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Jug Band Blues

the history

連載読み物「ジャグバンド風雲録」


大河ミシシッピをさかのぼり、東へ東へと進路を取れば支流オハイオ川沿いの河湊、ケンタッキー州ルイビル(Louisville)にやってくる。むかし、この街で、何を考えたかビンを吹いてみた男がいた。

ブォー。  ええわぁ。

と言ったかどうか、史料は伝えていない。そもそも、なぜ、この男がこの壮挙に及んだかについてさえ、ウイスキーの産地ケンタッキーにはガロンビン(4l位の陶器のビン)がごろごろしていて、そいつを酔いに任せて吹いてみただけだとか、いや、そもそも、ビンを吹くという行為にはアフリカ起源のヴォイス・ディスガイザーに由来するアフロアメリカンの文化的な背景があって云々、などなど、百家争鳴。いまだに決着していないのである。

ともあれ、貧乏くさいチューバのような、下手なトロンボーンのようなその音は、これまたなぜか皆に気に入られ、我も、我もと楽隊屋が大きなビン−ジャグ(jug)−を抱えて狼藉に及び始めた。

いつしか、ジャグはただのビンから楽隊の低音を受け持つ楽器へと出世し、ジャグが入ったバンドは、その楽器が、たとえ音楽的には脇役であっても、"ジャグ"バンドと称されるのが常となる。


時は流れ、今を去ること100年前、世紀の代わり目のルイビルには、名を知られた「ジャグ吹き」が出現するまでになっていた。名人が一人現れれば、陰に凡人100人あり。おっとこれはゴキブリだったか。ともあれ多くのジャグ吹きが腕を競っていたことは間違いなかろう。

時代が時代だけに、記録も残っていないこの頃のジャグバンドがどんな音楽を奏でていたのかがまったく闇の中なのは残念だが、想像するに流行り唄、ダンス曲、なんでもOKの健啖家ぞろいだったのではないだろうか。今も昔もその手の楽隊屋には、なにがしか仕事が回ってくるものだ。

さて、1905年頃、そんな世間に触発されて、とある黒人青年がおぼつかないベースを捨て、ジャグ吹きとして身を立てることを決意した。Earl McDonald(1884-1949)その人である。彼こそはジャグ吹きのエルビス、ベイブ・ルース。ジャグの殿堂ありせば、まずはこのお方からというすばらしい吹き手、誕生の瞬間であった。

時は1924年9月、とうとうジャグバンドサウンドが盤面に刻まれる日がやってきた。このSara Martin & Her Jug Bandでジャグを担当するのは、もちろんEarl McDonald。電気吹き込み以前の音質ながら、ブイブイ唸る硬質な彼のジャグは、一度耳にしたら忘れられないくらい印象的だ。

さらに、数日遅れて老舗Whistler & His Jug Bandも吹き込みを果たし、これからの数年間が、ルイビルのジャグバンド黄金時代となる。ジャグバンドといえばルイビル。まさに浜名湖のうなぎ、宇治のお茶、亀山のローソクに勝るとも劣らない強力な地名ブランドである。果ては、ルイビルとは無関係のくせに、わざわざルイビルジャグバンドを名乗る輩まで現れる始末だ。

ちなみに、ルイビル産ジャグバンドの標準的な編成は、ジャグのほか、バイオリン、バンジョーといった弦楽器、おかずにクラリネットなどの木管が少々、といった具合に整っていく。このスタイルの完成形が、Sara Martin & Her Jug Bandのセッションメンバーを核とするDixieland Jug Blowersというわけだ。Johnny Doddsはじめ一流ジャズメンを迎えたセッションはまさに逸品、楽しくも、味わい深い作品ぞろいである。


さてそのころ、ルイビル産ジャグバンドのレコードを遠く離れた地で耳にした男がいた。ルイヴィルから南西に約500Km、テネシー州メンフィスのその人物こそ後にMemphis Jug Bandを主宰することになるWill Shade(h,g)である。ちょうどこの1925年頃、酒場でLion Houseと名乗るジャグ吹きに出会った彼は、勇躍、ジャグバンドの結成を決意する。

(S.Tomiyasu)


(風雲急を告げる戦前ジャグバンド模様。不定期連載次号につづく)





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