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芦野東山石塞軒新井白蛾龍草廬安達清河石作駒石沢田東江那波魯堂細井平洲

譯註先哲叢談(後編) 卷八


蘆東山、名は徳林、字は世輔、東山と號す、玩易齋、梅隱翁皆別號なり、通稱は孝七郎、奥州の人、仙臺侯に仕ふ

東山始めは巖淵氏、其先武州巖淵に居る、因りて地を以て氏とす、天正中六郎左衞門尉といふ者野州蘆野に移居す、更に又地を以て氏とす、子孫多く奥の磐井郡に在り、祖榮胤、通稱作左衞門、父は徳芳、通稱作左衞門、老後薙髪して一桂と稱し、世々農畝(のうほ)を業とす、須藤氏を娶り、數子を生む、東山は其第二子なり、元禄九年丙子十一月二十三日を以て磐井郡澁井邑に生る
東山四五歳にして頴悟、好んで稗史を見る、父之を奇とす、九歳の時山鹿素行の門人桃井素忠、通稱采女なるもの奥に遊ぶ、徳芳之を招ぎて家に寓せしめ、東山をして諸經の句讀を受けしむ、僅に一年にして、四書五經を讀了(とくれう)す、素忠深く其夙慧(*原文ルビ「しゆけい」は一字脱。)〔幼にして才智の開發せるもの〕を異とす
寶永七年庚寅六月始めて仙臺に遊び、富商大和屋久四郎が家に寓す、時に年十五、江戸の人吉田需軒といふ者府に在り、程朱の學を講じて、生徒に教授す、東山從ひて其講を聽くこと五年、平安に遊び、業を三宅尚齋の門に受け、長崎に之き、講説して徒に授く、其名稍や諸儒(しよじ−ママ)の間に顯はる、仙臺侯(伊達吉村)遙に召して儒官(じくわん−ママ)となし、禄百五十石を賜ふ、時に年二十六、享保六年辛丑の夏なり
享保中東山建議して府學〔藩立學校〕を設けんと請ふ、富商鈴木八郎左衞門なるもの、嘗て東山に學び、頗る書を讀み文を屬す、其事を聞き、金二萬兩を出して興造〔建築〕の費を助けんと請ふ、東山前の儒官田邊希文と與に、之を上太夫田村某、高泉某等に上言し、遂に國侯に上疏し、之が許可あり、是に於て區畫〔規模〕經營、宏大を極め、榱桷(すいかく)銅瓦、壯麗を窮む、三年にして成を告げ、■(匚+扁:へん:薄い・平たい・扁額:大漢和2689)(へん)して明倫堂と曰ふ、師長を立て、生員を置き、學政一に山崎氏に從ふ、仙臺府學の盛なる、他の諸州に過ぐるもの、實に東山及び佐久間洞巖が創むる所なり
東山資性剛直にして權要を避(*原文ルビ「さけ」は衍字あり。)けず〔權勢ある者に一歩も讓らず〕、時俗に徇(したが)はず、甞て學舍に於て、諸有司と其班次〔席順〕の高卑を爭ふことあり、東山悍然として〔手強く嚴然たる貌〕曰く、經筵の習儀は卿等を待たず、執法(しつはふ)太夫と雖も、此事あるなしと、有司答なくして去る、後之を銜み、劾する〔彈劾にて其非を申立つること〕に藩制を侮蔑し、舊典を遺棄するを以てす、遂に之に坐し〔罪に抵る〕て加美郡宮崎邑石母田長門の邸中に幽囚せらる、其囚處に在ること二十四年、寶暦十一年癸酉赦に遭ひて、郷里に放歸せらる、時に年六十六
東山幽囚せられて恨む所なく、無刑録十四編を著して、略秋官〔裁判官〕の遺意を述ぶ、其書世に傳はり、識者深意ありと稱す
東山晩年梅隱翁と號し、又仙臺に遊び、生徒に教授す、將に伊洛の諸書を校正し、府學より刊行せんとす、鈴木八郎左衞門剞■(厥+立刀:けつ:小刀:大漢和2190)〔彫刻出版〕の資を保管し、校定緒(ちよ)に就き、將に其業を爲さんとし、病に罹りて罷む
東山安永五年丙子六月二日を以て歿す、享年八十一、澁井邑深蘆山の麓に葬る、一男五女あり皆夭す、後妾一女を生む、後門人畑仲大中に嫁す、不幸にして嗣子なし、友人田邊希文墓表を撰し、黒澤東蒙實記を作る、以て其蹟(せき)を不朽ならしむるに足る


石塞軒、名は明誠、字は康介、塞軒(*さいけん)と號す、黄裳、確盧皆別號なり、晩年字を以て行はる、通稱は安兵衞、近江の人

塞軒の父則之、通稱は新五郎、家世々江州甲賀郡水口邑の人なり、同邑の宿谷氏を娶り、元禄十四年辛巳(*原文「辛己」は誤植。)四月十八日を以て、塞軒を邑(いう)の草廬〔茅屋に同じ〕に生むと云ふ
塞軒幼にして異稟(いひん)〔特殊の性質〕あり、頴悟(*原文「頴」の「示」を「水」に作る。)人に過ぐ、弱冠にして學に志し、自ら父に請ひて平安に遊び、業を三宅尚齋の門に受け、博く諸名士と交はり、講究年あり、遂に久米訂齋(名は順利、字は斷治)井澤灌園(名は剛中、字は子悦)と、號して三宅門の三傑となす、而して塞軒其魁(くわい)たり
塞軒甞て大洲侯の聘に應じ、豫州に至りて封彊(ほうきやう)〔領地内〕の政事を議す、百廢〔諸の衰絶したる事〕悉く興る、侯寓するに賓禮を以てす、士太夫及び國人皆矜式す、頃くありて親(しん)老いたるを以て辭して郷里に歸り、父母を奉養すること甚だ厚し、家に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)石の儲(たくはい−ママ)なしと雖も、時に隨ひて宜きを制し〔遣繰をなすこと〕、父母をして貧を以て憂(うれへ)となすことなからしむ、人皆其孝を稱す、是より先き老親堂に在るを以て、師に親炙するを得ず、其歿するに及び、田宅家財、悉く之を族人に付與し、單身平安に遊び、講説徒に授け、理を究め道を明にするを以て先務となす、尚齋其人となりを稱して曰く、確乎(かくこ)として〔シツカリしたること〕塞(さい)を變ぜざるの操(さう)あり、道義(*原文ルビ「だうき」は誤植。)に透了するに非ざれば、安ぞ能く此に至らんやと、後其説を書して以て贈(さう−ママ)となすに至る、遂に確を以て盧に名け、塞(さい)を以て軒に名く
寶暦癸酉の秋塞軒年五十三、始めて江戸に遊び、甞て仙臺侯の招(まねぎ)に應じ、孟子を其邸に講ず、侯禮遇尤も渥し、翌年戊寅(*「寶暦癸酉」は同3年、「寶暦戊寅」は同8年)の春阿波侯の聘に應じて之に遊事す、侯英邁〔俊傑〕人に絶(す)き(*ママ)、意を藩制に究め、聘を厚くし己を卑(ひく)くし、躬親(みづか)ら弟子の禮を執り、月俸六十人口を賜ふ、侯卿太夫〔重臣家老〕(*原文頭注「卿大夫」とする。)を視ること兒童の如く、悍然として自ら任ず、塞軒に至りては未だ曾て竦然(せうぜん)として〔畏れ愼む貌〕(*悚然か。)として敬を致さずんばあらず、其尊信(*原文ルビ「うんしん」は誤植。)の深き、封境の凋弊〔困疲〕、政刑の機密豫聞せざるはなく、其委任の極、竊に議して太夫に擢んで、委するに國政を以てせんと欲す、居ること數年、東山(*塞軒)俸(*原文ルビ「ぼう」は誤植。)を辭して再び平安に至り、三條白河橋南に居り、帷を下して道を唱へ、正學を開發(*原文ルビ「かいは」は一字脱。)し、異端を芟除(さんぢよ)する〔刈り鋤く〕を以て己が任となす、既にして侯施設宜きを失ひ、制度規なく、國政廢弛(はいち)す、識者稱して先見の明ありとなす
塞軒太極圖説に於ける、尤も其旨を研究し、太極圖説大意講義二卷を著す、甞て謂ふ、終身精力の寓〔寄〕する所なりと、再三稿を易へ、六十歳の後略編を成す、而も猶意に滿(*原文ルビ「みた」は衍字あり。)たずとなし、手づから之を火(くわ)すと云ふ、其三宅門に在るや、人評して性理斷治(だんぢ)、太極康介(かうすけ)と曰ふ
塞軒安永九年庚子正月二十一日を以て歿す、享年八十、門人禮を以て眞如堂の塋域〔墓地〕に葬る、福原氏を娶るも子なし、著す所太極圖説大意講義二卷、讀書摘講六卷、黄裳文集二卷あり、皆門人の竊抄(せつしやう)に出づ、其餘語孟經説數卷は散佚して〔チラハラとなりて失はる〕傳はらずと云ふ


