poco a poco Op.1恋という言葉のイメージは。 甘くて、優しくて、どこかふわふわとして。 毎日がとても楽しくて。 相手のことを考えただけで、なんだかわくわくするような。 まだ知らない想いだけれど。 きっとそれは、とても幸せな・・・。 よく晴れた秋の日の放課後。 今日はなにも用はないし、学生会も会計部も忙しい時期ではないはずだし、理事長の仕事が忙しいらしい和希も、午後から授業を休んでいるから。 たまには早めに寮に帰って、夕飯前に宿題を済ませてしまおうかななどと考えながら、鞄を手にした啓太が昇降口に向かって歩いている途中のこと。 ふと上げた眼差しの先に、廊下の向こうから七条が歩いてくるのが見えた。 その姿を目にした途端、啓太の表情にふわりと嬉しそうな笑みがのぼる。 同じようなタイミングで相手に気付いたらしい七条と啓太は、お互いに歩み寄ってちょうど真ん中辺りで行き会った。 「七条さん! これから、会計部のお仕事ですか?」 「こんにちは伊藤くん。いえ、今日の分の仕事はもう終わりました」 今、出来上がった書類を学生会に届けてきたところなんですよと穏やかに笑う七条だけれど、学生会に行ったということは、もれなく眼鏡の副会長と氷点下の舌戦を繰り広げてきた帰りのはずだ。 どこをどうひいき目に見ても友好的とは云い難い二人のコミュニケーションが、どうにも理解できない啓太は、どう返事を返したものかと複雑な心地で笑みを硬直させる。 七条はその素直すぎる啓太の反応に、くすりと笑った。 「ところで伊藤くん、今日は美味しいケーキがあるのですが、これから会計室に来ませんか?」 「ぇ・・・いいんですか?」 「勿論。せっかくのケーキも、一人で食べるのは寂しいですからね」 どうですか? ともう一度、にこりと優しく誘われて。 啓太は考える間もためらいもなく、嬉しそうにこくんと大きく頷いてみせる。 MVP戦で七条にパートナーを組んでもらってからというもの、啓太はこうして、会計室のお茶会に招待される機会が増えた。 最近は特にちょうどいいタイミングで顔を合わせることが多くて、仕事の手伝いだお茶会だと、週の半分以上の放課後を、会計室で過ごしているような計算になる。 今日も啓太は七条に誘われるまま、元来た廊下を戻る格好で、会計室に向かうことになった。 「あ、そうだ七条さん、昨日はありがとうございました。宿題を見てもらって」 「どういたしまして。僕がしたくてしていることですけれどね」 「でも七条さんに教えてもらったところ、ちょうど授業であたったんです。引っ掛け問題なのにちゃんと答えられたからって、褒められたんですよ?」 得意げに報告をする啓太に。そうですか、と頷く七条の笑みも深くなる。 二人並んで、今日一日の出来事や他愛もない話をしながら廊下を抜けて。 辿り着いた会計室の扉を、先に立った七条が、当たり前のように押し開けた。 そうして自分が部屋に入るよりも先に、優しい眼差しが啓太を促す。 「どうぞ、伊藤くん?」 「はい・・・ありがとうございます」 啓太のために開けて待ってくれている扉を、部屋に入るためにくぐるというだけのことなのに。 それだけのことが、なんだかくすぐったくて、嬉しくて。 テレたように七条を見返してから啓太は、その胸の前を通って、ほくほくと部屋の中へと入る。 すると、その啓太を待っていたように、窓際の席から声が掛かった。 「よく来たな、啓太」 「ぁ、西園寺さん。こんにちは」 またおじゃまします、と。 はにかんだ笑みで小さく頭を下げる啓太に、作業の手を止めた西園寺が表情を和ませる。 自分には運がいいくらいしか取り柄がないからと、啓太自身は云い張るけれど。 こうしていつだってどこでだって、誰に対してだってその存在自体がふわりとその場の空気を和ませてしまうというのは、得がたい特性だろう。 特に自己主張と個性の激しい面子の揃った、このBL学園においては。 すぐに紅茶を淹れますから座って待っていてくださいね、と。 