第64回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.39
   〜ライプツィヒ1724年- Xlll 〜  


2004/ 6/24  19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2004/ 6/26 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第172回神戸松蔭チャペルコンサート)

*定期公演に引き続き行われた公演(メンバーの入れ替えあり)
   2004/ 6/30 14:00 青山学院ガウチャー・ホール(非公開の音楽教室:青山学院)
   2004/ 7/ 2  14:00 東京オペラシティコンサートホール(非公開の音楽教室:芝浦工大付属柏高校
                BWV38(全曲)、BWV147(抜粋)、BWV3(抜粋:7/2のみ)


J.S.バッハ/コラール《ああ神よ、天より見そなわし》BWV741
       コラール《心より われ こがれ望む》BWV727
       コラール《深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる》BWV686
            (オルガン独奏:今井奈緒子、コラール唱:D.ミールズ、緋田芳江、藤崎美苗)

J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1724年のカンタータ 13〕
         《ああ神よ、天より見そなわし》BWV2
        《ああ主よ、哀れなる罪人なるわれを》BWV135
        《ああ神よ、いかに多き胸の悩み》BWV3
        《深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる》BWV38

※G.ライヒェ/〈ソナティーナ〉〈フーガ〉が冒頭と後半の開始時にコンチェルト・パラティーノによって演奏された。

(04/07/04)


《出演メンバー》  

指揮鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノドロテー・ミールズ*、緋田 芳江、藤崎 美苗
  アルト  :パスカル・ベルタン(CT)*、上杉 清仁、鈴木 環
  テノールゲルト・テュルク谷口 洋介、水越 啓
  バス   :ペーター・コーイ*、浦野 智行、渡辺 祐介

オーケストラ
  [コンチェルト・パラティーノ]
    コルネット:ブルース・ディッキー
    トロンボーン:オーレ=クリスティアン・アンデルセン(A)、シャルル・トゥート(T)、ヴィム・ベキュ(B)
  コルノ:島田 俊雄(BWV3、第6曲)
  オーボエ:三宮 正満、尾崎 温子
  ヴァイオリン I若松 夏美(コンサートミストレス)、パウル・エレラ、竹嶋 祐子、
  ヴァイオリンII:高田あずみ、荒木 優子、山口 幸恵
  ヴィオラ:森田 芳子、渡部 安見子

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木 秀美  コントラバス:今野 京  ファゴット:堂阪清高
  オルガン:今井奈緒子  チェンバロ:鈴木雅明(BWV38、第2-5曲)

(04/07/04更新)


コンチェルト・パラティーノと奏でる荘厳な響き

 バッハはライプツィヒ時代、およそ15曲ほどのカンタータに、コルネット(ツィンク)トロンボーンのアンサンブルを用いています。コルネットは、トランペットのように唇で音を出し、リコーダーのような指穴を持ち、動物の角のように湾曲した本体を持った不思議な楽器です。これは人の声のようにしなやかで、トランペットの輝かしさとヴァイオリンの細やかさを併せ持つ理想的な楽器として、16世紀から17世紀に盛んに用いられました。バッハの時代には既にその最盛期は過ぎていましたが、トロンボーンとのアンサンブルはまだまだ活躍し、町楽師の最も重要な楽器でした。
 バッハがこの町楽師のアンサンブルを用いるとき、多くの冒頭合唱は、いわゆる古様式“Stile Antico”と言われる、ことさら古風な厳格対位法のスタイルを持っています。そのことによって、時には神の堅実な意志をあらわし、あるいは律法の厳格さを表現したのです。しかし、その結果、続くアリアやレチタティーヴォとの対比はより強くなり、全体としてカンタータはより劇的な表現を得ていきます。
 6月と9月の2回にわたって、現代にこのコルネットを復活させたブルース・ディッキーと、バロック・トロンボーンの第1人者シャルル・トゥートを中心とするコンチェルト・パラティーノを特別にお招きし、カンタータの中でも特別に荘厳な響きを聴いていただきたいと思います。彼らの洗練された透明な響き、そしてドイツからのニューフェイス、ドロテー・ミールズを含むベテランソリスト達のしなやかな歌声、装い新たなBCJのカンタータをご堪能ください。

