canon Op.10会計室には、今日も紅茶の良い香りが漂う。 茶器にも、香りにも、水色にも、とことんまでこだわった優雅なティータイム。 とっておきのお茶請けを用意しながら、七条が西園寺に声を掛けた。 「ああ、郁」 そういえば、となにげない風に。 「なんだ」 白磁の繊細なカップに早速指先をかけて答える西園寺の声を聞きながらその脇では、休憩の前にきりのよいところまで作業を済ませてしまおうと、今日も今日とて啓太が頑張って仕事を手伝う真っ最中だ。 それでもふわふわとただよう温かな湯気と、ミルクたっぷりのイングリッシュキャラメルティーの甘い香りに誘われて、七条が手許に置いてくれた淹れたての紅茶をひとくちだけ口に含む。 あ、まだちょっと熱いや。 注意して飲み込まないとと、口の中の紅茶を冷ますようにして慎重に転がしていると・・・。 「僕は伊藤君を愛しています」 唐突に聞こえてきた晴れやかで軽やかな宣言に。 目を瞠った啓太は思わず吹きそうになった紅茶を、慌ててごっくんと飲み込んだ。 「―――――っ!!!」 当然だが、とても熱い。 「大丈夫ですか? 伊藤くん?」 「〜〜〜〜〜っ」 身悶える啓太の一連の行動を読んでいたかのように、間髪置かずにコップが差し出される。 啓太はそのコップを奪い取って、中身の水をこくこくこくこくと一気に飲み干した。 「っ・・・・・し、七条さ・・っ、ななななに云ってるんですかっ!」 「おや。もう忘れてしまいましたか?」 あんなに何度も伝えたのに? と。 紅茶の熱さもひと段落できないうちに、今度は意味深な眼差しで意味深な言葉を渡されて、啓太は一瞬でぽすんとショートして頭から湯気を噴く。 二人きりの部屋の中で。 熱を出して寝込んでいる間は、優しく頭を撫でてくれながら枕元で。 熱が下がってしまってからは、もっとすごい状況で。 確かにそれはもう散々散々、何度も何度も云われた言葉は、回数からいっても状況からいっても忘れようもないのだけれど。 二人きりのときに云われてもいっぱいいっぱいだというのに、西園寺も聞いているようなこんな状況で、さらりとそんなことを云われたら、どう反応したらよいのか啓太にはまったく分からない。 けれどもどうやら、分からないのは啓太ばかりらしい。 にこにこと上機嫌に笑んでいる七条の隣、啓太の正面に歩み寄ってきた西園寺は、胸の前で両腕を組むと軽く小首を傾げてみせて、少しも動じずに七条を横目で見遣った。 「今更なにを云っている」 次いで、七条の突飛な宣言にもまったく驚く様子を見せない西園寺を、驚いて見上げている啓太に視線を移して。 軽く胸を反らしてこちらも厳かに宣言した。 「私もお前が好きだぞ、啓太」 「・・・・・・ぇ」 もはやなにを云われたのかなにが起こっているのか。 30秒前辺りからすっかり会話に付いていけなくなって一人で置いていかれている啓太に向かって、西園寺はとろりと艶めいた笑みを落とす。 「気付いていないとは思っていたが、そういうぼんやりしたところもお前の場合は魅力だからな。色々と教えたり引き出したりする前に、もう少しその素直すぎる気質を楽しんでやろうと思ったが、そう悠長なことも云っていられなくなってきたらしい」 「さ、さい・・・・・・」 「啓太、こんな胡散臭い男などやめておけ。私が」 「伊藤くん、さきほど紅茶で舌を火傷してしまったのではありませんか?」 想いのたけをざくざくと告げて危険極まりない笑みを浮かべている西園寺と、目を丸くして魂を抜けさせかけている啓太との間に。 七条は強引に身体を入れて会話に割って入ると、長い腕を伸ばしてするりと一瞬で啓太の躰を抱き寄せる。 「おい、臣」 「君の舌はとても柔らかくて敏感ですから」 「・・・・・」 「早く治療をしなくては、ね?」 背後でやれやれと息を吐く西園寺をものともせずに腕の中に啓太を抱いた七条は、鼻先を合わせるようにして近い距離から容赦のない甘い眼差しを注いで、臆面もない甘い声音で二人の世界を作り出す。 「ち、りょうって七条さん、あの・・・」 「すぐに片付けてしまいますから、少しだけ待っていてください」 片付けてしまいますというのは会計部の書類のことではなく、啓太が使っていた茶器のことらしい。 当然の権利のように啓太の目許にちゅっと軽いキスを落としてから、注がれた紅茶がまだ温かいままで半分以上残っている啓太のカップをいそいそとトレーに乗せて、いそいそときびすを返して、七条はそのまま簡易キッチンのほうへと本当に片付けに向かってしまった。 「え、ええと・・・っ」 どうしたらよいのか分からずにおろおろと泳がせて行き着いた視線の先では、緑の瞳をからかうように輝かせた西園寺が「フフン」ととても愉しげに啓太の様子を見守っている。 理由もはっきりしないまま、どうしてかその視線にいたたまれないものを感じて、「俺っ、手伝ってきます!」と啓太は七条の背を追ってくるりときびすを返した。 「し・・・七条さんっ! あの今日の仕事、は・・・っ」 啓太が追いついたときには、七条は食器棚の奥でちょうど片づけを済ませたところで。 ゆっくりと振り返ると、近くまでやってきた啓太の躰を、そのままするりと長い腕の中へと絡めとる。 