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 片山北海  立松東蒙  千葉芸閣  内田頑石  原狂齋  赤松滄洲

先哲叢談續編卷之十一

                          信濃 東條耕 子藏著
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片北海(*片山北海)
名は猷、字は孝秩、北海と號す、通稱は忠藏、片山氏にして、自ら修めて片と爲す、越後の人なり、

北海の父を默翁と云ふ、家世〃農と爲り、三浦氏を娶り、享保八年癸卯正月十日を以て、北海を矢彦邑に生む、邑壤を北海に接す、故に長じて後、此を以て自號と爲す、
北海生れて岐巍、十歳に及ぶ比ひ、聰敏倫なし、族人等教ふるに四書を以てす、未だ二旬に至らずして、吾■(口偏+伊:::大漢和3579)便ち通じ、句讀を誤ることなし、衆皆以て凡ならずと爲す、書生と作さしめんと欲すれども、僻邑師友なく、州の長岡・新發田・高田等の諸鎭に遊學せしむ、一も意に當る者なく、空しく還りて、書を家に讀むこと三年、曉通殆んど遍し、始めて逢掖とならんとするの志ありと云ふ、
歳甫めて十八、笈を平安に負ひ、名流に應接す、心可とする所なし、獨り宇明霞(*宇野明霞)を慕ひ、質を委ねて之に師事し、其門に寄寓す、明霞識鑑あり、一見して之を器遇すること、頗る厚し、是を元文五年の冬と爲す、業を請ひ教を受くること、此に六年なり、明霞歿して、倚頼する所を失ふ、落魄萬状、窮言ふべからず、時に大坂の富商某、明霞の門に遊ぶ者あり、其學術を信ず、故に北海に請ひて、將に經史を受けんとし、其別墅に寓せしむ、遂に此に寓居す、
北海、大坂に在ること僅に三年にして、業漸く行はる、父默翁家を挈へて來り就く、會〃歳の歉荒に遭ひ、朝夕の給を支ふる能はざるに至る、窮迫殊に甚しく、而も克く其歡を奉ず、孝行の名、閭閻に顯る、
北海人と爲り、間靖寡言、思を人間の榮辱に絶ち、世と競爭せず、故に未だ曾て表■(衣偏+日/恭:::大漢和に無し)を以て心に措かず、故に内充にして外著れ、根固くして枝長じ、聲名籍甚たり、強仕の時より其晩暮に至るまで、殆んど三十餘年、束脩以上を行ふ者、前後蓋し三千人なり、
北海、師説を確信して、終始變ぜず、故に明霞の業を奉崇する者、北海を知らざる者なく、亦之を稱せざる者なし、學術の精核、還つて其上に在り、
北海、性音樂を樂み、善く横笛を吹く、其技の熟、伶官に下らず、殊に樂律の諸書に精し、毎に我土の先輩の、音律を知らざるを歎ず、
北海は寛延元年の秋を以て、寓居を辭し、始めて阿波橋の北畔に卜築す、此に住すること十餘年、故宅を淀橋の北横街に買ひ、破損を修葺して移居す、軒に對して老松一株あり、故に館を孤松と云ふ、八月十六日、初て諸友を會す、葛子琴(*葛城子琴)詩あり、曰く、

