徒然草 (4)
尾上八郎解題、山崎麓校訂
(校註日本文學大系3 國民圖書株式會社 1924.7.23)
※ 本文の句読点をそのまま残した。
(1) 1-60 (2) 61-120 (3) 121-180
181 降れ降れ粉雪 182 四條大納言隆親卿、乾鮭といふものを 183 人突く牛をば角を切り 184 相模守時頼の母は 185 城陸奧守泰盛は 186 吉田と申す馬乘の申し侍りしは 187 萬の道の人 188 ある者、子を法師になして 189 今日はその事をなさむと思へど 190 妻といふものこそ 191 夜に入りて物のはえ無しといふ人 192 神佛にも 193 くらき人の、人をはかりて 194 達人の人を見る眼は 195 ある人、久我畷を通りけるに 196 東大寺の神輿 197 諸寺の僧のみにもあらず 198 揚名介に限らず 199 横川の行宣法印が申しはべりしは 200 呉竹は葉ほそく 201 退凡下乘の卒都婆 202 十月をかみなづきといひて 203 敕勘の所に靫かくる作法 204 犯人を笞にて打つ時は 205 比叡山に、大師勸請の起請文といふ事は 206 徳大寺右大臣殿檢非違使の別當のとき 207 龜山殿建てられむとて 208 經文などの紐を結ふに 209 人の田を論ずるもの 210 喚子鳥は春のものなりと許りいひて 211 萬の事は頼むべからず 212 秋の月は 213 御前の火爐に火をおくときは 214 想夫戀といふ樂は 215 平宣時朝臣、老いの後昔語に 216 最明寺入道、鶴岡の社參の序に 217 ある大福長者の曰く 218 狐は人に食ひつく者なり 219 四條黄門命ぜられて曰く 220 何事も、邊土は卑しく 221 建治弘安のころは 222 竹谷の乘願房、東二條院へ參られたりけるに 223 田鶴の大殿は 224 陰陽師有宗入道、鎌倉より上りて 225 多久資が申しけるは 226 後鳥羽院の御時 227 六時禮讚は 228 千本の釋迦念佛は 229 よき細工は 230 五條の内裏には 231 園別當入道は、雙なき庖丁者なり 232 すべて人は無智無能なるべきものなり 233 萬の科あらじと思はば 234 人の物を問ひたるに 235 主ある家には 236 丹波に出雲といふ所あり 237 やない筥にすうるものは 238 御隨身近友が自讚とて 239 八月十五日、九月十三日は婁宿なり 240 しのぶの浦の蜑のみるめも所狹く 241 望月の圓なる事は 242 とこしなへに、違順につかはるゝ事は 243 八つになりし年、父に問ひていはく
181
「降れ\/粉雪(こゆき)、たんばの粉雪といふ事、米搗き篩(ふる)ひたるに似たれば粉雪といふ。たまれ粉雪といふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。垣や木の股にとうたふべし。」と或ものしり申しき。昔よりいひけることにや。鳥羽院(とばのゐん)をさなくおはしまして、雪の降るにかく仰せられけるよし、讚岐典侍が日記〔堀河帝の女房の日記〕に書きたり。
182
四條大納言隆親卿〔隆衡の子〕、乾鮭〔干鮭〕といふものを供御(ぐご)に參らせられたりけるを、「かく怪しきもの參るやうあらじ。」と人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚まゐらぬことにてあらむにこそあれ。鮭の素干(しらぼし)なでふことかあらむ。鮎の素干はまゐらぬかは。」と申されけり。
183
人突く牛をば角を切り、人くふ馬をば耳を切りてそのしるしとす。しるしをつけずして人をやぶらせぬるは、主(ぬし)の科なり。人くふ犬をば養ひ飼ふべからず。これみな科あり、律の禁(いましめ)なり。
184
相模守時頼の母は、松下禪尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。守を入れ申さるゝことありけるに、煤けたるあかり障子の破ればかりを、禪尼手づから小刀して切りまはしつゝ張られければ、兄(せうと)の城介義景、その日の經營(けいめい)〔けいめい。世話役〕して候(さぶら)ひけるが、「たまはりて、なにがし男に張らせ候はむ。さやうの事に心得たるものに候。」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ。」とてなほ一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張りかへ候はむは、遙かにたやすく候べし。斑に候も見苦しくや。」と、重ねて申されければ、「尼も後はさわ\/と張りかへむと思へども、今日ばかりはわざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理(しゅり)して用ゐることぞと、若き人に見ならはせて、心づけむ爲なり。」と申されける、いと有り難かりけり。世を治むる道、儉約を本とす。女性(にょしゃう)なれども聖人の心に通へり。天下をたもつほどの人を子にて持たれける、誠にたゞ人にはあらざりけるとぞ。
185
城(じゃうの)陸奧守泰盛〔城は出羽秋田城、城介で陸奧守を兼ねた、義景の子、北條時宗の舅〕は雙なき馬乘なりけり。馬を引き出でさせけるに、足をそろへて閾(しきみ)をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり。」とて鞍を置きかへ〔他の馬へ置きかへる〕させけり。また足を伸べて閾に蹴あてぬれば、「これは鈍くして過ちあるべし。」とて乘らざりけり。道を知らざらむ人、かばかり恐れなむや。
186
吉田と申す馬乘(むまのり)の申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力爭ふべからずと知るべし。乘るべき馬をばまづよく見て、強き所弱き所を知るべし。次に轡(くつわ)鞍の具に危きことやあると見て、心にかゝる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乘とは申すなり、これ秘藏(ひざう)〔秘傳、秘訣〕のことなり。」と申しき。
187
萬の道の人、たとひ不堪〔堪能ならぬこと、下手〕なりといへども、堪能〔上手〕の非家(ひか)の人〔その道の專門外の人〕にならぶ時〔立ちならびて競技などする時〕、必ずまさることは、たゆみなく愼みて輕々(かろ\〃/)しくせぬと、偏に自由なると〔專門外の人の勝手がましいのと〕の等しからぬなり。藝能所作のみにあらず、大方の振舞、心づかひも、愚かにして謹めるは得の本なり、巧みにしてほしきまゝなるは失の本なり。
188
ある者、子を法師になして、「學問して因果の理〔佛教の一教義、善因に善果、惡因に惡果ある理〕をも知り、説經などして世渡るたづき〔方法手段〕ともせよ。」といひければ、教のまゝに説經師にならむ爲に、まづ馬に乘りならひけり。「輿、車もたぬ身の、導師〔佛事の時主裁(*ママ)する人、説經師もその一〕に請ぜられむ時、馬など迎へにおこせたらむに、桃尻にて落ちなむは心憂かるべし。」と思ひけり。次に、「佛事の後、酒など勸むることあらむに、法師のむげに能なきは、檀那〔梵語ダンナパテの畧轉、施主、寺の保護者〕すさまじく思ふべし。」とて、早歌(さうか)〔當時流行した小唄の類であらう。〕といふ事をならひけり。二つのわざやう\/境(さかひ)に入りければ、愈(いよ\/)よくしたく覺えて嗜みける程に、説經習ふべき暇(ひま)なくて年よりにけり。この法師のみにもあらず、世間の人なべてこの事あり。若きほどは諸事につけて、身をたて、大きなる道をも成し、能をもつき、學問をもせむと、行末久しくあらます事〔豫期する事〕ども、心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつゝ、まづさしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日をおくれば、事毎になすことなくして身は老いぬ。