鈴木雅明 (バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督)
(04/06/15:チラシ掲載文)


第64回定期演奏会 巻頭言

 みなさまようこそおいで下さいました。
 前回のプログラム巻末で新聞記事をご覧頂いたとおり、2月後半に、シュトゥットガルトのバッハ・アカデミーの招きで渡独しました。このアカデミーはご存知の通り既に数十年もの間ヘルムート・リリング氏によって営まれてきたもので、日本でもかつては定期的に開かれていました。リリング氏の演奏上のアイディアは、言うまでもなくモダンな(あるいは古風な)様式に属するので、わたしたちとは大いに考えが違います。しかし、そのような違いを互いに承知の上で私のことをお招きくださったので、受けることにしたのでした。当初、オーケストラも合唱もあまりの違いに愕然としたのですが、結果として多くのことを学びました。何より大きなことは、リリング氏がカンタータのテクストに如何に深くコミットしようとしているか、またそのテクスト理解を共有するために、演奏者も聴衆も如何に多くの人々を巻き込んでいるか、ということです。
 講習会は、毎朝9時半『その日のカンタータ』についてのシンポジウムから始まります。シンポジウムでは、音楽学者ノルベルト・ボリン氏による基本的な伝承資料の確認と解説、そしてライプツィヒの神学者マルティン・ペツォルト氏による歴史的資料に基づくテクスト理解が示され、それにペーター・クライシヒ牧師によるより深い洞察(説教)が続きます。特に、ペツォルト氏の解説は実にすばらしく、目からうろこの落ちるような瞬間が幾度もありました。続いて、そのカンタータの演奏についての声楽と指揮のレッスンを、演奏解釈についての議論も含めて午前と午後を通して行います。そして夜には、そのカンタータについてのレクチャーコンサートが公開で行われます。これは、リリング氏と私が1日交代でお話し、受講生たちが部分的な譜例と作品全体を演奏するなかなか秀逸な形に整えられています。このレクチャーコンサートのために、実に1500人以上の聴衆が巨大なシュティフツ・キルヒェを満たしたことを見ても、リリング氏の続けてきた「バッハ教育」が如何に大きな成果を生んでいるかが想像できます。それにつけても、丸一日ただ一曲のカンタータを巡って、シンポジウムや議論、レッスン、さらに公開の演奏と続けていくことの恵みは測り知れず、まるでそのカンタータが自分の体の隅々まで行き渡ったという感じでした。
 さて、今回のアカデミーでは「顕現節 Epiphanie」のカンタータがテーマでしたので、今日演奏するBWV3もそのひとつとして取り上げられ、私がレクチャーコンサートを行いました。このカンタータのテクストは、ホーフマン氏の解説にもあるようにマルティン・モラーのコラール『ああ神よ、何と多くの心の痛みが Ach Gott, wie manches Herzeleid 』に基づいているので、基本的には聖書日課とは関係ないとされています(1) が、M.ペツォルト氏いわく、バッハの所蔵していたオレアーリウスの聖書注解(2)を見ると、必ずしも無関係とは言えないとのことでした。というのは、オレアーリウスはこの日の聖書日課「カナの婚礼」の挿話(ヨハネ2:1〜12)を次のように説明するからです。この挿話のきっかけは「ぶどう酒の欠如」ですが、ぶどう酒は「生命」の象徴なので(3)、ぶどう酒の欠如は「生命」が欠けた状態を指し、その時にこそBWV3第1曲冒頭で歌われる「心の痛み Herzeleid」が起こるのだ、というのです。では、そのような時私たちは一体「どこに向き直ればよいのでしょう」(BWV3/第2曲/7行目)。挿話では、ぶどう酒がなくなった時、婚宴の主宰者と思しき母マリアは、なぜか責任を問うべき料理長にではなく、主イエスに向かって「ぶどう酒がなくなりました」と言いました(ヨハネ2:3)。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」(2:4)というイエスの答えも、むべなるかな、です。