第85回定期 J.S.バッハ/モテット 全曲演奏会
2009/ 6/10 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
2009/ 6/ 1 18:30 青山学院大学・ガウチャー記念礼拝堂
(青山スタンダード「キリスト教理解関連科目」特別講座:BCJレクチャーコンサート)
曲目:J.S.バッハ/モテット3曲(BWV228,229,226)、出演:鈴木雅明(講師・指揮)、演奏:BCJ
2009/ 6/ 5 19:00 倉敷市芸文館ホール (BWV118を除く)
2009/ 6/ 6 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第205回神戸松蔭チャペルコンサート)
J.S.バッハ/モテット・全曲
《御霊は我らの弱さを支え助け給う》 BWV 226
《おおイエス・キリスト、わが命の光よ》 BWV 118 (神戸・東京公演のみ)
《恐れるな、私はあなたと共にいる》 BWV 228
《イエス、わが喜びよ》 BWV 227
〜休憩〜
《私はあなたを離しません、私を祝福してくださらなければ》 BWV Anh.159
(神戸・東京公演のみ)
《主を讃えよ、すべての異邦人よ》 BWV 230
《来たれ、イエスよ、来たれ》 BWV 229
《歌え、主に向かい新しい歌を》 BWV 225
指揮:鈴木雅明
独唱:野々下由香里/松井 亜希(ソプラノ)、ダミアン・ギヨン(カウンターテナー)、
水越 啓〈テノール〉、ドミニク・ヴェルナー〈バス〉
合唱J:ソプラノ・・・野々下由香里、緋田芳江、藤崎美苗
アルト・・・・ダミアン・ギヨン、青木洋也
テノール・・水越 啓、石川洋人
バス・・・・・ドミニク・ヴェルナー、浦野智行
合唱K:ソプラノ・・・松井亜希、澤江衣里、鈴木美紀子
アルト・・・・上杉清仁、鈴木 環
テノール・・谷口洋介、藤井雄介
バス・・・・・藤井大輔、渡辺祐介
器楽:リトゥオ(6/6,10)・・・・島田俊雄(I)、村田綾子(II)
オーボエ・・・・・・三宮正満(オーボエI)、前橋ゆかり(オーボエII)、尾崎 温子(ターユ)
ファゴット・・・・・ 村上由紀子(6/5,6,10)、功刀 貴子(6/1)
ヴァイオリン・・・若松夏美(I:コンサートマスター)、高田あずみ(II)
ヴィオラ・・・・・・森田芳子(I)、渡部安見子(II)
チェロ・・・・・・・・鈴木秀美(I)、山本 徹(II)
ヴィオローネ・・・今野 京
オルガン・・・・・今井奈緒子
(09/06/07更新)
- 【プログラム『巻頭言』】
- バッハ・コレギウム・ジャパン 第85回定期演奏会 巻頭言
皆様、ようこそおいで下さいました。
もうずいぶん古い話になってしまいましたが、私がオランダに留学していた時、最初の2年間はデン・ハーグ市郊外のスヘベニンゲン海岸に住んでいました。かつては別の町であったこの周辺は、一歩足をのばせば美しい森に囲まれたリゾート地でもあるのですが、私たちが住んでいた海岸沿いの通りは、あまりの風の強さに一本の樹もありません。その一角にある家の三階に間借りをしたのですが、一階に住んでいた大家さんのカペッティ夫妻は、既におよそ80歳と90歳の夫婦でした。おじいさんは多少足が不自由そうではあったものの、極めて聡明で大柄な人で、「この海岸にはナチのユーボートが上陸した。私たちは一致団結して闘ったのだ」と誇らしげに話してくれたものです。小柄なベルギー人のおばあさんは、物忘れが激しくおつきあいは大変でしたが、彼らには子供がいないので、私たちの息子が生まれたときには、自分たちのことのように喜び、大歓迎してくれました。
ある朝、おばあさんは例によって早くからご近所に出かけ、その間に、お手伝いのミープさんが、いつものように新聞とコーヒーをベッドにいたおじいさんに持っていきました。ミープさんが「おはようございます」と声をかけると、おじいさんはいつもと変わりなく「ありがとう」と言って言葉をかわし、彼女が居間や台所を一巡りして寝室に戻ってみると、おじいさんはその新聞を手に持ったまま、安らかに息を引き取っていたのです。