新井白蛾、名は祐登 、字は謙吉、白蛾と號す、黄州、龍山、古易館皆別號なり、通稱は織部、後白蛾を以て通稱となす、江戸の人、加賀侯に仕ふ

白蛾の父祐滕は加州の人、淺見絅齋に學び、江戸に住す、妾某白蛾を江戸の下谷に生む、白蛾十三にして家庭に學び、又父の命を奉じて菅野兼山(名は喜字は直養)に師事す、兼山は三宅尚齋の門人にして、山崎氏の學を尸祝〔欽仰〕するものなり、白蛾年二十二にして帷を神田紺屋街に下し、講習を以て業となす、當時徂徠の徒漢魏の古學、明の李王の修辭を以て、一世を風靡し、能く之と抗するものなし、自ら其企(くわだて)及ぶ〔足をツマタツルも届かぬこと〕べからざるを知り、去りて關左の諸州に遊び、後平安に來り、衣棚押小路に居る、易説を研究し、占筮(てんぜい−ママ)屡奇驗あるを以て、其業一世に盛なり、號して古易の中興と曰ふ
白蛾既に易説を平安に唱へ、以て門戸を建つ〔一家を成す〕、生徒輻湊す、而して當時の儒流皆占筮(てんぜい−ママ)家を以て之を目し、其爲す所を賤む、嘗て芥丹邱に詣り、倶に易を論ず、丹邱名望あり、夙に家を成すと雖も、固より易學精しからず、王弼、韓康伯、程頤、朱熹等數家の説を擧げて、之と論談す、白蛾歴代百三十餘家を商■(手偏+確の旁:かく:打つ・叩く・占める・量る:大漢和12451)(しやうくわく)し〔品評論定す〕、其説の醇疵(じゆんし)を指摘し、悍然として曰く、魏晉の人は虚言〔空理〕に淆亂(かうらん)し、宋元の儒は性理に拘束せられ、皆易義に迂遠なり(*と)、丹邱之を然りとし、後著す所古易對問に序して曰く、白蛾氏の易學に於ける、微を顯し幽を闡し、悉く後儒(こうじ−ママ)の陋見(*原文ルビ「ろくけん」は誤植。)を破り、別に一家の旨を立つと、丹邱此言を出してより、儒流皆白蛾が易に精き、世の占筮者の類にあらざるを知る
古易對問既に成る、生徒競(あらそ)ひて書寫す、白蛾之を家塾に刻す、門人古維嶽字を校〔校正〕して白蛾に謂つて曰く、伊藤仁齋一家言を以て其學を建立(*原文ルビ「けいりつ」は誤植。)し、物徂徠亦然り、各前世に功ありと雖も、其時を去る僅に三四十年、其學を攻撃し、其書を辯駁する者、幾人なるを知らず、此書に於ても後世之を非斥する者あらん、然らば則ち當に一家言を以て之に名(なつ−ママ)くべし、一家言は素(*原文ルビ「もと」は衍字あり。)と人の毀譽を待たざる〔謙遜して私見といふが故に攻撃の衝に當らずとの意〕の謂なりと、白蛾喜んで之に從ふ
一家言刻成る、大阪の書賈星文堂之を發賣す、一千部を鬻了(いくれう)し〔鬻は賣〕、平安江戸の書賈、之を求むる者陸續として絶えず、更に一千五百部を販(ひさ)ぐ、未だ一年を終らずして二千五百部を販得し、産に資し業に給し、暴富を致す、嘗て白蛾に謂つて曰く、僕が家書舖(しよぼ−ママ)を業とすること、此に二世なれども、未だ斯の如く販賣の夥(おひたゞ−ママ)しきものあるを聞かず、是れ實に未曾有の盛事なりと、白蛾傲然として〔驕れる貌〕掌(しやう)を拊(う)つて曰く、嚮に江戸の書舖嵩山房、服南郭が校せる唐詩選を開刻す、其發兌〔發刊〕の初め、一千部を鬻了す、思ふに比年販ぐ所二三千に下らず、吾著實に斯と同じと、其傳播(でんばん−ママ)の廣きを自負す
白蛾中年の後、好んで和歌を詠じ、傍(かたはら)我邦の典故〔古典舊事〕に通ず、嘗て源白石が同文通考を考訂し、其遺漏を補ひ、以て世に刊行す、其序中に言へるあり、曰く

神武天皇は運鴻荒(かう\/)〔未開時代〕に屬し、時草昧〔無智蒙暗〕に鍾(しよう)す、聖徳能く四海を雍和〔懷柔親和〕し、生叡帝紘を恢弘し〔大にヒロム〕、天業以て永く、生民以て長し、應神天皇の御宇に至り、文道殊に布施(ふし)し、仁徳の朝廷天澤雨浹し、黎民益安し、履中の朝廷國史を置きて言事を紀し、天下の志を達す、文風漸く盛に、教化寢(や)や滿つ、而して文武の朝廷に至り、淡海公敕を奉じ、令十卷、律十二卷を制選し、則ち政教大に張り、文化丕(おほい)〔大〕に開け、王宮閭巷咸(こと\〃/)く學校の設(まうけ)あらざるなし、史を置き士を取るの法甚だ詳密なり、而して彼の三代の遺法、燦然として〔光り華やかなる貌〕此時に在り、且又釋典(せきてん)〔孔(*ママ)を祭つる禮〕(*釋奠)の禮、國學より閭里に至るまで、一として闕如〔缺〕あるなし、古人曰く、夫子〔孔子〕の道布きて我邦に在りと、亦信ならずや、而後星移り物換(かわ−ママ)り、上怠り下慢(あなど)り、政教日に弛び、文風月に杜(ふさ)がる、保元以降人々軍旅の事を尚び、仁徳擧(あが)らず、綱紀〔政治の大ツナ〕振はず、此日久しくして民物變ず、後世に■(之繞+台:たい・だい:及ぶ:大漢和38791)〔及〕び、國朝の人は國朝の昔を知らず、或は儒者と雖も、我邦往古學なきを以て之を稱す、亦愚ならずや、或は有識の士ありと雖も、一事一書を獲れば、皆家に秘して傳へず、獨り古に通ずるを以て、名を售らんと欲す、是亦非ならずや、是に於て上代の政教益廢し愈絶して知るべからざるに至る、白石先生此に見るあり、湮晦〔没了し暗幽となること〕を闡發し、和漢の文字の説に與かるものを取りて以て編をなし、名けて同文通考と曰ふ、啻に後進を益し、將來に寶たるのみならず、我邦上代の盛事、亦此に視るべし、然らば則ち、國に忠なる書と謂ふべし、不佞時々其遺意を拾ひ、之を古書に考へ、其徴す〔證として採り來る〕べきものあれば、取りて之を其後に補ふ、固より先生絶出(せつしゆつ−ママ)の徳を跂(き)〔企〕すべきものに非ず、唯此書を尊信するの餘のみ、其文稱するに足らずと雖も、志を我邦の典故に留むるは、亦以て嘉賞すべし
白蛾講説徒に授くるも、其時は未だ易を言ふ者あらず、之あるは僅に山崎闇齋の徒のみ、寶暦中に至り、岡白駒古周易解を著し、河田東岡周易新疏を著す、皆卦象(けいしやう−ママ)〔八卦の象〕を主とし、專ら占筮(てんぜい−ママ)を説く、白蛾其擧を傳聞し、人に謂つて曰く、某先生周易を註し、某先生易疏を著す、眞に東西周孔衆く、南北邵朱多しと謂ふべし、信なるかな、後生畏るべしとは、(*読点ママ)(*と)
白蛾易書數種(すしゆ)を著し、多く占筮を主とす、而して博く坊間に行はる、是に於て街衢に筮を賣る者〔大道の易者賣卜者〕、自ら白蛾の門人と稱し、斷易天機、焦氏易林等の書を擲(なけう−ママ)ち、俗書となして顧みず、故に復(また)擲錢(てきせん)、星命、飛伏、納甲、雜占(ざつてん−ママ)〔易以外の占法〕をなさずして、專ら卦象(けいしよう−ママ)を主とす、古易中興の稱是に於てか立つ、白蛾の易術は婦人小童も知らざる者なく、策を探りて〔筮竹を取ること〕物を占ひ、符を管郭に同くすと謂ふに至る、世の生剋(せいこく)を附會し、災緯(さいゐ)に牽強する者と異なり、白蛾自ら稱して、東方一の邵康節先生〔支那易學の大家〕を出し、象數(しやうすう)世に明なりと謂ふも可なりとなす、其自負の高きこと此の如し
白蛾花を東山に賞し、夜に入りて家に歸らんとす、途上詩を吟ずるを聞く、曰く
無聲無臭獨リ知ル時、此レハ是レ乾坤萬有ノ基、自家無盡ノ象ヲ抛チ去リテ、門ニ沿ヒ鉢ヲ持シテ貧兒ニ效フ(*無聲無臭獨知時、此是乾坤萬有基、抛去自家無盡象、沿門持鉢效貧兒)
と熟視すれば一老翁なり、白蛾問うて曰く、今吟ずる所の詩は翁の作る所なるか、將た古人の詩なるか(*と)、翁状貌秀偉にして常人に類せず、微笑して曰く、是れ王陽明が道を咏ずるの詩なり、子が易を好むるを知るが故に、偶ま之を吟ずるのみ(*と)、相與に易を談ずるに頗る理あり、同行すること數里、姓名郷貫を問へば、對へて曰く、東西南北の人、素より居趾〔住處〕を定めず、何ぞ姓名郷貫に及ばんと、告げず、遂に衣棚押小路の白蛾が家の門前に至る、白蛾之を家に延かんとすれども聽かず、辭して別れんとし、謂つて曰く、子心を易に留め、專ら象數占筮の説を以て家を成す、豪傑の士と謂ふべし、惜いかな、未だ伊仁齋、物徂徠の範圍を脱する能はず、夫の伊物の二家は前儒(ぜんじ−ママ)の成説を點竄〔添削更改〕し、前後を移易して以て己が書となす、世の學者幸に知らざる者多し、子易説數編を著し、皆二家の覆轍〔失錯の跡〕を蹈む、其小なるものは預からず、大なる者を言へば、古易斷の庚熙の周易折中に於ける、易學類編の中村明遠が易學要領に於ける、古易通の愈■(玉偏+炎:えん:削る・玉を琢く・美玉の名:大漢和21073)が周易集説に於ける、左國易説の毛奇齡が春秋占筮法易に於ける、皆前人の成説を剽竊して、以て己が所見となす、此四書は子常に研精して得る所となす、識者より之を視れば、猶穿■(穴冠+兪:ゆ・とう・ず:越える・穿つ:大漢和25582)(せんゆ)〔壁を破るの意〕の盜の如きか、豈に家言を以て自ら處(お)らんとするや、子盍ぞ諸を思はざるやと、快走〔疾走〕して去る、白蛾大に慚ぢ、自ら初年の輕しく諸書を著したるに懲り、彼の翁を以て、成都隱者(いんしや−ママ)の類となす
或は曰く、我邦の儒流は皆易學を究めず、大抵朱子啓蒙等の書に從ひ、異議あるなし、近世に及び河田東岡(名は孝成(、)字は子行、因州の人)水谷椎琴(名は君龍、字は起雲、備中の人)眞勢中州(名は達富、字は發賁、尾張の人)松井羅州(名は琿星、字は賚黄、浪華の人)片岡如圭(名は基成、字は平甫、京師の人)土肥鹿鳴(名は貫雅、字は秀太、江戸の人)皆易學を以て世に名あり、其筮儀は大同小異にして、各一家を構ふ、然も衆善を折衷し、己が所得を述ぶるは白蛾を以て、之が巨擘〔棟梁〕となすべし(*と)
白蛾寛政四年壬子五月十四日を以て、加州金澤に歿す、享年六十八、其易簀に臨み、和歌二首を賦す
老いつもる身はみしか夜のほとゝきす
なく聲ばかり殘るしのゝめ
假りの世ときけばいつくもしかならむ
心につもるちりをはらはめ
遺訣〔永訣の遺言〕に曰く、余少小より儒術(じじゆつ−ママ)を以て、古今を磅■(石偏+薄:はく・ばく:交じる・広く被う・充ち塞がる:大漢和24597)(ばうはく−ママ)し、漢宋を折衷して、所見を述べんと欲す、輕俊の質及ぶべからざるを知る、纔に管郭〔二大易學者〕の跡を追ひ、易術占筮を以て、一家の端を持す、固より以て其業を不朽にするに足らず、木(ぼく)に就くの後、敢て碑碣(ひかつ)を修むること勿れ、唯一片の墓石に法謚數字を誌せば足れり(*と)、後遺命に從ひ、其墓石に樂齋大道玄機居士の八字を■(金偏+雋:せん:のみ・刻む・穿つ・彫る:大漢和40924)(しゆん−ママ)するのみ、其墓は金澤野田山に在り
白蛾著す所易斷内外編、古易斷時言、古易通、周易精■(糸偏+褞の旁:うん・おん:くず麻・古いきぬ綿:大漢和27757)、古易精義、古易一家言、易學小筌、易學類編、廣易學必讀、梅花易評註、周易本義考、左國易説、周易啓蒙考、論語彙解、古文孝經發、詩書通考國字箋、小學疏義、老子形氣國名解、蒙求發、同文通考補、牛馬問、滄溟尺牘兒訓、唐詩兒訓、唐詩絶句解等あり、世人唯白蛾が占筮に精きを知つて、未だ六書及び國朝の典故に通ずるを知らず、余嘗て其書數種を閲す、中に就き論語彙解、唐詩兒訓等は頗る後進に裨益あらん