云い置いた七条が、簡易キッチンの方へと歩いて行く。 手伝うべきかと頭を悩ませてその背を見送っていた啓太だけれど。 「啓太、そこへ」 既にソファでくつろいでいる西園寺に名を呼ばれて。 促されるまま向き合うようにして、ふかふかのソファセットへと腰を下ろした。 「わあっ、ほんとに美味しそうですね!」 紅茶と一緒にトレーに載せられて運ばれてきたのは、カラフルでつやつやのフルーツタルト。 少々もったいぶって差し出されたその皿を前にして、啓太が思わずのように歓声をあげる。 本当に嬉しくて仕方がないといったその表情に、七条の笑みも自然と深くなって。 「僕の気に入っている店のタルトなんです。伊藤くんに食べてもらいたくて、昨日外出をしたときに買ってきました」 繊細な白磁のカップに紅茶を注ぎながら、にこりと笑みで教えられる七条の言葉に。 とくんと高鳴った胸のうちが。 ふわりと優しく、温かくなる。 俺の、ために・・・? わざわざ買ってきてくれたのかなと思うと、少しだけ特別扱いをされているみたいで、なんだか嬉しくて。 啓太はほこほことこぼれてしまう笑みをどうにも止められないまま、「ありがとうございます」とタルトの乗った皿を大切そうに受け取った。 大きめに切り分けられたタルトはとても美味しそうで、ますます目許がとろけてしまう。 けれども・・・。 「まったく・・・買うのを待たされている短い時間だけでも、甘い香りで胸ヤケをおこしそうになったぞ」 紅茶の香りを確かめるように、湯気に顔を寄せながら。 楽しげにくすりと笑って、西園寺がそう口にした途端。 冗談めかして告げられた言葉だというのに・・・すとん、と。貧血でも起こすように。 浮かれていた啓太の気持ちは急にしぼんで、勢いを失って落っこちる。 外出って・・・出掛けたのって・・・二人一緒に、だったんだ。 そっか・・・と。 いつも一緒にいる二人のことだから、少し考えてみれば当たり前のことなのだけれど。 どうしてか、納得をしたあとに残るのは、せつない気持ちばかりで。 「こんなに美味しいのに、食べられないなんて勿体ないですよ。ね、伊藤くん」 「・・・・・」 同意を求める風に七条に名前を呼ばれたのにも気付かずに、啓太はただぼんやりとタルトを見詰めている。 右手に握りしめたフォークも、口に運びかけたケーキを乗せたまま、中途半端に止まってしまって。 先ほどまであんなにもはしゃいでいたのにどうしたのかと、訝った西園寺が、もう一度名を呼んだ。 「啓太?」 「・・・っ、ぇ・・・・・あっ」 すると啓太は夢からでも覚めたかのように、ようやく我に返ったように。 ぱっと顔を上げて、慌てて二人の顔を見比べる。 「は、はいっ、あの、勿体ない、です・・・よね?」 どこかぎこちない笑みでフォークを持ち直した啓太は、あたふたとケーキを口の中へと持っていって。 「・・・・・っ、こんなに、美味しいのに」 こくんとケーキを飲み飲んで。 ケーキの甘さに少し落ち着いたように、ほっとしたように笑って七条と西園寺を見返した。 「そうか・・・」 それはよかったな、と。 啓太の不自然ごと受け止める風に、西園寺が応えて、優しく笑う。 会計部の二人は、認めている相手に対しては容赦のない、はっきりとした物言いをするけれど。 人の心の機微には敏感だから、相手を思いやる気持ちは深いし、距離の測り方も上手い。 今もきっと、啓太の迷いに気付いているからこそ、追求をされずにすんだのだ。 「伊藤くん、紅茶にミルクは必要ですか?」 話題を変えるように問うて、にこりと笑う七条に。 どこか安堵した様子で啓太は、はいとひとつ頷いた。 けれども・・・。 戸惑いの原因に関しては、啓太本人にだって理由が分からないのだから。 追求をされていたとしても、答えようはなかったのだ。 それでも漠然とした、痛みのような気がかりのようなものは胸に残って。 しまう場所の見つからない気持ちをもてあまして・・・無意識ながらも啓太は少しせつなそうに、こっそりと小さな息をついた。 |