清虚たり白を生ずるの室、澹泊たり玄を草するの人、此に鵲巣の舊きを占め、看陀す燕賀の頻なるを、屋楹未だ修補せず、筵几既に鋪陳す、弟子の勞須く服すべく、先生の徳已に新なり、竹を移すの地無しと雖も、藜を燃すの神を格すに足る、一雨寧ぞ漸く漏れんや、孤雲貧を病へず、社盟混沌を尋ね、郭處沈淪を分とす、月は正に東山の夕、樽酒北海の春、秋城■(三水+景+頁:::大漢和18811)氣を通じ、夜市繊塵を隔つ、祷頌吾何ぞ敢てせん、趨陪して漫に醇を飮む (*清虚生白室、澹泊草玄人、占此鵲巣舊、看陀燕賀頻、屋楹未修補、筵几既鋪陳、弟子勞須服、先生徳已新、雖無移竹地、足格燃藜神、一雨寧漸漏、孤雲不病貧、社盟尋混沌、郭處分沈淪、月正東山夕、樽酒北海春、秋城通■氣、夜市隔繊塵、祷頌吾何敢、趨陪漫飮醇)
北海の家は、毎に社友相會し、交際甚だ昵しく、酒饌極めて豐かなり、韻を拈り詩を賦す、盃盤交錯の間に於て、各〃爾の志を言ひて、忌諱する所なし、たゞに文藝のみならず、世事の利害得失を相謀り、肝膈を吐露し、各〃の思ふ所を抒べて、之を裨補し、之を匡救す、其毘資する所、少からず、北海、性酒を嗜まず、然れども飮む者と趣を同じうし、言談の間、其裁決を定め、更に倦怠の色なし、
明霞易簀の時に當りて、著述數種を以て、これを北海及び僧大典に託し(*て曰く)、若輩(なんぢら)能く時を得ば、之を刊布して我不朽を爲せと、最後大典、相國禪寺に住持するに至り、捨資して唐詩集解十六卷・唐詩正律考四卷・明霞遺稿八卷を校刻す、又文語解六卷・詩語解四卷・詩語推敲二卷のごとき、皆盡く明霞の起稿する所に係る、原本に依遵し、其遺漏を補修するものなり、論語考三卷・左傳考三卷は、北海衣食を縮節し、僅に其資を得て、遂に能く之を成す、亡師の遺命に負かず、明霞亦能く其附屬する所を得たりと謂ふべし、あゝ六十年前、師弟恩愛の厚きこと此のごとし、今や斯道地を拂ふ、余屡〃書生の爲す所を見るに、其生事には之に師事し、飽くまで教誨を受け、歿後に至りては之を顧みる者なし、何ぞ思はざるの甚しき、冀くは北海の爲す所に認めて、宜しく誡省を加ふべし、
明和の初、北海は鳥山■(山/松:::大漢和8209)嶽〔名は宗成、字は世章、越前の人にして、垂葭館遺稿を著す、〕・田鳴門〔名は章、字は子明、近江の人にして、子明遺稿を著す、〕(*田中鳴門)・合斗南〔名は離、字は麗玉、京師の人にして、斗南集、其他數種を著す、〕(*細合斗南)・河恕齋〔既に前に見ゆ〕(*河野恕斎)・岡白洲〔名は元鳳、字は公翼、備前の人にして、白洲集を著す、〕・左魯庵〔名は鳳、字は于嶽、京師の人にして、魯庵小隱二種を著す、〕(*佐々木魯庵)・葛■(木/虫+虫:::大漢和33416)庵〔名は張、字は子琴、御風樓集を著す、〕(*葛城子琴、葛子琴)・岡南山〔名は豹、字は君章、阿波の人にして、半間園詩文集を著す、〕(*岡田寧處)・平赤水〔名は壽玉、字は九齡、和泉の人にして、南山不崩集を著す、〕(*大畠九齢)等と同じく詩社を結び、號して混沌(*混沌詩社)と云ふ、幾ばくもなく、頼春水〔名は惟完、字は千秋、安藝の人にして、霞崖春水二集を著す、〕・篠三島〔名は應道、字は安道、浪華の人にして、郁洲三島兩集を著す、〕(*篠崎三島)・木巽齋〔名は孔恭、字は世肅、浪華の人にして、蒹葭堂前後集を著す、〕(*木村蒹葭堂)・福石室〔名は尚修、字は承明、和泉の人にして、石室詩集を著す、〕・小山養快〔名は儀、字は伯鳳、浪華の人にして、瑯■(女偏+環の旁:::大漢和6782)閣遺稿を著す、〕・菅考澗〔名は來章、字は君譽、肥後の人にして、錢塘吟稿を著す、〕(*菅野錢塘か。菅野考澗の男。)・隱岐菜軒〔名は秀明、字は子遠、京師の人にして、菜軒集を著す、〕(*隠岐茱軒)・柴栗山〔名は邦彦、字は彦輔、阿波の人にして、古愚栗山二集を著す、〕(*柴野栗山)・西邨南溟〔名は直、字は孟清、浪華の人にして、南溟詩稿を著す、〕(*西村直)・尾藤二洲〔名は考肇、字は志尹、伊豫の人にして、靜寄軒詩文集を著す、〕・古賀精里〔名は樸、字は淳風、肥前の人にして、精里詩文集を著す、〕・菱秦嶺〔名は賓、字は大觀、備前の人にして、秦嶺稿を著す、〕(*菱川岡山)・井阪平墅〔名は廣正、字は雲卿、浪華の人にして、平墅遺草を著す、〕(*井坂松石)、踵を繼ぎて至り、之に加はり、詩聲一時に振ふ、是より先き、浪華の地、未だ曾て之あらざる所なり、諸子新故を論ぜず、皆北海を推して之が盟主と爲す、
混沌社友、小詩・短文と雖も、各諸子の削正を相資け、推敲反覆せる後、北海に就きて斷裁を取る、崇重尤も厚し、北海亦一篇を作る毎に、稿成りて遍く諸子に示す、其疵摘を受けて、可否駁議、互に隔意なし、綜覈討論、情を盡して罷む、其虚襟以て視るべし、余が先人、亦嘗て大阪に遊ぶ、時に天明の季年なり、能く其事を知る、〔頼春水在津紀事に云く、混沌社友、小詩・短文と雖も、必ず相示して正を請ふ、而して後、北海に就きて斷を取る、北海詩文あれば、輒ち亦必ず之を諸子に謀る、年少余の如き者を以てすと雖も、亦謀及ぶ、毫も自滿の時なし(*と)、其意見るべし、〕是時頼春水歳二十二三、小山養快は春水より少きこと二歳、二人社中に於て、最も少年たり、
北海常に師説を誦して曰く、名世の文は多に在らず、多ければ傳ふること反つて廣からず、廣からざれば不朽を保ち難し、然れども雜にして傳はらざるよりは、精にして數篇あれば斯れ足れりと、持論常に率ね此の如し、
北海は當世に意なしと雖も、好んで經濟を論ずるが爲に、列國諸侯の置分する所を聞き、得失を商議す、其言ふ所、未だ嘗て察々として肯綮に中らずんばあらず、北海詩文を作り、長篇巨章と雖も、未だ嘗て草稿せず、其構思する所は盡く腹稿に在り、腹稿熟せざれば筆を下さず、混沌の一社、皆其説を奉ず、人巧拙となく、能く之に傚ふ、毎月既望、諸友會集して、題を分け韻を探り、各〃詩を賦す、成れば几上の一紙を取りて之を書す、別に稿を立てず、蓋し腹稿已に熟す、故に書するに及び、躊躇あること無く、又故紙狼藉あること無し、
北海歳四十の後、聲價特に高く、諸侯聘招すれども、峻拒して起たず、■(挈の頭/心:::大漢和10571)然として思を世務に絶つ者のごとし、又時勢を辨ぜざる者に似たり、或人其故を問ふ、對へて曰く、竊に以謂らく、今の侯伯士大夫、未だ曾て爲すあるの人を見ず、其學を好み、儒を禮すと稱する所は、徒に虚驕にして、人に誇るの具と爲すに過ぎず、豈に與に之を言ふに足らんやと、
