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徒然草 (3)

尾上八郎解題、山崎麓校訂
(校註日本文學大系3 國民圖書株式會社 1924.7.23)
※ 本文の句読点をそのまま残した。

 (1) 1-60  (2) 61-120  (4) 181-243

 121 養ひ飼ふものには  122 人の才能は  123 無益の事をなして  124 是法法師は  125 人に後れて  126 博奕の負け極まりて  127 改めて益なきことは  128 雅房大納言は  129 顔囘は  130 物に爭はず  131 貧しきものは  132 鳥羽の作り道は  133 夜の御殿は  134 高倉院の法華堂の三昧僧  135 資季大納言入道とかや  136 醫師あつしげ  137 花は盛りに  138 祭過ぎぬれば  139 家にありたき木は  140 身死して財殘ることは  141 悲田院の堯蓮上人は  142 心なしと見ゆる者も  143 人の終焉の有樣の  144 栂尾の上人  145 御隨身秦重躬、北面の下野入道信願を  146 明雲座主、相者に逢ひ給ひて  147 灸治あまた所になりぬれば  148 四十以後の人  149 鹿茸を鼻にあてて  150 能をつかむとする人  151 ある人の曰く、年五十になるまで  152 西大寺靜然上人、腰かゞまり  153 爲兼大納言入道めしとられて  154 この人、東寺の門に  155 世に從はむ人は  156 大臣の大饗は  157 筆をとれば物書かれ  158 杯の底を捨つることは  159 みなむすびといふは  160 門に額かくるを  161 花の盛りは、冬至より  162 遍照寺の承仕法師  163 太衝の太の字  164 世の人相逢ふ時  165 東の人の、都の人に交はり  166 人間の營みあへる業を見るに  167 一道に携はる人  168 年老いたる人の  169 何事の式といふ事は  170 さしたる事なくて人の許行くは  171 貝をおほふ人の  172 若き時は血氣内にあまり  173 小野小町がこと  174 小鷹によき犬  175 世には心得ぬ事の  176 黒戸は、小松の御門  177 鎌倉の中書王にて  178 ある所の侍ども  179 入宋の沙門道眼上人  180 さぎちやうは  181-
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121
養ひ飼ふものには馬、牛。繋ぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくて叶はぬ物なれば、如何はせむ。犬は守り防ぐつとめ、人にも優りたれば、必ずあるべし。されど家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなむ。その外の鳥獸(とりけだもの)、すべて用なきものなり。走る獸は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠(こ)に入れられて、雲を戀ひ野山を思ふ愁へやむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くば、心あらむ人これを樂しまむや。生(しゃう)を苦しめて目を喜ばしむるは、が心〔夏の桀王、殷の紂王、共に暴虐無道で有名な王〕なり。王子猷〔支那晉代の人、名は徽子王義之の子〕が鳥を愛せし、林に樂しぶを見て逍遥の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。凡そ珍しき鳥、怪しき獸、國に養はず〔尚書族契篇に「珍禽奇獸不2于國1。」〕とこそ文にも侍るなれ。
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122
人の才能は、文明らかにして、聖の教へを知れるを第一とす。次には手かく事、旨とする事〔專門にする事〕はなくとも、これを習ふべし。學問に便りあらむ爲なり。次に醫術を習ふべし。身を養ひ人を助け、忠孝のつとめも、醫にあらずばあるべからず。次に弓射(い)、馬に乘る事、六藝〔支那の教養ある者の修めた六科、禮、樂、射、御、書、數〕に出せり。必ずこれを窺ふべし。文武醫の道、まことに缺けてはあるべからず。これを學ばむをば、いたづらなる人〔無駄な事をする人〕といふべからず。次に、食は人の天なり〔書經に「夫食爲2人天1。」天が人を養ふからだ〕。よく味ひをとゝのへ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、よろづの要多し。この外の事ども、多能は君子のはづるところなり〔論語に「吾少也賎、故多2能鄙事1。君子多乎不多也。」〕。詩歌にたくみに、絲竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすとはいへども、今の世には、これをもちて世を治むること、漸く愚かなるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鐵(くろがね)の益多きに如かざるがごとし。
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123
無益の事をなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人ともいふべし。國の爲君の爲に、止む事を得ずしてなすべき事多し。その餘りの暇、いくばくならず思ふべし。人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ひ物、第二に著る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかに過(すぐ)すを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを驕とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせむ。
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124
是法法師兼好と同時代の僧にして歌人〕は、淨土宗に恥ぢず〔同宗中誰にも遜色なきを云ふ〕と雖も、學匠をたてず〔學者として居ない、學者ぶらない〕、たゞ明暮念佛して、やすらかに世を過すありさま、いとあらまほし。
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125
人に後れて、四十九日(なゝなぬか)の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも殊に今日は尊くおぼえ侍りつる。」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は〔唐の狗は狆で、涙を絶えず湛へて居るが、此の僧も自ら説經に感激して涙を流して居る點が狆に似て居たのである〕。」といひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。また人に酒勸むるとて、「おのれまづたべて人に強ひ奉らむとするは、劒(けん)にて人を斬らむとするに似たる事なり。二方は刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづ我が頚を斬るゆゑに〔兩方に刃のある刀で振り上げると自分の頭を斬るといふのである〕、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ醉ひて臥しなば、人はよも召さじ。」と申しき。劒にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。
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126
「博奕(ばくち)の負け極まりて、殘りなくうち入れむとせむに〔殘つて居る持物全體を賭けんとするに出遭つたなら〕、逢ひては打つべからず。立ち歸り〔逆に今まで負けた方が〕つゞけて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よき博奕といふなり。」と、あるもの申しき。
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127
改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。
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128
