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山崎闇斎熊沢蕃山後藤松軒木下順庵安東省庵二山伯養谷一斎


譯註先哲叢談 卷三

山崎嘉、字は敬義、小字は嘉右衞門、闇齋と號し、又垂加と號す、平安の人

闇齋の父名は某、小字は清兵衞木下侯の臣たり、後仕を致して醫を京師に業とし、淨因と號す、母(*原文「毋」は誤植。)は佐久間氏、娠(はら)むあり比叡山の神に祈る、一夜夢に神を拜す、時に老翁梅花一枝を携へ、來つて左袖(さしう)に入る、遂に男を生む(、)即ち闇齋なり、闇齋幼にして桀■(敖+馬:ごう:駿馬の名・傲る・従順でない・侮る:大漢和44963)(けつがう)〔慓悍にてヤンチャなること〕制すべからず、父之を妙心寺に托し、剃髪して絶藏主と名く、乃ち一意禪を修めて懈怠(かいたい−ママ)なし、然も性行尚悛(あらた)まらず、甞て倫輩〔仲間〕と論議し、闇齋詞理塞がる〔議論詰まりて辯すべき辭なきを言ふ〕、即ち其夜窃に彼の寢に就き、紙幃〔紙製の蚊■(巾偏+廚:ちゅ・ちゅう:とばり・垂れ布・蚊帳:大漢和9134)(*原文頭注「廚」部を「厨」に作る。この字は大漢和に無し。)〕を火(や)く、或は佛典を讀み、忽ち案を拍(う)ちて放聲大に笑ふ、衆起きて怪み問へば、曰く、釋迦の虚誕を笑ふと、其豪邁不覊、皆此類(るゐ)なり、衆議之を逐はんと欲す、是時に當り、土佐の公子某妙心寺に居る、公子聰明にして藻鑑〔人を識るの明〕あり、歎じて曰く、此兒神姿非常後當に爲すあるべしと、乃ち之をして土佐の吸江寺に學ばしむ、時に土佐に鴻儒小倉三省、野中兼山あり、共に闇齋を見て、亦深く之を器とす、而して其異端に陷るを惜む、之に四書及び程朱の書を示す、則ち大に喜び、遂に蓄髪して〔髪をのばして還俗す〕儒に歸す、時に年二十五
闇齋の學、初め專ら濂洛〔程朱〕を祖とす、晩に及び吉川惟足なる者に從ひ、本邦の所謂神道(しんだう−ママ)を學び、遂に一家言を立て、此道の中興の祖〔埀加派を興したるを指す〕となる、其言に曰く、伊弉諾尊、伊弉册尊陰陽の理に從ひて、彝倫(いりん)〔人倫〕の始を正し、之に嗣いで天照大神三種の神器を以て海内を治む、夫れ神(しん)は天地の心、人は天下の神物、蓋し天人惟一、而して其道の要は土金の教に在るのみ、土は即ち敬なり、土と敬とは倭訓相通ず、而して天地の位する所以、陰陽の行はるゝ所以、人道の立つ所以、皆此より出づ、乃ち之を居敬窮理の説〔程朱の説〕に合せて曰く、神聖の世に出づる、東西處を異にすと雖も、其旨は自ら妙契〔符合〕すと、跡部光海垂加文集に跋して曰く、正直(せいちょく)瓊矛の道に徹し〔透る〕、土金の教を守り、兒屋根命宗源の傳に通じ、舍人親王(しんわう)〔國典を編纂す〕正統の書に達し、天人惟一の神光を揚げ、日徳を拜し、神國を仰(あふ)ぎ、以て忠孝の大義(だいぎ−ママ)を立つと
闇齋深く猿田彦神を欽(きん)し、毎に云く、道は大日靈貴(おおひるめむち)〔神代の始祖〕の道にして、教は猿田彦(さるだひこ)の教なりと、乃ち庚申の日を以て之を祀る、鶯谷山人の藻鹽草に曰く、凡そ神は皆八の數を用ふ、猿田彦獨り七の數を用ふ、此れ深義あり、盖し申は西南の隅に位し、而して金の旺(さかん)〔盛〕なる所、寅の東北の維(い)に位し、土の旺なる所と相對す、而して寅申共に七の數に當り、以て土金と相發す、即ち自然の妙義なり、是を以て庚申の日猿田彦を祀ると、又曰く道の教は猿田彦に始まりて舍人親王に成り、垂加靈社に發揮すと
文集其名嘉或は柯(か)に作る、盖し初名なり、垂加の號は之を神道に取る、宇井弘篤が讀思録に云く、寶基本基に曰く、神垂は祈祷を以て先(さき)となす、冥加(めいか−ママ)は正直を以て本となすと、鎭座傳記も亦此言を載す(、)闇齋の學大に世に行はれ、前後贄(し)を執る〔束脩を入れて弟子となる〕者六千餘人あり、其神道を奉ずるに及び、高第の弟子佐藤直方、淺見絅齋、其餘之に反く者亦多し
周子〔宋儒周惇〕(*周敦頤)の大(*原文「大」に作る。頭注は「太」字。)極圖説〔易に基き天地に先ちて生ぜる條理を説くもの〕、程子未だ曾て一言も之に及ばず、朱子に至りて之が解を作る、其果して周子の旨を得たるや否やは、闇齋之を疑ひて置かず、嘗て夢に周子を見て之を質す、文會筆録に載す、嘉甞て周子の書を編次す、意に謂(おもら−ママ)く、大(ママ)極圖説の朱解〔朱子の解説〕、理に於ては則ち固(まこと)に可なり、不可なし、但知らず周子の本意果して此の如くなるや否やを、辛卯の夏四月二十二日、夢に周先生を見る、乃ち問ふ、大(ママ)極の朱解は尊意に違ふことなきやと、曰く違はずと、曰く或は第一圏中に點するは、尊意を失ふ者ありと、先生之を頷(がん)す〔ウナツ(ママ)ク(、)合點〕、又將に編次する所を正さんとす、而して人に呼覺せらると
初め江戸に來る時、寒■(穴冠+婁:く・ろう・る・りょ:貧しい・苦しむ・窶れる:大漢和25628)(かんる)〔貧窮〕にして■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・助ける〈=擔〉:大漢和1195)石〔些の儲米〕(*「■石の儲け」で僅かの蓄えの意。)なし、故(ことさ)らに書商に隣りて賃居し、以て其書を借閲す、是時に當り、井上侯學を好み士に下る〔成語、士を優禮す〕、書商も亦屡謁見す、一日侯商に謂つて曰く、寡人將に學ばんとす、爾が知る所にして、人の師たるに足る者あらば、請ふ爲に介〔紹介〕せよと、商曰く、近時儒生山崎嘉右衞門と云ふもの、京師より來りて小人の東家に住す、其處する所以を視るに、尋常に越ゆ、閣下にして之を召さば、不虞の〔慮らざる、意はぬ〕幸福を得るなり、豈に感奮(*原文ルビ「たんふん」は誤植。)恩に答ふるを思はざらんや、侯大に喜び、乃ち延致〔招ぐ(ママ)〕せんとす、商歸りて闇齋に告ぐ、闇齋毅然として曰く、侯道を問はんと欲せば、先づ來り見よと、商憮然として〔失望の貌〕以為く、措大〔學者又は書生〕時勢に通ぜず、若し此の如き人を薦め〔推擧〕ば、必ず上を凌ぎ法を無(なみ)し、累自ら及ばん、薦めざるに若かずと、他日侯復た問うて曰く、疇昔(さきに)〔先頃〕告ぐる所山崎生は如何と、商曰く、小人惰(をこた)るにあらず、前日命を渠に傳ふ、渠曰く、侯先づ來りて余を見よと、是れ頑愚曉(さと)すべからざるに非ずんば、則ち狂率名を邀(もと)むる〔求める〕なり、請ふ別に通儒を擇ばんと、侯咨嗟(*ため息を出す。嗟嘆・感嘆。)良(やゝ)久くして曰く、方今自ら師儒と稱する者、多くは道を行ふに意なく、東奔西走、其技の售(う)〔賣〕れんことを欲す、而して寡人之を聞く、禮來りて學ぶを聞く、往きて教ふるを聞かずと、山崎生能く之を守る、此れ乃ち眞儒なりと、即日駕を命じて〔乘物の支度を命ずるなり〕其居を訪ふ
會津侯甞て闇齋に問うて曰く、先生樂(たのしみ)ありやと、答へて曰く、臣に三樂あり、凡そ天地の間生ある者、何ぞ限りあらん〔多きこと〕、而して萬物の靈たるを得たるは一樂なり、天地の間、一治一亂、定數なし、而して右文〔文を尚ぶ〕の世に生れて、書を讀み道を學び、古の聖賢と臂(ひぢ)を一堂の上に把る〔把臂は握手と同じく交はる形容〕ことを得るは一樂なり、是れ臣が樂む所なり、侯曰く、二樂既に聞くことを得たり、請ふ亦其一樂を聞かん、曰く此れ其最も大なるもの、而して言ひ難き所のものなり、君侯必ず信ぜず、以て毀■(此+言:し:謗る:大漢和35344)(きし)〔ソシル(、)悪口〕誹謗となさん、侯曰く、寡人不敏と雖も、先生の言を奉じ、孜々として〔勤める貌〕諫(いさめ)を求め、忠言を竭聞す(*衷心より聞こうとする意か。)、何爲れぞ今に至りて教を終らざるや、曰く君の言此に及ぶ、臣假令ひ、戮辱(*原文「りんじょく」は誤植。)〔刑に處せらる〕に逢ふも、豈に言を盡くさゞらんや、所謂樂の最大なるものは、幸に卑賤に生れて、侯家に生れざる是なり、侯曰く、敢て問ふ、何の謂ぞや、曰く意(おも)ふに今の諸侯たる、深宮の中(うち)に生れ、婦人の手に長じ、不學無術、聲色〔歌舞女色〕に殉(したが)ひ〔身を投ず〕遊戯に耽り、而して之が臣たる者、主の意を迎合し、其爲す所は因りて之を稱譽し、其爲さゞるは因りて之を誹毀し〔ソシル〕、遂に本然(ほんねん)の性をして梏亡〔ウシナフ〕消滅せしむ、其卑賤なる者が幼にして辛苦を甞め、長じて事務に習ひ、師教へ友輔(たす)け、以て其智慮を益す者に視〔較〕れば如何となす、是れ臣が卑賤に生れて、侯家に生れざるを以て、樂の最大なるものとなす所以なりと、是に於て侯茫然〔ボンヤリ〕自失し、歎息して曰く、誠に先生の言の如しと 甞て群弟子に問うて曰く、方今彼の邦孔子を以て大將となし、孟子を副將となし、騎數萬を率ゐ、來りて我邦を攻めば、吾黨孔孟の道を學ぶ者、之を如何せんと、弟子咸〔皆〕答ふること能はず、曰く小子〔弟子が師に對して自稱する代名詞〕爲す所を知らず、願くは其説を聞かんと、曰く、不幸にして若し此厄に逢はば、吾黨身に堅〔甲〕を被(かうむ)り、手に鋭〔剣〕を執り、之と一戰して孔孟を擒にし、以て國恩に報ず、此れ即ち孔孟の道なりと、後弟子伊藤東涯に見(まみ)え、告ぐるに此言を以てし、且つ曰く、吾闇齋先生の如きは、聖人の旨に通ずと謂ふべし、然らずんば安ぞ能く此深義を明(あきらか)にして、此説をなすことを得んやと、東涯微笑して曰く、子幸に孔孟が我邦を攻むるを以て念となす勿れ、予は其の之なきを保〔保證〕すと
闇齋は天性峭嚴〔ハゲシクキビシキ〕、師弟の間、儼として君臣の如し、教を受くる者は貴卿巨子〔大家の子〕と雖も、之を眼底に置かず、其書を講ずる、音吐鐘の如く、面容怒るが如く、聽徒凛然敢て仰ぎ見るなし、諸生毎に竊に相告げて曰く、吾儕(ともがら)未だ伉儷〔妻〕を得ず、情慾の感時に動きて自ら制する能はず、瞑目して一たび先生を想へば、慾念頓に消し、寒からずして慄す〔フルヘル〕と
甞て某の喪あり、儒禮を用ひて佛式に依らず、寺僧來り見て曰く、子は國俗に通ぜず、此非禮をなす、改めば則ち已む、改めずんば我■(病垂+夾+土:えい・うずむ:埋める:大漢和22395)埋(えいまい)〔葬る〕を許さずと、闇齋弟子を疾呼して曰く、姑く之を屋中に殯(ひん)せよ〔假埋すること〕、余詰朝〔早朝〕束装して關東に赴き、渠が頑囂〔頑固喧爭(ママ)〕を訴へんと、寺僧以て争ふべからずとなし、枉け(ママ)て其言に從ふ
世儒が剃髪の辯を作り、林羅山を駁(はく−ママ)す、又孝經に題する詩に云く

