2006/ 2/22 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
2006/ 2/25 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第184回神戸松蔭チャペルコンサート)
J.S.バッハ/コラール編曲 《おお 神の子羊、罪なくして》 BWV656 (オルガン独奏:今井奈緒子)
J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1725年のカンタータ 4〕
《この同じ安息日の夕べ》BWV42
《わが去るは汝らの益なり》BWV108
《われらと共に留まりたまえ》BWV6
《汝らは泣き叫び》BWV103
*カンタータを演奏順に並び替えました!
(06/02/22)
指揮:鈴木雅明
コーラス(*=独唱[コンチェルティスト])
ソプラノ :野々下由香里*、緋田芳江、藤崎美苗
アルト :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、鈴木 環
テノール:ジェイムス・ギルクリスト*、谷口洋介、水越 啓
バス :ドミニク・ヴェルナー*、浦野智行、藤井大輔
オーケストラ
トランペット:島田俊雄
リコーダー:ダン・ラウリン
オーボエ:三宮正満、尾崎温子、前橋ゆかり
ヴァイオリン:若松夏美(コンサートミストレス)、高田あずみ、荒木優子、パウル・エレラ、竹嶋祐子、山口幸恵
ヴィオラ:森田 芳子、渡部安見子
ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ:ディミトリー・バディアロフ
〔通奏低音〕
チェロ:鈴木秀美 コントラバス:西澤誠治 ファゴット:堂阪清高
チェンバロ:鈴木優人 オルガン:今井奈緒子
(06/01/15更新)
ライプツィヒ時代第2年度の大きな特徴であったコラール・カンタータを、なぜか未完のまま40曲で終えたバッハは、1725年の復活祭のあと12曲の美しいカンタータを生み出しました。今回は、この中から4曲をお聴きいただきましょう。叙情的なアリアに加えて、数々の器楽のソロが華やかな色合いを添えます。
まずは、復活祭第2日用のカンタータ第6番『われらと共に留まりたまえ』。エマオへの途上で復活の主に出会った弟子たちは、後になって初めてそれが主イエスであることに気づき、「心が燃えたではないか」と回想するのです。第3曲コラールに登場するオブリガートは、今回初登場の「肩のチェロ」Violoncello
da spalla。当時の文献を基に初めて復元された弦楽器です。軽快なシンフォニアがしっとりとしたアルトのアリアを導く42番『この同じ安息日の夕べ』では、ソプラノとテノールのデュエットにファゴットが、バス・ソロにはヴァイオリン2本が絡まって、イエスへの信仰を歌います。さて残る2曲は、女流詩人マリアーネ・フォン・ツィーグラーによるカンタータ。第108番『わが去るは汝らの益なり』では、冒頭に合唱ではなくイエスの言葉が歌われ、合唱は第4曲めで3つのテーマでフーガを展開。最後の第103番『汝らは泣き叫び』は、華麗なソプラニーノ・リコーダー・ソロを伴った冒頭合唱やアリアが、我々が苦しみを経て喜びへ至ることを歌い上げます。テノールには、医師出身で博学多才のジェイムズ・ギルクリストを数年ぶりに。リコーダーには超絶技巧のダン・ラウリン、「肩のチェロ」には自ら研究復元したディミトリー・バディアロフを迎えて、今回も色鮮やかなカンタータの世界をどうぞ。
バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督 鈴木雅明
(06/01/13:チラシ掲載文)
皆様、本日もようこそお出でくださいました。
2002年の4月以来ほとんど4年近くにわたってお聴きいただいた約40曲のコラールカンタータがようやく終わり、今日からいよいよその次の年度への橋渡しにさしかかりました。コラールカンタータの年巻は、復活祭直前の1725年3月25日で中断してしまいますが、これは恐らく、その歌詞を作っていたアンドレアス・シュテューベル(1653〜1725)の死によるものと想像されています。そこで、バッハは、カンタータ年巻の区切りである5月の三位一体節までを、別の(今日では作者不詳の)詩人と、クリスティアーネ・マリアーネ・フォン・ツィーグラーによる連作で埋めることにしたようです。彼女は、かつてドレスデンの意向を挺してライプツィヒ市長を務めたロマーヌスの娘であり、ヨハン・クリストフ・ゴットシェットらと共に才能ある女流詩人として活躍した人でした。しかし、バッハは、彼女の歌詞にはこの時期の9曲のみを作曲し、後に年間のカンタータ用歌詞がまとめて出版されてからもそれを用いることはありませんでした。また、バッハは彼女のテクストを用いる際、しばしば言葉遣いを変更しているので、あまり気に入っていなかったのかもしれません。(今日演奏するBWV103と108もしかり。)彼女を支援したゴットシェットは、後にバッハを批判するヨハン・アドルフ・シャイベにも大きな影響を与えた人ですから、徐々に価値観が離れていたとしても不思議はありません。
さて、ツィーグラーの連作が始まる前のBWV6、42、85の3曲を誰が作詞したかはわかりません。しかし、それぞれ必ず第3曲(BWV42では冒頭にシンフォニアがあるので第4曲)と終曲にコラール歌詞を用いることや、その前後にレチタティーヴォとアリアが続くことなど、いくつかの共通点がありますし、今日演奏する2曲BWV6と42については、特に共通のテーマを持っていると言ってもよいでしょう。