つひにものの上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれどもとり返さるゝ齡ならねば、走りて坂をくだる輪の如くに衰へゆく。されば一生のうち、むねとあらまほしからむこと〔主として最も希望する事〕の中に、いづれか勝ると、よく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひすてて、一事を勵むべし。一日の中(うち)一時のうちにも、數多のことの來らむ中(なか)に、すこしも益のまさらむことを營みて、その外をばうち捨てて、大事をいそぐべきなり。いづかたをも捨てじと心にとりもちては〔絶えず心に思つては、執著しては〕、一事も成るべからず。たとへば棊(ご)をうつ人、一手もいたづらにせず、人にさきだちて、小をすて大につくが如し。それにとりて、三つの石をすてて、十(とを)の石につくことは易し。十をすてて十一につくことは、かたし。一つなりとも勝らむかたへこそつくべきを、十までなりぬれば惜しく覺えて、多くまさらぬ石には換へにくし。これをも捨てず、かれをも取らむと思ふこゝろに、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。京に住む人、急ぎて東山〔京都の東方に連る諸山の總稱〕に用ありて既に行きつきたりとも、西山〔京都の西なる諸山の總稱〕に行きてその益まさるべきを思ひえたらば、門(かど)よりかへりて西山へゆくべきなり。「こゝまで來著(きつ)きぬれば、この事をばまづいひてむ、日をささぬ〔日を指定せぬ、いつと日限をきめぬ〕ことなれば、西山の事はかへりてまたこそ思ひたためと思ふ故に、一時の懈怠(けだい)すなはち一生の懈怠となる。これをおそるべし。一事を必ず成さむと思はば、他の事の破るゝをも痛むべからず。人のあざけりをも恥づべからず。萬事にかへずしては一(いつ)の大事成るべからず。人のあまたありける中にて、あるもの、「ますほの薄まそほの薄〔まは接頭語、そほは赭色、色の赤い穗のすゝき、ますほはまそほの轉訛で意味は同じだが、當時之を秘傳めかして區別したのである。〕などいふことあり。渡邊(わたのべ)のひじり〔攝津渡邊に住んだ聖僧、傳不詳〕、この事を傳へ知りたり。」と語りけるを、登蓮法師〔傳不詳、作歌許りは詞花集以下の勅撰集にある、此の話は鴨長明の無名抄に出た。〕その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑笠やある、貸したまへ。かの薄のことならひに、渡邊の聖のがり尋ねまからむ。」といひけるを、「あまりに物さわがし。雨やみてこそ。」と人のいひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は雨の晴間を待つものかは、我も死に、聖もうせなば、尋ね聞きてむや。」とて、はしり出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し傳へたるこそ、ゆゝしくありがたう覺ゆれ。「敏(と)きときは則ち功あり〔論語に「敏則有レ功。」〕。」とぞ、論語といふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁〔佛法の後世往生の因縁〕をぞ思ふべかりける。
189
今日はその事をなさむと思へど、あらぬ急ぎまづ出で來て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ〔頼みに思はなかつた〕人はきたり、頼みたる方のことはたがひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、安かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎゆくさま、かねて思ひつるに似ず。一年(とせ)のこともかくの如し。一生の間もまたしかなり。かねてのあらまし、皆違ひゆくかと思ふに、おのづから違はぬ事もあれば、いよ\/ものは定めがたし。不定と心得ぬるのみ、誠にて違はず。
190
妻(め)といふものこそ、男(をのこ)の持つまじきものなれ。「いつも獨り住みにて。」など聞くこそ心憎けれ。「たれがしが婿になりぬ。」とも、又、「いかなる女をとりすゑて〔娶つて家に置いて〕相住む。」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。「異なることなき〔特長もない、平凡な〕女を、よしと思ひ定めてこそ、添ひ居たらめ。」と、賤しくもおし測られ、よき女ならば、「この男こそらうたくして〔可愛がつて〕、あが佛〔自分の本尊〕と守りゐたらめ。たとへば、さばかりにこそ。」と覺えぬべし。まして家の内を行ひをさめたる女、いと口惜し。子など出できて、かしづき〔大事にし〕愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年よりたる有樣、亡きあとまで淺まし。いかなる女なりとも、明暮そひ見むには、いと心づきなく憎かりなむ。女のためも、半空(なかぞら)〔中途半端、どつちつかず〕にこそならめ。よそながら時々通ひ住まむこそ、年月へても絶えぬなからひともならめ。あからさまに來て、泊り居(ゐ)などせむは、めづらしかりぬべし。
191
夜に入りて物のはえ〔物の光彩〕無しといふ人、いと口惜し。萬の物のきら、飾り、色ふし〔色あひ〕も、夜のみこそめでたけれ。晝は事そぎ〔省畧する〕、およすげたる(*ママ)〔ませた、じみな人目につかぬ〕姿にてもありなむ。夜はきらゝかに花やかなる裝束(さうぞく)いとよし。人のけしきも、夜の火影(ほかげ)ぞよきはよく〔よきものはいよ\/よく〕、物いひたる聲も、暗くて聞きたる、用意ある、心憎し。匂ひも物の音も、たゞ夜ぞひときはめでたき。さして異なる事なき夜、うち更けて參れる人の、清げなる樣したる、いとよし。若きどち心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、殊にうちとけぬべき折節ぞ、褻晴れなく〔褻と晴となく、ふだん著と晴著との區別なく〕引きつくろはまほしき。よき男(をのこ)の、日くれてゆするし〔■(三水+甘:かん::大漢和17289)し、米汁にて髪を洗ふ事、こゝでは髪を洗ひ梳り〕、女も夜更くる程に、すべり〔退出し〕つゝ、鏡とりて顔などつくろひ出づるこそをかしけれ。
192
神佛(かみほとけ)にも、人の詣でぬ日、夜まゐりたる、よし。
193
くらき人〔闇愚者〕の、人をはかりて〔忖度して、推量して〕、その智を知れりと思はむ、更に當るべからず。拙き人の、棊うつことばかりに敏(さと)くたくみなるは、賢き人のこの藝におろかなるを見て、おのれが智に及ばずと定めて、萬の道のたくみ、わが道を人の知らざるを見て、おのれ勝れたりと思はむこと、大きなるあやまりなるべし。文字(もんじ)の法師、暗證(あんじょう)の禪師〔學問を主とする法師、即ち教相を習うて實際的の坐禪を知らぬ僧と、坐禪工夫を主として、教理の研究の足らぬ僧と〕、互(たがひ)にはかりて、おのれに如かずと思へる、共にあたらず。己が境界にあらざるものをば、爭ふべからず、是非すべからず。
194
