2003/ 2/21 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
2003/ 2/15 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第161回松蔭チャペルコンサート)
J.S.バッハ/プレリュードとフーガ イ短調 BWV543 (オルガン独奏:今井奈緒子)
J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1724年のカンタータ 9〕
《ああ、愛するキリスト者、慰めを受けよ》 BWV114
《神の業こそ、麗しい》 BWV99
《イエスよ、あなたはわが魂を》 BWV78
(03/02/18)
《出演メンバー》 ※こちらにもメンバー一覧があります。
指揮:鈴木雅明
コーラス(*=独唱[コンチェルティスト])
ソプラノ :野々下 由香里*、緋田 芳江、藤崎 美苗
アルト :ダニエル・テイラー(CT)*、上杉 清仁、鈴木 環
テノール:櫻田 亮*、谷口 洋介、水越 啓
バス :ペーター・コーイ*、浦野智行、渡辺 祐介
オーケストラ
コルノ:島田 俊雄 フラウト・トラヴェルソ: 前田りり子
オーボエ I,II:三宮 正満、江崎 浩司
ヴァイオリン l :若松 夏美(コンサートミストレス)、竹嶋 祐子、パウル・エレラ
ヴァイオリン ll:高田 あずみ、荒木 優子、山口 幸恵
ヴィオラ:森田 芳子、渡部 安見子
〔通奏低音〕
チェロ:鈴木 秀美 コントラバス:櫻井 茂 ファゴット:村上 由紀子
チェンバロ:大塚 直哉 オルガン:今井奈緒子
第57回巻頭言(BWV114,99,78)
皆様ようこそおいでくださいました。
今回取り上げるBWV78《イエスよ、あなたは我が魂を》は、思い出の深い作品です。何しろ、私が学生時代にはじめてバッハのカンタータというものに触れたのが、この作品だったのです。芸大には今でもバッハカンタータクラブという熱心なクラブがありますが、私が学部の2年生のときこのクラブに入部するやいなや木曽福島への演奏旅行があり、そこでこのカンタータを演奏したのでした。指揮は小林道夫先生。小林先生は今も熱心に学生の指導を続けてくださっています。そのときの演奏でもオルガンとチェンバロが用いられ、私は無謀にもチェンバロを弾きました。というのは、私はそれまで、オルガンは習ってはいましたが、チェンバロというものを弾いたこともなく、なんと繊細微妙な楽器だろうと、思わず身震いするほどだったからです。また第2曲目のソプラノとアルトのデュエットは、合唱団の女声全員が歌ったことを今でも鮮明に覚えています。
以来、バッハのカンタータにはまり込んでしまったわけですが、当時はテノールの佐々木正利さんやヴィオラの李善銘さんたちが、楽譜も持たずに、あれやこれやのカンタータの編成について議論し、プログラムの相談をするのを、ただただ驚きあきれておりました。今、自分がこのようにしてカンタータに深々と魅入られてしまうと、当時彼らがなぜあんなに何時間もカンタータについて口角泡を飛ばして議論し続けられたのかがよくわかります。
このカンタータはまた、1990年4月BCJの旗揚げ公演とも言うべき、いずみホールのお披露目でも演奏したのです。礒山雅先生からお披露目にオルガンコンサートの依頼があり、その打ち合わせをしているうちに、カンタータのことで大いに意気投合し、ついにファンタジアとフーガト短調(オルガンソロ)+カンタータ第78番+マニフィカトニ長調という絢爛プログラムになってしまいました。それがきっかけとなってBCJが誕生したことはご存知のとおりです。礒山先生が、このカンタータの第3曲目のレチタティーヴォ「ああ!私は罪の子です」を聴いてバッハに開眼した、と言われたので、日本人でもこのようなレチタティーヴォに共感する方もあるのだ、と驚いてしまいました。
このレチタティーヴォは、カンタータの中でも一際劇的な、しかも屈折した表情を持ったものと言えるでしょう。何しろコンティヌオは、最後の8分音符の動きに入るまでに33個の和音を弾くことになっていますが、そのほぼ半数の15個が減7の和音なのです。減7とは、短3度を三つ積み重ねてできた和音で、異名同音を同じと考えれば、事実上3種類の響きしかありません。これはバッハが予備なしで使い得た最も厳しい不協和音であり、不穏な表情のための常套手段でした。しかもこのレチタティーヴォを殊更激しいものにしているのは、この和音の上に乗せられたテノールの旋律です。これはほとんど旋律とは言えないほどに屈折しており、6度や減7度のみならず10度の跳躍も辞さない激しい上り下りによって、言葉の表情を逐一写し取ろうとしています。
第5曲目のバスのレチタティーヴォは、さらにバロックの修辞学的な語法に満ちています。「傷」「釘」は打ち付けるように、「冠」は高く、「墓」は低く、「裁き」の伴奏は厳しいコンチタート(同音連打)の表情で、そして「苦しみにまみれた心」は「ため息」のモティーフで、と、それぞれの単語の意味を修辞学的に音楽化することはバロック音楽の基本的な概念でした。
一方、アリアはどうでしょうか。第3曲目で「私は罪の子です」と歌ったテノールが、第4曲目では、「滅びにいたる罪」を償ってくださるのは、「イエス・キリストの血」と歌います。この血こそ私達の心を軽やかにしてくださり、自由を宣言してくださる。このアリアに軽やかなトラヴェルソが用いられ、しかもコンティヌオにはPizzicatoの指示があるのは、これが既に罪から解放され、自由にされている状態を表しているからに違いありません。この音楽が表現していることは、もはや十字架の上で流されている「血」ではなく、その結果として私達に救いをもたらしてくださった「血」に他なりません。また遡って第2曲目はどうでしょう。イエスのもとに急ぐソプラノとアルトは、まだまだこれから救われなくてはならない状態にもかかわらず、既にイエス・キリストの喜ばしい御顔に見(まみ)えたかのような晴れやかな表情をしているではありませんか。
カンタータを演奏するときの非常に重要な課題は、もちろんひとつひとつの言葉を音楽で表現することです。が、音楽を見てみると、単に「罪」を歌うときにも、それが「罪にまみれた私」と歌うのか、「罪から解放された私」を歌うのか、には大きな違いがあります。このカンタータの場合は、明らかにレチタティーヴォにおいては「罪にまみれた状態」を歌い、アリアにおいては「罪からあがなわれた状態」が代表されています。このことの対比が、このカンタータをより印象深いものにしているに違いありません。
思えばこのジレンマは、レンブラントが「エマオへの途上で復活のイエスに出会う」ところを描いたとき、主イエスを果たして「復活された主」として描くのか、「まだ主イエスと気づかない弟子たちの見た人」を描くか、という問題と似ています。レンブラントは、結局、主イエスを弟子たちと同様の大きさで、つまり普通の人として描きつつ、頭の上にうっすらとした光の輪を描くことで、その両方を表現しました。それと同じく、バッハのカンタータでは、「罪の状態」と「罪からあがなわれた状態」が、時間の前後ではなく、時間を超越して同時存在する、ということが起こります。
この世の中は、悪意に満ちています。それらをもたらすのは、ほかならぬ私達の「罪」なのです。しかし同時に信じるものはすでに罪からあがなわれています。あがなわれてはいても、また罪を犯す、その繰り返しと積み重ねが、この世の持つ苦しみでありましょう。しかし、私達は、カンタータにおいて罪の苦しみを告白すると共に、既にイエスの御顔を拝し、その喜びにも与(あずか)ることができる。これこそカンタータの醍醐味に違いありません。
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(03/02/17:BCJ事務局提供)
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