雅房大納言〔源雅房、定實の子〕は、才(ざえ)賢く善き人にて、大將にもなさばやと思しける〔院のお考へ〕頃、〔後宇多院〕の近習なる人、「只今淺ましき事を見侍りつ。」と申されければ、「何事ぞ。」と問はせ給ひけるに、「雅房卿鷹に飼はむとて、生きたる犬の足を切り侍りつるを、中垣〔家と家とのしきりの垣〕の穴より見侍りつ。」と申されけるに、うとましく〔いとはしく〕、にくくおぼしめして、日ごろの御氣色もたがひ、昇進もしたまはざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど〔意外だが〕、犬の足はあとなき事なり。虚言は不便(ふびん)〔不都合〕なれども、かゝる事を聞かせ給ひて、にくませ給ひける君の御心は、いと尊きことなり。大かた生けるものを殺し、痛め、■(鬥/亞の上端両辺を鉤の手にした形+斤/:とう::大漢和45657)はしめて遊び樂しまむ人は、畜生殘害〔鳥獸が互にそこなひ食ひ合ふこと〕の類(たぐひ)なり。萬の鳥獸、小さき蟲までも、心をとめてありさまを見るに、子をおもひ親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、妬み、怒り、慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事、偏に愚癡なるゆゑに、人よりも勝りて甚だし。かれに苦しみを與へ、命を奪はむ事、いかでか痛ましからざらむ。すべて一切の有情〔生物〕を見て慈悲の心なからむは、人倫にあらず。
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129
顔囘顔淵孔子の門弟〕は、志人に勞を施さじ〔論語公冶長篇に「顔淵曰願無善、無勞。」〕となり。すべて人を苦しめ、物を虐(しへた)ぐる事、賎しき民の志をも奪ふべからず。又幼き子を賺(すか)し嚇(おど)し、言ひ辱しめて興ずることあり。大人しき人〔大人〕は、まことならねば事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥しく、あさましき思ひ、誠に切なるべし。これを惱して興ずる事、慈悲の心にあらず。大人しき人の、喜び怒り哀れび樂しぶも、皆虚妄(こまう)なれども、誰か實有(じつう)の相〔實在せる如く見ゆる現象〕に著(ぢゃく)せざる。身を破るよりも、心を痛ましむるは、人を害(そこな)ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より來る病は少なし。藥を飮みて汗を求むるには、驗なき事あれども、一旦恥ぢ恐るゝことあれば、かならず汗を流す〔文選稽康(*ママ)の養生論に「夫服藥求汗、或有獲、而愧情一集、渙然流離。」〕は、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて、白頭の人となりし例〔三國志に「魏明帝2凌雲觀1、誤先釘榜、乃以籠盛2辛誕1、轆轤引上書之、去地二十五丈、既下、鬚髪皓然。〕なきにあらず。
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130
物に爭はず〔論語に「君子無爭。」〕、己を枉げて人に從ひ、我が身を後にして、人を先にするには如かず。萬のあそびにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらむ爲なり。己が藝の勝りたる事をよろこぶ。されば負けて興なく覺ゆべきこと、また知られたり。我負けて人を歡ばしめむと思はば、さらに遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせて、わが心を慰めむこと、徳に背けり。むつましき中に戲(たはぶ)るゝも、人をはかり欺きて、おのれが智の勝りたることを興とす。これまた禮にあらず。さればはじめ興宴より起りて、長き恨みを結ぶ類おほし。これ皆あらそひを好む失なり。人に勝らむことを思はば、たゞ學問して、その智を人に勝らむと思ふべし。道を學ぶとならば、善に誇らず、ともがら〔同輩〕に爭ふべからずといふ事を知るべきゆゑなり。大きなる職をも辭し、利をも捨つるは、たゞ學問の力なり。
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131
貧しきものは財をもて禮とし、老いたるものは力をもて禮とす〔曲禮に「貧者不2貨財1禮、老者不2筋力1禮。」とあるのを表現をかへたのである〕。おのが分を知りて、及ばざる時は速かにやむを智といふべし。許さざらむは人のあやまりなり。分を知らずして強ひて勵むは、おのれがあやまりなり。貧しくして分を知らざれば盜み、力衰へて分を知らざれば病をうく。
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132
鳥羽の作り道は、鳥羽殿〔白河上皇應徳三年建立、所謂鳥羽の里内裏〕建てられて後の號(な)にはあらず、昔よりの名なり。元良親王陽成帝第一皇子、三品兵部卿〕、元日の奏賀〔元日辰刻(午前八時)天子大極殿に臨御、羣臣慶賀を奏すること〕の聲はなはだ殊勝にして、大極殿(だいごくでん)より鳥羽の作り道まできこえけるよし、李部王(りほうわう)の記〔醍醐帝の皇子式部卿重明親王の著書、李部は式部卿の唐名〕に侍るとかや。
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133
夜(よ)の御殿(おとゞ)は東御(み)枕なり。大かた東を枕として陽氣を受くべき故に、孔子も東首(とうしゅ)〔東枕、論語に「疾君視之、東首加2朝服1紳。〕し給へり。寢殿のしつらひ、或は南枕、常のことなり。白河院は北首に御寢なりけり。「北は忌むことなり。又伊勢は南なり。太神宮(だいじんぐう)の御方を御(おん)跡にせさせ給ふ事いかゞ。」と人申しけり。たゞし太神宮の遥拜は辰巳に向はせたまふ、南にはあらず。
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134
高倉院〔山城愛宕郡清閑寺〕の法華堂の三昧僧何某(なにがし)の律師とかやいふ者、ある時鏡を取りて顔をつくづくと見て、我が貌(かたち)の醜くあさましき事を、餘りに心憂く覺えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後長く鏡を恐れて、手にだに取らず、更に人に交はる事なし。御堂の勤め許りにあひて、籠り居たりと聞き傳へしこそ、あり難く覺えしか。かしこげなる人も人の上をのみ計りて、己をば知らざるなり。我を知らずして外を知るといふ理(ことわり)あるべからず。されば、己を知るを、物知れる人といふべし。貌醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、藝の拙きをも知らず、身の數ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず、身の上の非をも知らねば、まして外の譏りを知らず。たゞし貌は鏡に見ゆ、年は數へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞいはまし。貌を改め齡を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞやがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ閑に身をやすくせざる。行ひ愚かなりと知らば、何ぞこれを思ふ事これにあらざる。すべて人に愛樂(あいげう)〔愛し好かれる〕せられずして衆に交はるは恥なり。貌みにくく心おくれにして出で仕へ、無智にして大才(たいさい)に交はり、不堪(ふかん)の藝〔堪能ならぬ藝〕をもちて堪能の座〔上手な者ばかりの一座〕に連なり、雪の頭(かうべ)を戴きて壯(さか)りなる人〔曲禮に「三十曰壯。」〕にならび、況んや及ばざることを望み、叶はぬことを憂へ、來らざる事を待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の與ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥(はづか)しむるなり。貪ることのやまざるは、命を終ふる大事今こゝに來れりと、たしかに知らざればなり。
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135