達人〔道理に通達する人、賢達の人〕の人を見る眼(まなこ)は、少しも誤る處あるべからず。たとへば、ある人の、世に虚言を構へ出して、人をはかることあらむに、素直に眞と思ひて、いふ儘にはからるゝ人あり。あまりに深く信をおこして、なほ煩はしく虚言を心得添ふる人あり。また何としも思はで、心をつけぬ人あり。又いさゝかおぼつかなく覺えて、たのむにもあらずたのまずもあらで、案じ居たる人あり。又まことしくは覺えねども、人のいふことなれば、さもあらむとて止みぬる人もあり。又さま\〃/に推し心得たるよしして、かしこげに打ちうなづき、ほゝゑみて居たれど、つや\/知らぬ人あり。また推し出して、あはれさるめりと思ひながら、なほ誤りもこそあれと怪しむ人あり。又異なるやうも無かりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。また心得たれども、知れりともいはず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じ樣(やう)にて過ぐる人あり。またこの虚言の本意(ほんい)を、初めより心得て、すこしも欺かず、構へいだしたる人とおなじ心になりて、力をあはする人あり。愚者の中のたはぶれだに、知りたる人の前にては、このさま\〃/の得たる所〔特質〕、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。ましてあきらかならむ人の、惑へるわれらを見むこと、掌(たなごゝろ)の上のものを見むがごとし。たゞしかやうのおしはかりにて、佛法までをなずらへ言ふべきにはあらず。
195
ある人、久我畷(こがなはて)〔京都の南、鳥羽の西、桂川の西岸から山崎へ至る眞直ぐな道〕を通りけるに、小袖〔下著〕に大口〔大口袴、束帶の時表袴の下に著る裾の口の大きくあいてる(*ママ)袴〕きたる人、木造(きづくり)の地藏を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣の男二人三人出で來て、「こゝにおはしましけり。」とて、この人を具して往にけり。久我内大臣殿〔通基、通忠の子〕にてぞおはしける。尋常(よのつね)におはしましける時は〔平常あたりまへの時は。即ち今精神に發作的異常のある事をほのめかしてある〕、神妙(しんべう)にやんごとなき人にておはしけり。
196
東大寺の神輿(しんよ)〔奈良東大寺の鎭守である手向山八幡宮の神輿〕、東寺の若宮〔東寺の鎭守たる男山八幡宮に本宮と若宮とがある、若宮は仁徳帝をまつる〕より歸座〔男山から手向山へ歸る事〕のとき、源氏の公卿參られけるに、この殿〔前出の久我通基〕大將(たいしゃう)にて、先を追はれけるを、土御門相國〔定實〕、「社頭にて警蹕(けいひつ)〔先を追ふ事〕いかゞはべるべからむ。」と申されければ、「隨身のふるまひは、兵仗の家が知る事に候。」とばかり答へ給ひけり。さて後に仰せられけるは、「この相國、北山抄〔藤原公任の著書。一條帝以後の典禮を書いてある〕を見て、西宮(せいきう)〔源高明著の西宮記〕の説をこそ知られざりけれ。眷属の惡鬼(あくき)惡神を恐るゝゆゑに、神社にて殊に先を追ふべき理あり。」とぞ仰せられける。
197
諸寺の僧のみにもあらず、定額(ぢゃうがく)の女嬬〔一定の人數の下級の女官〕といふこと、延喜式〔延喜年間に出來し年中行事典禮の書、藤原時平、忠平の編著〕に見えたり。すべて數さだまりたる公人(くにん)の通號にこそ。
198
揚名介(やうめいのすけ)〔名目ありて職掌俸給なき介〕に限らず、揚名目(さくゎん)〔國司中第四級目の役〕といふものあり。政事要畧〔古來の法制を編纂したる書、一條帝の時惟宗允亮(*まさすけ)編〕にあり。
199
横川(よがは)〔叡山横川谷〕の行宣法印が申しはべりしは、「唐土は呂の國なり、律の音(こゑ)なし。和國は單律の國にて呂の音なし。」と申しき。
200
呉竹は葉ほそく、河竹は葉ひろし。御溝(みかは)にちかきは河竹、仁壽殿(じじうでん)〔清凉殿東〕の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。
201
退凡下乘〔凡人の出入を禁じ、貴人も車馬から下る、標札の代りに三つの卒塔婆〕の卒塔婆、外なるは下乘、内なるは退凡なり。
202
十月をかみなづき〔雷無月とか神嘗月とか諸説がある。〕といひて、神事に憚るべき由は、記したるものなし。本文(ほんもん)も見えず。たゞし、當月諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。この月萬の神たち、太神宮へ集り給ふなどいふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸(ぎゃうかう)、その例も多し。但し多くは不吉の例なり。
203
敕勘(ちょくかん)の所に靫(ゆぎ)〔矢を入れる器〕かくる作法、今は絶えて知れる人なし。主上の御惱(ごなう)、大かた世の中のさわがしき時は、五條の天神〔京都五條南、西洞院の西、少彦名神〕に靫をかけらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫かけられたりける神なり。看督長(かどのをさ)〔檢非違使廳附屬の官〕の負ひたる靫を、その家にかけられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封をつくることになりにけり。
204
犯人を笞(しもと)にて打つ時は、拷器(がうき)によせて結ひつくるなり。拷器のやうも、よする作法も今はわきまへ知れる人なしとぞ。
205
比叡山に、大師勸請(くゎんじゃう)の起請文〔慈惠大師の書かれた神佛の靈を迎へ請じての誓文〕といふ事は、慈惠(じゑ)僧正〔良源、近江淺井の人、後天台座主となる。〕書きはじめ給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。古の聖代、すべて起請文につきて行はるゝ政はなきを、近代このこと流布したるなり。また法令には、水火に穢れをたてず、入物(いれもの)にはけがれあるべし。
206
徳大寺右大臣殿〔公孝、後太政大臣〕檢非違使の別當のとき、中門にて使廳の評定行はれけるほどに、官人(くゎんにん)章兼が牛はなれて、廳のうちへ入りて、大理〔同檢非違使別當の唐名〕の座の濱床〔三尺四方、高さ一尺の臺四つを合し上に疊を敷き帳を埀れし貴人席〕の上にのぼりて、にれ〔獸の反芻〕うち噛みて臥したりけり。重き怪異(けい)なりとて、牛を陰陽師のもとへ遣すべきよし、おの\/申しけるを、父の相國聞きたまひて、「牛に分別なし、足あらばいづくへかのぼらざらむ。■(兀〈尢〉+王:おう:弱い:大漢和7559)弱(わうじゃく)の官人、たま\/出仕の微牛をとらるべきやうなし。」とて、牛をば主にかへして、臥したりける疊をばかへられにけり。あへて凶事なかりけるとなむ。怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりてやぶる〔千金方に「見レ怪不レ怪、其怪自壞。」〕といへり。
207
龜山殿〔嵯峨龜山の仙洞御所〕建てられむとて、地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなは)數もしらず凝り集りたる塚ありけり。この所の神なりといひて、事の由申しければ、「いかゞあるべき。」と敕問ありけるに、「ふるくよりこの地を占めたるものならば、さうなく掘り捨てられがたし。」とみな人申されけるに、この大臣一人、「王土に居らむ蟲、皇居を建てられむに、何の祟りをかなすべき。鬼神は邪なし。咎むべからず。唯皆掘りすつべし。」と申されたりければ、塚をくづして、蛇をば大井川に流してけり。更にたゝりなかりけり。
208
經文などの紐〔卷物の經文で紐がある。〕を結ふに、上下(うへした)より襷にちがへて〔襷のやうに交叉し〕、二すぢの中(なか)より、わな〔紐の曲つた先を云ふ。〕の頭(かしら)を横ざまにひき出すことは、常のことなり。さやうにしたるをば、華嚴院の弘舜僧正〔傳不詳〕解きて直させけり。「これはこの頃やう〔近代風、當世風〕のことなり。いと見にくし。うるはしくは〔完全なのは〕、たゞくるくると捲きて上より下へ、わなの先を挿(さしはさ)むべし。」と申されけり。ふるき人にて、かやうのこと知れる人になむ侍りける。
209