不孝ノ罪條五刑ニ冠タリ、參乎競戰其形ヲ踐ム、彼哉剃髪ノ腐儒子、聖門ニ此經有ルヲ信セ(ママ)ズ(*不孝罪條冠五刑、參乎競戰踐其形、彼哉剃髪腐儒子、不信聖門有此經)
闇齋の詩を作る、直に其意を寫し、磨鍛〔字句をミガキキタヘルこと〕華飾に屑々たらず、然も秋鶯の詩に云く
居諸代謝ス四時ノ中、花散シ(ママ)葉濃ニ復タ紅ヲ見ル、忽チ金衣公子ノ囀ズル有リ、秋風影裏ニ春風ヲ聽ク(*居諸代謝四時中、花散葉濃復見紅、忽有金衣公子囀、秋風影裏聽春風)
と、頗る合調(がふちょう)〔調の整ふ〕となす、又愛宕山に登る詩あり、
 空手徒行宕阜ニ登ル、同遊相語ル路ノ先後、頑夫古ヨリ災祥ヲ祷ル、愚將今ニ到リテ勝負ヲ憑ム、願クハ宮房ヲ毀チ地藏ヲ黥シ、且ツ杉檜ヲ驅リテ天狗ヲ■(鼻+立刀:ぎ・げい:鼻切る:大漢和2249)セン、山神ノ使者飛鳶■(漸+耳:じ・に・せき・しゃく:指す・語調を整える助辞・鬼が死んでからなるもの:大漢和29203)ス、妙用顯然タリ君見ルヤ否ヤ(*空手徒行登宕阜、同遊相語路先後、頑夫自古祷災祥、愚將到今憑勝負、願毀宮房黥地藏、且驅杉檜■天狗、山神使者飛鳶■、妙用顯然君見否)
是れ氣象豪宕〔磊落にて不覊なること〕にして人意を快くするものと謂ふべし、太宰春臺が湘中紀行に云く、金澤を去る十里ばかり、山足(さんそく)に巖(がん)を彫(てう)して〔ホリツケル〕地藏菩薩の像を爲るものあり、武相の州界を記するなり、呼んで界(さかい)地藏と曰ふ、像鼻を缺く、故に亦■(鼻+立刀:ぎ・げい:鼻切る:大漢和2249)(はなかけ)地藏〔鼻カケ地藏〕と曰ふ、曩時(なうじ)山崎闇齋先生といふ者あり、甞て愛宕の詩を作り、天狗を■(鼻+立刀:ぎ・げい:鼻切る:大漢和2249)(び−ママ)し地藏を黥する〔入墨すること〕の語あり、此像を■(鼻+立刀:ぎ・げい:鼻切る:大漢和2249)せる者は、是れ亦山崎氏の徒なるか、又宇都山十團子を詠せ(ママ)る詩に云く
大(ママ)極十團圏、都來是レ一貫、今此粉團子、誰カ茂叔ノ看ヲ成ス(*大極十團圏、都來是一貫、今此粉團子、誰成茂叔看)
一二三四五、六七八九十、貫キ得タリ天地ノ數、過無ク不及無シ(*一二三四五、六七八九十、貫得天地數、無過無不及)
此奇趣造語は他人到る容(べか)〔可と同訓〕らず、又一時傳誦せられしもの、富士山八面八陣に擬せるものなり(、)云く
富士ハ扶桑ニ甲タリ、山頭八方ニ面ス、天地一望ノ裏、風雲巖ノ傍ニ屯ス、變態龍ヲ成ス處、蛇蟠マリ鳥■(皋の俗字体〈自+皐の脚〉+羽:こう・ごう:空高く飛ぶ:大漢和28810)翔ス、誰カ風后ニ繼ギ、陣ヲ制シテ君王ニ奉セ(ママ)ン(*富士甲扶桑、山頭面八方、天地一望裏、風雲屯巖傍、變態成龍處、蛇蟠鳥■翔、誰哉繼風后、制陣奉君王)