資季大納言入道〔藤原資季、資家の子〕とかや聞えける人、具氏(ともうぢ)宰相中將〔源具氏、通氏の子、宰相は參議の異稱〕に逢ひて(*向かって)、「わぬしの問はれむ程の事、何事なりとも答へ申さざらむや。」といはれければ、具氏、「いかゞ侍らむ。」と申されけるを、「さらば、あらがひ給へ〔爭ひ給へ〕。」といはれて、「はか\〃/しき事〔むづかしい事〕は、片端もまねび知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそゞろごと〔たはい(*ママ)もなき事〕の中に、覺束なき事をこそ問ひ奉らめ。」と申されけり。「まして、こゝもとの淺きことは、何事なりともあきらめ申さむ〔説明しよう〕。」といはれければ、近習の人々、女房なども、「興あるあらがひなり。おなじくは御前にて爭はるべし。負けたらむ人は供御(ぐご)をまうけらるべし。」と定めて、御前にて召し合せられたりけるに、具氏、「幼くより聞きならひ侍れど、その心知らぬこと侍り。馬のきつりやうきつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう〔沼波瓊音氏の説に從つて置かう。其の説は「馬退きつ」で此の五字を除き、「りやうきつにのをか」の九字が「中凹れ入り」で最初のと最後のを除いて皆陷落しその「りか」が「ぐれんどう」で顛倒する、即ち雁と云ふ答を得る謎である〕と申すことは、いかなる心にかはべらむ。承らむ。」と申されけるに、大納言入道はたとつまりて、「これは、そゞろごとなれば、云ふにも足らず。」といはれけるを、「もとより、深き道は知り侍らず。そゞろ言を尋ね奉らむと、定め申しつ。」と申されければ、大納言入道負けになりて、所課〔課せられたもの、罰金として御馳走〕いかめしくせられたりけるとぞ。
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136
醫師あつしげ故法皇〔花山院〕の御前に候ひて、供御の參りけるに、「今參り侍る供御のいろ\/を、文字も功能(くのう)も尋ね下されて、そらに申しはべらば、本草〔支那の古い植物學の書〕に御覽じあはせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ。」と申しける時しも、六條故内府(だいふ)〔内大臣源有房〕まゐり給ひて、「有房ついでに物習ひ侍らむ。」とて、「まづ、しほといふ文字は、いづれの偏にか侍らむ。」と問はれたりけるに、「土偏(どへん)に候〔鹽の俗字塩(*原文頭注「鹽」)で答へたのだ〕。」と申したりければ、「才のほど既に現はれにたり。今はさばかりにて候へ、ゆかしきところなし。」と申されけるに、とよみになりて、罷り出でにけり。
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137
花は盛りに、月は隈なき〔曇なき〕をのみ見るものかは。雨にむかひて月を戀ひ〔和漢朗詠集の「對月戀雨序」の心を採つた〕、たれこめて春のゆくへ知らぬ〔「たれこめて春のゆくへも知らぬ間に待ちし櫻もうつろひにけり」(古今集)の意〕も、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。歌の詞書〔歌の題としてやゝ長き文章となり居るもの、はし書〕にも、「花見に罷りけるにはやく散り過ぎにければ。」とも、「さはることありて罷らで。」なども書けるは、「花を見て。」といへるに劣れる事かは。花の散り月の傾(かたぶ)くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊に頑なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし。」などはいふめる。萬の事も始め終りこそをかしけれ。男女(をとこをみな)の情(なさけ)も、偏に逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さをおもひ、あだなる契り〔はかない契り〕をかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲居〔遠い所、遠く離れた戀人〕を思ひやり、淺茅が宿〔荒れはてたる宿〕に昔を忍ぶこそ、色好むとはいはめ。望月の隈なきを、千里(ちさと)の外まで眺めたるよりも、曉近くなりて待ちいでたるが、いと心ふかう、青みたる樣にて〔明け方のほの青いやうな月〕、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、またなくあはれなり。椎柴〔椎の木の茂り〕白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都こひしう覺ゆれ。すべて月花をばさのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしうをかしけれ。よき人は、偏にすける樣にも見えず、興ずる樣もなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃く〔しつこく、あくどく〕よろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢより〔ねぢり寄り、強ひて近寄る〕立ちより、あからめもせず〔わき目もせず〕まもり〔注目する〕て、酒飮み、連歌して、はては大きなる枝心なく折り取りぬ。泉には手足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、萬の物、よそながら見る事なし。さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき。「見ごと〔見る物、見る目的物〕いとおそし。そのほどは棧敷不用なり。」とて、奧なる屋にて、酒飮みもの食ひ、圍棊雙六(すぐろく)など遊びて、棧敷には人をおきたれば、「わたり候。」といふときに、おの\/肝つぶる(*る)やうに爭ひ走りあがりて、落ちぬべきまで、簾張りいでて、押しあひつゝ、一事(こと)も見洩らさじとまもりて、とありかゝりと〔何のかのと〕物事にいひて、渡り過ぎぬれば、「又渡らむまで。」といひて降りぬ。唯物をのみ見むとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、眠りていとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後(うしろ)にさぶらふは、さまあしくも及びかゝらず〔及び腰になり、後から前の人にのりかゝらず〕、わりなく〔無理に〕見むとする人もなし。何となく葵(あふひ)かけ渡して〔賀茂の祭には葵の葉を簾、柱、或は衣服にまでかけた〕なまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、其か彼かなどおもひよすれば、牛飼下部などの見知れるもあり。をかしくも、きら\/しく〔華美で輝くさま〕も、さま\〃/に行きかふ、見るもつれ\〃/ならず。暮るゝ程には、立て竝べつる車ども、所なく竝みゐつる人も、いづかたへか行きつらむ、程なく稀になりて、車どものらうがはしさ〔亂りがはしさ、亂雜〕も濟みぬれば、簾疊も取り拂ひ、目の前に寂しげになり行くこそ、世のためしも思ひ知られて哀れなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ、かの棧敷の前をこゝら〔澤山〕行きかふ人の、見知れるが數多あるにて知りぬ、世の人數(ひとかず)もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなむ後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、程なく待ちつけぬべし〔待つて居て出遭ふ事が出來る、死を意味する〕。大きなる器(うつはもの)に水を入れて、細き孔をあけたらむに、滴る事少しと云ふとも、怠る間なく漏りゆかば、やがて盡きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日(ひ)に一人二人のみならむや。鳥部野、舟岡〔上京蓮臺寺の東の岡、鳥部野と共に墓地〕、さらぬ野山にも、送る數おほかる日はあれど、送らぬ日はなし。されば柩を鬻ぐもの、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期(しご)なり。今日まで遁れ來にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかに思ひなむや。まゝ子立〔黒白の石を長方形に竝べ、印ししたる石から十に當る石をとり除くと最後に唯一つ殘る遊戲〕といふものを、雙六の石にてつくりて、立て竝べたる程は、取られむ事いづれの石とも知らねども、數へ當ててひとつを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、また\/かぞふれば、かれこれ間(ま)拔き行くほどに、いづれも、遁れざるに似たり。兵の軍(いくさ)にいづるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ身をも忘る。世をそむける草の庵には、しづかに水石(すゐせき)〔泉水庭石、庭いぢり、盆栽いぢりの意味〕をもてあそびて、これを他所(よそ)に聞くと思へるは、いとはかなし。しづかなる山の奧、無常の敵きほひ來らざらむや。その死に臨めること、軍の陣に進めるにおなじ。
