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渋井太室伊藤冠峰原田東岳小川泰山奥貫友山山中天水片岡如圭井上金峨

譯註先哲叢談(後編) 卷七


井太室、名は孝徳、字は子章、太定山人と號す、澁井氏、自ら修めて井となす、通稱は平左衞門、江戸の人、佐倉侯に仕ふ

太室の父重之、橋本氏を娶りて六男一女を生む、太室は第二子なり、遠祖澁井越前守吉元は管領(くわんれう−ママ)上杉憲政に仕へて、武州埼玉郡堀内村に主たり、相州の北條氏關東に跋扈し〔勢力を振ふ〕、八州を震撼し、四隣を鞭撻(*原文ルビ「べんた」は一字脱。)するに及び、信越の間に流落して、吉重を生む、吉重男なく、族人(そくじん−ママ)磯義直の次子吉綱を養ふて其女に配し、以て嗣子となす、吉綱吉行を生み、吉行利之を生み、利之重之を生む、重之整宇林公の家に仕ふ、太室母橋本氏と佐倉に在り、祖父利之の家に養育せらる、年十四父に江戸に就き、書を昌平學舍〔江戸茗溪校即ち聖堂〕に讀む、時に享保十八年癸丑の春なり
太室甞て井蘭臺の門に入る、井金峨も亦從遊す、蘭臺常に二人を稱して曰く、學んで厭かざる〔イヤにならぬ〕は立元なるか、教へて倦まざる〔退屈せぬ〕は孝徳なるか、立元は學術を以て顯はれ、孝徳は師徳を以て稱されんと、其言果して虚ならず、後數年太室帷を下して教授し、後進を懐柔す〔ナツケル〕、當時■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の學と稱する者、多くは疎豪〔粗漫豪放〕放誕、動もすれば輙ち一世を睥睨す、特り太室に於ては敢て■(女偏+世+木:せつ・せち:狎れる・乱れる:大漢和6524)近(てふきん−ママ)する者なく、稱して温厚の長者となし、衆皆之に慕附す
太室帷を垂れて教授してより、青衿白面にして謁を門に執る者、皆寛博〔大度〕餘あり、風猷宏長なる〔胸の廣き〕に歎服す、聲遠迩に施き、群彦(ぐんけん)の領袖たり、然も虚懷冲■(手偏+邑:ゆう:拱く・敬礼する:大漢和12105)〔謙遜にて我意を張らず〕、自ら滿假せず、常に曰く、遲鈍質愨(しつかく)にして唯謹むのみと
太室年二十四にして、褐を佐倉の文學に解き、禄七十石を受く、父重之猶林氏の邸中にあり、太室又贄を榴網先生の門に執り、重之と舍を同くして居り、佐倉侯に仕ふ、後榴網其■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)密謹厚にして經史を精覈する〔クワシクシラベル〕を嘉し、以て都講となし、學政を料理せしむ、是に於て學術愈進み、徳望愈高し
明和元年甲申の春韓使來聘す、太室彼の學士と客館に筆語す、後其筆語及び贈答の詩文を録し、題して歌詩照乘と曰ふ、一儒生あり、其書の上層に標書し、是非を詆指し〔惡口いふ〕、誣罔〔不實を説く〕唾罵、至らざる所なし、門人傳へて之を告ぐ、太室覽畢りて曰く、大に我に益ありと、復た他言なし
太室常に人に教へて曰く、學問の道は徳を成し用を作すに在り、學術の深淺に在らず、漢より以降學流を區別し、各其道を道とし、各其學を學とす、舌を振ひ唇(しん)を鼓し、人と異同を爭ふ者は吾取らず、夫れ徳を成し用を作すは人材を育するに始まり、器を知るに終る、故に吾平生人材を育すること、農夫の菜を養ふが如くす、菊を愛するが如き者を欲せず、菜を養ふは美惡を兼培し、各適する所あり、菊を養ふ者は己が意の如くならざる者を見れば、必ず刈りて之を棄つ、是れ却つて其性を害す、菜を養ふ者は其固有する所に從ふのみ、吾學は區別なし、人をして其好む所に從はしむ、而後徳を成し用を作すに在り、吾豈に菊を養ふ者ならんや、菜を養ふ者なり(*と)
太室晩年に至り、齒徳〔齢も徳もなり〕已に尊く、列侯貴人の延見せんと欲する者多きも、一概に謝絶し、老いたりと稱して行かず、謂(おもひら−ママ)く今の儒生の裾(きよ)を大厦〔大家高屋〕に引く者は、彼の技藝者流と何ぞ別たん、上は君に益なく、下は民に益なし、徒に其餽(くわい)〔贈物即ち廩米〕を貪るのみと、獨り米澤侯(上杉大炊頭)賢にして學を好み、之と言へば、必ず納用せらるゝを以て、之と往來するのみ
太室資性温恭〔謹愼柔和〕にして物と忤(さか)ふなく、能く衆人を包容す、泛愛の及ぶ所は啻(*原文ルビ「だゝ」は誤植。)に舊■(日偏+匿:じつ:「昵」の異体字:大漢和14132)故契(きうぢよくこけい−ママ)〔舊友故人〕のみならず、顧人傭夫と雖も、造次の間に一言を交ふる者は、數日の後まで■(音+欠:きん・こん:〈=欣〉喜ぶ・慕う:大漢和16139)慕(いんぼ−ママ)〔欽仰〕渇望し、其容儀を忘るゝ能はず
太室平生子弟を教ふるに、苟も一言を假さず、過失あるを見れば、徇々として〔懇切〕告諭し、未だ曾て難詰呵責(かせき−ママ)せず、各思うて得せしむるのみ、故に兒童も事巨細(きよさい)なく、委曲〔細密〕周詳し、情實〔眞情〕を吐露して、過失を掩飾する者なし
太室講經の暇、好んで野乘傳記を讀む、天文以降二百五十年の治亂興廢、綜該〔博覽總括〕して遺さず、甞て國史百二十五卷を著す、品第〔批評〕循環、二十年にして五たび稿を易ふ、稿既に脱して之を紀平洲に示す、平洲謂ふ、鑑別(*原文ルビ「かんべ」は一字脱。)精嚴、其才識は林鵞峰、安澹泊に讓らずと
太室新舊の著述數種、之を匣底(かうてい)に収めて之を寓塾の子弟にも示さず、況んや他人に於てをや、佐倉侯其二三種を刊行して後進を惠むべしとの命あり、乃ち辭して曰く、先修才學兼備の人を以て、猶往々失考〔考證の間違〕あるを免れず、臣日に二三の生徒を課し、常に怠廢なきを以て幸となす、何の遑ありて後世に嘉惠せんやと、深く之を謝す、士太夫の其書を借覽せんとする者あるも、肯(あい−ママ)て許さず(*原文「許さす」を改める。)
佐倉侯正亮(堀田大藏大輔)賢にして士を愛す、鑑識精明、世の凡常なる者の比に非ず、典謁司〔御奏者番〕より寺社大理卿(たいりきやう)〔寺社理卿は寺社奉行〕に累遷するに及び、太室を以て典事〔主任吏〕となす、屡秩禄を加へ、班中太夫に比す、既にして上太夫に上り、禄五百石を食む、官署の制令、政府の請告、及び對境の政事、皆之に委任し、其可否を待ちて而後行(*原文ルビ「おこ」は一字脱。)ふ、擧措〔措置〕大小悉く太室の手に出づ、是に於て教を修め、廉隅〔名節〕を申飭(しんちよく)〔戒告〕し、頑暴を嚴禁し、政清峻に向ふ、官署大に理〔治〕まり、朝野佐倉侯の職に在るや、參佐人を得たりと稱す
太室天明七年丁未七月を以て、其君の大阪城の留守たるに從ひて西(にし)す、明年戊申六月十四日病んで城中の官舍に卒す、享年六十九、東路遼遠にして■(木偏+親:しん・かん:柩・梧桐:大漢和15851)(しん)〔棺〕を還すべからず、從弟徳章、甥純芳等相議して生玉の玄徳寺に葬る