熊澤伯繼、字は了介、小字は次郎八、後助右衞門と更む、蕃山と號し、又息遊軒と號す、平安の人にして備前侯に仕ふ

蕃山は姓本と野尻と云ふ、出でゝ外祖〔母方の祖父〕熊澤氏の後となり、因りて其姓を承く、天性深智俊才、古今に卓越す〔高く拔く〕、年甫めて十六、岡山の芳烈公に仕ふ、弱冠の比ひ、公驟(にわか)に奨眷〔奨勵恩顧〕を加へ、將に大に用ひんとす、而して辭するに未だ學ばざるを以てす、乃ち乞うて遊學す、越えて七年、公之を召還し、信任愈厚く、何くもなく要路〔樞要の地位〕に當る、是に於て徳を布き惠(けい)を流し、貧を賑はし〔救施〕、困を救ひ、勾査(*取り押さえて調べること。)を罷め、賭博を禁じ、淫祠を毀ち、節義を表(ひゃう)す、其聖教を明(あきらか)にし、以て異端〔儒教以外の教〕を闢(ひら)き〔排斥〕、武備を嚴にし、以て不虞〔萬一の事變〕を戒むる等、諸新政海内耳目を驚かす、太宰春臺が湯淺常山に復する書に曰く、夫れ烈公は不世出の英主、熊澤氏を得て而して任ずるに國政を以てす、明良〔明君良臣〕の遇實に千載の一時なりと、日本詩史に載す、熊澤了介政を其國に爲すや、世を擧げて知る所と、余甞て松原一清が出思稿を閲す、其牛窓泊舟の詩に「漁家ノ兒女モ亦字ヲ知ル、笑テ孝經ヲ將ツテ老翁ニ教ユ(*漁家兒女亦知字、笑將孝經教老翁)」の句あり、一時の教化想ふべし、今に至るまで■(三水+半:はん:周代諸侯の国学〈学校〉〈=■宮〉、半ば・溶ける・分ける・堤:大漢和17323)宮(はんきう)〔學校にて聖殿に孔子を祀る處〕の設、尚典型ありと云ふ
蕃山初め笈を負うて京に上り、良師を求めて、未だ其人を得ず、共に投宿せる者一人語りて曰く、往日余主の爲に遠く行く、時に金二百兩を懐にす、即ち主の齎らさしむる所なり、途(と)に驛馬に跨り、金を出して鞍(あん)に繋ぐ、日暮之を収むるを忘れて宿す、困頓〔草臥れて〕枕に就き、半夜始めて覺め、乃ち金を遺〔忘〕るゝを覺ゆ、則ち茫然猶疑ひて夢寐(むみ−ママ)となす、既にして神定まり〔精神が確になりて〕、心を痛め首(かうべ)を疾(や)ましめ、千思萬慮、之を求むるに術なし、一たび死を雉經(ちけい)〔首を縊る〕に決し、戚然〔憂ふる貌〕自ら歎ず、天の爲に恤(あわれ)まれず〔天に見放されたり〕、此悲凉に逢ふと、時に剥啄(はくたく)〔歩する音〕の聲を聞く甚だ急なり、之を問へば即ち稱す馬夫某なりと、因りて亟(すみやか)に出づ、渠(*原文ルビ「われ」は誤植。)即ち金を出して曰く、小子家に歸りて、將に馬を洗はんとし、鞍を解くに及んで之を得たり、是れ君が遺れし所なり、故に來りて還呈すと、封の完(まつた)きこと故(もと)の如し、吾驚喜(けいき−ママ)措く所を知らず、腰纏(やうてん)〔旅費〕別に十六兩あり、即ち解いて以て之を謝す、馬夫受けずして曰く、君の物君に付す、何の謝か之あらんや、然(しかれど)も爲に夜を冐(*原文ルビ「おと」は誤植。)して來る、此顧賃二百銭を得ば足れりと、吾曰く、■(艸+追の旁+辛+子〈偏〉:げつ:脇腹・ひこばえ・災難・悪逆・不吉・不孝・かもす・飾る:大漢和7047)(わざはい−ママ)〔禍〕は吾自ら作す、汝が發義の心微(なかり)せば、吾生を得るの地なし、所謂死を生じ骨に肉するなり、不腆(ふてん)〔厚からざるにて、薄きの意〕の物、敢て報といふにあらず、聊か以て寸心を表すと、馬夫愈辭す、亦八兩を減ず、亦受けず、稍や減じて僅に方金〔方形の金幣〕二に至る、馬夫執ること益確(かた)く、曰く、君我を溷(けが)す〔操行を汚す〕こと勿れ、予には守る所あるなりと、吾歎じて問うて曰く、慾に淡なる者今の世多く見ず、其義を以て利となす(、)汝が如きに至りては、絶えて得べからず、所謂守る所のものは何事ぞや、曰く賤役(せんえき)〔いやしき仕事〕口を糊(こ)す、豈に利を思はざらんや、而るに中江與右衞門といふ者あり、里中に教授す、甞て其言を聞くに曰く、誠正以て其身を修め、君に事へて忠を致し、親に事へて孝を盡し、貧を以て濫(らん)する〔不法をなす〕勿れ、賤を以て枉ぐる〔直の反〕勿れと、今若し賜ふ所を以て之を利せば、此心を欺くなりと、言畢りて去る、噫澆世(げうせい)〔浮薄の末世〕安くにか此人あるを得んやと、蕃山傾聽する〔念を入れて聽く〕こと良(やゝ)久しくして曰く、馬夫は一郷の鄙人のみ、素と道の何物たるを識らず、利に趨(わし)〔走〕ること■(矛+攴+馬:ぶ・む:馳せる・勉める:大漢和44845)(は)〔馳〕するが如し、何の義をか之れ思はん、而して其廉潔〔清浄にして貪らざること〕古の君子に愧ぢざるもの、必ず教育の致す所なり、所謂中江氏なる者、其徳と學と想見すべし、今の世に方(あた)り、此人を捨て誰にか適從せんと、即ち束装〔支度〕し、往(ゆき)謁して業を門下に受けんと請ふ、藤樹辭するに人の師たるに足らざるを以てす、蕃山益請うて置かず、二夜其廡下〔家の庇の下〕に寝す、藤樹の母之を見て、藤樹に謂つて曰く、人遠方より來り、懇請すること此の如し、之に其習う所を傳ふるも、誰か好んで人の師となると謂はんや、是に於て始めて接容〔接見容納〕す、時に寛永辛己蕃山年二十三 蕃山壁間(*原文ルビ「ぺきかん」)毎に義經の畫像を懸け、未だ甞て他の書畫を懸けず(、)
甞て某侯に至り、入るに及んで、士人の威儀特(こと)に秀で、骨體非常なるを見る、相與に目を張り注視すること良久しく、遂に一言を交へず、侯に見えて曰く、余今一士を見る、知らず仕臣なるか、將(は)た處士〔民間の士仕へざる者〕なるかを、侯曰く、渠吾が爲に兵書を講ず、處士由井民部助といふ者なり、蕃山色を正して曰く、余其貌を熟視し、以て其意を察するに、君復た彼が如き士を近くること勿れと、他日正雪亦來り、侯に見えて曰く、前日退朝する〔侯邸を退出すること〕比(ころほ)ひ、某衣某形の人を見る、未だ知らず其誰となすかを、侯曰く、渠吾に説くに經書を以てす、岡山の臣熊澤次郎八といふ者なり、正雪色を正して曰く、余其貌を熟視し、以て其意を察するに、君復た彼が如き士を近くること勿れと
甞て君の述職(*原文ルビ「じつじよく」)〔幕府に参勤すること〕に扈して江戸に來る、時に諸侯爭ひて之を延く、西に歸るに及び、往きて板倉侯に別る、侯曰く、子明君に仕へて、言聽かれ計用ひらる、吾徐(しづか)に之を籌(はか)る〔謀る〕に、子其終を善くせんと欲せば、則ち早く仕を致して田里〔田舍〕に屏處せよ、今より後復た東に來る勿れ、復た世事を言ふ勿れ、此れ功成り身退くの義なりと、蕃山拜謝して去る、然も眷遇〔恩顧〕の渥(あつ)き、俄に骸骨を乞ふ〔職を辭して隱居す〕を得ず、命を奉じて又復た江戸に來る、此時既に事を共にする者と隙(ひま)あり、蕃山自ら安んぜず、乃ち岡山を辭して京師に到る、而して貴紳〔公卿〕之に侯〔伺候〕し、門常に市をなす、是に於て去りて明石に棲遅〔隱居〕す、明石侯本と蕃山を師とし尊ぶ、禮遇甚だ厚し、後侯古河に移封(いほう)せらる、蕃山從ひて之に移る、未だ幾くならず、遂に言を以て罪を大府に獲、乃ち古河に幽〔監禁〕せらる(、)
年少の時、體貌充肥なり、自ら以爲らく、武夫の職たる、一旦(*原文「且」は誤植。)緩急あれば甲を被り兵を持し、馳驅奔走、爲さゞる所なし、而して豐肥此の如し、甚だ之を艱(なや)む、稟受〔生れつき〕に由ると雖も、亦安佚(あんいつ)〔逸居〕の致す所なりと、是より苦を甞め淡を食ひ、日夜武事是れ講ず、或は曠野に出でて鳥銃を放ち、或は山村に行きて民家に投ず、其宿直に當るや、木兵〔木刀〕を■(衣偏+周:とう・ちゅう:襦袢・弊衣〈破れ着〉:大漢和34349)笥(てうし−ママ)〔長持〕に藏め、僚友の寢に就くの後、竊に空庭んい出で槍劍の法を演ず、或は深夜屋に登り、火を禦ぐを習ふ、此の如きこと十餘年、身躯稍や痩削す〔ヤセル〕と云ふ
蕃山は釋元政と友とし善し、梵語〔佛語即ち印度語〕の通じ難きものは必ず元政に就きて此を解す、是を以て元政の坐には縦(ほしいまゝ)に佛教を破〔破邪にて(、)攻撃〕せず、但毎に歎じて曰く、今世の僧多くは行(おこなひ)なし〔不品行〕、設(も)〔若〕し釋迦をして見せしめば、其れ之を何とか謂はん、吾儒の道も亦然り、孔子をして今の所謂儒者を見せしめば、豈に慨歎せざるあらんや
蕃山樂を好む、時々小倉少將と與に伶人三四人を拉(たづさ)いて、元政の稱心菴に至り、蕃山は琵琶を鼓し、少將は琴を彈じ、元政は和歌を詠じ、各以て興を遣る〔樂を取る〕、奥田嘉甫が三角集、渾不似(こんふじ)に記(き)して云く(、)

