2009/04/04 名古屋:三井住友海上しらかわホール 17:00
04/10 第84回 東京定期:東京オペラシティ コンサートホール 19:00
04/11 千葉・佐倉市民音楽ホール 16:00
04/12 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO・大ホール 16:00
出演メンバー | |
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ソプラノ・イン・リピエーノ(第1曲) レイチェル・ニコルズ、加納 悦子 |
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第1グループ | 第2グループ |
コーラス
オーケストラ
ロレンツォ・コッポラ、柴 欽也
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コーラス
オーケストラ
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ファゴット 功刀貴子(4/10)、堂阪清高(4/4,11,12)
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第84回定期演奏会 巻頭言 《メンデルスゾーン= J.S.バッハ:マタイ受難曲》
皆様、ようこそおいでくださいました。 私たちBCJでは、毎年のようにマタイ受難曲を演奏してきましたが、今年はフェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディの生誕200年という記念すべき年ですので、メンデルスゾーンのマタイ受難曲の復活上演を再演する、ということにいたしました。 このプログラム冊子の星野宏美さんと小林義武先生の記事、また私の制作ノートをご覧頂ければ、メンデルスゾーンの行った復活演奏が、今日の私たちが考えるマタイ受難曲とはかなり異なっていたことがお分かりいただけると思います。その最大の違いは、メンデルスゾーンの上演が全曲演奏ではなく、全体の3分の1ほども割愛されていたという点です。1829年の演奏では、例えばアリアは15曲中10曲が、またコラールは13曲中6曲が省略されてしまいました。1841年には、アリア4曲とコラール1曲が復活したものの、それでもまだ全曲演奏には程遠い状態でした。これらはすべて、まずは曲の長さに起因するものであったのでしょう。1815年頃からいくつかの楽章を部分的に演奏を試みていたベルリン・ジングアカデミーの指揮者カール・フリードリヒ・ツェルターも、これを全曲演奏するのは不可能と思っていたようです。星野さんの解説にあるように、もしシューマンですら最後まで聞きとおすことはできなかったとすれば、一般の音楽愛好家にとってその難しさは如何ばかりぞや、と言わざるを得ません。しかし、当時の演奏会のプログラムが今日に比してかなり長いものであったことやオペラの存在を考えると、必ずしも長さだけが問題であったのではなく、もうすこし他の理由もあったに違いありません。 そのひとつの要因が、「通奏低音」にあったことは間違いないでしょう。「通奏低音」Basso Continuoとは、一般的には、スコアの一番下の段に書かれている低音群の名称です。ここには、チェロやコントラバスなどの旋律楽器とともに、必ず和声を演奏できる鍵盤楽器かリュートが含まれます。そして和声楽器の奏者は、作曲家によって書かれた低音声部をなぞりながら、その上か下に数字で指示された和音を即興的に充填していくことが期待されており、その即興的な演奏こそが、通奏低音の演奏技術でした。さらに重要なことは、これがバロック時代の「作曲の概念」の基礎として認識されていたことです。つまり、作曲家がどんな作品を生み出そうとも、その作品には必ず楽譜には書き表されない和声を担う通奏低音が大前提として含まれており、それが全体の基礎をなしていたのです。 メンデルスゾーン時代にいたって、この概念がすっかり忘れ去られ、もはや誰にも即興的な通奏低音演奏を期待することはできなかったのでしょう。ですからメンデルスゾーンはカンタータ第106番《神の時は最上の時》を再演したときには2本のクラリネットとファゴットに、ヘンデルのオラトリオでは金管楽器に和声を充填させていますし、マタイ受難曲の1841年の演奏では2本のチェロとコントラバスがエヴァンゲリストの伴奏をします。しかし、このような通奏低音の演奏方法は、もちろん本来の精神には反しています。なぜなら、演奏するべき音を楽譜上で固定すれば当然即興性はなくなり、今生まれ出たような新鮮さがなくなります。