第65回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.40
   〜ライプツィヒ1724年- XlV 〜  


2004/ 9/17  19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2004/ 9/11 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第174回神戸松蔭チャペルコンサート)
   2004/ 9/16 18:30 栃木市文化会館大ホール(栃木「蔵の街」音楽祭、BCJ特別公演)

*定期公演に前後して行われる公演(曲目等の一部入れ替えあり)
   2004/ 9/15 18:45 名古屋:しらかわホール(BCJ特別演奏会 〜しらかわホール開館10周年記念〜)
                BWV91、BWV101、BWV1067、BWV147


D.ブクステフーデ/《われらより取去りたまえ、主よ、汝真実なる神よ》BuxWV207
                               (オルガン独奏:今井奈緒子)

J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1724年のカンタータ 13〕
        《讃美を受けたまえ、汝イエス・キリストよ》BWV91
        《キリストをわれらさやけく頌め讃うべし》BWV121
        《われらより取去りたまえ、主よ、汝真実なる神よ》BWV101
        《われは汝にありて喜び》BWV133

(04/09/12)


《出演メンバー》  

指揮/チェンバロ鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノ野々下由香里*、緋田芳江、藤崎美苗
  アルト  :ロビン・ブレイズ(CT)*、上杉清仁、鈴木 環
  テノールゲルト・テュルク谷口洋介、水越 啓
  バス   :ペーター・コーイ*、藤井大輔、渡辺祐介

オーケストラ
  [コンチェルト・パラティーノ]
    コルネット:ブルース・ディッキー
    トロンボーン:オーレ=クリスティアン・アンデルセン(A)、シャルル・トゥート(T)、デヴィッド・ヤークス(B)
  コルノ(ホルン):島田俊雄(I)、飯島さゆり(II)
  ティンパニ:菅原 淳(神戸,名古屋公演)、村本寛太郎(栃木,東京公演)
  フラウト・トラヴェルソ:前田りり子
  オーボエ/オーボエ・ダモーレ/オーボエ・ダ・カッチャ:三宮正満、尾崎温子、藤井貴宏
  ヴァイオリンI若松夏美(コンサートミストレス)、竹嶋祐子、戸田 薫
  ヴァイオリンII:高田あずみ、荒木優子、山口幸恵
  ヴィオラ:森田 芳子、渡部安見子

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木 秀美  コントラバス:西澤誠治  ファゴット:堂阪清高  オルガン:今井奈緒子

(04/09/12更新)


コンチェルト・パラティーノと奏でる荘厳な響き

 バッハはライプツィヒ時代、およそ15曲ほどのカンタータに、コルネット(ツィンク)トロンボーンのアンサンブルを用いています。コルネットは、トランペットのように唇で音を出し、リコーダーのような指穴を持ち、動物の角のように湾曲した本体を持った不思議な楽器です。これは人の声のようにしなやかで、トランペットの輝かしさとヴァイオリンの細やかさを併せ持つ理想的な楽器として、16世紀から17世紀に盛んに用いられました。バッハの時代には既にその最盛期は過ぎていましたが、トロンボーンとのアンサンブルはまだまだ活躍し、町楽師の最も重要な楽器でした。
 バッハがこの町楽師のアンサンブルを用いるとき、多くの冒頭合唱は、いわゆる古様式“Stile Antico”と言われる、ことさら古風な厳格対位法のスタイルを持っています。そのことによって、時には神の堅実な意志をあらわし、あるいは律法の厳格さを表現したのです。しかし、その結果、続くアリアやレチタティーヴォとの対比はより強くなり、全体としてカンタータはより劇的な表現を得ていきます。
 6月と9月の2回にわたって、現代にこのコルネットを復活させたブルース・ディッキーと、バロック・トロンボーンの第1人者シャルル・トゥートを中心とするコンチェルト・パラティーノを特別にお招きし、カンタータの中でも特別に荘厳な響きを聴いていただきたいと思います。彼らの洗練された透明な響き、そしてドイツからのニューフェイス、ドロテー・ミールズを含むベテランソリスト達のしなやかな歌声、装い新たなBCJのカンタータをご堪能ください。

鈴木雅明 (バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督)
(04/06/15:チラシ掲載文)


