第59回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.36
   〜ライプツィヒ1724年- X 〜  


2003/ 6/14  19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2003/ 6/ 7 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第163回松蔭チャペルコンサート)
                *ステージ写真はこちら


J.S.バッハ/プレリュードとフーガ ト短調 BWV535
       オルガン・コラール《装いせよ、おお愛する魂よ》 BWV654
       (オルガン独奏:今井奈緒子)
       ※コラール先唱(ソプラノ:緋田芳江、藤崎美苗)

J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1724年のカンタータ 10〕
         《主キリスト、神のひとり子》 BWV96 
          《新たに生まれし嬰児》 BWV122 
         アリア《ありのままの飾らぬ心》 BWV24/1
             《未だこの世から去らぬうちに、その造り主に》 BWV39/3
             ※カウンターテナー:ティモシー・ケンウォージー=ブラウン
         《装いせよ、おお、わが魂よ》 BWV180 

(03/06/08)


《出演メンバー》  

指揮/チェンバロ鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノ野々下 由香里*、緋田 芳江、藤崎 美苗
  アルト  :ティモシー・ケンウォージー=ブラウン(CT)*、上杉 清仁、鈴木 環
  テノール櫻田 亮谷口 洋介、水越 啓
  バス   :ペーター・コーイ*、藤井大輔、渡辺 祐介

オーケストラ
  コルノ(ホルン)島田 俊雄[BWV96]  
  リコーダー l,ll,lll:向江昭雅(ソプラニーノ・リコーダー[BWV96])、太田光子、森吉京子[BWV122]
  フラウト・トラヴェルソ: 前田りり子
  オーボエ l,ll:三宮 正満、尾崎温子
  オーボエ・ダ・カッチャ:前橋ゆかり
  ヴァイオリン l 若松 夏美(コンサートミストレス)、竹嶋 祐子、パウル・エレラ
  ヴァイオリン ll:高田 あずみ、荒木 優子、山口 幸恵
  ヴィオラ:森田 芳子、渡部 安見子

 〔通奏低音〕
  チェロ/チェロ・ピッコロ:鈴木 秀美  コントラバス:西澤誠治  ファゴット:堂阪清高
  チェンバロ:大塚 直哉  オルガン:今井奈緒子


ライプツィヒ時代 1724年のカンタータ 10

 昨年の4月から始まったバッハのコラールカンタータのシリーズも、2年目に入りました。
 コラールカンタータとは、カンタータの全曲が特定のコラールの旋律を基として構成されるユニークな形式で、バッハは1724年に集中的にこの形式を用いているのです。
 今回のプログラムでは、まず第96番『主キリスト、神のひとり子』。ここでは、通常ソプラノにおかれる定旋律がアルトにおかれ、駆け巡るソプラニーノ・リコーダーが「暁の明星」たるイエスの輝きを表し(第1曲)、『愛の綱』によって曳かれ行く魂を、愛すべきトラヴェルソのモティーフが奏でます(第3曲)。
 第122番『新たに生まれたみどり子は』では、リコーダー3重奏やソプラノ、アルト、テノールの三重唱によって、レシタティーヴォにもアリアにもコラールが同時に重ねられ、基礎となるコラールの内容と敷衍された歌詞を同時に聴き手に届けようとするバッハの並々ならぬ工夫が見られます。
 最後の第180番『装いせよ、おおわが魂よ』は今回の白眉とも言うべきものです。「天国の宴」を髣髴とさせるリコーダーを伴った柔らかな8分の12拍子で始まり、再び飛び跳ねるトラヴェルソの喜びのモティーフ、さらに初登場のチェロ・ピッコロが大活躍するソプラノコラールなどが続き、「神の愛」を讃えるソプラノアリアが終結コラールを導きます。
 コラールカンタータも進むに連れて、オーケストレーションの様々な音色の追及が、オーボエ族のみならず、高音のリコーダーやトラヴェルソ、さらにはチェロ・ピッコロにも広がって、ますます多彩な音画が登場します。
 今年度は、毎回異なったカウンターテナーをご紹介できるのも、大きな喜びです。今回、初来日するティモシー・ケンウォージーー=ブラウンには、これらのカンタータの中だけでなく、特別なアリアも歌って頂く予定です。 どうぞ、ご期待ください。