また、チェンバロやオルガンの和声は、その音量に関わらず、音楽の基礎ではあっても、あくまでもソロを引き立てる下地の役割であったものを、管楽器や弦楽器の重厚な和声を割り当ててしまうと、弦楽四重奏の内声のように、充実した、しかし外声と同じ重さを持つ塊りになってしまうのです。ここにこそ、メンデルスゾーンが試みたバロック音楽再現の大きな悩みがあったと思われます。 さて、この視点からマタイ受難曲の省略されたアリアを見てみると、1841年でも復活せずメンデルスゾーンが一度も演奏していない6曲のアリア(No.13, 23, 35, 52, 57, 60)は、すべてコンティヌオ・アリア(No.35)か、コンティヌオの上にただひとつのオブリガート声部が重なる最も小さな編成のものです。つまり、もし通奏低音の演奏を省いて考えると、いずれも空虚な響きになってしまうものばかりなのです。これらには、もちろん弦楽器や管楽器で和声を充填することも可能ではあったでしょうが、そうすると、今度は重厚に過ぎることになるでしょう。 また同時に、これらのアリアが、ヨハネ受難曲とは異なったマタイ受難曲の特徴をなす「信仰的訓練」を歌うものであることも見過ごすべきではないでしょう。すなわち、「心を捧げます」(第13曲)、「自らをなだめて」(第23曲)、「耐え忍べ」(第35曲)、「自分が担うことができるよう」(第57曲)などのキーワードはいずれも自分自身に向かって歌われるものです。つまり、他の人に神の摂理を説いたり、悔い改めを勧めるのではなく、自分自身が信仰的訓練を経て、イエスに従って進んで苦しみに向かおうという悲壮な決意を歌うのです。このような信仰教育の観点はバッハ当時のライプツィヒの教会が持っていた方針であった、ともいわれていますが、メンデルスゾーンは、それをほぼ完全に捨て去ってしまいます。その結果、個人の瞑想的な特徴は大きく後退しましたが、反面、マタイ受難曲は少しヨハネ受難曲のように、聖書記事を通して神の摂理の表明により大きな重点がかかることになったのです。 メンデルスゾーンによって省略されてしまったもうひとつ注目すべき個所は、エヴァンゲリストのテクスト(即ち聖書のナレーション)です。メンデルスゾーンは、エヴァンゲリストと聖書に登場する人物のレチタティーヴォは、ほぼそのまま残していますが、その例外として12節分のみ省略しています。そのうち、第43曲「血の畑」の部分と第58曲「苦いものをまぜたぶどう酒」「衣服のことでくじを引く」という3か所(7節分)は、いずれも旧約聖書における予言の成就、ということを趣旨としています。このわずか数節の省略が、作品を短くするのに大きく貢献しているとも思えないので、これには何か理由があったのではないか、と想像したくなります。が、このことが、果たして彼のユダヤ人の出自と関係があるのかどうか、については、にわかに断じがたいことではあります。 さて、メンデルスゾーンの2度にわたる復活上演の詳細については、まだまだわからないことが多々残っています。しかし、残された資料を見る限り、メンデルスゾーンの意図は、J. S. バッハの音楽を(当時の)現代風にアレンジすることではなく、むしろなるべく忠実に演奏することであったというべきでしょう。ただ、聴衆に誤解を与えないため、また、技術的な観点から音楽の効果を減じないための工夫を加えた、というように理解するべきではないかと思います。また第54曲の有名な「血潮したたる主の御かしら」を見ると、第1節の中で2か所単語を変更しているのですが(第2節は省略)、これは大きな意味の変更がないので、ただ1829年当時のベルリンで歌われていた讃美歌のテクストに合致させたものだと思われます。このひとつのことにおいても、メンデルスゾーンが、如何に当時の聴衆に気を遣い、この音楽が受け入れられるよう努力を惜しまなかったかを見ることができます。1829年の弱冠20歳の血気盛んなメンデルスゾーンが、最初の復活上演を成功に導いた陰には、様々な苦労ばかりではなく、このような聴衆への細やかな配慮もあったのでしょう。 その後のイギリスやイタリアへの大旅行、さらにはベルリンでの失望落胆をも経験したのち、妻セシルとともに新居を構えたライプツィヒで、再びマタイ受難曲を取り上げた理由はいったい何だったのでしょうか。いずれにしても、その初演の場所聖トマス教会で演奏する、ということに、メンデルスゾーンは万感の思いを込めていたに違いありません。 では、私たちの思いを1841年のメンデルスゾーンに重ねて、今年のマタイ受難曲をお届けしたいと思います。 |
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(09/04/04掲載、資料提供:BCJ事務局)
*文中の「このプログラム冊子」は、4/10以降に会場で販売されるプログラム冊子です。
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