(スライド付きホルン) | ||
櫻田亮(T)、R.ブレイズ(CT)、M.パーション(S)、P.コーイ(B) |
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ついに行ってまいりました、イスラエル。クリントン大統領のイラク攻撃のお陰で、イスラエルがまたとばっちりを食らうのではないか、という外務省の杞憂も幸いにして当たらず、イスラエルはいたって平和な雰囲気で、私たちは熱狂的な歓迎を受けてまいりました。そもそもユダヤ教の国イスラエルで
カンタータとメサイア、そればかりかヨハネ受難曲といった、キリスト教音楽を演奏していいものか、という不安はものの見事に吹き飛び、彼らはとうの昔にその問題を超越してしまっている、とのこと。それどころか、日本人よりは遥かに宗教的なエモーションを重視するお国柄もあって、ユダヤ教徒といえどもバッハ音楽のキリスト教的本質を鋭く捉えて、十分に深く享受していることがよくわかりました。やはり一神教を信じる信仰者の強さを感じずにはいられませんでした。
エルサレムは何とも観光地化して、あたかも新興宗教の総本山の如くけばけばしく飾り立てられたゴルゴタの丘には辟易しましたが、ゲッセマネやケデロンの谷を歩き、「こちらベール・シェヴァ」と書かれた標識を見ただけでもインスピレーションを得たような気がして、何とも豊かな数日間でした。
さて、如何に音楽を好むイスラエルではあっても、最も厳格なユダヤ教徒が決してキリスト教音楽の演奏会には来ないことはいうまでもありません。嘆きの壁に向かってコマ落しフィルムのように頭を下げ続け、安息日に黙々と徒歩でエルサレムに向かう彼らの姿を見ていると、律法に対する熱い思いに身が引き締まる思いです。しかもその最も熱心なユダヤ教徒に向かって、イエスは「偽善者よ、悔い改めよ」と迫られたのですから、彼らがイエスを「十字架につけよ」と叫んだとしても何の不思議がありましょう。なぜなら、彼らこそ自他共に認める、最も厳格で敬虔な宗教者であったはずなのですから。
しかし、カンタータ179番の合唱が冒頭で告げるように、神を畏れ熱心に祈るその姿でさえ、いともたやすく偽善に陥るのです。そして「外目にはいかにも信仰深く見え、葦のように深深と頭を下げる。彼らはなるほど神の家に行き、そこでうわべの義務を果たす」(第2曲レシタティーヴォ)とテノールが歌うのは、もはやユダヤ教のことではなく、キリスト教のことにほかなりません。イエスの教えを聞いて悔い改めたはずのクリスチャンでさえ、何とたやすく偽善に陥るのでしょうか。だからこそ、「主よ、どうか裁かないで下さい」(第105番第1曲)と祈るほかはないのです。
イスラエルの聴衆の反応は、この上なくすばやくかつ単刀直入でした。ヨハネ受難曲の公演直後、ホールの外で出会った一人の男性は、私の腕をむんずとつかんで言いました。
「素晴らしい演奏だった。しかしこれは決してユダヤ教に対する糾弾ではない。人類共通の罪だ。違うか!」
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