canon Op.9啓太には理由の分からない緊張感で七条と視線を交し合ったあとで、それじゃあ後はお願いしますと云って出て行ってしまおうとする和希に、今七条と二人きりにはしないでほしいと全身で訴えたつもりだったのだけれど、上手く伝わらなかったらしい。 いつもは啓太よりも先に啓太の望みをわかってくれるような和希なのに、切実な今日に限っては望みを察してくれず、部屋を出て行かれてしまった。 扉を開けたところで一度肩越しに振り返って。 「啓太、ちゃんと休めよ」 と、少し複雑な感じのする笑みで云い置いて。 ベッドの中の啓太と。 ベッドの脇に椅子を寄せて、そこに座る七条と。 空調の音だけが響く静かな部屋の中に、二人きりでぽつんと残されて。 どんな顔をしてどんな話をしたらよいのか。 啓太はさっぱり分からずに、毛布の端をぎゅっと握り締めたまま困り果てる。 昨日の今日で、あんなことをしてしまったあとで。 自分の気持ちも、どうしてあんなことになってしまったのかも、少しも頭の中で整理ができていないというのに。 「僕のせい、ですね」 「ち、違いますっ」 はらはらと落ち着かない沈黙の最中、ことりと落とされた言葉に。 思わず間髪いれずに答えて慌ててかむりを振ると、きみはきっとそう云うのではないかと思っていましたと、苦笑を返される。 「昨夜・・・追いかけてすぐに部屋の前まで来たのですが、呼んでみても返事がなかったので」 あまり畳み掛けるような、追い詰めるようなことはしないほうがいいかと思ったのですが。 七条はそう云って、ゆるく指先を組んだ両手をベッドの端に乗せる。 「こんなことならば、無理にでも部屋に入ってしまえばよかった」 そうして身を乗り出して、熱のせいで潤んでいる青い瞳を、いたわるような眼差しが見下ろした。 その顔をぽんやりと見返して、動けずにいる啓太の前髪を、そっと伸ばされた七条の指先が優しく梳き上げる。 「僕が代わってあげられたらいいのに・・・」 今こうして触れられてみても、やはり嫌な気持ちはかけらも湧き上がってこなかった。 ただ、触れて、離れるそばから掻き消えてしまう、はかないぬくもりがせつなくて。 自覚したばかりの想いがあふれ出てしまわないように、啓太はそうっと目を閉じる。 「ですが」 長い指の背が、熱を確かめるように額を、頬を辿っていく。 「すみません、伊藤くん。昨日の言葉を撤回してあげることはできません。なかったことにするつもりもない」 告げられる言葉と、優しく頬を包み込む温かく大きな手のひらに促されて。 そうっと瞼を空けた啓太はそこに、痛ましそうに眉を顰めた七条の顔を見つけた。 「僕は君のことが欲しい」 見返す紫の瞳の奥に、狂おしい熱が揺らいでいる。 だからきっとその言葉は本物で、告げられているのは七条の本心で。 七条のことが好きな啓太にとってそのことはとても嬉しいはずなのに。 それを受け取ってよいのは本当は自分ではないのだと、知っているから。 「こんなにも欲しいと想う相手は、君だけなんです」 優しい声が繰り返すたび。 じわ、と涙があふれて頬を濡らした。 「・・・・・でも、七条さんは」 熱のせいなのか、眠りを促す薬のせいなのか。 それとも言葉を促すように頭を撫でてくれている、優しい感触のせいなのか。 「西園寺さんのこと、が・・・」 普段であれば口をつぐんでしまいそうな恨み言のような言葉が、ぽろぽろと零れ落ちてしまう。 「ああ・・・やはり誤解をさせてしまったのですね」 けれども啓太が後悔に沈む前に、零れ落ちたその言葉は優しく拾い上げられて。 「情けない話ですが気が逸っていて、僕は・・・一番大切なことを、伝えそびれてしまったから」 聞いてくれますか? と。 自嘲するような苦い笑みを浮かべた七条が。 泣いたことで少し熱を持ってしまっている啓太のまぶたを、額を、指先で優しく撫でていく。 どうしてあんなことになってしまったのか、啓太は分からずにとても混乱していたから。 七条が答えをくれるのならば、ちゃんと聞いておきたいと思った。 それが啓太にとってどんなに悲しい理由でも。 