伊藤冠峰、名は一元、字は吉甫、冠峰と號す、通稱も亦一元、伊勢の人

冠峰家世々巨商にして絹紬(けんちう)を賣るを以て業となす、少くして質素を尚(たつと)び、儀容〔容貌威儀〕を修めず、日夜書を讀む、極めて勢利に淡く、簿書計算の煩を厭ひ、其生産を以て之を兄弟に委し、尾府に遊學し、業を元淡淵の門に受け、又醫事を好み、自ら處方を驗す、府に在ること五年、後諸州に遊歴し、晩年美濃笠松里に隱居すと云ふ
冠峰尾府に在るの時、南宮喬卿と情交尤も密なり、元淡淵東に行くの後、其門人經義に從事する者、半ば喬卿を推し、詩歌を學習する者、半ば冠峰を推す、醫生玄澤なるものあり、府下に名あり、家資富豪にして頗る學に厚く、冠峰と友とし善し、冠峰が才を愛し、妹を以て之に妻はし、益冠峰をして其業を修めしむ、玄澤の意蓋し其詩歌を以て喬卿を壓倒〔推倒〕するに在り、冠峰自ら其意を知り、眼疾ありと稱し、講業を休廢し、其門人をして喬卿に從學(しゆうがく−ママ)せしめ、遂に辭して郷に歸り、諸州を漫遊す、人皆な其謙虚〔謙遜にして虚平〕を稱す
冠峰笠松里に移居し、田數頃(すけい−ママ)を購得して自ら養ひ、山水の際に■(人偏+尚:しょう・とう:忽ち止む・自失:大漢和774)■(人偏+羊:よう・しょう:彷徨う:大漢和552)(しようやう)〔逍遥(、)ブラツク〕(*逡巡する・たちもとおる)して以て娯樂となす、然も猶書を讀み業を講じて子弟に教授し、禮義を以て之を維持す、郷里皆之を貴重す
笠松里は尾府を去ること、數里にして近く、冠峰喬卿と襟情(きんじやう)〔親しき情〕紆意(うい)、舊に比すれば益深し、明和己丑喬卿桑名より江戸に移り、其妻子を尾府の族人に託す、是より先き妻子に約すらく、一年を過ぎなば必ず人をして迎へしめんと、後喬卿火災に遭ひて、盡く資材を失ひ、二年餘を經過すれど、迎ふること能はず、甚だ其計に窮す、妻子も亦數百里を隔てゝ、窮迫の音耗(おんぼう−ママ)〔音信〕を聞くに堪へず、冠峰之を憫み、之をして俄(にわか−ママ)に行裝を治せ〔旅支度をなす〕しむ、尾より江戸に至る、驛程十餘日、一夫錢五十緡(びん)あるに非ざれば、以て旅費を辨ずるに足らず、況んや婦人兒女三四人家を擧げて行に就くをや、冠峰家固より貧窮なれば、田宅を抵當とし、家財を賣却し、金十五兩を得て之を其妻子に與へ、數人をして江戸に護送せしむ、喬卿其懇到を謝して其金を復(か)へす、冠峰辭して受けず
冠峰天資謙虚、才學頗る富む、其標格〔標持する所の品格〕意氣、一世を推倒〔陳龍川の成語にて凌駕の意〕するに足る、喬卿屡江戸に徙居(しきよ)し、教授して業をなさんことを勸むれども肯んぜず、紀平洲之を尾府に薦めて、儒員となさんと欲すれども肯んぜず、辭して曰く、抗顔儒者と稱するは吾が能く及ぶ所にあらずと
冠峰常に曰く、居は以て膝を容るゝに足り、衣は以て體を覆ふに足り、食は以て腹(ふく)に滿つるに足り、樂は以て憂を忘るゝに足る、吾日に安し、豈に其餘を願はんや(*と)
冠峰天明中七十餘にして歿すと云ふ、著す所自放編三卷、冠峰文集五卷、緑竹園詩集三卷あり、江北海甞て冠峰を評して曰く、冠峰をして身都下に在りて、藝苑に馳聘せしめば、其詩歌の名、方今の赤羽■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)洲諸子に讓らざるべし、惜いかな(*と)


原東岳、名は直、字は温夫、東岳と號す、原田氏自ら修めて原となす、通稱は吉右衞門、豐後の人、日出侯に仕へ、後中津侯に遊學す

東岳本姓は酒田氏、出でゝ原田(*「はるだ」か?)氏を繼ぐ、原田氏は日出の世臣にして、巨室を以て藩の太夫たり、東岳は義父の蔭補(*原文ルビ「いんは」は誤植。)を以て、少くして近侍となる、日出侯人を鑑するの明あり、東岳が異才〔奇才〕なるを愛し、謂(おもひら−ママ)く此子必ず文學を以て名を成さんと、乃ち命じて京師に遊學せしむ、東岳經藝を東涯に受け、堀河の家塾(*原文ルビ「かじやく」は誤植。)に寓すること四年にして歸る、勉學多年、經明に行修まり、文章を能くするを以て、西海に名あり、侯又命じて服南郭に從ひ、古文辭を學ばしむ、江戸に在ること三年、後侯の駕に從ひ、東に來ること數次、經藝文章、時習(*原文ルビ「ししふ」は誤植。)に於て並に其統を得たり、加ふるに博綜該覽、通曉せざるなく、小倉の増彦敬(名は勝之、字は彦敬、玄覽と號す、豐前の人)と名を齊(*原文ルビ「ひとう」は誤植。)くす、人之を九州の原増と呼ぶ
東岳初め名は殖、其父酒田遯叟曰く、兒冲齔(ちうしん)〔齒の脱替する時即ち七八歳〕より性直諒なり、宜く名を直と改むべし、吾恐くは汝が謇諤介僻〔偏屈〕にして、世と相容れざらんことをと、其言果して然り、寶暦中士太夫と事を議して合はず、然も猶抗■(骨偏+葬:そう:汚れた:大漢和45284)(かうさう)〔硬骨〕(*様子を窺って立つ・高ぶって頑固の意。)撓まず、剛斷(かうだん)爭諫して愈之を不可とす、之を強ひて官に告げんとす、侯及び大夫堤防して〔フセギ止む〕成らず、皆謂く定めて其處置に畏れ、温解〔和解〕して從ふべしと、東岳苟も合ふことを欲せずと、世僕〔代々事ふる召使〕數人を擁し、鎗■(金偏+票:ひょう:刀の尖:大漢和40813)(べうさう−ママ)〔ヤリ〕を持し、戎器(*原文「戒器」を頭注により改める。)(*原文ルビ「じつき」は誤植。)〔甲冑弓矢等〕を荷ひ、局促〔拘束〕する所なく、臣たるを致して去る、是より京師に至り、講説して業となす
東岳平安に教授すること此に五年なり、從遊頗る衆し、又去りて關西諸州に遊び、後鞍(あん)を豐前の中津に卸し〔鞍を卸しは駐留〕、此に講學す、中津侯其經藝を聞き、之を嘉尚し〔喜び稱す〕、廩粟を賜ひて以て其費を給し、待遇頗る渥し、遂に侯の家に賓客として身を終ると云ふ
東岳天資狷介、動もすれば人と忤(さか)ふ、其不可とする所は貴紳豪族と雖も、情を矯め〔意を枉ぐること〕意を屈して之を苟容(こうよう)せず、到る所不遇なるもの、之が爲めなり
東岳嘗て諸名士と同じく華頂山に遊び、智恩院の大僧正快公の房を過ぐ、快公詩歌を好み、時彦と交はる、戯に東岳に謂つて曰く、來賓は皆是れ秦の始皇坑埋(*原文ルビ「かうま」は一字脱。)の遺屬(ゐぞく)〔秦皇儒を坑にすの故事〕かと、東岳對へて曰く、坐主は魏の太武誅殘の餘類〔魏武僧を誅するの故事〕ならざるを得んやと
東岳天明三年癸卯十一月三日を以て歿す、年五十五、城外の廣運寺に葬る、妾三女を生めども男なし、門人相議して久恒玄的の第二子重三を以て後嗣となし、其長女に配す、著す所論語箋註、孟子徴、經説拾遺、封建考、逸民史略、臥遊漫鈔、席上腐談、茶詩選、東岳筆疇、東岳學的、唐詩正聲纂註、詩學新論、及び文集遺稿等あり
席上腐談に時人の己を謗ることを載せて曰く、余や愚滯(くたい−ママ)にして動もすれば■(言偏+山:さん・せん:謗る:大漢和35241)謗(せんばう)〔誹毀(、)ソシリ〕を來す、因つて謂ふ、人の己を毀るは、諸を躬(み)に求むべし、若し己を毀るべきの行あらば、彼の言是なり、是れ則ち彼に怨(*原文ルビ「うらみ」は衍字あり。)みなきのみならず、反りて改むべきの行あり、若し己に毀るべきの行(かう)なくば、則ち彼の妄なり、妄は啻に躬に害なきのみならず、反りて進修〔學を進め行を修む〕の益あり、爰に知る傍者必ずしも吾を損せずして、譽者必ずしも吾を益せざることを、學者須く毀譽を以て遽に擧動をなさず、自ら其實を繹(たづ)〔尋〕ぬべしと、其平生の人となりに似ず、温乎たる君子の言なるかな