ミープさんは、さぞ驚いたことでしょう。もちろんすぐにお医者さんが呼ばれたのですが、その静かな死に心打たれたのか、3階の私たちのところに来て、「今カペッティさんが亡くなりました。すばらしい最期だから見に来なさい」と言ったのです。今考えると本当に不思議な光景でした。おじいさんのあまりに安らかな顔に、私たちは呆然と立ち尽くし、まるで世の中のすべてが無音になってしまったかのように平安に満たされていました。魂は天に昇り、地上の体は抜け殻となったのだ、ということがよくわかりました。
◆
このような最期を迎えられることがわかっていれば、私たちは安心して日々を過ごせるのですが、カペッティさんのような幸せな人は、あまり多くはないでしょう。そしてまた、どんなに安らかであっても、その死の後に何があるのか、を考えると、不安と恐怖に捕われるのです。だからこそ、亡くなった人を目の当たりにする葬儀は、私たちが死と向き合う最も重要な場として、いかなる宗教でも最も重要な儀式を設けているのです。結婚式のない宗教はありえても、葬儀のない宗教はないでしょう。いや、もし葬儀をしない宗教があれば、それは宗教としての役目は果たしていない、といえるかもしれません。そして葬儀においてこそ、私たちは自分自身の死をどのように迎えるべきか、死と対峙する覚悟が生まれてくるのではないでしょうか。
今日聴いていただくモテットの大半は、葬儀のために書かれたものです。残念ながら、ほとんどの作品は誰の葬儀であったかはわかりません。しかし、例えば『イエス、わが喜び』BWV227を見るとき、誰の葬儀であったとしても、これは死ぬべき人間に向けられた最大の希望ではないでしょうか。その音楽は決して単なる慰めの響きを持っているわけではありません。むしろ、多くのカンタータよりさらに理屈っぽく、構成も複雑で、決して耳に心地よい音楽ばかりとは言えません。ただこの作品ほどに、「私たちはなぜ嘆く必要がないか」ということを、理路整然と力強く歌いあげるものは他にはありません。
この作品が特別な構造を持っていることはよく知られています。ヨハン・フランクのコラール『イエス、わが喜び』の6つの節の合間に、パウロが書いた『ローマの信徒への手紙』第8章の一部が組み込まれるのです。コラールは、イエスへの愛と、イエスが「古き竜」である「死」に打ち勝ったこと、そしてイエスの前にこの世の価値など消え失せることを歌います。その合間に歌われるパウロの手紙では、罪の律法である古い約束が、今や、霊の律法である新しい約束に入れられたことを宣言するのです。罪の律法に縛られた肉体は滅び、今や私たちは霊の律法のもとに入れられる、という宣言は、第6曲フーガによってなされます。このフーガは、見事なシンメトリー構造のちょうど中心に位置し、しかもそのテーマが、最も古い律法である十戒を歌うコラール『これぞ聖なる十戒』Dies sind die heilige zehn Gebotから取られていることは決して偶然ではないでしょう。
このモテットは、確かに、パウロの神学とイエスへの信仰の喜びを、音楽という言語によって私たちの脳裡に埋め込んでくれます。神の仕組まれた人の生と死の構造が、このように余すところなく明快に宣言されると、もはや人の死を前にしても嘆く必要はありません。たとえ一時涙を流しても、その涙は、イエス・キリストご自身が拭い取ってくださるのです。
愛する人を失った人にとって、人間の慰めの言葉は誠に無力です。しかし、音楽ならばその心の空洞を埋めることができるかもしれません。そしてさらに、これらのモテットが、カペッティさんのように安らかな死を迎えられるような、心の備えとならんことを。
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バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(09/06/03:BCJ事務局提供)
【コメント】
BCJにとって12年振りのモテット全曲演奏会。今回は録音も行われる!前回、第33回定期の情報はこちら。
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