人の田を論ずるもの、訟(うた)へにまけて嫉(ねた)さに、その田を刈りて取れとて、人をつかはしけるに、まづ道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは。」といひければ、刈るものども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事せむとてまかるものなれば、いづくをか刈らざらむ。」とぞいひける。ことわりいとをかしかりけり。
210
喚子鳥〔古今三鳥の一としてやかましく云ふ鳥、郭公鳥であらうと云ふ。〕は春のものなりと許りいひて、いかなる鳥ともさだかに記せる物なし。ある眞言書の中(うち)に、喚子鳥なくとき招魂の法〔死者の魂を呼び招く秘法〕をば行ふ次第あり。これは鵺(ぬえ)〔梟の類〕なり。萬葉集の長歌(ながうた)に、「霞たつ永き春日(はるび)の〔同卷一、「ぬえこどりうらなけ居れば」云々〕。」など續けたり。鵺鳥も喚子鳥の事樣に通ひて聞ゆ。
211
萬の事は頼むべからず。愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、うらみ怒ることあり。勢ひありとて頼むべからず、こはき者まづ滅ぶ。財多しとて頼むべからず、時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず、孔子も時に遇はず〔史記に「孔子于2七十餘君1無レ所レ遇。」〕。徳ありとてたのむべからず、顔囘も不幸なりき〔論語に「有2顔囘者1不幸短命死。」〕。君の寵をも頼むべからず、誅をうくる事速かなり。奴したがへりとて頼むべからず、そむき走ることあり。人の志をも頼むべからず、かならず變ず。約をも頼むべからず、信(まこと)あることすくなし。身をも人をも頼まざれば、是なる時はよろこび、非なる時はうらみず、左右(さう)廣ければさはらず、前後遠ければふさがらず、せばき時はひしげくだく〔壓し碎く〕。心を用ゐること少しきにしてきびしき時は、物に逆(さか)ひ爭ひてやぶる。寛(ゆる)くして柔かなるときは、一毛も損ぜず。人は天地の靈なり。天地はかぎるところなし。人の性(しゃう)何ぞ異ならむ。寛大にして窮らざるときは、喜怒これにさはらずして、物のためにわづらはず。
212
秋の月は限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらむ人は、無下に心うかるべきことなり。
213
御前の火爐(くゎろ)〔火鉢〕に火おくときは、火箸して挾む事なし。土器(かはらけ)より直ちにうつすべし。されば轉び落ちぬやうに心得て、炭を積むべきなり。八幡(やはた)の御幸(ごかう)〔男山八幡宮に上皇のゆかれる事〕に、供奉の人淨衣を著て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、「白き物を著たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず。」と申されけり。
214
想夫戀(さうふれん)〔白氏文集には相夫憐とある、相府蓮といふ説もある、本文に出て居る。〕といふ樂は、女、男を戀ふる故の名にはあらず。もとは相府蓮、文字のかよへるなり。晉の王儉、大臣(おとゞ)として、家に蓮(はちす)を植ゑて愛せしときの樂なり。これより大臣を蓮府(れんぷ)〔大臣の邸〕といふ。廻忽(くゎいこつ)〔樂の名〕も廻鶻(くゎいこつ)なり。廻鶻國〔囘乾とも云ふ、外蒙古の一種族〕とて夷の強(こは)き國あり、その夷、漢に伏して後にきたりて、おのれが國の樂を奏せしなり。
215
平宣時朝臣〔大佛陸奧守宣時、朝直の子〕、老いの後昔語に、「最明寺入道、ある宵の間によばるゝ事ありしに、『やがて〔すぐ〕。』と申しながら、直垂のなくて、とかくせし程に、また使きたりて、『直垂などのさふらはぬにや。夜なれば異樣〔粗末のもの〕なりとも疾く。』とありしかば、なえたる〔布の糊がぬけて萎えたる〕直垂、うち\/の儘にて〔平常のまゝで〕罷りたりしに、銚子にかはらけ取りそへてもて出でて、『この酒をひとりたうべむ〔たべん〕がさう\〃/しければ申しつるなり。肴こそなけれ、人はしづまりぬらむ。さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ。』とありしかば、紙燭(しそく)〔脂燭とも書く、紙に脂油をぬりしもの〕さしてくま\〃/〔すみずみ〕を求めしほどに、臺所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少しつきたるを見出でて、『これぞ求め得て候。』と申ししかば、『事足りなむ。』とて、心よく數獻(すこん)に及びて興に入られはべりき。その世にはかくこそ侍りしか。」と申されき。
216
最明寺入道、鶴岡の社參の序(ついで)に、足利左馬入道〔足利義氏、義兼の子〕の許へ、まづ使を遣して、立ちいられたりけるに、あるじまうけられたりけるやう〔饗應設備の樣〕、一獻に打鮑〔鮑肉を打ちのべたもの〕、二獻にえび、三獻にかい餅(もちひ)〔今の萩の餅〕にて止みぬ。その座には、亭主(ていす)夫婦、隆辨僧正〔鶴ヶ岡八幡の別當〕、あるじ方〔主人側〕の人にて坐せられけり。さて、「年ごとに賜はる足利の染物心もとなく〔不安心、貰へるか心配〕候。」と申されければ、「用意し候。」とて、いろいろの染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせ〔仕立てさせ〕て、後につかはされけり。その時見たる人のちかくまで侍りしが、かたり侍りしなり。
217
ある大福長者の曰く、「人は萬をさしおきて、一向(ひたぶる)に徳をつく〔富を身につける〕べきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかむとおもはば、すべからくまづその心づかひを修行すべし。その心といふは他の事にあらず。人間常住の思ひに住して、假にも無常を觀ずる事なかれ。これ第一の用心なり。次に萬事の用をかなふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に從ひて志を遂げむと思はば、百萬の錢ありといふとも、しばらくも住すべからず。所願は止むときなし。財は盡くる期(ご)あり。かぎりある財をもちてかぎりなき願ひに從ふこと、得べからず。所願心に兆すことあらば、われを亡すべき惡念きたれりと、かたく愼みおそれて、小用〔一寸した用〕をもなすべからず。次に、錢を奴〔下僕〕の如くしてつかひ用ゐるものと知らば、長く貧苦を免るべからず。君の如く神のごとくおそれ尊みて、從へ用ゐることなかれ。次に恥にのぞむといふとも、怒り怨むる事なかれ。次に正直にして、約をかたくすべし。この義を守りて利をもとめむ人は、富の來ること、火の乾けるに就き、水の下れるに從ふ〔非常に容易に出來る比喩、易に「水流レ濕、火就レ燥。」〕が如くなるべし。錢つもりて盡きざるときは、宴飮聲色〔酒宴と音樂と性欲〕を事とせず、居所をかざらず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く樂し。」と申しき。そも\/人は所願を成ぜむがために財をもとむ。錢を財とする事は、願ひをかなふるが故なり。所願あれどもかなへず、錢あれども用ゐざらむは、全く貧者とおなじ。何をか樂しびとせむ。このおきてはたゞ人間の望みを絶ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲をなして樂しびとせむよりは、しかじ財なからむには。癰疽(ようそ)〔共に腫物の名稱、發熱烈しく危險な腫物〕を病む者、水に洗ひて樂しびとせむよりは、病まざらむには如かじ。こゝに至りては、貧富分くところなし。究竟(くきゃう)〔天台に六階級あつて凡夫が成佛するまでを分つてある、究竟はその最高。〕は理即〔同上の最低階級、單に佛性のみ具備して開覺されないもの〕にひとし。大欲は無欲に似たり。
