canon Op.1美味しい紅茶を入れるためには、守らなければならない幾つかのルールがある。 ポットとカップはあらかじめ温めておくこと。 茶葉はポットのサイズに合わせてきちんと量って使うこと。 空気を一杯含んだ水を、沸騰させた直後に高い位置からポットに注ぐこと。 ポットの温度を下げないように保温しながら、蒸らし時間を守ること。 複数のカップに紅茶を注ぐときには、少量ずつ数回に分けて、順に回し淹れて濃さを均一にすること。 会計部の紅茶奉行はいつもとても穏やかだけれど、自分のこだわりに関しては妥協がなくとても厳格なので。 会計室で出される紅茶には、常に当たり前にそのゴールデンルールが遵守されている。 「今回の英語は頑張ったつもりだったんですけど、やっぱり補習になっちゃって」 蒸らしている真っ最中のポットから立ち上るのは、甘くまろやかなバラの香り。 そのポットを挟んで、その香りに少しだけ傷心を癒されながら。 啓太はほうっとため息をつく。 「毎回宿題がいっぱい出るんです。俺、応用が苦手なのかなあ」 「でも、ヒアリングは得意なんでしょう?」 「あ、はい。そっちはまあ、どうにか・・・」 「ではもしかしたら、苦手意識が邪魔をしているのかもしれませんね」 「そう、なのかな・・・」 励ますような声音に、啓太はことりと首を傾げた。 そうして云われた言葉を反芻しながら、眉間を悩ませて考える。 テスト範囲内の単語は覚えたつもりで、文法のルールも覚えたつもりで。 それなのにそのつもりが結果として点数に結びつかなかったのは、いったい何が足りないからなのか。 そこが分からないから、どうしたらいいのかも分からない。 このままじゃ次のテストでもまた同じ躓きをするんじゃないかな、と。 今から次のことが心配になって、頭の中は既にぐるぐると不安で一杯だ。 「でも・・・ほんとに情けないんですけど、どこから手をつけたらいいのか全然分からなくて・・・」 もう一度、盛大なため息と一緒にそう云って、しょんぼりと肩を落とした啓太の顔に。 「・・・・・?」 近づいたぬくもりが。 近くなっただけではなくて、ほんの僅か、ほんの一瞬だけ・・・。 「・・・・・っ、・・」 ふわりと優しく唇に触れて。 「ぇ」 こ。 これって。 これって。 驚いて、瞬いて。 目を瞠って見上げた湯気の向こう側。 普段とあまりにもあまりにも変わらない、隙のない微笑みでにこりと笑った七条は。 今触れたばかりの啓太の唇の前に、人差し指を立てて見せた。 「元気になるおまじないです」 これって・・・・・・・キス? 「けーいた、どうしたんだよ、ぼんやりして」 ひらひらと顔の前で手を振られて、啓太ははたと我に返った。 気が付けば授業はいつの間にか終わっていて、前の席の和希が椅子ごと啓太を振り返っている。 3時間目の古典の授業は、途中からすっかり考え事に大忙しになってしまって、ノートもろくに取れていない。 せっかく学園に残れたのにこんなことじゃいけないとは思うのだけれど、それでもどうしてもぐるぐると頭の中を占めるのは、昨日の放課後、会計室でお茶の準備をしている最中に起こった驚きの出来事だ。 だって。 友達とキスって・・・するか? 昨日から散々散々考えても埒の明かない問題は、答えに辿り着けないまま結局そこに戻ってしまう。 啓太は眉根を困惑に寄せながら、ぱちりとひとつ瞬いた。 友達・・・たとえば和希と、キス。 「・・・・・」 「? どした、啓太?」 ぽんやりと考え込む様子の啓太から、不意に向けられた無防備な眼差しに。 和希は不思議そうに首を傾げる。 「っ、な、なんでも、ないっ」 答える訳にもいかずに、啓太は慌ててふるふるとかむりを振った。 なんでもないようには見えないけどなーと笑って、冗談めかしてくれた和希がそれ以上の追及をやめてくれたことに、こっそりほっとしながら。 和希のことは好きか嫌いかと云ったら当たり前に大好きで。 