2012/04/06 第97回 東京定期:東京オペラシティ コンサートホール 18:30
04/08 大阪・いずみホール 16:00
出演メンバー | |
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ソプラノ・イン・リピエーノ(第1,29曲) クリント・ファン・デア・リンデ、青木洋也 オルガン:荒井牧子 |
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第1グループ | 第2グループ |
コーラス
オーケストラ
今井奈緒子 |
コーラス
オーケストラ
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ファゴット 村上由紀子
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第97回定期演奏会 巻頭言 《J.S.バッハ:マタイ受難曲》
今年のはじめ、阪神大震災追悼の1月17日、短いドイツ旅行から帰国して成田に降り立つと、悲しいニュースが待っていました。グスタフ・レオンハルトが亡くなったのです。ああ、という吐息とともに、ひとつの時代が終わってしまった、という感慨をしばし押さえることができませんでした。 私が上野の学生になった頃、レオンハルトとアルノンクールの教会カンタータシリーズが始まりました。各巻に4〜5曲ずつ、シュミーダーの作品番号順にカンタータが収められ、当初はLPに大きな総譜のおまけがついていました。これを1曲ずつむさぼるように聴きながら、私たちは、初めて古楽器というものの響きに、胸を躍らせたのです。もう、一瞬一瞬に驚きが満ちていて、一音も聞き逃せません。あたかも目の前で、四苦八苦しながら身を投げ打つような演奏に、心がえぐられました。 少し経って冷静になってみると、レオンハルトとアルノンクールの演奏には、随分大きな差があることに気づきました。アルノンクールの方が、より情熱的で、時には荒っぽい表情も辞さないのに対し、レオンハルトは常に慈愛に満ちたような趣があります。もちろん、それはまず、レオンハルトが、より地味なもの、より控えめな表情を持つカンタータを選ばれていたから、でもありましょう。しかし、いずれも、華美と虚飾を取り去った素朴さ、そして一音一音に針を刺すような清冽な姿勢に、私たちは打たれたのでした。数年前にアルノンクールに出会ったとき、「レオンハルトとは、学校で初めて出会ったその日に意気投合し、議論し続けて、日が暮れたのも気がつかなかった」と仰っていました。まさしく、このふたりの出会いこそが、ヨーロッパ音楽の20世紀における演奏史を変えたのです。これ以降、いわゆる古楽演奏家に限らず、18世紀のレパートリーを演奏する人は、一人残らず彼らの影響を受けていると言っても、全く過言ではありません。 私は、アムステルダムに留学していましたが、学校でレオンハルトに習うことはありませんでした。しかし卒業後、折に触れて演奏を聴きに来て下さり、お目にかかるたびに色々な話をしました。もちろん手厳しい批評をもらったこともあります。特に、彼がオルガニストを務められていたアムステルダムの新教会(Nieuwekerk)でオルガンのコンサートをしたときは、そのレジストレーションについて、あくまでにこやかに、しかし徹底的に批判されました。彼のレジストレーションは、決して鍵盤を繋ぐカプラーを使わず、ありえないほどに控えめで、パイプの1本1本を活かし、演奏者を誇示する思いが徹底して排除されます。ここまで無私的に音楽に奉仕する、ということは、なかなかできることではありません。しかし、そのことによって、かえって誰も真似のできないほど強烈な主張が生まれてくるので、レオンハルトという人は、まるでブラックホールのような構造になっているとさえ思ったものです。 例えば、オルガニストなら誰でも知っているJ.S.バッハのプレリュードとフーガハ長調BWV547では、フーガの最後の最後に、それまで全く沈黙していたペダルが、拡大されたフーガのテーマを堂々と奏でます。ここで、我々俗人は、巨大なリード管でこのテーマをフォルテシモで演奏したくなってしまうものなのです。しかし、ある日の新教会でのコンサートで、レオンハルトは、これ以上ないほどに期待を高めておいて、その瞬間、ペダルが静かにプリンツィパルで入ってきたとき、私はほとんど椅子から転げ落ちそうになりました。今思えば、自分の期待が、如何に俗物的発想であったか、赤面する思いです。 |
