雑記帖

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2006.6.14

「高野聖」とプレ物語

田中貴子氏の『鏡花と怪異』を読んだ際、「前(プレ)物語」という考え方は、泉鏡花の作品を読むときに色々と助けになる概念だと思った。作中ではあまり多くは語られてないにもかかわらず、その物語の前提となるような別の物語の存在が感じられることがある。そういう物語を想定すると、鏡花の世界はまたいちだんと自分に近くなるように感じられるはずだ。以前「高野聖」について某巨大掲示板に書いたことがあるが、プレ物語に関わることを言っているつもりなので再録してみた(くだけた表現は適宜改めた)。



 >「高野聖」に話を戻すと、女が「都の話はしないこと」と主人公に釘を
 >刺すが、後の展開に生かされず放置プレイになってるけど、これは
 >どういう意図のもとに書かれた台詞?

「書き手の意図」は鏡花先生がクローンとして再生するまで待ってくださいね。(笑)

「都の話はしないこと」という禁止の言葉は、もしもこれを守らなかったら何か不吉なことが起こるであろう、というような、よくある物語を想像させます。おそらく美女のもとを訪れたあの薬売りの男を始めとする過去の多くのスケベな旅人たちにも言われた言葉なのでしょう。

ようござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、其を是非にと申してもたつて仰有らないやうに屹と念を入れて置きますよ
しかしそこで男はついつい都のことをしゃべっちゃう。そしてそれがキッカケとなって、美女は男を誘惑し、コトが終わるとこれをケモノに変える。そういうことがすでに何度も反復されたわけでしょう。

このことは「禁止→侵犯→処罰」の系列の物語のようなものを私たちに思い浮かばせます。もちろんそれは暗示されているだけで、きちんと書いてあるわけじゃないです。ですが、侵犯と処罰という紋切り型の物語の遺物たちがケダモノのかたちをとらされて、夜な夜な美女の寝姿を拝みにやってくる……。そう読んでみたくなります。

だから「放置」されているのじゃなくて、すでに反復された物語としてあった。しかしそれは主人公が経験する物語ではなかった。だって彼は「試練」をやりすごすわけですから、とにもかくにも。

  「高野聖」からなにを得た?  --- 76番の発言(2002/04/06)より
  http://mentai.2ch.net/book/kako/1016/10163/1016340925.html


「都の話」については、その後、東郷克美氏が同じような解釈を、もちろんより専門的な形で提示していることを知った。この話題の前座はここで引っ込むとして、つづきは岩波のサイトでどうぞ。

  ●東郷克美『注釈と深読み』 「文学」(2004年7,8月号
  http://www.iwanami.co.jp/bungaku/0504/hiroba.html

2006.5.26

 田中貴子『鏡花と怪異』平凡社

 われわれにとって泉鏡花といえば、おばけに幽霊はごく見慣れたアイテムだ。だが意外なことに、アカデミックな鏡花研究の場では、そういった怪異をキーワードとした研究はきわめて少ないのだそうだ。本書は中世文学が専門の著者が、閉鎖的になりがちな境界を越境して、隣接する近代文学の先行研究を積極的に洗い直しつつ、「鏡花にとって怪異とは何か」に挑んだ論考である。

 ここで「怪異」とは、「あやしいもの、あやしいこと」の総称として用いられている。すでに具体的なキャラクターとして姿かたちが定着した観のある「妖怪」という語は避けようというわけだ。なるほどそのとおりだと思う。ならば鏡花の怪異とは? 終章「鏡花にとって怪異とは何だったのか」でのとりあえずの結論は、こう教えてくれる。

「草迷宮」における鏡花の怪異の方法とは、不要なグロテスクさや珍奇な造形のお化けを避け、手毬唄によって幻想をつむいでゆくという鏡花独自の美意識にもとづいたものだったと考えられる。最後にお化けの首領が出てきて終わるのではなく、明の母の知己だという「美人」を登場させ、手毬をつかせるというのは、典拠としての『稲生物怪録』の世界から完全に離脱している。美しい怪異をめざすという鏡花のまなざしは、ここでも貫かれているといってよいだろう。(246p.より引用)
 鏡花の怪異はかぎりなく美しくやさしい。お岩の怨霊のような激越な「恨み」に醜くゆがんだ姿が現れることはまずない。鏡花自身そのような怪異は求めていないし、基本的に人を害する性質のものではないのだ。第四章「蕈の怪異」を読めば、著者がどれほど鏡花のユーモラスな蕈の物語たちを愛しているか、研究者の仮面の下から、ほとんど少女のような素顔が透けて見えてくるのがわかって、うれしくなるだろう(もちろん蕈の気味悪さも考慮に入れての話だが。)