大事な友達なことも勿論当たり前で。 でも、だからってキス、なんか・・・。 「しない、よな、やっぱり・・・」 「啓太?」 しないってなにが? と怪訝な顔をされて、啓太はもう一度「ほ、ほんとにっ、なんでもないからっ」と勢いよく首を振る。 一日の大半を一緒に過ごしているような和希が相手だって、キスなんて行為とはどうしたって結びつかない。 したことなんて勿論ないし、しようと思ったことだってない。 あ・・・でも七条さんは、アメリカで育ったって云ってたし。 そのせい・・・なのかな? ごく当たり前のコミュニケーションの手段として、キスがあるのかな、とか。 そういう風にも考えてみるけれど。 ここは日本だし、七条がアメリカで過したのだって子供の頃の話だと聞いている。 しかも、映画や海外ドラマで見る家族同士がしているような、頬やおでこへのキスじゃない。 唇へのキスは・・・やっぱりどう考えたって特別に好きな相手とするものだと思うのだ。 だとしたら七条さんがキスをする相手は・・・。 『僕は郁のことが好きなんです』 「・・・・・」 西園寺さん、だよな、やっぱり。 そうだよな当たり前だよなと、啓太は一人納得をしてこくんと頷く。 啓太の退学を返上するためにと一緒に頑張ってくれたMVP戦の後で、七条はとても大きな告白をしてくれた。 初めてできた友達だという啓太を信用して、大切な気持ちを教えてくれたのだ。 好きな相手が同性だなんて、そうそう人に云えることじゃないと思う。 それはまあ、普段の七条を見ていれば彼にとって西園寺が特別な存在で、西園寺のことをとても好きだというのは明らかだけれど。 それが恋愛感情となれば、意味合いは違ってくるだろう。 その秘密を告白してくれたことが、啓太にはとても嬉しかったし誇らしかった。 そうしてほんの少しだけ・・・寂しかった。 七条と西園寺の間には今までも、友達になったばかりの啓太には踏み込めないような、二人だけが共有しているような特別な空気があった。 けれども二人が恋人になったら、これからはますますその特別な絆が深まっていくのだ。 友達と恋人では好きの意味合いとかスタンスとか違うことは分かっていても、それでも。 啓太にはそういう相手はいないから、なんだか一人だけ置いてきぼりにされてしまったみたいな、そんな心地がして。 考えるたび、胸にはあのときに感じた寂しさが戻ってきて、少しせつないような気持ちになる。 「・・・・・」 でも今はそんな、自分が一番じゃないのが嫌だなんていう子供みたいなワガママを云っている場合ではないのだ。 スキの意味合いではなくて、キスの意味合いについて考えなくては。 横道に反れた挙句に沈んでしまった気持ちを吹き飛ばすように、啓太はほうっとひとつ息をついた。 もしかしてまたからかわれたの、かな。 伊藤くんと一緒にいるのは楽しいですって、七条さんはいつも云ってるし。 でも、好きな人がいるのに、それ以外の相手をからかうためにキスなんて。 特別に好きな相手じゃなくて、友達と、キス、なんて・・・。 する、かな・・・? ことりと首を傾げて少し考える。けれども。 「・・・・・しない、よな」 やっぱり、と。 結局また数分前と同じところに戻ってしまって、悶々と目を据わらせて呟く啓太に。 とうとう和希がひそりと眉を顰める。 「啓太、ほんとに大丈夫か?」 真剣に心配し始めて、啓太の額に手を伸ばして熱を測ろうとする和希に、「大丈夫だってば」と笑ってみせて。 「そうか? 保健室行ったほうがいいなら、俺、付き合うぞ?」 「ほんとに、大丈夫だってば。ちょっとお腹がすいただけだよ」 あと1時間でお昼だし、と頷いて見せたところで予鈴が鳴る。 まだ納得しきっていない様子の和希をどうにかこうにかなだめて前に向かせたところで、珍しく遅刻をせずに済んだらしい生物教師が、慌しく教室に入ってきた。 |