poco a poco Op.35限目の、化学の授業がもうすぐ始まろうかという昼休みの終わり間際。 3階の渡り廊下を和希と並んで化学室に向かって歩いていた啓太が、ふと、陽射しの明るい窓の外に目をやると。 眼差しのずっと先の方に、東屋が見えて。 ひさしの下でベンチに座って眠っているらしい西園寺と、その肩にそっと自分のブレザーを掛けかける七条の姿が見えた。 その光景に。 つきん、と。 どうしてかまた胸の奥が軋む。 啓太には踏み入ることのできない空間。 啓太だけではなくて、きっと誰も入ることのできない、二人きりで完結している世界。 会計室のお茶会に毎日のように招いてくれる二人が、啓太のことを受け入れてくれているのは分かっているけれど、それでも、入ってはいけないと感じる特別な場所があるのもまた事実なのだ。 こうして、遠くから見ていることしかできない、幼馴染の二人にとって特別な場所が・・・。 「・・・、っ・・」 瞬間、ぎゅっと痛んだ胸のうち。 なんだろう・・・また。 最近、ことあるごとに感じる胸の痛みともやもやとする嫌な気持ちに、啓太はきゅっとシャツの胸許を握り締めて、困惑するように眉を顰める。 もともと前向きで、真っ直ぐな気質を持っている啓太だから。 通常であれば疎外感よりも先に、素直な羨望を感じる。 だから、こんな気持ちは知らない。 胸のうちがじわじわと曇っていくような、こんな嫌な気持ちは。 慣れない感覚に惑うように小さく息をついたとき、隣から声が掛かった。 「啓太は・・・」 「・・・ぇ・・?」 すぐ隣に並んで歩いていた和希の存在も忘れたかのように外を眺めていた啓太は、どこかぽんやりとしたまま視線を返す。 自分がいつの間にか足を止めていたことにも、和希が啓太に合わせて止まってくれたことにも気付かずに。 「?」 なに? と首を傾げてみせる啓太に。 うーん、と少し迷うように口ごもってから、短く息をついた和希がようやく口を開く。 見てらんないからなあ、と、呟いて。 「ん・・・啓太はさ、七条さんのことが好きなのか?」 「え・・・・・」 きょと、と。 なにを云われたか分からないというように瞬きをしたあと。 和希を見上げて見返している啓太の顔が、かああと一気に赤くなる。 「え・・・な、なに、云・・・・・っ」 「だから七条さんだよ。啓太、好きなの?」 「だ、だってそんなのっ、七条さんは優しいしMVP戦のときも助けてくれたすごくいい先輩だからっ、す・・・好き、なのなんて当たり前、でっ」 「俺が聞いてるのは、そういう意味の『好き』じゃないよ」 「ぇ、な・・・意味って・・・どういう!」 「もっと特別な意味での『好き』。友達とか先輩とかじゃなくて、特別な意味での」 「―――――っ!」 耳どころかつむじまで赤くして言葉を詰まらせる啓太に、和希は表情には出さずにこっそりと脱力する。 ・・・・・ビンゴ。 やっぱり、大当たりだ。 気持ち自体も、どうやら啓太には恋をしている自覚がなかったことも。 肺の空気を全部吐き出してしまいたいような気持ちの和希に向かって、まだ収拾のついていないらしい啓太は両手のこぶしを握り締めてムキになって反論する。 「だ、だって! 好きもなにも、俺も七条さんも男だぞっ?」 「そうだけど、あの人はそんなことにこだわるタイプには見えないし」 「ぁ・・・」 そうだ。 七条さんにとって特別に大切な相手は西園寺さん、なんだから・・・。 思った途端に、啓太の表情が翳る。 あの二人の関係は確かに、男同士だからとかなんとかいう概念を、とても自然に超えてしまっているように思うから。 「啓太・・・」 しゅんと黙り込んでしまった啓太の様子に、和希は小さく息をついた。 そうしてすっかり落ちてしまった肩にぽんと手を置いて、優しく促す。 まったく、物分かりのいい大人になんてなるものじゃない。 「啓太、授業始まるぞ」 「・・・うん」 頷いて歩き出す啓太の横顔を、気遣う風に和希が見下ろす。 想いというのは本当に、それぞれが望む通りに単純にはいかなくて。 お互いが同じように想う相手と向き合える可能性は、いったいどれだけあるのだろう。 俺が、七条さんを好き・・・? 気付かずにいた想いの種は、するすると花開いて。 啓太の心にしっくりと馴染んでいく。 慣れない想いも、嬉しい気持ちも、寂しい気持ちも。 確かにこれが恋ならば、説明がつくのかもしれない。 七条さんが西園寺さんのことを好きでも・・・。 それでも、俺は・・・。 不安のような、心もとない想いのまま窓の外を見れば。 東屋の二人の姿が啓太の目に映る。 目を覚ましたらしい西園寺と。 そんな西園寺を気遣う風に、大きな身体をかがめて顔を覗き込む様子の七条の姿が。 好き・・・? 恋というのは、もっと甘くて、優しくて。 ただ楽しくて、幸せなものだと思っていたから。 苦しかったりせつなかったりの、この気持ちが恋だなんて、気付かなかった。 気付いた瞬間に終わってしまうようなそんな恋でも。 もうとっくに特別な相手を見つけてその人と幸せに一緒にいる人に、渡しようのないこんな気持ちでも。 どうにかしたら幸せに、なれるのかな・・・。 |