 「女仙前記」「きぬぎぬ川」を中心にあつかった第五章「幻のユートピア――女たちの異界へ」は本書の圧巻である。前世で不幸だった女が媛神となるという「前(プレ)物語」を鏡花的なパターンとして抽出した小柳滋子氏の論文を紹介しながら、そこに異界からの呼び声を感知する。特に女性読者の心に、その声は確実に届くはずである。

 著者自身、本書の限界を十分承知しているように、かならずしも鏡花の怪異を極め尽くしたものではないかもしれない。しかし先行研究に目を通す機会の少ない一般の読者に、ひとつのたたき台として提示されたことの意義は大きい。このテーマをさらに豊かなものにしていくひとが後に続くとよいかも、ね、なんて、なに真面目に書いてんだろう、私。

2006.5.14

 今月からmixiで日記を書きはじめた。  http://mixi.jp/show_friend.pl?id=4213863
 ネットの古い友人から招待をいただき、mixiに入会したことによる。

 思えば「2ちゃんねる」の鏡花スレッドになにか書いたのも、昨年の7月31日が最後だった。匿名掲示板に書くことはもうないと思う。

2004.1.4

 気がつけば、このノートも随分ながいこと放置していて、ほんとに申し訳なく思っています。私儀、最近は某巨大掲示板「2ちゃんねる」の鏡花スレッドに鏡花の短編「傘」のことだとか、鏡花全集の古書価格の変動だとかについて書き散らしています。
 私の HP には掲示板がないので、そのことでもの足りなさを感じられる向きには、あちらをご覧になるのも無駄ではなかろうと思う次第。鏡花に詳しいひとが複数いるのです。ただし、そこはそれ「2ちゃんねる」だけあって毒もあるから、くれぐれもそのおつもりで。

2001.8.16

 しばらく前から高速通信をやっている。すこぶる快適だ。当地でブロードバンドをやるには選択の余地はほとんどなくて、NTT のフレッツ・ADSLに決めるしかなかった。YAHOO! BB は8メガの速さも料金の安さも大きな魅力だが、実際の運用開始がいつになるのか心もとないので却下。応募者殺到だというし、どうせ私なんか良い目を見ないにきまっている。
 フレッツのほうの受け付け開始は7月11日で、私はその前日にプロバイダのHPから申し込んだ。こちらの方もけっこう応募殺到だったらしい。1週間後の18日にNTT から電話があり、局内工事が8月3日に決定。日付が変わる4日の零時からADSLが使えるようになるので、申し込みから3週間あまりかかったことになる。まあ、こんなものかな。これでも予想より1週間は早かった。室内工事(ただの配線なのに、なんて大げさな)は自分でやった。猿でもできることなのに、NTT にやってもらうと1万円だかが取られるらしい。ほんとかよ。ADSLモデムとの接続は LANを介することになる。LAN はもともと導入していたので苦労することはなかった。でも未経験者には多少ホネかもしれない。これは「お客様」が用意しないといけないのだそうで、先の1万円だかには含まれていないようだ。
 通信速度については「お宅さまと電話局とは距離があり、 1.5メガそのままの速さは出ませんのでそのおつもりで」と前もって電話で釘をさされて、少し心配していた。じっさい、当初は 800どまりだった。そこでネットで探せば容易に見つかる定番のスピードアップ法を使ってPCの設定を変えてみたら、1000を超えるようになった。瞬間的に1400以上になることもある。充分なスピードである。もともと速さよりも定額料金で時間を気にせずインターネットしたかったのだから、これで文句はない。
 さてさしたる困難もなく始まった私の高速通信だが、念のために入れたZoneAlarmというファイアウォール・ソフトのログを見ると、なんと、外部(おもに韓国)からめちゃくちゃなアタックを受けているではないか。どうやら CodeRed というワームがネットで猛威を振るっているそのさなかにデビューしたらしい。常時接続の時代、ファイアウォールのありがたさを実感した。