龍草盧、名は公美、字は君玉、中ろ名は元亮、字は子明と更め、再び舊に復す、號は草盧、又竹隱松菊主人、呉竹翁、明々■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)、緑蘿洞等の諸號あり、通稱は彦二郎、後衞門と改む、伏見の人、彦根侯に仕ふ

草盧の系は式部卿親王敦實より出づ、桂大納言經信の裔なり、經信の庶子俊頼、修理大夫橘俊綱に養はれ、伏見石井の里に居る、十二世の祖正五位下左衞門佐善則後崇光王貞成に、伏見月宮の館(くわん)に仕ふ、王子彦仁降誕の日に當り、善則之が爲に鳩嶺(はとみね)の神に祷る、通じて七夜なり、夢中神(しん)告ぐるに彦仁福を享くるの事を以てす、而して歸途現に登龍(とうりよう)の瑞〔吉兆〕を視る、幾くもなく彦仁稱光帝の崩せ(*ママ)らるゝに因り、入りて踐祚〔即位〕せらる、是を後花園帝となす、王喜んで曰く、是れ善則が忠誠の致す所なりと、登龍の瑞を視たるを以て、其姓を改(*原文ルビ「あらた」は一字脱。)しめ、賜ふに寶劍一口を以てせらる、子孫之を襲寶す、高祖親善伏見王の府に仕へ、兼ねて諸祠職を司る、從五位下に叙し、大和守に任ず、曾祖善祐、通稱は四郎左衞門出でゝ紀侯に仕へ、老後郷に隱る、祖善和、通稱秀左衞門始めて商を業とす、父善清、通稱彦兵衞茶事〔茶の湯〕を善(よく)す、台眞と號す、佐々氏を娶り、草盧を生む、享保十四年乙巳四月十一日を以て歿す、時に草盧僅に十一なり、母に養はる、聰慧にして奇氣を負ひ、頗る讀書を好む、門衰へ〔家零落〕祚(さ)薄し〔福分少し〕と雖も、常に文學を以て、家を起すの意あり
草盧母に養はるゝこと一年、家資殆ど盡き、衣食すること能はず、偶ま平安に製筆舖某といふ者あり、之を憐み、草盧を其家の養子となさんと欲し、之を母に請ふ、是に於て平安に移り、商賈に服事す、母寡を守りて郷に在り、毎月之が爲に資を贈る、嘗て思郷の詩を作りて曰く