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オランダには、驚くばかりに強いマタイ受難曲演奏の伝統があります。九州ほどの大きさの国なのに、受難節には、恐らく200回を超える演奏が催されます。この伝統は、アムステルダムとユトレヒトの間に位置するナールデンという町の教会から始まったことから、この町は今でも聖地のようにみなされ、聖金曜日のオランダ・バッハ協会の演奏には、首相以下内閣のメンバー全員、この小さな町の教会に出席することで有名です。 私が2005年に、この聖地でマタイ受難曲を指揮したとき、レオンハルトも聴きに来て下さり、「今日の演奏は、コラールが特に印象的だった」と言われたので、しばしコラール談義になりました。 コラールとは、もちろん会衆が歌った歌ですから、受難曲でもカンタータでも、個人的な表現に過ぎてはならないでしょう。しかし、実際に歌うのが聖歌隊(ないし声楽の専門家)である以上、当然そこには、演奏家としての何らかの表情も求められると思っています。ただ、その際に、個人的な表現と、会衆(または教会)としての公的な表現のバランスが正しく求められなければならないのは、言うまでもありません。恐らく、私の演奏は、レオンハルトには少々個人的表情に過ぎたのではないか、と思いますが、この「個人と会衆(教会)」の問題は、おそらく永遠に解決されないジレンマとして、いつも横たわっているでしょう。 この問題について考えるとき、いつもマタイ受難曲第62曲のコラールが思い起こされます。ご存じのように、これは、有名な『血潮したたる主の御かしら』の旋律が、テクストを変え、和声を変えて、繰り返し登場するうち、第5回目(最終回)にあたります。第4回目にあたる第54曲では最も高く叫び、そしてイエスが息絶えたあと、この第62曲で、もっとも低く、うめくように、つぶやくように、同じ曲が歌われるのです。
J. S. バッハは、イエスの死の直後に、なぜこのコラールを挿入したのでしょうか。 本来、イエスの十字架の死が、私たちにとって意味を持つのは、イエスが陰府(よみ)に降り、3日後に甦ってからのはずですから、この時点においては、まだそのことが全うされた、とは言えません。しかし、マタイ受難曲におけるイエスの死は、ヨハネ受難曲と大きく違って、あくまでも「人間イエス」としての死でした。だからこそ、イエスは最期に、「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」と叫び、一方、ヨハネ受難曲においては、すべてについて神の摂理が個人に優先するので、イエスは「すべては成し遂げられた」と言って、息を引き取るのです。ヨハネ受難曲を既に完成していたJ. S. バッハは、マタイ受難曲においては、もはや神の摂理を語るのではなく、私たちひとりひとりに寄り添い、私たちが例外なく味わうはずの死の恐怖が、実はイエス自身も味わわれたものであり、しかもそれが、イエスによって打ち砕かれたものであること。だからこそ、イエスのみが、死に際して、私たちに寄り添い、本当の慰めを与えて下さることを、このコラールによって示したのでしょう。 |
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しかし逆に、このことは、イエスの十字架の死が、神の摂理として意志されたことを信じなければ、何の意味もありません。つまり、神の摂理としてイエスが死に、そして死を滅ぼして復活したからこそ、私たちにはこれ以上ないほどの大きな慰めと救いがもたらされたのです。そうでなければ、私たちには、魂の救いも、悲しみや痛みへの慰めもないのです。ですから、これはまさしく、真理の両輪と言うべきものです。 ただ、これをどちらから説明するか、ということで、大きく立場が変わります。上述の「個人か、教会か」という問題は、神の摂理と、個人の救い、というレベルで考えたとき、自ずから答えは出ています。神の摂理がなければ、個人の救いはありません。逆ではないのです。J. S. バッハに関して言えば、「ヨハネがあったから、マタイができた」とは言えないでしょう。しかし、作品の順序は、ヨハネ受難曲ができてから、マタイ受難曲ができたのです。そして、J. S. バッハが最後までヨハネ受難曲を演奏していたことも事実です。 レオンハルトは、ご自分の葬儀のために、マタイ受難曲ではなく、ヨハネ受難曲の最後のコラールを自ら選ばれたそうです。最後の審判とイエスの再来、さらに命の復活を宣言するこのコラールこそ、キリスト教における究極の信仰告白に他なりません。この高らかなコラールを生前に選び取った一事において、レオンハルトという方が、どういう方であったか、すべてを物語っています。私たちが、死を前にどのように恐怖しようと、そこには、神の意志が働き、イエスが共にいらっしゃるので、私たちは、ただ静かに身を委ねればよい。レオンハルトは、身をもって、そのことを私たちに伝えてくださったような気がしてなりません。 最後に、レオンハルトが選ばれたそのコラールを、彼のためではなく、私たちのために、そして、個人的な思いに満ちたマタイ受難曲の今日の演奏のためにも、掲げておくことにいたしましょう。
(ヨハネ受難曲第40 曲 川端純四郎訳) |
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(12/04/06掲載、資料提供:BCJ事務局)
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