第65回定期演奏会 巻頭言 

 ここスウェーデンのヨーテボリは、例年になく活気に溢れています。なにしろ北欧にはあり得ないほどの陽気と町をあげてのヨーテボリ祭り、さらにサッカーの試合もあいまって、若者たちが夜中になっても町に繰り出しているのです。北欧の夏がひときわ短いので、それだけに、この一瞬の陽気を精一杯楽しもう、という切実な思いが祭りをいちだんと盛り上げているに違いありません。
 この町に再びやってきたのは、ヨーテボリ大学内に設置されたヨーテボリ・オルガン文化センター(GOArt)の主宰するアカデミーで演奏するためです。この GOArt は、充実した資料と図書のコレクション、そして楽器製作の大きな工房を持ち、ヨーロッパのオルガン文化、特にオルガン建造のあらゆる側面を詳細に研究調査して、修復や再建築できる数少ない機関として重要な働きをしています。最近ではリトアニアのヴィルニウスという町に残っている、ヨハン・ゴットロープ・カスパリーニのオルガン(1776年建造)を詳細に調査し、これが J.S.バッハ周辺のオルガン様式と密接な関係を持つ重要な楽器であることがわかったそうです。これらの研究調査の結果は、数多くの出版物と2年にいちどのアカデミーによって公表されています。最近では、「修復」という作業で楽器としての機能を十分に与えるためには、どうしてもオリジナルの材料に手を加えることになるため、世界的に楽器の修復のあり方が見直されています。そこで彼らは、場合によってオリジナルの楽器は修復せずにそのまま「保存」し、調査結果をそのまま生かしたオルガンを新たに作ること、つまり「再構築」 re-construct することによって、音楽的な活用を進めているのです。
 オルガンのような巨大な楽器を「再構築」するためには、無数の要素が問題になります。例えばパイプについては、その寸法(メンズール)や配置は言うまでもなく、製造方法もすべて再現するため、溶かした原材料を当時と同じように砂の上に流して板金にし、それをハンマーで打って作られます。木工の部分も同じように詳しく調査して、風箱やふいごと鍵盤などのメカニズムが再現されます。ピッチや調律法、鍵盤の構造やオルガンケース周囲の装飾など、数多くの観点から微にいり細にわたって研究され、その過程はすべて共有できる情報として発信されます。ヨーテボリの閑静な住宅街にあるエルグリーテ教会には、そのようにして実現した成果が4段鍵盤の17世紀北ドイツのシュニットガー様式のオルガンとして結実しています。これは、単に学問的な研究の集積であるばかりでなく、現代に建造された最も成功したオルガンのひとつとして美しい響きを奏でています。今回、ここで再び演奏することができたのは、とても幸せでした。
 ところで、この「再構築」という発想は古楽の演奏にもあてはめられてきました。バロック時代の演奏の「再構築」を求めて、当時の楽器ばかりでなく演奏方法や習慣、演奏の環境や楽譜について、さまざまな観点から研究されてきたのは、周知のとおりです。何とか作曲家の思い描いた響きを「再構築」したい、という一途な思いが、このムーヴメントを支えてきたのでした。
 しかし、これは果たして可能なのでしょうか。例えば「オルガン再構築」の最も基本的な寸法や形にあたる要素は、演奏においては、その曲が他の曲ではなく、その曲だとわかるための要素、すなわち音符の音高とリズムがしかるべきテンポで再現される、ということでしょう。しかし、それだけでももう多くのクエスチョンマークが頭の中を駆け巡ります。例えば、その作品が造られた時のピッチは? 調律法は? これらは、音の高さを決定する最も基本的な要素ですが、ピッチは町ごとに異なり、調律法は楽器ごとにも、演奏者ごとにも異なりました。しかも、セント単位の微妙な問題だけではありません。例えば今日演奏する BWV91 《誉め讃えられよ、イエス・キリスト》第1曲に出てくるように、ホルンの音が1オクターヴ上だったのか下だったのか(つまりアルトか、バッソか)さえ、時には定かでないのです。
 またテンポについてはどうでしょう。楽譜にはほとんど何の指示もありません。舞曲ならばまだ大まかな速さを想像することも可能でしょう。しかし対位法的な曲ともなると、もはや全く手がかりはありません。リズムについても、例えば符点のある音符はある程度引きのばすことを私たちは知っていますが、果たしてそれは正確に1.5倍なのでしょうか。時にはもっと長く、あるいは鋭く演奏しなければならないこともあるでしょう。もしテンポやリズムの再現ができたとしても、音色や強弱の表情、さらにリタルダンドやアッチェレランドなどのテンポの揺れ、アクセントの置き方などなど、演奏には無数の再現不可能な要素が待ち構えています。
 つまり、音楽の演奏は「再現芸術」などと言われることもありますが、厳密な意味においてはどこにも再現できる要素はないのです。無論、ヨーテボリのオルガンのように楽器の再構築は可能でしょう。しかし、演奏は「再構築」ではなく、むしろ「再創造」 re-create されるもの、というべきだと思います。音楽作品は、演奏される一瞬においてのみ存在するのですから、演奏ごとに「再創造」される、というのは、ある意味では当然の発想ですが、その際、私たち演奏者はまず、ヨーテボリのオルガン再構築プロジェクトのように、全力をつくして本来の姿を研究し求めるべきでしょう。しかしその結果としての演奏の瞬間に、新たな命が吹き込まれて、「再構築」が「再創造」へと昇華されなければ、人の手による拙い演奏が心を動かすことはありえません。
 もしバッハのカンタータが、わずかでも力を発揮するとすれば、そこには必ずや新たな「創造」が起こっているはずなのです。もちろん「創造」の業(わざ)は、人の手によってなされるべきものではありません。「天と地とそこに満ちるもの」を創造された「創造主」によってなされるべきものであり、創造主の御業は、音楽の演奏において常に新たに行われ続ける、といってもよいでしょう。それは遥かに人知を超えた出来事であり、私たちは、所詮「悟ることなどできはしない、否、否、ただひたすら驚くがよい」(BWV121/2)のです。ただ私たちは、神がひとを創られた後「息」を吹きいれ、命を与えられたことを知っています。そのように、今日のカンタータにも、神が息を吹き入れられることを願いつつ……。 

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明


(04/09/15、BCJ事務局提供)


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