218
狐は人に食ひつく者なり。堀河殿〔太政大臣久我基具の邸〕にて、舍人〔御厩の牛飼〕が寢たる足を、狐にくはる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師〔身分の低い法師〕に、狐三つ飛びかゝりて食ひつきければ、刀を拔きてこれを拒(ふせ)ぐ間、狐二疋を突く。一つはつき殺しぬ。二は遁げぬ。法師はあまた所くはれながら、ことゆゑなかりけり。
219
四條黄門〔中納言四條隆資、黄門は中納言の唐名〕命ぜられて曰く、「龍秋〔樂人豐原龍秋、笙の名手〕は道にとりてはやんごとなき者なり。先日來りて曰く、『短慮の至り〔淺はかな考への至り、謙遜した語〕、極めて荒涼(くゎうりゃう)〔すさまじい無作法〕の事なれども、横笛(わうてき)の五の穴〔横笛には吹口の外七つ穴がある、その笛の端から三つ目の穴、下無調〕は、聊か訝(いぶ)かしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。そのゆゑは、干(かん)の穴〔同じく二つ目の穴、平調〕は平調(ひゃうでう)、五の穴は下無調(しもむでう)なり。その間に勝絶調(しょうぜつでう)〔(*以下)皆七つの笛穴より出づ(*る)音律の中間の音である。〕をへだてたり。上(じゃう)の穴〔雙調とも云ふ。〕雙調(さうでう)、次に鳧鐘調(ふしょうでう)をおきて、夕(さく)の穴黄鐘調(わうじきでう)なり。その次に鸞鏡調(らんけいでう)をおきて、中の穴盤渉調(ばんじきでう)、中と六との間(あはひ)に神仙調あり。かやうに間々にみな一律をぬすめるに、五の穴のみ上の間に調子をもたずして、しかも間をくばる事ひとしきゆゑに、その聲不快なり。さればこの穴を吹くときは、かならずのく。のけあへぬときは物にあはず。吹き得る人難し。』と申しき。料簡(れうけん)のいたり、まことに興あり。先達後生を恐るといふ事、この事なり。」と侍りき。他日に景茂(かげもち)〔大神景茂〕が申し侍りしは、「笙は調べおほせてもちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛はふきながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴ごとに口傳の上に、性骨(せいこつ)〔天性得た骨〕を加へて心を入るゝ事、五の穴のみにかぎらず。偏にのくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も快からず。上手はいづれをも吹きあはす。呂律〔調子〕のものにかなはざるは、人の咎なり、器(うつはもの)の失にあらず。」と申しき。
220
「何事も、邊土は卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺(てんわうじ)〔大阪に存する四天王寺〕の舞樂のみ、都に恥ぢず。」といへば、天王寺の伶人〔樂人〕の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子〔聖徳太子、即ち四天王寺の創建者〕の御時の圖、今にはべる博士(はかせ)〔節博士、音譜を云ふ〕とす。いはゆる六時堂〔晨朝、日中、日沒、初夜、中夜、後夜の六時に勤をする堂〕の前の鐘なり。そのこゑ黄鐘調の最中(もなか)〔黄鐘調は音調の名、そのまんなか〕なり。寒暑に從ひて上(あが)り下(さが)りあるべきゆゑに、二月(きさらぎ)涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)〔二月二十二日聖徳太子の忌日〕までの中間を指南とす。秘藏(ひざう)のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり。」と申しき。およそ鐘のこゑは黄鐘調なるべし。これ無常の調子、祇園精舍の無常院〔印度舍衞國の寺院、その西北隅にある無常院と云ふ寺〕の聲なり。西園寺〔山城衣笠岡の西北、西園寺公經の建立した寺〕の鐘、黄鐘調に鑄らるべしとて、あまたたび鑄替へられけれども、かなはざりけるを、遠國(をんごく)よりたづね出されけり。法金剛院〔山城葛野郡太秦にある寺〕の鐘の聲、また黄鐘調なり。
221
建治弘安のころは、祭の日の放免(ほうべん)〔檢非違使廳の下部の名稱〕のつけものに、異樣なる紺の布四五端(たん)にて、馬をつくりて、尾髪(をがみ)には燈心をして、蜘蛛の網(い)かきたる水干〔水ばりせし絹の狩衣〕に附けて、歌の心などいひて渡りしこと、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか。」と、老いたる道志〔明法道の者、檢非違使廳四番目の役になつた名稱〕どもの、今日(けふ)もかたりはべるなり。この頃は、つけもの年をおくりて、過差(くゎさ)ことの外になりて、萬の重きものを多くつけて、左右(さう)の袖を人にもたせて、みづからは鋒(ほこ)をだに持たず、息づき苦しむ有樣いと見ぐるし。
222
竹谷〔山城醍醐の地名〕の乘願房〔そこに居りし淨土宗の法師〕、東二條院(とうにでうのゐん)〔後深草帝の皇后公子〕へ參られたりけるに、「亡者の追善には何事か勝利多き。」と尋ねさせ給ひければ、「光明眞言、寶篋印陀羅尼〔共に眞言宗の呪語〕。」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念佛に勝ること候まじとは、など申し給はぬぞ。」と申しければ、「わが宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、まさしく稱名(しゃうみゃう)を追福に修(しゅ)して巨益(こやく)あるべしと説ける經文を見及ばねば、何に見えたるぞと、重ねて問はせ給はば、いかゞ申さむとおもひて、本經(ほんぎゃう)のたしかなるにつきて、この眞言、陀羅尼をば申しつるなり。」とぞ申されける。
223
田鶴(たづ)の大殿(おほいどの)〔九條基家、良經の子〕は、童名たづ君なり。「鶴を飼ひ給ひける故に。」と申すは僻事なり。
224
陰陽師有宗入道〔陰陽頭安位、有宗、有重の子〕、鎌倉より上りて、尋ねまうできたりしが、まづさし入りて、「この庭の徒らに廣き事、淺ましく、あるべからぬことなり。道を知るものは、植うる事をつとむ。細道ひとつ殘して、みな畠に作りたまへ。」と諫め侍りき。誠にすこしの地をも徒らに置かむことは益(やく)なきことなり。食ふ物、藥種などうゑおくべし。
225
多久資(おほのひさすけ)〔多氏、音樂家の家〕が申しけるは、通憲入道〔藤原信西、平治亂に殺された。〕、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師〔舞姫、讚岐國小磯から出た。〕といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に鞘卷(さうまき)(*原文ルビ「きうまき」)〔鍔なき短刀の一種〕をささせ、烏帽子をひき入れ〔かぶる〕たりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神(ぶっしん)の本縁〔由來〕をうたふ。その後源光行〔歌人、光末の子〕、おほくの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊〔京都白拍子〕に教へさせ給ひけるとぞ。
226