柴栗山(*柴野栗山)は學術を異にすと雖も、素と北海と善く、甚だ其人と爲りに服す、稱して謹嚴確實、特卓の操ありと爲す、北海は栗山に長ずること十三歳、後進を以て之を遇せず、言つて曰く、近時宋學を研窮するの人、多くは文藝に乏し、特に余が識る所の、熊本の藪孤山・岡山の近藤西涯及び子、各〃詞藻あり、世の程朱を奉崇する山崎派のごとき者は、焉ぞ以て顧問に備へ、記室を掌るに足らん、子往聖を繼ぎ、來學を啓き、洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の旨を祖述せんと欲せば、まさに必ず文藝に精通すべしと、栗山能く其言に從ひ、益〃詞藻を講習し、理學を研窮す、大家の稱、一時の魁たり、栗山東下の後、將に北海を薦めて、一侯家の儒員と爲さんとす、然りと雖も、天明の末、學政を料理し、講經の科條、一に朱子に遵ひ、其他を言ふを得ず、北海の栗山は東下の後、其告ぐる所に從はざるを恐れ、竊に書して以て故を告ぐ、請ふ姑く時令の如し、經を講ずるに、四書・五經大全等を用ふるのみと、北海其意を感謝し、舊學を廢棄するに忍びず、詩を作りて之を辭す、其詩に曰く、
北海の■(魚偏+取:::大漢和46260)生逸民に甘んず、年豐に時泰に貧を憂へず、江湖の風月十分に富む、是れ虚名の老身を累はす莫し (*北海■生甘逸民、年豐時泰不憂貧、江湖風月十分富、莫是虚名累老身) 〔其一〕
是れ虚名の老身を累はす莫し、研田の耕耨年を逐て新なり、華門縦ひ侯門の聘有るも、染めず青黄清路の塵 (*莫是虚名累老身、研田耕耨逐年新、華門縦有侯門聘、不染青黄清路塵) 〔其二〕
染めず青黄清路の塵、心を勞するは何ぞ心の眞を養ふに似(し)かん、熊魚兼ね得る元作し難し、北海の■(魚偏+取:::大漢和46260)生逸民に甘んず (*不染青黄清路塵、勞心何似養心眞、熊魚兼得元難作、北海■生甘逸民) 〔其三〕
北海は塾中會業の日、書數葉を課す、北海初て卷を開き、後復た翻閲せず、諸子議論蜂起すれば、北海得失を詳悉して、之を斷ずること明晰、其注釋を暗記す、尾藤二洲初て伊豫より塾に來る、北海史の屈原傳を暗誦す、二洲書を持ちて之を聞く、又索隱正義の音注に及び、更に一失せず、其強記皆此に類す、二洲、服南郭(*服部南郭)の文二三篇を以て之を評議す、北海煙を吹きて答へず、二洲問うて止まず、曰く、以て爲すことなかれ、之を議するは煙を吹くに如かずと、
北海の人と爲りや、素朴敦厚にして邊幅を修めず、貴賤となく生熟となく、之を遇するに恬然たり、特に其點茶を嗜むを以て、富豪の家、偶〃茗會を作し、之を招致するを得るを以て榮と爲す、北海則ち自ら知らざるなり、中井履軒曰く、北海は交を納むべくして、彼は顯著なり、我は是れ幽人なり、交らざる所以なり、但し其自ら幽顯を知らず、甚だ重んずべしと爲すのみと、
北海は歳耳順を踰え、自ら奉ずる甚だ薄し、家人其老い且つ善く病むを以て、帛易布被を用ひんことを請ふ、肯ぜずして曰く、吾れ嘗て親を養ひ、輕暖體に足りて、其用に適せしむる能はず、今に於て吾れ獨り此を用ふ、心甚だ安からずと、遂に爲さず、
北海は寛政二年庚戌三月病に臥し、彌留して九月十二日に至り、淀橋の北横街の偶居に歿す、歳六十八、城南の梅松院に葬る、河原氏を娶る、先だちて歿し子なし、平井氏の子、字は子敬を養ひて嗣と爲す、恭順と稱し、醫を業とし、道修街第五坊に別居す、此地は北海初て卜築する爲なり、故に蘊をして此に居らしむ、
北海書を著すを好まず、其筆記する所、皆鈔録に係る、故に一卷の成書なし、北海文集十二卷・尺牘三卷・詩集七卷・混沌社詩稿三卷、皆門人の編輯する所なり、孤松館遺稿八卷、蘊が集むる所なり、門人廣岡成美、其費資を給し、將に上木せんとす、僧大典之が序を作る、蘊會〃病に罹り、未だ果さずして歿すと云ふ、〔近時大阪の兼康■(立心偏+豈:::大漢和11015)(*兼康元■、兼康百済)の浪華詩話を得るに云く、北海先生は當昔の宿儒たり、余が家に阪道齋を哭するの詩の草稿を藏す、其詩に曰く、 我本と北越の士、來て浪華の濱に客たり、萍梗歸著無く、漂流好し誰にか因らん、四三詩社を結び、始て君と相親む、周旋朝夕無く、里巷且つ比鄰、社朋時に出入し、社友或は化壤、心事誰に向てか愬へん、■(人偏+聘の旁:::大漢和701)■(人偏+:::大漢和351)自ら養養、裘弊れ嚢亦■(馨の頭/缶:::大漢和28167)く、資給誰に是れ仰がん、舊盟君獨り在り、財を通じて友誼を重んず、尚志古訓有り、但だ恐る一簣を虧くを、以て匡し以て補翼し、從臾意亦摯、又我の室無きを憫み、柯を伐りて其儀を主とす、納聘與に期を請ふ、舟を艤して尼崎に向ふ、維れ春王の正月、料峭肌を劈くが如く、酒を沽て舟人を勞す、佳期移すべからず、夫妻今日に在り、嗟呼誰之力ぞ、愧づ我老い且つ懶く、省視自らは亟(とく)せず、忽爾として訃音を聞き、狼狽奔り且つ■(足偏+倍の旁:::大漢和37649)く、交を結ぶ三十年、永訣此に至て極る、■(糸偏+弗:::大漢和27364)を執りて墓門に臨み、默拜して胸臆を告ぐ、君亦遠國の産、幼より父母を辭す、辛勤貨賄を殖し、夙夜終に負かず、芝蘭庭階に生じ、馥郁として左右を繞る、市廛の間に在りと雖も、其生也亦厚し、爾の所生を忝むる無し、古稀壽ならざるに非ず、但だ憾む君去て後、誰か此の迂叟を愛せん、 (*我本北越士、來客浪華濱、萍梗無歸著、漂流好誰因、四三結詩社、始與君相親、周旋無朝夕、里巷且比鄰、社朋時出入、社友或化壤、心事向誰愬、■■自養養、裘弊嚢亦■、資給誰是仰、舊盟君獨在、通財重友誼、尚志有古訓、但恐虧一簣、以匡以補翼、從臾意亦摯、又憫我無室、伐柯主其儀、納聘與請期、艤舟向尼崎、維春王正月、料峭如劈肌、沽酒勞舟人、佳期不可移、夫妻在今日、嗟呼誰之力、愧我老且懶、省視不自亟、忽爾聞訃音、狼狽奔且■、結交三十年、永訣至此極、執■臨墓門、默拜告胸臆、君亦遠國産、自幼辭父母、辛勤殖貨賄、夙夜終不負、芝蘭生庭階、馥郁繞左右、雖在市廛間、其生也亦厚、無忝爾所生、古稀非不壽、但憾君去後、誰愛此迂叟、) と、此詩以て先生の小傳に當るべしと、耕(*東條琴台)案ずるに、阪道齋なる者は、未だ何許の人たるを詳にせず、蓋し北海と眞に熟交する者なり、〕