が、これはまさしく、母マリアの心も「あなたにこそ、おおイエスよ、わが思いは向いてい」たことをしめしているに違いありません(第2曲10行目)。つまり、BWV3第2曲が歌うように「生命の君イエス」に向き直ることこそ、新たなワイン=生命を得、「心の痛み」から救われる唯一の方法であることが示されているのです。このように、コラールカンタータのテクストは、必ずしもコラールのみを重視して、その日の聖書日課を無視したものではありませんでした。マルティン・ペツォルト氏によって解き明かされる歴史的な聖書理解には、演奏するものも大いに励まされます。
 もちろん、どんなに深いテクスト理解が得られても、それが演奏に反映されなければ、音楽家にとっての意味はありません。が、バッハの音楽を演奏している限り、それは既に音楽に組み込まれていると言ってもいいのです。例えば、BWV3第1曲の冒頭、「ああ神よ Ach Gott」と呼びかける音型は、一瞬首をもたげるように上を向き、つぎの瞬間「多くの心の痛み manches Herzesleid」と自らを振り返る時、旋律はg#[シャープ]からg[ナチュラル]へ、あるいはd#[シャープ]からd[ナチュラル]へと、たえず半音の下降変化が現れます。この苦渋に満ちた音型が、オーボエから歌の各声部に歌い継がれていくと、やがてバス・トロンボーンに支えられた低音のコラールが、長く引き伸ばされた音価でコラールを歌い始めます。これは、終曲として歌われる同じコラールの最終行が、「(わが心を)保ちたまえ Erhalt mein Herz」という言葉で始まることを考えれば、既にイエスの「支え」を表しており、同時に第2曲の最後で歌われる家を建てるべき「正しい土台」をも示しています。だからこそ、ここには特別にバス・トロンボーンが指示されているのです。
 このように、テクストの理解を経てバッハの音楽を改めて見直してみると、個々の音型から全体の構成までが、如何に深くテクストと結びついているかに驚かされます。「地獄の恐怖」とそれが消え去った時の「喜び」を歌う第3曲においても、両者の対比が見事な音型の差で表され、共に十字架を担ってくださるイエスがひたと寄り添う第5曲の二重唱など、どの瞬間にも、音楽は常に言葉を表現するために奉仕しているといってもよいのです。まさしく、リリング氏が言うように「教会音楽家にとっては、言葉がすべて」であり、この点においては、演奏様式の差を超えて、私たちとリリング氏はまったく軌を一にした「バッハの同志」に他ならないことがよくわかりました。もちろんこの後、実際に”manches Herzeleid”と歌いはじめる瞬間、「響きの様式」が必要となり、ここからは異なった道を選ばざるを得ません。私たちは私たちの方法を尽くして、「心の痛み」とそれが癒された時の「平安」が表されれば、と願うばかりです。


(1) Alfred Duerr:”Johann Sebastian Bach・Die Kantaten”(Baerenreiter 1970) p.230
(2)“Biblische Erklaerung Darinnen nechst dem allgemeinen Haupt=Schluessel.. etc” (1678 Leipzig) オレアーリウスのこの著書については、『バッハ=カンタータの世界III 教会カンタータ ライプツィヒ時代』(東京書籍 2002年)p.219ff参照。
(3)ワインを表すラテン語 Vinum は、スペリングを入れ替えると Num Vi となる。Num は「今」「本当に」という意の副詞であり、Vi は「力」の意(第3変化名詞 Vis の単数与格)であることから、命の源なる力との関連で捉えられた。またVとBが交代して「生命」を表す Bios はワインの意味でもある。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明


(04/06/23、BCJ事務局提供)


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