小川泰山、名は信成、字は誠甫、泰山と號す、通稱は藤吉郎、江戸の人

泰山幼にして慧悟、兒戯するにも常に筆硯を愛し、苟も寸帛尺紙〔絹紙の切〕に遇へば、意に隨ひて科斗、蚯蚓(きういん)の字に似畫に似たる状を作る、五六歳に及び、頗る字體を辨じ、人或は試に甲申戊戌、虚虎、焉馬等の謬り易き字を以て併寫錯列し〔マゼナラブ〕、之が勾畫(こうくわく)を問ふに、未だ曾て差應〔答の間違〕せず、郷隣皆神童を以て之を稱す
安永中松山天姥(名は敬和、字は伯義)なる者あり、善書を以て聞ゆ、甞て泰山を見て歎じて曰く、斯兒非凡にして書才(*原文ルビ「しんさい」は誤植。)ありと、爲めに司馬温公の勸學文を書して之に與ふ、泰山臨模(*原文「模」の異体字を用いる。)(りんぼ)して〔眞似て習ふ〕怠らず、漸く文意を解し、既にして讀書の人に益あるを知る、父之を喜び、業を其親善なる山本北山に受けしむ、北山授くるに太史公の文を以てす(、)泰山受けて之を讀む、項羽が書は姓名を記するに足るのみの言に感ずる所あり、是より復臨書を事とせず、意を决して書を讀む、時に年僅に七歳なりと云ふ
泰山一たび謁を北山に執りてより、烈風大雨と雖も、未だ曾て師家の閾を蹈(*原文ルビ「ふま」は衍字あり。)まずんばあらず、曾て大に雪ふる、一巨笠を戴いて詣る、途未だ半ならずして、雪深く笠重く、力勝ふる能はず、顛蹶(てんけつ)して〔ツマツキ倒る〕大に膝を傷く、人憫んで之を扶起し、勸めて家に歸らしむ、泰山肯んぜずして師家に至り、痛を忍んで教を受くること常の如し、比隣〔家並の隣家〕傳へて美談となす
泰山父に從ひ、相の藤澤に移居す、癸卯母榊原氏を喪ふ、自ら其碑文を撰して之を邑の感應院に建つ、其文固より潤飾〔添削修飾〕を人に請はず、北山大に機軸(*原文ルビ「きちやく」は誤植。)法あるを賞す、同門の先輩(せんはい−ママ)其造詣〔到達の域〕の深きに服し、敢て名いはず、泰山の奇童と稱す、泰山は即ち大山にして、蓋し相中(しやうちう−ママ)の名山なり、自ら又之を以て號となすと云ふ
泰山北山の奚疑塾に寓し、山中天水、太田錦城と情交尤も密なり、天水は泰山より長ずること十歳、錦城は泰山より長ずること五歳、晝は几案を駢(なら)べ、夜は一燈を圍み、各自ら書を讀む、二子各其志す所を言ふ、天水は乃ち謂ふ、今や天下の詩文徒に浮華、剽竊、陳腐、摸擬を事とす、余は反正〔正道に復す〕の業を修め、其弊を一洗せんと欲す、錦城は乃ち謂ふ、今や海内の學者漢魏の訓詁と宋元の性理とに拘泥し、其弊を知るなし、予は群言を折衷し、衆説を選擇し、務めて門戸の見〔一家の私見〕を破り、經解を著述せんと欲す、泰山乃ち謂ふ、我邦の學者常に諸子の讀み難きに苦む、故に書を讀まば當に人の讀み難きものを擇んで讀むべし、我の讀み難からざる、人も亦讀み得べし、然らば則ち之を讀むも往古に益なく、讀まざるも來者に損なし、人の讀む能はざる書を擇んで之を讀み、闡幽〔暗く明かならざるを明にす〕發伏〔隱れて知れざるを顯はす〕して、古賢の道を明にし、以て後世を稗(*裨)せば、始めて能く書を讀むと謂ふべし、故に予其解説を作り、微言を推開し、以て之を天下に弘通せんと欲すと、其後天水疫を病んで歿し、泰山は■(病垂+祭:さい・せい:病気・疲れる・肺結核〈=肺癆〉:大漢和22458)を病んで夭し、皆其期する所の萬分の一を償(つくな−ママ)ふこと能はず、錦城獨り世に存すること五十年、經義を以て世に著はれ、其言ふ所に負かず
泰山平生坐傍に、老莊晏管〔晏子管子の類〕墨列呂商國策の書を置き、巡覽(しゆんらん−ママ)して之を讀み、衍文〔字句の間に餘計の文字ある〕錯簡〔文辭のアヤマリ〕、佶屈〔難句難文の解し難き〕(*原文「佶倔」とする。)難澁、讀み難きに遇ふ毎に、之を校究して其説を了解せざれば措かず、嘗て坊間に行はるゝ墨子全書の、肥後秋玉山が校定する所にして、經説數篇に至りては、之が句讀を下す〔句を斷ること〕能はず、今に至るまで其訓讀を缺くと聞き、發憤して之を讀み、索隱攻微〔隱微にして判然たらざるを檢討す〕、前後を貫き、考數篇を著し、遂に全書をして展卷瞭然(りやうせん−ママ)たらしむ、當時の諸儒皆其墨子に功あるを稱す
天明五年乙己の春泰山勞■(病垂+祭:さい・せい:病気・疲れる・肺結核〈=肺癆〉:大漢和22458)(らうさい)〔肺病〕を病み、病を叔父某が白山の家に養ふ、荏苒數十日、遂に其五月二十二日を以て歿す、時に年僅に十七、病革まるに及び、手卷(くわん)を釋てず、筆硯書秩(*帙)枕邊に狼藉(らうせき−ママ)〔取亂し散亂す〕たり、小石川光岳寺に葬る、著す所墨子考六卷あり、其他泰山經子遺説一卷、四十首遺藻一卷あり、皆友人の輯録する所なり
太田錦城經子遺説に序して曰く、古人夙慧にして神童を以て稱せらるもの、王勃李賀が輩の如き、詩賦(しぶ−ママ)の才に過ぎざるのみ、其經を詁し子を解し、考證精博なること、豈に誠甫其人の如きものあらんや、彼の土既に希なり、況んや我土に於てをや、是亦古今の畸才〔異常の才〕なり、若し此人をして今日に存在せしめば、一代の儒宗(じさう−ママ)〔儒界の宗師〕、當に此人を推すべしと、斯言實に虚稱にあらず


