『AHAHA』5号リレーコラム

『”オリジナリティ”とは?』

杉久 彰子

今までに見たこともないもので自分を刺激してくれることをいつも期待している観客。作り手も他の人がや ってることと差別化を図ろうと大変なことでしょう。
けれど私たちは彼らの舞台で披露するネタを見て、「あー・それ誰誰がやってたの見たことある」「ありが ち」なんて一瞬で切り捨ててしまったりします。何かを真似するということを意図した作品で新しさを感じ ることはありますが、明らかに人真似としか思えないものには価値を見いだせません。
けれど演劇などと違ってひとつひとつを表現する時間が短いので印象がダブることはかなり頻繁にあります。
たとえ過去に大笑いしたことでも、何度も見てしまうと笑えなくなってしまうこともあります。
あたらしさがすべてなんでしょうか?

鳥崗 シヱテ

あたらしさがすべてか?むつかしいところですね。
特に若い芸人に、前に他で見たことがあるようなネタをやられたら、判定はほぼアウト!でしょう。
『パクったの?』とか『ズルイんじゃない?』とかいう疑念に心が支配され、不愉快で笑うどころではなく なってしまいますから。同じ芸人の同じネタも、『またやってる』とか『ラクしようとしてる』などと思え てしまって、これまた楽しむことができません。
お客さんは、信頼できる演者に対してしか心を開きませんから、一瞬でも“コノヒト、イヤダ”と思わせて しまった時点で、芸人の負けです。
その点、同じネタを見せられても、その都度楽しいビリジアン……
今、彼らだけは例外のようです。どうしてなの!?

飯野 形而

浪花座では毎月同じネタですよ。まるでミニマル・ミュージックのように。
良質のミニマル・ミュージックに飽きることがないのは、リフレインされるフレーズの完成度が高いこと、 そして心地よい微妙なズレを出せるパフォーマーの演奏能力の裏付けがあるから。演芸も同じことでは?
要するにベテラン、若手に係わらず、ネタの完成度の高さと、場の雰囲気に応じて微妙に演じ方を変えるこ とのできる高度なパフォーマンス能力とが備わっていれば、同じネタを繰り返し観ても飽きないのではない でしょうか。
古典落語の例を引き合いに出すまでもなく、ネタの斬新さだけが全てではないことは明らかでしょう。
但し古典は一部の好事家にしか受け入れられていないのも事実。まるでミニマル・ミュージックのように…。

太田 雅文

いやそこでよくわからないのが笑芸における「スタンダード」という存在ですね。古典ともちょっと違って、 例えば卒業シーズンに『卒業写真』をきくと、それはもうユーミンでも誰でも、歌がうまい下手にかかわら ず「いいものはいい!」ってなるじゃないですか。
笑芸のネタ、というものには今のところ誰がやってもおもしろい、というものがないんですよね。笑芸とい うジャンルは作品の質よりも演者の質が常に上位に来るもののようです。
しかし昔の作品をビデオやテープで気軽に見られるようになった今、“過去のおもしろかった芸をコピーし て表現する芸”というものが物まねとは別に出てくるような気がするんですが、どう思いますか?

宮下 きぬ子

「どっかでみたことあるような…」。もしそれがおかしな設定がポイントになるようなコントだったらやっ ぱり「アウト」と感じると思う。誰かがすでに思いついていた、と考えると、いくらパクリじゃないとして も独創性に欠けてる訳だし。
“過去のおもしろかった芸をコピーして表現する芸”について。映画のリメイクのように、元の設定をきち んと今に合うように直して且つ面白かったらすっごく感心しちゃうと思います。できるかできないかがある とは思いますが。
で、思った事。芸人さんって作家で演出家で役者(演じるのも当然自分達)でもあるのだなぁ、簡単になれ る職業ではないのだなぁ、と、一ファンとしては感心するばかりです。

桜恵 歌織

よくアマチュアのバンドとかでコピーバンドってありますが、コピー漫才とかコピーコントってほとんど聞 きませんよね。また、音楽の場合はカバーって言葉もあります。コピー=そっくりそのままマネをする、カ バー=その曲の主となる部分はいただくが、曲のイメージは全くオリジナルって訳なんですが。
音楽の場合、CDだったり、楽譜だったり完成品で世に残されてることが多いから、完成品に近づくための マネごとも成立するのでしょう。
笑芸は同じネタでも、アドリブや間の取り方、言葉のかぶせ方で笑えるツボが違ってきます。完成系が存在 しないから、マネをしたり似てたりするのが許せない、だからゴールを発想の新しさやオリジナリティに追 い求めてしまうのではないでしょうか。

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