろ一塊を■(土偏+卑:::大漢和に無し)するも、一毛を損する勿れ、凡そ爾が輩■(阜偏+是:::大漢和41740)防を鞏むる所以を務むるは、皆神の悦ぶ所なり、神豈に粢盛を貪らんや、亦唯爾が輩の誠に在るのみと、聞く者喜びて退く、既にして事を具へて聞す、制して曰く可なりと、金百兩を賜ひて、以て其資と爲し、乃ち之を諸の■(阜偏+是:::大漢和41740)に沿へる民戸に附し、永く其事を怠らざらしめ、且つ、桃・李・梨・栗を上に栽植して、以て遵實と爲す、於戲(あゝ)、聖代民を視ること子の如し、則ち神の心は、即ち朝廷の心なり、因て其■(阜偏+是:::大漢和41740)に名くるに文名を以てし、石を勒して以て後世に詔ぐ、時に享保十一年丙午夏五月二十五日、橘縣田中邱愚、敬んで識すと、文命西■(阜偏+是:::大漢和41740)の碑に云く、故の巖流瀬■(阜偏+是:::大漢和41740)、大口■(阜偏+是:::大漢和41740)、今名を改めて文命■(阜偏+是:::大漢和41740)と曰ふ、臣邱愚欽んで命を奉じ、來りて之を修築し、肇めて神禹の祠を建て、因て以て之を名づく、事東碑に詳なり、亦金二十兩を賜ひ以て資給と爲す、其花は桃李を栽ゑ、其果は梨棗を植ゑ、以て歳時祭祀の資と爲すなり、乃ち令して曰く、百爾子弟、土を搏ち石を運び、歳に例を以て、罅漏を補ひて神に賽し、旃を勉めて怠ること勿れと、遂に石に勒し、謹んで諸を千載に告ぐ、享保十一年五月二十五日、川崎田中邱愚識す(*と)、〔此二碑は近藤正齋の鈔示する所なり、近時坊間の刻本を書肆に得しに、首に井通熈(*井上蘭台)の序を載せ、尾に江戸京橋南三町目書肆太郎左衞門板行と題す、其刻の成るは、享保十五年庚戌の夏に在り、蓋し當時の人、冠帶の擧を傳聞して、書寫する者多し、故に之を刻布するなり、〕
菅野震新案雜記に云く、武中に田中邱愚といふ者あり、相模の産なり、郷に歸り其父母を省せんとし、生魚を持して行を山林に取る、路傍に雉の羅に離(かゝ)るあり、之を偵伺すれば、之を設くる者未だ在らず、生魚を羅中に投じて、以て償と爲し、雉を奪つて去る、既にして設くる者至り、之を覩て■(艸冠/遽:::大漢和32509)然として曰く、異なる哉、鳥羅の設け、魚則ち之に離ると、歸りて之を筮者に問ふ、筮者の曰く、此れ山神の祟なり、速に祠を立てゝ、生魚を池水に畜ひ、祭祀するに人牲を以てせば、則ち猶ほ免るゝに及ぶべきなりと、村民素と樸なり、巫祝と筮の言を信じ、亦懼れて之に從ふ、祠漸く成る、將に祭祀せんとす、人牲を百金に募る、敢て應ずる者なし、邱愚之を傳へ聞きて曰く、僕家極めて貧し、父母を養ふことを得ず、請ふ身を百金に鬻がば、則ち老幼を撫育すべしと、遂に券を納れて自ら募に應ず、是に於て日辰を擇び、人牲を祠に用ひ、衆民邱愚を■(車偏+兒:::大漢和38357)し、夜深くして置き去る、邱愚獨り俎上に坐して、神の至るを待つ、四野寂寥、遂に來る者なし、傲然として其奠酒を飽飮し、其粢盛を飫食し、火を放つて其祠を焚きて還ると、
