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宮瀬龍門良野華陰田辺晋斎南宮大湫林東溟永富独嘯庵横谷玄甫鵜殿士寧伊藤錦里江村北海清田たん叟

譯註先哲叢談(後編) 卷六

劉龍門、名は維翰、字は文翼、龍門山人と號す、通稱は三右衞門、宮瀬氏、紀州の人

龍門の系は後漢獻帝の孫志賀穴太村主(しがのあなたむらのきみ)より出づ、應神天皇二十年乙酉其黨類を率ゐ、東渡して我に歸化す、朝廷其流離〔郷里を離れて漂泊す〕を憐み、貴冑たるを念(おも)ひ、之を近江の石鹿郡に封ず、二十餘世にして封を失ひ、子孫諸州に播遷(ばんせん)〔流轉〕す、後數十年、伊豆宮瀬に居る者地を以て氏となす、曾祖宗仙醫を以て始めて紀侯に仕ふ、祖は宗成、父は宗確、先職を繼ぐ、世禄三百石、宗確巖橋氏を娶り、二子を生む、伯は乃ち龍門、叔は維持、字は文幹、龍門の時に至り、故あり籍を削られ、州の龍門山に隱居し、書を讀み力學すること此に年あり、後徂徠の學を聞き、其風を慕ひて江戸に來る、時に寛保元年辛酉夏四月なり
 龍門笈を負ひ〔書生の扮裝、轉じて遊學のこと〕て江戸に來る、驛舍に於て盜に遭ひ、資銀を喪ひ、乞食(きつしよく)して關に入り〔函根の關所に入る〕、湯島菅廟〔天神社〕の祠官某家に寓すること一年餘、湯島切通街に僑居し、生徒に教授す、嘗て贄を服南郭に委し、芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社に入る、門下の士鵜子寧、高翼之の輩其能〔才能〕を妬忌し、惡聲〔誹謗惡口〕屡臻(いた)る、是に於て怏々(*原文及び頭注「快々」は誤植か。)(わう\/)〔不滿の心〕望を失ひて引去り、退きて六經を修め、敢て世に交はらず、幾くもなく名聲大に起り、門人益進む、諸侯之を聘する者ありと雖も、皆辭して起たず、當時文章家と稱する者、服南郭、餘熊耳を推し、龍門の名之に亞ぐ〔亞は二番目〕と云ふ
 龍門李王の業を修め、其旨之と同くして馳聘趨歩〔運用の法〕は別に一格を占む、當時の諸家は之が趣向を異にし、力を鍛錬に極め、思を字句に潜め、其精微に造詣せんとす、龍門は則ち然らず、詩若くは古文辭を作るに、題に隨ひて意を命じ〔旨意を定め〕、境に遇ひて辭を遣る〔文を行り語を措く〕、意筆先に在り、筆を下して文をなす、意の至る所辭必ず至る、操舍(*原文「操含」は誤植。)(さうしや)〔取捨〕意の如く、縦横自在なり、未だ初より焦心極慮せず、嘗て謂ふ諸子皆屹々(きつ\/)(*原文頭注「■(石偏+乞:こつ・かつ:石〈が硬いさま〉:大漢和24043)々(*よく働く・疲れる)」とする。)〔コツコツ(、)辛苦〕、我獨り由々(ゆゝ)たり〔ユルヤカに迫らず〕と、蓋し天縦(てんじゆう−ママ)の才ありて推敲〔字を練り句を研く〕を勤むるに非ざれば、何ぞ能く斯の如きに至らんや
 龍門其業未だ盛(*原文ルビ「なかん」は誤植。)ならざる時、窮迫殊に甚し、傭書して食を給し、嘗て哀王孫一篇を賦し、寓意自ら譬ふ、其詩に曰く