總角家ヲ辭シテ洛陽ニ客タリ、秋風一望白雲長シ、歸心蓴鱸ノ美ナルガ爲メ(*ナラ)ズ、衰白ノ慈親故郷ニ在レバナリ(*總角辭家客洛陽、秋風一望白雲長、歸心不爲蓴鱸美、衰白慈親在故郷)
時に年十三なり
草盧商に服してより、生産豐富、家資亦窘(くるし)まず、衣食の奉養曩時に異なり、然も什一〔商賈の業十に一を取る〕を以て世に居るを欲せず、簿書計算の暇、經史を研究し、誦讀既に遍し、嘗て宇明霞に謁し、其誨督を受け、好んで唐明諸家の集を讀み、心を詩歌(しか−ママ)に留む、明霞資性■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)密〔周到〕、加ふるに卓絶の才と宏覽の學を以て海内を睥睨す、其人固より世に高(*原文ルビ「かた」は誤植。)し、嘗て草盧が經義を研精せず、徒に浮靡の虚文を事とするを見て、其人となりを厭薄し、之を拒絶〔破門〕す、草盧大に憤り、終身未だ嘗て明霞を一見したる事を言はず、自ら稱す、學常師なしと、元文中業を改めて儒となり、帷を烏丸に下して徒に授く、時に年二十五
草盧の性格は寛緩〔ユルヤカ〕疎脱〔放逸〕にして、謹厚の質なしと雖も、頗る温雅の風あり、才思秀麗にして衆技を博綜す、兵鈴(へいれい)〔軍學〕を織田梅咲(名は茂倫、字は子錐)に受け、其奥旨(おくし)を究む、又國學に精しく、和歌和文を善(*原文ルビ「よ」は一字脱。)し、兼ねて楷草に巧なり、聲價當世に聞ゆ、從遊の衆く、推尊の高き、當時平安の諸名家、能く之と比する者なしと云ふ
草盧常に諸葛武侯と陶靖節〔陶淵明〕との人となりを慕ひ、謂つて曰く、吾出ては則ち武侯となり、處しては則ち靖節とならん、而して武侯の如きは時其時にあらず、甘んじて靖節たらんかな、而して二頃(けい)の田(でん)〔蘇秦の成語〕口を糊すべきなく、宅一區の身を置くべきなし、故に草盧〔孔明〕を以て號となし、松菊〔淵明〕を以て居に名くと
草盧業を平安に唱ふること殆ど二十年、詩歌を以て主となす、徂徠を尸祝し、其説に左袒すと雖も、歩趨〔趣向〕時流と異なり、赤羽の服南郭、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)洲の高蘭亭、萩府の縣周南等の輩と排擯〔擯斥〕し、陳腐(ちんふ−ママ)、■(食偏+丁:てい・ちょう:貯える:大漢和44024)■(食偏+豆:とう・ず:食物を並べる:大漢和44179)(ていたう)にして、模擬中の又模擬なるものとなす、唐に於ては李青蓮、岑嘉州を推し、明に於ては劉青田、謝四溟を尊び、別に機軸を出す、門下の士伏見の香居敬(字は簡敬、蓬■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)と號す)平安の大江資衡(字は遲圭、玄圃と號す)岡崎信好(字は師古、廬門と號す)幡君英(字は文華、大室と號す)李景義(字は汝質、蕣園と號す)越前の室聚(字は士錦、春■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)と號す)浪華の左士詢(字は子岳、海門と號す)淡海の荒忠俊(字は孟彦)美濃の源孝衡(字は襄平、春川と號す)江東の釋凍滴(豹隱と號す)之を幽蘭社の十才子と謂ふ
幽蘭社十才子の名遠邇に傳播(でんばん−ママ)す、當時詩社を以て世に聞ゆるもの、服蘇門が長嘯社、江邨北海が賜杖堂、片北海が混沌社、安清河が市隱(いちいん−ママ)堂あり、藝園に遊ぶ者、之を知らざるなし、時に幽蘭社は混沌社と尤も世に著はる、或は草廬に謂つて曰く、近時木順菴の門下十才子の稱あり、伊仁齋に四傑五藏あり、物徂徠に七才子あり、俊髦〔卓偉〕の士相從ふこと雲の如し、今先生の門下十才子の稱あり、唱和の任孤ならずと謂ふべし(*と)、草廬笑つて曰く、浮屠の人あれば、所謂九人のみ(*と)
草廬平生師道の嚴■(勵の偏:れい・らい:厳か・厳めしい・厳しい・励ます:大漢和3041)を以て、子弟を拊循(ふじゆん)〔撫育〕するの意なし、遂に訶責(かせき)の言なく、調和遜言、名位を以て物を格〔律の如し〕せず、陽には穎脱寛敞〔緩濶〕、眞に任せて自得せしめ、以て後進を誘掖するに似たり、陰には情を矯め〔心の欲する所を抑ゆること〕意を屈し、容を人に取る、青衿白面、門下に寓すと雖も、學術を以て心に留めず、自ら無状(ぶじやう)〔行の修まらぬこと〕無頼の人となる、當時有志者之を指笑して遊亂社と曰ふ、遊亂と幽蘭と同音なるを以てなり
草廬人の需(もとめ)に應じ、文を作り字を書する毎に、必ず謝儀の多少を定めて、而後思を構へ稿を起す、其謝儀財幣、速に入らざれば、輕諾するも果さず、偸懶〔怠惰〕之を置く、人來りて之を促せば、未だ全く成らずと言ふ、故に墓誌、碑銘、題跋、序記の諸文を請ふ者、速に其成らんことを欲せば、先づ謝儀財幣を以てし、而後其事を請ふ、諸儒(しよじ−ママ)其貪〔多慾〕を譏るも、草廬自若として曰く、耕■(耒+憂:ゆう・う:種を蒔いて土を被せる・鋤:大漢和28993)(かういう)〔鋤〕に代ふるに筆硯を以てす、何ぞ以て累〔煩〕となすに足らんやと、更に校せず、同時江北海日本詩選を著す、時人語りて曰く「錢ヲ納レテ選ニ入ル江君錫、價ヲ待チテ文ヲ作ル龍子明(*納錢入選江君錫、待價作文龍子明)」と、蓋し當時浮華風をなし、輕薄習をなし、人々虚驕を事とし、名を好むの徒、詩稿を以て採擇を請ふ者あれば、北海其請に從ひ、必ず刻費〔彫板費〕と稱し、若干錢を取り、而後僅に一二首を採りて之を選中に収む、故に此語あり、君錫は北海の字なり
草廬は寛延三年庚午を以て、彦根侯に遊事して月俸を受く、身は猶平安に在り、後七年にして第宅(だいたく)〔屋敷〕を城中に賜ひ、彦根に移住せしめ、恩禮頗る優なり、毎月一六の日、經を正廳に講ず、侯朝服して之を聽く、上卿士より下は小臣に至るまで、講筵に侍するもの凡そ六百人許、兩階の間に■(宛+鳥:えん・おん:鳳凰の一種:大漢和47023)班鷺列(えんはんろれつ)す〔■(宛+鳥:えん・おん:鳳凰の一種:大漢和47023)鷺二鳥の如く列坐す〕(*朝紳の行列)、蓋し彦根茅土(ばうど)〔封を受くる初〕より以降、封内文學の盛なる、未だ曾て有らざる所なり
草廬家を彦根に移さんとす、洛攝の諸友送別の詩あり、門人香居敬をして之を編輯せしめて二卷となし、名けて綰柳編と曰ふ、明和庚辰侯に從ひて京に入る、義故門人又送別の詩文あり、門人遠景陳をして之を編せしめ、二卷となし、名けて晝(*畫か。)錦集と曰ふ、又門人某をして孔文雄(字は世傑、生駒山人、河内の人)と唱和せる詩若干首を採録せしめ、名けて龍孔損■(竹冠+虎:こ・く・ち:大きな竹の名:大漢和26132)集と曰ひ、世に刊行す、有識者皆之を非笑し、以て誇驕浮靡(ふひ−ママ)、名を賣るの甚しきものとなす
草廬浮靡を以て、譏を諸儒の間に取ると雖も、其流風餘韻は磨滅すべからざるものあり、三都の所謂書畫會、春初發會(はつくわい)、著作會の類、今に至るまで世の口を文藝に糊(こ)する(*原文「糊なる」を改む。)者、用ひざるを得ず、而して皆之を便とす、其事草廬より始まる
草廬嵯峨に遊び、賣酒舖〔料理屋〕に飮む、酒舖の主人其字を請ふ、乃ち一聯を書して曰く、「釀成ス春夏秋冬ノ酒、醉倒ス東西南北ノ人(*釀成春夏秋冬酒、醉倒東西南北人)」と、主人大に喜び、諸を門上に懸けて、招望〔看版〕となすと云ふ、是より先き賣酒樓未だ此の如き文字を以て、招望となす者あらず、其他娼樓、肉舖、茶肆、麺店の類、横■(匚+扁:へん:薄い・平たい・扁額:大漢和2689)〔額〕を出し、柱聯〔門頭の左右に掛くる細長きもの〕を懸くることは皆草廬が好事に■(日偏+方:ほう:明らか・まさに・はじめて:大漢和13796)(はじ)まると云ふ
草廬六十一歳にして壽藏〔生存中の石碑〕を江東の千鳥岡に建つ、碑石の背鏤(はいろう)するに一首の和歌を以てす、歌に曰く
高き名も千鳥が岡に留めけり
なき世の友をまつのしたがけ
蓋し千鳥岡には道を挾(さしはさ)んで松樹多し、句中此に及ぶと云ふ
草廬彦根に在ること十八年、安永四年乙未の秋を以て、上疏骸骨を請ひ〔退職を請ふ〕(*頭注「乞ふ」とあり。)、再び平安に歸り、鴨河四條畔に僑居す、幾くもなく草堂を下河原の菊谷に築き、門を杜ぎて客を謝し、專ら著述に從ふ、晩年に及び深く其浮名を慙ぢ、文を請ひ書を求むる者ありと雖も、辭して應ぜず、甞て河内の橘子仲に與ふる書中、壯年の際、時習(ししふ−ママ)の爲めに誤られたるを極言す、今其略を此に摘(*原文ルビ「つま」は衍字あり。)まん、曰く
不佞が如き生來一技の述ぶべく、一長の稱すべきものあるなし、而して叨りに儒名(じめい−ママ)を平安に竊み、生徒を鳩(あつ)〔聚〕めて經藝を講ず、乃ち誤りて藩主虚左〔上席に置く〕の遇を辱くし、乏(とぼしき)を教授の任に承く、是に於て虚名益四方に傳播(でんばん−ママ)し、刺(し)を投じて至るもの陸續として絶えず、不佞既に其浮靡を知ると雖も、勢ひ之をして然らしむ、峻拒(*原文ルビ「しゆんきき」は誤植。)する能はず、然も内(ない)に顧みれば才識朽鈍、不學無術、所謂羊質にして虎皮なるもの〔内部劣りて外觀のみ立派なること〕(*原文「虎文」を頭注により改める。)、深く其人となりを愧づ、且つ李杜の詩、鍾王の書も、經世に裨益なし、足下若し志を立てなば、意を經術に留め、文墨の些瑣に從事して、時習(ししふ−ママ)の誤る所となる勿れ
草蘆(*草廬)壯年の後より臨池の癖あり、李北海、趙松雪を模傚す、然も其書體婉麗〔柔和華美〕にして軟弱なり、清客程赤城之を評して以爲く、婦人の書に似たりと、頃者釋慈周が詩鈔を閲するに、龍某先生の遺墨を觀るの詩あり、曰く
何年個ノ秋蛇ノ手ヲ將テ、寫就ス風前春柳ノ枝、晩年家ヲ移ス録事ノ巷、或ハ應(*ニ)舞ヲ觀テ腰支ヲ得ルベシ(*何年將個秋蛇手、寫就風前春柳枝、晩年移家録事巷、或應觀舞得腰支)
二十八字にして草廬の書體を状盡(じやうじん)す〔形容し盡す〕と謂ふべし、(按ずるに録事巷は花街の名なり)
武欽■(遥の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)(字は聖謨、梅龍と號す)芥煥(字は彦章、丹邱と號す)片猷(字は孝秩、北海と號す)赤松鴻(字は國鸞、滄洲と號す)僧顯常(字は大典、蕉中と號す)等皆宇明霞の門より出づ、各經術文章を以て、後進の領袖たり、草廬之と交はり、謙遜己を恭しくし、一言も發する能はず、唯謹むのみ、五人草廬を視ること至りて卑(ひく)く、謂(おもひら)く以て與に短長を較ぶる〔倶に爭ふ〕に足らずと、草廬明霞の故を以て、竊に之を諱忌(きき)す、其名典二詮を著すに及び、大に明霞を駁して曰く、士新の學多く物子に激するものあり、蓋し此時に方り物子古學を東府に唱へて、四方を風靡し、敢て之を是非(しび−ママ)するものなし、士新偏執〔偏頗固着〕拗戻(えうるい−ママ)〔ネジケたる〕、其の斯の如くなるを憤(いきどふ−ママ)り、一に物子を排撃するを以て己が任とす、其論語考を著すに當り、單句隻行と雖も、物子を貶斥せざるものなし、然りと雖も其才學實に物子の倫にあらず、其逮ばざるもの遠し、故に其説く所固より一定の見なし、諸を拔城略邑して、自ら保つ能はず、退きて舊窟〔古穴〕に據るに譬ふ、此れ士新の士新たる所以なりと、片猷之を見て曰く、黄吻兒〔嘴の黄色なる雛鳥即ち小兒〕強ひて語を學ぶ〔口眞似す〕と
草廬寛政四年壬子二月二日を以て歿す、享年七十八、東山の菊谷高臺寺に葬る、著す所毛詩詮、論語詮、名詮、典詮、貴貞志、日本詩刪、仄韻礎、唐詩材、辭略、伏水誌、舊葉、呉竹談、海人棄草、南遊草、龍氏筆乘、草廬詩集、同文集、同尺牘集、同和歌集、同和文集等あり、(按ずるに墓表に正徳四年甲午年生るとあれば、此に至る七十九年なり、其七十八といふもの蓋し一年差(たが)へり)
草廬の妾菅氏、名は貞香、字は芳卿、小蘭と號す、河内の人、頗る草隸を善くし、又詩歌を善くす、其詠史に曰く
六王既ニ畢リテ人寰ニ帝タリ、威ハ振フ四夷ト八蠻ト、識ラズ車駕巡狩ノ日、鮑魚能ク蒼生ノ姦ヲ遏ムルカヲ(*六王既畢帝人寰、威振四夷與八蠻、不識車駕巡狩日、鮑魚能遏蒼生姦)
極めて氣骨あり、口吻〔語氣〕臙脂(えんし−ママ)〔ベニ(、)轉じて婦女〕の態あるに似ず
長野豐山が松蔭快談に云く、明の七子を學びて、極拙極劣、妄に詩名を竊むもの、龍草廬の類是なり、宋詩を學んで宋詩を解せず、多く生字〔ナマにて圓熟せざること〕を用ひて、其拙を掩ふものは僧六如の徒是なり、故に曰く、眞才實學、性に本き情を求むるものに非ざれば、未だ與に詩を言ふべからす(*ママ)と、旨(むね)あるかな、斯言や、啻に二氏の輩を■(石偏+乏: : :大漢和 )針(へんしん)する〔針を打ちて刺戟す〕のみならず、抑も今の詩名を世に得たるもの、宜く此に省みるべし、然らずんば百歳の後草廬たらざるもの殆ど希なり