丁卯の春伊豫に遊び、好間君の第に留まること一月、其老川口は好古の士、一琵琶を出して告げて曰く、此れ了海熊澤子の物なり、名けて濱庇と曰ふ、余接して之を見るに、漆光退蝕し〔ハゲル〕、古雅愛すべし、蓋し宋元間の物なり、其所以を叩けば、曰く、主母妙閣孺人〔夫人の稱〕出納氏の賜なり、孺人は大藏大輔職直(もとなほ)の女、熊澤氏の出なり、琵琶は則ち其妣(ひ)〔母〕より傳はると云ふ、吁先生昔備前に在りて、新建〔王陽明〕の學を倡〔唱〕へ、經濟(けいざい)の志あり、凛々たる高風欽〔景仰〕すべし、則ち手澤の存する所、誰か敬慕せざらんや、况んや主母の賜たるをや、按ずるに蒋揆が長安客話に、渾不似は琵琶の如く、小槽圓腹、半瓶■(木偏+盍:こう:酒樽・水桶・刀の鞘・蔓草:大漢和15295)(はんへいかう)の如し、相傳ふ昭君〔漢代匈奴に嫁したる宮嬪王昭君〕琵琶の制、胡人〔夷奴〕をして重造(じようざう)せしむ、而して其形小なり、昭君笑つて曰く、渾て似ずと、遂に以て名くと、元史以て火不思(くわふし)となす、今以て胡撥思となすは、皆相傳の訛なりと、因りて懷ふ、先生洽聞(がふぶん−ママ)〔博聞〕、其名を命す(*ママ)る、必ず之を倭歌に取るのみにあらず、濱庇の古訓は二義、一に曰く、沙嘴崩壞(ばうくわい−ママ)或は云く舟の蓬簷(はうせん−ママ)、拾遺(じうゐ−ママ)濱楸に作る、予謂(おもひら)く此れ沙嘴崩壞、渾て昔に似ずの義に取るに非ざるを得んや、其茗壺(めいこ)を飛鳥川と名ると同意ならん、九京〔黄泉といふが如し〕若し起すべくんば、先生當に微笑して善哉(よいかな)と稱すべし
蕃山の學は藤樹より出づ、然も執見は同じからず、其集義和書には藤樹を議〔論難〕するもの少なからず、西川某なるもの、集義和書顯非二卷を著し、其藤樹に反するを辯ず
物徂徠が籔震庵に與ふる書に云く、問を承く熊澤集書は、不佞〔自稱の代名詞〕未だ其書を見ず、甞て聞く其人太だ聰明なりと、蓋し百年來儒者の巨擘(きょはく)〔頭領〕、人才(じんざい−ママ)は則ち熊澤、學問は則ち仁齋、餘子は碌々〔古事にて無能〕數ふるに足らずと、湯淺常山蕃山を稱して曰く、其經濟は老子より出づ、地を鑿(ほ)り銅鐵を取るを以て是ならずとなす、蓋し漢の貢禹に本く、大抵熊澤子の説は迂濶〔世事に疎なること〕に似たり、然りと雖も、後年驗多きを以て之を視れば、實に世儒(せいじゆ)の及ぶ所にあらず、其幽囚數十年(*原文「幽數囚十年」とあるは誤植。)にして面に憂色なく、人當世の事を問へば、默然(もくせん−ママ)答へず、即ち笙を索(もと)〔探〕めて之を吹く
蕃山の履歴は門人巨勢直幹實録を記(き)し外裔(ぐわいはい−ママ)草加定環行状を述べ、岡山の菱川大觀傳を作る、而して皆名は伯繼と言ひ、字を載せず、所謂了介は其字なるか、又言ふ、食地〔知行の地〕和氣郡寺口邑を改めて蕃山と名く、蓋し義を倭歌の端山蕃山(はやましげやま)の什に取るなりと、其致仕して京に寓せし時、蕃山を以て姓となす、乃ち男右七は姓蕃山を承くと、此言に■(遥の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)(よ)〔由〕れば、蕃山は必ずしも其別號ならず、蓋し人之を稱したるなり、或は曰く、其古河に處(お)る、筑波山に近し、故に自ら蕃山と號すと、又一説に曰く、新古今集に載す、源重之が倭歌に曰く、
筑波山はやましげやましけ(*ママ)ゝれど思ひ入るにはさはらざりけり
王陽明が立志の説、此歌意に符す、而してシゲヤマは蕃山なり、故に以て號となすと
蕃山疾(やまひ)を以て古河に歿す、元禄辛未八月十七日なり、其生元和己(*原文「已」は誤植。)未を距(さ)ること春秋七十三、古河大提(*ママ)邑桂延寺に葬る、人の其墓に展ずる者今尚絶えずと云ふ