酒ニ對シテ纔ニ憂ヲ忘ル、醉テ臥ス胡姫ノ樓、腰ニ■(萠+立刀:かい・け:縄で巻きつける:大漢和31061)■(糸偏+侯:こう・く:巻柄:大漢和27684)(*「かいこう」=粗末な剣)之長鋏ヲ挾ミ、身ニ■(肅+鳥:しゅく・すく:鳥の名:大漢和47331)■(霜+鳥:そう:鳥の名:大漢和47487)(*「しゅくそう」=西方の神鳥、長頸緑身の雁に似た鳥)之弊裘ヲ被ル、傍ニ美髯ノ少年子有リ、枕ヲ撫シ喚ヒ起シテ交遊ヲ請フ、願クハ一盃ヲ勸メテ然諾ヲ結ハン(、)起坐辭セズ共ニ献酬ス、少年慇懃名姓(*ヲ)問フ、君ガ貌ヲ相スルニ名流ニ非ザルヲ得ンヤ、對ント欲シテ呻吟言フ能ハズ、長跪シテ數謝ス論ニ堪ヘス(*ママ)ト、請フ君劔舞セヨ我節ヲ撃タン、賎子口ヲ開キテ憤魂ヲ緩クセン、憶フ昔シ東漢紀綱傾キ、董賊跋扈風雷ヲ崩ス、善良ヲ枉害シテ雄俊ヲ鋤キ、克復施シ難シ股肱ノ才、主ヲ劫シ都ヲ遷シ逾僭侈、權ヲ弄シ人ヲ殺ス薙ヲ獲ルガ如ク、萬乘ヲ廢立シテ(*原文送り仮名「シヲ」は誤植。)勢ヒ天ヲ回ス、龍種ヲ剪屠シテ(*原文返り点「剪屠〈ニ〉龍種〈一〉」とする。)子遺無シ、赫々タル兩漢ノ帝王州、城闕墟ト爲リ宗祀傾ク、密謀賊ヲ斃シテ纔ニ顔ヲ解ク、那ゾ識ラン蕭墻ニ姦雄起リ、四海ヲ振盪シテ要津ニ據ルヲ、神威遂ニ歸ス傳國ノ璽、王孫狼狽路衢ニ泣ク(、)海内微躬ヲ投ス(*ママ)ルニ所無ク、跼蹐槎ヲ泛フ(*ママ)海東ノ國、海東之國日本ノ都、日本ノ天子聖明ノ主、仁政老ヲ養ヒ且(*原文「旦」とする。)ツ孤ヲ撫ス、帝孫ヲ顧眄シテ播蕩ヲ恤ミ、禮遇更ニ諸臣ト殊ナリ、詔シテ賜フ琵琶湖石鹿ノ郡、紫綬新綰金虎ノ符、何ゾ計ラン異域宗社ヲ祭ルヲ(、)東方世變シテ空ク古ト爲ル、石鹿冑裔亦タ流離ス、今(*ニ)於テ庶ト爲リ草莽ニ竄ス、龍顔隆準赤帝ノ孫、城市口ヲ糊シテ(*原文送り仮名「シヲ」は誤植。)屠估ニ混ス、妻拏數嗟ス甑ニ塵ヲ生ス(*ママ)ルヲ、世人謾ニ指シテ貧窶ヲ嘲リ(、)祖宗ヲ感念シテ獨リ哀號ス、悲憤ヲ遣ルカ(*ママ)爲メニ濁醪(*ろう)ヲ■(貝偏+余:しゃ:掛買する:大漢和36786)(*原文「余」の中を「示」に作る。俗字。)フ、君見ズヤ漢祖蛇ヲ斬ル三尺ノ劒、千歳ノ威靈口嗷々、帝王之孫徴何ニ在ル、人ニ向ヒテ説キ難シ卯金刀(*對酒纔忘憂、醉臥胡姫樓、腰挾■■之長鋏、身被■■之弊裘、傍有美髯少年子、撫枕喚起請交遊、願勸一盃結然諾、起坐不辭共献酬、少年慇懃問名姓、相君貌得非名流、欲對呻吟不能言、長跪數謝不堪論、請君劔舞我撃節、賎子開口緩憤魂、憶昔東漢紀綱傾、董賊跋扈崩風雷、枉害善良鋤雄俊、克復難施股肱才、劫主遷都逾僭侈、弄權殺人如獲薙、廢立萬乘勢回天、剪屠龍種無子遺、赫々兩漢帝王州、城闕爲墟傾宗祀、密謀斃賊纔解顔、那識蕭墻姦雄起、振盪四海據要津、神威遂歸傳國璽、王孫狼狽泣路衢、海内無所投微躬、跼蹐泛槎海東國、海東之國日本都、日本天子聖明主、仁政養老且撫孤、顧眄帝孫恤播蕩、禮遇更與諸臣殊、詔賜琵琶湖石鹿郡、紫綬新綰金虎符、何計異域祭宗社、東方世變空爲古、石鹿冑裔亦流離、於今爲庶竄草莽、龍顔隆準赤帝孫、城市糊口混屠估、妻拏數嗟甑生塵、世人謾指嘲貧窶、感念祖宗獨哀號、爲遣悲憤■濁醪、君不見漢祖斬蛇三尺劒、千歳威靈口嗷々、帝王之孫徴何在、向人難説卯金刀)
龍門講經の暇、音律を好み、常に簫を吹き、頗る其技を究む、蓋し我邦中古以降傳ふる所の古樂なるもの、皆隋唐兩部の皷吹にして、六季〔六朝〕の遺毀〔壞れたるもの〕を拾収し、雜ゆるに夷蠻の歌曲を以てして、之が制度となし、其足らざる所を補ひ、以て李唐一代の遺音となす、龍門能く其説を研尋(けんじゆん)す、時に東叡王亦音樂を好み、人をして之を招がしむ、是より後龍門屡王府に詣る、甞て伶官數人と曲を王の前に奏し、湊合均しく■(人偏+八+月:いつ・いち:舞の列:大漢和572)舞(いつぶ)〔八■の舞とて名高き古樂〕を以てす、其屈伸(くわしん−ママ)俯仰(ふきやう−ママ)、綴兆舒疾、盡く節に中る〔度に合ふ〕、再始復亂、著往飾歸、奮疾して拔けず、極幽(*原文ルビ「きくよゆう」は誤植。)して隱さず、滿坐大に其技の妙に入るを歎ず、伶人東儀將曹稱して曰く、所謂翕如(きうじよ)に作(おこ)り、純如に從ひ、■(白+邀の旁:きょう:玉の白色・白い・明らか:大漢和22792)如(けうじよ)に成るものなり(*と)
太宰春臺龍門と當時に在りて、皆音樂を好む、東叡王春臺が其技の妙なるを聞き、屡人をして之を召さしむ、春臺辭して曰く、余は儒生(じせい−ママ)なり、若し儒術(じじゆつ−ママ)を以て徴(め)さるれば、駕を待たず〔喜んで(、)支度を待たず〕して行かん、今我私嗜の末技を以て、王門の伶人と伍をなすは吾が欲する所にあらずと、遂に行かず、龍門其言を非斥して曰く、吾素(*原文ルビ「とも」は誤植。)より音を好むを以て道義に妨け(*ママ)ずと
龍門■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園修辭の業を慕ひ、芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社に入る、服南郭其才を愛し、之を遇すること尤も優なり、後同門の士之を妬忌するを以て、遂に讒間〔讒言を以て其仲を離間す〕を信じて之を厭薄す、龍門亦其意を知りて之と絶つ、其始末は龍門が餘熊耳に與ふる書中に詳(*原文ルビ「つまびらか」は衍字あり。)かなり、今此に載す、其書に曰く
子綽足下、昔吾を赤羽に薦む、吾常に之を知遇と謂ふ、然も南方草鄙の人、世に於て比する所なし、尚左右に擯せられず、之を浸潤〔讒訴〕の中に拔き、卓爾として衆口に拘はらず、何によりて之を得たるかを知らず、前年島子行吾が爲に緩頬(くわんきやう)〔温顔〕して之を説く、猶未だ其意を悉さず、足下吾が爲に赤羽に詣り、旁午以て議す、乃ち謂(おも)ふ宇子迪なる者徠翁の弟子にして、赤羽が親む所なり、子迪をして請はしめば則ち可ならんと、而して子迪に交驩せ〔打解けて交る〕しめんと欲す、事の始末は島子行に與ふる書に具す、足下未だ之を讀まざるを知る、嚮者(さきに)諸君崇古樓に飮む、吾も亦與かる、至れば則ち子迪在り、足下吾をして觴(さかづき)を子迪に献ぜしむ、既にして吾酬ゆ、笑談歡甚し、足下の喜知るべし、吾事ありて出づ、足下吾を招ぎ、節を子迪に折るべきを慫慂〔勸誘〕す、當時厚誼を辱くするを以て敢て言はずして之を諾せり、且つ聞く君修子迪を諭して吾を納れしめんとすと、此れ猶井に臨んで火を求むるが如し、豈に得ざるのみならんや、故に略足下の爲に鄙衷を陳せ(*ママ)ん
吾書を好み、旁(かたはら)歌詩を喜ぶ、常に海内の名家が不逮(ふてい−ママ)〔及ばざること〕を匡すを得ざるを以て憂となし、慨然糧を裹んで關に入る、甞て板美中の宅に飮みて子迪に逢ひ、即ち赤羽に謁せんと欲するを以て之に告ぐ、美中曰く、恐くは衆女蛾眉を妬(ねだ)まん〔美人を妬むの意〕と、今に至り、常に之を知言なりと謂(おも)ふ、子迪曰く、爾赤羽に從ふも何をか能くせん、豈に余に從ひて學ぶに若かんやと、吾笑つて曰く、吾南方に僻處すと雖も、■(肉月+繰の旁:そう:豚の脂・生臭い:大漢和29955)髪(さうはつ)〔胎髪にて幼少〕聞く所、赤羽あるを知る、豈に天壤の中に子迪あるを聞かんや、袵(にん−ママ)を歛(おさ)めて子輩に事ふるならば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らんやと、退きて以爲く、余や凡庸なり、何ぞ此人を尤めんと、以て意に挾まず、既にして赤羽に詣り、諸君の後に從ふも、神意接せず、業を問ふも端(たん)なく、退(*原文ルビ「おそ」は誤植。次の「懼」のルビ。)きて懼るゝのみ、翻然悟りて曰く、氾濫の器(き)、焉ぞ洪流の量を望まんや、然も聖門に不能を矜(ほこ)るの教あり、豈に終に屑しとせざらんや、鵜士寧余を責讓して曰く、聞く爾社中を醜詆して人なしと曰ふと、爾口を守ること瓶(へい)の如くせよ〔瓶子の如く口を大切にし妄に語るな〕、然らずんば與(*原文ルビ「あづ」は一字脱。)ること勿れと、對へて曰く、吾都に出づる數日、未だ時彦(じけん−ママ)の誰たるを知らず、安ぞ其有無(いうむ)を論ぜん、然も士寧は先進なり、敢て規に從は〔戒に服す〕ざらんや(*と)、吾發言せずと雖も、頗る其意を怪み、是より諸君の後に從ひ、唯寒暑を通ずるのみ、業とする所を齎して、口を發せんと欲するも由なく、終に敢て進まず、島子行詰りて曰く、爾何故に社盟に與ら〔社中に列席す〕ざると、吾其本末を陳し(*ママ)て之を子行に告げ、往いて之を赤羽に説かしむ、對へて曰く、余何ぞ拒まん、盍ぞ士寧と之を謀らざると、是に於て足下(、)士寧、仲英、子行を携へて吾に飮み、諸子をして吾に媾(こう)〔和睦〕せしむ、既にして裘葛を更ふる〔夏冬を經過す〕もの十たび、是に於て諸子敢て衷言するなく、又■(之繞+貌:ばく・まく:遠い・遥か:大漢和39198)(ばく)として吾を念はず、吾遂に跡を赤羽に絶つ、吾實に惑ふ、子行復た謂ふ、諸社友の言を聞くに、子迪愬(うつた)へて曰く、文翼なるもの上國の人なり、其行必ず浮華ならん、寧ろ夫子の業に咫尺(しせき)〔近くの意〕して、歸りて其郷に誇るなからんか、然らずんば則ち是を以て名を釣り、徒に以て哺啜(ほてつ)する〔飯を食ふ〕のみ、上國の人其性率ね浮華なり、豈に士新兄弟が徠翁を師とし、翁死して遂に之に叛くに傚ふなからんやと、吾笑つて曰く、何ぞ吾を距(ふせ)〔拒に通ず〕ぐの深きや、寧(なん)ぞ一士新を以て上國億兆の人を概するや、妬に非ざれば則ち愚なり、若し上國の人を以て、概して浮華となさば、赤羽も亦上國の人にあらずや、即(もし)教授束修(*束脩。頭注「束脩」とあり。)〔謝物〕を受くるを以て詬〔譏〕となさば、則ち寒士〔貧士〕何を以て哺啜を計らん、則ち赤羽も亦教授の人にあらずや、夫れ丈夫の世に在る、苟も見る所あらば何んぞ順を以て正となし妾婦の道(*原文ルビ「み」は一字脱。)に從ひ、■(走繞+咨:し:行き悩む・逡巡する:大漢和37245)■(走繞+且:しょ:行き悩む・逡巡する:大漢和37095)(しそ−ママ)〔逡巡と熟しグヅ\/して決意の果ならざること〕詭佞して委曲俗に從ひ、人の餘唾を拾ひて富貴に饕(かく−ママ)(*とう)せ〔貪り食ふ〕んや、彼の所謂豪傑の士、擯せざれば則ち可なり、己を以て權衡となし、之を衆に懸けて、己に同き者を索む、君子は爲さゞるなり(*と)、是れ既に子行に報ずるの語、故に敢て贅せず、今や赤羽既に逝く、乃ち彼の人に俯眉し〔眉を下げる〕て、白面少年の郷先生の鼻息(びそく)を仰(あふ)ぐ者に傚ふは、吾心安んぜず、足下命ありと雖も、吾敢て之を奉ぜず、高誼に戻(もと)る甚し、忸怩(ちくじ−ママ)〔慚愧〕言ふ所を知らず、末減〔罪を輕くす〕を爲さば幸なり
近者(ちかごろ)松君修吾廬を過ぐ、濁醪(だくらう)〔ドブロク(、)ニゴリ酒〕を■(貝偏+余:しゃ:掛買する:大漢和36786)(か)ひ〔懸賣で取る〕、枯魚(こぎよ)(*干物)を炙(あぶ)り、文藝を揚■(手偏+乞:こつ・きつ:撃つ:大漢和11806)(やうこつ)〔褒貶〕し、作者の微を詮次し、談此事に及ぶ、語りて曰く、韓客酬應の詩を讀んで、文翼あるを知ると、後高子式余に謂つて曰く、子未だ劉文翼が詩を讀まざるか、間者(このごろ)門人をして其龍門集を誦せしむ、近體間(まゝ)瑕疵あれども、要するに寸玉たるを失はず、五七言古體に至りては、各妙境あり、翩々たる〔輕くして力なき形容〕(*才知に優れ、洒落た)當世の才子なり、是に於て之を讀むこと益々熟す、竊に怪む、文翼の才を以て、何ぞ赤羽に遇はざるや、豈に其れ故なきを得んやと、後赤羽を過ぎて之を問へば、對へて曰く、余始め文翼を海雲寮社に識り、談笑杯酌を命じ、之を社會に登す〔芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社の會席に列せしむ〕、久しくして聞知する所なし、後文翼をして社盟を尋ね〔舊盟を追うて出席すること〕しめんと計る者あり、之を社友に謀れば、皆曰く、浮華なり、故に許さずと云ふ(*と。ここまで高子式の言。)、君修曰く文人行なきは、古より之を稱す、若し浮華を以て之を律せ〔律は擬律にて法に照す〕ば、古今の士、何に據りて手足(しゆそく)を措かん、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の社東壁子和輩の如き、安ぞ浮華の譏を免れんや、言行相顧み、進退禮を守る者、一世を擧げて幾くもなし、夫れ世の文士娼妓に惑溺して其職業を失ひ、才を遺れ色を存し、躯(み)を袵席(にんせき−ママ)〔寢具にて女色のこと〕に殞(そん−ママ)し、穴隙(けつげき)を鑽(き)り〔處女と私通する故事〕、東家の牆を踰へて其處子を■(手偏+樓の旁:ろう・る:引く・引き集める・引き寄せる・取る・誘う・抱く:大漢和12595)する者之あり、或は沈湎〔酒に醉ひて流連すること〕(*原文頭注「湎」の中を口に作る。)荒飮して檢操を顧みず、宴會に儀を失ひ、街衢の中(うち)人の肩臂(けんひ)に倚りて、怒號拳(けん)を張り、瞋目(しんもく)人を罵り、醜態發露、傍觀者の爲に■(女偏+冊:さん・せん・さつ:そしる:大漢和6169)笑(さつせう−ママ)(*さんしょう)せられ、妻拏に羞惡せらるゝ者之あり、或は博奕輸屈して〔勝負にマケル〕、身を貨物(くわぶつ)に賭し、購うて反ることを得るなく、或は好んで逋債を負ひ、以て其欲を縦にする者之あり、或は浮華流説、世を■(三水+于:お・う・わ:〈=汚〉:大漢和17132)して名を重■(米偏+胥:しょ:糧・白米:大漢和27035)(ぢゆうしよ)に釣る者之あり、余未だ文翼に此行あるを聞かず、何ぞ文翼を目するに浮華を以てせん、是れ必ず前(さき)に赤羽に煬竃(やうさう)する〔タキツケルにて讒する〕者あらん、赤羽若し能く文翼に熟せば、何ぞ此に至らんやと、松山世子英傑の資を以て握沐〔洗髪の時髪を握りて出づる故事、士を好む形容〕士に下る、高子式余を薦めて曰く、文翼の士■(女偏+交:こう・きょう:美しい・艶かしい:大漢和6214)姫(かうき)檻に臨み、春花の爛■(火偏+曼:まん:「漫」の譌字:大漢和19371')(らんまん)たるが如しと、世子余を清燕に延き、國士もて吾に遇ひ、一詩を呈する毎に、未だ嘗て善と稱せずんばあらず、君修傍より之を讃す、世子肥後侯に宴し、赤羽父子陪〔侍坐〕す、世子余が事を問へば、答ふるに才子を以てす、後世子に謁する毎に吾が恙なき〔病なきなり〕や否やを問ひ、而して吾を見んと欲すと謂ふ、赤羽居れば則ち吾を知らず、即ち吾を稱して才子となす、亦怪(*原文ルビ「あし」は一字脱。)むべし、何ぞ對ふるに浮華を以てせざるや、足下子行と屡請ふて許さず、一朝世子の問を受けて、輙ち吾を見んと欲す、益怪むべし、寧ろ參政の世子に諂ふ〔阿諛〕か、名家恐くは權貴に求むるなけん、吾甚だ惑ふ、近者源子澤吾を仲英に問ふ、仲英曰く、吾大人平生韓客に會して名を鬻ぐ者を惡む、文翼を排すは豈に他あらんやと、夫れ吾が韓客に會する、赤羽を去ること幾年ぞ、是れ其窮する所を知る、蓋し遁辭〔申譯〕に近し、寧ろ此を以て罪となさんや、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の輩韓客に會する者多し、亦何ぞ排して絶せざるや、抑も吾事に於ける、何ぞ前後相矛盾〔撞着〕するや、松山世子拙稿に跋して曰く、文翼は温潤〔和易にして露氣のあること玉の如き形容〕(*原文頭注「濕潤」とする。)謙讓、有徳の君子なる者之に近し、子遷余を見る毎に文翼を問ひ、且つ之を見んと欲す、子遷文翼を知らざるにあらず、社中の二三子、文翼が名を擅にするを猜忌し〔ソネム〕て、之を擯するなりと、之を世子に徴して疑はれず、諸を君修に質して譏られず、子式之を輓し〔前から引く〕、足下之を推す、古人己を知る者の一あるを欲す、今既に此の如し、何を苦んで子迪輩と周旋せ〔交際し奔走す〕ん、足下の眷命を辱くす、而して教に從ふを獲ず、慚懼(ざんく)言ふ所を知らず、故に此書を作り、管(くわん)を搦(と)〔執〕りて踟■(足偏+厨:ちゅ・ちゅう:ためらう:大漢和37868)之を久しくす、然りと雖ど(*ママ)も、中心に藏して之を言はざれば、恐くは終身鄙悃(ひこん)を足下に陳ぶるを得ざらん、故に略固陋を述べて左右に呈す、■(爾+見:ら:詳しい・委曲:大漢和34980)縷(じる−ママ)〔長たらしき言〕(*詳しく、事細かなこと)を厭ふなくんば幸甚し、亦唯高誼に戻るの罪、何を以て免れんや
龍門明和八年辛卯正月四日を以て歿す(*原文「歿ず」は誤植。)、享年五十三、高田原玄國寺に葬る、著す所古文孝經國字解、東槎餘談、鴻臚傾蓋集、■(土偏+熏:けん・かん・くん:土笛:大漢和5546)■(竹冠+虎:こ・く・ち:大きな竹の名:大漢和26132)(*けんち−笛の類。仲の良い兄弟の意。)集、金蘭集、李王七律詩解、劉氏無盡藏、龍門山人文集等あり
龍門晩年に至り、交遊〔交際〕海内に遍く、其經義を推す者は太宰春臺宇■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水に同じとなす、其文章を推す者は服南郭餘熊耳に減ぜず〔劣らず〕とす、松崎觀海稱して才學無雙(ぶさう)となす、龍門易簀するに及び、遺言して曰く、天下吾を知る者君修に若くはなし、吾死せば必ず君修に求めて墓石に銘せよと、乃ち其意に從ふ、君修銘して曰く
斯人シテ正徳以前ニ生レシメバ、必ズ玉堂ニ上リ金馬ニ躡(*ふま)ン、斯人シテ物子之世ニ及ハ(*ママ)シメバ(、)必ズ當時諸公之下ニ立タズ、富貴天ニ在リ、身ヲ終マデ轗軻、茲ノ多口ヲ増ス、罪豈ニ我ニ在ランヤ、不朽ナルハ文、後世必ズ識者有ラン(*使斯人生正徳以前、必上玉堂而躡金馬、使斯人及物子之世、必不立當時諸公之下、富貴在天、終身轗軻、増茲多口、罪豈在我、不朽者文、後世必有識者)
五十九字の間頗る龍門の人となりを盡す、以て其性行を概する〔概略を知る〕に足れり


