poco a poco Op.2こんな想いは知らない。 胸が痛むほど、焦がれるような想いは。 けれども出会ったときには既に、彼は別の人を見ていた。 別の人の、ものだった。 向けられる笑顔はいつだって明るくて、とても可愛らしくて。 渡される気持ちはこんなにも温かいのに。 それでも、彼は・・・。 どこがどうとは説明が付かないままに、それでもなんだかいつもの明るい啓太には戻らないまま、タルトを食べ終えて紅茶のお代わりを1杯だけして、啓太は会計室を後にした。 こうして一緒にお茶と会話と楽しんだ後で、それじゃあ俺は先に帰りますね、とひとりで帰ってしまうのも珍しい。 本当にどうしたのでしょうか・・・と、部屋を出て行った小さな背中を思い出しながら考え込んでいると。 「・・・ところで、臣」 ふいに、声を掛けられた。 そのタイミングと声の調子から、声を掛けられる前から様子を伺われていたようだと気付く。 不覚にも気配に気付かなかった。 自分は一体どんな顔をして考えに沈んでいたのいたのだろうかと思い返しながらも、平静を装って・・・もっともこの友人には、いくら表面上で装ってみたところで本音や本心を見抜かれているのだろうと分かっているけれど。 ふう、とひとつ息をついてから七条は、茶器を片付ける手を止めて、なんでしょう? と首を傾げて見せる。 その七条の一連の反応に、どこか面白がるような表情をした西園寺が、問いかけるというよりは確認をするように告げた。・・・・・ほら、やっぱりばれている。 「あのケーキを手に入れるために外出をした、が正しいのではないのか?」 さっきのあれは、と。 西園寺が指摘するのは、何気なさを装って、先ほど七条が啓太に告げた言葉のことだろう。 「敵いませんね、郁には」 七条はくすりと笑って、曖昧に頷いてみせる。 そうなのだ、確かに。 西園寺の指摘は正しい。 そもそもお茶会に誘うというのだって、単なる口実に過ぎないのだ。 同じ時間を過ごしたい、と・・・ただそれだけのこと。 もっとも、七条と同様どうやら甘いものに目がないらしい啓太が、七条が選んで勧めるお菓子を本当に嬉しそうに食べてくれるものだから。 そんな啓太と一緒であれば、好物のケーキを味わって美味しいと感じるだけではなくて、それ以上の喜びを覚えるのだけれど。 少し時間に余裕があるから街に出て、お茶請けにあの店のフルーツタルトを用意しようと考えたのは昨日のこと。 啓太は味にも敏感だけれど、見た目の美味しそうなケーキにも、本当に嬉しそうにあの大きな瞳をきらきらと輝かせるから。 きっとあのタルトもとても喜んでくれるのに違いないと、考えてみただけで心が躍った。 そうと決めてしまえば、らしくもなく急くような気持ちになって。 外出の用意をして寮のロビーに足を運んだところで・・・ばったりと西園寺に出くわしたのである。 「外出か?」 「ええ。郁も・・・のようですね」 どこか浮かれている風に見える友人に、西園寺が、どこへなにをしに行くのかと尋ねようとするその前に。 ふふ・・・と、ひどく甘ったるく七条が笑ってみせるものだから。 ああ、これはきっと間違いなく・・・と。 微笑ましく思いながら、予想をした通りに。 七条は自分から種明かしをしてみせる。 「伊藤くんに食べてもらいたいケーキがあるんですよ」 海岸線沿いの、大きな風見鶏が廻っている店です、と。 「ああ、あの店か・・・通り道だな。私が買ってくるか?」 自分は父の名代で、代わりの利く用件ではないからと。 申し出る西園寺に、けれども「いいえ」とかむりを振る七条の表情はとても甘い。 「僕が、自分で買いに行きたいんです」 「・・・そうか」 ここまで執着もあらわな七条の姿も珍しい。 頷く西園寺も思わず苦笑気味だ。 迎えの車を呼んであるからお前も乗っていけと、そう決めてしまう西園寺が先に立って歩き出す。 結局西園寺も、喜ぶ啓太の顔を見るのが好きなのだ。 だから啓太を驚かせて喜ばせようというこの計画に、一役買いたいのだろう。 そうと気付きながら。 「それではお言葉に甘えて」 その厚意に応える自分にとってこの友人は、やはり特別に心を許している相手なのだなと改めて感じて、七条はこっそりと笑みを浮かべた。 そう。 だってもしこれが彼だったら・・・啓太の心を手中に収めている、彼だったなら。 考えた途端に、不思議なほど胸が重く塞いだ。 なにも、彼自身に含みがある訳ではない。 むしろあの柔軟な感性は、好ましいとさえ思っている。 ただどうしても付随して考えてしまう、彼と啓太との絆が。心を重くするのだ。 啓太に最初に出会ったのも。 最初に好意を抱いたのも。 きっと愛したのも・・・彼が先で。 そのうえ、彼と啓太が出会って特別な心の交流があったから、だからこそ自分は啓太と出会えた。 少なくてもその点においては、彼には感謝をしなくてはならない。 心情的にはとても難しいことだけれど・・・。 ふう、と深く息をついて七条はゆっくりと顔を上げる。 いつの間にか西園寺はソファを立って、自分のデスクに戻って作業を始めているようだ。 自分も早く茶器を片付けなければと、トレーを手にして七条も立ち上がる。 するとタイミングを見計らうように西園寺が声を掛けてきた。パソコンのモニターに顔を向けたままで。 「啓太は・・・少し様子がおかしかったな」 「ええ、そうですね」 ケーキにはとても喜んでくれていたけれど、途中から不意に静かになってしまった。 憂うような・・・いつも明るい表情をしている啓太らしからぬ様子で。 「本当に・・・どうしたのでしょうね」 啓太が沈んでいると、なぜだか七条の気持ちまでが沈みがちになる。 こんな風に相手の気持ちに同調してしまうなんて。 感受性が豊かな、まさに啓太の専売特許であるはずなのに。 関わっているだけで自分が変わっていく気がする。 世界が、鮮やかに色づいて行く気がする・・・。 不思議な喜びと、同じだけ胸を騒がす不安。 ざわざわと落ち着かないこんな気持ちになると分かっているのに、自分から進んで一緒に過ごす時間を作ろうとするなんて。 こんな自分は本当に、数ヶ月前までは想像も付かなかった。 「何故、本当のことを云わなかった?」 啓太のためにケーキを買いに出掛けたのだと、なぜ云わなかったのかと重ねて問う西園寺に。 曖昧な笑みを浮かべた七条は、わずかに首を傾げてみせる。 「僕は、恥ずかしがり屋さんですから」 「だか、言葉にしなければ伝わらないこともあるぞ」 「ええ、そうですね・・・」 そう。 でも・・・。 僕は、臆病なんです。 彼に関しては特に、とても、ね・・・。 |