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立松東蒙
名は懷之、字は子玉、東蒙山人と號す、別に嘉穗と號す、通稱は嘉兵衞、尾張の人なり、

東蒙は尾府通籍の士なり、少壯より小吏となるを欲せず、禄を弟に讓り、平安及び浪華・奈良・伏見・長崎・熊本等の諸方に漫遊す、歳三十二、初て江都に到り、市谷田街に僑居し、教授を業と爲す、
東蒙は頴悟俊拔、斯文を以て一世を振揚せんと欲す、數〃火災に罹り、窮甚し、以て衣食を給するなきに至る、然れども一毫も妄に人に取らず、日に醇酒を沽ひて之を飮む、蓋し都下に在ること三十餘年、未だ嘗て此樂を罷めず、詩あり、曰く、

東閣賢を招て訪求を競ふ、弊裘笑ふに堪へたり漢の諸侯、一たび豪氣の盃酒を甘んじてより、潦倒醉中九流を窮む (*東閣招賢競訪求、弊裘堪笑漢諸侯、一從豪氣甘盃酒、潦倒醉中窮九流)
東蒙始めて京に遊び、業を伊藤蘭嵎に受く、專ら堀河の言を修め、篤學敦行を以て儒林に稱せらる、東來の後、陋巷に僻居す、遂に其人と爲りを知る者なし、惜むべし、
東海毎に人に語りて曰く、市井の愚俗、雜劇・院本を觀て、忠臣・孝子、義烈・芳節の世に照映する者に遇へば、感觸洩發す、秉彝の性、得て掩ふべからず、悲傷歎賞、涕泣嗚咽、自ら禁ずること能はざるに至る、是に由りて省檢するに、敦樸善に趣く者あり、憤激行を修むる者あり、士大夫、少壯より書を讀み道を講ず、一たび出身して後は、棄擲して顧みず、其身を終るに至るまで、一善を會得すること能はず、其志す所は、飽煖己に適するに過ぎず、之を市井愚俗の罪人と謂ふと雖も可なり(*と)、
東蒙、歳知命に至りて、家益〃窮迫す、自ら世の我を遇せざるを識る、故に朝野を愚弄し、富貴を傲視す、講業の暇傍ら國學に通じ、好みて和歌を詠ず、又流俗の謂はゆる狂歌なるものを以て、世に著聞す、蓋し狂歌は國風の遺意より出づ、其體雅ならずと雖も、均しく是れ三十一言の聲調なり、明和・安永より以降、其技を好む者、陸續として斷えず、近時に至りて海内に傳播す、其異同ありと雖も、之を首唱するは斯人に創まる、
東蒙、狂歌に於ては乃ち平秩東作と號す、後、其技を以て時に鳴るもの數人、唐衣橘洲大屋裏住元木網蔦唐丸四方赤良(*大田南畝)等のごとき、皆弟子なり、
東蒙は博洽の餘暇、傍ら佛典講・法華・楞嚴・維摩等の諸經に及ぶ、牛籠・市谷の諸寺院の僧徒、學する者衆し、 書齋に聯語を掲げて曰く、 言行未だ備はらず、博く六藝を綜ぶ、徒に書■(木偏+厨:::大漢和15621)の如し、道を識り用を施す能はず、心源未だ徹せず、暗に三乘を説く、空しく經藏に似たり、法を知り世を濟ふを得ず (*言行未備、博綜六藝、徒如書■、不能識道施用、 心源未徹、暗説三乘、空似經藏、不得知法濟世) と、
東蒙不遇にして坎軻に終ると雖も、其著す所極めて多し、武家盛衰記五十卷・武野叢談十八卷・東遷創業記十卷・難波戰記三十卷・■(艸冠/辛:::大漢和31056)野茗談一卷・■(艸冠/辛:::大漢和31056)野雜談六卷・筆塵四卷・寒夜百談三卷・嘉穗庵集二卷・水乃行衞五卷・四谷乃風四卷、是れなり、〔屋代輪池、余が爲めに之を云ふ、世の知る所の眞書太閤記百二十卷・三河後風土記八十卷は、皆東蒙の編著する所なりと、書鋪松澤老泉、此言を以て然りと爲さず、曰く、此二書は一人の手に出でず、故に體裁一ならずと、今姑く記して異聞に備ふるのみ、〕
東蒙は寛政元年己酉三月八日、肺を病みて、四谷新驛の寓居に歿す、歳六十四、邑里饅頭谷の善慶寺に葬る、浮圖氏宗惠居士と法諡す、娶らずして子なし、大田南畝、狂歌に從學する者、四方赤良等諸弟子(*ママ)と謀りて、墓碣を建て、又東作を悼むの夷曲歌一卷を刻し、盡く諸友門人の詩歌を載す、以て遺事を知るに足れり、


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千葉芸閣
名は玄之、字は子玄、芸閣と號す、通稱は茂右衞門、江戸の人なり、