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138
祭過ぎぬれば、後の葵不用なりとて、ある人の、御簾なるを皆取らせられ侍りしが、色もなく〔趣味もなく〕おぼえ侍りしを、よき人のし給ふことなれば、さるべきにやと思ひしかど、周防の内侍平棟仲の女、仲子、白川(*ママ)院の内侍、父が周防守からかく名乘つた〕が、
かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉なりけり〔葵をかけて置くがと心をかけて慕ふがの意。みすは御簾と見ずとをかけた。葵と逢ふ日と、枯葉と離れとをかけたのである。〕
と詠めるも、母屋(もや)〔家の中央の間〕の御簾に葵のかゝりたる枯葉を詠めるよし、家の集に書けり。古き歌の詞書に、「枯れたる葵にさしてつかはしける。」ともはべり。枕草紙にも、「來しかた戀しきもの。かれたる葵。」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひよりたれ。鴨長明〔鴨社の禰宜長繼の子、和歌所寄人、方丈記の著者〕が四季物語にも、「玉だれに後の葵はとまりけり〔「玉だれに後の葵はとまりけり枯れても通へ人の面影」和泉式部の歌〕。」 とぞ書ける。己と枯るゝだにこそあるを、名殘なくいかゞ取り捨つべき。御帳にかゝれる藥玉も、九月九日菊にとりかへらるゝといへば、菖蒲(さうぶ)は菊の折までもあるべきにこそ。枇杷の皇太后宮(くゎうたいこうぐう)〔藤原道長の女研子(*ママ)三條帝の中宮〕かくれ給ひて後、ふるき御帳の内に、菖蒲藥玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「をりならぬ根をなほぞかけつる〔「あやめ草涙のたまにぬきかへて」が上句、千載集哀傷部に出た〕。」と、辨の乳母のいへる返り事に、「あやめの草はありながら〔「玉ぬきしあやめの草はありながら夜殿は荒れむ物とやは見し」同じく千載集〕。」とも、江(え−ママ)の侍從が詠みしぞかし。
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139
家にありたき木は、松、櫻。松は五葉もよし。花は一重なるよし。八重櫻は奈良の都にのみありけるを、この頃ぞ世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の櫻、皆一重にてこそあれ。八重櫻は異樣のものなり。いとこちたく〔くどく〕ねぢけたり。植ゑずともありなむ。遲櫻またすさまじ。蟲のつきたるもむつかし。梅は白き、うす紅梅、一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の、匂ひめでたきも、みなをかし。「おそき梅は、櫻に咲きあひて、おぼえ劣り、けおされて、枝に萎みつきたる、心憂し。一重なるがまづ咲きて散りたるは、心疾くをかし。」とて、京極入道中納言藤原定家俊成の子〕は、なほ一重梅をなむ軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南むきに、今も二本(もと)はべるめり。柳またをかし。卯月ばかりの若楓〔楓の若葉〕、すべて萬の花紅葉にも優りてめでたきものなり。橘、桂、何れも木は物古り、大きなる、よし。草は山吹、藤、杜若、撫子。池には蓮(はちす)。秋の草は荻、薄、桔梗(きちかう)、萩、女郎花、藤袴、紫■(艸冠/宀/タ+匕:::大漢和)(しをに)、吾木香(われもかう)、刈萱、龍膽(りんだう)、菊、黄菊も、蔦、葛、朝顔、いづれもいと高からず、さゝやかなる垣に、しげからぬよし。この外世にまれなるおの、唐めきたる名の聞きにくく、花も見なれぬなど、いとなつかしからず。大かた何も珍しくありがたきものは、よからぬ人のもて興ずるものなり。さやうの物なくてありなむ。
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身死して財殘ることは、智者のせざるところなり。よからぬもの蓄へおきたるも拙く、よきものは、心をとめけむとはかなし〔氣の毒〕。こちたく多かる、まして口惜し。我こそ得めなどいふものどもありて、あとに爭ひたる、樣惡(あ)し〔醜い〕。後には誰にと志すものあらば、生けらむ中にぞ讓るべき。朝夕なくて協(かな)はざらむ物こそあらめ、その外は何も持たでぞあらまほしき。
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悲田院〔京都鴨川の西に在り、京中の病者孤兒を收容して施養する所〕の尭蓮上人〔茲に記してある外、傳不詳〕は、俗姓は三浦のなにがしとかや、雙なき〔ならびない〕武者なり。故郷の人の來りて物がたりすとて、「吾妻人こそいひつることは頼まるれ。都の人は言受け〔言承、承諾〕のみよくて、實なし。」といひしを、、「それはさこそ思すらめども、おのれは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて心やはらかに情あるゆゑに、人のいふほどの事、けやけく〔きつぱり、きはだち〕辭(いな)びがたく、よろづえ言ひはなたず、心弱くことうけしつ。僞(いつはり)せむとは思はねど、乏しくかなはぬ〔貧乏で深切心はあつても實行の出來ぬ〕人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は我がかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、偏にすくよかなるものなれば、初めより否といひて止みぬ。賑ひ豐か〔富み足る〕なれば、人には頼まるゝぞかし。」とことわられ侍りしこそ、この聖、聲うちゆがみ〔言語が訛つて〕あら\/しくて、聖教(しゃうげう)のこまやかなる理、いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心憎くなりて、多かる中に、寺をも住持せらるゝは、かく和ぎたるところありて、その益もあるにこそと覺え侍りし。
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142
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷〔東國邊の荒い田舍武士〕の恐ろしげなるが、傍(かたへ)〔傍の者〕にあひて、「御子はおはすや。」と問ひしに、「一人も持ち侍らず。」と答へしかば、「さては物のあはれ〔人情の機微〕は知り給はじ。情なき御心にぞものし〔こゝでは唯ありませうの意〕給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ。」といひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養(けうやう)の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。世をすてたる人のよろづにするすみ〔匹如身、人の一物をも手に持たぬを云ふ〕なるが、なべてほだし多かる人の、よろづに諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事なり。その人の心になりて思へば、まことにかなしからむ〔いとほしい、最愛の〕親のため妻子(つまこ)のためには、恥をも忘れ、盜みをもしつべき事なり。されば盜人を縛(いまし)め、僻事をのみ罪せむよりは、世の人の飢ゑず寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人恆の産なき時は恆の心なし〔孟子に「無2恆産1而有2恆心1者惟士爲能、若民則無2恆産1因無2恆心1」とある。恆産は日常の生業、生活す可き職業〕。人窮りて盜みす。世治らずして凍餒(とうだい)〔こゞえる事と饑うる事と〕の苦しみあらば、科(とが)のもの絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはむこと、不便のわざなり。さていかゞして人を惠むべきとならば、上の奢り費すところを止め、民を撫で、農を勸めば、下に利あらむこと疑ひあるべからず。衣食世の常なる上に、ひがごとせむ人をぞ、まことの盜人とはいふべき。
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143