良華陰、名は芸之、字は伯耕、華陰と號す、通稱は平助、良野氏、自ら修めて良となす、讃岐の人

華陰は其先秦氏、土佐長曾我部の支族〔傍系親族、別家〕にして、讃岐那珂郡良野邑の土豪なり、少時侠氣〔男氣〕あり、江戸に遊び、撃劍を長沼不遠齋に學び、其技を以て聞ゆ、又好んで書を讀み、業を林聖宇の門に受く、學成りて京師に來り、講堂を綾小路室街に築き、教授して業となす、其學專ら性理を主とせず、漢唐宋明諸家を折衷し〔諸家の長を採り短を補ふ〕て別に一家をなす、近世の所謂折衷學なるもの是なり、其業宇明霞と雁行す、當時の人宇三良平と曰ふ、宇三は明霞が三平と稱するを以てなり
華陰資性沈厚〔着實〕端默にして、深く輕薄の氣習を厭ひ、肯(あい−ママ)て當世の諸儒に交らず、其江戸に在ること八年、書を昌平學舍に讀む、世其人となりを知る者希なり、獨り桂秘書彩巖善く之を知りて、後之を東叡王に薦む、王甚だ之を敬禮し、廩米〔藏米〕を賜ひて其費に給す、王薨(*原文ルビ「がう」は誤植。)ずるの後京師に之く、勸修王又其名を聞きて之を聘す、遂に文學を以て王府に賓たり
周秦の書彼土に佚〔散佚と熟し紛失〕して我邦に存する者少なからずとなす、孔傳古文孝經が太宰春臺の校本に依り、始めて世に顯はるゝは人の知る所なり、華陰が鄭註今文孝經校本に至りては、之を知る者極めて希なり、寶暦の始め華陰釋■(大+周:ちょう:大きい・多い、ここは人名:大漢和5944)然(てうねん)の遺本を南都に得て、校定之を刊す、是より後鄭註始めて世に顯はる、其餘異本往々にして出で、今に至り鄭註の疏釋〔註解〕頗る多し、其實は華陰が校する所を以て、之が先鞭となすと云ふ
華陰平生小事と雖も、熟思苟もせず、必ず循々として〔丁寧反覆〕序あり、其機得(え)(、)理到るに至りては、能く人の爲し難きをなす、然りと雖も、嗜好の偏〔好む所の常識外れなる〕又異常なるものあり、甞て一狗を畜(やしな)ひて駒と名け、之を愛すること尤も厚し、人其狗の猛を惡んで之を撻(う)つ、華陰大に怒りて其人を罵り、又其人の養狗を執(とら)へて之を撻ち、毫も畏縮の色なし、朝暮群狗の吠聲(べいせい)を聞けば、杖(じやう)を持ちて立つ
華陰文學を以て家を起すと雖も、苟も侯家に仕ふるを欲せず、其意謂(おもひら−ママ)く、方今諸侯に雄才遠志、大に爲すあらんとするの君を見ずと、常に杜甫が「深山短景(*ヲ)催ス、喬木高風易シ(*深山催短景、喬木易高風)」の句を誦し、以て自ら譬ふ
華陰江戸に在るの時、一侯之を聘して仕官を勸むれども辭して就かず、侯に謂つて曰く、今世仕官の■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)徑〔ハヤ途〕たるもの三あり、國用を度支(たくし)〔財政の調理〕し、勾勘(かうかん)〔理財〕に巧にして能く貨財を殖(ふや)す、最も上策となす、運筆(うんひつ)端正能く俗體に通じ、書吏たるに堪ふ、之を中等となす、騎法精錬、閑馬を調肥して獸醫を兼ね、或は兵伍に練習し、禮義を協賛し、或は會計を善くし、衆寡を算料し、毫釐(がうり)〔一厘一毛〕を點檢〔調査〕す、之を下等となす、況んや吾儕(ともがら)詩書を左右し、翰墨〔筆墨又は文墨〕の圃に馳聘し、口舌を以て能となし、博宏才となすもの、是れ最も人情時勢に通ぜざるの甚しきもの、海内儒服(じふく−ママ)に溺(いばり)せ〔儒者を嫌ひて其衣服に小便すること〕ざるもの、幾人かある、此に由りて之を觀れば、文學を以て門戸を張る者は三等の外に在りと、侯笑つて止む
華陰明和七年庚寅四月三日を以て歿す、享年七十二、私に文惠と謚す、洛東の法華寺に葬る、著す所華陰良論、詩評集解、華陰文集等あり


田邊晉齋、名は希文、字は子郁、晉齋と號す、通稱は喜右衞門、平安の人、仙臺侯に仕ふ

晉齋の父希賢世々仙臺に仕へ、京師の邸監〔留守役〕たり、齋藤氏を娶りて晉齋を生む、晉齋幼にして學を好み、業を淺井重遠の門に受け、程朱の學を確信し、經義を以て縉紳の間に稱せらる、專ら山崎氏の説を唱へ、此を以て徒に授くと云ふ
晉齋平安に教授すること七年、其名時に著聞す、仙臺侯之を召見して月俸三十口を賜ひ、別に門戸を立てしめ、以て儒官(じかん−ママ)となす、仙臺に移居し、其職に在ること二年、侯其勞を賞して采地入〔知行領分〕三百石を加賜し、禮遇甚だ渥く、何もなく擢られて世子の傅〔御守役〕となり、又四百石を加賜せられ、先に賜はりし所を合せて七百石となり、班中太夫に至る、其殊恩〔特恩〕非常にして世の君臣の遭遇にあらず、夫れ仙臺は大藩なり、貴重の臣なきにあらず、又文學の臣少きにあらず、然も晉齋の如く出身して進む者あるを聞かず
晉齋幼にして夙慧〔才智の早く開けたる〕、郷先生が孟子を講じ、人皆堯舜たるべしの章を聞き、忻然追慕の心あり、謂て曰く、皐稷〔上古の名相〕伊周は企及すべからざるが如し、其他は未だ學んで至るべからざる者あらずと
晉齋侯の知遇に感じ、名教(*原文ルビ「めいげう」は誤植。)を維持し、不逮(ふてい−ママ)を匡救し、朝野を誘掖するを以て己が任とし、直諌(ちよくかん)〔直言して君を諌む〕忠告、避くる所なし、侯亦能く之を容る、侯甞て江戸に在りて病篤し、晉齋之を憂へ、自ら温泉に浴すと稱し、鹽竃祠に詣(*原文ルビ「まう」は衍字あり。)うで、危坐〔端坐〕絶食すること七日、身を以て侯に代らんことを祈る、家人と雖も、之を知る者なし、蓋し赤心の凝る所、至誠の■(手偏+合+廾:えん・あん:おおいつつむ。奄・掩。:大漢和12359)(おほ)ふべからざるものか、侯病癒ゆ、而して口を緘〔閉〕して深く秘すれども、士太夫(*ママ)の爲に歎稱せらる
晉齋甞て一友人の家に詣り、夜深くして方に出づ、從僕の門に立ちて寒に堪へざるを見、勞して曰く、吾人の家に適〔行〕くも亦自ら安飽(あんほう)す、汝等は此の如きに至る、素と恕〔思遣〕せざるのみと、是より以後公事に非ざれば夜行せずと云ふ
晉齋仙臺侯に從ひて封境を巡按し、某邑に宿す、小兒數十輩來りて衣裾を挽くを夢む、覺て而後父老の言を聞くに、乃ち謂ふ此邑の習俗女を生めば擧げず〔壓殺するなり〕、其生長の後資粧(しさう)を費すを恐るゝなり(*と)、晉齋之を憫み、上疏し〔書を奉る〕て其状を侯に告げ、即ち令を下して嚴に其事を禁ず、又人毎(こと−ママ)に女を生めば、米一石錢五百文を賜與するの制を立つ、邑民今に至るまで其惠(けい)を受く、皆晉齋が建議する所なりと云ふ
晉齋安永元年壬辰十二月十二日を以て歿す、時に年八十一、府城の南兩足山中に葬り、謚して守正先生と曰ふ、著す所伊達世臣傳、仙臺風土記、翠溪文集等あり