奥貫友山、名は正卿、字は伯雅、友山と號す、通稱は五平次、武州河越の人

友山世々農桑を業とす、其先小田原の北條氏に仕ふ、豐太閤之を剪屠〔きりほふりて覆滅〕するに及び、民間に隱れ、州の久下戸村に住し、其邑の土豪たり、友山少くして學を好み、江戸に遊びて業を成島錦江の門に受く、學成りて郷に歸り、生徒に教授す、今に至るまで相中文學の盛なるは友山より始まると云ふ
友山徂徠を主とし、師説を確信す、而も當時の■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園諸家と、大に其趣を異にし、服南郭、高蘭亭等を以て、浮華の虚文となし、曾て之と交はらず、唯青木昆陽、中村蘭林、稻白巖と友とし善し、三子友山より長ずること數歳、皆稱して有用の才となす
寛保壬戌關東大水あり、武州入間郡最も其害を受く、民舍の漂沒數十里に亘る、友山即ち食を舟に載せ、僮僕と漿し〔棹す〕て以て行き、餓者に飮食せしめ、其水に浸されたる處を巡り、病者あれば之を載せて還り、其家に撫育する者數百人、因りて其父に請うて曰く、大人平生兒に誨(おし)ゆ、儉を守り用を節せよ〔財を省約す〕と、豈に今日の急あるが爲めならずや、願くは家世の積聚(せきしう)〔金米の蓄へあるもの〕を傾けて以て之に當らんと、父喜んで之を許す、是に於て大に倉廩を發し、飢民に施與す、流氓(*原文ルビ「りうみん」は誤り。)男女、傳聞して爭ひ至り、門前市の如し、友山多く粥を烹(に)、奴(ど)の最も恭謹なる者數人を擇び、以て之を接待せしめ、戒めて曰く、飢餓は固より貧に非ず、謹んで輕慢〔侮辱〕すること勿れと、友山一に賓客に接するが如く、壯幼を問はず、人毎に米四升を與ふ、受くる者感謝せざるなし、既にして廩米盡く、又人をして金を齎して四方に行き、穀粟、大豆、蕎麥を買はしむ、金盡く、父に請ひて田宅を江戸の富商に質とし、金を得て以て之に繼ぐ、冬十月より翌四月に至りて止む、凡そ惠施の及ぶ所四十八村、終始救はるゝ者十萬六千餘人なり、事聞し官大に賞し、錢帛を賜ひ、門閭に旌(せい)すと云ふ
河越侯秋元凉朝執政(しつせ−ママ)たる時、大に友山が爲す所を嘉(よみ)し、召見して時服佩刀を賜ひ、爲めに盛饌〔豊かなる饗應〕を設け、其太夫をして伴食(はんしよく−ママ)せしむ、友山飯二椀羹(こう)一椀を食して、其餘に及ばず、太夫勸むるに鮮羞(せんしう)〔嘉肴〕を啜らんことを以てす、友山曰く、四民飢餓し、老幼凍餒(とうたい)〔飢寒〕す、王侯に非ざれば、甘美に飽くべからず(*原文「飽くべからす」を改める。)と
壬戌洪水の時、官令を下し、嚴に民の土を離れて〔土地を去る〕、食に他州に就くを禁ず、蓋し其の之に因りて流散(*原文ルビ「りさん」は誤植。)し、再び反らざるを憂ふるなり、友山之を聞き、疾馳して江戸に來り、其師錦江が家に至り、急告すべきことありと稱す、時に錦江食に就きて未だ終らず、吐哺(とぼ−ママ)し〔口に入れたるものを吐出す〕て之を見る、友山曰く、官今飢民(きみ−ママ)の出て乞ふことを禁ず、富豪の施(せ)を好む者あるも、禁を聞きて果さず、徒に怨嗟せしむ、先生其れ以て告ぐることなきを得んやと、錦江固より經濟實用の學を以て、專ら己が任となす、親しく時艱(じかん−ママ)を目撃して、大に然りとなし、直に筆を把りて奏議〔上書〕を草し、以て其不利を陳す、議入りて即日禁罷む、是に於て關東の富豪往々其蓄積する所を出して、其飢餓を救ふ、爲めに流亡〔流離逃亡〕を免るゝ者極めて多し
明和中武藏相模上野の三州荒饉し、姦民相聚まりて盜をなす、富商を強奪し、民舍を毀壞す、有司里正〔庄屋〕之を檢すれども、之を禁ずる能はず、將に友山が家に及ばんとす、一人走り至り、大呼して曰く、是れ我奥貫翁の居なり、昔者寛保の水災、翁あるを以て、我祖父母兄弟をして生存(せいそん−ママ)することを得せしめたり、汝之を知る乎、衆大に駭(おどろ)き、相顧みて曰く、我儕(ともがら)力の庇恩を報ずべきなし、而して反りて虐す〔横虐にて害を加ふること〕べけんやと、門前に俯伏〔平伏〕して去る、爲めに其四隣暴亂を免れたり
友山資性質實にして、文人を以て居ることを欲せず、常に謂ふ、獨り閑■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)に坐して義理に涵濡(かんじ−ママ)すれ〔ヒタル〕ば、架上萬卷の書、案上一椀の茶、恰も五鼎七牢の左右に陳するが如し、敢て一物を他に求めずと
友山天明七年丁未を以て歿す、享年八十、遺言して曰く、我死せば孟子一部を几上に置き、以て卒哭(そつこく)せよ、謹んで佞事する〔ヘツライ(*ママ)ツカフ〕こと勿れと、其家今に至るまで富裕にして存すと