人の終焉〔臨終、死際〕の有樣のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、「靜かにして亂れず。」といはば心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相〔かたち、現象〕を語りつけ、いひし言(ことば)も擧止(ふるまひ)も、おのれが好む方に譽めなすこそ、その人の日ごろの本意にもあらずやと覺ゆれ。この大事は、權化〔權現と同じく、かりに神佛が此の世に人と化して衆生濟度をする、その化した者〕の人も定むべからず、博學の士もはかるべからず、おのれ違ふ所なくば〔自分の心術が正しくて道にはづれた所なくば〕、人の見聞くにはよるべからず。
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144
栂尾の上人〔釋高辨、明惠(或は明慧)上人といふ、北山の栂尾に居て華嚴宗中興の祖と仰がれた〕道を過ぎたまひけるに、河にて馬洗ふ男、「あし\/〔足を洗ふため足と云つたのを阿字と聞いた〕。」といひければ、上人たちとまりて、「あなたふとや。宿執(しゅくしふ)開發(かいほつ)の人〔前世で修めた功徳が現世で現れた人〕かな。阿字々々と唱ふるぞや。いかなる人の御馬ぞ。あまりにたふとく覺ゆるは。」と尋ね給ひければ、「府生殿〔六衞府等に屬する官、不生と上人が聞き間違へたのだ〕の御馬(おんま)に候。」と答へけり。「こはめでたきことかな。阿字本不生(あじほんふしゃう)〔眞言宗で阿字に不生不滅の原理があると觀ずる、夫が阿字本不生〕にこそあなれ。うれしき結縁(けちえん)をもしつるかな。」とて、感涙を拭はれけるとぞ。
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145
御隨身秦重躬(しげみ)、北面の下野入道信願を、「落馬の相ある人なり。よく\/愼み給へ。」といひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願馬より長じぬる一言、神の如し。」と人おもへり。さて、「いかなる相ぞ。」と人の問ひければ、「極めて桃尻〔鞍上で尻の落ちつかぬ事〕にて、沛艾(はいがい)〔馬逞しく躍り上る形容〕の馬を好みしかば、この相をおほせ侍りき。いつかは申し誤りたる。」とぞいひける。
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146
明雲(めいうん)座主〔比叡山の座主明雲。源顯通の子。座主は延暦寺の長老の稱〕、相者(さうじゃ)〔人相見〕に逢ひ給ひて、「己(おのれ)若し兵仗の難〔所謂劒難、武器で死ぬ相〕やある。」と尋ねたまひければ、相人〔相者と同意〕、「實(まこと)にその相おはします。」と申す。「いかなる相ぞ。」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、假にもかく思しよりて〔思ひついて〕尋ね給ふ。これ既にそのあやぶみの兆なり。」と申しけり。はたして矢にあたりてうせ給ひにけり。
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147
灸治あまた所になりぬれば神事に穢れあり〔灸が多いと神のお祭などに穢れとなる事〕といふこと、近く人のいひ出せるなり、格式〔法令規則を書いた書〕等(など)にも見えずとぞ。
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148
四十(よそぢ)以後の人、身に灸を加へて三里〔膝下外方の凹める所〕を燒かざれば上氣のことあり、必ず灸すべし。
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149
鹿茸(ろくじょう)〔鹿の袋角〕を鼻にあてて嗅ぐべからず、ちひさき蟲ありて、鼻より入りて腦をはむといへり。
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150
能をつかむとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ、内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ。」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて、譏り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず妄りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、ならびなき名をうることなり。天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾〔美玉の疵、轉じて一般の缺點〕もありき。されどもその人、道の掟正しく、これを重くして放埒〔馬を埒外に放つ如く、任意に遊び廻る意〕せざれば、世の博士にて、萬人の師となること、諸道かはるべからず。
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151
ある人の曰く、年五十(いそぢ)になるまで上手に至らざらむ藝をば捨つべきなり。勵み習ふべき行末もなし。老人(おいびと)のことをば人もえ笑はず、衆に交はりたるも、あひなく見苦し。大方萬のしわざは止めて、暇あるこそ目安くあらまほしけれ。世俗の事にたづさはりて、生涯を暮すは下愚の人なり。ゆかしく覺えむことは學び聞くとも、その趣を知りなば、覺束なからずして〔少し位分つた程度に到達して〕止むべし。もとより望む事なくしてやまむは、第一のことなり。
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152
西大寺(にしのおほでら)〔大和添上郡にある、奈良七大寺の一〕靜然(じゃうねん)上人〔傳不詳〕、腰かゞまり眉白く、誠に徳たけたる有樣にて、内裏へ參られたりけるを、西園寺内大臣殿〔實衡、公衡の子〕、「あな尊との氣色や。」とて信仰の氣色(きそく)ありければ、資朝卿〔藤原資朝。俊光の子、日野中納言と云ふ〕これを見て、「年のよりたるに候。」と申されけり。後日に、尨犬(むくいぬ)〔むく毛犬〕の淺ましく老いさらぼひて〔老衰し痩せ骨立ちて〕毛はげたるをひかせて、「この氣色尊く見えて候。」とて内府(だいふ)へ參らせられたりけるとぞ。
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153
爲兼大納言入道〔藤原爲兼、定家三代の孫〕めしとられて、武士(ものゝふ)ども打ち圍みて、六波羅〔京都洛東鳥戸郷一帶の總稱〕へ率て行きければ、資朝卿、一條わたりにてこれを見て、「あな羨し。世にあらむおもひで、かくこそ有らまほしけれ。」とぞいはれける。
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154
この人、東寺〔今京都下京九條、教王護國寺、朱雀門の東なれば此の名稱がある〕の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者ども集り居たるが、手も足もねぢゆがみうち反(かへ)り〔身體のそり反り〕て、いづくも不具に異樣なるを見て、「とり\〃/に類なきくせ者なり、最も愛するに足れり。」と思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくくいぶせく覺えければ、「たゞすなほに珍しからぬものには如かず。」と思ひて、歸りて後、「この間植木を好みて、異樣に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたは者を愛するなりけり。」と、興なく覺えければ、鉢に栽(う)ゑられける木ども、みなほり棄てられにけり。さもありぬべきことなり。
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155