享保十四年己酉二月、擢て多摩・埼玉二郡の縣令と爲す、五萬石の税入を管す、十口糧を加賜す、其の任に■(艸冠/三水+位:::大漢和31565)むに當りて、賦税を均しうして冗費を除き、徭役を省きて公私を利す、數月にして縣事大に治まる、十月に至りて疾俄に起り、十二月壬午の日を以て歿す、時に歳六十八なり、川崎の小向の邑に葬る、通籍に上りし幾くもなく、未だ其用を盡さゞるを以て、人皆之を惜しむ、著す所、民間省要廿卷・治水要方二卷・冠帶筆記四卷あり、〔按ずるに、十二月に壬午なくして、十一月に壬午あり、乃ち十一月十日なり、日月必ず誤あり、考ふべし、〕冠帶の先配、男喜乘を生む、先つて歿す、後淺岡氏を娶る、安卿を生む、出でゝ泊瀬氏の嗣子と爲る、喜乘、字は濟明、禄を襲ぎて縣令と爲ると云ふ、


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陶山鈍翁
名は存、字は士道、鈍翁、又、訥庵と號す、通稱は庄右衞門、對馬の人なり、本國に仕ふ、

鈍翁、少うして平安に遊び、業を木順庵(*木下順庵)に受け、深く濂洛の旨を得、後、郷里に歸り、學術を以て登用せらる、郡の代官に至る、頗る治績あり、今に至りて對馬闔州の婦嬰童子、能く其姓名を知る、蓋し其廣く儲蓄を修して、嚴に私釀を禁じ、特に漁税を薄くし、竊買を監驗し、姦賣を抑止し、子を擧げざるを禁ずるの諸處置有るを以て、公私盡く其利に頼ると云ふ、
鈍翁、常に謂ふ、重遲深沈の者は、能く大事に處す、輕躁淺卒の者は、小事を處する能はず、然らば則ち事々物々、輕率にして之を遇すべからず、至微至易の者と雖も、當に重沈を以て之を視るべしと、
鈍翁、郡宰の職に在ること十三年、廉潔端正にして、威惠共に行はれ、州民之に懷く、韓人玄同智といふ者は篤學の士なり、鈍翁の治績を傳聞して、以て漢世循吏の流と爲す、
對馬の地、野豬蕃息し、田畝を蹂躪す、農民其害に堪へず、鈍翁、郡司平田類右衞門と建議して、豬を殲するの策を言ふ、侯命じて其言に從はしむ、元禄甲辰の始より、其擧に就き、寶永戊子に至つて其效全く成る、前後九年其勞に服事す、州民今に至つて其賜を受く、佐護郷は鈍翁の産るゝ所なり、郷民、雨芳洲(*雨森芳洲)に請ひて其效績を記し、碑を此に立つ、其文に云く、在昔聖王の天下を治むるや、或は蛇龍を驅つて之を遠ざく、其民に害を爲すを以てなり、蓋し禽獸の害は、猶ほ盜賊の國に於けるが如し、盜賊興れば則ち良■(亡+民:::大漢和55317)苦しむ、禽獸擾れば則ち田畝荒る、姚相蝗を捕ふるの使、韓伯■(魚偏+王の間に口四つ:::大漢和46597)を徙すの擧、豈に已むを得るに出でんや、曩者我對馬州の民に害ある者は、豬より甚しきは莫し、苗を毀ち稼を損して至らざる所なし、而して晝は儲胥の設あり、夜は叫呼の逐あり、猶且つ艱食に苦しむ、衆視て仇敵と爲すも、終に之を殲することなし、特に一世のみにあらず、陶山・平田二公の郡司たるや、上に奉じ民を愛するの念、天性より出でて、深く食を足すの本は、豬を勦するに在ることを知り、乃ち州内の人を率ゐて、大に田獵を爲し、毎歳以て臘月より二月に至るまでを合圍の期と爲し、大畑小籬して、類魚■(网/曾:::大漢和28370)に投じ、榛莽に據る者は■(艸冠/熱:::大漢和19541)し、奔逸に脱るゝ者は尾し、思を勞し精を覃くし、維(こ)れ勤め維れ勵み、號令を嚴にして、賞罰を明にし、處分區畫、周盡せざることなし、庚辰元禄十三年十二月豐崎に起り、己丑(*宝永)五年二月(*宝永6年か。)豆酸に終り、亙古莫重の患、一旦悉く除き、深山邃谷一も遺種あることなし、是に於てか斯の■(艸冠/巣の頭:::大漢和に無し)斯れ■(余/田:::大漢和に無し)し、惟だ力に之れ視ふ、遂に■(木偏+号:::大漢和14585)腹者をして甌窶滿篝の憂なく、守夜者をして貼席安寢の樂あらしむ、嗚呼二公なかりせば、吾誰にか適從せん、眞に夫の聖世の治、賢宰の績と、上下出入し、其功を同じうするに堪へたり、因て爲に事を記し、石に勒して永遠に傳ふ、凡そ我子孫たる者、其恩惠を無窮に感じ、而して敢へて忘るゝあるなきを庶幾し、佐護郷の人、錢を醵して之を建つ(*と)、