安清河、名は修、字は文仲、又以て通稱となす、清河と號し、又市隱詩社と號す、下毛の人

清河の先出づる所を詳にせず、六世の祖資榮なるものあり、世々下毛牧野邑の巨族たり、天正中利根信俊なる者の爲めに害せられ、其地を失ふ、其子榮雄弟小次郎關八州に流落し、名を更め形(けい)を變じ、竊に信俊の所在を訪索(ばうさく)し、之に伊豆の三島に遇ひ、伎戯を以て近き、聲を鳴して〔名乘を揚げる〕刄(じん)を揮ひ、遂に讐(あだ)を報ずることを得たり、後武州忍城に遊び、成田下總守氏宗に仕へ、幾くもなく其下毛烏山に封を移すに及び、之に從ひて下毛に至る、榮雄頗る道家者流〔山伏〕の學を好み、慶長中道觀〔山伏の居る寺院〕を牧野邑に置き、自ら其祀を司り、聖護院に隸屬す、後安達を以て氏とす、盖し信俊を殺すの仇を避くるなり、傳へて玄孫頼榮に至る、之を清河の父となす、伊藤氏を娶り、二男二女を生む、伯亮榮家を嗣ぐ、叔は清河享保十一年四月二十七日を以て烏山に生る
清河七歳にして詩經(しけい)の句讀を兄亮榮に受く、尤も詩を讀むを好み、高廷禮が唐詩正聲、李于鱗が詩刪等を誦じ、數十首を暗記すること、殆ど老成人の如し、人皆神童を以て之を稱す
清河年十四、同州の千本里玉泉觀の司祀某死して嗣(つぎ)なし、其族清河を兄に請ひて祀事を司らしむ、因りて玉泉院法印と號し、名を有慶と稱し、所謂兩部の神道を研究す、然も我邦の道家なるもの巫覡(*原文ルビ「ふけん」は誤り。)と伍をなせば、甚だ之に處するを好まず、是時に當り關東の服南郭、關西の縣周南文章詩歌を以て名聲を振揚す、南郭門下の士鵜士寧、石仲縁詩名最も顯はる、清河心竊に欣慕〔景仰〕す、偶ま郷里の僧實踐なる者あり、江戸に遊び、士寧が家に寓す、清河自ら詩若干首を抄録して、實踐に託し、點竄を士寧に請ふ、士寧實踐に謂つて曰く、此の如き人才は吾が斧正〔刪潤〕する所にあらずと、之を南郭に示す、南郭も亦大に之を奇とす、是より芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社中に名を知らる
清河法印の職に居るを好まず、江戸に遊びて士寧に謁す、士寧は豪爽(がうさう)(*原文「豪夾」は誤植。)〔磊落〕高簡〔氣位の高きこと〕にして後進を蔑視し、其許可を與ふる者〔才學を認むること〕極めて少し、而も甚だ清河を愛し、其家に門客となし、業を南郭に受けしむ、而後經義を松崎觀海に問ふ、南郭之を不可なりとして曰く、吾既に子が才を奇とす、凡そ業は專門ならざれば、大成し難し、愼んで多端〔種々の科〕を攻むる勿れと、清河是に於て心を詩に專(もつぱら)にし、詞藻日に以て進む、時に年二十一なりと云ふ
清河士寧が家に寓すること八年、必ず正五九の三月を以て郷に歸り、祠事をなす、後其煩を厭ひ、姪(てつ)俊明をして玉泉觀の司祠を嗣がしめ(、)或は江戸に來り、或は諸州に遊び、居趾を定めず、三十八歳にして妻子を携へ、江戸に移り、淺草聖天街に僑居す、後家を萱葉街に築く、其居市陌(しはく)囂塵(かうぢん)〔雜沓紅塵〕の中に近し、士寧因りて題して市隱堂と曰ふ
中年以後、芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社中の諸子漸く凋盡し、清河特り服門親炙の人を以て、世に存す、是に於て貴介公子より草野野夫に至るまで、四方より麕至(きんし)〔群集〕し、其業を受けんと請ふ者絶えず、明和中谷玄圃と其名を齊くし、人呼んで■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)洲の二大家となす、玄圃も亦■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)洲に住せり
清河平居華麗を好まず、躬(み)瀚濯(かんたく)の衣を服し、諸器財を玩ぶ所なく、務めて儉素を事とし、殆ど吝(りん)に近し、唯南郭の忌辰に當りては、香花(かうくわ)資銀を菩提院に納め、更に社中の諸友を招(*原文ルビ「まん」は誤植。)き(*ママ)、美供佳設、頗る豐贍〔十分充備〕を極め、歡を盡して罷む、此の如きもの二十年一日の如しと云ふ
清河壯年の際、名山に遊ぶを好み、足跡天下に遍く、其集中記行の作多し、晩年脚疾を獲て、行歩(かうほ)自由ならず、之を招ぐ者轎輿(きやうよ)を以てするより、其煩に堪へず、一概謝して行(ゆ)かず、王侯貴人(きじん)と雖も、業を請ふ者には躬親(みづか)ら其家に詣り、籃駕(らんか−ママ)鞍馬聯列し、喧囂雜閙(さつたう)、皀隸(*原文ルビ「ばうれ」は一字脱。)〔奴僕〕數人門外に鵠立(かうりつ)し、委巷〔陋巷〕之が爲めに狹窄〔セバマル〕となり、比隣之を憂ふ
清河同邑の藤平氏を娶り、五男一女を生む、二子有恒、字は士芳、二十五にして歿す、三子維和、字は士厚、十七にして歿す、五子良雄、字は士視、十三にして歿す、皆詩歌を善(*原文ルビ「よ」は一字脱。)す、女子は石井氏に適き〔嫁(*ぐ)〕、其餘は皆夭す、或は養うて嗣となさんと請ふ者あるも、清河可かずして曰く、吾郷を去るの日、既に嗣を立つ、吾將に其祀を享けんとす、且つ二三門人のあるあり、溝壑〔ドブ(、)谷底〕に委棄せられざるを知ると、竟に嗣を立てず
清河寛政四年壬子正月を以て疾に寢(しん)し、閏二月六日に至りて起たず、享年六十七、其病革まるに及び、門人佐維章、滕元充、繩惟直を召して喪事を主(つかさど)らしめ、且つ命じて曰く、吾根君美と同調の誼(ぎ)あり、屬するに碑誌を以てし、松芳文は社中に於て書名あり、之を書せしむべし、又著述の稿本數種を以て、三子に屬し、言終りて歿す、著す所東毛紀行、東海遊嚢、相中紀行、詩準、詩典、市隱草堂集等あり、其餘向風草前後編、大東地名考、市隱草堂集遺編あり、皆門人の輯録に出づ


石作駒石、名は貞、字は子幹、駒石と號す、通稱は貞一郎、信濃の人、州の福島山村氏に仕ふ

駒石は甲斐武田氏の臣、原準人(*隼人か。)佐政有の裔なり、父は厚■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)、母は桑原氏、厚■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)は山村使君の世臣たり、厚■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)の兄某事に坐して禄を失ひ、厚■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)は其族に養はれ、久しく尾の名古屋に在り、享保中赦に遭ひ、再び福島に來り、禄を半(はん)にして復た仕へ、寶暦丁丑を以て歿す、時に駒石年十八、禄を襲ひて近侍となる、山村氏の冢子〔長男(、)嫡子〕名は良由、字は君裕、蘇門と號す、少くして文學を好み、駒石が人となりを愛し、勸むるに讀書を以てす、始めて郷先生に從ひ、四書の句讀を受く、時に年十九
駒石既に學に志し、僻邑〔片田舎の村落〕に良師友なきを憂へ、明和三年丙戌春桑名に適き、南宮大湫に學ばんと請ふ、山村氏之を許し、其給資を厚くして行かしむ、駒石學に志すの晩きを悔ゐ、日夜誦習して怠らず、寢食共に廢す、其學大に進み、戊子の歳福島に歸る、邑の子弟從ひて學ぶ者多し、是より山村氏愈敬愛を加ふ
福島邑は本と尾州の附庸〔附屬地〕にして、山村氏數世土豪を以て之に據り、其關門守職を奉ず、尾の府下に山村氏朝宿の館あり、安永丙申十月山村氏駒石をして館の留守たらしむ、館事大に理〔治〕まる、暇あれば出で府下の諸子と、文學を以て交はる、其名稍や士林の間に聞ゆ
天明中福島の諸邑(*原文ルビ「しういう」は誤植。)、水災ありて稻麥登(みの)らず、是に於て邑納(いうなう)入らず、財用足らず、山村氏駒石が吏才あるを知り、擧げて邑の計吏となす、盡(こと\/−ママ)く其爲す所に任せ、出納を料理せしむ、駒石謂 (おもひら−ママ)く用を足し財を富すは節儉に在り、節儉の期する所負債を償(つくな−ママ)ふに在りと、建議して諸費を省畧(せいりやく)し、專ら質素を以て先務となす、三年にして而後邑中之が爲めに匱(とぼ)〔乏〕しからず、邑の富民先づ貨を納るゝ者相謂つて曰く、石作先生は忠直の人なり、我君委するに管計〔會計主管〕を以てす、先生此職を司りてより、僅に三年、荒散を招撫し、徭役〔官用の人夫役〕を■(益+蜀:けん・けい・け:明らか・払い除く・直る:大漢和33873)〔除〕復(けんふく)(*「けんぷく」=租税を免除する)し、先に我納るゝ所の十の二三を償(つくな−ママ)ふ、我輩數世此地に住し、稱して土豪となす、豈に其功を助け其勞を分たざるべけんやと、相偕に官署に至り、舊券〔古證文〕を燒き、別に貨を納れんと請ふ、其燒棄する所の券書數十通、其滯貨の額四千二百兩、是に於て山税市租、均しく収支をなし、財用大に足り、上下大に悦ぶ
駒石寛政乙卯の秋を以て、母桑原氏を喪ひ、哀毀骨立(*原文ルビ「こつりつ」は誤植。)す〔悲哀の極痩せ衰へて骨ばかりとなる〕、然も山村氏職務闕くべからざるを以て、奪情〔無理に哀情を捨てしめる意〕起復せしむ、斯時駒石既に室老たり、治下の擧措其手に決す、故に強ひて立ちて事を幹し、衰疲を以て邑政を廢せず、翌年丙辰正月十四日に至り、病んで歿す、年五十七、著す所翠山樓集、莫逆集、勸學言志編等あり