「大丈夫ですよ。今日中にやらなければならない作業は、もう終わっていますから。それに」 仰のいて見上げる無防備な鼻先に、ついばむキスをひとつ。 「僕には、君以上に大切なものなんてありませんから・・・ね?」 当たり前のようにとても大切なことのように告げて。 物慣れずすぐに顔を赤くする恋人の唇にも、ちゅと軽いキスを落とす。 「で、でも西園寺さんはまだお仕事が」 「問題ありませんよ、僕は終わっていますから」 「でもあのっ、な、なにかお手伝いがあったりとか待ってたり、とか、した、ほうが・・・っ」 すっぽりと胸の中に納まってしまっているようなこんな距離で、こんなにもあからさますぎる特別扱いを渡されてしまっては。 あれこれと不慣れな啓太としては、どうしてもまだ嬉しさよりも気恥ずかしさのほうが先に立ってしまう。 嫌か嫌でないかといえば勿論、嫌なんかではなくて、どちらかなどとは云うまでもなく嬉しいのだけれど。 それでもここは会計室で、こんな風に甘ったるく話をしていていい場所では、多分ないと思うのだ。 とりあえずはどうにかしてこの状況から逃れようと、視線を泳がせて会話をはぐらかせている、と。 「伊藤くんは」 不意に、腰を抱く腕の力がぐいと強くなって。 わわ、と驚いた啓太は思わず七条の顔を振り仰いだ。 「郁が一緒でないと寂しいですか?」 「え」 「僕だけでは寂しい?」 唐突に問われて、啓太はきょとんと瞬く。 西園寺がいないことで寂しいと感じるのは、むしろ七条のほうなのではないかと、思ったから。 いくらたくさんの特別な言葉をもらっても、七条にとって西園寺の存在がとても大きなものであることに変わりはないと思うから。 そのことで卑屈に思い悩むことはもうしないけれど、それでも、その事実に変わりはないと思う・・・・・のだけれども。 「そ・・・そんな、ことは・・・」 寂しいですかと尋ねる七条自身が、なんだかとても寂しそうな目をするものだから。 そのせつなげな瞳を見返していると、啓太の胸までが、どうしてかきゅーっと甘く痛む。 そんな顔はしないでほしくて。 大好きで大切なこの人には、いつだって笑っていて、ほしくて。 「・・・そんなこと、ないです」 「本当に?」 「はい・・・だって、あの」 想いを口にすることにはまだ慣れていないし。 「俺が好き、なのは・・・七条さん、だから」 七条のようにスマートには伝えられないけれど。 「七条さんがいてくれれば、俺は、それだけで、その・・・嬉しい、です、から」 語尾にいくほど小声になってしまいながらも、一生懸命に気持ちを込めた、恥ずかしさを堪えた告白に。 「・・・・・・・・・」 啓太を見下ろす端正に整った七条の面差しの、その頬のラインがぴしりと緊張して。 どうしてかごくりと、息を呑むように喉許が動いたのが、分かった。 「?」 そのまま真顔で沈黙を返されて。 なにか的外れなことを云ってしまったのかと、啓太は困惑して七条の表情を伺う。 「あ、あの、しちじょ・・・」 「帰りましょう、伊藤くん」 呼びかけは最後まで聞いてはもらえずに。 言葉と同時にがしりと強い力でつかまれた手首に、「え」と思わず視線が落ちる。 「帰りましょう、今すぐに」 続けて渡された、珍しくどこか切羽詰った響きをもつ声に顔を上げれば、そこにあるのは凄絶な笑顔。 チラ見をもらっただけでも赤面をしてしまいそうなその艶めいた笑みを、真正面のこんな近い距離から遠慮も容赦もなく向けられて。 七条から視線がはずせなくなってしまった啓太は、目を丸くしたままなすすべなくぴしりと心臓ごと固まる。 「今すぐに帰らなければ、大変なことになってしまいますから」 「っ・・・・た、大変なってあの、七条、さん・・・?」 「急がないと本当に、寮までの帰り道の途中で我慢ができなくなってしまうかもしれません。僕はここでも外でも一向に構いませんが、伊藤くんは、寮の僕か君の部屋に戻ってからのほうがいいでしょう?」 いいでしょうってなにがですかなどとは尋ねるまでもなく、答えは目の前で七条が体現している。 そのうえ話は場所をどうするかまで進んでおり、いつの間にかするしないの選択の余地はすでになくなっているらしい。 「だから、ね?」 くるくると頭を空回りさせてすっかり思考停止状態に陥っている啓太の瞳を覗いて、誘うように、深く色を増したアメジストが揺れる。 「大好きですよ、伊藤くん」 今も、これからも。 いつだって啓太にだけ注がれるはずの、優しくあたたかな眼差し、甘い恋人の声音。 啓太にはまだ、愛情を表現するのに欠片も臆面のない恋人ほど、開き直ることは難しい。 同意をしてみせる恥ずかしさのせいで顔を見返してはいられなくなって。 啓太はぽふんと、七条の胸に顔を埋めた。 「・・・・・俺、も」 「はい」 それでも、くぐもる声に返される七条の声は、あまりにもあまりにも嬉しそうで。 どうしようもなく啓太の頬が、ふにゃりと緩む。 そのほてった頬に、いつもよりも少し速い鼓動と服越しの体温を感じながら。 「俺も、大好きです・・・七条さん」 幸せな気持ちで。 幸せな、告白を。 |