山中天水、名は恕之、字は宣卿、天水と號す、通稱は猶平、伊勢の人

天水家世々農を業とす、少くして學を好むも、生産〔産業〕栖々(せいゝ−ママ)として意を載籍に專(もつはら−ママ)にすること能はず、因りて京師に赴き、偏(*遍か。)く諸儒の間に遊ぶ、而して一も其意に充つるに足るものなし、遊ぶこと未だ久しからずして■(士+冖+石+木:たく:小袋:大漢和15347)(*本字は嚢の冠+石+木)嚢(たくなう)〔財布〕盡き、窮苦得て言ふべからず、然も未だ少しも初志を折(くぢ)かず、學問益力(つと)む、江戸に來るに及び、困頓〔窮乏〕萬状、傭書〔筆耕〕して衣食を給す、然も以て憂(*原文ルビ「うれ」は一字脱あり。)となさず、博く諸名士に交はるも、又其意に充つる者あらず、一たび山本北山を醫官某氏の家に見て、經義を論辯し、大に喜び、以て宿望を達すとなし、贄を其門に執る、時に年二十三、北山は二十九なり、北山其才を稱して曰く、吾門の東壁藤生〔徂徠の高弟〕なりと
天水北山の奚疑塾に寓すること一年餘なり、是より先き小川泰山、東方旗山も亦塾に在り、此時北山の業未だ盛ならず、奴僕(どぼく−ママ)を畜へ(*ママ)〔雇入れて衣食を給す〕て給使(きうし)に充(あ)つる能はず、北山自ら竈に當り〔飯を焚(*ママ)く〕、旗山天水と水を擔ひ薪(しん)を伐ち、其勞に服事す、幾くもなくして才俊(*原文ルビ「さしゆん」は一字脱あり。)の士門下に輻湊し、業大に盛なるに至るは、天水奬成の功(*原文ルビ「こつ」は誤植。)多しと云ふ
享保中物■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園が古文辭を修め、李王の業を唱へて、摸擬■(食偏+丁:てい・ちょう:貯える:大漢和44024)■(食偏+豆:とう・ず:食物を並べる:大漢和44179)(ていとう)〔陳腐の語を列す〕(*食物を沢山並べる・徒らに古語を襲用する。)勦贋(さうがん)〔古文の僞物〕(*原文頭注「剿贋」とする。)剽竊の詩文を表章してより、擧世之に傚ひ、斷前缺後〔成經古句を剪裁す〕、佶屈艱澁(かんしう−ママ)の文と、萬口一轍、浮靡(ふひ)虚誇の詩とを以て善しとなし、一人の時習の陋弊を知る者なし、北山興るに及び、袁石公に左袒し、平散明暢〔平易にして流暢〕の文と清新流麗の詩とを以て、修辭の業を排撃し、踏襲(たうさう−ママ)の氣を一掃す、而して其初めに當り、間其陋弊を厭ふも、之を確信する者は數輩に過ぎず、天水夙に李王の業を疑ひ、時習を厭薄(*原文ルビ「えうはく」は誤植。)す、其見る所北山と符合(ふかふ−ママ)す〔キツシリ合ふ〕、是に於て其説に和し、反正の業と稱し、時習を攻撃するを以て己が任とす、古文辭家之が爲めに漸く衰ふ
天水平安に在る時、甞て皆川淇園に謁す、淇園易説を以て時に鳴る〔名聲高し〕、號して開物の祖と稱す、獨得を自負すること諸儒に超ゆ、乃ち自著の易解を出して之に示す、天水閲し畢りて曰く、五行〔陰陽五行〕を原(たづ)ぬれば水火を先にし、道義を談(かた)れば性情を先にし、學術を語れば神識を尚ぶ、何ぞ章句訓詁〔註解釋義〕に拘々として短修(たんしゆ−ママ)〔短長〕を校〔較〕せんや(*と)、淇園言なくして止む
天水好んで豪爽の言をなす、曾て謂ふ、元寶以降の僞豪傑、贋君子(、)要するに其才識は一文錢にも當らず
天水尤も心を文章に留め、思を構へて草を起し、名物を状貌〔形容〕して、其微巧を施(ほとこ)す、俄頃(がけい)にして篇をなし、老成人と雖も、之と同じく馳聘する能はず
天水青霞亭を城東の本街に築(きつ−ママ)きて、生徒に教授す、坦然〔夷然平然〕自ら安んじて世儒を蔑視す、甞て謂ふ、文は六朝に至りて衰廢極まる、韓昌黍一麾(き)して之を六經に反へし、後世之を奇絶と稱す、以て■(魚偏+彊の旁:けい・きょう・ぎょう・ごう:鯨:大漢和46450)魚(かくぎよ−ママ)に告ぐれ(*原文「告くれ」を改める。)ば、之が爲めに馴致し〔ナラシナツケル〕、以て皇甫の輩に語れば、之が爲めに阻遮せらる、■(魚偏+彊の旁:けい・きょう・ぎょう・ごう:鯨:大漢和46450)より愚に、龍蛇より頑なるものは、世人の情なり
天水告げずして桑梓〔故郷〕に離る、人皆之を尤む、天水乃ち曰く、産を治め業を襲ふは姉弟にして足る、大丈夫爲すあらんとするや、其始(はじめ)多くは産業を事とせず、事を好んで然るにあらず、彼と此と輕重(けいちやう)あり、勢ひ兩全を得さ(*ママ)ればなり、吾道義を發揮し、名教(めいげう)を維持し、上は大人の心を正し、下は子弟の行を率ゐ、往聖(あうせう−ママ)に繼ぎ、來學を啓くは、數頃の田を耕し、數鍾〔分量の名目〕の粟を希(こひねが)ひ、幸に饑寒を免れ、朽ちて糞土となるものに孰與(いづれ)ぞや、事業の大なる、文學に若くはなし、家に居りて能く千金を致すも、猶其半に比するに足らず、矧(いは)〔況〕んや其富貴必ずしも期すべからざるをや
天水業を北山に受くと雖も、其學の區域を立つるを欲せず、漢宋を磅■(石偏+薄:はく・ばく:交じる・広く被う・充ち塞がる:大漢和24597)(ばうはく−ママ)〔混同〕(*混同)して其長ずる所を取り、唯文章は歸震川袁中郎を主とするのみ、年二十五、帷を下して三十歳に至り、其門に入りて記簿に上る者、前後五百餘人、近世高名の士、井敬義(字は伯直、董堂と號す)松浦則武(字は乃侯、篤所と號す)大窪行(字は天民、詩佛と號す)等皆其■(士+冖+石+木:たく:小袋:大漢和15347)(*本字は嚢の冠+石+木)籥(たくやく)〔袋嚢〕中より出づ
天水寛政二年庚戌暮春疫を病んで牀に臥す、臨終(りんしう−ママ)〔最後(*ママ)〕の前夜七律一首を賦し、門人をして紙を持(*原文ルビ「もた」は衍字あり。)たしめ、仰(あほ)ぎて自ら書す、其詩に曰く

枕ニ伏シテ何ゾ知ラン庭草ノ荒ルヲ、秋寒ク松■(片+戸+甫:ゆう:櫺子窓:大漢和19890)月堂ヲ窺フ、家書屡擲チテ報ズル能ハズ、郷客偶マ來リテ傷ヲ作シ易シ、殘夜眠ラント欲シテ風夢ヲ破リ、曉星將(*ニ)落ントシテ露光ヲ増ス、今ヨリ天外龍ニ騎シテ去ラン、一片ノ白雲是レ故郷(*伏枕何知庭草荒、秋寒松■月窺堂、家書屡擲不能報、郷客偶來易作傷、殘夜欲眠風破夢、曉星將落露増光、從今天外騎龍去、一片白雲是故郷)
遂に九月吉日を以て歿す、享年三十三、娶らざれば子なし、門人後事を議(き−ママ)し、浅草行安寺に葬る
天水平生精を著述に專(もつはら−ママ)にす、其成さんと欲して稿を起すもの若干、將に脱稿せんとして果さゞるもの、周易考證、周易發■(糸偏+褞の旁:うん・おん:くず麻・古いきぬ綿:大漢和27757)、尚書精■(糸偏+褞の旁:うん・おん:くず麻・古いきぬ綿:大漢和27757)、毛詩知原、左傳考證、四書考證、論語發■(糸偏+褞の旁:うん・おん:くず麻・古いきぬ綿:大漢和27757)、經傳晰名義、性命論、教學解、學頤沮勸集、格言樞機、資治一鑑、官職探蹟、歴代指掌、古今詩評、雅談一丁、溜觴編、諸子傅繆、肯綮解、助字率、鉛槧■(矢偏+見:き:「規」の本字:大漢和23979)、皆門人に傳ふ、其他詩草紺珠三卷、韓文讀法一卷、青霞亭遺稿ニ卷(、)世に刊行す