世に從はむ人は、まづ機嫌〔時機、都合〕を知るべし。序〔場合〕惡しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず、さやうの折節を心得べきなり。但し病をうけ、子うみ、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、ついであしとて止む事なし。生住(しゃうぢう−ママ)(*しゃうぢゅう)異滅〔生は産、住は居所(*ママ)、異は病にかゝつて異形になること、滅は死亡〕の移り變るまことの大事は、たけき河の漲り流るゝが如し。しばしも滯らず、直ちに行ひゆくものなり。されば眞俗〔眞諦と俗諦と、眞理と俗世間、修道も俗事にても〕につけて、かならず果し遂げむとおもはむことは、機嫌をいふべからず。とかくの用意なく、足を踏みとゞむまじきなり。春暮れて後夏になり、夏果てて秋の來るにはあらず。春はやがて夏の氣を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、十月(かんなづき)は小春〔陰暦十月頃一時春の如く暖くなる折を云ふ〕の天氣、草も青くなり、梅も莟みぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはる〔衝張る、芽ぐみきざす〕に堪へずして落つるなり。迎ふる氣下に設けたる〔下で支度してゐる〕故に、待ち取る序〔それを待ち受ける順序〕、甚だ早し。生老(しゃうらう)病死の移り來る事、又これに過ぎたり。四季はなほ定まれる序あり。死期(しご)は序を待たず。死は前よりしも來らず、かねて後(うしろ)に迫れり。人みな死ある事を知りて、待つ事しかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の滿つるが如し。
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156
大臣(だいじん)の大饗(だいきゃう)〔任大臣の披露式〕は、さるべき所をまをし受けて行ふ、常のことなり。宇治左大臣殿〔藤原頼長、所謂惡左府、忠實の子、忠通の弟〕は、東三條殿〔二條の南町の西に在る御殿〕にて行はる。内裏にてありけるを申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事のよせ〔大した縁續き〕なけれども、女院(にょゐん)〔國母の佛門に入られし尊稱〕の御所など借り申す故實なりとぞ。
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157
筆をとれば物書かれ、樂器(がくき)をとれば音(ね)をたてむと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤(だ)〔支那で博奕の事を云ふ、攤錢〕うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來(きた)る。假にも不善のたはぶれをなすべからず。あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文(ふみ)も見ゆ。卒爾(*ママ)にして多年の非を改むる事もあり。假に今この文をひろげざらましかば、この事を知らむや。これすなはち觸るゝ所の益なり。心更に起らずとも、佛前にありて數珠(ずゞ)を取り經を取らば、怠るうちにも善業(ぜんごふ)〔美果を得べき美しき業因、業は因果の關係の働き〕おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床(じょうしゃう)〔繩を張つた椅子、座禪工夫の座〕に坐せば、おぼえずして禪定〔無我の境に入る事、禪三昧に入る事〕なるべし。事理〔事は外にあらはれた所作、理は心の内の所作、現象と實在〕もとより二つならず、外相(げさう)〔外に現はれたすがた、現象〕若し背かざれば、内證〔心内の妙悟〕かならず熟す。強ひて不信といふべからず。仰(あふ)ぎてこれを尊(たふと)むべし。
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158
「杯の底を捨つることはいかゞ心得たる。」とある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當(ぎょうたう)〔凝當と魚道と似た發音なので、兼好が間違へて居たのである〕と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候らむ。」と申し侍りしかば、「さにはあらず、魚道(ぎょだう)なり。流れを殘して口のつきたる所をすゝぐなり。」とぞ仰せられし。
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159
「みなむすび〔紐の結び方、表袴(*うへのはかま)袈裟などに用ゐる飾り〕といふは、絲をむすびかさねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たればいふ。」と或やんごとなき人、仰せられき。「にな」といふは誤りなり。
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160
「門に額かくるを、「うつ」といふはよからぬにや。勘解由小路(かでのこうぢ)二品禪門〔世尊寺行忠、行尹の子〕は、「額かくる」とのたまひき。見物の「棧敷うつ」もよからぬにや。「平張〔日蔽ひのため上に平に張る幕〕うつ」などは常の事なり。棧敷構ふるなどいふべし。「護摩たく」といふもわろし。「修(しう)する」「護摩する」などいふなり。「行法(ぎゃうぼふ)」も、「法」の字を清みていふ、わろし、濁りていふ。」と清閑寺(せいがんじ)僧正〔東山にあり、清閑寺の道我僧正〕仰せられき。常にいふ事にかゝることのみ多し。
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161
花の盛りは、冬至〔日の最も短い時、通常十二月二十二日頃〕より百五十日とも、時正(じしゃう)〔春の彼岸の中日、晝夜平分の時〕の後七日ともいへど、立春〔冬から春になる日、陰暦正月の始め通常二月三四日〕より七十五日、おほやう違はず。
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162
遍昭寺〔嵯峨廣澤にあつた寺〕の承仕(じょうじ)法師〔寺の事觸れ法事の雜役をする役〕、池の鳥を日ごろ飼ひつけて、堂の内まで餌をまきて、戸ひとつをあけたれば、數も知らず入りこもりける後、おのれも入りて、立て篭めて捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろ\/しく聞えけるを、草刈る童聞きて人に告げければ、村の男ども、おこりて入りて見るに、大鴈(おほがん)どもふためきあへる中に、法師まじりて、うち伏せねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使廳(しちゃう)〔檢非違使廳〕へ出したりけり。殺すところの鳥を頚にかけさせて、禁獄せられけり。基俊大納言別當〔同上(*検非違使庁)の長官〕の時になむ侍りける。
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163
太衝(たいしょう)〔九月の異名〕の太の字、點打つ打たずといふこと、陰陽のともがら相論のことありけり。もりちか入道〔傳不詳〕申し侍りしは、「吉平安倍晴明の子、主計頭陰陽博士〕が自筆の占文(うらぶみ)の裏に書かれたる御記、近衞關白殿にあり。點うちたるを書きたり。」と申しき。
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164
世の人相逢ふ時、しばらくも默止することなし、必ず言葉あり。そのことを聞くに、おほくは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。これをかたる時、互の心に、無益のことなりといふことを知らず。
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165
東の人〔東國の人、當時田舍者の代表の如く考へた〕の、都の人に交はり、都の人の、東に行きて身をたて、また本寺本山〔同じ意、諸末寺の長たる寺〕をはなれぬる顯密〔顯教と密教と。顯教は天台華嚴其の他の宗、密教は眞言宗〕の僧、すべてわが俗〔自分本來の風俗習慣〕にあらずして、人にまじはれる、見ぐるし。
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166
人間(にんげん)の營みあへる業を見るに、春の日に雪佛を造りて、その爲に金銀珠玉の飾りを營み、堂塔を建てむとするに似たり。その構へ〔建設、建立〕を待ちてよく安置してむや。人の命ありと見る程も、下(した)より消ゆる事、雪の如くなるうちに、いとなみ待つ〔計畫して竣成を待つ〕こと甚だ多し。
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167