芸閣は熊本の儒官秋山玉山に學び、其塾に寓すること五年、玉山期滿ちて西に歸る、此より獨り書を讀むこと又五年、終に詩藻文章を以て、時に著稱せらると云ふ、
芸閣は業を玉山に受くと雖も、性理の説を好まず、專ら物徂徠の學を爲し、呉服門外に僑居すること三年、幾ばくもなく駒籠吉祥寺の前に移居す、
寶暦中、古河侯の聘に應じ、褐を文學に釋き、俸十五口を受け、世子に侍讀たり、頗る眷遇せられ、居ること數年、■(女偏+戸:::大漢和53430)忌する者の衆きに遭ひ、已むを得ずして致仕す、是よりして後、意を禄仕に絶ち、厚聘ありと雖も、堅く辭して應ぜず、自ら誓ふ、足の諸侯門を踏まずと、講説を業と爲す、從遊の盛なる、當時の高名井金峨(*井上金峨)・紀平洲(*細井平洲)等と鴈行す、世稱して大家と爲す、
芸閣は談論に長じ、最も講説を善くす、蓋し當時の習業する所のものは、蒙求世説新語十八史略三體唐詩唐詩選嘉隆七子詩集等、皆戸誦家讀する所なり、故に能く時情に從ひ、循環反覆して講習を廢せず、衆と俯仰す、其筵に上る者、六七十人を下らず、
芸閣嘗て經を某侯に講ず、未だ一章を終らずして、侯適〃微睡す、芸閣講を罷めて端坐謦■(亥+欠:::大漢和16061)す、侯睡覺め容を改め、罪を謝して曰く、昨宵防火使なるに因りて出馬し、今曉に到りて歸る、未だ少くも寢に就かず、禮を先生に失ふ所以なりと、芸閣曰く、徹夜寢に就かざるを以て、豈に禮を師輔に失ふことを爲すべけんやと、嗚呼六十年前の先輩、諸侯に禮貌せらるゝこと、大率此の如し、
井太室(*渋井太室)曰く、關東の學、經を治むる者は寡く、辭を修むる者衆し、大抵文章は文選軌範(*文章軌範)・明の李王、詩藻は唐詩選詩刪絶句、解史は左國史漢、典詁は世説(*世説新語)・蒙求、多きを具へて之を奇とす、相傳へて曰く、某は唐詩に精しく、某は蒙求に熟すと、進みて其講説を聽き、退きて其訓註を捜れば、童習白紛、以て一語の出づる所と一言の據る所とを研求し、得ざることあれば、時日を惜まず、行露を憚らず、必ず窮めて止む、此を以て家を成せば、一大奇事なりと、是言其著す所の讀書會意の中に見ゆ、其指す所、誰たるを知らずと雖も、蓋し芸閣前數書に依りて、後進を眩曜するを以て、其の爲す所を諷刺するなり、
物少ければ貴く、事多ければ賤しきは、自然の勢なり、安永中、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の遺老、凋喪殆ど盡く、經義・文詞を論ぜず、二傳若しくは三傳して、其業を守る者は、太宰氏(*太宰春台)の徒にあらざれば、則ち■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水(*宇佐見■水)の徒、服部氏(*服部南郭)の輩にあらざれば、則ち蘭亭(*高野蘭亭)の輩、絶えざること綫のごとく、靡委として振はず、之を攻撃する者、其虚に乘じて起り、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)老(*荻生徂徠)の業を辯駁し、修辭の説を排詆す、將に其弊を一洗せんとし、餘力を遺さず、間〃其説を信ずる者ありと雖も、其言を疑惑する者、猶尚寡からず、故に舊習を追慕する者は、醇疵を辨ぜず、芸閣を尊信せざるを得ず、是れ自ら能く時好に合ふ所以なり、蓋し芸閣の學は玉山より出で、玉山は南郭(*服部南郭)の弟子なり、學其家世の訓を奉じて、朱子を主とすと雖も、文章・詩歌は全く指授を傳ふ、今人動もすれば、輙ち芸閣の諸書を以て、學術の疎漏を笑斥す、是れ未だ時勢を知らずして、其人を論ずるなり、古人嘗て謂ふ、人を論ずる者は、宜しく先づ其時勢を知るべしと、否れば己の執る所を以て、得失を臆斷し、當を得ざること衆し、
寛政四年壬子十一月七日、疾を以て駒籠の僑居に歿す、歳六十六、東鄰の總禪寺に葬る、横井氏を娶り、三男・四女を生む、皆夭す、門人植村士道鹽野光迪、後事を相議し、僅に香火を絶たずと云ふ、
芸閣は資性温和、卓絶の才なしと雖も、刻苦述作し、暫くも筆を輟めず、著す所標箋孔子家語十卷・標箋荀子十卷・標箋莊子十一卷・標註國語廿一卷・孔子行状圖解二卷・官職通解年中吉事各一卷・唐詩選掌故唐詩講釋各七卷・四聲韻選詩學小成各四卷・文章小成頓悟詩傳各六卷・芸閣文集のごとき、皆世に刊行す、


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内田頑石
名は升、字は叔明、字を以て行はる、頑石道人と號す、冠獄・鵜洲は皆別號なり、通稱は文道、江戸の人なり、

頑石の系は、遠江の相良三郎長頼の弟、内田四郎宗頼より出づ、足利將軍の時、封を伊勢の三重郡上鵜河原に受け、後、國司千種氏に屬す、織田右府の時、其六世の孫、彦太夫宗勝父子、及び一族五人、美濃の加賀井の役に戰死す、時に天正十二年五月六日なり、宗勝の弟、十右衞門宗信の男、忠太夫宗傳、上鵜河原に留守し、子孫皆郷豪と爲る、高祖莊左衞門宗矩は宗傳の仲子なり、曾祖宗榮は宗矩の季子なり、寛永中、江戸に來り、醫を以て業と爲し、忠庵と稱す、祖彦太夫宗廉、亦醫を爲し、又射を善くす、士人從ひて其業を受くる者衆し、父意房、字は子長、玄淳と稱す、學を好み書を善くす、三宅氏を娶り、意滿を生みて歿す、再び城田氏を娶り、意興・頑石・意陸及び一女を生みて歿す、室に繼ぐに其妹を以てし、廷輝及び二女を生む、廷輝、名は瑛、玄對老人と號す、渡邊■(三水+秦:::大漢和17978)水の遺訓を以て、畫を以て世に著聞す、頑石の伯・仲・叔皆多病、常に藥餌を事とす、遂に皆早く歿し、頑石獨り健なり、
頑石は天資孝友、能く父兄に事へ、口訥にして言ふ能はず、終日端坐して、人と語らず、玄淳乃ち謂つて曰く、汝資性魯■(馬偏+矣:::大漢和44780)、學問に依るにあらざれば、いづくんぞ愚を愈すを得んと、會〃伊藤竹里、久留米侯の聘に應じて、江戸に來る、其居甚だ遠からず、大に悦び、頑石をして之に從學せしむ、
頑石は篤く父師の訓を奉じ、晝夜册を挾み、誦讀殆ど遍く、經史に通曉す、幾ばくもなく竹里歿す、故に板美仲(*板倉帆邱、板倉■(玉偏+黄:::大漢和21242)溪)に從ひて修辭の業を學ぶ、美仲亦早く歿す、又赤松猗甫に從ひて經義を受く、遂に此を以て家を起し、終身變ぜず、能く其説を奉ずと云ふ、
頑石歳十五歳にして父を喪ふ、其翌年、繼室城田氏、家道の漸く振はざるが爲めに、一諸侯の後宮に仕へ、其俸資を以て諸孤を養育し、又頑石兄弟學業の費を給す、其自ら生む所の廷輝、僅に十歳、頑石之を撫教し、廷輝をして通家渡邊■(三水+秦:::大漢和17978)水に從ひて繪事を學ばしむ、■(三水+秦:::大漢和17978)水丹青を以て時に名あり、又廷輝の人と爲りを愛す、其家貧なるを愍み、遂に請ひて之を子養す、明和丁亥、■(三水+秦:::大漢和17978)水歿す、時に廷輝十九歳、竟に渡邊氏を冒す、猶頑石と同居し、友于最も厚し、遂に高名の人となる、未だ嘗て頑石の獎成に依らずんばあらず、
頑石は麻布の古河に居る、其地都を離るゝこと遠からずと雖も、隔てゝ南郊に在り、而も列侯貴族、自ら其廬を訪ね、或は延いて賓師と爲し、其業を崇する者頗る多し、
頑石婚官を欲せず、人之に婚を説けば、則ち曰く、一身の外、亦復た何をか須ひん、便ち婦あれば、吾れ恐らくは、劉伶の酒に捐てられ、器を毀らむと、人之に官を説けば、則ち曰く、山野の性、元冠に■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)はずと、其眞率自放此の如し、
頑石は性酒を嗜み、酣暢の餘、世埃を脱遺す、飮多くして益〃温に、醉甚しくして愈〃克なり、杯鐺盤壜、坐側を去らず、朝となく暮となく、常に酒臭を帶ぶ、
頑石嘗て攝津伊丹の造釀家某をして、醇粹の酒を製せしむ、其氣味清酸にして苦辛、是より先きの苦甘軟淡なるに似ず、自ら之が銘を題して曰く、憂を消し鬱を散じ、黄泉に透徹す、百藥の長、山川を暢潤すと、蓋し關東の人、性酒味の辛苦猛烈を嗜むは、關西の人の■(酉+古:::大漢和57915)醪軟甘温濃を好むがごとくならず、自ら土地の肥瘠と人氣の強弱とに依る、是より以降、此造釀の法、盛に時に行はる、江戸十里四方の飮む所、此を以て爲に稱謂し、今に至りて泉川と號す、七十年來の飮客、泉川を愛せざる者なし、氣味殊に芳辛清苦を以て、世に稱せらる、
頑石知命の後、酒量益〃甚しく、或人諫むるに、其飮を節するを以てす、則ち曰く、糟邱數仭は、是れ我■(山偏+肴:::大漢和8206)函の險なり、我爲めに固く守る者は、壺を持し樽を抱きて來れと、更に與に校せず、自ら醉郷太守、或は酣樂都督と號す、皆戲謔の表する所なり、
頑石は元文元年丙辰六月十九日を以て生れ、寛政八年丙辰十二月十二日を以て歿す、歳六十一、白金邑の光林寺に葬る、著す所、林麓草堂雜記群書校正録各十卷・鵜洲吟草醉客漫興集各二卷あり、
余、渡邊赤水と、談頑石に及ぶ、赤水曰く、吾伯父實に婚官を欲せざるにあらず、壯にして娶るべきに二兄の多病に値ひ、撫養人なきを以て、言を欲せざるに託す、これに加ふるに、家極めて赤貧、費給すること能はず、故に此の如しと、其友于の厚き、以て想見すべし、赤水名は昂、字は伯■(偶の旁+頁:::大漢和43599)、忠藏と稱す、玄對の長子なり、屡〃余と驩す、其人已に木に就く、余の憶記する所を録すること、亦此の如し、