だからこくんと、小さく、はっきりと頷いてみせる。 その啓太に七条は、ありがとうと、安堵したように笑みを深くする。 そうしてひとつ息をついてから、静かな口調が語りだした。 「僕はね、郁が誰かと話をしているのを見ると、郁のこと理解してくれる人ができてよかったなと思うんです。郁はまっすぐだから。まっすぐすぎて誤解をされてしまう人だから」 郁、と。 七条の声が紡ぐその名前には、いつだって特別な想いが乗せられている。 大切に大切に想っていることが、せつないほどに伝わってくる。 「だから最初は伊藤くんが郁と話をしているのも、微笑ましく思って見ていました」 くすり、と笑みを含んで。 その光景を思い起こすように、穏やかな声音が優しさを帯びた。 「でも・・・いつの頃からか、嫉妬を覚えるようになった」 ほんの少しの間をおいて、そうして不意に、す、と冷えた口調に。 ぎゅ、と胸が苦しくなる。 分かっていても、邪魔な存在だと思われるのは悲しかった。 七条の口からそれを聞くのはつらかった。 「会計室で二人が話をしているときだけではありません。僕以外の誰かと話をしているのを見ると、たまらない気持ちになるんです」 改めて向けた視線の先、息を詰めて泣くのを必死でこらえているような顔の啓太に、七条がくすりと笑う。 そうして手を伸ばして、優しく撫でた頬をその大きな手のひらで包み込むと。 ゆっくりと顔を寄せて、揺らぐ啓太の瞳を真っ直ぐな眼差しで見下ろした。 「誤解をしないでください」 穏やかだけれども、逃れることを許さない切り込むような口調。 近くから注がれる淡い色の瞳から真摯な想いが伝わってきて、啓太は瞬きもできなくなる。 「し、ちじょ・・さ・・・」 こくんと息を呑む啓太の前で。 呼ばれた名前に応えるように、七条の眼差しが甘く和んだ。 「君ですよ」 「・・・ぇ・・」 「君が、僕以外の人間と話しているのを見ているとたまらない気持ちになる。僕以外の人間に笑いかけているのを見ると、凶暴な気持ちになるんです」 声の色までが甘く溶けて。 啓太を映すアメジストに、甘やかな感情があふれ出す。 「たとえその相手が郁でも、寛大にはなれません」 云われている意味がすぐには分からずに、呆然と見上げるばかりの無防備な啓太の表情に。 優しく、ほんのわずかテレたような笑みを返して。 「僕が独占したいと思っているのは、君です」 吐息が触れてしまいそうな距離にあった七条の顔が。 もっと、ずっと、ぼやけてしまうくらい近くなって、そうして。 「こうして触れたいと思うのも、君だけです」 唇に、優しいキスが落ちてくる。 一瞬だけ触れたそのぬくもりは、けれどもとても雄弁で。 言葉にされた想いの全部が、確かな形になって、啓太の胸のうちをほこりと温めた。 苦しくてせつなくたまらなかった心の痛みが、優しいぬくもりに溶かされていく。 「・・・しちじょう、さん・・・」 嬉しい気持ちや信じられない気持ち、好きだという想いが次々にあふれ出して。 その喜びをどうして伝えたらいいのか分からずに、どうにか名前を呼ぶと。 七条は、啓太の伝えたい全部を分かってくれているかのように、愛しげな笑みで頷いた。 「泣かないでください」 啓太の濡れた目許をいくつものキスが辿る。 そのたび泣きたくなって、涙が止まらなくなって困る。 「泣かないで伊藤くん、どうか僕の言葉を信じてください」 うまく力の入らない手を伸ばして。 触れた七条の腕を、肩を、背を。 確かめて辿ったそのぬくもりに、服がくしゃくしゃになってしまうことにも構わずにすがると。 「僕が愛しているのは、君です」 シーツからわずかに浮いた背中に回された七条の腕が、掬い上げるようにして胸の中にぎゅっと啓太の躰を抱き寄せた。 「君のことを、誰よりも大切にすると誓います」 だから・・・と。 触れる身体から、直接に聞こえてくる言葉。 甘い響きのそれと、際限もなく渡される想いとに目眩うようで。 「伊藤くん、僕のものになってください・・・」 抱きしめる腕のぬくもりに。 ふわりとほつれた意識が遠のいていく。 ただ、とてもとても幸せだと、それだけを想って・・・。 |