2007/ 4/6 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
2007/ 4/1 17:00 愛知県芸術劇場コンサートホール(名古屋国際音楽祭公演)
2007/ 4/7 16:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第193回神戸松蔭チャペルコンサート)
(07/04/09更新)
受難節コンサート2007 第76回定期演奏会 巻頭言
バッハが残したふたつの受難曲は、どちらも甲乙つけがたい名曲ですが、一般的にはマタイ受難曲のほうがヨハネ受難曲よりも有名です。これには多少頷けるような気もします。というのは、マタイ受難曲が叙情的な側面を色濃く持っているのに対し、ヨハネ受難曲にはそのような甘さがなく、ずっと峻烈な性格を持っているからです。しかし、これはバッハの好みというより、恐らくヨハネ福音書の持っている性格に触発された結果なのではないでしょうか。
ヨハネは、この福音書を著すとき、すでにそれまでの3福音書の存在を知っており、故意にそれらとは異なった視点を示しました。それまでの3福音書がいずれも、イエス・キリストの「この世での誕生」ということをスタートにしているのに対し、ヨハネは、イエスがこの世の初めから「神として」存在しておられた、と、神としての存在を前提するのです。ですから、ヨハネ福音書においてはクリスマスの記事はなく、代わりに「初めに言葉があった」という冒頭が、創世記の冒頭「はじめに、神は天と地を創られた」という記事に呼応して、天地創造の神としての臨在を示すのです。そして、カナの婚礼での最初の奇跡、サマリアの女とのやりとり、夜陰に乗じて訪れたニコデモの導きなど、あらゆるエピソードを通して、イエスの神としての面が描かれていきます。
さらに受難記事の中では、ピラトが「おまえはユダヤ人の王なのか」と尋ねるのに対し、イエスは「わたしの国はこの世には属していない」と答え、この世ではなく、神の国における「王権」を主張します。さらに、ピラトが、生かすも殺すもわが手中にある、と自らの権威を振りかざすと、イエスは「神から与えられなければ、何の権限もない」と突き放すのです。つまりピラトの目には、イエスはいかにも惨めなひとりの囚人に映っていたでしょうが、イエスは「天地を支配する王」としての権威を貫かれました。
ヨハネ福音書のこの性格は、中世のキリスト教美術を思い起こさせます。古来数多くの絵画や彫刻に、十字架につけられたキリスト像が描かれてきましたが、12世紀半ばまでの十字架像には、イエスの顔に決して苦しみが見られないのです(プログラムP.8掲載図版参照)。フランスのシャルトルなど、数多くのカテドラルの入り口上に据えられたイエス像も、多くは背後に十字架が描かれていますが、決して苦しみの表情はありません。なぜなら、これは、十字架の上に苦しむ姿ではなく、十字架を経て天に昇られた「王」としてのイエスを描いているからです。この、王の権威をもって天地を支配する主イエスの姿は、「パントクラター」Pantocrator(=支配するもの)と呼ばれます。ユダヤ教でもイスラム教でも、天地を支配する神を礼拝しますが、キリスト教のパントクラターは、単なる支配力を誇っているわけではありません。なぜなら、最も高い権威を持つこの主が、自らもっとも低い地に降臨し、さらにこの地上の世界においても最も忌むべき呪われた刑罰である十字架刑を、私たちの身代わりとして受けてくださったからです。
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さて、バッハのヨハネ受難曲では、冒頭からこのことが高らかに宣言されます。「主よ、主よ、主よ、われらを統べ治める主よ」。あたかもカテドラルの入り口を見上げるかのようにして、権威に満ちた冒頭合唱が進むと、「統べ治める主」が辱めの極みにあるときも、なお栄光に満ちていたことが語られます。
しかし、ユダヤ人は、この権威を必死で否定しようとしました。「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫び、さらには「私たちには、シーザーのほかには王はいません。」と、自らのユダヤ教信仰さえ裏切って、イエスの権威を亡きものにしようとします。
バッハは、これらのユダヤ人の叫びに、しばしば共通のモティーフを与えます。それは、ヴァイオリンと管楽器群が16分音符で飛び跳ね、通奏低音が3度の跳躍をしながら3小節間に4度下降する音型(第2曲19〜21小節)で、第23曲まで6箇所にわたって現れます。まず第2曲では、「誰を探しているのか」というイエスの問いに対し、「ナザレのイエスを!」と歌われ、このモティーフがイエスに関係することを示します。その後、「この人でなく、バラバを」「殺せ、殺せ」「我々には、シーザーの他に王はいない」と、いずれもイエスの権威を否定しようとするとき、この音型が現れるので、「王権否定のモティーフ」とでも名付けたくなるほどです。さらにこの音型は、「十字架につけよ」の十字架音型によるユダヤ人の叫びとともに、第2部の中心に位置するシンメトリーを構成します。そして、そのシンメトリーの中心に位置しているのが、第22曲コラールです。
この第22曲コラールのテクストは、本来コラールのものではなく、ポステル作の自由詞をコラールにあてはめたものですが、その内容はとても象徴的です。すなわち、「囚われ」と「自由」、「牢獄」と「恵みの座」と、両極の要素が並べ立てられるのです。このことは、第1曲の「高みと低さ」「天と地」「栄光と辱め」という両極の組み合わせに呼応して、作品全体の枠組みができあがるのです。シンメトリーは、もちろん左右対称の十字架の象徴です。権威に満ちたパントクラターが、十字架を担って毅然と立つ姿。これがヨハネ受難曲の作品像であり、バッハがライプツィヒで最初に描いたイエスの受難物語でした。
今回、この作品を4年ぶりに演奏するにあたって、筆者のよき友人であるマイケル・マリッセン氏の注釈を含めて、藤原一弘さんに訳していただきました。マリッセン氏は、反ユダヤ主義との関係など、数多くの興味深い視点をもってJ.
S. バッハの宗教作品を研究している方です。
今年も主イエスの受難を覚えつつ、人間の持つ深い罪の、時代を経ても少しも変わらない惨めな姿を告白し、せめてJ. S. バッハの峻厳な音楽を通して、たとえわずかであっても、救いに近づきたいと願ってやみません。
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(07/04/06掲載・BCJ事務局提供)
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