さて、そのテーマとは、「夕暮れ」です。「(神は)光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。」(創世記1:5)という天地創造の第1日以来、毎日夕暮れが訪れ、また朝になるのが私たちの日常です。シューベルトの例を挙げるまでもなく、一日のうちで最もロマンティックなひと時、と思われる方も多いでしょう。
しかし、聖書における「夕暮れ」は、ずいぶんニュアンスが違います。エデンの園では、最初に創造された人間であるアダムとイヴが、神が歩かれるのを聞いて、自分たちが裸であることを恥ずかしく思い、身を隠した、というのが、「夕方、風が吹く頃」でした(創世記3:8※ )。彼らが恥ずかしいと思ったのは、お互いに対してではなく、神に対してであった。ということは、彼らが「善悪を知る木」から食べたのは、「神のようになりたかった」からであり、その高慢こそが、罪の発端であったのです。ところが、その実を食べて実際に見えた姿は、とても神の前には出られないみすぼらしい裸でした。だからこそ、彼らは神から身を隠そうとしたのです。やがて、旧約聖書は、神がその罪のゆえに人間を洪水で滅ぼし、ただノアとその家族だけを救われたことを告げます。洪水の中に40日と7日の間箱舟で漂っていたノアは、やがて「夕暮れになって」オリーブの葉を咥えて戻ってきた鳩によって、洪水が去ったことを知ります(創世記8:11)。
このように神は、夕暮れに向かう頃罪を犯した人間を、同じく夕暮れに救い、「もはや私は二度と人を滅ぼすことはない」と誓われたのです(創世記8:21)。この誓いをよそに、ノアの子孫たちは罪を重ねていく様子が旧約聖書には縷々語られていますが、その中にあって、「夕暮れ」はいつも罪びとの暗躍する時、恐怖の時として描かれます。無法の者は「夕暮れの狼よりもすばやく」(ハバクク1:8)獲物に襲いかかり、「楽しみにしていた夕暮れは、私を恐怖に突き落とした」(イザヤ21:4)。「真昼にも夕暮れ時のようにつまづき」(イザヤ59:10)、「姦淫する者の目は、夕暮れを待つ」(ヨブ24:15)。そういえば、あのダビデがウリヤの妻バテ・シェバを誘惑したのも夕暮れのことでした。(サムエル記下11:2)
夕暮れとは、このように無法者の暗躍する時。ひいては「罪」の象徴であったのです。だからこそ、カンタータ第42番『その同じ安息日の夕方』の第2曲で歌われるように、弟子たちは、イエスを亡き者としようとしたユダヤ人を恐れて、「扉に鍵をかけて」閉じこもっていたのでした。その恐れを取り除いてくださるのは、突然只中に立って「平安あれ」と言われたイエスご自身に他ならないのです(ヨハネ20:19)。が、そのイエスを認めるかどうかは、私たちの目が開かれているかどうかにかかっています。
「復活」の話題で持ちきりとなったエルサレムから10キロ程離れたエマオという町へ向かう道すがら、ふたりの男と共に歩き始めたもうひとりの旅人がいました(ルカ24:13ff)。その人は、「メシアがどのような苦しみを受け、栄光に入るか」を、聖書全体にわたって解き明かされたのでした。しかし、それでも、まだ二人の男には、これが誰だかわかりません。しかし、時あたかも「夕暮れ」となったので、彼らはその人を「一緒にお泊まりください」と「無理に引き止め」たのです。そして家に入り、彼らに「パンを取って、裂いて渡された」その瞬間、初めてふたりの目は開かれ、その人がイエスである、とわかった。しかし、その時には、既にその姿は見えなくなっていたのでした。
イエスを「無理に引き止めた」ふたりは、まだイエスであることを認識してはいませんでした。しかし、彼らが後に「心がうちに燃えたではないか」(ルカ24:32口語訳)と回想するほどに、イエスの道すがら話されたことが、彼らを捉えたのでした。私たちは、まずイエスに捉えられます。そして、私たちがそれと気づかぬうちにも、「共に留まってください」と無理にでもお願いするその熱心が、目を開かせるのです。
カンタータを聴き始めた学生時代、第6番『留まってください、私たちと共に』は、最も理解できないもののひとつでした。復活の喜びを表すべき時期なのに、なぜこの曲は、こんなにも悲しげなのか。ハ短調4分の3の第1曲を聴けば、否が応でも、ヨハネ受難曲とマタイ受難曲の終曲を思い出さざるを得ません。そうです、この音楽は、復活の喜びを私たちが喜ぶ前に、暗く罪にまみれた「夕暮れ」がひたひたと迫り来ることを表していたのです。エマオへ向かう男たちは、「あの方にこそ、望みをかけていました」とイエスへの希望を過去のこととして語っています(ルカ24:21)。十字架上で死んでしまったイエスの復活を受け入れるには至っていないのです。だからこそ、彼らには、夕暮れが迫っていたのです。罪の奈落は、すぐそこに口を開いて待っていたというべきでしょう。だから「もう夕暮れになりますから」という意味は、決してロマンティックなときの訪れではありません。「夕暮れの狼より素早く」迫る罪の闇。ここから逃れるには、イエスに留まっていただくしかなかったのでした。BWV6の第1曲中間部では、ただひたすら「留まってください」という切なる思いが、長い2分音符と全音符に託され、最後にはついに、合唱がユニゾンで叫びます。「イエス様、どうか、ここにいてください!!」これこそが、私たちが復活の主に向かって叫ぶべき、叫びです。その時、イエスは私たちと共に留まってくださり、そして、その姿を現してくださるのです。その時、「心のうちに燃えたではないか」という燃えるような体験が、私たちを待っているに違いありません。
今日のコンサートにも、主が共に留まってくださることを信じて、では演奏を始めることにいたしましょう。
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(06/02/22:BCJ事務局提供)
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