鈍翁、郡を治むるの久しき、其績あるを賞し、寶永丁亥、藩の參政に累遷し、秩三百石に至る、屡〃建言あり、皆侯家の要務なり、勇往果斷、得失を諷刺す、之を言ふこと愈〃力め、既にして容れられず、僅に三月にして罷む、是より以還、戸を閉ぢて深坐し、猥りに人と交らず、著述自ら娯むこと二十餘年なり、人皆抱負する所の時に展びざるを惜しむ、
享保十七年壬子六月十四日歿す、歳七十六なり、其人深智宏達、將に大に施爲する所あらんとす、志を■(喪の頭〈下辺を冖に作る〉/貝:::大漢和に無し)して歿す、洵に以て悲しむべし、余其建議する所の治安策一篇を讀み、益〃卓論なるを識る、玄同知が稱する所、實に虚言に非ず、著す所、春秋大義十二卷・通鑑綱目大義卅二卷・艮止説財用問答各二卷・老農類語三卷・訥庵雜録六卷、其餘雜著數種、未だ其目を詳にせず、皆家に傳ふ、


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向井滄洲
名は三省、字は子魯、滄洲と號す、通稱は小三次、後に魯甫と更む、攝津の人なり、

滄洲は足利氏の庶族なり、元弘中、右京亮仁木義長、幕府尊氏に從ひて、屡〃戰功あり、其子越後守滿長、始めて伊勢の向井邑に居る、是を向井氏の始祖と爲す、其子右馬助滿將、其子教將、二郎と稱す、其子貞長、亦右馬助と稱す、其子高長、四郎と稱す、是より以後子孫播遷して、聞ゆる者あることなし、祖父吉長、舊と徙つて東奧に住み、休寛を生む、休寛西遊し、方技を以て、桑名及び高槻の諸鎭に筮仕す、後、辭して平安に家居す、其高槻に在るに當つて、中島氏を娶り、三子を生む、滄洲は其季なり、
休寛、後に休間と更め、休庵と號す、方技の餘、書を善くす、中島氏、名は三性(みき)、天資聰敏、頗る書史を讀む、詩を賦し又和歌を善くす、滄洲幼にして穎悟、四書の句讀を母氏に受く、休間之を愛す、其成童なるに及んで、聲音母氏に似たり、故に三省を以て之を呼ぶ、蓋し性と省と同じければなり、
滄洲、蚤にして木順庵(*木下順庵)に學ぶ、既にして順庵徴されて東下す、亦笈を負ひて其家塾に寓す、新井白石室直清雨芳洲(*雨森芳洲)等と經史を講習す、時に天和壬戌の冬なり、滄洲、江戸に在ること五年、父休間が病に臥すに會ひ、倉率京に歸る、侍養一年、遂に起たず、服■(門構+癸:おは:終:大漢和41430)るの後と雖も、再び東するを欲せず、能く先人の舊廬を守り、母氏と居り、教授を以て業と爲す、
滄洲、順庵に辭し、平安に歸りてより、同門先輩の故を以て、常に柳川震澤に從つて、其誨督を受く、震澤、滄洲より長ずること十六七歳、其木門に在りて、最も高足の弟子と稱す、順庵の男菊潭〔名は寅、字は汝弼、菊潭と號し、平三郎と稱す、〕(*木下菊潭)亦之に從學し、震澤の塾に寓す、滄洲、菊潭と同甲子なり、震澤の門に於て、澤、洲に近く、洲、澤に近しの語あり、蓋し其學力の深淺あるを云ふ、