2001.6.1

 2ヶ月ほど前に、YAHOO!の鏡花掲示板に6年前の鏡花展のことで質問があった。たまたまこの時のパンフを持っていたので、なにか書こうとしたのだが、不規則発言防止のためか、ここの掲示板はガードがやたらに堅くて、こちらの個人情報をいろいろ入力しなければならなかった。ま、それはそれで理解できるとして、その先の自分のハンドルネームを決める段階、ここで立ち止まってしまった。「蟻」がらみの単語が、どれも先約があるのだ。anti_antや ant_i_antなんてセンスのいい名前(笑)、誰が登録しているのだろう。もともと質問を読んだのが遅かったうえ、基本的に掲示板では発言しないのが私の方針なので、結局ここで発言をあきらめた。今更でもうしわけないが、折角だからちょっとこちらに書き込んでおこう。(何が折角だからだ、という茶々は甘受する。)

『泉鏡花・妖かし文学館』 1995年4月21日−5月18日 於池袋西武12階ロフト
 【企画構成】(株)スーパー・スタッフ・カンパニー 【協力】河出書房新社
 【スタッフ】 会場音楽:J・A・シーザー/丸山涼子
  造形:能津美津子/横前東慈/千葉広二/千葉千富美/水根あずさ/吉田良一
  絵:山田勇男  衣装:時広真吾/米井明子  写真:土田ヒロミ  宣伝美術:森崎偏陸
  照明:丸山邦彦  会場デザイン:長川一夫  解説:桑原茂夫  企画構成:大澤由喜

 【くり広げられる泉鏡花の作品世界】……鏡花の小説による八つの造形作品
 (1)手まり唄の母恋迷宮譚――『草迷宮』
 (2)魔界・天守閣に結ぶ恋――『天守物語』
 (3)竜神と、いけにえの花嫁の海底御殿での純愛物語――『海神別荘』
 (4)旅の宿に現れる哀しい女の亡霊――『眉かくしの霊』
 (5)山深き峠の道と一軒家、そこでくり広げられる怪と妖――『高野聖』
 (6)美しく、哀しく、恐ろしい”沼伝説”――『夜叉ヶ池』
 (7)おだやかな春の昼、海辺の里でのシュールな幻想譚――『春昼』『春昼後刻』
 (8)逢う魔が時(たそがれ時)に少年が迷い込んだところは?――『龍潭譚』

 この頃、企画に協力している河出書房から鏡花幻想譚(全五巻)が出版されている。その後この鏡花展は福岡市の三菱地所アルティアムで開催された(1995.6.15-7.16)。福岡県の南の方に棲息する私は当然これを見ていなければならない筈だが、行かなかった。その前年にあったはずの澁澤龍彦展も見てない。実はあまり観たいと思わなかったのだ。観て失望するのを恐れたということもあるが、要するに怠惰だったわけである。なお澁澤の前は寺山修司展があったらしい。これはまったく知らなかった。

2001.5.16

 桜が散った。黄金週間も終わった。あけましておめでとう。けけけ。

 たまにはここも更新しましょう。いちおう、私は元気です。あいかわらず暇さえあれば自転車で町を走り回っている。今年になってブックマーケットという系列の古本屋が二軒、市内にオープンした。品揃えの傾向は異なるけれど、去年潰れた別の二軒ぶんをカバーしてくれている。ブックオフと似たような店作りだが、新書や文庫本がどれも百円である。ブックオフと違って本の小口を機械でがりがり削ったりしてないところが好きだ。馳星周の『不夜城』と続篇の『鎮魂歌』を新品同様で買って来てさっさと読んでしまった(角川文庫)。なんか人がいっぱい殺されるヴァイオレンスの小説だった。映画化されて、すでにTV放映もされたはずだが観ていない(鈴木朱夏さんは観て後悔したらしい)。が、それにしても、こんなに新古本が安くて大丈夫なんだろうかと思う。実は昔からの古本屋がひとつ潰れそうな気配なのだ。新刊書店も戦々恐々だろう。




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