後藤松軒其名字郷貫〔故郷戸籍〕未だ詳ならず

松軒初年客を以て、肥後侯に依る、寛永中耶蘇の賊起る、侯命を奉じて兵を率ゐて之を伐つ、松軒之に從ひ、陣に當り場に臨み、奮戰功あり、銃丸に中り、兩明を喪ふ〔盲目となる〕、松軒素と學を嗜(*原文「たし」は誤植。)む、是より後愈專ら志を鋭くし、日々人をして經を讀ましめて之を聽く、遂に自得する所あり、一時眞儒〔眞正の儒者〕を以て振ふ、列侯禮を致し、講を請ふ者甚だ多し、小室侯尤も其説を信ず、毎に之を召見し、厚く眷遇を賜ふ、小室侯は即ち今の巖村侯の先なりと云ふ
一日闇齋に詣(いた)〔至〕り、其講を聽く、闇齋は松軒を視ること甚だ卑(ひく)し、講畢りて呼んで曰く、坊主會する所ありや否やと、蓋し松軒時儒に傚ひて薙髪〔剃髪〕せしを以てなり、松軒其倨傲〔オゴリ高ぶる〕を惡み、再び闇齋を見ず、終身手に闇齋の著書を取らずと云ふ、大高阪芝山闇齋の傳を作る、其末(まつ)に芝山が一老者と闇齋が人となりを論ずることを録し、多く闇齋を貶する〔抑へてオトス〕の意を寓す、唐崎彦明曰く、一老者は疑(うたがふら)くは松軒を謂ふならんと、傳も亦松軒芝山をして之を作らしむと、先達遺事に見ゆ、芝山又大町定靜の傳を作りて曰く、余洛に在り、此老を見る毎に、誨喩せらるゝを忝くす、此人や曲(つぶさ)〔細〕に南學の由(ゆ)を識る、余が三省兼山の景行に向ひ、長澤山崎の遺蹤(ゐじよう−ママ)〔のこれる跡〕を躡(ふ)む〔踐む〕は、咸(みな)此老の説に縁〔因〕るなりと、此言に■(遥の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)(よ)れば闇齋が傳は定靜を得て之を紀(き)す、初より松軒の言を待つ者にあらず、所謂一老者も亦定靜を謂ふか
甞て大高阪芝山、佐藤直方と一柳侯の處に會す、時に松軒中庸の鳶飛び魚躍るの章を講じ、朱註を以て差(あやま)〔誤〕りとなす、芝山固く朱註を守る、是に於て忽ち色を作(おこ)し〔顏色を變ず〕、松軒と呶々〔辯を弄する貌〕相論ず、直方は一言を容れず、更に此章を講じて朱註に從ふ
梁田蛻巖松軒に謁し、論語を講せ(*ママ)し事蛻巖行状に見ゆ、今之を録せん、曰く元禄中江戸に失明の儒人後藤松軒あり、年七十餘、經明(あきらか)に識宏〔博〕きを以て東諸侯の敬禮する所なり、亦魁傑(くわいげつ−ママ)の士なり、余年二十八、偶之を見る、余に論語の君子重からざれば則ち威あらずの章を講ぜんことを需〔求〕む、講畢り、松軒曰く、論語は猶麒麟の如く、孟子は猶獅子の如し、今や吾子の説く所、佳は則ち佳なり、但憾むべき所のもの、麟を説いて獅子となす、聖人温良の意を失ふ、此れ他なし、實に壯年豪鋭(がうえつ−ママ)の氣然らしむるなり、天數年を假し、熟讀(じゆくとく−ママ)玩索〔玩味〕せば、必ず自得するあらん、旃(これ)〔焉〕を勉めよと、余歎異久くす、以為く能く至聖大賢の判を形容すと、數年の後曉然(きやうぜん−ママ)〔サトル〕として論語は獅子に似、孟子は麟に類するを覺る、宣聖〔孔子〕は辭氣温厚にして肉角觸れざるが如く、而して氣象は至大至剛當るべからず、紺眼獰爪(だうさう)〔獅虎〕と雖も、殆ど逡巡(しゆんじん−ママ)畏伏して仰ぐを得ざるの状あり、管仲を小とし〔以下孔子の爲す所〕、南子を見、公山弗擾(ふつじやう)に往んと欲する等を觀れば、乃ち見るべし、孟夫子が應對教誨する所は、則ち咸戰國の士大夫にして、其語は自ら雄壯、圭角〔カドのあること〕なき能はざる所以なり、宜なり乍(たちま)ち見て以て獅子となすことや、其實は宣聖の剛大に及ばざること一層、顧(おも)ふに松軒陽を窺ひて陰を解せず、蓋し所謂眼光の紙背〔眼光紙背は識力裡面に徹底す〕に透らざるもの、宿學渠が如き尚且つ免れず、汝輩益經義を研(きは)むべし
山崎泉といふもの、大學辯斷を著し、伊藤仁齋を駁(はく−ママ)す、淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋(*絅齋)之を批し、批大學辯斷と題し、世に印行す、泉は會津の人、學を松軒に受く、經術あり自ら其著す所に序して曰く、是れ予が竊に師説を取りて辯斷する所以なりと、所謂師説とは松軒を指すなり