滄洲、天和壬戌の歳、僅に十七にして、菊潭と同じく震澤に從ひて、韓使成翠虚李鵬溟洪滄浪等と、大坂客館に筆語す、蓋し韓使來聘し、詩文を贈答する者は、操觚の輩と雖も、未だ冠者に至らざれば、猥りに筵席に列することを許さず、二人皆童齔總角にして、此に列するを得たり、後、總角にして韓客に應接する、此二人を以て之が始例と爲すと云ふ、〔按ずるに、壬戌の歳來聘、詩歌を唱和する者、正徳以降の衆に及ばず、而して是より先き、寛永癸未・明暦乙未、應接する者、大坂・江戸、僅に數人に過ぎず、此壬戌に至りて■(宀/浸:::大漢和59493)〃多し、文學未だ甚だ闡けずして、此技に從事する者、多からざるを見るべし、滄洲唱和する所の詩文、詳かに載せて平安書肆丁字屋源兵衞、輯刻する所の和韓唱酬集に在り、其書十二卷、六十八家を記載す、以て其應接の人を見るに足る、〕
震澤、順庵に從遊すること最も久し、順庵東行の後、猶平安に在り、後進を誘掖す、滄洲之に兄事す、其餘順庵の門人悉くこれに從ふ、震澤未だ五十歳に至らずして歿し、子なし、順庵、遙に之を聞き、深く其祀を絶つを痛む、滄洲をして柳川氏を冒し、其緒業を繼がしむ、滄洲、柳川氏を稱すること三十年にして、後、本氏に復す、已むを得ざるに出づと雖も、識者其爲す所を薄す、近時余が見る所、讀書種子の此に類する者多し、業已に出でて人家に後たり、一時志を得、衣食餘あるに及び、斷然舊姓に歸復して、忌憚する所なし、惡むべきの甚しきものなり、能く他姓を冒すことの是に非ざるを知らば、宜く先づ之を固辭すべし、若し或は其可否を辨識せず、誤て人の後を受けば、自ら處置の時宜に適する有らん、何ぞ之を廏棄するに忍びんや、古人謂ふ、龍蛇の一鱗あるも、其靈たるを害せず、玉石の一脈ある、其寶たるに害せず、士一惡あれば、其小人たるに害せずと、出で他姓を冒すもの、愼まずんばあるべからず、
滄洲、天資遲重、居家日用の微に至るまで、皆悉く節あり、整齊にして錯らず、妻子奴僕、常に其規矩の密なるを畏れて、事の簡易なるを樂む、一來の使令する者、其期に至ると雖も、辭し去る者無し、復た請うて留止す、
滄洲、歳不惑を踰えて、初て仕志あり、而して好んで深澹の行を爲す、擧世遇を希ふ故に果さず、晩年に及びて稍〃自ら檢飭し、學は經業を修め、守約を尚び、其堂を名けて敬居と曰ふ、嘗て謂ふ、子弟を教育するは、宜しく我躬ら之に先んずべく、徳以て經と爲し、才以て緯と爲す、二の者居敬に始まると、其言實に然り、其門人宇明霞(*宇野明霞)の博達豪邁、石川麟洲の徳義敦實の如き、其學行皆性質に由ると雖も、滄洲薫陶の功亦尠からず、
滄洲、歳六十六にして、享保十六年辛亥正月十九日を以て歿す、洛東鳥部山慈芳院に葬る、牧野氏を娶る、子なし、伯兄玄貞の子、信義字は誠安、橘洲と號するものを養つて嗣となす、其簀を易ふるに及び、信義に遺言して本姓に歸復せしむ、信義依て向井氏と稱して、柳川氏遂に絶ゆ、


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松崎蘭谷
名は祐之、字は子愛、蘭谷と號し、一に甘白と號す、通稱は多助、丹波の人なり、篠山侯に仕ふ、

蘭谷、家世〃篠山に仕ふ、壯年のころ、其父平安に移居し、邸事を監するに從ふ、蓋し西州の諸侯、邸を輦轂の下に置き、以て交通收約を大坂・奈良・伏見・大津等の諸方に便にす、邸監とは、所謂屋敷の留守居なり、父久しく其職に居る、故に之を襲うて服事すること此に二十餘年、遂に過失なし、