鈴木雅明 (バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督)
(03/06/10:チラシ掲載文)


第59回定期演奏会 巻頭言 (BWV96,122,180)

 皆様、ようこそお出でくださいました。
 皆様方のお陰で、4月のアメリカツアーを無事に終えることができ、あらためて心よりお礼申し上げます。BCJではこれが7回目のインターナショナルなツアーでしたが、今回は色々な意味でBCJの歴史の中でもひときわ意義深いものであったと思います。ロサンゼルスから始まってニューヨークやボストン、さらに東京での演奏を含めて、計8回のマタイ受難曲と2回のヨハネ受難曲を演奏する間に、私たちはずいぶん鍛えられたと思います。旅行中の演奏は、会場の響きもステージの大きさも、また聴衆の反応も毎回様々に変化する中で、機敏に適応しなければなりません。それになにより、移動のための苛酷なスケジュールをひとりひとりが耐えなければならないので、そのことの緊張は決して小さくないのです。今回は、特に3時間もかかるプログラムであったため コンサート後の移動が夜中になり、しかもそこに夏時間への変更という日も重なったりして、睡眠時間がさらに減ってしまったのでした。しかし、そのような厳しい条件を私たちが生き延びられたのも、まずはバッハの音楽の強烈なエネルギーのお陰でしょう。
 それに加えて今回は、特にイラク戦争のために、精神的に大きな緊張がありましたので、事前に「行くべきか、否か」という議論をすることになり、その結果、私たちは「一体何のために」音楽をするのか、という問いを自らに投げかけることになったのです。何しろ目の前のツアーへの覚悟を迫られていたので、メンバーのひとりひとりにも普段滅多に見られない真剣な表情が浮かび、私は見違えたほどでした。ともあれ、このような機会を通して、「戦争があってもなくても、音楽をするのが私たちの仕事じゃないか」というごくあたりまえの感覚を再確認し、「音楽は反戦のためにあるのではない」という意見が相次いだのも、(当然とは言え)私には非常に喜ばしい驚きでした。
 私たちが「音楽する」のは、その音楽が教養になるからでもなく、キリスト教の伝道に役立つからでもなく、反戦の歌を歌っているからでもない。音楽には音楽独自の美しさがあり、それを私たちは楽しむ能力と権利(または機会)を持っているからだ、というのが、私の最も自然な感覚です。オランダの美術家ロークマーケルは『芸術に弁明はいらない』 “Arts needs no justification”(オランダ語の原著は『芸術は自ら語る』 Kunst...spreekt vanzelf)という書物の中で、芸術が政治や宗教の道具になることの危険性を説いています。音楽は現代社会の中で本来の姿からは遠く離れた使われ方をしています。例えばTVコマーシャルにも、駅の合図にも(あれを音楽と呼ぶなら、ですが)、また右翼の宣伝カーにも。ヒットラーはワーグナーを用いましたし、日本政府ですら皇紀2600年にはその威厳を示すため、リヒャルト・シュトラウス、ショスタコーヴィチ、イベール、ブリテンなど世界の著名な作曲家5人に『祝典序曲』を委嘱したのでした。このように音楽を道具として用いることは、ある意味で音楽の力を証明することになる反面、音楽の本来の目的を著しく歪めてしまう高い危険性を秘めています。
 しかし、この音楽独自の価値は、少なくともバッハの音楽に関する限り、19世紀的な「絶対音楽」として捉えられてはなりません。音楽を、音楽そのものを目的として、コンサートホールで楽しむ、ということは、現代人になじみ易い考え方ではありますが、これは本来18世紀(前半)の価値観とはそぐわないのです。なぜならバッハが属していたルター派においては、神から離れたところでの、物事の絶対的価値、というものを認識することはなかったからです。
 無論「この世のすべては神によって創造された」と信じる人には、文学も音楽も美術も、すべて神のために創られたものに他なりません。が、それは単にその存在が神による、というだけではなく、それぞれの分野における独自の価値観が神によって創造された、という意味です。つまりは、神を離れては、音楽を美しいと感じる価値観そのものが存在しないのです。
 そもそも、人が神から離れたところで価値を認識する、ということは、考えてみると罪の最初の姿です。エデンの園のイブは、蛇に唆されたとは言え、神が「食べてはならない」と言われた禁断の木の実を見て、「食べるによく見えた」と言いました。つまり、イブはその木の実を食べた時に罪を犯したのではなく、既に「食べるによく見えた」という時点で、神の価値観を否定していたのです。これこそが、受難曲の中で糾弾されている罪の原型ともいうべき姿でしょう。
 ですから、「音楽独自の価値」というものが、決してひとり歩きしてはなりません。音楽を通じて私たちが神からの音楽のすばらしさを共有していること、そして、そのことによって私たちがすばらしい世界を共有していること、を証しなければならないのです。そのために古来、音楽家は旅をするのだと思います。
 