片岡如圭、名は基成、字は平甫、如圭と號す、通稱は吉二郎、後平助と改む、平安の人

如圭幼にして聰敏、能く難字を解す、好んで周易を讀み、年十三四、占筮(てんぜい −ママ)頗る驗あり、最も射覆〔物の隱れたるを言中る〕を善くす、人皆其凡ならざるを知る、二十にして帷を高倉街に下して徒に授け、易學を以て專門となし、時に名あり
如圭其學の師授に依らざるを自負す〔獨學獨修〕、或問うて曰く、先生何人を師とし、何人を友とするや、答へて曰く、我に四家の師、二人の友あり、日月寒暑九霄〔天〕に在りと雖も、是れ我師なり、子服惠伯嚴君平、千歳を隔(へた−ママ)つと雖も、是れ我友なり、四師毎に往來し、我をして盈虚存亡の秘蘊(ひをん−ママ)〔秘密と内に包まれあるもの〕、陰陽消長の精微を知らしむ、二友暗に莫逆(ばくぎやく−ママ)の交(かう)を通ずと
一儒生あり、易を以て義理の書〔道理を説きたる本〕となし、深く如圭が易を以て占筮の書となすを賤み、指して秦皇の言を追ふ者となし、問うて曰く、天神物を生ず、蓍(き)と龜(き)と謂ふ、今龜卜其傳を失ひ〔傳らず〕、蓍草(*原文ルビ「ききう」は誤植。)生せ(*ママ)ざること既に久し、後世何に由りてか筮をなさん、如圭答へて曰く、昔者季札は樂を以て卜し、趙孟は詩を以て卜し、襄仲季父は言を以て卜し、子遊子貢は威儀を以て卜し、沈伊氏は政を以て卜し、孔成子は禮を以て卜す、而して其應ずること響の如し、夫の夷狄の如きも、虎卜馬卜、紫姑卜、牛蹄卜、鷄骨卜等あり、亦能く大事を決するに占驗(てんけん−ママ)〔ウラナヒの効驗ありて中る〕あり、蓋し精誠(*原文ルビ「せいく」は誤植。)既に極まる、鬼神(きじん)從ひて感應(かんおう)す、古謂はずや、至誠の道(*原文ルビ「ろち」は誤植。)以て前知(*原文ルビ「ぜつち」は誤植。)すべしと、何ぞ必ずしも蓍龜のみならんや、儒生(じせい−ママ)言なくして止む
明和甲申の春如圭東江戸に遊び、馬喰街の旅舍に寓す、隣街紅を賣るの舖あり、芳村屋と謂ふ、其家頗る富贍〔資産多し〕、時人呼んで江戸の芳村紅と稱す、宮中の姫嬪(きひん)より市井の妓婦に至るまで、粧樣(さうやう−ママ)を凝す者人として買はざるなく、其價も亦貴し、聲四方に馳(*原文ルビ「はせ」は衍字あり。)せ傳はり、一時の繁昌(はんしやう−ママ)を極む、如圭甞て之を京師の所親に贈らんと欲し、其肆〔店〕に至りて之を買ふ、獨り店頭に立ちて自ら其家の豪富盛昌以て頼むに足らざるを識る、後旅舍主人の請(せい)に應じ、芳村屋に至りて屡疑事を筮す、其家深く之を信ず、是より先き子を擧ぐるも皆夭し、僅に一兒を存す、定吉と名く、時に三歳、其命の修短を筮せんと請ふ、乃ち之を筮し、斷じて曰く、剥命驀跛、七歳を越へずして必ず難に死なん、且つ其産業長からざれば遠く後事を慮るべしと、父母茫然自失(*原文ルビ「じし」は一字脱。)〔手持無沙汰爲す所を知らず〕す、如圭曰く、有無長短は皆命なり、貴ぶ所は唯先識に在るのみ(*と)、後其家善相者〔人相家の能く相する者〕をして觀考せしむ、相者賀して曰く、貴兒の容貌は鶴目龜鼻、以て憂となすに足らず、必ず華顯にして蓍壽(きじ−ママ)〔長命〕ならんと、父母大に悦ぶ、管奴(くわんど)〔番頭〕僮僕も亦之が爲めに傾聳(けいしやう)し〔追從いふ〕て曰く、吉凶は人に由る、筮者の言は拘泥するに足らずと、後兒七歳にして群兒と戯れ、水涯に競走し、顛蹶(てんけつ)して死す、父母抑欝して病(*原文ルビ「やま」は一字脱。)をなし、繼(つい)で(*原文「繼て」を改める。)歿す、其家散亡して影跡を留(とゝ−ママ)めず、是より如圭の名、益世に傳播(でんはん−ママ)すと云ふ
如圭人に謂つて曰く、我東方天兒屋命(あまのこやねのみこと)始めて太占卜事(たいてんぼくじ−ママ)を用ひてより、中世火を揚げ龜を灼(しやく)し〔龜の甲をアブリテ吉凶を占す〕、能く疑義を決す、兆効極めて多し、後世其事沒して傳はらず、唯星卜歌兆の小義偶(たま\/)存するも、亦巫祝の手に在り、卑陋猥雜にして取るに足らず、近世山崎嘉、馬場信武等易説を著すも、概ね先修の糟粕のみ、意匠心識の人、活機の占筮(てんせい−ママ)に在るを知らず、不正の規矩〔繩墨にて工人が其材を測る器〕を以て、自然の方圓を揣(はか)〔量〕る、易術の古に復せざる所以なり(*と)
如圭年六十餘、天明中に歿す、著す所周易解十二卷、易學啓蒙解五卷、易林圖解二卷、論語訓十卷、左傳占例考、國語占例考各一卷、世説解難、唐明詩箋各八卷、易話三卷、易術夢談、易術傳、同便蒙、同明畫、同妙鏡、同手引草各一卷あり


井金峨、名は立元、 字は純卿、字を以て行はる、金峨と號す、考槃翁、柳塘閑人皆別號なり、井上氏自ら修めて井となす、通稱は文平、江戸の人、東叡王府に仕ふ

金峨の先は信濃の人、自ら信陽の人と稱す、九世の祖大膳と曰ふ者織田右府に仕へ、本能寺に戰死す、其子六郎より醫を以て業となす、祖喜庵に至り、始めて侯國に仕へ、笠間侯(井上河内守)の侍醫となり、禄二百石を食む、江戸に來り、青山の邸に居る、父名は履、字は禮卿、觀齋と號す、其後を繼ぎ、金峨に至り禄を辭して去り、業を改めて儒となり、駒籠に僑居〔寄寓〕し、帷を下して徒に授く、業一時に振ふ
金峨の學一家を偏主(へしゆ−ママ)せず〔片寄りて一を主とせず〕、訓詁を漢唐の註疏に取舍(ししや−ママ)し、群言を折衷し、義理を宋明の諸家に磅■(石偏+薄:はく・ばく:交じる・広く被う・充ち塞がる:大漢和24597)(ばうはく−ママ)し、穩當を撰擇し、以て先聖の遺旨を闡發〔顯明發揚〕し、以て前修の逮ばざるを匡〔正〕す、近世の經生文字に膠滯(かうたい)〔拘泥〕し、意を恣にして悍言し、異を先儒に求め、衆説を聯比して、務めて博雜を事とし、後學を誇誣する者と日を同じくして語るべからず、寶暦以降人々物赤城、太宰紫芝と、韓商〔韓非子(、)商鞅〕の學を以て六經を誤解し、聖言を繞纏(げうてん−ママ)するの害を知る者、其辯斥攻撃、金峨より始まり、關東の學之が爲に一變す、近時所謂折衷家なる者、豐島豐州、古(*古屋)昔陽、山本北山、太田錦城等諸家の如き、皆經義を以て著はる、其實皆金峨の風を聞きて興起(*原文ルビ「こんき」は誤植。)すと云ふ
■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園修辭の業、寶暦の間に至り、名家巨匠〔大文藝家〕殆ど凋落〔衰死〕し盡き、其説を奉ずる者漸く衰ふ、金峨此時に出で、時習(じしふ)を厭薄し、陋弊を排抵し(、)詩は中唐及び晩唐を取り、文は韓柳歐蘇を推し、專ら清新流麗、平散暢達を主とし、以て■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)(*其+手?)擬空虚、艱澁(かんしう−ママ)贅牙(かうが−ママ)〔讀み難き文〕の風を矯正す、是より以降其説を唱ふるもの、異同ありと雖も、金峨が辯ずる所の範圍を出でず
金峨の學自ら一家を成すと雖も、其學派は堀河の伊藤氏より出づ、幼時西條の文學川濟之、字は魯叔、號熊峰なる者に従ひて學ぶ、金峨の父觀齋之と善し、其居近きを以て往還日に親しく、金峨をして業を受けしむ、濟之は山城の人南紀の陰山元質(字は淳夫、東門と號す)に學ぶ、元質は仁齋の門人にして博物〔博學〕の君子なり、故に金峨は身を終はるまで公然仁齋の説を排撃せずと云ふ
金峨濟之に從ひて遊び、其學既に通じて井蘭臺の門に遊ぶ、蘭臺は林整宇の門より出で、物徂徠の説を喜び、之に左袒す、金峨も亦其説を研尋(けんじん)す、蘭臺は金峨より長ずること二十七歳、其才氣を愛し、敢て弟子を以て之に遇せず〔對等の待遇をなす〕、甞て金峨に謂つて曰く、子既に天授あり〔天賦の才あり〕、人の門牆に依り〔他に頼りて立着するの意(、)即ち門弟となる〕て、脚跟(きやくこん)を樹つること勿れと、金峨終生蘭臺を稱して、父執(しつ)〔父の友〕蘭臺先生と曰ふ
寶暦の末(まつ)小倉の石麟洲辯道解蔽を著して徂徠を駁す、關西物氏の學を攻撃する者、麟洲を以て鼻祖となす、五井蘭洲が非物編、唐崎廣陵が講學編、蟹養齋が辯復古、中井竹山が非論語徴等此よりして出づ、金峨年二十四、辯徴録五卷、讀學則三卷を著して物氏を駁す、其辯論痛快にして餘力を遺さず、深く刻削繁碎の弊を戒む、時に物門の高足服南郭、縣周南、江南溟等猶在り、皆謂つて曰く、石生が辯道解蔽は以て疾(やまい−ママ)を先師に爲す〔疾を爲すは害を與ふる〕に足らず、井生が辯徴録は往々老生を起すと、其服せざる者と雖も、畏憚すること此の如し
寶暦の初、諸家門戸相擠(あいせい)し〔互に推し墜す〕、同異を胸中に挾(さしはさ)み、朋黨結構、漢宋と伊物とを論ぜず、唯其己に同き者を稱して、已に異なる者は排擯して顧みず、其師弟の間、阿黨(あたう)〔オモネリて師にヘツラヒ加擔す〕を以て善となし、經義文章より服飾器用に至るまで、蹈襲(たうさう)■摸倣し、必ず其師の爲す所に傚ふ、趨向人に由り、一事も自ら發する能はず、金峨此に見るあり、一時の弊を矯揉(きやうじう)せ〔タメ直す〕んと欲し、師辯一編、解客難一編を著して其陋習を論ず、二編皆世に刊行したれども、其版火に罹り、傳本極めて少し、因りて今師辯(しべん)を此に附載す、曰く