蘭谷、少より京に在るを以て、贄を伊藤仁齋の門に執る、後東涯と友とし善し、專ら其師説を信じ、終身遵奉して變ぜず、
蘭谷、幼にして奇才あり、仁齋深く之を稱贊す、長ずるに及んで果して群書に博覽にして、時務に通練す、尤も應接の言辭を善くす、■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)接の人、親踈を論ぜず、一見して侯家の其人を得るを稱す、
蘭谷、平生色嚴にして氣和く、好んで廉潔の行を爲すと雖も、世俗と■(之繞+午:::大漢和38759)はず、故に應接する者其剛毅を畏れ、退きて後其■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)切を愛す、風猷を■(音+欠:きん・こん:〈=欣〉喜ぶ・慕う:大漢和16139)■(手偏+邑:ゆう:組む〈=揖〉・取る・抑える・推重する〈すすめる〉:大漢和12105)せざる者なし、
蘭谷、中年の後、臨池の技を好み、尤も草隸に長ず、細井廣澤評して曰く、筆法の整齊なること、林道榮高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)佐文山(*佐々木文山)の上に在りと、余嘗て一色時棟唐本類書考〔坊間呼んで二酉書目録と曰ふ者是なり〕を見るに、蘭谷の題序を載す、其自書して文衡山を■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)する者なり、
蘭谷、情を文章に留め、能く物品を状す、詞義典雅、艶富に流れず、又時習に染まず、嘗て物徂徠が修辭の説を唱ふるを評して曰く、惜しいかな、彼の宏覽の識を以て、甘んじて此の如き奇癖を爲し、時目を電耀し、海内を風靡すと雖も、必ず五十年を經ずして衰廢せん、自ら李王の業、純粹の文に非ざるを知らざるが若きは、則ち愚の甚しき者なり、或は自ら之を知つて其説を奉崇せば、惟人を欺くのみならず、以て己を欺く、乃ち罪の大なる者なり、彼此に一あり(*と)、其評果して、安永中に至りて驗あり、修辭を攻撃する者比々として起る、惟文章の上のみならず其義訓詁に於て復た振はず、巨眼と謂ふべし、
蘭谷、博洽の餘、本草を研究す、稻若水(*稲生若水)と最も厚し、正徳辛卯、韓使來聘の時、客館に筆語し、三物を學士李東郭に質問す、其の一、鶯の寫眞を示して曰く、我土に鳥あり、黄緑にして大さ雀の如し、名けて鶯と曰ふ、正二月聲を發す、圓滑にして愛すべし、四五月に至りて鳴かず、想ふに唐山の鶯と大同小異ならん、貴國の鶯亦我鶯に同じきか、其の二、山吹の花葉一枝を示して曰く、我土の花草、墻垣の間に叢生し、長さ四五尺、三月に花を開く、其の種に黄あり白あり、單瓣あり重瓣あり、名けて餘■(酉+縻:::大漢和40097)と曰ひ、或は棣棠と曰ふ、未だ孰れか是なるを詳にせず、其の三、紅葉一枝を示して曰く、我土名けて楓と曰ふ、二三月芽を發し、十月に至り始めて紅に、丹色愛すべし、未だ幾ばくならずして飄落す、山谷に在る者、最も殷紅なり、貴國是等ありや、名稱如何と、東郭答へて曰く、僕舊と貴邦鶯なしと聞く、而して今■(目偏+示:::大漢和23213)教を受く、其形頗る鶯に似たり、所謂鶯は只黄色ありて緑色なし、我土