源東江、名は鱗、字は文龍、東江と號す、來禽堂、萱舍、青羅舘皆別號なり、澤田氏、通稱は文治郎、江戸の人

東江の家世々商を業とす、東江に至り始めて學を好み、少くして操尚〔志〕を立て、文學を以て當世に振揚せんと欲す、經史を講究し、力學(りよくがく)すること數年、然も自ら時流の門牆に入るを恥ぢ、敢て贄を人に執らず、但墨癖〔書を好む〕あり、運筆(うんひつ)の法を高頤齋(*原文「頤」の左に「丿」〈のめ〉を付す。)に受く、頤齋は玄岱の子にして、書を以て時に名あり、其筆法明の王履吉より、三傳して玄岱に至る、頤齋其術を受けたるなり、東江傳流の淵源あるに服し、講經の暇專ら其法を學び、尤も草隸に巧に兼ねて六書に精し、年四十を過ぎて王氏の書法古法にあらざるを知り、自ら晋代を模し、二王を崇奉し、別に一家をなす、其人世の所謂書家者流にあらずと雖も、著聞喧傳し、書名の爲めに掩はれ〔隱れ〕、世人今に至るまで其經學文章の一世に翹楚たる〔冠絶すること〕を知る者なし、甚だ惜むべきのみ
東江性施與を好み、些(すこし)も吝惜せず、來りて窮を訴ふる者あれば、新舊を論ぜず、之を賑恤し〔惠み濟ふ〕、意を傾けて救援す、門下に寓する者常に數十人、家之が爲めに貧し、然も以て憂となさず、曰く有無(うむ−ママ)相通じ、衆寡相均しくするは天の道なりと
東江壯年の時、故あり平を姓とし、麟を名とし、東郊と號す、當時皆平麟と呼ぶ、甞て林公鳳谷の門に入り、程朱の學を攻め、性理の説を研究す、後又木■(三水+擅の旁:せん・てん:ここは人名:大漢和18416)洲(*鈴木吉明の号)、山縣柳莊と與に、漢魏の古註を講習す、經義別に一格を構ふ〔一派をなす〕、蓋し其學を傳ふるものは豐島由巳(名は幹、字は子卿)芝■(三水+文:ぶん・びん・もん:山の名〈=岷山〉:大漢和17168)嶺(名は央、字は子華)(*芝田央、■嶺)高華陽(名は閔眞、字は正卿)等是なり、又兼ねて畫及び篆刻を善くし、聲價一時に高し、明和中舊姓に復す、是より先き命あり、幕府の御書(ぎよしよ)の寶章を篆じ、白銀を賜ふ、列相〔閣老〕館林侯武元(松平右近將監)甞て東江に謂つて曰く、鱗(*麟)の瑞たるや龍(りよう)なりと、是より以後名は麟、字は文龍と改む、其兩國橋畔の箭倉(やくら)に居るを以て、人呼んで東江先生と曰ふ、是に於て東郊を更めて東江となすと云ふ
東江膂力〔力量〕あり、能く米一苞(はう)を擧ぐ、明和壬辰の火災井金峨の居延燒に罹る、家柳塘(やなぎは−ママ)和泉橋に在り、東江疾馳して其家に至れば、金峨及び家人既に逃れ、門人奴僕(*原文ルビ「どばく」は誤植。)尚家に在りて、財具を運(うん)し去る、東江家具の最も貴重なるものを撰びて持出(いだ)さんとす、火既に延きて屋を燒き、焔煙(えん\/)漲りて響邇(きやうじ)す〔向ひ近く〕べからず、米八九苞積んで厨下に在り、乃ち二苞を挾(さしはさ)んで出で、之を樹下に置き、更に二苞を提(ひつさ)げて逃れ、以て火を免れしむと云ふ
東江容姿甚だ美なり、少壯の時放誕〔不檢束〕不覊にして、生産を事とせず、花街に徘徊し、留連數日、資盡きて歸る、甞て名妓某に指注〔懸戀〕せられ、柳橋美少年の稱あり、北里の娼妓其名を知らざる者なし、其學既に成りて世に顯聞するに及び、舊時の故を以て、娼家の富豪爭ひて延致し、詩書を求むる者踵ぎて至る、東江辭せず、輕諾猥交し〔雜輩と交はる〕て、流輩を傾動し、更に人を擇ばず、傳説者益多し、東江謂く、後人(*原文ルビ「こんじん」は誤植。)の吾を知るは固より此に在らずと
東江年二十九、書範四編を著し、時流の習弊を譏斥す、其言臨池家の爲めに之を發すと雖も、持論正當、識見透徹〔奥底に達す〕、其體例略徂徠が學則と趣意を同くす、蓋し古に復して後世の陋説を一洗するに在り、當時其言を疑ふ者極めて多し、皆以爲く辯を好む者なりと、源子亮に答ふる書中、其辯を好むにあらざるを言ふ、縷々數萬言、其略に曰く

不佞幼にして書を讀むを好む、詩書古經而下孟荀の傳ふ(*る)所、頗る堯舜三代の道如何を知る、此れ吾が志す所なり、書は吾豈に敢てせんや、然も墨癖あるを以て、古人の書論を讀み、又古人の遺跡〔筆蹟〕を觀ること、此に年あり、遂に魏晉の人が字を作るの法を知る、不佞僻惰(べきだ−ママ)なりと雖ど(*ママ)も、亦人意あり、豈に彼が求むる所を以て、吾嗜(たしみ−ママ)に供するを欲せざらんや、書範の如き、諸生來問の意に酬ゆるのみ、其神韻の存ずる所、裁量〔裁斷酌量〕して視るべし
東江の六書に於ける、博考詳究、力を用ふること甚だ勤む、其漢晉唐宋の金石遺文に於ける、訪索(ばうさく)殆ど盡き、収藏も亦頗る富む、又我邦中世の殘碑斷碣(かつ)に於て、窮捜(*原文ルビ「きうさく」は誤植。)磨搨(またう)〔紙に擦ること〕し、眞僞を審度して之を辯定し、殊に影鈔〔摸寫〕鉤字(かうじ)に長ずと云ふ
東江款識に精しく、金石の刻、人々品題を望み、造請(ざうせう−ママ)〔訪問請求〕する者間(かん)なし、収藏の家片言隻辭も得て以て寶となす、隨ひて其遺墨天下に布き、尺素(せきそ)短札殊に多し
東江寛政八年丙辰六月十五日を以て歿す、享年六十五、淺草本願寺に葬る、著す所書述二卷、書話三卷、書府十卷、書則六卷、書範一卷、書學筌十二卷、集古印選四卷、法帖考五卷、金石考五卷、歴代書家姓録二卷、文淵遺珠二卷、來禽堂雜著二十卷、東江詩草、同文章各二卷、東江尺牘一卷あり


那波魯堂、名は師曾 、字は孝卿、魯堂と號し、又鐵硯道人と號す、通稱は主膳、播州の人、阿波侯に仕ふ

魯堂の曾祖、名は定之、字は叔成、號は草菴、活所の第二子、木菴が同母弟なり、世々播州姫路に住す、父を祐胤と云ひ、母は三木氏、少くして學を好み、年十七、平安に遊び、岡龍洲に學ぶ、其塾に寓すること五年にして學成る、草堂を聖護院村に築き、生徒に教授す、幾くもなく聖護院王府に仕へて侍讀〔御側儒者〕となる、晩年に至り、阿波侯に聘せられ、仕へて儒官となる、禄百五十石、徳島に移居す、人呼んで四國の正學となす
魯堂の龍洲の塾に在るや、專ら漢魏の古學を治め、師説を確信す、寶暦中杜氏春秋左傳集解を校訂〔校合訂正〕して、世に刊行す、元禄年間既に集解(しうかい−ママ)の刊本(かんほん−ママ)ありと雖も、校刊精しからず、錯誤尤も多し、龍洲甞て左傳解を著し、集解の及ばざる所を補ふ、又集解を校刊するの意あり、義〔本來の筋道〕當に之を龍洲に謀りて、而後事に從ふべし、然るに徑(たゞち)〔直〕に以て其擧を成し、又其故を告け(*ママ)ず、龍洲甚だ之を慍(いか)り、魯堂を謝絶するに至る、是より通問せざるもの七八年、魯堂之を悔ゆ、其善き所の江北海爲めに龍洲に詣り、前過を宥恕して舊時に復せんことを請ふ、龍洲曰く、那波生吾門に入らずして口を講業に糊する能はずんば、以て吾厨下〔臺所〕に出入して奴僕(どぼく−ママ)と伍をなすを許すべし、决して其他を許さずと、魯堂希解の成らざるを知り、再び請はず、悉く其爲す所を改め、宋學に左袒し、專ら性理の説を唱ひ(*ママ)、古學を排撃するを以て己が任とす、遂に之を以て當世に名あり、此時に當り洛攝の間宋學を講ずる者少く、其業大に行はる
魯堂洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の學を唱ひ(*ママ)てより、自ら正學を以て居り、伊仁齋、物徂徠、宇明霞の徒を指して、異端の魁(くわい)となし、其徒と交はらず、學問源流、道統問答の二書を著して、粗其學源の藤原惺窩より出づることを述ぶ、時に長門の林東溟平安に講業し、舊(も)と魯堂と善し、其古學を改め程朱を墨守〔固執〕し、自ら正學を以て居るに及び、屡書牘を寄せて宋學を辯駁(べんはく−ママ)し、魯堂が爲す所穩當ならざるを指摘す〔其非を指示す〕、魯堂其詰問に窮し、遁辭〔申譯〕をなして曰く、世と推遷〔變移の成語〕するのみと
魯堂聖護院王府に仕ふる時、嘗て其命を奉じ、近衞藤公の舘に使す、奴僕數人相從ふ、魯堂禮服(麻上下)を著す、藤公の斥候途に出でゝ使者の至るを竢つ、謂く使者の奴僕必ず王府の標識〔紋付の法被〕を纏はん、固より認知し易しと、而して魯堂華顯(くわげん)を好まず、從者をして標識を著せしめず、斥候(せきこう)其使者なるを知るに由なく、魯堂が來るを視て、問うて曰く、子或は王府の使者にあらずや、吾此に在りて竢つこと久しと、魯堂曰く、繼きて至らんと、遂に告げずして行く
魯堂疎放にして規矩を守らず、其家に在るや、禮容なく、夏日には袒裼裸■(衣偏+呈:てい・ちょう:裸:大漢和34291)(たんせきらてい)〔肩脱ぎ赤身條々〕にして、几に對し書を讀む、來客ありと雖も、意となさず、頽索〔紀律の紊れたること〕猥褻、風をなし、閨門の中沒正經なり
魯堂年五十に至り、室名島氏二女を生む、愛養最も厚く、寵弄の極、長ずる後も訶箴(かかん−ママ)〔叱斥(*ママ)〕を加へず、其欲する所に任す、平安の風俗中元の夜は陌頭燈を點じ、妙齡の婦女、少年の冶郎、相集まりて歌舞を委巷になす、唱雜■(女偏+世+木:せつ・せち:狎れる・乱れる:大漢和6524)狎(ちようかう−ママ)、貴賤を論ぜず、之を盆踊と曰ふ、其戯本と梨園〔俳優の成語〕優伶の徒に出で、販夫賈人と雖も、自ら檢することを知る者は之を爲さず、魯堂が二女其戯に加はらんと請ふも禁せ(*ママ)ず、之が爲めに時樣の■(衣偏+玄:けん・げん:晴着・盛服・黒服:大漢和34218)服(けんふく)(*げんぷく)〔華美の衣〕を造りて、其意に從ふ
明和甲辰韓使來聘す、魯堂其學士南秋月と賓館に唱和す、又阿波侯に請ひ、其東行に從ひ、倶に江戸に至る、屡旅舍に就きて筆語す、秋月魯堂が理學に精きを喜び、稱して日東儒學の第一人となす、魯堂旅笥(りよし)〔旅行用の行李〕中携ふる所の劍南詩鈔一帙(ちつ)を出して之を贈る、秋月陸務觀が詩を好む、因りて一律を賦して之を謝す、其詩に曰く