南宮大湫、名は岳、字は喬卿、大湫と號し、又煙波釣叟(*原文「鈞叟」とあり。以後の本文の記載により改む。)と號す、通稱は彌六、信濃の人

大湫の父勝世々尾張の上卿芋生の竹腰氏に仕ふ、勝の歿する時、大湫九歳、母の族結城某に養育せらる、幾く(*も)なくして母歿す、時に歳十三、多病を以て仕官せず、淡淵元氏に從ひて學ぶ、夙に神童の稱あり
大湫本姓は井上、芋生の禄を辭して、平安の一貴紳に官遊〔遊事に同じ〕するに及び、姓を南宮と改め、幾くもなく去りて伊勢桑名に往き、僑居徒に授く、從遊者甚だ多し、三都の士名を識らざるはなく、聲價一時に揚る
大湫學既に淵茂し〔深博〕、志を立つるに篤實忠誠を以て自ら勗(つと)〔勵〕む、其子弟を教ふるや、浮華を抑へて徳行を先(さき)にす、自ら處するや、實理を履んで虚動なく、居止進退、禮儀に依り、苟も言笑せず、委巷〔陋巷〕の人と雖も、之と交りて信あり、近隣の子弟之が爲に化せらる、人皆歎嗟して〔感動して歎稱す〕以て眞の君子となす
大湫桑名に在る時、一豪富の家に飮む、主人幻師(けんし−ママ)〔魔術師〕を招ぎて娯樂に供せんとす、幻師將に其技を奏せんとして逡巡進まず、謝して曰く、坐に異人あり、我技成らずと、辭して去る、滿坐の人大湫が凡ならざるを畏敬す、後又洞津に在る時、所親の家に飮む、其幻師又來りて技を作(な)したれども成らず、家人に私語して曰く、嚮に一儒士座に在り、我技成らざりき、豈に彼の異人が座に在るなからんやと、辭して去る、一人先づ歸る者あり、須臾(しばらくして)〔暫時〕走り反つて曰く、歸途村端の橋横架曲りて渡るべからずと、衆以て虚妄となし之を笑ふ、既にして衆皆歸り、橋に至れば果して信なり、大に恐怖し、再び所親の家に至りて投宿し、夜の明くるを待ちて歸らんとす、大湫尚座に在り、其怪を聞きて笑つて曰く、是れ必ず幻師(*原文ルビ「げんしよ」は誤植。)が其技の成らざるが爲に、公等を眩惑する〔目をクラマス〕ものならんと、衆大湫を強ひて偕に出て、又橋に至れば、視る所なし、大湫先ち進んで橋を渡り、衆皆之に從ふ、大に其徳量に服すと云ふ
大湫常に寛洪を以て人に教ゆ、嚴■(勵の偏:れい・らい:厳か・厳めしい・厳しい・励ます:大漢和3041)(げんれい)を以て物を格する〔タゝ(*ママ)ス〕を好まず、謂(おもひら−ママ)く寛なれば能く衆を容ると、門人に課するも曾て譴責〔叱咤〕せず、奴婢(どひ)を遇するにも、呵責(かせき)せず、故に遠鄙(ゑんひ)〔田舎〕(*原文「違鄙」とあり。頭注に従い直す。)の人と雖も、主人を愛して、其勞に服事す、是れ世の奴婢を買ふ者と同じからず、一たび其家に事ふれば、自ら人を怨み己を褒(ほう)するの言なし
大湫年四十、江戸に遊(*原文ルビ「あ」は一字脱。)び、日本橋呉昌街に僑居して生徒に教授す、其名一時に高し、王侯貴人(きじん−ママ)より諸藩の士庶に至るまで、其塾に出入する者殆ど虚日なし、毎月二七の日を以て經史を講ず、業を受くる者大抵百餘人、遲れて至る者は講筵に侍する〔座に列す〕を得ず、厨下庭中に於て纔に聲咳を聽くのみ
大湫呉昌街に在ること五年、其業盛にして門前常に軒車〔貴人の乘る車〕駕籠を絶たず、其居狹隘(けふわい−ママ)に堪へざるを以て、講堂を八町堀牛草橋畔に築く、其樓より芙蓉峰〔富士山〕を望むべし、因りて扁して晴雪樓と曰ふ、晴雪樓の名當時に在りて、婦人小兒と雖も知らざる者なく、朝野に傳播(でんはん−ママ)す
大湫善く飮み斗を盡くす、年五十に至りて克己(こくき)〔自家の欲を制す〕酒を罷む、安清河之を訪へば、■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)待するに豐饌を以てす、大湫之に對し、未だ嘗て涓滴〔シヅク〕も飮まず、清河酣暢の餘、座客に語りて曰く、南宮は眞の君子、能く衆を包容すれども、杜康〔酒〕に於ては相善からず、之と絶す(*は?)憾むべしとなす、其意酒を罷むるを諷刺するに在り、而して其言甚だ傲(おこ−ママ)れり、大湫謙遜色を正して曰く、寒家(かんか)素と酒錢に乏し、飮を罷むるの後、幸に厨釀〔臺所にて造く(*ママ)る酒〕の費を損せずと、清河深く慚ぢて自失す〔憮然として手持なきこと〕
大湫東に來るの後、其塾に寓する四方の生徒常に二三十人、少き時も又十七八人に下らず、其貧なる者に至りては、大湫塾中の費銀を収めず、衣食を給して精を學業に專にせしむ、學生に非ざる者と雖も、其志す所を視て、窮迫を憐み、之を家に寄食せしめ、舊契〔故舊〕新知を擇ばず、其をして生計家産を得せしむ、妻林氏も亦大湫の人となりに類し、氣宇洪量〔度量宏きこと〕、物として容れざるなく、好んで人に施與(せよ)す、常に一人の手を以て、三十人許の衣服を裁縫す、聞く者歎嗟せざるなし
大湫同門の士紀平洲と情交尤も密なり、平洲既に郷里を離れて江戸に遊び、帷を下して教授す、屡書牘(しよどく)を投じ、大湫に東下して諸侯に仕へんことを勸む、大湫平安に官し、又美濃の岐阜に之き、伊勢の桑名に之き、松阪に之く、漫游數年、東西相隔つ啻(*原文ルビ「たゞに」は衍字あり。)に參商(さんしやう−ママ)(*しんしやう)〔星の名にて相隔つ(、)因りて遠隔の事に用ふ〕のみならず、相見ざること幾(ほとんど)二十餘年、明和中始めて江戸に來り、平洲が濱街道士井の家に寓すること、二十五日にして其僑居に移る、其際情話盡期(じんき)(*盡くる期、か。)なく、悲歡交至り、舊を談ずるの外他事なく、平洲之が爲めに病と稱して來客を謝し、講席(*原文ルビ「こうせつ」は誤植。)を息(やす)むこと十餘日、朝暮一室に在りて相(あい)談す(*ママ)る、緒(ちよ)を引き〔糸口を引出す如く間斷なき形容〕繭を抽(ぬ)くが如く、縷々として盡きず、塾生私に語りて曰く、二先生二十年來相思の情、抑欝〔積りあること〕の久しき、今日に至り發して狂病とならんと
大湫嘗て一侯の徴(めし)に應じて其邸に至り、歸路に五郎兵衞街を過ぎ、攫兒(くわくじ)〔掏摸〕に遇ひ、懷にする所の夾袋(かみいれ)を失ふ、其翌日牛草橋頭の箆頭舖(へとうほ)〔理髪床〕に一封包(ほうはう)を投ずる者あり、署して曰く、尊翁を煩はす、南宮先生に傳致せよと、即ち夾袋なり、姦凶の輩と雖も、大湫の人となりを敬慕すること此の如し
大湫の江戸に來るは本と某侯に仕官せんが爲めなり、居る二年にして其聲朝野に振ふ、諸侯之を聘する者多し、而して深意あり、思を仕途に絶ち、煙波釣叟(えんはてうさう)と號すと云ふ
大湫安永七年戊戌三月三日を以て歿す、享年五十一、牛島弘福寺に葬る、著す所論語師説述義、孝經指解補註、今文尚書定本纂、禹貢指掌圖考、學庸旨考、春秋三傳批考、守成編、勸學編、講餘獨覽、積翠閑言、病餘瑣言、芸窓放言、漁翁私言、大湫文集等あり
男壽、字は大年、藍川と號す、通稱は大助、學博く行修まり、能く箕裘〔遺業〕を繼ぐ、後尾張に仕へて侍讀となると云ふ


林東溟、名は義卿、字は周父、東溟と號す、通稱は周介、長門の人

東溟總角(そうかく)の時、山縣周南に師事し、州學〔藩學〕の明倫館に寓す、年十三擧げられて生員〔官費學生〕となる、遂に同門の士和智棣卿、山根清、田望之、小倉實廉、瀧長■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)、津田恭、田長温、仲由基、窪井惟忠と、長州十才子の稱あり、其聲夙に關西に著(あらは)る、中に就き棣卿、長■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)、東溟、之を山縣門の三傑と稱す
正徳中物■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園始めて李王修辭の學を江戸に唱ふ、此時に方り其業を和する者極めて希なり、特(ひと)り安藤東野、山縣周南其説を信じ、羽翼を相爲す〔ツバサとなりて幇助す〕、後周南其君長州侯に任用せられ、建議して學を起し、明倫館と曰ふ、學政一に物氏に從ふ、是を以て物氏の學盛に關西に行はる、東溟此中に在り、第一の才子と稱せらる、歳二十四、故ありて郷里を去り、浪華に來りて講書業となす、又平安に移り、四條高倉街に居る、從遊の士、日一日より多く、京攝の間操觚の士、藝園に奔走する者稍や物氏の學を崇奉するもの、東溟之が嚆矢となす、而後諸家往々其説に左袒する者あるは實に東溟より起ると云ふ
東溟浪華に在る時、備後の人鍋島公明、字は傳藏と云ふ者あり、東溟に學びて物氏の學を篤信す、嘗て物氏及び服南郭が人に與へて文章を論ずる國字の書〔假名交文の書〕二種を僞作(*原文ルビ「ぎさ」は一字脱。)し、其一を南郭燈下書と云ふ、書舖博文堂之を得て大に喜び、序を瀧鶴臺に請ふ、鶴臺輕信して以て眞となし、序を作りて與ふ、遂に世に刊行す、其一を徂徠國字牘と云ふ、書舖管生堂將に之を刻せんとし、東溟に序を求む、東溟其擬託〔眞似〕なるを辨知せずして其請に應じ、又世に刊行す、而して二書皆大に四方に流布す、後數年にして人皆其贋造なるを知る、燈下書は僞作の跡を徴檢〔立證〕することを得ざれども、國字牘に至りては、書中文罫を著す事に及ぶ、蓋し文罫は何人の所作(しよさ)なるを知らず、徂徠の家固より其書なし、通編譯筌題言を剽竊し、數條を點竄(てんさん−ママ)〔添削加除〕せるものなり、其僞作の跡現に掩ふべからず、是を以て服南郭、太宰春臺等皆東溟を以て後進を欺罔する〔ダマス〕ものとなす、東溟其責(*原文ルビ「せあ」は誤植。)を逃るゝを得ず、之が爲に排擯を受く
東溟年二十一、長州に在りて物徂徠歿すと聞き、七律三首を賦して遙に之を哭す、其詩傳へて■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園社に至る、高蘭亭稱して曰く、服子遷が哭詩の外、東溟を以て諸子の上に在りとなす、其詩に曰く