後鳥羽院の御時、信濃前司〔以前の國司〕行長〔傳不詳〕稽古の譽(ほまれ)ありけるが、樂府〔漢詩の一詩形〕の御(み)論議の番に召されて、七徳の舞〔秦王破陣樂の一名、武徳の頌語七つある、之を七徳と稱する。〕を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚(くゎしゃう)、一藝ある者をば、下部までも召しおきて、不便(ふびん)にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道平家物語を作りて、生佛〔琵琶の名手〕といひける盲目に教へて語らせけり。さて山門のことを殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事弓馬のわざは、生佛東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。
227
六時禮讃〔淨土宗で、晝夜六時に禮拜讃美する歌〕は、法然上人の弟子安樂といひける僧、經文を集めて作りて勤めにしけり。その後太秦の善觀房〔傳不詳〕といふ僧、ふしはかせを定めて聲明(しゃうみゃう)〔印度聲樂の一、經文を美音で朗讀する事、一名梵唄〕になせり。一念の念佛〔稱名念佛、一聲口の念佛〕の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讚〔唱文の名〕も同じく善觀房はじめたるなり。
228
千本〔京都北野神社の東北にある大報恩寺〕の釋迦念佛〔同寺で三月九日から十五日まである法會〕は、文永のころ、如輪(じょりん)上人〔法然上人の門弟、澄空〕これを始められけり。
229
よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀〔攝津勝尾寺の僧、同寺の觀音を刻む。〕が刀はいたく立たず。
230
五條の内裏には妖物(ばけもの)ありけり。藤(とうの)大納言殿〔藤原爲世の事であらう。〕語られ侍りしは、殿上人ども、K戸〔清凉殿の北、瀧口の戸の西〕にて棊をうちけるに、御簾をかゝげて見る者あり。「誰(た)そ。」と見向きたれば、狐、人のやうについゐてさしのぞきたるを、「あれ狐よ。」ととよまれて、まどひ逃げにけり。未練の狐化け損じけるにこそ。
231
「『園別當入道〔藤原基氏、基家の子〕は、雙(さう)なき庖丁者(はうちゃうじゃ)〔料理人〕なり。ある人の許にて、いみじき鯉を出したりければ、みな人、別當入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でむも如何とためらひけるを、別當入道さる人にて、「この程百日の鯉〔祈願により百日間、毎日鯉を切る事〕を切り侍るを、今日缺き侍るべきにあらず、まげて申しうけむ。」とて切られける、いみじくつき\〃/しく興ありて、人ども思へりける。』と、ある人北山太政入道殿〔西園寺公經〕に語り申されたりければ、『かやうの事、おのれは世にうるさく覺ゆるなり。切りぬべき人なくば、たべ〔自分の方へ賜への意〕、切らむといひたらむは、猶よかりなむ。なんでふ百日の鯉を切らむぞ。』と宣ひたりし、をかしくおぼえし。」と人のかたり給ひける、いとをかし。大かたふるまひて興あるよりも、興なくて安らかなるがまさりたることなり。賓客(まれびと)の饗應なども、ついで〔機會〕をかしき樣にとりなしたるも、誠によけれども、唯その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らむ。」といひたる、まことの志なり。惜しむよしして乞はれむと思ひ、勝負の負けわざ〔物をかけて勝負する事〕にことつけなどしたる、むつかし。
232
すべて人は無智無能なるべきものなり。ある人の子の、見ざまなど惡しからぬが、父の前にて人と物いふとて、史書の文をひきたりし、賢(さか)しくは聞えしかども、尊者の前にては、然(さ)らずともと覺えしなり。
またある人の許にて、琵琶法師の物語をきかむとて、琵琶を召しよせたるに、柱(ぢう)〔琴ぢの類、絃の下に立て絲を受けるもの、琵琶ではぢうと云ふ。〕のひとつ落ちたりしかば、「作りてつけよ。」といふに、ある男の中(うち)に、あしからずと見ゆるが、「ふるき柄杓(ひさく)の柄(え)ありや。」などいふを見れば、爪をおふしたり。琵琶など彈くにこそ。めくら法師の琵琶、その沙汰にもおよばぬことなり。道に心えたるよしにやと、かたはらいたかりき。「ひさくの柄は、ひもの〔薄き檜の板を曲げしものを云ふ。〕木とかやいひて、よからぬものに。」とぞ、或人仰せられし。わかき人は、少しの事もよく見え、わろく見ゆるなり。
233
萬の科(とが)〔過失〕あらじと思はば、何事にも誠ありて、人を分かず〔人を區別せず〕恭しく、言葉すくなからむには如かじ。男女(なんにょ)老少みなさる人こそよけれども、殊に若くかたちよき人の、言うるはしきは〔言葉の丁寧なのは〕、忘れがたく思ひつかるゝ〔印象を殘される〕ものなり。よろづのとがは、馴れたるさまに上手めき〔上手を衒ひ、上手ぶり〕、所得たるけしきして、人をないがしろにするにあり。
234
人の物を問ひたるに、知らずしもあらじ〔先方が知らないわけでもあるまい〕。有りのまゝにいはむはをこがまし〔馬鹿らしい〕とにや、心まどはす〔先方で理解出來ず迷ふ〕やうに返り事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、猶さだかにと思ひてや問ふらむ。又まことに知らぬ人もなどか無からむ。うらゝか〔明瞭〕に言ひ聞かせたらむは、おとなしく〔穩健に〕聞えなまし。人はいまだ聞き及ばぬことを、わが知りたる儘に、「さてもその人の事の淺ましき。」などばかり言ひやりたれば、いかなる事のあるにかと推し返し問ひにやるこそ、こゝろづきなけれ。世にふりぬる事をも、おのづから聞きもらす事もあれば、覺束なからぬやうに告げやりたらむ、惡しかるべきことかは。かやうの事は、ものなれぬ人のあることなり。
235
主(ぬし)ある家には、すゞろなる人〔用のない人、むやみな人〕、心の儘に入り來る事なし。主(あるじ)なき所には道行人(みちゆきびと)みだりに立ち入り、狐梟やうの者も、人氣(げ)にせかれねば〔人の居る樣子に堰きとめられないから〕、所得顔に入り住み、木精(こだま)〔木魂、老樹の精靈など木石の化生物〕などいふけしからぬ〔多年の習慣で異樣なの意に用ゐて居る〕形もあらはるゝものなり。また鏡には、色形なき故に、よろづの影きたりてうつる。鏡に色形あらましかば、うつらざらまし。虚空〔中のからなもの〕よくものを容る。われらが心に、念々〔種々の考へ〕のほしきまゝにきたり浮ぶも、心といふものの無きにやあらむ。心にぬしあらましかば、胸のうちに若干(そこばく)のことは入りきたらざらまし。
236
丹波に出雲〔丹波の地名、そこに同名の國幣中社がある。〕といふ所あり。大社(おほやしろ)〔出雲大社〕を遷して、めでたく造れり。志太の某(なにがし)とかやしる所〔領する所〕なれば、秋の頃、聖海上人〔不明傳(*ママ)〕、その外も人數多誘ひて、「いざたまへ〔さあおいでなさい〕、出雲拜みに。かいもちひ召させむ。」とて、具しもていきたるに、おの\/拜みて、ゆゝしく信起したり。御前なる獅子狛犬〔社前なる惡魔ばらひの裝飾〕、そむきて後ざまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやういと珍し。深き故あらむ。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら〔皆さん〕、殊勝の事は御覽じとがめずや。無下なり。」といへば、おの\/あやしみて、「まことに他に異なりけり、都のつと〔土産〕にかたらむ。」などいふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官をよびて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらむ。ちと承らばや。」といはれければ、「そのことに候。さがなき童(わらはべ)どもの仕りける、奇怪に候ことなり。」とて、さし寄りてすゑ直して往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