木下貞幹、字は直夫、小字は平之允、錦里と號し、又順庵と號す、私に恭靖と謚す、平安の人

順菴は幼より彊記〔記憶の強きこと〕にして善く書を讀み字を寫す、海大師〔天海僧正〕見て之を撫して曰く、此兒異質ありと、教へて以て法嗣となさんとす、順菴從はず、年十三太平賦を作る、詞旨(ししう−ママ)諄正なり、世以て國瑞〔國家の吉瑞〕となす、大納言烏丸公之を後光明(*原文「朋」とあるは誤植。)帝に上(たてまつ)る、帝覽て大に稱賞し、將に録〔録は収録と熟し採用(*の意)〕用せられんとす、會(たまた)ま宮車(きうじ−ママ)晏駕して果さず、既にして松永昌三の門に入り、勤學勵行、日に進み月に修まる、昌三期するに大器〔偉材〕を以てす、一時の名士貝原益軒、安東省庵、宇都宮遯菴の如き、咸推し避けて敢て之と並ばず
少くして某侯に從ひ、江戸に來り、志を得ずして京に歸る、是より戸を閉ぢて書を讀む、久しくして名海内に震ふ、加賀侯幣を厚くして之を召す、辭して曰く、先師松永先生の子某、嗣ぎて家學を承け、未だ仕途に就かず、家道屡(しば\〃/)空し〔家道空は貧窮〕、請ふ彼を用ひて以て其宿望を得せしめよと、侯之を聞きて曰く、今の世交(まじはり)手足(しそく−ママ)の親に同く、誼金石の固(かたき)に比するも、利害の關する所に於ては、則ち崖岸(がいがん)相向ふもの、比々(ひゝ)皆然り、順菴が如き古人の節〔節操〕ありと謂ふべし、即ち松永氏の子と與に倶に之を禮聘す〔召抱へる〕、越えて若干(じやくかん)年、簡拔〔拔擢〕を蒙りて大府〔幕府〕の儒員となる、時に年六十二、實に天和二年七月二十七日なり
物徂徠曰く、錦里先生出でゝ扶桑の詩皆唐なり〔和習を脱して唐化したるを謂ふ〕、服南郭曰く、錦里先生は文運の嚆(*原文「嚆」の偏を「矢」に作る。大漢和には無し。)矢となす、其詩甚だ巧ならずと雖も、唐を首唱す、又聞く先生恒に言ふ、十三經註疏を熟讀するにあらざれば、則ち經に通ずと謂ふべからずと、此に由りて之を觀れば、所謂古學も亦先生が開祖たり
室鳩巣が堀正修に答ふる書に曰く、恭靖先生京に在る時、酷〔甚〕だ韓文を愛し、日として之を讀まざるなし、出づる毎に輙ち韓文を以て自ら隨ふ、晩節東遷〔江戸に移る〕の後に及び、又王守仁〔王陽明〕の文を愛し、常に其集を以て傍に置き、暇あれば頻々之を讀む、一日僕に語りて曰く、舜水朱子甚だ守仁を敬し、其文を得れば、必ず容を改めて稱歎すと
順菴は一世の敬慕する所たり、遠邇(ゑんじ)貲(し)を納れて門に及ぶ〔弟子となる〕者、勝げて數ふべからず、而して成徳達材〔成語、徳器を成就し材能を發達す〕多く出づ、宇士新稱して桃李門に滿つとなす、近時柴栗山文集に叙して其世に名ある者を列す、乃ち左に載す、曰く、盛なるかな錦里先生門の人を得たるや、大政に參謀するは、則ち源君美在中、室直清師禮、外國に應對するは、則ち雨森東伯陽、松浦儀禎卿、文章は則ち祇園瑜伯玉、西山順泰健甫、南部景衡思聰、博該は則ち榊原玄甫希翊、皆瑰奇〔奇材非凡〕絶倫の材なり、其岡島達の至性〔孝行〕、岡田文の謹厚、堀山輔の志操、向井三省の氣節、石原學魯の靜退、亦得易からざるもの、而して師禮の藝術、在中の典刑は實に曠古の偉器〔大才〕、一代の通儒なり、夫れ此の如き數子の資を以てして、終身先生の訓を遵奉服膺〔體認して守ること〕し、敢て一辭の異同あらず、先生の徳と學と想ふべし
新井白石、室師禮、雨森伯陽、祇園伯玉、榊原希翊、世之を木門の五先生と謂ふ、之に南部思聰、松浦禎卿、三宅用晦、服部紹卿、向井魯甫を加へて、十哲〔逡逸〕となす、而して思聰禎卿は同庚〔同年〕となす、之を二妙と稱す
自ら篁洲が寫す所の肖像に題して云く

咨(あゝ)爾と我とは陰の陽あるが如し、言はず笑はず、間にあらず、忙にあらず、道は目撃に存し、神は毫芒を傳ふ、平生の履歴尺寸(せきすん)短長、四十仕に從ひ、遲暮揚に類す、六十徴せられ、晩達〔晩年榮達す〕唐に似たり、古希〔七十〕既に過ぎ、來者■(立心偏+匡:きょう・こう:懼れる・「匡」に通用:大漢和10529)(おそ)〔恐〕るべし、北溟に■(鬲+羽:かく・れき:羽の茎:大漢和28776)(つばさ)を奮ひ、東海に洋を望む、富貴貧賤、用捨行藏〔官に用ひらるゝ(こ)と不遇にして野に隱るる〕、遇に因り運に因る、焉ぞ有とせん、焉ぞ亡とせん、唯學之れ好み、老に至りて忘れず、几上の筆硯、架頭の縹■(糸偏+相:しょう・そう:浅葱色:大漢和27636)(ひやうしやう)〔書籍〕螢を照し雪を聚め〔苦學〕、墨を數へ行を尋ぬ、既に新得なし、豈に舊章に率(したが)〔從〕はんや、博雜に溺るゝを悔ゐ、終に蒼黄を失ふ、眞を寫すは誰ぞや、惟れ洲の篁、塵埃滿幅、面目傷むべし、卷いて之を子に還へす、何ぞ以て藏するに足らん
順菴は元禄戊寅十二月二十三日を以て歿す、年を得ること七十八、白石が追悼の詩八首の自註、略其履歴を記す、男菊潭が撰せる小傳と併せ見るべし、順菴歿するに臨んで、後事を篁洲白石に屬(ぞく−ママ)す、棺中藏するに孝經一卷を以てす


安東省菴、字は魯默、初の名は守正、省菴と號す、筑後の人、柳河侯に仕ふ

明暦乙未、朱舜水長崎に來る、時人未だ其學を知るに及ばす、唯省菴往きて師とす、時に舜水貧甚し、乃ち禄の半を割きて之を贈る、今に至るまで稱して一大高誼となす、其詳(しやう)は舜水が孫男毓仁(いくじん)に與ふる書中に見ゆ曰く、日本唐人を留むるを禁ずること、已に四十年、先年南京の七船同じく長崎に住す、十に九は富商なり、連名具呈して懇留すること累次、倶に准(ゆる)〔許〕されす(*ママ)、我故に此に意なし、乃ち安東省菴苦(く)に懇留し、轉輾人を止む、故に留駐して此に在り、是れ特(こと)に我一人の爲に此■(勵の偏:れい・はげし:激しい〈=礪〉:大漢和3041)禁(れいきん)〔嚴禁〕を開くなり、既に留まるの後、乃ち半俸(はんぼう)を分ちて我に供給す、省菴は薄俸(はくぼう)二百石なり、實に米八十石、其半(はん)を去れば、止〔只〕だ四十石なり、毎年兩次崎(き)に到りて我を省みる、一次の費銀五十兩、■(艸冠+自:大漢和に無し。)宿(じしゆく−ママ)(*苜蓿〈もくしゅく・うまごやし〉か。)先生の俸(ぼう−ママ)此に盡く、又土儀(とぎ−ママ)時物〔土地の産物、時季の品〕、絡繹(らくせき−ママ)人を差(つかは)して送來る、其自ら奉ずる、弊衣糲飯(れいはん)〔粗米の飯〕菜羹(さいこう)のみ、或は時に豐腆なれば、則ち魚鰯(いわし)數枚のみ、家には唯一唐鍋(たうか)のみ、時を經るも物の烹調(ぼうちやう)するなく、塵封じ鐵■(金偏+肅:しゅう:錆:大漢和40857)(しう)〔サビル〕、其宗親(さうしん)朋友共に之を非笑し、之を諫阻すれども、省菴恬然として〔平氣〕顧みず、唯日夜書を讀み道を樂むのみ、我此に來る十五年、稍や物を寄せて意を表するも、前後皆受けず、矯激〔程度を超ゆること〕に過ぎ、我甚だ樂まず、然も改むる能はず、此等の人中原にも亦自らあること少し、汝は名義を知らず、亦當に心に銘し骨に刻し、世々忘れざるべし、此間法度(はふど)嚴にして境を出でゝ奉候する〔機嫌を伺ふ〕能はざるを奈何せん、如何ともすべきなし、若能く書を作り懇々相謝せば甚だ好し、又恐る汝が能くせざらんことをと
省菴初年松永尺五に學ぶ、尺五歿するの後五年、舜水を見て業を託す、是に於て學益富み行(おこなひ)益修まる、伊藤東涯稱して關西の巨儒となす、彼の邦の張斐文長崎に至り、書及び詩を寄せて以て褒賞す、詩中に云く、「曾テ聲名ヲ遞(*てい)シテ若耶ニ到ル(*曾遞聲名到若耶)」と是れ海外にも亦聞ゆるあるなり
省菴年四十を過ぎて未だ娶らず、舜水書を贈りて、以て孝道を虧(か)くとなす、四十三始めて妾を置く、妾居ること五年にして出づ、妾其離別を悲み、涕泣殆ど絶〔絶息〕す、省菴乃ち韓文公の別鵠操(べつかうさう)の韻を■(庚+貝:こう・きょう・しょく・ぞく:続〈つ〉ぐ・償う:大漢和36819)(つ)(*次)ぎ、慈鴉操(じあさう)の詩を作りて云く、