招魂ヲ賦シ得テ下泉ニ訴フ、幾囘カ涙ヲ掬ス白雲ノ邊、楊雄ノ奇字元授リ難シ、徐福ノ尚書誰カ已(*ニ)傳フ、僊客長ク辭ス江都ノ月、文星遙ニ隕ツ武陵ノ天、仲尼去テ後君(*ノ)若キハ少シ、五百還タ須ツ一大賢(*賦得招魂訴下泉、幾囘掬涙白雲邊、楊雄奇字元難授、徐福尚書誰已傳、僊客長辭江都月、文星遙隕武陵天、仲尼去後若君少、五百還須一大賢)
牛門ノ諸子總テ風流、手ヲ把リ多時半ハ遊ニ倦ム、東海ノ文章初テ漢ニ歸シ、中原ノ禮樂未(*ダ)周ヲ知ラズ、人空ク天禄燈猶挑ケ、春■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園ニ滿チテ鳥自ラ愁フ、風雨朝來天地ニ起リ、世間長ク此ニ呉鉤ヲ失フ(*牛門諸子總風流、把手多時半倦遊、東海文章初歸漢、中原禮樂未知周、人空天禄燈猶挑、春滿■園鳥自愁、風雨朝來天地起、世間長此失呉鉤)
十載名聲海内ニ加ハル、東流返ラズ長ク嗟スルニ耐ユ、樓頭遙ニ灑グ詞臣ノ涙、門下曾テ看ル長者ノ車、上國ノ黄金駿馬(*ヲ)亡ヒ、漢廷ノ明月仙槎ニ上ル、知ラズ遺草今存スルヤ否ヤヲ、中使先ツ(*ママ)臻ル司馬ノ家(*十載名聲海内加、東流不返耐長嗟、樓頭遙灑詞臣涙、門下曾看長者車、上國黄金亡駿馬、漢廷明月上仙槎、不知遺草今存否、中使先臻司馬家)
東溟郷里を去りてより、誓つて仕進の門に就かず、王侯の聘問を謝絶し、髦士(まうし)〔俊物〕を京攝の間に教育すること殆ど三十年、後江戸に來り、本所横網街に居りて、生徒に教授す、而して先に國字牘(どく)を刊行せし故を以て、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の諸家之と交はらず、之が爲に卑薄せ〔イヤシミウトンズ〕られて聲價漸く減ず、常に詩酒を以て豪放〔放縦我まゝ〕自逸し、儒を以て居らず、其晩年に及び、紫碧仙叟と稱し、老莊の學を好み、優游〔氣樂〕以て身を終る
東溟瀧鶴臺と隙あり〔仲アシク不和〕、爲めに故國を去るとは、近世の人が談ずる所なれども、其實は然らず、鶴臺東溟が罪を諸老に獲たるを愍(あはれ)み、屡之を調和せんと謀る、其服南郭に與ふる書に曰く
義卿は不佞が少小の友、國學に在るに及び、同じく周南に事ひ、與に筆硯を共にす、不佞東都に在る時、彼故ありて國を去り、不佞西歸の日、一たび手を浪華に握(にき−ママ)る、爾来二十年、今復洛〔京都〕に見る、彼今東都の行あり、彼在れば吾去り、吾來れば彼往く、離合常ならず、人をして益■(立心偏+宛:えん・わん:嘆く・意気が衰える:大漢和10771)悽(えんせい)〔寂しく感ず〕に堪へざらしむ、義卿門下に籍を列せ〔門弟となる〕んと欲するもの久し、是行や亦唯是故の爲めのみ、是より先き彼著書假託の名を以て、罪を諸先生に獲たり、辭の以て解くべきなしと雖も、其時に當り、京攝(けいせつ)の間能く復古(ふくこ)の業〔古學修辭〕を主唱する者なし、彼年少にして勇壯鋭氣、吾道を皇張〔鼓吹振起〕す、其情恕すべきものあり、伏して願くは海涵〔寛恕〕して既往を咎めず、彼をして灑掃(*原文ルビ「さいさう」は誤植。)の末技に供する〔掃除にて弟子となすこと〕を得せしめんこと、至願に勝えず
東溟安永九年庚子九月二十五日を以て江戸に歿す、享年七十三、終に臨んで自ら墓誌を撰す、其墓江東牛島弘福寺に在り、著す所明官古名考、文則、詩則、明月編、林塾學規、東溟詩稿等あり


永富獨嘯菴、名は鳳、字は朝陽、獨嘯菴と號す、通稱は昌菴、後鳳介と改む、長門の人

嘯菴本姓は勝原氏、赤馬關(*赤間関)の永富友菴なる者の爲めに養はれ、其家に嗣子たり、後荻(*ママ。「萩」か。)府に至り、山縣周南に師事し、晝夜孳々(じゞ−ママ)(*しし)〔孜々〕として讀書を廢せず、群籍を蒐獵(しうろう)すること人に倍す、或は其精しからざるを疑ひ、圍繞(*原文ルビ「ゐぎやう」は誤り。)し〔取捲く〕て以て問へば、之と論對すること、丸を阪上に投ずるが如し、同門の士屬目(ぞくもく−ママ)(*しょくもく)せ〔望を屬す〕(*注目する意。)ざるなし、周南大に之を奇とし、常に曰く、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の餘響〔遺風〕、鳳能く獨り之を繼がんと、其稱揚せらるゝこと此の如し
嘯菴二十歳にして平安に遊び、始めて郷人栗文中なる者に依り、始めて山脇東洋に謁す、東洋鑑識〔人を鑑定するの明〕あり、一見して蓋世の才氣を眉宇の間〔眉の邊〕に看取し、其小數(*「數」は道理〈理数〉の意か。)を以て教ふべからざるを知り、輙ち謂つて曰く、洛の繁富、以て四方の風を觀るべく、山川の佳麗、以て達人の志を養ふべし、子若し余に意あらば、何ぞ必ずしも醫事是れ爲さんやと、塾中に寓せしむ、嘯菴醫を以て居ると雖も、既に其技を厭ひ、時輩を嘲笑し、益六經を研尋(けんじゆん−ママ)し、小節を修めず〔細かなる禮節に拘はらず〕、時に門下の士百を以て數ふ、屡嘯菴を東洋に讒して(*讒するもの〈あり〉)曰く、惡莠〔稻を害する惡草〕以て苗(ない−ママ)を損ず、鳳(*原文「凰」を文脈により改める。)は則ち莠なりと、東洋申諭(しんゆ)して曰く、汝が知る所にあらず、復言ふ勿れと、益之を優遇す
嘯菴年十一、古人の節を慕ひ、好んで經史を讀む、既にして良師友なきを憂へ、一夜青錢(せいせん)百文を持し、亡(に)げて赤馬關に走り、舟を買ひて東の方京に遊ばんとす、或は(*あるひと)諭して曰く、兒は實に兒なり〔子供は矢張り子供なり〕、百錢以て千里に遊ぶべけんや(*と)、嘯菴笑つて曰く、子何ぞ迂なる〔世事に通ぜず〕、父母之を聞かば、人をして追はしむるや必せり、固より遠遊を許さずと、遂に京に如く、居る期年(*數年か。)、志を得ずして歸ると云ふ
東洋常に人に語りて曰く、藤惺窩の羅山に於ける、物徂徠の藤東野に於ける、師弟の間益友と謂ふべし、吾が鳳に於ける、一敵國〔強き敵國の味方となるの意〕を得たるが如しと
東洋嘯菴に謂つて曰く、漢魏以來數百千年、彼の海外の國、割據試擧〔兵を起して一方に蟠踞すること、科第に登りて公卿たること〕、以て豪傑の爪牙を逞(*原文ルビ「たくま」は一字脱。)くす〔才を展ぶるの意〕べし、誰か敢て拘々(かう\/)として方技を守らん、宜(う)べなるかな其離倫超絶の士、志を濟世に留(と)むる者なきことや、今幸に張長沙の書あり、其人知るべからずと雖も、周漢の遺術備(つぶさ)に存す、古今の醫其條理を知りて之を施す者なし、元々の民養榮益氣の説に死すること一日にあらず、吾子蹤を醫卜に混じて〔蹤を混ずは仲間に入る〕心に快しとする者ならんや、而も生靈を夭折〔早く死す〕に救ひ、之をして天年を終へしむるは、其功良宰相と同じ、寧ろ我志を佐けて二千年の沈滯を闡發せ〔迷妄を啓發す〕んか、吾子唯焉を擇べよと、嘯菴之を聞きて、益其言行の時流に異なるに服(ぶく−ママ)し、始めて節を屈して志を醫術に專にすと云ふ
嘯菴東洋の一言に志業を感發し、終身の趨向〔方向の適從する所〕始めて定(さた−ママ)まり、鋭意(えい−ママ)憤勵、群籍を研究し、自ら處方〔治療の方法〕を試み、痼疾〔宿病〕を摧挫するを以て之が專務となす
嘯菴同門の士及外人と醫事を論ずれば、則ち面折排撃、餘力を遺さず、或は之を銜(*原文「含」を頭注により改める。)んで〔怨を含む〕劍を懷にして迫(*原文ルビ「せま」は衍字あり。)まる、嘯菴聲を勵まして詰りて曰く、醫は公務なり、而して私を以て其理を誣ゆ、何ぞ人を尤めん、子自殺せよ(*と)
嘯菴東洋の門下に在りと雖も、名聲都下に顯はる、某侯其術の精きを聞き、禄三百石を委して之を徴せんとす、而して之を東洋に謀る、東洋固より嘯菴の覊絆す〔馬の如く繋留める〕べからざるを知る、敢て之を強ひず、竊に語りて曰く、先聖曰く、仕へざれば義なしと、何の謂ぞや(*と)、嘯菴笑つて曰く、斯言豈に鳳の爲に發せんやと、之を固辭すと云ふ
嘯菴其居る所の室に一横■(匚+扁:へん:薄い・平たい・扁額:大漢和2689)(あうへん)〔額面〕を懸けて、之を愛重す、曰く、「乾坤我豪ヲ容ル(*乾坤容我豪)」の五字、何人の書する所なるを知らず(*と)雖も、其書高致風韻あるを以て、之を骨董舖に買ふと云ふ、自ら謂ふ、吾意匠此五字の外に出でずと
嘯菴資性豪放、好んで曠達(くわうたつ)〔流俗を抽きて氣まゝなる〕自縱(じじゆう)の行をなす、雄飮斗酒を盡す、其沈醉する毎に、友人至れば新知と舊識とを論ぜず、必ず牽挽して飮しむ、性飮に勝えざる者も、之を強ひて其醉嘔(すゐおう)するに至りて已む
嘯菴長崎の人飛鳥翰なる者と、東洋の塾に相知る、交誼親密なり、之と製糖の事〔此時代まで砂糖は支那より舶來するのみ(、)内地に産せず〕を談ず、翰曰く、郷里に長慶といふ者あり、尤も其製に精し、曾て之を華人に受くと、嘯菴人を遣して之を招ぎ、兄某と同じく就きて之が製法を習ふ、後尾州侯に説き、之を名古屋に肇造(ちやうざう)す〔初めて作る〕、其精なること華製〔支那製〕に超ゆ、傳播(でんばん−ママ)漸く博し、大に利を獲て其地を益す、之に依りて藥肆糖店の暴富を致したるものあり、其製今に至るまで之を沿用すと云ふ
嘯菴名古屋に製糖を創めてより、其製に傚ふ者漸く衆し、兄某も亦郷に歸り、之を長の荻(*ママ)府に製す、是より先き官長崎及び平戸五島諸國に命じて糖を製せしむるも、其法精ならざるを以て罷む、後數年にして尾長の産四方に流布す、官其或は姦に出づるを疑ひ〔密輸入の疑〕、寶暦六年丙子有司三員を長に下し、其製を按檢〔取調〕せしむ、長の藩吏大に怖れ、以て藩に不利なりとし、急に兄某を錮し、又嘯菴を召して之を幽囚す、一日有司其製を檢覈(けんかく)す、嘯菴其法を悉(つ)くして之を示し、極めて民間に利益ある事數條を陳す(*ママ)、有司其言を聞き、製糖の世に便あるに駭き、直に之を政府に奏す、政府以て世珍(せいちん)〔珍らしき産物〕を産する者とし、官命あり、幽囚を解かしむ、後白銀を賞賜し、關東山陽諸州に其法を頒(わか)ちて之を製造せしむ
嘯菴囚中に在ること六十五日、甞て警吏に謂て曰く、事を識るは姦ならず、而して自ら殃(わざわい−ママ)(*わざはひ)を生ぜんとす、疆■(土偏+易:えき・やく:国境・畦・畔〈くろ〉・道:大漢和5194)(きやうえき)(*原文及び頭注「疆場」は誤植。)〔邊境〕事なきは士君子の幸(*原文ルビ「さひはい」は誤植。)なりと、警吏其罪(*原文ルビ「つえ」は誤植。)に非ざるを憐む、嘯菴筆墨を請ひ、論一篇を著し、抱道論と曰ふ、後又四編を繼ぎ、嚢語と曰ふ、抱道論は嚢語中の道術第三是なり、嘯菴常に曰く、吾平生見る所斯五篇に過ぎずと
嘯菴經世〔世を治め國家を經營すること〕を以て自ら任ず、其言に曰く、道〔修身齊家治國平天下〕を學ぶは志なり、醫を行ふは業なり、敢て志を以て業を廢せず、業の爲に志を棄てず、夫れ志は勉めざるべからず、業は精ならざる可らずと
嘯菴東洋の門に學び、既に能く死生を決し、痼疾を摧く、來りて治を請ふ者、日に數十百人、之を試驗するに得る所の汗下(かんか)〔汗は汗を取り(、)下は下劑を以て利通す〕の方を以てす、後越前の奥村良筑が吐〔胃中の物を吐かす〕方に精きを聞き、東洋の男仲陶と與に徃いて見、悉く其法を受けて歸り、之を東洋に授く、東洋大に汗下吐の三法始めて備はるを喜ぶ、其技益習熟し、天下に治(ぢ)すべからざるの病なきを知る、甞て嘯菴に謂つて曰く、黄梅八千の衆、僅に一六祖〔六祖は釋迦の高弟〕あり、方外と雖も、人を得るの難き、其れ此の如し、而るを況んや、吾道に於てをやと
嘯菴遊を好み、足跡諸州に遍し、一歳の中京に居ること半(なかば)にして、大阪、伏見、奈良、萩府、長崎、岐阜、名古屋、江戸に相徃來すること此に五六年なり、後浪華に僑居し、薙髪して獨嘯菴と曰ふ、醫をなすの志始めて定まり、經史の講説を罷む、其業吉益東洞と雁行し〔平行に至らざるも少し後れて行く(、)猶雁の列飛する如し〕、名聲遠邇に喧傳す
吉益東洞は東洋より長ずること三歳、嘯菴より長ずること三十一歳、其藝州より平安に來る時、東洋其人となりを推轂(すいこく)〔推薦〕して、其業を顯揚す、後東洞古醫方を以て、一世を風靡す、其論著する所東洋と大同小異なり、常に東洋を稱して曰く、我醫方之を今の儒流(じりう−ママ)に譬ふれば、東洋は伊藤仁齋なり、衆に先ちて其端を啓けり、吾業は敢て物徂徠に讓らず、隱として一敵國の如きは、永富氏の子なるか、吾死せば我醫術は應に此人を以て海内の冠冕〔第一位〕となすべしと、其推重せらるゝこと此の如し
嘯菴常に近世の偉人四人を追慕して曰く、我國慶元以來大豪傑の士僅に四人あるのみ、山鹿素行、熊澤蕃山、伊藤仁齋、荻生徂徠、恨むらくは之と世を同くして吾心膓〔衷情〕を吐露せざることを(*と)
嘯菴浪華に僑居する時、人屡禄仕を勸むれども、皆之を辭す、後其煩に堪へざるを以て、一聯句を壁上に書して羈絆すべからざるを示す、曰く生涯潦倒(*ろうとう)ヲ■(手偏+弁:へん・ふん:手を打つ・打ち合う・翻る:大漢和11966)シ、世事浮沈ヲ甘ズ(*生涯■潦倒、世事甘浮沈)(*と)
寶暦中江戸に志道軒なる者あり、肆〔店〕を開きて、太平記、難波戰記等の野乘〔軍記雜書の類〕を講演す、其人尤も談論に長じ、其言■(女偏+尾: : :大漢和 )々(びゞ)として聽くべし、常に木造(ぼくぞう)の大陰莖を持(ち−ママ)し、手之を撫しつゝ、古に託して當時政府の得失を諷刺す、聽く者日に市をなす、官有司に命じて之を督すれ〔取締〕ば則ち曰く、我は是れ狂人なりと、他事を言はず、有司之を放ちて檢問〔■(糸偏+斗:とう・つ:告げる・黄糸:大漢和27267)訊〕せず、爾後豪誕〔放縱〕益甚し、嘯菴江戸に遊ぶの日、講肆に就きて、其太閤記を講ずるを聽き、之と姓名を通じ、相交遊す、志道軒は嘯菴より長ずること三十九歳、視るに後進を以てせず、大に其奇才を稱し、其志す所を奬成して曰く、我調舌〔滑稽談〕を以て、口を糊(こ)すること殆ど二十年、與に語るべき者なし、今吾子を獲たるは、我が大幸なり、夫れ猛獸も孤疑すれば、蜂■(萬+虫:たい:毒虫の名・長尾の蠍:大漢和33694)(ほうたい)〔形小なれども蟄せば人を毒す〕の毒を致すに若かず、高議して及ぶべからざるは卑論の功あるに若かず、古の人道義を抱負して一世の用をなさず、耕漁の間に隱るゝ者あり、天下を憂ふるの心を以て、耒耜(らいし)〔鍬鋤〕の利ならざるを憂ふるの心となし、人民を思ふの情を以て、網罟(まうこ)〔漁具〕の密ならざるを思ふの情となす、百畝(ほ)の田(でん)、五尺の水、栖々焉(せい\/えん)として〔忙はしき貌〕耕し、由々然として漁す、然も豈に敢て一日も天下を忘れんや、夫の風雲の會に乘じて其績を顯はし、水魚の遭遇〔君臣相得ること〕を得て其志を伸ぶる者と、其跡は異なりと雖も、其意は未だ甞て同じからずんばあらず、我意も亦此に在り、吾子亦之を知るかと、嘯菴其言の雋逸悲壯なるに服し、之を東洋に告ぐ、東洋屡之を稱して曰く、竊に此言を味へば、發憤(はつふん−ママ)すべき意あるが如し、斯人孰か英雄隱跡の徒にして、怪誕〔出放題〕自恣の言を假り、以て其沈鬱(*原文頭注「沈欝」とする。)〔胸に積りし不滿〕不平の氣を洩露するに非ざるを知らんや(*と)
嘯菴明和元年より痰喘(*原文ルビ「たんぜい」は誤り。)を患(うれ)へて臥床す、然も未だ其業を廢せず、義母妻孥郷里より來りて其病を看る、居ること五閲月(えつげつ)、病少しく癒ゆ、之を郷里に還らしめ、優游養生す、復た起つべからざるを知り、遺書を門人某等に附託し、三年丙戌三月五日を以て、浪華の僑居に歿す、享年三十五、門人相議して城南藏鷺菴に葬る、著す所吐方考、漫遊雜記甲乙編、嚢語、葆光秘録等あり
嘯菴の妻は義父友菴の女、二男を生む、伯名は友、字は充國、五島侯の文學〔御儒者〕たり、後仕を致して、江戸に講説す、享和元年辛酉六月十五日、歳四十五にして歿す、先君子〔著者の父〕默齋之と善し、其才學頗る父の風あり、叔通稱は又内、浪華の騎士西尾氏の後たりと云ふ