放翁元ト是レ後■(艸冠+止+頁+已+夂:き・ぎ:菜の名:大漢和32601)翁、七十年來萬首工ナリ、雪月風花題品ノ外、人情物態畫圖ノ中、吾衰ヘテ漸ク入ル歸依ノ法、路遠ク愈ヨ思フ簡約ノ功、山屐湖舟處々ニ隨ヒ、一生回憶セン海天ノ東(*放翁元是後■翁、七十年來萬首工、雪月風花題品外、人情物態畫圖中、吾衰漸入歸依法、路遠愈思簡約功、山屐湖舟隨處々、一生回憶海天東)
魯堂の和韻に曰く
浣花溪後ノ一詩翁、唯劍南ノ工ニ代ルニ堪ル有リ、驢背醉吟ス風雪ノ外、梅邊ノ癡態色香ノ中、半生全ク費ス推敲ノ力、萬首終ニ歸ス磨礪ノ功、帙ヲ開キテ(*原文送り仮名「開キヲ」は誤植。)君ニ贈リ心隔テズ、天涯月ハ白シ海ノ西東(*浣花溪後一詩翁、唯有劍南堪代工、驢背醉吟風雪外、梅邊癡態色香中、半生全費推敲力、萬首終歸磨礪功、開帙贈君心不隔、天涯月白海西東)
魯堂寛政元年己酉九月十一日を以て歿す、享年六十三、徳島城西妙高菴に葬る、門人相議し、嗣(つぎ)なきを以て、佐々木績、字は世勳、號網川に其長女を配して嗣子となし、禄を襲はしむ、網川魯堂に學び、其旨を繼述し、家聲を墜さずと云ふ