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原狂齋
名は公逸、字は飛卿、狂齋と號す、通稱は豹藏、淡路の人なり、

狂齋は家世〃淡路の須本に居る、須本は阿波の家老稻田氏之に居る、高祖以降、皆仕籍に入る、狂齋は兄弟五人にして其仲なり、早く父を喪ひ、母氏に養はる、十八歳にして伯兄夭し、繼いで母を喪ふ、性官を好まず、廿一歳にして家事を三弟に托し、禄を辭して浪華・京師に漫遊す、諸名流に應接する、此に五年なり、後、江戸に到り、井金峨(*井上金峨)の門に入る、塾に寓すること五年、廿七歳にして、帷を駒籠に下し、教授を業と爲す、
寶暦の初、井金峨專ら經義を漢・宋歴代の衆家に折衷するの説を唱ふ、物徂徠(*荻生徂徠)古文辭を修め、始めて古言を知るの説を排撃し、其業一時に行はる、狂齋其説を奉崇して、能く之を贊成す、繼いで和する者數家、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園・赤羽の學、之が爲めにやゝ衰ふ、故に舊習を堅守する者、金峨・狂齋等を視ること、殆ど仇讐のごとし、而も之と爭ふこと能はず、■(女偏+戸:::大漢和53430)忌する者甚だ多し、
狂齋始めて駒籠に居る、是を明和乙酉二月と爲す、是より先き、金峨創めて謂はゆる賣講なるものをなす、吉祥寺・龍光寺及び諸院の緇徒、來りて其門に入る、毎に講筵に侍する者數百人、江戸の儒家、講説授徒の事ありてより、從遊の盛なる、未だ曾て有らざる所なり、金峨之をなすこと數年、居を下谷に移すに及び、狂齋をして代りて之に居らしむ、故に狂齋の講説を聽受する者、金峨に讓らずと云ふ、
狂齋は駒籠に教授する三年、千葉芸閣齋藤東海松村梅岡伊東藍田等の諸家、又此に教授す、皆是れ時習の■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園學を奉習する者なり、當時■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の遺教、舊しく人の肺腑に淪胥し、容易に之を洗ふべからず、狂齋は衆楚の■(口偏+休:::大漢和3570)に堪へず、去りて高輪の泉岳寺前に移居す、又品川の東海寺前に移り、又谷中の瑞林寺前に移る、又愛宕の青松寺前に移り、又下谷車坂に移る、前後一ならず、其著す所、狂齋諸器銘跋に、自ら書して曰く、乙酉始めて江都に住してより、居を移すこと凡そ一十八次、居三年の久しきなく、食に一日の儲なきこと、此に十七年なり、今叡嶽の側に姑息す、未だ幾日にして、復た之を違るを知るべからず、天明改元七月題すと、
狂齋は金峨より少きこと僅に三歳、金峨弟子を以て之を遇すと雖も、天資敏捷、金峨の上に出づ、たゞ惜むらくは、南鄙に生長し、浪遊數年、衣食に艱澀し、良師友の資益紆意するなし、故に經史に從事すと雖も、志業を遂ぐるに由なく、因循手を束ね、其東に到るに至りて、金峨の門に入り、始めて學の向ふ所を識り、之を信服す、金峨之を愛すること、他の弟子に踰え、之が處分を爲し、衣食を辨給し、又生を治むるの宜を謀る、傾■(目偏+來:::大漢和23442)庇護、至らざる所なし、狂齋之に師事し、之に倚頼し、終身奉崇の意を易へず、其師弟品行の高誼、■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)誠の輸寫、以て敬服すべし、
狂齋初て浪華に到り、其士風を觀る、蓋し其民庶氣を好みて任侠、專ら廢著交易の事を爲す、自ら以爲らく、我れ市井販鬻の機を諳ぜずと、則ち去りて又京師に到る、其士夫僞を好みて粉飾し、輕薄纖嗇、狹陋殊に甚し、縉紳君子は尊大にして自ら喜び、布衣の士を視ること、草艾の如く然り、自ら以爲らく、皆遇する所なきや必せりと、竟に已むを得ずして江戸に到る、既に金峨を見るの後、趣向自ら定まり、將に師説を皇張し、以て一家の言を成さんとす、意竊に先づ士林の振起すべからざるを識り、其自視缺然として、意を仕進に絶ち、藝苑に放浪す、故に其學術の醇、識見の粹、實に時流の能く企て及ぶ所にあらず、然りと雖も、志を得ず、白屋の中に窮屈し、其人と爲りを知る者なし、眞に惜むべし、
狂齋の石昆陵(*石川昆陵)に答ふる書中に曰く、都會は天下の士民輻輳し、業を建て名を顯すの地にして、爲すこと有る能はざれば、其時事知るべきなり、故に遺逸の民を以て自ら居る、寔に命同じからず、夫れ復た何をか言はん、今西毛に在り、亦客跡のみ、適〃山澤に出遊す、物に感じて情なき能はず、常人庸夫も猶能く爲すことあり、而も獨り此の如し、遠く墳墓の地を去り、親戚の存亡、得て聞くべからず、豈に人の情ならんやと、又江子夢(*堀江子夢)に與ふる書中に曰く、僕、洛に五年にして、後、東に來り、竊に海表の文物を窺ふ、最後我師を見て、未だ嘗て聞かざる所を聞き、未だ嘗て知らざる所を知る、未だ嘗て學を治めざる者の如し、是に於てか、灰を飮みて腸胃を洗濯し、復た世人影響の時習を■(手偏+合+廾:えん・あん:おおいつつむ。奄・掩。:大漢和12359)はず、專ら唐虞三代の道を以て、それを洙泗の遺訓に折衷し、さきに爲す所のものは、恬として復た顧みず、才中人に及ばずと雖も、意旨較然として其志に背かず、囂々として天下に怎(*原文は「立心偏+乍」)ぢず、自ら謂らく、其心を役するや、是のごとくならずんば、何を以て從前の鬱悒を慰めん、貧は士の常にして、素と習ふ所なり、行義破乎として、世儒に讓らず、我れ吾道を以て、縉紳君子を視ること、藐焉たるものゝごとし、貴人達官、僕が鞠躬如を見る、豈に往者の公逸ならんや、且つ滕・薜の小吏と爲るも、趙・魏の老たるを欲せざるは、固より僕の志なり、さきに足下の輩の爲に激せられざれば、徒に長じて南海菰蘆中の人と爲らむ、何を以て此樂あるを得んやと、此二書を讀み、以て金峨に從事するの厚きを知るべし、今按ずるに、石川陽、字は東夫、昆陵と號す、堀江吉、字は子夢、鳴門と號す、皆淡海の人にして、業を大阪に講じ、狂齋と交歡する者なり、
近世江戸にて一家の言を建立し、稱して大家といふ者は、必ず之に羽翼たるの弟子あり、山崎闇齋佐藤剛齋三宅尚齋に於ける、木順庵(*木下順庵)の新井白石室鳩巣に於ける、山兼山(*片山兼山)の萩大麓(*萩原大麓)・松葵岡(*松下葵岡)に於ける、皆能く其業を唱和し、師説を繼述し、終身遺教を維持する者なり、其間小異ありと雖も、全く舊師に背くに至らざるなり、金峨早に英邁の資を負ひ、超倫の見を抱く、江戸滔々として■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の修辭に淪胥し、古言を知るの學、盛なる時に於て、崛起して經義を折衷するの説を首唱し、都下靡然たり、其齡未だ六十に及ばずして歿す、才俊の弟子、其人に乏しからず、狂齋及び吉篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)(*吉田篁■)・龜田鵬齋等、尤も之を羽翼する者なり、不幸にして金峨歿する後、狂齋幾ばくもなく繼いで歿す、有識の士、爲めに之に愛惜せざるなし、
金峨の狂齋に復する書中に云く、純卿(*井上金峨)寡交乎と雖も、斯文を以て四方の學者を見ること、殆ど二十年ならんとし、一の意に當る者なし、獨り足下を得るのみ、願くは足下弩力せよ、遇不遇は天なり、遺佚して怨みざる者は、獨り己を善くするなり、之を空言に施すは、之を來者に待ちて、上は父母を顯し、下は初志を償ふの勝れりと爲すに若かず、今の學者は夢■(爿+自/木:::大漢和に無し)(*■(宀/爿+自/木:::大漢和7351)か。)の中、亦意を此に置かず、是れ僅に足下の爲めに道ふべきのみ、來諭、其世の修辭家、李王を以て孔顔と爲し、詩賦を以て典經と爲し、盲史腐令、遂に濫説の資と爲すを言ふに至る、又何ぞ時弊を傷るの切にして、立言の快痛なる、頃ろ書生純卿の字を乞ふ者あり、之が爲めに、目、李王の集に渉らず、行、恢達の事を爲さず、後、始めて才子の名を免るゝに足るのみの二十四字を書いて、之に與ふ、退いて後省するに、渠れ世の謂はゆる修辭家、熊耳餘先生(*余熊耳)なる者に師事す、先生は歳時に于鱗(*李于鱗)・元美(*王元美)を其家に祀り、尊崇尸祝、亦極めて至る、渠れまさに意に滿たざるべし、強ひて人情の語をなして謝し去る、世間の失望、亦多く此に類す、以て一大笑を發するに足るのみと、按ずるに、金峨、當時に在りて指譏し、時習を置かざること此の如し、其狂齋を遇するの厚き、以て見るべし、
狂齋は金峨を喪ひてより、鬱悒として樂まず、自ら■(髟/几:::大漢和45359)して修眞道人と號す、常に緇衣を著け、復た刀劒を佩びず、殆ど僧侶のごとく然り、面色憔悴、人をして惻然見るに堪へざらしむ、是の時に當りて、閣老相良侯意次(*田沼意次)、權を世に弄し、文士を忌嫌す、儒術の業、縉紳に振はず、賄賂公行し、同を擧げ異を排して、相憚る所なく、朝野口を箝す、時事知るべし、故に意を時に絶つと云ふ、
狂齋深く時勢の振はず、志業の成らざるを識り、自ら終身の可否を筮し、遯の否にゆくに遇ふ、世を憂へて慷慨し、一篇の文を作る、維れ天明己巳秋七月、原子將に跡を塵埃に削り、志を邱岳に放ち、自ら古の逸民に比して、遠く名山に遊び、其終る所を知らざらんとす、個然として此に違(さ)り、復た顧みず、今より後、生あるも、亦猶死するがごときの久し、因つて自ら文を作りて、祭りて曰く、天壤の間、物皆則あり、而して則に儀多し、大人の儀あり、小人の儀あり、其儀■(戈/心:::大漢和10319)はずして、其彜に爽はず、若し夫れ或は之を易ふる者、必ずや自ら■(艸+追の旁+辛+子〈偏〉:げつ:脇腹・ひこばえ・災難・悪逆・不吉・不孝・かもす・飾る:大漢和7047)を取り、貲ふべからず、我儕小人、秉る所の者少なければなり、猶意の如くならざれば、則ち傷悲す、矧や有道の君子、其自ら任ずる者は、重且つ丕なり、小大殊なりと雖も、歸する所は一なり、身を一棺に■(楫の旁+戈:::大漢和)め、自爾として此に止む、司馬牛魯に卒し、これを邱輿に葬る、賢者の所を失ふを閔みて、之を録す、我れ不肖、縦ひ行路に死するも、孰れか夫れ之が屍を掩はん、苟も志の損隊せざるは、與り知る所にあらず、行尸走肉の貿貿たる、其弊預め期すべからず、水に投ずれば、跡を屈平(*屈原)に■(人偏+牟:ぼう:等しい:大漢和597)しうし、山に死せば、饑を伯夷に同じうす、之を上にしては烏鳶、之を下にして螻■(虫偏+豈:::大漢和33415)、曷ぞ彼を奪ひて此に與ふること、爲すべけんや、我を知る者は天か、弃損盡くるを竢つ、我れ何ぞ疑はん、自ら贊し自ら祭りて、人を煩さず、晉の陶徴士(*陶淵明か。)は乃ち我師なり、菜■(肴+殳:::大漢和16647)村醪は給し易し、是れ寒士の宜しき所、豈に夫れ之を祭る、必ず大牢のみならん、庶幾くば來享して辭するなかれ、乃ち■(行構+干:::大漢和34034)然として飮茹し、既に醉ひ且つ飽く、其巵を覆して曰く、嗟乎狂齋居士は、世を論じ時を識ると謂つべしと、
狂齋は少壯より喘息を憂へ、恒に藥餌を事とし、四十の後に至り、暴起時なし、寛政五年庚寅二月、病に臥し、竟に救治する能はず、四月二十日を以て、南芝高輪の寓居に歿す、歳五十六、娶らずして子なし、門人相議して、小日向里の金剛寺に葬る、寺主僧は從遊の人なり、著す所、周易啓蒙圖説一卷・論語博義十卷・學庸私衡二卷・古詩十九首解藝海蠡狂齋諸器銘各一卷・原子内編同外編各二卷・諸友贈答詩文三卷・師友談録四卷・狂齋録五卷あり、修眞道人遺稿六卷は、門人の編する所なり、
狂齋は是より先き詩あり、云く、

生涯五十果して何をか爲ん、老後沈淪素と知る所、吾已なん名と實と、將來惟だ欠く道山の期 (*生涯五十果何爲、老後沈淪素所知、吾已矣哉名與實、將來惟欠道山期) 〔其一〕
人間に寄住する半百の年、許多の辛苦自ら糾纏、蓬心未だ了らず無中の有、大夢醒め來て天を樂ぶを知る (*寄住人間半百年、許多辛苦自糾纏、蓬心未了無中有、大夢醒來知樂天) 〔其二〕
身は南海に生れて原を姓と爲す、逸と名け飛と字して狂狷行る、抂て世事を抛て煩襟を洗ふ、焉ぞ彼の天と命とを知るに在ん (*身生南海原爲姓、名逸字飛狂狷行、抂抛世事洗煩襟、焉在彼知天與命) 〔其三〕
典雅ならずと雖も、以て一部の小傳に充つべし、


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赤松滄洲
(*赤松国鸞)
名は鴻、字は國鸞、滄洲と號す、一に靜思翁と號す、大川良平と稱す、播磨の人にして赤穗侯に仕ふ、