237
やない筥〔柳の木の三角形の細木を編み合せた筥、後世はその編み合せたものに足をつけた机形〕にすうるものは、縦ざま横ざま、物によるべきにや。「卷物などは縦ざまにおきて、木のあはひより、紙捻(かみひね)り〔かうより〕(*こより)を通して結ひつく。硯も縦ざまにおきたる、筆ころばずよし。」と三條右大臣殿〔不明〕おほせられき。勘解由小路(かでのこうぢ)の家〔藤原行成の子孫で世尊寺と云ふ書道を以て立つた家〕の能書の人々は、假にも縦ざまにおかるゝことなし、必ず横ざまにすゑられ侍りき。
238
御(み)隨身近友〔傳不明〕が自讚〔自分自身をほめる事〕とて、七箇條かきとゞめたる事あり。みな馬藝(ばげい)させることなき事どもなり。その例をおもひて、自讚のこと七つあり。
一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院〔京都の東の郊外、南禪寺内にあつた寺〕の邊にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒(たふ)れて落つべし、しばし見給へ。」とて立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乘れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。
一、當代〔後醍醐帝〕いまだ坊〔東宮坊、こゝでは皇太子を意味する。〕におはしまししころ、萬里小路殿(までのこうぢどの)御所なりしに、堀河大納言殿〔藤原師信、師繼の子、當時東宮大夫〕伺候し給ひし御(み)曹司〔曹子とも書く、部屋〕へ、用ありて參りたりしに、論語の四五六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱(あけ)うばふ事を惡む〔論語に「惡2紫之奪1レ朱也。」小人が賢者を壓倒する喩へ。〕といふ文を、御覽ぜられたき事ありて、御本を御覽ずれども、御覽じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて、求むるなり。」と仰せらるゝに、「九の卷のそこ\/の程に侍る。」と申したりしかば、「あなうれし。」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。後鳥羽院の御(み)歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなむや。」と、定家卿〔藤原定家、俊成の子、新古今の撰者〕に尋ね仰せられたるに、
秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむ〔古今集の在原棟梁の作〕
と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌(ほんか)〔典據となる原歌〕を覺悟す〔記憶する〕、道の冥加〔歌道の名譽〕なり、高運なり。」など、こと\〃/しく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款状〔志願の申文〕にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讚せられたり。
一、常在光院〔相國寺の末寺、東山附近〕の撞鐘(つきがね)の銘は、在兼卿〔菅原在兼、在嗣の子〕の草〔草稿、草案〕なり。行房朝臣〔藤原行房、行成の子孫、能書家〕清書して、鑄型にうつさせむとせしに、奉行の入道〔鑄鐘を司る僧、人は不明〕かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば聲百里(はくり)に聞ゆ。」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか〔句の終りの字が平音陽唐の韻で出來てゐるのに里と云ふ仄音紙旨の韻が用ゐてあるから咎めたのだ〕。」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり。」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。數行(すかう)となほさるべし。」と返り事はべりき。「數行。」もいかなるべきにか、もし「數歩(すほ)」の意(こゝろ)か、おぼつかなし。
一、人あまた伴ひて、三塔〔比叡山の東塔、西塔、横川を云ふ。〕巡禮の事侍りしに、横川の常行堂(じゃうぎゃうだう)〔常行三昧を修する堂〕の中(うち)、龍華院と書けるふるき額あり。「佐理・行成〔藤原佐理、敦敏の子、能書家、行成は前に出た。〕の間うたがひありて、いまだ決せずと申し傳へたり。」と堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず。」といひたりしに、裏は塵つもり、蟲の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おの\/見侍りしに、行成位署(ゐしょ)〔官位姓名の書いてある事〕名字年號さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。
一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災〔八つの修行得道の禍ひとなるもの、憂苦、喜樂、尋伺、出息、入息〕といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ。」といひしを、所化みな覺えざりしに、局のうちより、「これ\/にや。」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。
一、賢助僧正〔藤原公守の子、醍醐院座主〕に伴ひて、加持香水(かうずゐ)〔眞言宗で行ふ呪法の一、ここでは正月八日から十五日まで行はるゝ宮中の法事〕を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣〔宮中眞言院の外陣、護衞兵の居所〕の外(ほか)まで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「おなじさまなる大衆(だいしゅ)多くて、えもとめあはず。」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それもとめておはせよ。」といはれしに、かへり入りて、やがて〔直に〕具していでぬ。
一、二月(きさらぎ)十五日、月あかき夜(よる)、うち更けて千本の寺〔大報恩寺、前出。〕にまうでて、後(うしろ)より入りて、一人顔深くかくして聽聞し侍りしに、優なる〔優美な〕女の、すがた匂ひ人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あし〔具合が惡い〕と思ひてすり退き〔外してのく〕たるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと〔雜談〕言はれし序に、「無下に色なき〔色氣のない〕人におはしけりと、見おとし〔輕蔑する〕奉ることなむありし。情なしと恨み奉る人なむある。」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね。」と申して止みぬ。この事後に聞き侍りしは、かの聽聞の夜、御(み)局のうちより、人の御覽じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てて、出し給ひて、「便よくば〔都合よくば〕ことばなどかけむものぞ。そのありさま參りて申せ、興あらむ。」とてはかり給ひけるとぞ。
239