雄鴉巣ヲ營マズ、雌鴉將(ニ)安クニ歸セントス、雛死シテ又雛有リ、義當(ニ)乖離ス(ベカ)ラズ、母子ハ道ノ大、其餘ハ事ノ微ナルモノ、此別離何ゾ嗟スルニ足ラン、且ツ反哺ノ母ニ傍テ飛ブ有リ(*雄鴉不營巣、雌鴉將安歸、雛死又有雛、義不當乖離、母子道之大、其餘事之微、此別離何足嗟、且有反哺傍母飛)
妾二男子を生む、長は早く夭す、故に此作あり
本集に載する扇の序に云く、
一日石松翁を訪ふ、翁扇(せん)を出して予に示し、謂つて曰く、昔者有馬の役〔天草の役〕、子と更々(かはる\/)主公を扇(あほ)ぎし所のものなり、子之を記するかと、因りて憶ふ、彼の時予年十六、東武に在りて小瘡を患(うれ)へ、腫痛(せうつう)〔ハレイタム〕甚し、淹(えん)〔滯留〕して牀褥(せうじよく)に在り、病を強ひて馬に乘り、君に從ひて行き、道を倍して兼行し、既に有馬に至れば、瘡痛んで堪ふべからず、膿血潰爛し、手足(しそく−ママ)屈伸する能はず、二十日夜家父兄先陣に加はり、竹楯(ちくとん)〔銃丸を禦ぐ竹柵〕の下に在り、君の營を去ること三十弓ばかり、家父數々使を遣はして予を戒めて曰く、今夜將に城を攻めんとす、汝既に微且つ■(兀<尢>+王:おう:弱い:大漢和7559)(おう)〔弱〕、又瘡に苦む、手に刀を執る能はず、足路を行くことを得ず、強ひて君の行に從はゞ、■(足偏+圭:き・かい・け・せつ:一足・近い・少し:大漢和37520)歩(けいほ−ママ)〔半歩〕して倒(たふ)れん、人其病を言はずして其怯を笑はん、我而(なんぢ)〔汝〕が死を愛(おし)〔惜〕むにあらず、而が名を惜むなり、又執友〔父の友〕安東内藏助を倩(やと)ひ、堅制して予を止む、予は甲冑(かうちう)を著(ちやく)し、兩奴に扶けられて君の營に至り、當事池邊氏を招ぎ、手足を出して之を示して曰く、予本と麾下〔旗下にて主君の陣〕の列に在り、然も瘡痛此の如し、君の行に從ふを得ず、將に馬に乘りて先陣に赴かんとす、以て軍法(ぐんはふ)に背くとなすこと勿れと、既にして竹楯の下に至る、家父喜んで曰く、汝を止むる所以のもの、其來らざるを慮(おもんぱか)るなり、今能く來る、其志必死にあらずんば、底(なに)〔何〕に縁つて此に至らんや、夜將に參半ならんとす、衆と同じく進む、果して躓き倒る、甲冑を蹈んで行く者數を知らず、兩奴に扶起せられて進む、鳥銃雨の如く集まり、左右死者多く、血予が左肱(さこう)に濺ぐ、黎明〔夜明方〕衆と同じく退き、麾下を過ふ、小原氏弓(きう)を横(よこた)へて君の傍に在り、左肱の朱殷を見て以爲く、戰ひて創(きづ)を被むると、謂つて曰く、丈夫(じやうぶ−ママ)なるかな、予爲すなしと雖も、幼にして病を強ひて先陣の數に加はるは亦郷人の共に知る所なり、明年二月二十八日、城將に拔けんとす、主公兵を麾(さしまね)いで〔采配を揮ひて招ぐ〕直に登る、銃の飛ぶこと電(でん)の如く、死傷甚だ多し、熱堪ふべからず、翁此扇を以て主公を扇ぐ、渇甚し、十時攝津橘子(きつし)を劈(つんざ)きて之を奉る、渇猶止まず、翁扇を予に授け、下りて飮を取り、遂に諸軍と其巣穴を屠(ほふ)り、■(口偏+焦:しょう:噛む・食う・鳥の〈急調の〉声:大漢和4306)類(せうるゐ)なし〔一人もなし〕、指を屈すれば今に二十二年なり、而して扇新(あらた)なるが如し、翁の君を愛する知るべし、古人は功ありて伐(ほこ)ら〔誇るなり〕ず、況んや予の功なきをや、然も翁の求め辭すべからず、遂に之が銘を作る、銘に曰く「柄掌握ニ在リ、動而功ヲ樹ツ、君ニ難ニ從ヒ、誕ニ威風ヲ輔ク(*柄在掌握、動而樹功、從君於難、誕輔威風)」と
省菴文事を以て一世に表見す、今此編を讀めば、其少年の勇壯、豈に毅然たる〔勇氣ありて動かぬ貌〕大丈夫(じやうぶ−ママ)にあらずや、即〔若〕し省菴(せいあん−ママ)をして戎馬〔戰時〕の際に生れしめば、其爲す所亦迥(*原文「■(之繞+向:けい:遠い・遙か〈「迥」の俗字〉:大漢和38868)の字体を使う。以下、同じ。)(はるか)〔遙〕に群を出でん、古云く、文事ある者は必ず武備ありと、省菴あり
省菴の高義世に絶えて無し、其學も亦世に多く有らざる所なり、而して性謙讓なり、男守直に告ぐる遺訓に曰く、我才なく徳なし、汝諸生と共に、年譜、行状、行實、碑銘、墓銘、及び文集の序等を撰すること勿れと