今の學者は必ず師あり、師なき者は人肯(あい−ママ)て之を信ぜず、故に諸生の名に循(したが)ふ〔循名は名譽を崇拝す〕者は唯之に依りて、信を世に取るのみ、其人を待ちて之に師事するにはあらず、是に於てか謂ふ、某は經術に精しく、某は博洽なり、某は文章詩歌を善くす、某は弟子若干人、大邦の君をして北面〔臣が君に仕ふる禮(、)即ち師事を意味す〕せしむれば、則ち吾が師なりと、驟然として〔急ぎてなり〕徃いて之に歸す、其師たる者も亦後學を召収し、高く自ら封殖〔高く標置の意〕するを以て己が任となす、吾其師弟の間を觀るに、師は益傲慢にして、弟子は益卑陋、甚しきは初學の士も其淺薄(せんはく−ママ)を恥づ、是れ何ぞ閭里兒童を教ふるの切なるに如かんや、周の季に當り、禮壞(くづ)れ樂崩れ、人道熄(や)むに近し、仲尼其時に生れ、堯舜を祖述し、文武を憲章し〔祖述憲章は成語(、)先王の道を繼承發揚す〕、論じて之を定め、萬世の下人倫あるを知らしむ、然も其師あることなし、子貢言はずや、文武の道未だ地に墜ちずして人に在り、賢者(けんしや−ママ)其大なるものを知り、不賢者其小なるものを識る、文武の道あらざるなし、夫子焉(いつくん−ママ)ぞ學ばざらんや、又何の常師か之あらんや、假令ひ老■(耳偏+冉:たん:耳たぶが垂れ下がる、ここは人名:大漢和29039)〔老子にして孔子に禮を教ふ〕道を傳ふるも、豈に斯言あらんや、後の聖人を言ふ者、持して之を論ず、妄と謂ふべきのみ、仲尼歿して微言絶し、七十子喪(さう)して大義乖(そむ)く〔背反〕、亦猶周末の時の如し、乃ち孟荀二子あり、各其得る所に由りて、道を論じ業を授く、先王の道、仲尼の教、復た地に墮ちざるもの、二子の功なり、若し夫れ之が異同を論ぜば、吾も亦何ぞ傷らん、孟荀の後世に其人なく、師道〔人の先生たる道〕乃ち絶ゆ、漢興るに及び、僅に馬融鄭玄の輩あり、專ら訓詁を攻め、後の六經を讀む者をして歸する所あらしむ、其功孟荀を去ること甚だ遠からず、是より以降師ありと曰ふと雖も、吾未だ之を信ぜず、凡そ學問の道は自得〔他の教を待たずして自ら了知す〕に在り、猶良工に(*の?)木を攻(おさ)むるが如し、其可なるものを取りて之を用ひ、不可なるものは之を棄つ、古の人を教ふる、各性に由りて徳を成す、何ぞ必ずしも其徒の我に類するを欲せんや、今の師と稱する者は然らず、其の業を問へば、則ち曰く、宋儒氏の爲す所を爲す、曰く漢儒氏の爲す所をな(*ママ)す、曰く仁齋氏、曰く藤樹氏、曰く闇齋氏、曰く徂徠氏、雷同〔漫に賛同す〕勦説(さうせつ)〔他の説を剽竊す〕して、見る所あるにあらず、其稍や上にして黠(かつ)なる者は我より家を成し、子弟をして講帷間(こうゐかん)に局せしむ、或は才ある者其持論を取りて以て之を師に質し、一も合はざれば、則ち師説に倍(そむ)〔反〕くとなし、拒んで容れず、是を以て才も不才も、亦各其師説の爲めに錮(こ)せられ、竟に發すること能はず、此れ實に才を育し徳を成すの意ならんや、嗟呼今の師の學者に於ける、其弊や甚しいかな、夫れ師は道を傳ふるの稱なり、仲尼以下孟荀ありと雖も、後人猶或は之を議す、況んや今の人に依りて事を成す者をや、吾其孰(たれ)が傳へ孰が授くる〔ドチラが師たりドチラが弟たるの(*以下欠)〕を知らず、故に柳宗元が魏晉以下師弟なしとの論を取りて、之を斷じて曰く、學者唯訓詁に據りて、信を六經に考へ、仲尼に折衷して以て之を己に自得せよ、門戸を建て〔流派を立つ〕、町畦(ちやうけい)を分た〔分界を定むる〕ば、其極(*原文ルビ「きやく」は誤植。)必ず古と背馳す、畏るべきの甚しきなり、然らば則ち人果して師なからんか、吾以爲(おもひら−ママ)く幼時唯句讀旁記の讀を授けて、人の子を賊(そこな)〔害〕はざるもの師となさんか、嗟呼今の師の學者に於ける、其弊や甚しいかなと、時に金峨年二十三なり(*原文はここまでを引用とする。或いは、「甚しいかなと」までとすべきか。
金峨天資明敏、衆技を博綜す、尤も騎法に精し、甞て相馬侯に侍し、經史を講説す、其臣某なるもの野馬の絆(はん)に就きて厩(きう)に在るも、馭制〔控御〕し難しと談ず、金峨之を見んと請ひ、厩に至るに、其馬肥大強悍(*原文ルビ「きうかん」は誤植。)〔ツヨクアラキ〕にして、控勒(こうろく)し〔オサイ(*ママ)ツクル〕難(かた−ママ)きに似たり、金峨拘束を脱棄して之に乘り、馳騁縦横、進退遲促、意の如くならざるなし、衆皆歎服す
金峨中年大庭景則(字は南湖、雷洲と號す)に從ひ、天官家〔天文學者〕の言を學び、頗る其説を究む、緯線測量、皆自ら之を試むるに、尤も驗徴あり、之を研尋すること三年にして、同門に能く之と抗する者なし、後其觀察の書數種を廢棄し、謂く精を空虚に勞するは、生を保つ所以の道にあらずと
金峨病あり、家人藥を侑(すゝ)む、難(な−ママ)んずる色ありて甞めず、病重きに及び、家人子弟苦(ねんごろ)に之を進む、金峨笑つて曰く、漢代の人言あり、病ありて治せず、常に中醫を得〔治療せざれば中等の醫にかゝるだけの効あり〕と、醫術の難(がた−ママ)き、古猶此の如し、況んや後世に於てをや、吾病んで藥を服せざるは、猶當今の上醫を得るに勝れりと
金峨青山の百人街に生れ、父に從ひて常陸に之き、笠間に生長し、再び江戸に來り、青山邸に在り、後駒籠に僑居し、四十年間居を移すこと凡そ十七たび、明和中柳橋に築(きつ−ママ)き、幾くもなくして壬辰の災に罹り、芝口街に僑居し、市肆〔市場〕雜沓の中に在り、甞て一詩を賦して曰く
東隣ハ屠狗ノ宅、西隣ハ賣酒ノ■(土偏+盧:ろ・りょ:黒く荒い土・囲炉裏:大漢和5586)、中ニ腐儒ノ在ル有リ、終日唐虞ヲ談ズ(*東隣屠狗宅、西隣賣酒■、中有腐儒在、終日談唐虞)
金峨尤も言語に長ず、諸侯の爲めに經を講ずる毎に、章句を略し〔一章一句を省略す〕て大意を解し、因つて時務に及び、施爲(せゐ)の方を切言す、聽く者或は之を譏りて曰く、一に浮屠〔僧侶〕の説法(せつはふ−ママ)の如し、焉(いつくん−ママ)ぞ以て古言を解するに足らんや(*と)、金峨之を聞きて曰く、國君學を好むは治道(ぢだう−ママ)に益あらんと欲するなり、徒に之を好んで其施爲する所以を問はざれば、其緩急進退亦何ぞ擇ばんや、今の儒流は文雅風流〔詩を作り書畫を弄す〕を以て之を誘導するに非ざれば、亦句柝(せつ−ママ)章剖學究(がくきう)〔固陋なる道學先生〕が爲す所の如し、抑も何の心ぞや、吾は之を欲せずと