谷玄甫、名は友信、字は文卿、藍水と號す、通稱は玄甫、又以て號となす、横谷氏自ら修めて谷となす、江戸の人

玄甫の高祖、名は盛次、字は宗與、通稱は治兵衞、山城の人なり、京師新町武者小路に住し、彫工〔金物の鐫刻をなすもの〕を以て聞ゆ、寛永中始めて江戸に遊び、正保中に至り、官命あり彫物師となり、十口二百石を賜ふ、男名は次貞、字は宗知、襲うて治兵衞と通稱し、其職を繼ぐ、其子名は友常、字は宗■(玉偏+民:びん・みん:玉に似た美しい石:大漢和20916)、後薙髪して遯菴と號す、其彫工は近世の上手なり、所謂宗■(玉偏+民:びん・みん:玉に似た美しい石:大漢和20916)が一輪牡丹の類世人の熟知する所なり、故ありて禄を辭し、享保十八年八十餘にして歿す、其子名友貞、字は宗■(玉偏+與:よ:玉の名:大漢和21297)、三子あり、伯は友次、字は宗民、仲は友武、字は宗清、傳三郎と稱す、季〔末〕は即ち玄甫なり
玄甫六歳にして痘を病んで明を失ふ、八歳多紀玉池翁に從ひ、醫術を學ぶ、常に指を以て字を掌上に畫(くわく)し、書傳を記憶す、日に萬言を誦す、年十四五、其技略通じ、治療も亦頗る驗(げん)あり、遂に鍼醫(しんい)を以て專門となすと云ふ
玄甫年十七、服南郭が李攀龍の唐詩選を講説するを聽き、詩歌(しか−ママ)を以て醫術に換へ、唐明諸家の詩を講ぜんと欲す、人をして之を讀ましめ、一たび聽けば則ち記し、年を經るも忘れず、諸學生の解する能はざる所、通曉〔了解〕尤も敏なり、後高蘭亭に從ひて詩歌を學び、業を改めて詩人となる、遂に蘭亭の門に於て、五子の第一と稱せられ、名聲一時に嘖々たり
玄甫志を詩歌に專にしてより、昭明の文選、揚士弘の唐音(たうおん−ママ)、高廷禮の唐詩品彙、李攀龍の古今詩■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)、李杜全集の類、皆之を暗記す、常に曰く、諸君靦(てん)たる面目〔詩經の成語(、)面前に見るの意〕あり、而して不慧(ふけい)斯の如し、五官果して何の用ぞやと、其古を談じ事を策する、老博士の如し、人神仙を以て之を目するに至る
初め高蘭亭の詩を以て江戸に興るや、服南郭と並び、海内を旗鼓し、一時を風靡し、聲稱薦紳(せんしん)〔官吏〕の間に藉甚(せきじん)す、蓋し二家■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の教(けう)を奉じ、唐明を誦法(しやうはふ)し、李王に刻意し、其格調整合し、紀律森嚴〔峻嚴〕、一に之に■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)傚(もかう)す、蘭亭歿する後、其門人多く玄圃(*ママ)に從ふ、南郭特(ひと)り耆壽(きじ−ママ)にして世に存し、其赤羽橋に居るを以て、人之を赤羽と稱し、玄圃は萱葉街に居るを以て、人之を萱洲と稱す、王侯大人より青衿〔書生〕子弟と緇流黄冠(くわうくわん)〔山伏道士〕に至るまで、苟も詩を學ばんと欲する者は、刺を其門に通ぜざるなし、南郭歿するの後、玄圃蘭亭の高弟なるを以て、詞壇に主盟すと云ふ
玄圃詩歌を以て關東に睥睨し、聲價一世に高しと雖も、謙讓自ら居り、常に謂く予が性聲音(*原文頭注「聲青」に誤る。)〔音樂〕に拙く、針按に拙し、失明の後其の學習する所、百事通ずる所なし、惟詞藻は他技に較ぶれば、耿々として〔光る貌〕線路の明あるのみ(*と)
劉桂山の醫■(月+卷の頭+貝〈偏〉:よう・しょう:余る・無駄・残り:大漢和36878)に曰く、文卿中年鍼(しん)を棄て内醫に移り、藥方三百有餘を記す、道を行くの際、口之を誦す、予嘗て其廬に造(いた)る、坐に抽■(尸+世:てい・たい:抽斗:大漢和7670)(ひきだし)箱子(はこ)あり、其内に小紙袋(したい)を實(み)〔充〕つ、藥を貯ふること二百許(ばかり)、余に謂つて曰く、僕桂枝を用ふ、必ず東京の上好なるものを選ぶ、請ふ試みよと、手を伸ばして■(尸+世:てい・たい:抽斗:大漢和7670)(ひきだし)を引き、直に小袋中の物を取出して之を示す、其爲す所明目者に異なるなし、人或は以爲く小袋(たい)の次第に依りて之を記するならんと、竊に其一間を亂抽(らんちゆく−ママ)すれ〔順序を亂してヌク〕ば、或は摸し、或は嗅ぎ、而して其藥を言ふ、曾て一差なし、人皆驚歎(けいたん)す、是に於て其技亦權貴の間に行はる、遂に仕進の志あれども果さずして歿す
玄圃安永七年戊戌八月を以て病に罹り、十一月二十九日に至りて易簀す、享年五十九、平生天台の釋慈周と善し、病蓐に在り、將に自ら舊稿を改竄して以て全集となし、其批評を請はんとす、荏苒〔徒に時日を費す〕未だ業を卒(おは)らずして歿す、門人之を編輯して六卷となし、題して藍水遺草と曰ふ