 さて今年度は、このアメリカツアーという巨大プロジェクトで始まりましたが、今日からはまたカンタータの世界に戻って、いつもの長い道のりをゆっくりと歩みたいと思います。私たちの歩みは、今日演奏するカンタータ96番第5曲目のバスが歌うように、「今は右、今度は左」と日々揺れ動く甚だ不確かなものです。しかし、本来立ち返るべき道がわかっているというのは、何と幸いなことでしょう。たとえ私たちの歩みが、世の争いや悲惨や困苦によって緊張を強いられたり歪められたりしても、この道が揺らぐことは決してありません。そして、今日のカンタータ180番は、その道が天の宴に続いていることを示してくれています。では、皆様、今日もご一緒に。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明


(03/06/10:コンサート・プログラムより)


 6月7日の神戸公演の終演後、2003年度最初のBCJ神戸公演後援会による懇親会が開催されました。(午後5時過ぎ〜6時半頃) 簡単なレポートを記すことで、後援会の皆様への感謝の意を表したいと思います!
 
神戸では、4月の終わりに「ファンタズム」によるチャペルコンサートが開かれていましたが、本格的なBCJの公演はこの日が最初。しかもアメリカツアー後初めてのカンタータ演奏会ということで、つい私も東京から足を運んでしまい、リコーダーやチェロピッコロの登場で多彩な音色を味わえるコンサートを満喫しました。そして終演後は毎回得がたい機会である懇親会。今回はその後レコーディングが行われることもあって、メンバーの皆さんの軽い腹ごしらえを兼ねたものとなりました。以下、いくつかの写真をUPしてご報告に代えます。

今年度からBCJ神戸公演後援会代表に就任してくださった神戸松蔭女子学院大学の荒井章三先生のご挨拶で開幕。このあと差しいれていただいたワインなどで乾杯! ライプツィヒ・バッハ祭でのヘレヴェッヘ氏らとの共演(6/1のトーマス教会での「ロ短調」など)を終えての来日となったペーター・コーイ氏を囲んで。この日の歌声も安定感あふれる堂々たるものでした! 「マタイ」では歌手として、今回はシェフとして活躍の緋田さん。夏に向かう季節にぴったりの冷たいスープ「ビシソワーズ」をごちそうしてくださいました!
BCJ初登場のカウンターテナー、ティモシー・ケンウォージー=ブラウン氏。ロビンの紹介での登場とのことでした。ステージでのやや緊張した姿と懇親会での和らいだ表情の対比が印象的でした。 ライプツィヒのカンタータでは珍しい、リコーダーの3人衆。真ん中の向江さんはBWV96で華麗なソプラニーノ・リコーダーの妙技も披露してくださいました。このあとレコーディングということでワインでなくお茶でのどを潤わせていらっしゃいました。左の太田さんは昨年の仙台公演にもご出演でした。 「驚くばかりにぴったりな金額のお金だけが我々に与えられた、まさに神の摂理によって実現することができたアメリカツアーでした。」と語る鈴木雅明さん。さあ、これから録音です!

神戸公演後援会の皆様、いつもながらの楽しい会をありがとうございました!次回の懇親会3月20日の神戸公演後とのこと、しばらく間があいてしまいますが、是非ご参加を。後援会員で無い方の当日参加もOKです!(参加費が会員1000円、一般1200円の差があるのみです) (03/06/11:矢口・記)


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