紀平洲、名は徳民、字は世馨、平洲と號し、又如來山人と號す、細井氏、通稱は甚三郎、尾張の人、國侯に仕ふ

平洲の遠祖は式部大輔紀長谷雄、文學を以て、寛平昌泰〔宇多醍醐の朝〕の際に顯はる、其孫(そん)雄文河波の細井郷に隱る、子孫因りて氏とす、二十傳(でん)して岑克に至り、始めて參州に移居し、克成を生む、克成今川義元に仕へて稗將(ひしやう)〔一部の隊長〕となる、其子岑廣小豆阪の役力戰(えきりよくせん)して創(きず)を被り、馬に騎る能はず、禄を辭して家居す、其子雄貞神祖に遠州濱松に奉仕し、姉川の役功あり、後尾州平島邑に隱れ、農を以て業とす、從士十餘人皆隸農〔小作人〕となる、慶長中徴(め)せども起たず、是より貞久、恭貞、正恭を經て正長に至り、通稱は甚十郎、同邑の竹内氏を娶り、二子を生む、伯は正方、通稱は甚兵衞、叔は即ち平洲、享保十三年戊申六月二十八日を以て、尾の南鄙平島邑に生まると云ふ
平洲の母娠(はら)める時、數(しば\〃/)三辰を夢む、平洲生れて眉隔の間に黒痣(こくし)あり、自然七星の象をなす、人皆之を奇とす
平洲幼にして讀書(とくしよ−ママ)を好み、尋常の書は誦讀略遍し、年十七、單身京師に遊學し、伊勢の人北畠世規なる者と舍を同くして僑居す、垢衣弊帶、糲〔粗米〕を食(くら)ひ蔬〔野菜〕を噛み、務めて經費を節す、父正長金五十兩を與へて、其用に資せしむ、京に在ること一年、僅に十兩を費すのみ、其餘を以て書數百卷を購得し、兩馬に駄して還へる、郷里以て美談となす
平洲京師に遊學し、遍く諸儒に詣るも、徳義文章の師とすべきものを見ず(*原文「見す」を改める。)、乃ち郷に歸る、父母其特操〔身を持すること堅固〕と勉學とを喜び、田宅を分ちて生理〔生活〕をなさしめんとす、平洲肯んぜず(*原文「肯んせず」を改める。)して曰く、願くは二百金を得て、兒が欲する所に從はんと、乃ち許さる、因りて盡く書を買ひて之を讀み、足戸外(とぐわい−ママ)に出でざること此に一年、自ら謂ふ、是れ吾が師とする所なりと
延享中參河の元淡淵始めて尾府に來り、生徒に教授す、平洲往いて之に謁し、倶に經史を商■(手偏+確の旁:かく:打つ・叩く・占める・量る:大漢和12451)し、大に其徳行と學術とに服し、以爲く師事すべき人を得たりと、淡淵も亦門下に平洲を得てより、稱して吾業を羽翼〔補佐〕する者となし、之を遇すること群弟子に超ゆ、平洲此に從學すること一年、淡淵勸めて西長崎に遊び、華音を學ばしむ、平洲崎に在ること三年、母の疾を聞き、即日裝を治めて東歸す、淡淵其孝道の篤きに感ず
平洲年二十四、帷を尾府に下し、教授して業となす、幾もなく江戸に來り、芝三島街に僑居す、是より先き元淡淵來りて江戸に在り、室を此に築き、叢桂社と稱す、平洲が僑居と相去ること咫尺〔至近〕、往來して其業を切磋す〔ミガク〕、既にして淡淵歿す、其後叢桂社の生徒皆平洲の門に入り、平洲の名始めて當世に聞ゆ
平洲既に江戸に教授すること二十年、講業の盛なる、出ては列侯〔諸大名〕の講筵に坐し、入りては子弟の塾に在る者を育し、惟れ日も足らず、啻に經學文章のみならず、兼ねて經濟に長ずとの名あり、王侯貴紳請ひて以て師となす、或は重禄以て招致せんとする者あれども、辭して仕へず、私心竊に謂く、已まんかな、仕ふれば則ち他あらんや、尾藩は我墳墓の在る所、之を舍(お)きて何にか之かんと、偃蹇〔傲然と構へて仕へざること〕半百に至る、(*ママ)
安永九年尾侯之を聞きて召見し、月俸二十口を賜ひ、始めて經筵に侍す、平洲感極まり、其坐に陪して涙(なんだ)下る、班列の諸臣竊に其態の兒女に似たるを笑ふ、蓋し■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)誠〔赤心至誠〕の致す所、平洲之を省みず、二月許進んで侍讀となり、明倫堂の督學を兼ね、班親衞騎將〔番頭〕に列し、歳米三百苞を加賜せられ、後進んで田禄四百石を賜ふ
元淡淵甞て一磁■(怨の頭+皿:わん:椀・鉢・小さい杯:大漢和22979)(じえん)〔茶碗(*原文頭注「荼椀」に誤る。〕を平洲に與へて曰く、此を以て陋とすること勿れ、子冀くは之に■(食偏+擅の旁:せん:固粥・濃い粥:大漢和44433)(せん)〔カユ〕し、之に粥(じゆく)し、以て飢(き)を支へよ、學成りて名を世に顯はし、王侯の師範たるに至らば、瑶椀(*原文ルビ「えうはん」は誤植。)〔珠玉(*原文頭注「球玉」を改める。)の椀〕銀盃、子が欲する所に從へ、吾遠慮を以て等閑となす勿れと、淡淵蓋し深意あり、教ふるに儉素を以てするなり、且つ磁■(怨の頭+皿:わん:椀・鉢・小さい杯:大漢和22979)の上虚にして下實なる、能く物を容るゝの意を示す、平洲謹んで之を受け、之を用ふること五十年、尾府に登用せられて、食禄四百石、一世に顯達するに及びても、未だ曾て之を廢せず、初め其妻石村氏平洲に嫁せし時、平洲諭すに師訓〔淡淵の訓言〕を以てす、後奴婢を買へば、石村氏先づ此器を捧げ、之に示して曰く、是れ夫子の寶とする所、以て尚(くは)ふるなし、謹んで毀傷すること勿れと、深く之を警戒す、因りて適ま急忙踈放にして手を失ふことあり、他の器皿は毀損するも、此■(怨の頭+皿: : :大漢和 )は敬重の厚き、未だ曾て虧缺(*原文ルビ「かけつ」は誤植。)〔破れカケル〕を生ぜず(*原文「生せず」を改める。)、明和壬辰の災平洲(*原文「平淵」は誤植。)の家に及び、家具器財悉く灰塵(*原文ルビ「はいじん」は誤り。)となるも、門人此■(怨の頭+皿:わん:椀・鉢・小さい杯:大漢和22979)を懷にして逃れ、獨り免(まぬか)ることを得たり
平洲少壯より容貌高貴、擧措度あり〔動作の正しきこと〕、進退遲重絶えて輕躁急遽の態なし、家人奴僕(どぼく−ママ)と雖も、未だ其■(勵の偏:れい・らい:厳か・厳めしい・厳しい・励ます:大漢和3041)辭慍色(おんしよく−ママ)〔怒れる顔〕を見ず、晩年に及び、風格清華にして世事に老練し、威儀愈仰(*原文ルビ「あほ」は誤植。)ぐべし、而して人に接する温恭にして禮あり、一たび謁を其門に執る者は數日經過すと雖も、其■(三に縦棒〈コン〉:ほう・ぼう・ふう:見目よいこと:大漢和76)■(ノ+米:はん・へん:分かつ・分れる〈采の誤字〉:大漢和40115)(ばうさい)〔容儀風采〕人を照すを忘るゝ能はず
平洲資性寛厚にして偏愛する所なし、而して時に三器を愛重す、一に曰く、磁■(怨の頭+皿:わん:椀・鉢・小さい杯:大漢和22979)、淡淵より贈らるゝ所なり、二に曰く、紙匣(かみはこ)、少年より座右に置き、出入身に隨ふこと殆ど三十年、其著述草稿を納るゝ所のものなり、三に曰く、舞坂(まへさか−ママ)の笛、寶暦癸酉尾府に還る時、路遠州舞坂を經、傍に叢竹の異種を見て、笛材(てきざい)ならんと思ひ、截(き)〔切〕りて歸り、自ら作りて笛となす、果して異聲あり、名けて舞坂笛と曰ふ、時々之を弄し、其の之を愛すること、啻に千金の財のみならず、壬辰の災幸に皆火を脱す、晩年西條侯頗る音律を好み、斯笛を得んと欲す、平洲之を知り、遂に侯に献ずと云ふ
平洲尾府に在る時、其友小河仲栗妻孥〔妻子家族〕を携(たつさ−ママ)へて、其家に寓す、平洲江戸に移るに及び、又之に從ふ、幾もなく飛鳥子静も亦家族を伴うて其家に寓す、是に於て三姓居を同くし、爨(さん)〔炊事〕を共にすること四年なり、時に平洲の父正長も老いて其家に養はる、仲栗子静之に事ふること子の如く、衣(い)を易へて出で、日を併せて食(くら)ふ、而して老を養ひ幼を撫す、二人と平洲と交はり兄弟の如く、其婦三人も亦嫂妹(さうまい)の如く、相得て樂み、家中和煦(わく)〔和睦〕し、毫も悔恨の色なし、隣里(りんり)の人始め異姓同居するを知らず、正長を賀して曰く、三賢子、三孝婦、三順孫、翁の享福何ぞ此に至るやと、人皆之を羨む(仲栗、子静竝に長崎の人、淡淵に學ぶ)
平洲尾府の督學となり、國の耆儒〔老儒者〕、及び弟子若干(じやくかん)人を薦めて、學職に充つ、國中の民來りて教(おしい−ママ)を受けざるなし、學政大に振ふ、是より先き、郡郷に命じて講舍を置き、名けて講學所と曰ふ、平洲各郷を循行〔巡行〕して之を教諭す、農工商賈巫祝より、轎丁、馬隷〔馬丁〕、田媼、村女に至るまで、講舍に集會するもの毎に數千人、或は萬人に至る、蓋し孝經論語等の一二章を講説して、其旨を敷演し、因縁(いんえん)義を廣め、和漢を錯綜して〔取交せ(*ママ)ての意〕人倫の本を説き、治道の要を辯じて公私を詳にし、淑慝〔善惡〕を別ち、導くに温言を以てし、勵ますに危言を以てし、教戒懇到聽く者感歎して流悌せざるはなし、浮屠の所謂説法(せつはふ)談義と雖も、未だ之に及ぶ能はず、愚夫愚婦之が爲めに化導(けだう)〔薫化誘導〕せらる
平洲門人を遇するに禮あり、塾に在る者過失あるも寛恕して責めず、■(立心偏+宛:えん・わん:嘆く・意気が衰える:大漢和10771)曲〔物柔に遠廻なり〕に諷諭(ふゆ−ママ)して自ら悔悟するを待つ、甞て一書生あり、從學すること多年、頗る世才(せさい)あり、財貨の出入を管し、塾生の經費を料理せしむ、後其財を私(*原文ルビ「わたく」は一字脱あり。)し、歳暮(さいぼ)の節季に迫るに及び、大に計算に窮し、會計當らず、通數頓に耗(もう−ママ)ず、衆之を譏りて、己が便計〔私益〕の爲す所なりと謂ふ、平洲之を視て、知らざるものゝ如し、其出入を問はず、爲めに一言も發せず、既に其人自ら愧ぢ(*原文「愧ち」を改める。)、苦(*ねんごろ)に歸省を請ふ、衆謂(おもひら−ママ)く、彼れ其私せるを愧ぢて辭し去る、萬再び來らずと、行裝既に成り、將に去らんとす、平洲腰刀(えうたう)を脱し、之を與へて曰く、子が刀鞘〔刀のサヤ〕弊(へい)す、父母を慰むる所以にあらず、子久しく吾塾に寓し、塾生の經費を掌る、今其勞を謝す、吾が餘あるを以て、子が足らざるを補ふと、慇懃辭色〔容貌言語〕に溢る〔餘りて外に出づ〕、其人感謝して去り、未だ數月ならずして再び來り、精勵勞に服すること舊に倍すと云ふ
平洲博愛にして衆を容れ、人と忤(さか−ママ)はず、小河仲栗、飛鳥子静同居すること多年、仲栗歿して歸する所なし、平洲之が喪祭(さうさい)を營むこと家人の如く、妻兒之に依頼す、子静歿するも亦此の如く、之を喪祭して妻孥を其家に養ふ、後其女子が資裝〔嫁入支度〕を整(とゝな−ママ)へ、之を人に嫁す、仲栗が子長ずるに及び、之を尾府に薦めて儒官(じくわん−ママ)となす、又南宮大湫が子齢も其父の歿後母と與に平洲に頼(よ)り、平洲の薦(すゝむ)に依り、尾府の儒官となりて禄食す、其他塾に寓する者は、斗■(竹冠+肖:そう・しょう:ふご・飯櫃・箸筒:大漢和26077)(*原文頭注「■(竹冠+宵:::大漢和に無し)」に作る。)(とさう)の人〔量にて計るほど多き凡庸の徒−ママ〕(*量目の僅少なこと・度量の小さいこと)と雖も、歿するものあれば、異郷に寄寓して客中に死し、遂に其葬埋の所在を失はんことを恐れ、自ら資を出して碑を立て、其姓名を記す、此の如きもの實に數十人に至る
平洲年四十四、米澤侯(上杉治憲、鷹山と號す)の聘に應じて其國に赴く、侯聰明英斷、意を政治に專にし、平洲を尊びて、賓師(*原文ルビ「ひんて」は誤植。)となし、禮待優渥、其言を嘉納し、舊弊を一洗す、留まること一年にして歸る、闔境〔封内全部〕靡然として風に嚮ふ〔其化に靡く〕、安永中米澤の國學興讓舘の造營成る、侯再び平洲を其國に招ぎ、得失を討論し、政刑を參定す、又平洲と與に、封内を巡檢し、使役の煩劇と民間の愁苦とを覆檢〔取調〕し、百廢悉く興る、豐施下に遍く、衆民大に悦ぶ、衆民平洲を途上に見て、感激涙を垂れ、拜跪〔伏しオガム〕合掌(がふしやう−ママ)し、大慈悲の生(いき)如來と謂ふ、此時又居ること一年にして歸る、是より米澤の治教海内に顯聞し、稱して第一となす
平洲經義を講説するに、師説を確信し、一に遺訓を守りて字句に拘々(かう\/−ママ)たらず、大義〔大體の意味〕を提(ひつさ)げて姑く古註疏に據り、宋元明清諸家の經解を參考するを好まず、務めて簡易〔アツサリ大意を説く〕に就く、故に其學極めて寡聞にして固陋〔聞見の狹きこと〕なり、當時の諸儒(しよじ−ママ)以て僥倖世に用ひらるとなす、其言信ずべきが如くにして實は然らず、平洲の意徳を成し、用を作すに在り、而して其成作は學術の深淺にあらず、各適する所ありと、門下の士異能〔特殊の才能〕徳器多く、餘韻の及ぶ所、眞儒(しんじ−ママ)の風ありと謂ふべし
平洲晩年に及び、徳望愈高く、世の所謂儒者(じしや−ママ)に非ず、凡そ王侯士大夫平洲と語る毎に、人を屏(しりぞ)けて時を移す、書牘の到る、讀了れば多く手づから之を火(や)く、蓋し是れ封國采邑(*原文ルビ「きいいう」は誤植。)の政令、綱紀機密、若くは政治典刑に渉るを以て、口を緘〔閉鎖〕して言はず、其病革まるに及び、書牘數十通尚篋笥に在り、門人泉長達、神保簡遺言を受けて之を各主に返へす、是を以て家人と雖も、絶えて其詳を知る能はず
平洲妻石村氏を喪ひ、其婦行を追念すること切なり、石村氏進退度あり、女工〔裁縫等〕を善くす、仲栗子静の婦と同居して、■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)誠(くわんせい)を輸瀉すること幾ど骨肉の如し、蓋し婦人の性動もすれば懊熱〔煩悶發熱〕■(女偏+戸:と・つ:妬む:大漢和6082)忌(とき)し易し、而して石村氏は常に循々として他の二婦を眷愛し、二婦も亦深く之に依頼す、平洲以爲く斯の如き良配は再び得易からずと、哀戚の餘、顔色憔悴〔痩衰〕し、伉儷〔配偶〕に厚情なりとの譏を人に得るに至れり
平洲享和元年辛酉六月二十九日を以て、江戸外山邸の舍に歿す、享年七十四、淺草天岳院に葬る、其墓に表するに及び、西條侯源頼謙親ら篆額に題して、平洲紀先生墓と曰ふ、後米澤侯治憲碑陰門北に銘し、尾府記室小河鼎墓誌を撰し、久留米の文學樺公禮行状を作る、初め石村氏を娶り、賢にして子なく、早く歿す、再び奥田氏を娶る、二男三女あり、伯は長融、字は士朗、叔は長温、字は泰卿及び長女皆夭し、二女は門人泉長達に嫁す、宇野氏の子徳勝字は世堯を養ひて嗣(つぎ)となし、之を季女に配し、其祀を奉せ(*ママ)しむ、著す所詩經夷考、詩經古傳、毛鄭異同考、塵芥録、平洲小語、小松島記、嚶鳴館詩集、同遺稿、同和文集等あり


譯註 先哲叢談後編 終


芦野東山石塞軒新井白蛾龍草廬安達清河石作駒石沢田東江那波魯堂細井平洲

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凡例
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(* ) 私の補注 ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字
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