鵜士寧、名は孟一、字は士寧、鵜殿氏、自ら修めて鵜となす、通稱は左膳、其本莊に居るを以て、人本莊先生と呼ぶ、幕府に仕ふ

士寧は家世々親衞騎〔旗本〕なり、所謂兩御番の御小姓組なるものなり、采地入一千石、父の蔭補(いんほ−ママ)を以て、夙に出身して其職に補せらる、官署に出入して之が當直をなすこと二十有餘年、後病を以て致仕家居すと云ふ
士寧幼にして讀書(とくしよ)を好む、性理家の學を修む、後徂徠が復古の業を喜び、之に嚮注し、遂に服南郭に從ひ、修辭の説を學び、李濟南に刻意す〔骨を折る〕、其題樣句法、一に之に■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)傚(もかう)し、機軸(きちく−ママ)氣韻稍や肖たり、當時稱して古文辭の一大家となす
紅葉山の寢廟〔御靈屋〕毎年正月十七日を以て、幕府登拜の禮あり、士寧大駕〔將軍の乘物〕に扈從(こしよ−ママ)して、馳道(ちだう)〔御成道〕を警衞す、俄頃(にわか−ママ)の間に五言排律一首を賦し、之を口吟す、其詩に曰く

岡巒郭ニ臨テ欝タリ、原廟基魏ヲ兆ス、石燈紅葉ニ攀チ(*ママ)、宮牆翠微ヲ遶ル、雙ヒ(*ママ)高シ華表ノ柱、次ニ列ス綺疏ノ扉、禁禦人到リ難シ、奥區ハ靈(*ノ)依ル所、■(艸冠+惠:けい・え:香草:大漢和31968)肴時物饗シ、珠匣月遊衣、冥漠猶ホ在ガ如ク、■(君+列火:くん:燻す・香気・香味菜:大漢和19069)蒿且違ハズ、蓋■(敬+手:けい・ぎょう:捧げる・挙げる・高い・峙つ:大漢和12808)初日動キ、伏帶彩雲飛フ(*ママ)、霜露凄トシテ其下ル、壇庭肅トシテ未(*ダ)晞(*かわ)ガ(*ママ)ズ、鞁聲邃宇(*ヲ)開ク、爐氣重■(門構+韋:き:宮中の小門・役所:大漢和41425)ニ煖ナリ、孝思神明ニ應シ(*ママ)、和祥邦國歸ス、松標長ク蔚茂シ、棣萼又芳菲、蹕ヲ駐メテ儀服嚴ナリ、班ヲ分チテ羽■(方+ノ+一+斤:き・げ:旗・旗印:大漢和13638)ヲ擁ス、群公祭祀豫(*をゆる?)シ、我輩光輝ヲ共ス、頌ニ代ル新詩ノ句、小臣筆(*ヲ)抽キテ揮フ(*岡巒臨郭欝、原廟兆基魏、石燈攀紅葉、宮牆遶翠微、雙高華表柱、次列綺疏扉、禁禦人難到、奥區靈所依、■肴時物饗、珠匣月遊衣、冥漠猶如在、■蒿且不違、蓋■初日動、伏帶彩雲飛、霜露凄其下、壇庭肅未晞、鞁聲開邃宇、爐氣煖重■、孝思神明應、和祥邦國歸、松標長蔚茂、棣萼又芳菲、駐蹕嚴儀服、分班擁羽■、群公豫祭祀、我輩共光輝、代頌新詩句、小臣抽筆揮)
詩成る十四韻、稿點を加へず、傍觀者皆其敏■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)なるを歎ず
士寧の賜邸は本莊南溝涯に在り、一樓を構へて書を其中に讀む、東に筑波山を眺め、西に富士峰を望む、朝暮之を揖(いつ−ママ)〔對禮〕して曰く、他は吾目を溷(けが)す所なしと、蓋し李■(人偏+倉:そう:卑しい・田舎者:大漢和964)溟が白雲樓上に坐して、東に華不注を拜し、西に鮑山を揖するの意に擬する〔ナゾラフ〕ならん、其簡傲〔高ぶる〕率ね此の如し(、)士寧才を恃んで放曠〔縦恣磊落〕、子弟の發難する者に遇へば、乃ち云く、是れ猶解せずんば、何の學か之れなさんと、其自ら處すること太だ峻(はげ)しく、人をして得て近づから(*ママ)ざらしむ、門人幸に其短を掩護する〔及ばぬ所を隱す〕を悟らず、益其言を尊信す、後餘熊耳の爲に黜け〔貶斥〕られ、以て淳實の風を失ふ者となす、當時の人熊耳が耆宿〔老人株〕にして■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の高弟なるを以て、其黜(ちつ−ママ)を信ずる者頗る多く、是より後士寧の聲價稍や減ず
士寧安永三年甲午十月二十二日を以て歿す、享年六十五、銀臺長慶寺に葬る、著す所桃花園稿、鷄肋集、樓居放言等あり


伊藤錦里、名は縉、字は君夏、錦里と號す、又別に凰陽と號す、通稱は莊治、平安の人、越前侯に仕ふ

錦里は坦菴の孫、龍洲の子なり、龍洲名は元基、字は崇、龍洲は其號、又宜齋と號す、本姓は清田氏、播磨赤石の人、始めて京師に遊び、坦菴の門に遊びて其學を得たり、坦菴其人となりを喜び、嗣子なきを以て、其女を以て之に妻(めあ)はし、伊藤氏を冐さしむ、後職を襲ひて本藩の文學となる、其操行學術家聲を墜さず、河村氏を娶りて三男を生む、伯は則ち錦里、仲は北海、出でゝ江邨氏の後となる、叔は■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟、父の命に依り、清田氏を復して其祀を奉ずと云ふ
錦里家庭に學び、經藝を以て都下に聞ゆ、蓋し坦菴より錦里に至るまで既に三世、箕裘相繼ぎて後進に領袖たるを以て、之を崇奉する者多し、伊藤東所(東涯の長子)と與に人之を京師の兩伊藤と曰ひ、婦人小兒と雖も、其名を知らざるなし
錦里は二弟北海■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟と與に、聲價一時に高(*原文ルビ「だか」は誤植。)し、錦里は經藝を以て聞え、北海は詩歌(しか)、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟は則ち文章、愼士佩蘭清公稱して以て伊藤氏の三珠樹(しゆじ−ママ)〔珠玉の樹にして麗はしき形容〕となす
錦里資性愼重、名を好まず、謁見を請ふ者ありと雖も、贄(し)を執る者に非ざれば、概して之を謝絶す、謂く博交泛游〔何人とも漫に交際すること〕は人の名を好むが爲めなりと、故に當時の儒流(じりう−ママ)其人となりを知る者少し
錦里越前に仕ふる殆ど四十餘年、數(しば\〃/)江戸若くは福井に祇役すと雖も、奉職惟れ謹んで外交をなさず、其休暇して京に在るに當り、經義を講説して徒に授け、足閾(しきみ)を履まず〔外出せず〕、習俗應酬の詩文(しもん−ママ)を爲(つく)らず、而も其名遠く時輩の騷雅博交を以て、藝苑に鳴る者の上に出づ
錦里居る所の室、壁上に「志士ハ溝壑ニ在ルヲ忘レズ(*志士不忘在溝壑)」の語を掲げ、以て自ら警(いまし)む〔戒飭〕、常に子弟を訓(おし−ママ)へて曰く、士たる者は此語を念はざるべからずと
錦里曰く、學に志してより殆ど三十年、獨り道を明(あきらか)にするを得ざるを以て憂(うれへ)となす、而して大に名教に戻ることなし、終日己が過を省せ〔顧みて己に反求す〕ざれば、聖賢の旨を絶す、終日人の過を言へば、天地の和を傷(やぶ)る、吾此二者に於て人に讓らず(*と)
錦里安永元年壬辰三月九日を以て歿す、享年六十三、私に謚(*原文「溢」は誤植。)(おくりな)して文格先生と曰ふ、京極大雲院に葬る、著す所邀翠舘集、尋海草、尋山草等あり、二子伯名は聖謨、字は世典、紫山と號す、叔名は聖訓、字は世奏、江亭と號す、皆早く歿す、播磨の人鹽田士善を養ひて嗣となす、士善字は榮吉、君嶺と號す、其才學父祖に減ぜず、職を襲ひて以て藩に仕ふ


