2003/ 9/12 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
2003/ 9/ 6 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第165回神戸松蔭チャペルコンサート)
J.G.ヴァルター/《備えをなせ、わが心よ》 LV104
J.S.バッハ/《私は、どこに逃れることができよう》 BWV646
《われらが神こそ、堅き砦》 BWV720 (オルガン独奏:今井奈緒子)
※コラール先唱付き(ソプラノ:緋田 芳江、藤崎 美苗)
J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1724年のカンタータ 11〕
《備えをなせ、わが心よ》 BWV115
《私は、どこに逃れることができよう》 BWV5
《われらが神こそ、堅き砦》 BWV80
(03/09/15)
《出演メンバー》 *こちらにもメンバー表があります!
指揮:鈴木雅明
*チェンバロ(BWV80-3,4,6,7)
コーラス(*=独唱[コンチェルティスト])
ソプラノ :スザンヌ・リディーン*、緋田 芳江、藤崎 美苗
アルト :パスカル・ベルタン(CT)*、上杉 清仁、鈴木 環
テノール:ゲルト・テュルク*、谷口 洋介、水越 啓
バス :ペーター・コーイ*、浦野 智行、渡辺 祐介
オーケストラ
トランペット(BWV5)/コルノ(BWV115):島田 俊雄
フラウト・トラヴェルソ(BWV115): 前田りり子
オーボエ/オーボエ・ダモーレ/
オーボエ・ダ・カッチャ:三宮 正満、尾崎 温子(BWV5,80)、森 綾香(BWV80)
ヴァイオリン l :高田あずみ(コンサートミストレス&BWV5 ヴィオラ・ソロ)、
荒木 優子、パウル・エレラ
ヴァイオリン ll:竹嶋 祐子、小野 萬里、山口 幸恵
ヴィオラ:渡部 安見子、深沢 美奈
〔通奏低音〕
チェロ/チェロ・ピッコロ(BWV115):鈴木 秀美 コントラバス:今野 京
ファゴット:村上由紀子
チェンバロ:鈴木 優人(BWV80-1,2,5,8) オルガン:今井奈緒子
夏のヨーロッパは、咋年の洪水に続いて今年は観測史上初めての猛暑に見舞われ、二年続いて異常事態を体験をすることになってしまいました。ホテルにも博物館にも冷房のないドイツで、連日35度以上の気温に耐えるのは容易なことではありませんが、素晴らしいオルガン(とヴァイツェン・ビール)のお陰で何とか乗り越えることができました。
今年で3回めとなるオルガンツアーは、例のごとくハラルド・フォーゲルによって慎重に準備され、またもやオルガニストの常識を覆す画期的な旅行となりました。ミュンヘンからまずは有名なインスブルックの宮廷礼拝堂の2台のオルガンを聴き、マイヒンゲン、オットーボイレン、バート・ヴィムフェンなどを経由してアルザスに達し、素晴らしいアンドレアス・ジルバーマンを堪能しました。特にマルムティエは、松蔭のオルガンを建造する際のインスピレーションを得た重要な楽器です。その上、コルマールでリュッカースのオリジナル・チェンバロを弾くことができたのは、望外の喜びでした。そこからスイス経由で東に戻る道すがら、ハプスブルク家発祥の地程近くのムリとザンクト・ウルバンでは、その絢燗豪華に圧倒され、さらにワインガルテンの修道院では、あらん限りの賛を尽くした建物とオルガンに言葉を失ってミュンヘンに戻ったのでした。
17〜18世紀における中南部ドイツのオルガン像を明瞭につかむことは、なかなか難しいことです。北ドイツやフランスのように明瞭なパターンがあるわけでもなく、また修復の状態がまちまちなので、全体像を把握しにくいのです。今回の旅行では、南ドイツが東のテユーリンゲンから一体のオルガン風土を形成していることがよく理解できました。というのは、弦楽器的な響きを作るストリング系の8フィートや4フィートがふんだんに用いられ、それがオルガンの音色を豊かにしているからです。またそれに加えて、その弦楽器的な響きがミーントーンの調律法と共存していたことも再確認できました。ミーントーンは、意外に遅くまで用いられており、1750〜60年代に作られた数多くの楽器がまだミーントーンに調律されていたのです。