二山終長、字は伯養、小字は彌三郎、時習堂と號す、石見の人

伯養年少の時江戸に來る、壯に及び中川侯に仕ふ、何くもなく辭して去り、乃ち藥を鬻ぎて郭北の駒籠(こまこめ−ママ)に隱る、伯養素と學を嗜(*原文ルビ「たし」は一字脱。)む〔好む〕、致仕の後孜々として道を求むるを以て事となす、初め釋老〔佛教と老子の説〕を好み、久しく王陽明の説を奉ず、既にして疑あり、終に朱紫陽〔朱子〕に歸す、是に於て朱王學辯を著す、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋之に序して曰く、二山老丈(じやう)〔サマといふほどの敬稱〕早く王氏の心學を修め、後來洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)(らくびん)の正學を聞き、■(立心偏+番:はん・べん:変心する・翻意する:大漢和11237)然(はんぜん)〔翻然の如く意の轉ずる貌〕之に服從す、今や其の己に懲りたるものを以て人を誡(いまし)め、其の己に穫たるものを以て人と共にす、豈に忠にあらずや
伯養の篤學愼行、當世之を中江藤樹に比すと云ふ、室鳩巣の遊佐次郎左衞門に答ふる書に曰く、谷氏二山氏に至りては、未だ其人を見ずと雖も、耳之を聞くや熟す、蓋し操軒■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋の亞〔次〕なり、足下が以て篤行の君子となすもの之を得たりと
伯養の妻を娶る、一に文公の家禮に從ふ、家禮に壻(むこ)乘馬すとの文あり、而して伯養家に馬を畜(やしな)はず、乃ち之を人に借(*原文ルビ「かり」は衍字。)りて其事を行ふ(、)伯養家に居り、平生上下を着す、上下は禮服なり、本郷弓街に居る時、其家に井なし、常に水を隣家に仰(あふ)ぐ、隣家一日井を濬(さら)ふ〔浚ふ〕、義當に役夫を出して之を助くべし、適ま伯養が僕疾あり、伯養乃ち出で躬(みづか)ら■(糸偏+更:こう・きょう:つるべなわ:大漢和27489)(つるべなわ)〔釣べ繩〕を執りて力を分つ、尚上下を脱せずと云ふ
瞽者〔盲目者〕佐々木玄信と云ふ者あり、善く諸家の系譜を記す、而して其の得て詳にすべからざるものに至りては、牽合附會して〔無理にコヂツケル〕以て世を欺く、一日伯養を過ぎ、談譜に及ぶ、伯養問うて曰く、荊妻は垂井氏なり、傳(つたへ)言ふ昔者(むかし)垂井某なる者伊勢の國司に仕ふと、既に其名を失ふ、未だ何れの世の人なるを知らず、其跡絶えて考ふべからず、豈に遺憾ならずや、玄信曰く、此れ垂井廣信なり、廣信は河内守と稱す、伊勢垂井の人、初め其國司に仕へ、後後醍醐天皇に事へ、諫疏〔諫言の上奏〕聽かれずして去る、廣信學を好み、始めて伊洛の説を奉ず、著す所嘉文亂記六十五卷あり、甞て藤原藤房に勸めて朱子集註を讀ましむ、事長草録に載す、今子が爲に誦讀せんと、乃ち稱するもの歴々〔明的〕聽くべし、伯養驚き且つ喜んで曰く、吾子の記憶誠に天性に出づ、此に由るにあらずんば、余何を以て之を知ることを得ん、請ふ再稱せよ、余將に之を録せんとす、玄信又復た誦す、伯養隨ひて之を筆(ひつ)し、以て明證を得たりとなす、是時に當り京師の藤井懶齋國朝諫諍録を撰〔著述〕す、伯養懶齋と舊交あるを以て、之を懶齋に致して諫諍録に載せしむ、後に■(之繞+台:たい・だい:及ぶ:大漢和38791)(およ)〔及〕び永井貞宗の本朝通記、寺島良安が倭漢三才圖會(さんざゑ−ママ)に、垂井廣信此邦に於て、始めて朱註を讀む事を載す、蓋し皆諫諍録に本(*原文ルビ「もと」は一字脱。)くなり、而して所謂垂井廣信は古今其人なく、嘉文亂記及び長草録も亦未だ其書あるを聞かず、是れ本と玄信が一時の妄語(ばうご)〔虚言〕に出で、伯養之を信じ、海内(*原文ルビ「たいだい」は誤植。)遂に犬吠(けんべい−ママ)〔一犬虚に吠へ(*ママ)ての成語より來る〕の説を唱ふと、是れ日夏高繁が兵家茶話に辯ずる所なり。 伯養の妻垂井氏、名は三、字は省君、貞正にして操あり、且つ伯養に學び、書を讀み古に通ず、伯養の釋老に學ぶや、省君隨ひて其義を領解す、伯養の王たり朱たる〔陽明學より朱子學に移る〕、省君亦克く之を治む、世稱して曰く、夫婦並に才學あるは二山(*原文「二葉」)伯養、貝原益軒あるのみと、甞て伯養將に出でんとす、火あり、乃ち省君に謂つて曰く、火遠し、必ず及ばず、若し漸く逼(せま)らば吾歸りて汝を携へ去らんと、少焉(しばらく)ありて風急にして延燒近鄰に及ぶ、弟子省君に謂つて曰く、災今免れ難し、内君〔人の妻に對する敬稱〕盍ぞ早く去らざる、省君從容として〔ユツタリとして落ち着けること〕曰く、夫出づるに臨み、妾に謂つて曰く、火逼らば必ず歸りて共に行かんと、然るに夫を待たずして去る、此れ夫の言を奉ぜざるなり、夫の言を奉せ(*ママ)ずして苟も生〔假初の生〕を求めんよりは、寧ろ死して女子の節を全くせんと、時に火益熾(さかん)に居益危(あやう)し、而して節を守りて變ぜず、既にして伯養遽(にわか)に歸り、倶に共に去る
伯養寶永己丑八月二十日を以て終る、享年八十有七、妻省君先つ一年卒す、年八十、共に江戸牛籠宗參寺に■(穴冠+乏:へん・ほう:葬る・塚穴:大漢和25459)(へん)す〔葬ること〕


谷松、字は宜貞、小字は三介、己千と號し、又一齋と號す、土佐の人

一齋の父素有、字は時中、初め釋に入り、親鸞派に屬し、土佐の眞常寺に住持す、人となり豪爽〔豁達〕志節あり、最も儒學を喜ぶ、後遂に髪(はつ)を種(う)えて大學と稱す、儒を以て業とす、大儒野中兼山、山崎闇齋皆之が訓導を受く、時に喪亂の餘、文運未だ闢(ひら)〔開〕けず、況んや僻郷最も典籍に乏し、而して時中之を四方に求め、多く之を儲(たくは)ふ、家素と饒貲(じようし)〔富裕〕なるも、爲に殆ど蕩盡す、甞て一齋をして小倉三省の所に學ばしむ、謂つて曰く、吾聞く富貴なれば志を喪〔失〕ふと、田産(でんさん)五百石此れ子孫を惠む所以にあらず、乃ち之を鬻ぎて僅に數頃(けい)〔田地の區劃〕の口を糊(こ)すべきものを存すと云ふ
一齋土佐を去りて京師に移り、江戸に來りて稻葉侯に遊事す、暮年之を辭す、性淡泊(たんはく−ママ)にして財貨を屑(いさぎよ)しとせず、野中兼山甞て重價を出して正宗が鍛へし所の一名劍を購(あがな)ひ、一齋に托して之を研工〔トギ師〕に附す、時に某甲將に冠せんとす、一齋之が賓〔上客〕となる、則ち其剱を贈りて祝となす、他日兼山之を聞き、亦略(ほゞ)意に介せず
一齋悟性〔事を曉る力〕中人に逾(こ)えず、而して勤苦志を求む、是を以て其學に體用あり、徂徠が■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園(けんえん)隨筆に曰く、谷一齋先生といふ者あり、甞て封事(ほうじ)〔上書建白〕を上(たてまつ)る、而して阻格〔妨げハゞマル〕用ひられず、予其稿を得て之を讀むに其中(うち)遷都の事あり、予此を以てして其學見る所なしとなさゞるを識る、方今の世能く斯業をなす、其人を難しとせずと、夫れ徂徠は名一世に擅(ほしいまゝ)にし〔我物にすること第一の名あるなり。〕、詞林に於て許可少(すくな)し〔人を稱すること少し。〕、而して獨り之を稱す、此の如くなれば則ち以て一齋を定むるに足れり。
一齋の墓(ぼ)は江戸澁谷長谷寺に在り、石あり銘序を録す、大高阪精介之を撰す、碑面に楷字もて谷一齋宜貞居士之墓の九字を題す


山崎闇斎熊沢蕃山後藤松軒木下順庵安東省庵二山伯養谷一斎

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凡例
( ) 原文の読み 〔 〕 原文の注釈
(* ) 私の補注 ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字
(*ママ)/−ママ 原文の儘 〈 〉 その他の括弧書き
[ ] 参照書()との異同
 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10)
・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。
 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25)
・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。