滄洲は播磨の朏の人にして、父を舟洩通益と曰ふ、十七歳にして、赤穗の醫員大川耕齋の爲めに養はれ、出でて其氏を冒す、大川・舟洩は皆州の望族赤松氏より出で、村上の庶族なり、故に文詞に於ては赤松と稱す、
滄洲弱冠にして平安に遊び、方技を香川修庵に學ぶ、經義を宇明霞(*宇野明霞)に受けて醫たるを欲せず、志を書籍に留め、誦讀これ耽る、赤穗侯之を聞きて、父祖の業を改め、之をして其欲する所を專らにせしむ、未だ三十歳に至らずして、文學の聲藝苑に振ふ、延享丁卯三月、侯擢でて儒員と爲す、時に歳二十七なり、
滄洲は少壯より容貌魁偉、殊に鬚髪美なり、婦人小子と雖も、一見して其凡にあらざるを知る、當時兩鸞鳳の名あり、是より先き、吉益周助(*吉益東洞)、古醫方を以て都鄙に名あり、其人自ら好んで邊幅を修飾し、極めて威儀を美にす、衣服・刀劒より煙管・懷■(代/巾:::大漢和8843)(*懐帋か。)に至るまで、身具を華裝し、形樣相喜ぶ、世呼んで鸞鳳姿と曰ふ、滄洲修飾をなさずと雖も、自然に威重あり、故に又之を目して、以て物議と爲す、
滄洲は豪邁峭直、惡を疾むこと讐のごとし、其不可とする所に至りては、權貴を避けず、嘗て君侯の側に在り、藩士某を面折す、某勃然として色を變ず、侯亦敢て之を然りとせず、乃ち抗言して曰く、君其れ臣の言を容れざれば、先づ臣が首を斬るか、否ざれば某の其任に堪へざるを罷めよ、順逆可否、何ぞ喋喋を待つこと之爲さんと、其屈撓せざる、率ね此の如し、
赤穗の地、西南に濱し、海運甚だ便にして、巨浸震蕩、九州を控牽す、雲物の變幻、山川の形勢、甚だ大ならずと雖も、士風敦實なること、自ら沿海の諸州に異なり、是より先き、大石良雄等、義烈を以て天下に顯る、故に其遺俗自ら存す、治下の民庶、皆然諾を事とし、義を爲すに勇なり、滄洲建議して學舍を起し、文教を張り、自ら經史を講説し、實踐躬行を以て士風を鼓舞す、異行能言の輩、踵を繼いで出で、藩政に裨益する所、頗る多し、
余が家、滄洲書する所の行書一軸を藏す、筆札の美、稱するに足らずと雖も、其語警拔なり、故に此に附記す、曰く、性と情と、萬■(三水+區:::大漢和18139)起つて復た破る、水の性未だ嘗て亡びざるなり、萬燈明にして復た滅す、火の性未だ嘗て亡びざるなり、■(三水+區:::大漢和18139)燈は情なり、水火は性なり、情と性と、魄と魂と、能く此理を識りて、以て性を言ふべしと、
滄洲は儒員に起り、諸官を歴、超遷して竟に家老に至り、藩政を執る、赤穗の茅土を受けてより、未だ曾て有らざるの擧なり、蓋し赤穗の先封は、嚴然たる一大藩鎭たり、慶長中、始めて封を美作全國十八萬六十石に受け、世の謂はゆる鬼武州長可(*浅野長可)の男忠政(*浅野忠政)、是を侯家官閥の始祖と爲す、襲封四世にして、曾孫長成〔一に成時に作る〕(*浅野長成)の時に至り、狂疾あり、國除して郡と爲し、別に長成の男長紀を、赤穗二萬石の地に封じ、之をして其祭祀を奉ぜしむ、此より而降、繼守ありと雖も、これを曩時に比すれば、小大均しからず、貧富亦異なり、滄洲此に當路たるに及び、典刑を修め、賦役を調へ、預め方略を設けて、士民を救濟す、百廢盡く興り、封境富饒にして、亦匱しからざるを得、上下悉くこれに依頼するもの、蓋し鹽を煮る法を以て利を爲し、今に至ると云ふ、
滄洲嘗て謂ふ、大丈夫生れて時に遇はざれば、まさに宇宙を■(三水+凌の旁:::大漢和58585)■(勵の偏:れい・らい:厳か・厳めしい・厳しい・励ます:大漢和3041)し、人世を睥睨し、飄然として塵表に輕擧すべし、焉ぞ能く局促して、人に仰食し、仕を世に求むることを之れ爲さんや、今の侯國に仕ふる者は、豈に身を立て道を行ふと謂はんや、其求むる所は、入りては則ち家屋の安富あり、出でては則ち車騎の光榮あるに過ぎず、百年の爲す所、徒に飽煖の資のみ、我れ早に仕途に登り、斗升の禄に羈絆し、常に此を以て自ら悔ゆ、既にして及ばず、其藩政に從事するの後に至り、奈何ともすべきなし、故に人の盛壯年にして羈絆に就き、禄仕を乞ふ者を見れば、未だ嘗て之が爲めに嗟嘆せずんばあらず、私心竊に謂ふ、他日將に我が悔の如きものあらんとすと、人に忠告すること毎々此の如し、
滄洲は後進の士の、志を學に立つるある者を激賞して置かず、徳器を成就し、茂材を培養するを以て專務と爲す、故に從遊の士、自然其風習に化し、各〃其氣を雄壯にし、其心を開拓し、豪杰を以て自ら任ぜざるなし、
寛政の初、柴栗山(*柴野栗山)、時相の爲めに優遇せられ、學政を料理す、言を漢魏傳疏の學を崇拝する者は、動もすれば輙ち、程朱を詆■(此+言:し:謗る:大漢和35344)して忌憚する所なく、後進の士、轉遷一ならず、人材を壞害すること甚だ少からざるに托して、將に其弊を揉改せんとし、舊格を易へ、視聽を新にするもの多し、其言理あるに似たりと雖も、偏頗を免るゝこと能はず、意に■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)ひ、己に合はざる者は、概ね其排擯を受く、皆川淇園佐野山陰村瀬栲亭龜井南冥(*亀井南溟)・篠郁洲(*篠崎三島)・東藍田(*伊東藍田)・市川鶴鳴豐島豐洲崎淡園(*戸崎淡淵)・紀平洲(*細井平洲)・■(冖/一/豕:::大漢和1584)大峰(*■(冖/一/豕:::大漢和1584)田大峯)・山本北山等のごとき、皆時に名あり、各〃其見る所を以て、時好に趨り、舊習を改むるを欲せず、藝苑の士、朋黨を相爲し、頗る門戸の見をなし、群議恟々たり、滄洲特に之を憂へて曰く、此事まさに熟講して之を緩行すべし、人材は遽に得べからず、たゞ一人の見を以て、積弊舊習、頓に革むべからず、享保以降、文學漸く開け、治道益〃備る、大は廷論より、小は疏達まで、上下相資け、公私互に得、是れ體を得ると爲す、講學の要は、之を自得するに在りて、流派を分別するに在らず、今世の務は、博く人材を求むるに在り、舊を變じ故を易ふるは、敢て先ずる所にあらず、故に學政を料理する者は、まさに虚心公平、以て衆議を延くべし、必ずしも謀己より出すべからず、謀己より出づれば諂諛阿附、間に乘じて迎合し、其意を得るを獲、方正の士、將に卷懷退避せんとす、恐らくは學術の衰、是より振はじと、其言果して驗あり、
