BWV21の版について
鈴木雅明

 すべてのカンタータの中で最も長大な第21番《わが心に憂い多かりき》は、今日の私たちを戸惑わせるに十分な問題を孕んでいる。
 この曲は現在ベルリンの国立図書館に St354 として残されている28点のパート譜によって今日に伝えられているが、これらのパート譜は少なくともバッハ自身による3回の演奏を反映している(表参照)。バッハは例によって演奏のつど様々な改変を行わざるを得なかったが、特に高音部アリアを1714年のワイマールではテノールに、ケーテン時代の1720年(演奏は恐らくハンブルグ)では、ソプラノに一貫して割り当て、曲全体としては常にただ2人のソリストが要求されている点が、注目される。今日最もよく知られたライプツィヒ1723年の版では、ソプラノ、テノール、バスにそれぞれソロが振り分けられ、3人のソロが要求される。また、合唱部分でのソロとトゥッティの交替の指示やトロンボーンの追加もライプツィヒ時代のものである。
 またこのカンタータは、マルティン・ペツォルトによると、最初の演奏が跡付けられる1714年より前、すでに1713年に完成して演奏された形跡もあり、その際、高音部のアリアはソプラノに割り当てられていたと推測できる。

   
1714年以前の
原形
1714
Weimar
1720
Koethen
1723
Leipzig
弦楽器のピッチ Kammerton Kammerton Kammerton
調性 c-moll? c-moll d-moll c-moll
1.Sinfonia                                         
2.Chor        
3.Aria Sop Ten Sop Sop
4.Recit. Sop Ten Sop Ten
5.Aria Sop Ten Sop Ten
6.Chor       Soli/Tutti
7.Recit Sop/Bass Ten/Bass Sop/Bass Sop/Bass
8.Duett Sop/Bass Ten/Bass Sop/Bass Sop/Bass
9.Chor
  (Choral)
      Soli/Tutti
+4Trombone
10.Aria Sop
(Tenの可能性あり)
Ten Sop Ten
11.Chor       Soli/Tutti

 1714年の演奏は、療養のためフランクフルト・アム・マインに赴く公子ヨハン・エルンストとの別れの礼拝であったので、すべての高音部アリアがテノールに割り当てられたのは公子との関係で理解されてきたが、本来さまよう魂とイエスとの対話は、ソプラノとバスが受け持つのが常套であり、この処置は非常に例外的なものと見るべきであろう。というのは、1720年の、恐らくハンブルク聖ヤコビ教会オルガニスト採用試験演奏に際しては、アリアがソプラノに戻され、またライプツィヒでも魂とイエスの対話はソプラノとバスが受け持っている。
 各演奏のピッチと調性は若干複雑であり、1714年のワイマールでは、当時のカンタータとしては全く例外的に、オーボエを含めたすべての楽器がハ短調で演奏されており、これは Chorton(a1=ca.465)のオーボエが存在しないので、 Kammerton(a1=ca.415)を意味している。また、1720年にはニ短調のパート譜が残されているので、Kammertonのニ短調で演奏されたに違いない。ライプツィヒでは、オルガンのパート譜として変ロ短調のものが残っているところから、明らかに Kammertonのハ短調で演奏された。(ライプツィヒでのオルガン・パート譜は常に他の楽器より1全音低く移調される。)

 以上の概観から、この作品は、今までのワイマール時代のカンタータとは趣が異なり、Kammertonで演奏すべきではないかと考える。というのは、上の表のように調性は変化したものの、ピッチは3回の演奏に共通して Kammerton であり、しかも、1723年のライプツィヒでは、1720年のニ短調のパート譜が存在したにもかかわらず、オルガンにとって非常に不利な変ロ短調のパート譜を作ってまで、ハ短調で演奏されたことは注目すべきであろう。つまり、ワイマール時代の Chorton を前提として作曲された多くのカンタータは、Kammerton を用いたライプツィヒでの再演に際してしばしば高く移調され、実際の音高が保たれたが(例えばBWV12、199、172 etc)、この曲はそのような範疇に入らず、むしろその声楽の音域の異常な高さを見ても、Kammerton のハ短調を基本に発想されていたと推測できる。
 そこで私たちとしては、今夜の演奏では1723年ライプツィヒでの演奏を基調とし、コンサート・ホールでの演奏効果の高い Soli/Tutti の交替(第6,9,11曲)も取り入れる。ただし今回はトロンボーンは入れない

('97.06、BCJ第30回東京定期プログラム誌上より転載)

《BCJカンタータCD第6巻》[BWV21の制作ノート]では、上記の文章の最後の部分が以下のようになっている。

・・・
 今回私たちはこの作品を演奏するにあたり、多くの議論の末、可能な限りの異なった稿をCDに取り入れることとした。つまり、今回はケーテン時代にハンブルクで演奏されたニ短調の稿を中心にし、ワイマール時代のテノール用の稿を付録として付け、さらに将来再びライプツィヒでの稿を別のCDとして演奏することにしたのである。そのことによって、バッハの足跡を少しでも追うことが可能になるであろう。

*今回の所沢公演(99/06/07)では、CDの制作ノートにある“別のCD”の制作を受けて、1723年ライプツィヒでの演奏がトロンボーンつきで再現されます! 第6巻のCDとは異なるハ短調のライプツィヒ稿での演奏です。生前バッハがとりわけ愛した、ひときわ集中力みなぎる傑作を楽しみましょう!

(99/06/04) 

VIVA! BCJに戻る