一道に携はる人、あらぬ道〔自分の專門ならぬ道〕の席(むしろ)に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覺ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覺えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に爭ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と爭はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干(そこばく)の科(とが)あり。謹みてこれを忘るべし。をこ〔馬鹿〕にも見え、人にもいひけたれ〔言ひ消される。けなされる〕、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に滿たずして、つひに物に誇ることなし。
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168
年老いたる人の、一事すぐれたる才能ありて、「この人の後には、誰にか問はむ。」などいはるゝは、老(おい)の方人〔老人の味方、老人一般のため氣を吐くもの〕にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それもすたれたる所のなきは〔一點も缺點のないのは、五分の隙もない程精煉されて居るのは〕、「一生この事にて暮れにけり。」と拙く見ゆ。「今はわすれにけり。」といひてありなむ。大方は知りたりとも、すゞろにいひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず。」などいひたるは、なほ實(まこと)に道のあるじとも覺えぬべし。まして知らぬこと、したり顔に、おとなしくもどきぬべくもあらぬ人のいひ聞かするを、「さもあらず。」と思ひながら聞き居たる、いとわびし。
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169
「何事の式といふ事は、後嵯峨の御代迄はいはざりけるを、近き程よりいふ詞なり。」と、人の申し侍りしに、建禮門院高倉帝の中宮。平清盛の女。〕の右京大夫同上に仕へた女官の名、藤原伊行の女〕、後鳥羽院(ごとばのゐん)の御位(みくらゐ)の後、また内裏住したることをいふに、「世の式も變りたる事はなきにも〔同女房の書いた右京大夫集を引用したのである〕。」と書きたり。
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170
さしたる事なくて人の許(がり)行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば疾く歸るべし。久しく居たる、いとむつかし。人と對(むか)ひたれば、詞多く、身もくたびれ、心も靜かならず、萬の事さはりて時を移す、互のため益なし。厭はしげにいはむもわろし、心づきなき事〔氣にくはぬ事、氣乘りのしない事〕あらむをりは、なか\/〔却つて〕その由をもいひてむ。おなじ心に向はまほしく思はむ人の、つれ\〃/にて、「今しばし、今日は心しづかに。」などいはむは、この限りにはあらざるべし。阮籍〔晉の竹林七賢の一人〕が青き眼(まなこ)〔凉しい眼で親しむ意、晉書に「阮籍字嗣宗、不2禮教1、能爲2青白眼1對之、及2喜來弔12白眼1喜不擇而退、喜弟之、乃齎酒挾琴造焉、大悦乃見青眼。」〕、誰もあるべきことなり。その事となきに、人の來りて、のどかに物語して歸りぬる、いとよし。また文も、「久しく聞えさせねば。」などばかり言ひおこせたる、いと嬉し。
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貝をおほふ人〔貝合せをする人〕の、わが前なるをばおきて、よそを見渡して、人の袖の陰、膝の下まで目をくばる間(ま)に、前なるをば人に掩はれぬ。よく掩ふ人は、よそまでわりなく取るとは見えずして、近きばかりを掩ふやうなれど、多く掩ふなり。棊盤のすみに石を立てて彈くに、むかひなる石をまもりて彈くはあたらず。わが手もとをよく見て、こゝなるひじり目〔聖目、棊盤にある九の星〕をすぐに彈けば、立てたる石必ずあたる。萬のこと外に向きて求むべからず、たゞここもとを正しくすべし。清獻公〔宋の趙禹〕がことばに、「好事を行じて前程を問ふことなかれ。〔の座右銘に「行2好事12前程1。」好事は善事〕」といへり。世を保たむ道もかくや侍らむ。内を愼まず、輕くほしきまゝにしてみだりなれば、遠國必ずそむく時、始めて謀(はかりごと)をもとむ。「風に當り濕に臥して、病を神靈に訴ふるは愚かなる人なり〔本草序に出て居る〕。」と醫書にいへるが如し。目の前なる人の愁へをやめ、惠みを施し、道を正しくせば、その化遠く流れむことを知らざるなり。〔夏の禹王〕の行きて三苗(べう)〔江淮荊州の蠻國、之を征服せしむる事が出來ず國内に歸つて徳政を布いたら三苗も自然と歸服した、尚書にある〕を征せしも、師(いくさ)をかへして徳を布くには如かざりき。
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若き時は血氣内にあまり、心物に動きて、情欲〔喜怒哀樂愛惡欲の七情、眼耳鼻舌心意の六欲〕おほし。身をあやぶめて碎け易きこと、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて寶を費し、これを捨てて苔の袂〔僧衣、僧正遍照(*ママ)の歌に、「皆人は花の衣になりぬなり苔の袂よ乾きだにせよ」苔の衣とも云ふ〕にやつれ、勇める心盛りにして物と爭ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず、色に耽り情にめで、行ひを潔くして百年(もゝとせ)の身を誤り、命を失へたるためし願はしくして、身の全く久しからむことをば思はず。すけるかたに心ひきて、ながき世語りともなる。身をあやまつことは、若き時のしわざなり。老いぬる人は精神衰へ、淡くおろそかにして、感じ動くところなし。心おのづから靜かなれば、無益のわざをなさず、身を助けて愁へなく、人の煩ひなからむことを思ふ。老いて智の若き時にまされること、若くして貌(かたち)の老いたるにまされるが如し。
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小野小町がこと、極めてさだかならず。衰へたるさまは、玉造玉造小町壯衰書小町の晩年を敍した漢文〕といふ文に見えたり。この文清行(きよゆき)三善清行〕が書けりといふ説あれど、高野大師弘法大師、高野山金剛峯寺の開祖、永和(*承和)三年(*二年=835)寂〕の御作(おんさく)の目録に入れり。大師承和のはじめにかくれ給へり。小町が盛り〔妙齡時代〕なる事、その後のことにや、なほおぼつかなし。
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小鷹〔鴫鶉等の小禽を捉る小さな鷹〕によき犬、大鷹〔雉をとる大きな鷹〕に使ひぬれば、小鷹に惡(わる)くなるといふ。大に就き小を捨つる理まことにしかなり。人事(じんじ)多かる中に、道を樂しむより氣味深きはなし。これ實の大事なり。一たび道を聞きて、これに志さむ人、孰れの業かすたれざらむ、何事をか營まむ。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らむや。
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世には心得ぬ事の多きなり。友あるごとには、まづ酒をすゝめ、強ひ飮ませたるを興とする事、いかなる故とも心得ず。飮む人の顔、いと堪へ難げに眉をひそめ、人目をはかりて〔人目をぬすんで〕捨てむとし、遁げむとするを捕へて、引き留めて、すゞろに〔無暗に〕飮ませつれば、うるはしき人〔謹嚴な人、端然たる人〕も忽ちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も目の前に大事の病者(びゃうじゃ)となりて、前後も知らず倒(たふ)れふす。祝ふべき日などはあさましかりぬべし。あくる日まであたまいたく、物食はずによび臥し〔うめき臥し〕、生(しゃう)を隔てたるやうにして〔隔生即忘の意、前世と生れ代つた現世と全く異にした如く〕、昨日のこと覺えず、公私(おほやけわたくし)の大事を缺きて煩ひとなる。人をしてかゝる目を見すること、慈悲もなく、禮儀にもそむけり。かく辛き目にあひたらむ人、ねたく〔恨めしく〕口惜しと思はざらむや。他(ひと)の國にかゝる習ひあなりと、これらになき〔我が日本の國にない〕人事(ひとごと)にて傳へ聞きたらむは、あやしく不思議に覺えぬべし。人の上にて見たるだに、心うし。思ひ入りたるさまに〔思慮深げな樣で〕心にくしと〔奧ゆかしく〕見し人も、思ふ所なく〔分別もなく〕笑ひのゝしり、詞おほく、烏帽子(ゑばうし)ゆがみ、紐はづし、脛高くかゝげて、用意なきけしき、日頃の人とも覺えず。女は額髪はれらかに〔あらはに、むきだしに〕掻きやり、まばゆからず〔恥しい樣もなく〕、顔うちさゝげてうち笑ひ、杯持てる手に取りつき、よからぬ人〔品のない下劣な人〕は、肴とりて口にさしあて〔人の口に押しつけ〕、みづからも食ひたる、さまあし。