の鶯は、三四月より始めて鳴きて秋に至る、止だ清圓の聲音示す所の如きのみ、餘■(酉+縻:::大漢和40097)は、果して示す所の如し、棣棠は、僕嘗て我土の湖南に遊びし時、人家に之あるを見たり、長さ四五尺、其色淡紅にして躑躅の花樣の如し、貴邦亦想ふに此の如くならん、貴邦の境に入りてより、多く楓樹の異同を掲問する者あり、蓋し其枝葉、之を我土の楓に比すれば、稍〃大なり、未だ何物か眞の所謂楓なるかを知らず、或は別に異種あるか、大小の異、或は各地の別あるを以て、未だ盡く知るべからざるなり(*と)、此の三質問、記すに足らずと雖も、心を物産に留むるの一事、以て知るべきのみ、
蘭谷、二子あり、伯名は千之、字は萬作、早に東涯に從學し、古義塾に寓す、僅に年を踰えて病に輿し、篠山に歸る、幾ばくもなくして夭す、歳十七なり、小川遺稿二卷あり、叔名は賢、字は子齋、東郭と號す、伯・叔皆才穎を以て稱せらる、賢又二十三にして歿す、東郭遺稿三卷あり、江北海(*江村北海)が續日本詩選に、賢が詩二首を載せ、以て蘭谷の孫と爲すは誤なり、
蘭谷、千之を喪ひてより、哀傷して病起り、享保二十年乙卯七月九日を以て歿す、歳六十二なり、篠山城東王地山中に葬る、著す所、本朝歴史徴二百七十二卷・同目録四卷・膝下問答六卷・刀袋四卷・鏡袋三卷・訓彙八卷・鎔冶漫筆五卷・史論奇鈔七卷・唐河海十二卷・言志集三卷・甘白雜録六卷・後録六卷・篠山志二卷・山陰雜筆四卷・蘭谷集十卷あり、〔龜山の西脇棠園翁、嘗て謂ふ、弊藩の士、松崎蘭谷の學術、世之を知る者なし、固より世に希ひ聞を求むるの人に非ず、松崎白圭・其男觀海・■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の諸名流と周旋す、故に世皆其學術を知り、其人と爲りを稱す、人の世に處するや、博く交らざるべからず、蘭谷雜筆に、程明道を評するの事を載す、先儒の未だ嘗て有らざる所の論なり、昔之を讀み、其大意を諳記す、云く、程明道の歿するや、文彦博其墓表に題して、大宋明道先生程君の墓と曰ふ、今按ずるに、明道は宋の仁宗の年號にして、三年を經て景祐と改元す、嘉號の字固より少なからず、當に以て人臣の私諡と爲すべからず、而して彦博躬宰輔に在り、此を以て其墓に題し、明道の弟伊川、受けて敢て辭せず、兩者皆解すべからざる所の者なり、後人も亦議の此に及ぶものなし、蓋し其好む所に阿るのみと、此等の識見は、遠く白圭・觀海の上に出づ、余之を翁に聞く、文化の末に在り、爾より以降二十餘年の後、錢大■(日偏+斤:::大漢和13817)十駕齋養新録を得て之を讀む、亦此説あり、而して蘭谷、大■(日偏+斤:::大漢和13817)に先つこと五十年、固より之を襲ふ者に非ず、眞に暗合するのみ、翁、名は簡、字は居敬、山の世臣なり、業を東藍田に受く、藍田は物徂徠の男、金谷の門人なり、余少壯の時、翁に因つて■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の遺老の事實を聞くことを得たる者尤も多し、今偶〃其言を憶起してこれを記す、〕


先哲叢談續編卷之五


 松浦霞沼  土肥黙翁  土肥霞洲  田中邱愚  陶山鈍翁  向井滄洲  松崎蘭谷

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