學政を一變してより、奔競して時習に趨く者、觀望して勢に附す、栗山(*柴野栗山)建議して、法令益〃峻しく、其講經濂洛關■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)に依る者にあらざれば、用をなすを得ず、故に漢・唐・元・明、及び我土の伊藤堀河(*伊藤仁斎)・物赤城(*荻生徂徠)を論ぜず、盡く目して異學と稱す、辨辯駁排擯し、餘力を遺さず、久要ありと雖も、僞を挾み名を求め、其間に循默し、依違として決せざるもの最も衆し、異學の目を獲る者、怨を銜み骨に刻し、之を憤懣すと雖も、其勢に敵せず、黨を分ちて毀■(此+言:し:謗る:大漢和35344)し、其害言ふべからざるものあり、滄洲以爲らく、學術の要、教訓の務は、隆替治亂、休戚安危の係る所、事至微と雖も、愼まざるべからず、若し矯揉するなくんば、漸々に萎靡し、勢必ず振はず、吾道遂に廢せむと、乃ち書を栗山に與へて云く、 濶焉久し、乃ち修侯を擬す、而して局務間なきを慮り、更に手教を煩す、是を以て去秋小詩を奉呈し、亦敢て隻字を附上せず、聊か相思の切を述ぶるのみ、伏して惟みれば、文侯佳勝、慶幸曷ぞ堪へん、鴻(*赤松滄洲)不佞、春來疎狂故の如し、東山西澗、藜を曳きて寛歩し、花鳥を觀、烟霞を弄し、風雨を除くの外、率ね虚日なし、昔時の周遊を追念すれば、感來り興盡き、悵然として還る、一日今枝生に會し、足下の消息を問ふ、生乃ち話して曰く、去秋貴恙あり、且つ門生京客更に病むと、勞心想ふべし、天吉人を相す、今則ち霍然として喜ぶべし、豚犬勳也の書を傳へ得るに、云々あり、因つて動止の嘉亨を審にし、渇望頓に慰む、恭喜雀躍、鴻不佞、客歳以來、聞く所あり、乃ち國字書を以て、區々を具陳せんと欲すと思へり、亦復た賢慮を勞して、機務を妨げむことを恐れ、乃ち止む、近ごろ人の江戸より至るあり、來りて愚老を見、談論時を移す、乃ち語りて曰く、柴博士彦輔(*柴野栗山)、徴命を奉じて東するや、上、士大夫より、下、匹夫庶人に至るまで、苟も書を讀み學に志す者は、識ると識らざると、咸な謂く、柴子(*柴野栗山)は必ず虚文固陋の儒にあらじ、來りて學政を修む、上行下效、教化の盛なる、以て想ふべし、經學文章、此より益〃興らんと、今柴子建言して施設する所、其偏癖啻に山崎闇齋のみならず、薦引する所、皆是れ迂闊陳腐、四書・小學・近思録の外、他書の讀むべきを知らざる者なり、柴子其學專ら程朱に據るを以て適〃當時の宰執の好む所に投合し、乃ち其權勢に杖りて、宋學にあらざる者を禁遏せんと欲す、是を以て大に人意に合はず、文學の士、非議せざるはなし、且つ世變に乘じて、累葉學士の職を傾奪せんと欲す、諸學士之を相憤怨し、視ること仇讐の如く、洛蜀朋黨の禍に庶幾しと、其言此の如し、鴻、是に於て矍■(足偏+易:::大漢和37648)として勝へず、知らず、足下亦嘗て其言を聞き、其故を知るか、鴻竊に意ふ、諂諛の徒、方に且つ功業を稱贊し、未だ嘗て一人の是を以て左右に聞ゆる者あらざるなり、諂諛の徒にあらざれば、必ず曰く、彼れ方に時を得て意を恣にす、之に觸れて、以て禍を取ることを爲すなかれ、若かず、默して之を待ち、數年を過ぎずして、彼れ自敗を得ん(*には)と、是によりて之を觀れば、當今書を讀み、學に志すの士の、足下に於けるや、諂諛にあらざれば、■(此+言:し:謗る:大漢和35344)毀するなり、要は皆足下に利あらざる者なり、鴻のごときは然らず、知交淺からず、情誼至つて深し、忠告せざるを得ず、夫れ人心の同じからざるは其面の如し、古人既に之を言ふ、書を讀み道を學ぶは、見る所各〃異なるも、其尊信する所は亦皆仲尼(*孔子)の教にして、孝悌忠信・仁義禮樂・治國安民の外に出でず、則ち必ず唯宋儒に是れ據ると、鴻、國字を以て愚意を述べんと欲す、忽ち聞く、一生あり、性理學を好み、乃ち詩若しくは書を作りて天下に勸む、其意蓋し盡く後世諸家の、敢て宋儒に肯從せざるの論著書籍を焚いて、之を滅亡せんと欲するなり、鴻、竊に謂ふ、此曹私意を以て足下に媚び、以て足下の過を益すに足り、海内の躁擾を知らず、あゝ無識の小人、其醜むべきこと已に甚し、鴻、是に於て已むを得ずして具陳す、冀くは足下其心を平正にし、其意を寛廣し、上、當路の執事諸公に請ひて速に令を出し、禁を弛めよ、專ら程朱を信ぜず、漢・唐の傳疏を用ひ、或は王陽明に從事し、或は堀河の學(*伊藤仁斎の流)・徂徠の説を用ひ、博く衆家を取り、學者唯〃其好む所に是れ從はゞ、未だ道に害ありと爲さず、苟も然らず、唯〃宋儒に藉りて是れ讀めば、小學・近思(*近思録)・語類(*朱子語類)等、數書の間に汨沒し、其弊終に不立の文字、教外の別傳と成りて、僅に能く頭巾の氣習を以て、其陋を飾るのみ、鴻不佞、犬馬齡已に七十を過ぐ、少壯より相識る所の儒生文士、少しと爲さず、其宋學を好み、博覽にして文字詞藻あるは、特に肥後の藪士厚(*藪孤山)・浪華の中井子慶(*中井竹山)、及び足下(*柴野栗山)のみ、他は幾ばくもなし、餘は皆性理の言に肯從せざる者なり、凡そ道を學ぶに之れ勤むるは、博く群籍を讀むに在り、而して聖人の教を知るは、孝悌忠信・仁義禮樂・治國安民の外に在らず、則ち其據る所の經解、漢唐若しくは後世の衆家、各〃其好む所に從ふも、何の害か之れあらん、唯其智愚、賢不肖、用ふる所の如何に在るのみ、又聞く、足下程朱を謂つて正學と爲し、諸家を以て異學と爲すと、夫れ異は固より同じからざるの謂なり、諸家程朱に異なりと謂ふは可なり、而も正は邪の反對なり、苟も程朱を學ばざる者は、皆之を邪と謂ふか、果して其言是ならば、他の諸家は姑くこれを置くも、皇朝の博士家、經を説くに、古より今に至るまで、舊典を遵用し、專ら注疏に依りて、程朱に從はず、豈に皇朝邪學を用ふと謂ひて可ならんや、是に由りて之を觀れば、唯宋儒の學、之を正學と謂ふは、是亦私言不通の論なり、鴻聞く、藤惺窩(*藤原惺窩)・林羅山、專ら程朱に從ふと雖も、其訓導未だ嘗て此の如く偏僻ならず、又嘗て人あり、來り説く、皇殿新に成り、固より屏障圖畫の擧あり、事、江戸の畫院狩野住吉の二家に及び訪捜す、而して其圖式は、足下これに與る、河圖洛書・聖賢の圖像・衣冠服色、制度の考を失ふこと甚だ多く、杜撰百出す、五條の菅公之を辯駁し、足下答ふる能はずして罪を得、菅公能く之を救解すと、其他輿説紛々、此等の事、必ず信じ難し、何となれば人情薄惡、■(女偏+戸:::大漢和53430)口に出づる、亦未だ知るべからず、鴻憂懼する所は、唯學術の偏執、衆人服せず、大に時體を損ずるに在るのみ、千里遼絶、面陳する能はず、鄙辭■(三水+賣:::大漢和18591)覽、恐懼尤も深し、足下能く愛して之を受くるか、受けて之を聽くか、怒りて之を絶つか、抑〃宰執に上言して、之を罪するか、鴻謹みて命を奉ずるのみと、 〔按ずるに、此れ寛政六年二月の事なり、滄洲好みて高論を爲し、時相に抗忤するにあらず、實に學術の衰に就くを憂ふるなり、後、果して其言ふ所の如し、〕
滄洲は享和元年正月八日歿す、歳八十一、二子あり、伯勳、字は大業、蘭室と號す、叔倫、字は大經、魯齋と號す、皆學術富贍なり、伯は五十一、叔は二十三にして先たちて歿す、
滄洲は寶暦庚辰を以て老を告げ、再び業を平安に講ず、宇士新の(*宇野明霞)の門に出づるを以て、崇信する者多し、士新の高足、平安には滄洲、浪華には片北海(*片山北海)、北海は滄洲より少きこと二歳、能く之に兄事す、滄洲之と五十年、交誼を變ぜず、一書を著す毎に、北海をして之を校せしむと云ふ、著す所、周易象徴尚書獨斷論語省解各十卷・博物強識四卷・讀孟子琉客談記赤穗四十六士論各一卷、靜思亭雜著靜思亭文集各十卷・遺集二十卷なり、

先哲叢談續編卷之十一


 片山北海  立松東蒙  千葉芸閣  内田頑石  原狂齋  赤松滄洲

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