聲の限り出して、おの\/謠ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、Kく穢き身を肩ぬぎて、目もあてられずすぢりたる〔身をひねらせ踊る意〕を、興じ見る人さへうとましく憎し。あるはまた我が身いみじき事ども、傍痛くいひ聞かせ、あるは醉ひ泣きし、下ざまの人はのりあひ〔罵り合ひ〕諍ひて、淺ましく、恐ろしく、はぢがましく、心憂き事のみありて、はては許さぬ物〔手にとつてはならぬと云ふ品物〕どもおし取りて、縁より落ち、馬車(むまくるま)より落ちてあやまちしつ。物にも乘らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築地、門の下などに向きて、えもいはぬ事〔嘔吐放尿などをさす〕ども爲ちらし、年老い袈裟かけたる法師の、小童の肩をおさへて、聞えぬ事〔わけのわからぬ事、こゝでは明かに男色に關するみだらな事〕どもいひつゝよろめきたる、いとかはゆし。かゝる事をしても、この世も後の世も、益あるべき業ならば如何はせむ。この世にては過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百藥の長〔漢書に「夫鹽食肴之將、酒百藥之長。」〕とはいへど、萬の病は酒よりこそ起れ。憂へを忘る〔漢書東方朔傳に「鎖憂莫酒。」〕といへど、醉ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。後の世は、人の智惠を失ひ、善根を燒く事火の如くして、惡を増し、萬の戒を破りて、地獄に墮つべし。「酒をとりて人に飮ませたる人、五百生が間手なき者に生る〔梵網經に「自身手遇2酒器1人飮酒者五百世無手、何況自飮。」〕。」とこそ、佛は説き給ふなれ。かく疎ましと思ふものなれど、おのづから捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して、杯いだしたる、萬の興を添ふるわざなり。つれ\〃/なる日、思ひの外に友の入り來て、取り行ひたるも心慰む。なれ\/しからぬあたり〔高貴の人〕の御簾のうちより、御菓子(おんくだもの)、御酒(みき)など、よきやうなるけはひしてさし出されたる、いとよし。冬せばき所にて、火にて物いりなどして、隔てなきどちさし向ひて多く飮みたる、いとをかし。旅の假屋、野山などにて、「御肴(みさかな)何。」などいひて、芝の上にて飮みたるもをかし。いたういたむ人〔非常に酒で惱む人、即ち下戸〕の、強ひられて少し飮みたるもいとよし。よき人のとりわきて、「今一つ、上すくなし。」などのたまはせたるも嬉し。近づかまほしき人の上戸にて、ひし\/と馴れぬる、また嬉し。さはいへど、上戸はをかしく罪許さるゝものなり。醉ひくたびれて朝寐(あさい)したる所を、主人(あるじ)の引きあけたるに、まどひて、ほれたる顔〔ねぼけた顔〕ながら、細き髻(もとゞり)さしいだし、物も著あへず抱きもち、引きしろひて〔ひつ張りひきずつて〕逃ぐるかいどり姿のうしろ手、毛おひたる細脛のほど、をかしくつき\〃/し。
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176
K戸〔K戸御所、清凉殿の北、瀧口の戸の西〕は、小松の御門〔光孝帝、小松の山陵に葬つたからかく云ふ〕位に即かせ給ひて、昔唯人(たゞびと)に坐(おはしま)しし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで常に營ませ給ひける間なり。御薪(みかまぎ)に煤けたればK戸といふとぞ。
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177
鎌倉の中書王〔一品中務卿宗尊親王、後嵯峨帝の第一皇子、中書王は中務卿の唐名、鎌倉幕府に將軍として居られた〕にて御(おん)鞠ありけるに、雨ふりて後未だ庭の乾かざりければ、いかゞせむと沙汰ありけるに、佐々木隱岐入道〔政義、義清の子〕、鋸の屑を車に積みておほく奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土のわづらひ無かりけり。「とりためけむ用意ありがたし。」と人感じあへりけり。この事をある者の語り出でたりしに、吉田中納言〔藤原藤房〕の、「乾き砂子の用意やはなかりける。」とのたまひたりしかば、恥しかりき〔作者自身も故實を知らなかつた故〕。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく異樣のことなり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子をまうくるは、故實なりとぞ。
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178
ある所の侍(さぶらひ)ども、内侍所〔宮中内侍所、鏡を奉安せる所〕の御(み)神樂を見て人に語るとて、「寶劒〔三種の神器の一なる天叢雲劒〕をばその人ぞ持ち給へる。」などいふを聞きて、内裏なる女房の中に、「別殿の行幸(ぎゃうかう)には、晝御座(ひのござ)の御劒(ぎょけん)にてこそあれ。」と忍びやかにいひたりし、心憎かりき。その人、ふるき典侍なりけるとかや。
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179
入宋(にっそう)の沙門道眼上人〔傳不詳〕、一切經を持來(ぢらい)して、六波羅のあたり、燒野といふ所に安置して、殊に首楞嚴經(しゅれうごんきゃう)〔一名中印度那蘭陀大道場經〕を講じて、那蘭陀寺と號す。その聖の申されしは、「那蘭陀寺は大門北むきなりと、江帥(かうそち−ママ)〔太宰權帥大江匡房〕の説とていひ傳へたれど、西域(さいゐき)傳玄奘が天竺へ行きし紀行文、大唐西域記〕、法顯(ほふけん−ママ)傳〔法顯の天竺へ行きし紀行文(*仏国記)〕などにも見えず、更に所見なし。江帥はいかなる才覺にてか申されけむ、おぼつかなし。唐土の西明寺は北向き勿論なり。」と申しき。
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180
さぎちやう〔三毬打、正月十五日清凉殿の東庭で青竹を燒く惡魔拂ひの儀式〕は、正月(むつき)に打ちたる毬杖(ぎぢゃう)〔毬打、正月毬を打つ兒童の遊戲具、槌に似たもの〕を、真言院〔大内裏、八書院(*八省院)の北、修法を行ふ道場〕より神泉苑(しんぜんゑん)〔二條の大宮なる池ある庭〕へ出して燒きあぐるなり。法成就〔三毬打の時に唄ふ歌詞〕の池にこそと囃すは、神泉苑の池をいふなり。

(*以下、次ファイル


 121 養ひ飼ふものには  122 人の才能は  123 無益の事をなして  124 是法法師は  125 人に後れて  126 博奕の負け極まりて  127 改めて益なきことは  128 雅房大納言は  129 顔囘は  130 物に爭はず  131 貧しきものは  132 鳥羽の作り道は  133 夜の御殿は  134 高倉院の法華堂の三昧僧  135 資季大納言入道とかや  136 醫師あつしげ  137 花は盛りに  138 祭過ぎぬれば  139 家にありたき木は  140 身死して財殘ることは  141 悲田院の堯蓮上人は  142 心なしと見ゆる者も  143 人の終焉の有樣の  144 栂尾の上人  145 御隨身秦重躬、北面の下野入道信願を  146 明雲座主、相者に逢ひ給ひて  147 灸治あまた所になりぬれば  148 四十以後の人  149 鹿茸を鼻にあてて  150 能をつかむとする人  151 ある人の曰く、年五十になるまで  152 西大寺靜然上人、腰かゞまり  153 爲兼大納言入道めしとられて  154 この人、東寺の門に  155 世に從はむ人は  156 大臣の大饗は  157 筆をとれば物書かれ  158 杯の底を捨つることは  159 みなむすびといふは  160 門に額かくるを  161 花の盛りは、冬至より  162 遍照寺の承仕法師  163 太衝の太の字  164 世の人相逢ふ時  165 東の人の、都の人に交はり  166 人間の營みあへる業を見るに  167 一道に携はる人  168 年老いたる人の  169 何事の式といふ事は  170 さしたる事なくて人の許行くは  171 貝をおほふ人の  172 若き時は血氣内にあまり  173 小野小町がこと  174 小鷹によき犬  175 世には心得ぬ事の  176 黒戸は、小松の御門  177 鎌倉の中書王にて  178 ある所の侍ども  179 入宋の沙門道眼上人  180 さぎちやうは  181-
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