金峨駒籠に僑居する時、家貧にして自ら給すること能はず、吉祥寺の緇流(しりう)金峨に從ひて、文章詩歌を學ぶ者頗る衆し、金峨之が爲めに鬻講(いくこう)なるものを創む、鬻講とは今の所謂賣講にして其價格を定めて經史を講説し、日に賃錢を資(と)〔取〕るものなり、人毎に銅錢三十文を出さしめ、時限を定めて之が終始をなす、大抵其講を聽く者日に百五六十人に下らず、故に賃錢四貫五百文餘を得(*原文ルビ「き」は誤植。)て、衣食の資となし、遂に乏しからざるを得たり、今に至るまで帷を駒籠に下し、教授以て業となす者、必ず此賣講をなすは、其事金峨より始まると云ふ
金峨常に人に語つて曰く、物氏の學行はれてより、學者自ら處ること太だ高く、五尺の童も亦漫(まん)に先儒を議す〔是非を論ずるなれども重に其失を擧ぐ〕、而も能く宋儒諸家の書を讀み、心實に其非を知るにあらず、又物氏の書を讀み、心實に其是を知るにもあらず、其自ら物氏を奉ずと稱するもの、亦唯目二三の古書に渉り、甘んじて李王の奴隷となるに過ぎざるのみ、是れ何ぞ其物氏の學を奉ずる(*原文「奉する」を改める。)にあらんや、世の性理學を言ふ者、亦僅に小學、近思録の章句集註を講じて、朱子の何物たるを知らず、豈に之に類せずや、笑ふべきの甚しきものなり(*と)
金峨壁間(へきか−ママ)に父觀齋が手蹟〔筆蹟〕陳眉公の語を懸く、其語に曰く
静能ク動ヲ制ス、沈能ク浮ヲ制ス、寛能ク褊ヲ制ス、緩能ク急ヲ制ス(*静能制動、沈能制浮、寛能制褊、緩能制急)
謂く此四句の中、世間若干の事理を包藏す、以て自ら警むるに足ると、未だ曾て他の書畫を掲げず(*原文「掲けず」を改める。)
寶暦以降業を關東に唱ふる者、特に異説を立て、後生をして務めて穿鑿〔穴捜し〕をなさしめんとす、其意蓋し徂徠輩を壓倒せんとするに在り、亦見る所なしと謂ふべからず、而も曲を矯めて直に過ぎ、其論を持し説を立つる、小害なしとせず、之を老醫が病を看ること極めて多く、土地氣候を諳熟するに譬ふ、配劑〔藥の處方〕宜きを得ずと雖も、孟浪〔無暗杜撰〕人を殺すに至らず、但其利少しとなすのみ、金峨始めて其端を發し、片山兼山(名は世■(玉偏+番:はん・ばん:宝玉の名:大漢和21247)、字は叔瑟)關松■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)(名は修齡、字は君長)相繼ぎて興り、益新奇を好み、各一家を成す、先儒(せんじ−ママ)篤實謹嚴の風地を掃ひ、後生偸薄疎放の習天に滔(はびこ)る〔滔天は天に横溢す〕、而して今日に至るまで學問の博、聞見の洽、享元〔享保元禄〕の儒流(じりう−ママ)に過絶すること、日を同くして語るべからざるなり、儒林(じりん−ママ)に功なしと謂ふべからず(*原文「謂ふべがらず」を改める。)
金峨天明四年甲辰四月東叡王の駕に從ひ、日光山に登り、留ること數日、疽〔一種惡性の腫物〕背(はい)に發して坐起すること能はず、王有司に命じ、新に轎(きやう)の穩臥すべきものを作らしめ、數人をして病を護し、駕に先(*原文ルビ「さき」は一字脱。)ちて歸らしむ、是より先き王宅を不忍池の涯(ほとり)に賜ふ、時に屋舍の營造半にして、未だ全く成らず、家人劉藍溪(*多紀藍溪)が躋壽館に寓す、金峨此に病を養ひ、其六月十六日を以て歿す、享年五十三、先に青柳氏を娶り、再び武井氏を娶るも早く歿して子なし、常陸の人山田湛を養ひて嗣子となし、妻はすに女弟を以てす、湛亦王府に仕へて記室〔書記〕たり
金峨長壽ならずと雖も(*原文「雖と」を改める。)、其門下名士を出すこと極めて多し、尾崎稱齋(名は修、字は子成)蓋鳩陵(名は延壽、字は康伯)梅澤西郊(名は肅、字は惟艾)原狂齋(名は公逸、字は飛卿)篠本竹堂(名は廉、字は子温)菊地南陽(名は武愼、字は伯修)岡四溟(名は公修、字は世務)熊箕山(名は尚之、字は履善)吉篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)(名は漢官、字は學生)劉桂山(名は元簡、字は廉夫)下田芳澤(名は武卿、字は一甫)管東海(名は■(言偏+亘:::大漢和に無し)(*「言偏+旦」=たつ・たち:静かでない:35389、又は詛は大漢和に有り。)、字は子恭)龜田鵬齋(名は長興、字は穉龍)等の如き、皆經術(けいじつ−ママ)文章、或は宏覽博通を以て、世に稱せらる、其學流〔統派〕を崇奉する者今に至るまで世に絶えず
金峨甞て子弟を戒めて曰く、凡そ書を著すは前人の不足を補ひ、時俗の謬誤(びやうご−ママ)〔アヤマリ〕を正すに在り、方今の學者は流俗の好む所に徇(したが)〔從〕ひ、世の爲めに悦ばるゝものを取り、啻に利の爲めのみならず、又其名を併せて之を収めんと欲す、誠に憎むべしと、其著す所周易彙攻(*攷か。)、易學辯疑、尚書疑孔編、毛詩選説、三體斷、左氏筮説、孝經集説、論語集説、辯徴録、經義折衷、經義緒言、讀學則、霞城講義、學庸古義、師辯、匡正録、考槃謾録、病問長語、答問録、騎學正宗、情寃記、金峨焦餘稿等の如き、醇疾相半し、未だ盡く精ならずと雖も、皆其戒むる所に違はず、而して先修の及ばざる所を補(*原文ルビ「おぎ」は一字脱。)ひ(*原文「補び」を改める。)、時俗の謬誤(びやうご−ママ)を匡正するもの多し、其餘は未だ全く脱稿せざるもの、數種家に藏す


渋井太室伊藤冠峰原田東岳小川泰山奥貫友山山中天水片岡如圭井上金峨

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凡例
( ) 原文の読み 〔 〕 原文の注釈
(* ) 私の補注 ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字
(*ママ)/−ママ 原文の儘 〈 〉 その他の括弧書き