第67回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.41
   〜ライプツィヒ1725年- I 〜  


2005/ 2/24  19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2005/ 2/19 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第177回神戸松蔭チャペルコンサート)
   2005/ 2/26 18:00 佐倉市民音楽ホール


J.S.バッハ/トッカータとフーガ ニ短調 BWV538(ドリア調)
       《平安と歓喜もて われはいま》 BWV616 (オルガン独奏:今井奈緒子)
       *トッカータ(BWV538)−BWV616−フーガ(BWV538)の順に演奏(神戸・東京公演のみ)

J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1725年のカンタータ 1〕
        《いと尊きインマヌエル、虔しき者らを率いたもう君候》BWV123
        《わがイエスをばわれは放さず》BWV124
        《平安と歓喜もて われはいま》BWV125

        《わが神の御心のままに、常に成らせたまえ》BWV111

(05/02/28)


《出演メンバー》  

指揮/チェンバロ鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノ野々下由香里*、緋田芳江、藤崎美苗
  アルト  :ロビン・ブレイズ(CT)*(2/19,24)、上杉清仁*(2/26)、鈴木 環
  テノールアンドレアス・ヴェラー谷口洋介、水越 啓
  バス   :ペーター・コーイ*、浦野智行、渡辺祐介

オーケストラ
  コルノ(ホルン):島田俊雄
  フラウト・トラヴェルソ:前田りり子、菊池香苗
  オーボエ:三宮正満、尾崎温子
  ヴァイオリン I :若松夏美(コンサートミストレス)、荒木優子、パウル・エレラ
  ヴァイオリン II:高田あずみ、山口幸恵、竹嶋祐子
  ヴィオラ:森田 芳子、渡部安見子

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木 秀美  コントラバス:今野 京  ファゴット:堂阪清高
  チェンバロ:鈴木優人(BWV124,111)  オルガン:今井奈緒子

(04/12/06更新)


安らかに、そして静かに−。声と楽器による究極の美、バッハ:教会カンタータ

 本公演では珠玉のライプツィヒ・カンタータ四作品を取り上げ、バッハ音楽の真髄とも言うべき「愉悦」と「祈り」の魅力をたっぷりとお聴きいただきます。名人芸的フルートが活躍し、シュヴァイツァーも「神秘家バッハのもっともすばらしい作品のひとつ」と評した第123番、華やかな二重唱が魅力の第111番、124番。そして一際メランコリックな美しさに満ちた名作、第125番など、心揺さぶる響きの連続です。第一級のソリストとともに、輝かしく透明なバッハの魅力をお楽しみください。

(04/12/06:チラシ掲載文)


第67回定期演奏会 巻頭言 

 今年のお正月は、心地よい緊張感に満たされていました。というのも、年明け早々、平均律第2巻の録音が決まっていたからです。松蔭チャペルでのチェンバロ録音は、カンタータとは全く別種のうれしさに満たされます。何しろあの豊かな空間にたった一人の録音なので、愛用しているクルスベルヘンのチェンバロの持つひときわ強靭な音が、からだを貫いて響き渡るのです。しかし、これほど取り扱いの面倒なチェンバロも滅多にないでしょう。皆様もご存知のとおり楽器全体が著しく歪んでいるので、演奏するたびにさまざまな問題が噴出するのです。おそらくふつうのチェンバロ建造家ならば、その歪な全体像、斜めに反りあがった鍵盤、1本1本のジャックと弦の距離(つまりはツメの長さ)のあまりの不ぞろいに腰を抜かされるでしょう。録音の間も、最初の2日間は毎時間ごとにコンディションが変わります。温度や湿度の変化に慣れるのに時間がかかり、繊細さ(または不安定さ)にかけてはガット弦にも引けをとりません。しかしそれでも、その音は丸みを帯びて定かな芯があり、この世にふたつとないほどに捨てがたいものなので、私はもうかれこれ25年近くもこの気難しい楽器に付合って来ました。