江邨北海、名は綬、字は君錫、通稱は傳左衞門、八幡侯に仕ふ

北海は伊藤龍洲の第二子、錦里の弟なり、正徳癸巳の春京師に大火あり、龍洲の家災に罹る、妻河村氏播州赤石に往き、兄河村某に寓す、三月十四日を以て北海を茲に生む、居る數月龍洲の家經營〔造營建築〕既に成りて京に歸る、北海京に居るを以て、自ら平安の人と稱すれども、其實は播州の産なり
北海九歳より十八歳に至るまで、叔父(しゆくふ)河村某の許に在り、赤石に成長す、未だ甞て學を知らず、好んで習俗の所謂俳諧を作り、頗る其奥を究む、時人目して以て錦心繍膓〔腹中綺麗なる織物より成るの意〕となす、赤石の文學梁蛻巖一見して其才を愛し、勸むるに學に從はんことを以てし、謂つて曰く、子が才を以て若し吟哦(ぎんか−ママ)〔詠懷〕をなさば、盛唐諸家騷雅〔詩歌〕のあるあり、豈に方俗の十七言俚歌を苦思せんやと、北海此言に感激し、始めて學に志すと云ふ
北海學に志してより、晝夜孜々、手卷を釋てず、誦讀既に遍(*原文ルビ「あま」は一字脱。)し、此に從事すること僅に三年、享保甲寅春年二十二にして父龍洲に代りて經史を講説し、生徒に教授す、兄錦里と家學を研尋し、先業〔先代より傳承の業〕を羽翼す、又子弟を遇するに誘掖(*原文ルビ「ゆうえ」は一字脱。)虔誠〔敬信誠實〕、殆ど老成の人の如し
北海の義父毅菴名は簡、春甸と號す、專齋の曾孫なり、專齋の第二子宗■(玉偏+民:びん・みん:玉に似た美しい石:大漢和20916)幽齋と號す、其子名は宗流、訥齋と號す、毅菴の父なり、毅菴二子あり、長名は宗實、季名は如圭皆先ちて歿す、毅菴宮津侯(青山大膳亮)に遊事す、曾て侯の駕に從ひて江戸に在り、病篤し、其家龍洲と數世の通家(つうか)なるを以て、一封の書を以て、後事〔死後の事ども〕を龍洲に託し、享保十九年甲寅六月十二日を以て歿す、享年六十九、龍洲毅菴と約し、北海を以て其嗣となす、是より北海職を襲ひて宮津侯に仕ふ、時に年二十二
北海談論に長じ、其經史を講説する、聽く者皆其窈妙〔奥妙〕を剖析し、精義神に入る〔精微極まる〕に感じ、稱して三珠樹中の第一となす
北海常に子弟に謂つて曰く、余の人を取るや、其忠厚誠愨(せいかく)にして、言口より出す能はざるに似たる者を喜ぶ、論辯縱横談説飛騰し、鼓觜〔喙を鼓動す〕饒舌にして修短〔長短〕を注射する者は要するに盛徳の事にあらず、余言語を以て諸名士の間に稱せらるゝは、深く慚愧(ざんぎ−ママ)する所なり(*と)
北海資性敦厚〔篤實〕精緻、之に加ふるに風雅温藉(をんせき−ママ)〔雅致ありムツクリとして圭角なき有樣〕を以てす、人皆之に附和依頼す、俊才の士多くは其門より出づ、當時之を三都の三北海と稱す、(大阪の片山猷、字は孝秩、北海と號す、江戸の人入江貞、字は子實、北海と號す)
北海文學を以て、宮津に仕ふること殆ど九年、三十に至りて、吏才あるを知り、擢んでられて京師の留守(るすい−ママ)となり、兼ねて錢穀の出納を掌る、事に幹たる〔成語にて擔任〕こと此に二十四年、邸舍大に理まる、後侯美濃の郡上に移封せらるゝや、北海を召して大に用ひんとし、果さずして世に即く、乃ち致仕して對梢館を室町四條の下街に築き、翰墨〔筆墨〕を以て自ら娯み、諸侯の聘問を謝絶し、再び仕進の門に入らず
北海文學を以て、一時に鳳鳴すと雖も、其他姓を冐すを以て、抗顔(*原文ルビ「」は誤植。)經義を以て專門となすを欲せず、自ら好む所の詩歌(しか−ママ)を以て、遠迩に振揚すること五十年、是より先き詩歌を以て、業を輦轂(れんこく)の下に唱ふる者ありと雖も、四方推奉の多く、藝苑慕悦〔景仰〕の深き、未だ北海の盛なるが如きはあらず
北海の經を講ずるや、一に朱子の説に從ひ、又家祖專齋剛齋の遺説を敷演し〔擴めて述ぶる〕、未だ曾て一言も自説(じぜつ−ママ)を發せず、常に己が説を以て、朱説を辯駁する者を指笑す、嘗て岡白駒と經義を論談す、白駒口を極めて朱説を非斥す、北海曰く、伊物二先生より己が所見を以て是非を論定し、得失を取捨し、遂に私言を以て門戸を皇張し〔一家を立つる〕、其臆斷〔獨斷〕新奇の説を逞くし、務めて先儒(せんじ−ママ)と異をなす、爾後人々之に傚ひ、經義を以て世に名ある者、各論語の解を著さゞる者なし、是れ一部の論語以て崇奉すと爲すか、戯弄すと爲すかと、白駒爲に赧然たり
北海義高祖專齋より家世美を濟(な)〔成〕し、箕裘相繼ぎて先業を墮さず、上は縉紳より下は士庶〔士人と平民〕に至るまで、崇尚他に異なり、毎月十三日を以て、諸名士門人子弟其賜杖堂に集まり、詩を賦すること、既に五世百五十八年を經て、未だ曾て斷絶せず、當時賜杖堂の詩盟會と曰ふ、是れ海内未だ曾て有らざる所なり
北海天明八年戊申二月二日を以て歿す(*原文「ず」を改める。)、洛東善正寺に葬る、著す所蟲諌、樂府類解、授業編、諸子■(手偏+頡:けつ・けち:採る・採取する・挟む:大漢和12900)英、明七子詩譯説、日本詩選正編、同續編、日本詩史、日本經學考、杜律刪注、唐詩訓解刪注、北海詩鈔、北海文鈔等あり


清田■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟、名は絢、字は君錦、初め字は元■(玉偏+炎:えん:削る・玉を琢く・美玉の名:大漢和21073)、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟と號し、又孔雀樓主人と號す、通稱は文興、平安の人、越前侯に仕ふ

■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟は龍洲の季子〔末子〕なり、龍洲出でゝ伊藤氏を冒すを以て、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟をして本姓に復歸(ふくき−ママ)し、清田氏の祀を奉ぜしむ、清田は播州の著姓〔望族にて有名なる家柄(*原文頭注「柄」を手偏に作る。〕にして赤松圓心の裔、別所の庶族なり、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟家庭に學び、龍洲が蔭補(いんほ)を以て擢でられて、儒官(じくわん−ママ)となり、月俸二十五口を賜與せられ、兄錦里と其優遇を均しくすと云ふ
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟の字は其原(もとづ)く所を詳にせず、門人端隆(字は文仲、春莊と號す、近江の人)曰く、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟は何の義たるを知らず、甞て之を先生に問へども、先生笑つて答へずと云ふ、余甞て孔雀樓集を讀むに、昔者蘇東坡■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)に在り、固より形跡を流品に存せず〔文人の顔をなさず〕、故に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)人坡が書を得んと請ふ者なし、余が坡に及ばざる萬々なり、而して隣人時々余が書を請ふ、其■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)人より賢(まさ)ること甚だ遠しの語あり、蓋し此に原(もとつ)くものか(*と)
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟總角(そうかく)の時、梁蛻巖(*原文「嚴」は誤植。)を赤石に訪ひ、其家に寓すること數十日、平安に歸るに當り、蛻巖贈言(さうげん−ママ)あり、蛻巖集中載する所、滕元■(玉偏+炎:えん:削る・玉を琢く・美玉の名:大漢和21073)を送るの序是なり、其中言へるあり、曰く曠達を慕ひて彝倫〔人倫の道〕を棄(*原文ルビ「すつ」は衍字あり。)つること勿れ、藻繪(さうくわい)〔詩文の字句を彫琢すること〕に耽りて大業(だいげふ)〔經世の要務〕を廢すること勿れと、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟朝暮此二語を誦すと云ふ
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟性酒を好まず、平生糖菓を嗜(たし−ママ)んで(*原文「て」を改める。)之を喫す、其門酒を載せて字を問ふの人なく、皆糖菓を贈る、晩年に至り、糖を食(くら)ふこと多きを以て、痰塞の病を得たり
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟人の爲めに壽詩を作るを好まず、或人其親(しん)の爲めに壽賀(じゆか−ママ)の詩を當時の諸名家に請ひ、多得を以て歡となす、亦來りて請ふ、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟曰く、子第(たゞ)〔只〕能く賀せよ、人の子たる者、其親を壽するに、何ぞ多言を須ひん(*と)
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟少年にして家庭に學び、又齋靜齋(名は必簡、字は大禮、安藝の人、南郭の門人、京師に講説す)と與に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の學を講究し、古文辭を喜ぶ、既にして其非を悟り、經義は一に朱子を以て主となし、其説を確信す、文章は專ら歐蘇〔歐陽修(*ママ)蘇東坡〕を以て法となし、別に機軸を出す、晩年稗官小説を讀み、尤も象胥〔支那音〕の學に精し
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟時習の嘉隆七子〔明の七詩人〕の詩を厭ひ、深く初年之に從事したるに懲り、屡門人に語りて曰く、才は學に生ず、學は才に由らず、僞唐の詩を作らん乎、黄金歴下生を鑄よ〔黄金鑄は崇拜す〕、眞唐の詩を作らん乎、鐵鞭歴下生を打てよ〔鐵鞭打は排撃す〕、首長となるも奴隷となるも、其人に在るのみ(*と)
兄北海詩歌を以て四方を風靡し、名聲一時に喧傳するより、四方の士之と交を結び、詩筒往來し、贈答唱和し、從遊の徒も亦其爲す所に倣ひ、應酬人を擇ばず、虚稱空譽、發揚實に過ぎて〔相互に褒合ひ實價に過ぐ〕、輕薄習をなす、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟之を以て憂となし、意甚だ悦ばず、後北海慶元以來の詩を選び、日本詩選となす、四方の士其擧を聞き、爭ひて選擇を請ふ者頗る多し、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟北海に謂つて曰く、家祖坦菴先生より今に至るまで、奕世〔歴代〕の業、幸に家聲を墮さず、儒林に嘉稱せらる、經義の專門すら漢唐を辯別し〔漢唐の經説を識別する者さへ未だ出來ずの意〕、衆説を折衷するに遑あらず、而るを况んや、我邦の詩歌をやと、之を罷めんと請ふ、北海其言に從ふこと能はず
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟其業未だ盛ならざる時、桃花大宮西街に僑居す、兄北海と其趣を異にし、博く當世に交はるを好まず、又儒者(じしや−ママ)を以て人に稱せらるゝを欲せず、隣に賣粉店あり、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟素と其人を識らず、其人も亦■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟が果して何等の人なるかを知らず、居る數日稍や往來し、後大に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟を親敬するに至る、其人釣魚を好み、間暇ある毎に一出三四十里、若くは四五六十里、魚を獲て歸れば必ず■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟に供す、其家に湯浴(たうよく)を設くれば、先づ■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟をして浴せしむ、蓋し■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟が此に僑居してより四隣の風俗自ら善く、少年の輩花街(*原文ルビ「くつがい」は誤植。)柳陌 〔花柳■(艸冠+大+巳:::大漢和に無し)(*巷)と稱して遊廓〕に遊ぶ者なきを喜ぶなりと云ふ
福井の地たる、冬に入れば雨雹交作し、而して後雪降り、猛風亦加はること多し、故に士人從僕をして長柄(ちやうへい)の大油傘(からかさ)を■(敬+手:けい・ぎょう:捧げる・挙げる・高い・峙つ:大漢和12808)(けい)せしむ、奴隷の徒能く之に習熟し、猛風怒吼に遇ふも、雙手把持(はち−ママ)し、全力を以て之に敵す、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟福井に在る時、其僕京より從ひ、未だ曾て北地の習俗に閑(なら)〔慣〕はず、其臂力未だ大油傘に任(た)へず、往々風の爲めに奪(うばへ−ママ)去らる、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟乃ち常傘を用ひ、自ら之を持するも、素と足不良なり、風雨中に出づる毎に、傘を左にし仗(つえ)を右にし、彼此相激し、全身顛朴(てんぼく)〔轉倒〕して衣服を泥塗にするより、其勞に堪へず、已むを得ずして遠きに行く際の若き、蓑笠(*原文ルビ「さりつ」は誤植。)を著し、草鞋を履む、觀る者之を■(女偏+冊:さん・せん・さつ:そしる:大漢和6169)笑(さつせう)せざるなし、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟曰く、冠服〔冠服(*ママ)にて朝服〕を脱して野に隱るゝ者は古者(*原文ルビ「いにしい」は誤植。)之あり、今蓑笠(さりつ−ママ)を著して仕ふる者は吾を以て始めとなさん(*と)
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟平生好んで温史〔司馬温公の資治通鑑〕を讀む、三十歳の時既に世の所謂三遍(へん)通鑑〔三遍讀むの謂〕を讀むこと十三回なり、自ら批評を作りて娯(たのしみ)となす、晩年に至り積歳記する所數十卷、其要を拾■(手偏+又4つ:てつ・たつ・せつ:拾い集める・抜き取る:大漢和12241)して十卷となし、資治通鑑批評と曰ふ、其批評する所盡く人の意表に出づと云ふ
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟天明五年乙巳三月二十三日を以て歿す、享年六十七、京極大雲院に葬る、著す所五經傍訓、史記律、資治通鑑批評、五雜俎纂註、唐詩府、藝苑談、藝苑譜、孔雀樓筆記、孔雀樓文集、同遺稿等あり


宮瀬龍門良野華陰田辺晋斎南宮大湫林東溟永富独嘯庵横谷玄甫鵜殿士寧伊藤錦里江村北海清田たん叟

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凡例
( ) 原文の読み 〔 〕 原文の注釈
(* ) 私の補注 ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字
(*ママ)/−ママ 原文の儘 〈 〉 その他の括弧書き