八月(はづき)十五日、九月(ながつき)十三日は婁宿(ろうしゅく)〔二十八宿の一、天を二十八に分つたその西方の一を云ふ、毎日を二十八宿に當てはめてある。〕なり。この宿、清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす。
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しのぶの浦〔岩代信夫郡の濱〕の蜑のみるめ〔海松と布(め)、共に海の植物、しのぶを人目を忍ぶとかけ、之を人の見る目とかけたのだ。〕も所狹く、くらぶの山〔山城の暗部山、暗路とかけた。〕も守る人〔山番の職、戀の番人にかけた。〕しげからむ〔多からうと樹木の茂りにかけた。〕に、わりなく通はむ心の色こそ、淺からずあはれと思ふふし\〃/の、忘れがたき事も多からめ。親はらからゆるして、ひたぶるに迎へすゑたらむ、いとまばゆかりぬべし〔心恥しからうといふ意〕。世にありわぶる女の、似げなき老(おい)法師、怪しの東人なりとも、賑ははしきにつきて、「さそふ水あらば〔文屋康秀が小野小町を東國に誘つた時、小町の歌、「わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞおもふ」古今集〕。」などいふを、なか人(びと)いづかたも心にくきさまにいひなして、知られずしらぬ〔「うとくなる人を何しに怨むらむ知らず知られぬ折もありしに」新古今集〕人を迎へもて來らむあいなさよ。何事をかうち出づる言の葉にせむ。年月のつらさをも、分けこしは山の〔「筑波山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり」新古今集〕などもあひかたらはむこそ、つきせぬ言の葉にてもあらめ。すべてよその人のとりまかなひたらむ、うたて心づきなき事多かるべし。よき女ならむにつけても、品くだり、みにくく、年も長けなむ男は、「かく怪しき身のために、あたら身をいたづらになさむやは。」と、人も心劣りせられ、わが身はむかひ居たらむも、影はづかしくおぼえなむ、いとこそあいなからめ。梅の花かうばしき夜の朧月にたゝずみ、御垣(みかき)が原〔禁中の御垣附近〕の露分け出でむありあけの空も、わが身ざまに忍ばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。
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望月の圓(まどか)なる事は、暫くも住(ぢう)せず、やがて虧けぬ。心とゞめぬ人は、一夜の中(うち)に、さまで變る樣も見えぬにやあらむ。病のおもるも、住する隙なくして、死期(しご)すでに近し。されども、いまだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念にならひて、生(しゃう)の中(うち)に多くの事を成じて後、しづかに道を修せむと思ふ程に、病をうけて死門に臨む時、所願一事も成ぜず、いふかひなくて、年月の懈怠(けだい)を悔いて、この度もしたち直りて、命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事怠らず成じてむと、願ひをおこすらめど、やがて、重りぬれば、われにもあらずとり亂して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事まづ人々急ぎ心におくべし。所願を成じてのち、いとまありて道にむかはむとせば、所願盡くべからず。如幻(にょげん)の生の中に、何事をかなさむ。すべて所願皆妄想(まうざう)なり。所願心にきたらば、妄心迷亂すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに萬事を放下して道に向ふとき、さはりなく、所作なくて、心身(しんじん)ながくしづかなり。
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とこしなへに、違順(ゐじゅん)につかはるゝ事は、偏に苦樂の爲なり。樂といふは好み愛する事なり。これを求むる事止む時無し。樂欲(げうよく)するところ、一には名なり。名に二種あり。行跡(かうせき)と才藝とのほまれなり。二には色欲、三には味ひなり。萬の願ひ、この三には如かず。これ顛倒(てんだう)〔顛倒見或は顛倒の妄見と云ふ、此の世の無常を常と誤り、苦を樂と、無我を我と、不淨を淨と誤る人間の妄見。〕の相より起りて、若干(そこばく)の煩ひあり。求めざらむには如かじ。
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八つになりし年、父〔兼好の父、卜部兼顯、治部少輔〕に問ひていはく、「佛はいかなるものにか候らむ。」といふ。父がいはく、「佛には人のなりたるなり。」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらむ。」と、父また、「佛のをしへによりてなるなり。」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける。」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり。」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける。」といふとき、父、「空よりや降りけむ、土よりやわきけむ。」といひて笑ふ。「問ひつめられてえ答へずなり侍りつ。」と諸人(しょにん)にかたりて興じき。
徒然草 終
181 降れ降れ粉雪 182 四條大納言隆親卿、乾鮭といふものを 183 人突く牛をば角を切り 184 相模守時頼の母は 185 城陸奧守泰盛は 186 吉田と申す馬乘の申し侍りしは 187 萬の道の人 188 ある者、子を法師になして 189 今日はその事をなさむと思へど 190 妻といふものこそ 191 夜に入りて物のはえ無しといふ人 192 神佛にも 193 くらき人の、人をはかりて 194 達人の人を見る眼は 195 ある人、久我畷を通りけるに 196 東大寺の神輿 197 諸寺の僧のみにもあらず 198 揚名介に限らず 199 横川の行宣法印が申しはべりしは 200 呉竹は葉ほそく 201 退凡下乘の卒都婆 202 十月をかみなづきといひて 203 敕勘の所に靫かくる作法 204 犯人を笞にて打つ時は 205 比叡山に、大師勸請の起請文といふ事は 206 徳大寺右大臣殿檢非違使の別當のとき 207 龜山殿建てられむとて 208 經文などの紐を結ふに 209 人の田を論ずるもの 210 喚子鳥は春のものなりと許りいひて 211 萬の事は頼むべからず 212 秋の月は 213 御前の火爐に火をおくときは 214 想夫戀といふ樂は 215 平宣時朝臣、老いの後昔語に 216 最明寺入道、鶴岡の社參の序に 217 ある大福長者の曰く 218 狐は人に食ひつく者なり 219 四條黄門命ぜられて曰く 220 何事も、邊土は卑しく 221 建治弘安のころは 222 竹谷の乘願房、東二條院へ參られたりけるに 223 田鶴の大殿は 224 陰陽師有宗入道、鎌倉より上りて 225 多久資が申しけるは 226 後鳥羽院の御時 227 六時禮讚は 228 千本の釋迦念佛は 229 よき細工は 230 五條の内裏には 231 園別當入道は、雙なき庖丁者なり 232 すべて人は無智無能なるべきものなり 233 萬の科あらじと思はば 234 人の物を問ひたるに 235 主ある家には 236 丹波に出雲といふ所あり 237 やない筥にすうるものは 238 御隨身近友が自讚とて 239 八月十五日、九月十三日は婁宿なり 240 しのぶの浦の蜑のみるめも所狹く 241 望月の圓なる事は 242 とこしなへに、違順につかはるゝ事は 243 八つになりし年、父に問ひていはく