さて、大小取り混ぜて今回はちょうど20台の楽器を訪ねたのですが、その中で最も不思議な存在がマイヒンゲンの修道院教会のオルガンでした。マイヒンゲンという名前に、私はおぼろげな記憶はありましたが、メタル塗装の剥げ落ちた木製のペダル・プリンツィパル16フィートが正面に並ぶ異様な顔をみて、はっきりと思い出しました。10年以上前に、私はバリトンのミハエル・ショッパーと共に、このオルガンで放送用の録音をしたことがあったのです。が、そのときはこのオルガンを全く理解することができませんでした。何しろ、ロマンティックなオルガンのように、数多くの8フィートと4フィートが並んでおり、しかも調律法がミーントーンで、鍵盤は手もペダルもショートオクターヴなのです。ですからてっきりロマンティックなディスポジションを保ったまま、調律法のみを17世紀風に戻した、というような奇妙な修復が行われ、アンバランスな不統一が放置されているに違いないと感じたのでした。
しかしそうではありませんでした。このオルガンのパイプは95%以上がオリジナルのままであり、風箱やトラッカーなども犬部分が1737年の建造当時のままに保たれていたのです。1737年、バッハが既に晩年の域にさしかかろうという、その時代にショートオクターヴのミーントーン1と聞くだけで、耳を疑ってしまいます。そればかりではありません。バッハも好んだはずの弦楽器的な響きが、まるで本当の弦楽器のように聴こえるのです。例えば、テューリンゲンから南部ドイツ全域にわたって好まれたヴィオラ・ダ・ガンバ。このマイヒンゲンのガンバは、本当のガンバよりハスキーで、高い倍音は弦をこすっているとしか思えません。そして、プリンツィパルやフルートの、ごく基本的なレジスターのひとつひとつが、驚くばかりに異なった音のスペクトラムを持ち、その音色パレットの広さに唖然とするほどです。4フィートの枯れたまろやかさは、決して耳から離れません。
その上、ここにはリード管が1本もありません。つまり、音色の違いはすべて通常のパイプの寸法の差のみから生まれており、発音原理はすべて同じなのです。これは、明らかにイタリアからの影響でしょう。イタリアのオルガンには、19世紀にいたるまでほとんどリード管はないからです。しかも、この音色の多彩さが、上述のミーントーンによってさらに強められていることは言うまでもありません。この調律法によって、旋法ごとの表情の差が極限まで広げられているのです。
このオルガンは、あたかも何万年もの間シベリアの氷に閉ざされていたマンモスのような存在です。つまり、ここに用いられているオルガン建造のあらゆる技法と様式は、18世紀半ばの中南部ドイツの最も標準的な様式を示しているに違いないのです。この手付かずのまま保存されたオルガンのお陰で、音楽史観の図式的な理解を、その狭間を埋めて深める手がかりができました。バッハの音楽がそうであったように、アルプスの南と北で吹き荒れる音楽史の怒涛のような変化の波を、ここ南ドイツの片田舎ではすべて呑み込もうとしたのでしょう。バッハの音楽は、恐らくそのような変化の先端にいて、古い時代の集大成と新しい要素の最も斬新な混合体であり、一方、このマイヒンゲンのオルガンは、全く同じ時代にありながら、最も古めかしい混合体であったに違いありません。17世紀からの伝統の踏襲も、求める音色の多様さや対位法的語法も、イタリアからの影響も、すべてバッハと共通でありながら、同時代のバッハの音楽はここで1曲も演奏することはできません。私が最初にこのオルガンを理解できなかったのも、このようなヨーロッパ音楽史の多様な顔を知らなかったからに他なりませんが、今回のオルガン体験は、ライプツィヒで響いたバッハの音楽が、如何に時代から飛びぬけた存在であったことか、を改めて確認することにもなったのです。
バッハの音楽を知るために当時の歴史を少しでも知りたい、という思いは変りません。しかし、当時の実態を知れば知るほど、バッハが必ずしもその時代に属してはいなかったことを知ることにもなりました。そのことこそ、バッハの音楽が現代においても、これほどの音楽的な力を持つことの秘密なのかもしれません。
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(04/02/16)
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