「その名の下に」〜白羽鳥〜その2





「お姉ちゃん!」
「かえで!」

 咄嗟にかえでを後ろにかばい半身の構えをとるあやめ。
 それを見た魔犬は門から飛び降りてきた。
 飛びすさり間合いをとる姉妹。
 相手は全身に炎をまとった魔犬である。
 どう考えても素手のしかもまだ幼いあやめに勝ち目があると思えない。
 だがあやめの心に怯みはない。ただ妹を、そして人々を守るという思いがあやめの心を鋼鉄にしていた。
 あやめの全身から藤色の霊力が吹き上がり始める。
 それを見た魔犬は嬉しそうに身をよじると炎を吐き出しながら舌なめずりをした。
 魔犬は人の霊力を食らう魔物であった。それにとってあやめの纏う霊力は大きすぎず小さすぎず丁度食べ頃の大きさであったのだ。

「うわぁっ!ば、化け物だぁっ!」

 縁日の客の一人が魔犬に気づくと大声を上げる。
 その声に他の客も炎の犬に気がつく。魔犬は一般人にも知覚できるくらい完全に実体化していた。

───うわああああああっ!!

 参拝客らは我を先にと逃げ出し始め浅草寺境内は大混乱となった。老いも若きも男も女も全ての人間がその場から逃げ出した。露天商の中には手早く荷物をまとめるちゃっかり者もいたがいずれにせよ大部分の人間は取るものも取りあえずその場を逃げ出したのだ。
 ただ藤枝姉妹だけを除いて。
 魔犬の狙いが自分であることをあやめは完全に理解していた。古より魔と戦う定めを帯びた家の伝えし記録の中には霊力を好んで喰らう魔物がいることも記録されているのだ。
 幼い頃から英才教育を受けた二人も当然その事は知っている。自分たちが逃げ出せば魔犬がそれを追ってくることも。
 だから二人は魔物としっかり目を合わせながら他の参拝客が完全に逃げるまでその場を動かなかった。幼いながらも明敏な、そして何よりも勇敢な姉妹である。

「かえで、もう落ち着いた?」
「うん、お姉ちゃん」
「じゃ、二手に分かれて走るわよ」
「?」
「化け物はたぶんあたしの方を追ってくるから、その間にあんたはお清めの水を汲んできてちょうだい」
「その水であいつをやっつけるの?」
「そう、このお寺辺りのわき水なら魔物をやっつける力があるはずよ」
「分かった」
「じゃ、行くわよ」

 そう言って二人は魔物の目から視線を逸らした。
 それを見た魔犬が姉妹に飛びかかろうとしたまさにその瞬間を狙って二人は反対の方向に駆け出した。出鼻をくじかれて瞬間躊躇したものの魔犬はやはりより喰いでのあるあやめの方を追いかける。
 幼いあやめのストライドと子牛ほどもある魔犬のストライド、どう考えてもあやめが逃げ切れるはずはない。魔犬はほんの二歩か三歩の足運びで軽々とあやめに追いついた。そして跳躍。
 だがその牙は空を切った。あやめは魔犬の跳躍の瞬間に90度ターンすると別方向に逃げ出したのだ。このレベルの魔物では空中での方向転換はできない。着地と同時に再びあやめを追いかける。再びの跳躍も空を切った。
 正確に魔物との距離を読んでいる。これだけ妖力を発散している魔物の動きを読むことなど藤枝家の姉妹にとっては朝飯前のことなのだ。
 だがいくらちょこまかと方向を変えても幼女の脚と魔獣の脚では追いつめられるのは目に見えていた。

「早く!、早く!」

 そう呟きながらかえでは井戸のある場所まで一直線に駆けていく。この辺りは姉妹の縄張りなのだ。だから境内のどこに何があるかは熟知していた。
 井戸にたどり着いたかえでは飛び上がりながらポンプのレバーを押す。いくら武芸に優れているとはいえまだ9つの幼女なのである。腕力はないのだ。したがってポンプのレバーに全体重をかけるようにしないと水は出ない。

「えいっ!えいっ!」

 やがてボコボコという音と共にポンプから水が出始めた。急いでバケツに水を汲み入れる。

「早く!、早く!」

 かえでは水のいっぱい入ったバケツを両手で持ち上げて半身の体勢でよろよろと走り出す。身体の中心線が安定しないために走るうちにバケツから水がちゃぷちゃぷとこぼれ土を黒く濡らした。

「早く!、早く!」

 懸命に走るかえでの前方に建物の陰から突然あやめの姿が現れた。

「かえで、それ貸して!」
「はいっ!」

 バケツを受け取ったあやめは建物を曲がって姿を現した炎の魔犬めがけて中の水をかけた。

ぎぃえええええっ!ぎゃいん!

 魔犬は絶叫と共にのたうちまわる。その炎が薄くなり黒い地肌が見えている。
 神社仏閣は聖なる地脈のエネルギーの高い場所に設けられることが多い。したがってその土地の地下水は微弱ながら聖なる地脈の力───霊力と同じ種類の力───を帯びているのだ。ただの水では効果はない。また弱い霊力程度ではこれまた効果がない。弱いながらも霊力を帯びたであることが炎の魔犬に対しては有効なのである。

 だが水の量が少なかったのだろう、完全に魔犬の息の根が止まったわけではない。あやめはかえでを連れてまた井戸の所まで駆けた。魔犬は苦しみながらも怒りに燃えた瞳で追いかけてくる。あやめはポンプに飛びつくと必死で水を汲み出す。かえでが下でバケツを支えながら魔犬の様子をあやめに報告する。

 ようやく水がいっぱいになった。あやめはバケツを構え魔犬の動きを窺う。魔物の炎は先ほどよりもやや復活したようだ。完全に息の根を止めない限り魔物は復活するのだろう。だが、どれほどの水を浴びせれば魔物を完全に殺せるのかが分からない。せめてバケツがあと2〜3個はあって人も何人かいれば何とかなるかもしれないのにとあやめは内心歯がみしたい思いであった。
 一方、魔物の方も本能的に水を警戒してあやめの隙を窺うべく井戸の周りをぐるぐると回り始めた。
 ポンプから流れ出る水の勢いが次第に弱まり水音が消えていく。それを好機と見たか魔犬は身体をたわめて跳躍する。すかさず迎撃の水をかけるあやめ。だがその水はあらぬ方向へと逸れた。魔物とはいえ動物だけに相手の力量を読むのには長けている。そしてあやめを手強い敵だと認知した魔犬は襲いかかると見せて斜め前方に跳んだのだ。水のないあやめなら楽に仕留めることができると判断したからである。

「しまった」
「お姉ちゃん!」

 水を失ったあやめを襲うべく舌なめずりした魔犬が身体をたわめたその時。

「待て!」

 彼方に二つの人影が見えた。

(続く)



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