 このチェンバロを作ってくれたオランダのヴィレム・クルスベルヘンという人は、大いなる変人で通っています。昨夏、ユトレヒトの中心からさほど遠くはない運河沿いに、数年ぶりに彼を訪ねました。最近は髪もずいぶん白くなった痩身に迎えられ、その大きな家に一歩入ると街の喧騒はたちまち遠のき、一瞬にして18世紀に舞い戻ってしまうのです。吹き抜けの玄関から石畳のダイニングルームへ進むと、壁には鉄の火かき棒とナベが掛かり、片隅の流しには緑青の生した巨大な蛇口。中央のテーブルに置かれた古めかしいデルフトのカップに、赤銅色のポットから自らお茶を注いでくれる様は、彼は本当に今生きているのだろうか、と思うほどに、非現実的なシーンでした。
 およそこの世のすべての「便利さ」に背を向けているように見える生き様が、そのままチェンバロにも反映しているのでしょう。その無骨な性格は、楽器の構造だけでなく、そこに書かれた字にも現れています。私は長年、彼自身の名前をかきつけたネーム・ボード(鍵盤正面の板)の字があまりにぎこちないので、作り直してもらおうかと思っていたのです。しかし、アムステルダム国立博物館にある長崎の「出島」の模型を見て考えを改めました。そこには、出島にあったオランダ商館の歴代館長名を長々と書き付けた当時のボードが残っており、その筆跡がクルスベルヘンの字とそっくりだったのです。ああ、これはオランダの歴史的な筆跡だったのだ、と気がつき、以来その金釘流にも妙に親しみを感じるようになってしまいました。
 この一徹な楽器が奏でる対位法は、ひとつひとつの声部がまるで生き物であるかのように感じられます。バッハの複雑な、しかし極めて論理的な動きが自然に命を得、動き始めるのです。チェンバロには強弱がない、と思われる方もいらっしゃるようですが、それは誤解です。もちろん弦を「打つ」のではなく「はじく」わけですから、ピアノのような意味での強弱はありませんが、フーガの中のどの音型にも、奏者の意識の強さが如実に反映します。しかも多声音楽の本質である同等のバランスが崩れることがありませんので、たとえテーマを演奏しているときでさえ、対旋律の存在が消されることもありません。器楽のアンサンブルや合唱では、チェンバロ1台よりよほど自由自在に複雑なことが可能なように見えますが、大勢の人で演奏する多声部はお互いのバランスを得ることは遥かに難しく、しかも音源が広がっているだけに、聴いて理解できる複雑さには限界があります。またオルガンにおいても、チェンバロのように複雑なことを効果的に演奏することは不可能です。バッハは、そのようなチェンバロの長所を最大限に活用し、オルガンでも合唱でもなく、チェンバロにおいてこそ最も複雑なフーガを試みたのでした。

 今回平均律クラフィーア曲集第2巻を録音しながら、この曲集のひとつの特徴に気がつきました。それは、フーガのテーマに拮抗する対旋律や対句の意味が、第1巻の場合より飛躍的に増大していることです。例えばト短調フーガの単純なテーマは、対句があればこそ意味を持ちますし、イ短調フーガは32分音符の対句がテーマとの著しいコントラストによってフーガの存在を支えています。また、嬰ト短調や変ロ短調では、曲に不可欠の半音階進行がすべて対句によって与えられるのです。
 この「対旋律を書く」という技術こそ、すべての対位法の基本であることは言うまでもありません。対位法Contrapunctusという言葉は、本来「点」対「点」を意味するのですから、ひとつの音に対してどの音が共存できるか、ということから始まり、それが「旋律」対「旋律」へと発展したのでしょう。が、本来はあくまで「共存」できることが目的であって、「対立」ではなかったと思われます。例えば、多声音楽の至宝とでも言うべきパレストリーナやジョスカン・デ・プレの見事な対位法を見ても、そこには変化はあっても、何の対立も存在していません。むしろ、ひとつの対旋律は主たる旋律から導き出される、と言ってもよいのです。時代が下るにつれ、対旋律には強いコントラストが求められるようになり、和声的に互いを支えあうようになっていくのです。これは、いずれおとずれるソナタ形式の第1と第2テーマのような弁証法的な関係への「予兆」、と言ってもいいかもしれません。
 実は、「共存」から「対立」へという歴史的な変化は、今日聴いていただくコラールカンタータの中にも如実に現れています。例えばカンタータ第111番『わが神のみこころが、常に成就しますように』第1曲をご覧ください。ソプラノ声部が何の飾りもなく真っ直ぐに歌う有名なコラール旋律がこのカンタータの基礎であり、作曲を始める前にバッハの手にあった唯一の材料なのです。次にアルト、テノール、バスの3声部は、このコラールから導き出された極めて伝統的な対旋律であり、それらの冒頭はすべてコラール旋律の縮小形になっています。これはいうなれば「共存」する対位法であり、その性格はどこにも対立する要素がありません。しかし、そこに同時に鳴り響く器楽パートはどうでしょうか。ヴィヴァルディのコンチェルトを髣髴させる強烈なアクセント、颯爽と駆け巡る16分音符は、もはやコラールとの関係は一切拒否されています。むしろそこでは、すべての共通点を排除してあまりに強いコントラストが仕組まれているので、コラールが歌う神の御心に自らを委ねようとする信仰的決意は、声楽パートによって共鳴され、器楽パートによって全く異次元へと昇華されているのです。晩年、チェンバロのフーガに秘められた緻密な構造は、カンタータにおけるこの大胆な弁証法的「対立」を経て凝縮したものに違いありません。ここにこそ、バッハの音楽に内包される驚くべきエネルギーの源があるのでしょう。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明


(05/02/23:BCJ事務局提供)


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